第26話 褐返の海より生まれ直せば

 プロローグ


 

 人には七つの大罪がある。

 傲慢、憤怒、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、色欲。

 人に陥りやすい罪の根源として、人の生活に清逸なる秩序を求めた訓戒である。すなわち、その七つの大罪をしてしまう事が、人間らしさの条件であると言える。

 では、神の子として生まれた我はどうだ?

 傲慢は、人でしかない中で、おごり高ぶって人を見下さないと警告するもので、これは人の上に立つ神であれば、当然にあるべきものである。

 憤怒ももちろんあるだろう。「神の怒りに触れる」と言う言葉があるように、太古より天変地異の禍には、畏れられてきた。

 無いものは、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、色欲か。

 嫉妬、人が虫けらに対して、嫉妬の感情を起こさず殺せるのと同じ、世にはびこる人々を何の感情もなく殺せる意識が我にはある。

 怠惰も、神の子神皇たるものの「受の力」があれば、怠惰などする暇もなく、常に民の祈りを犇々と感じ取るだろう。我に「受の力」はないが、魂の根底には常に「送受の力」が働いている。

 強欲は、判断に悩むところだ。分かれた「送受の力」の片方を求める事、別れた魂の片割れであるりのを求めるのも、強欲と言われれば、否定できない。しかし、生まれながらにして、国と民の祈りを受け入れ、禍を鎮めてきた神の子としての役割は、博愛と言えるのではかろうか。

 暴食は、取るに足らぬ物、食べずとも死なぬ身であれば、暴食に走るはずもない。

 色欲もしかり、神依女(かしめ)を選び交接の儀をするのは、国の平穏を求めた民の神皇家の永続を願う意思があるからだ。人のように色欲の快楽に溺れることはない。

 7つの内、4つの大罪が皆無とあれば、我は人としての条件を満たさず、らしさはないと言えよう。

 無情が正常の状態で、今日も人の息の根を止める。

 ドアノブに引っ掛けた荷造り用のビニールヒモを上からこちら側へと垂らし、息も絶え絶えで濃厚薬物中毒に陥っている男の首に引っ掛けた。男は口からよだれを垂らし、喉の奥から唸りを上げている。男が座っている腰掛け椅子を足で蹴りとばすと、男は中腰の中途半端な姿勢で項垂れ、ドア全体が軋む音がし、男は窒息死した。

「棄皇様自ら、お手を煩わせなくとも、私一人で十分でありましたものを。」

 飛龍がそう言って、死んだ男が普段使っている黒いリュックを拾い、我に差し出す。カバンの中にはタブレットが入っていて、それを取り出した。

「殺すだけなら、任せていた。」

 我はタブレットをベッド上にほおり投げた。壁際のデスクにデスクトップ型のパソコンがある。ルーターがすぐそばにあって、緑のランプがチカチカと点灯していた。まさに今、インターネットにつながっている状態で、既にレニーの情報部が遠隔操作でデーター消去を行っている。携帯電話、ベッド上に投げ置いたタブレットもしかり。我は玄関へと向い、設置されている靴箱を開き、有名スニーカーの空き箱を取り出した。

 薬物を投与する前に、左目の力を使って尋問して答えさせた通りに、そこには小型のノートパソコンが入っていた。箱を飛龍に預け、ノートパソコンを立ち上げてみる。指紋認証を求められる。寝室の部屋へと戻り、首を吊って死んだ男の指をつかって解除する。

 情報部からの知らせにないノートパソコンは、インターネットのセットアップがされていない。

「中々に周到な奴だ。」

 男の一人暮らしにしては、綺麗に整理整頓され過ぎている部屋が物語るように、死んだ男は几帳面で、パソコン内に保存されてあったデーターも、誰が見ても分かるように整理されていた。

「こんな所に保管されていては、確かに私だけでは見逃していたかもしれません。」と飛龍は顔を顰めて項垂れだ。

「そう、悲観するな。だから我自ら来ている。」

 男のノートパソコンには我に関するデーターが保存されていた。多数のファイルをランダムに開けて確認してみる。日本へ渡航して得た情報もあった。まだ憶測の段階にしかなっていないが、我の素性を確実に突き止めている。

