紅と冬空

ケモノイアクイ

第1話




血圧が高すぎた。








恐らくは成人病の類いなんだと思う。気づけばそんな体質の52歳会社員男性になっていた。両手首でリスカしようものなら、流血の勢いで軽く空を飛べるようになっていた。ついでに気も短かったから、仕事で部下が無能を曝け出す度に、その日の帰りは決まって空を飛ぶようになった。








瀉血飛行が日課として定着してから、早5ヶ月が経つ。仕事帰りの冬空はどうしようもなく美しく、職場の佇む薄暗い地上を嫌悪するようになるまで、大した時間は必要なかった。








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1:








「おかえりなさい。お夕飯温めておいたからね」


「ありがとう。風呂と食器洗いはやっておくから、君は早めに寝ちゃっておくれ」




わずかに曲がり始めた妻の背をさすり、すれ違うようにリビングへと急ぐ。クソ部下が引き起こしたクソ失態のクソ尻拭いに貴重な金曜の夜を食い潰されたため、本日──日付はとっくに変わっているが──の帰宅も瀉血飛行で済ませた。




雲の上を飛んできたから、心も体も冷え切っている。妻の「おかえりなさい」が生きる気力の大半を占めている気さえする。








職場でしか使わない速歩きを無意識のうちに繰り出してしまい、思わずキレそうになったが、気の弱い最愛の人が自分のすぐ後ろで眠そうな目を擦っているのだ。こんなところでキレるわけにはいかない。コート、スーツ、Yシャツを丁寧に脱ぎ畳む。どれもこれも袖口は血で濡れていた。スリッパと一緒に保管しておいた愛用中のドテラを手早く羽織る。リスカの痕は跡形もなく完治している。血圧が上がり始めた。




「毎日遅くなってごめん。瀉血飛行してもこの時間になっちゃって」


「大丈夫。体壊さないように、しっかり休んでね。私はもう寝るから」


「ありがとう。おやすみ」




階段を上がる音が弱々しく消える。上がりっぱなしだった血圧を徐々に下げ、食卓に着くなり生姜焼きを慾る。暖かい。美味い。私の血圧を上げすぎないように調節してくれたのであろう絶妙な味の加減が、飛行の末に冷え切った全身に深々と染み渡る。血圧が上がる。




炊きたての白米ごと薄っぺらい肉を食む。恭しく味噌汁を啜る。オリーブオイルと塩で味付けされただけのレタスサラダを頬張る。やはり血圧が上がる。耳がカイロみたいに熱い。




あっという間に完食してしまった。酒は1滴たりとも飲まない。ただでさえ高すぎる血圧が、更に上がるから。もう上がり切ってるのは置いといて、これ以上血圧を上げるのはゴメンだ。風呂に入ろうと立ち上がった瞬間に血圧が上がった。




:




42℃の風呂に浸りながらふと思う。初めてリストカットに及んだ瞬間のことを。








夏の風呂場だった。買ったばかりの血圧計が、Error表示をぶっ放した直後に爆発した日の夜。どうしようもなく、生きていたくなかった。妻のことを考える暇すら無い程に疲弊し切っていた。血圧も高かった。




5ヶ月前も5ヶ月前とて無能というかひたすらに厄介な部下。上司の期待と信頼が齎した胃痛の癖。血圧と同時に底上げされたくせに手取りだけはいつもと変わらない給料。消える時間。血圧。酒の飲めない日々。趣味を始めるには余りにも遅すぎた、52歳の夏。血圧。


この生活を耐え抜いた先に幸せが待っているわけでもない。そもそも苦痛から逃げたかったのだ。妻になんと言われようとも、人生そのものから逃げ出したかった。




即断即決が決意を貫く肝である。体をざっと流し、浴槽に入るなり果物ナイフで手首を切りつけた。しかしその余りにも冷たい切なさに、激痛に驚き、切りつけた直後はただ正気に戻って、声も出さずに泣くことしか出来なかった。決意はグズグズだったし血圧はアゲアゲだった。




傷の深さ的にも、本来ならばここで救急車の世話になる筈だったのだが、どうにも流血の様子がおかしい。気付けばシャワーよりも少しだけ、いやシャワーの数十倍は高かろう圧力で、私の血液が手首の傷口から放出されているのだ。一向に失血死の予感がしない。鉄の匂いが浴室に立ち込める。失血死とは別の死を覚悟し、今まで何も考えずに目指していた自死そのものを、全力で畏怖した。




「早急に止めなければ」と確信した瞬間、突如として流血は止んだ。先程確実に切り裂いた左手首は傷一つ無く、床と浴槽、壁の隅々に至るまで、大凡人間1人の体から抜き取れるとは思えないほどの血液が飛び散っている。完璧な高血圧症だった。轟音を聞きつけた妻が血相を変えて駆け寄ってくる音が、ぼんやりと聞こえる。




出血の理由は「のぼせて鼻血出ちゃった」で誤魔化し通した。2人がかりでの風呂掃除を終えたのは午前2時過ぎ。気分転換の散歩に行くとだけ言い残し、出かけた先で初めての瀉血飛行に成功した。血の勢いが強すぎて最初は上手く制御できなかったが、両腕の斬りつける位置や傷の大きさをある程度調節した結果、飛行のための最適解に至った。




両手首を内側に曲げた時の一番大きなシワに沿って、腱を斬りつけないように、深さ5ミリ、長さ1センチの傷を作る。血液が溢れ出したら直立姿勢のまま案山子かかしのように両腕を広げ、姿勢を維持したまま拳を握りしめる。すると流血の圧が高まり、やがてロケットのように飛翔できる。噴射をやめたい場合は傷口を押し潰すように手首を捻る。自由落下と流血ブースターを交互に使い分ければ、高血圧症のおかげで延々と飛んでいられる。