「着眼点は良かったが、我をターゲットにしたのが悪かったな。」

 我は、ノートパソコンの指紋認証設定を消去してから閉じ、小脇に抱え、首吊り死体ぶら下がる部屋から出る。

 飛龍がスニーカーの箱を戻している間に、我は男のマンションを出た。吹き抜けから覗くわずかな空は、灰色にくすんでいる。

 眠らない街、香港。深夜にも関わらず、どこかしから、雑踏な音が聞こえて来る。なのに、飛龍は音をたてないように鉄の扉を閉め、ピッキングの道具を使い閉錠した。

 階段を使って5階から降りる。我も飛龍も足音はいっさい立てない。そういう歩き方を、我は武術と一緒に会得していた。

 変装が得意な飛龍は、気配を消すと言う事に関しては頓着だったのに、いつの間にか身につけていた。

 マンションから離れた路上で、我は足を止める。

「飛龍。」

「タクシーでございますか?」

 後ろをついてきていた飛龍も立ち止まって、逸って道路を見渡す。

「これを、お前にやろう。」

「えっ?」

 殺した男が隠していたノートパソコンを、真直ぐ飛龍に差し向けた。飛龍は驚きの顔をしてパソコンから我へと視線を移す。

「それは・・・。」

「中々に、良い情報が詰まっている。」

「そのような物、私はいただけません。」

「自分が信用ならぬか?」

「いえ!私はっ」

「7年が経ったな、それもただの7年ではない。お前は良く尽くしてくれた。汚れ事も従順に。」

「棄皇様、私はまだ尽くし足りておりません。」

 二歩下がった所で膝に手を着き、深々と頭を下げる飛龍。

「そうそう、重く考えなくともよい。要らぬなら、お前の手で消去し棄てればよかろう。」

 眉間に皺を寄せて頭を横に振る飛龍。

「いつまで、我の手をこのままにさせておくのだ。」

 飛龍ははっとし、慌てて我の手からパソコンを受け取ると、片膝で座る。

「預からせていただきます。」

「好きにしろ。」

 胸にパソコンを抱き一礼をした姿は、皇前交手片座姿だった。

【謝 飛龍】中国残留孤児だった両親が、裏社会に足を踏み入れてしまったために、その子である飛龍は、中国、日本どちらの国籍も待つことができず、裏社会を渡り生きて来た。

 頭目を殺す依頼をブローカーから受け、7年前、レニーパール号に乗船した。得意の老婆に変装し、乗船パーティで頭目の飲み物に毒を盛ったのだが、我に見つかり拘束した。

 飛龍が、実は純粋な日本人の血が流れていると知った我は、戦う事で彼の恨み辛みを吐き出させた。飛龍を心身からこの手で叩き潰すことで、我の存在を魂に染み込ませた。だから飛龍は、従順に我に服従する。

 男が集めた我の情報、それが世に出れば、レニー・ライン・カンパニー・アジアと日本の国家は、一騒動に揺れるだろう。 そんな重要な情報を飛龍に渡す意味は、我自身への戒めだ。従順に尽くしてくれる飛龍を、ただ人と同じ扱いにしないように。しかし飛龍は、そんな風には思っていない。困った思いと共に、褒章品でも預かったかのようにパソコンを大事に胸に抱いて、立ち上がる。

中「さて、まだまだ夜明けには遠い、酒に付き合うか?」

中「もちろんです。」

 破顔した飛龍は、タクシーを探しに大通りへと駆けていった。








 エレベーター内の鏡で、上機嫌にワンピースを翻し体をくねらせてはポーズを取るファンリン。音もなく止まって開いたエレベーターから我が先に出ると、慌てて後を付いてきて、柔らかすぎる絨毯にヒールを絡めさせ、無様につんのめる。我が一瞥するとファンリンは、「えへっ」と舌を出した。我は軽い溜息を吐いて目的の店へと歩む。

 レニー・ライン・ホテル香港の、上階にあるフランス料理店。入り口に立っていたフロントマンに名を告げた。フロントマンは「お待ちしておりました。ご案内いたします。」と笑顔で腰を折る。

 さっきまでの上機嫌はどこへやら、フロントマンの存在に、ファンリンは緊張した面持ちで我の腕をぎゅっと掴んでくる。

中「嘘・・・そんな、私、無理。」

中「お祝いだと言ってあったはずだ。だから、それなりの服を買い着替えて来たのだろう。」

中「そうだけど、私、大衆料理だと思って・・・あぁ駄目、テーブルマナーなんて知らないわ。」

中「だから、これから学ぶんだ。大人になったお祝いに。」

 我はファンリンの掴む腕のまま、店内へと進んだ。ファンリンは歩きなれないハイヒールに、またもや躓きながら付いてくる。まだ「どうしたらいいの。」などど、苦悶している。

 対岸の、九龍の夜景が見える窓際の席でフロントマンは立ち止まり、「こちらでよろしいでしょうか?」と聞いてくる。頷いて承認すると、フロントマンはファンリンへと笑顔を向け椅子を引いた。

中「ファンリンはそちらの椅子。」

 まだ我に腕にしがみついているファンリンの手を強引に引きはがし促す。

中「ええっ!?」

 ファンリンは顔を真っ赤にして引かれた椅子へと向かい、ぎこちない動作で座る。我の方にもボーイが来て、椅子を引き、座る。飲み物のメニューがそれぞれに手渡された。ファンリンは予想通りに、メニューで顔半分を隠して

中「こんなの、わかんないよぉ。」と嘆く。

 我も、ワインは味も香りも良く分からない。何を飲んでもブドウジュースの味にしか感じない。頭目に付き合って飲むには飲むが、頭目が嗜んでいる物だから一流品であると、銘柄を覚えるだけだった。

中「今日は彼女の成人のお祝いだ。女性でも飲みやすいワインを見繕って欲しい。それと、こういった席も彼女は初めてだ。テーブルマナーを教えてやって欲しい。」

 そう言うと、フロントマンは、大げさな身振り手振りで「おめでとうございます。」と声を上げて、「畏まりました。お任せください。」と腰を折り、ドリンクのメニューを取り下げ、テーブルから離れて行った。

中「もう!」と頬を膨らませるファンリン。

 18歳になったとはいえ、その表情は昔の幼き頃と変わらず、思わず笑ってしまった。

 ファンリンは、我が中国に来て住まう事になった楊建立(ヤン・ツゥエンリィ) の家に居た子である。当時5歳だった。師匠ヤンとは血のつながりがない親戚にあたる。ファンリンの両親は事業に失敗をして多額の借金を背負い自殺した。ファンリンも共に一家心中となりかけた所だったそうだが、ファンリンは巻き添えにならずに生き残った。そのあたりの詳しい話は、師匠が失語症かと思うほど喋らない人なので、周辺から囁かれた情報や、柴崎凱斗からの話から想像するに留まる。

 緊張した面持ちで、窓の外の景色に顔を向けているファンリン。あの口うるさかった子が、大人の女性に成長した。自身がまだビジネスの何たる物を会得していない事を思うと、まだ13年しか経っていない、と思うが、こうして成長したファンリンを見ると、もう13年が経った、長いと感じる。ファンリンは全く中国語がわからなかった我に、言葉と生活様式を教えてくれた、親のような師匠であるといえよう。

 ワインが届き乾杯をした。恐る恐る一口飲んだファンリンは破顔して、「美味しい。」と一気に飲み干してしまう。

中「嗜み、少しづづ飲むものだ。」

中「お兄ちゃんを真似たのよ。」

中「真似なくてよろしい。調子に乗ると酔うぞ。」

 ボーイが笑いながら、二つの空になったグラスにワインを注いで離れる。やっぱりブドウジュースだ。

中「ねぇ、お兄ちゃん、今度、お兄ちゃんの家に行きたい。」

 我はその言葉を無視して、注がれたワインに手を伸ばす。

中「どこに住んでるの?教えて。」

中「住場などない。」

中「ええ!」

中「こら、こういうところで奇声などあげるもんじゃない。」

 ファンリンは口に手を当てて、肩をすくめる。

中「住場がないってどういうこと?毎日どこで寝てるのよ。」

中「大半がホテルだ。あとは知り合いの所を。」

 嘘ではない嘘をついた。大半が女の部屋を転々としている。左目の力を使えば、いくらでも寝床を提供する人間は作れる。左目の力を使い寝る場所を提供させるのは、男でも女でもどちらでもよかったが、男の場合、朝も必ず力を使い、我を泊めた納得の理由を植え付けさせないといけないので面倒だった。女の場合は力を使わずとも、勝手に行きずりの関係になったと思い込む。