浮いたあとの姿勢制御や方向転換は案外楽だったし、何なら雲の上まで飛ぶことだって可能だった。夜明けが始まる頃には一通りの曲芸飛行をマスターしていた。








あの瞬間から何となく、私の人生は変遷を迎えていたのだと思う。








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2:








「──別の場所、飛んでみようかな」




就寝前にこんなことを考えるのも初めてではなかった。今日もまた叶わぬ夢を追いながら寝る羽目になる。何度か瀉血飛行での旅行も試みようとは思ったが、時間の都合上、そんな楽しげな空中散歩がホイホイとできるわけも無い。だが自由気ままな飛行を試したいのは事実だった。




上昇気流も下降気流も、高気圧も低気圧も乱気流も、瀉血飛行のスピードさえあれば全てを粉砕できる。幾層にも重なる気流の壁、雲の壁を全身で貫通し、もはや遮蔽物など1つも存在しない、文字通りの星空へと躍り出ることが許される。あの場所には私以外の何者も存在しない。存在し得ない。王を気取ることもなく、自由気ままに飛べる。




基礎体温と血中の赤血球濃度が高すぎるせいで、太陽光をモロに浴びたりしない限りは、体調を崩したり、酸欠になったりすることもない。何より飛んでいる瞬間だけは血圧が元に戻る。頭が冴えてくる。あの感覚が一番心地良い。




ともあれ、例えば高校時代に乗り回していた自転車のように軽々と、時分の足ではない何かで、この国のどこかへ。いやこの国に限らなくてもいい。兎に角どこか遠くへ往きたい。瀉血飛行で散歩をしたい。旅をしたい。血圧を下げながら、冷たい風を全身に受けて、飛びたい。








「……有給とか、貰っちゃったら?」




隣のベッドで就寝していた筈の妻に声をかけられ、反射的に血圧がブチ上がった。職場の人間には死んでも晒さない穏やかな顔で振り返る。




眠そうな目をうつらうつらと瞬かせる6歳下の妻は、20歳下のように思える程度には若々しく、愛おしかった。




「職場が許してくれないと思うよ」


「そうじゃなくて、あのね」


「……うん」


「……瀉血で飛んで帰ってきた時の紅クレナイさん、いつも楽しそうだったよ」


「ほんとに?」


「うん。安心しちゃうよ」




意外すぎて血圧が上がりそうになったし、実際上がった。そうか。知らず知らずの内に、私は瀉血飛行を通して、顔に出る程の幸せを噛み締めていたらしい。




初の飛行の翌日に鼻血の嘘がバレた時の記憶がフラッシュバックする。あの怯えきった妻の顔が忘れられなかった。もう二度と彼女の前ではリストカットしないことを誓っていたつもりだったが、彼女はもうずっと前から、ずっと前から私の幸せを願っていたのだ。その幸せが瀉血によるものであろうと、リストカットによるものであろうと、私が幸せであってくれるのであればそれでいい。妻はそういう性格を、結婚してから今に至るまでの21年間、一度も崩したことが無かった。




妻の事を考えずに自死を選ぼうとしていた自分が、今になってもひたすらに恥ずかしい。心の底から、改めて妻の幸せわせを願いたくなった。同時に私も幸せであろうと思えた。








「……明日はお休みだから、いっぱい飛べるかもしれないね」








ぎこちなくも答えてみたが、横目でもう一度振り返った頃には、妻は爆睡していた。血圧が上がりっぱなしである。




今は、寝よう。明日は羽根を伸ばして、いや腕を伸ばして、自由に飛んでみよう。初めて飛んだあの夜のように。








自分の心音で起きないように、深く、深く息を潜め、やがて泥のように眠りに落ちた。心音は普通にうるさかった。








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3:






「……じゃあ、事故の無いように」




「うん。行ってくる」








おにぎりの詰まったタッパーを弁当袋の中に、その弁当袋をリュックサックの中に突っ込み、振り返りざまに軽く妻をハグした。優しく抱き返してくれた。いつまでもこうしていたいが、なにぶん照れれば照れるほど血圧の上がる性分である。妻を蒸し殺すわけにはいかない。潔く玄関を開けて、いつも上昇用に利用している公園へと足を運んだ。




スズメやメジロの声が穏やかだ。君たちが筋肉に頼って羽ばたく傍ら、私はこれから自分の血で空へと舞い上がる。共に空を堪能しよう。但し踊る高度はこっちの方が上だ。血飛沫で邪魔をするような真似はしない。








公園に到着した。通勤時に時々利用していたせいで遊具や砂場は赤黒く染まっている。それでも、近隣の子供たちは今日も今日とて、なんの躊躇いもなく公園を転げ回り、遊び回っていた。2000%でいいから体力を分けて欲しいところだ。代わりに私の血圧を捧げてやれるというのに。








公園の中央に仁王立ち、銃刀法に引っかからないサイズの研ぎ上げた、プラスチック製のペーパーカッターを取り出す。1回斬ったらなまくらになるため、2本セットで用意してきた。早速左の手首に添える。








「──すんませーん。ちょっといいッスか」








突然の後方からの声かけに血圧が荒ぶる。こんな時に呼び止めないで欲しい。職場の人間にしか見せなかった睨みを利かせ、振り返る。警察官がいた。4人も。








「最近ここで血飛沫撒き散らしながら空を飛び回ってる男というのを探してるんですけど。ちょっと色々お聞きしてもよろしいですか?」










──第2話へ続く

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