中「ホテルばかりって、お金かかるじゃない。」

中「心配無用、経費だよ。」

中「あぁ、そうなの・・・忙しいもんね。」

 と寂しそうにうつむいた所にスープが届く。ボーイがスープに使った食材の説明をし、ファンリンに、並んだカトラティーのどれを使うかを説明して下がった。

 ファンリンや師匠には、我は、レニー香港支部の営業の仕事をしていると告げていた。

中「じゃあさ。今度、私のアパートに泊まりに来てよ。手料理ごちそうするから。」

中「そんな事をしてる暇があるのか?」

中「あるよ。ある。お兄ちゃんの為なら作るよ。」

中「お兄ちゃんの為に、落第したらどうする。」

中「しないもん。私、優秀なんだから。」

中「そうだな。優秀な先生だったな。」

中「そうよ。私がお兄ちゃんに中国語を教えてあげたんだから。」

中「とても厳しい先生だった。」

 中国には飛び級制度がある。優秀なファンリンは高校二年の時に飛び級をして、一年早く大学を受験し合格し、国立大学に入学をした。中国では18歳が成人年齢で、祝いの式典は高校3年時、所属の学校で行われる。一年の飛び級をしたファンリンは、その成人の式典が受けられなかった。だから、こうして祝いの席を設けたのである。師匠の家でずっと慎ましい生活を送っていたファンリンに、大人としての必要な経験をさせておくことも目的として。











 香港の一等地に建てられたレニー・ライン・カンパニー、アジア大陸支部総本部ビルの、最上階のオフィスに戻ると、受付の女性社員も帰宅した後で、廊下はひっそりとしていた。それも当然、昨日から中国は、端午節の長期休暇に入っている。

 世界の流通を網羅するレニー・ライン・カンパニーにとっては、中国の長期休暇など関係なしにビジネスは稼働しているのだが、本社事務関係の者は皆、有給休暇などを組み合わせて数日前から気持ちはバカンスモードだった。中国ではこうした長期休暇が年に7回ほどあり、休暇の前後は仕事にならない。日本と違って社員同士で休暇日をずらし調整するという事もないから、周辺オフィス街も閑散としている。それがわかっているので、これらの休暇時期は、クレメンティにも長期休暇を与えていた。

 私に至っては、この街中が閑散としている間を利用するビジネスも重要で、今ロシアのマフィア、オルゲルト幹部と会ってきたばかりである。食事を誘われたが、それはやんわりと断り帰ってきた。あくまでもビジネスとしての関係を保つ。それはレニー・ライン・カンパニーが大航海時代から築いてきた確かな信念だ。

 オフィスの扉を開けると部屋の明かりがついている。

英「おかえりなさい。」

 休暇のはずのクレメンティが、応接セットのソファからにこやかに振り返る。

英「なんだ?何かあったのか?」

英「いいえ、暇つぶしです。」

 クレメンティは、私物のピンク色のタブレットで動画を見ていたようだ。

英「オフィスで暇つぶしとは、寂しい奴だな。」

英「カイと待ち合わせしています。」

英「カイ?来るのは明後日ではなかったか?」

英「そうです。その前に河北省郊外にいる知人に会いに行くそうで、今日到着するので、二人で飲みに行こうってなりましてね。グランド様こそ、どうしてオフィスに?」

英「・・・暇つぶしだ。」

 クレメンティは顔をひきつらせた。一時停止した動画の画面は、ミーアキャットが仁王立ちしている。

英「心配するな、野暮な事はしない。それよりも・・・いや、いい。何でもない。」

 そのピンクのタブレットを、いつまで未練がましく持っているのだと言いたかったのだが、やめておいた。

 ミスりのの為に、クレメンティが買ったタブレットだ。ミスりのは、私達が買って与えたすべての物を受け取らずに下船した。クレメンティは、いつか、そのタブレットにミスりのから連絡が来るとでも思っているのだろうか?

英「紅茶でも淹れましょうか?」

英「いや、いい。チェックをしたらすぐに退散する。邪魔者は。」とデスクに座り、パソコンのスイッチを入れた。

英「老けましたね。」

英「何だと⁉」

英「嫌味を言って構ってもらおうとするのは老けた証ですよ。」

英「人の老けを心配するより、自分を心配しろ。いい年をした男がオフィスで待ち合わせなど。」

英「おかげ様で、オフィスが何より落ち着く場所となりましてね。」

英「私がお前たちの年のころはもっと、」

英「自分の過去の英雄伝を持ち出すのも、老けた証拠なのですよ。」

英「・・・。」

 私はもう何も言わず、パソコンに送られてきた情報に目をやった。

 入ってきていた人事速報の情報ファイルを開く。香港経済は、中国の社会主義政略の影響を受けないが、何を始めるにおいても中国当局の申請はしなければならず、当局の人事による影響はある。当局の人間が、こちら側に靡く者であればいいのだが、そればかりではない。どこの派閥の者が、どこのポストに就いたのかを把握しておかなければ、アジア統制は難しい。

 中国四川の水資源局長に 仲冬緑が就任したとの報告。その者の経歴を確認した。経歴など最近ではいくらでも詐称できる故に確認の必要性がないのだが、ここの前任の水質源局長を消す指示を出したのが自分であり、後任の人事も我らがレニーに息のかかった者になるよう指示をしたのも自分であった為に、誰が就任したのか、最終確認だった。

 その仲冬緑の経歴に不審な点はなかったが、顔写真に何か嫌なものを感じた。出会った事があるのか?記憶を辿ってもその何も特徴のない顔に見覚えがない。

英「クレメンティ、この男に見覚えがあるか?」

 私はその男の顔写真をアップにして、デスクのパソコンの画面をくるりと回した。クレメンティは、ソファから立ち上がり、画面をのぞき込むようにして見る。

英「えーと・・・。」

 クレメンティの特技は、一度、挨拶をした人間の顔は忘れずにフルネームを覚える事だ。こうして考えないといけないと言う事は、会った事がない証拠となる。

英「李・・子然ですかね?」

英「李子然?仲冬緑ではなく?」

英「あっやっぱり違う方でしたか?李子然氏は鼻の横に大きな黒子がありました、しかしこの写真にはありませんから別の方かと思って、自信がありませんでした。」

 画面を回し戻して確認する。クレメンティが指摘する鼻の横に黒子などない。

英「その李子然だったら、私も会っていると言う事だな。」

英「だと思いますけど。」

英「どこで。」

英「えーと、どこだったかなぁ。」

 クレメンティは目を瞑り、こめかみを指先で押しながら天を仰ぐ。クレメンティの記憶が戻ってきそうにないので、国家が管理する個人情報ベースへとアクセスした。

 世界各国の個人情報の、データベース化を推奨し導入へと導いたのは私である。本来、各国が最高機密として高セキュリティで守っている個人情報の閲覧は、許可なしでは他人がたやすく出来るものではないが、レニーがそのシステムを作っているので、内緒で閲覧できるように仕組んでおいたのである。IDカードをスキャンし、パスワードの入力を行う。検索画面で【李子然】と入力する。情報が表示される。李子然の写真には、確かに大きな黒子がある。そして二年前に脳梗塞で死亡とされている。

英「思い出しました。李剥の遺体送還の時です。」

英「こちらでも判明した、こいつは、李家の残党だ。」

英「どうしたのです?その李子然が何か?」

英「李子然は二年前に死んでいる。だから、この黒子の無い方は、そっくりな別人だ。」

英「えぇー、その黒子のない方は、チュ・・なんでしたか?」

中「仲冬緑」

 真似してクレメンティは発音したが、全く音程が違っていた。クレメンティは中国語の習得を諦めている。難しすぎて嫌気がさしたのだ。クレメンティが中国語を話せなくても、ビジネスにさほど大きな影響はないので、強いる事は何も言ってない。

中「李家の残党と似た男・・・」

 嫌な予感がした。同地区の、ここ数年の間に、人事変更させた当局幹部の顔をピックアップして並べた。

英「クレメンティ、悪いがもう一度、これらの者達を見てくれ。これらの中に知った顔があるか?」

クレメンティはデスクを回り込んで、屈んで画面を覗き込む。

英「ありませんが。」

 整形されていたらクレメンティとて、覚えた顔の照会は無理だ。

 少し考える。

英「お前・・・カイとの待ち合わせを何故オフィスで?」

 何もこんな所で待ち合わせなどしなくてもよい。飲みに行くのなら、柴崎凱斗が到着する空港で待ち合わせすればいいだろう。

英「話が先にあって、その後、飲みに行くんですよ。」

 (話しが先にある・・・)

 舌打ちした私を、クレメンティは驚いて慌てる。

英「えっ、何ですか?グランド様を誘わなかったのが、いけませんでしたか?」

 私はクレメンティの言葉を無視して、携帯を取り出しコールした。










 ファンリンがおぼつかない手つきでナイフとフォークを使って、ようやくメインディッシュのステーキを一口頬張った時、我の携帯がバイブ振動で着信を知らせて来る。取り出して確認すると、頭目からだった。長期休暇中の呼び出しに、嫌な予感がした。

中「はい、棄皇です。」

中「どこにいる?」

中「レニー・ライン・ホテルのレストランにおります。」

中「今すぐ、オフィスに来い。」

 返事も言えずに電話は切れた。頭目の声は怒りが混じっていた。

 我は大きく息を吸って深呼吸をした。

(遂に、この時が来た。)

中「ファンリン、悪いが、行かなくてはならない。」

中「えー、ステーキ届いたばかりだよ。」

中「さっきの者に、世話を頼んでおく。」

中「一人で食べるなんて嫌よ。私も帰るわ。」

我が立ち上がったのと一緒になってファンリンも立ち上がる。

中「ファンリン、これも大人の女性としての勉強だ。」ファンリンの頭を撫でながら椅子に座らせた。「帰りのタクシーの手配も頼んでおく。何も心配はない。」

中「お兄ちゃん!」

 我は手を上げて、フロントマンを呼んで、チップを大目に渡した。フロントマンは快く「お任せ下さい。」と承諾した。

中「次の機会に、もう一度、な。」

 ファンリンは頬を膨らませて拗ねる。その顔は幼き頃と変わっていない。足早に清算を済ませて、レストランを出る。運よくエレベーターがこの階に止まっていて、直ぐに乗り込み一階へ、外で待っているタクシーに乗り込んだ。

中「レニー・ライン・カンパニー総本部ビルへ。」

中「畏まり。」

 ホテルから本部まで、計算上は5分ほどの距離である。端午節の長期休暇期間である為、オフィス街の市内はがらんとしていて渋滞もなく空いていた。頭目の電話を受けて10分足らずで、我は最上階の代表室の扉をノックする。

中「失礼します。」

 頭目はデスクに座り、まっすぐこちらを見つめている。いつもの笑みがない。

 クレメンティは、顰めた顔で応接セットのソファーに座っていた。

「四川の水資源局長の人事に対して、説明してもらおうか。」

 あえて日本語で問う頭目。

「頭目は、私に任せるとおっしゃいました。」

「そうだ、お前に任せた。それなのに何故、李家の者が就いている?失敗したのか?」

「いいえ。私は初めから四川の水資源局長は、仲冬緑をと推し進めました。」

 頭目は黙り、強い視線を向けてくる。

「四川の人事改革が何故必要か、お前にはすべて包み隠さず説明したはずだが?」

「はい。理解しております。」

「理解して、何故、李家の残党をっ」

 珍しく語尾を荒げる頭目。それだけ怒り心頭である。

「頭目を守る為に、必要な事です。」

「私を守る為だと?」

「はい。」

「李家を生かして私を守るなど矛盾な。奴らは私を消すのに何年躍起になって来た?」

「だからこそです。李家を排除すればするほど、大連流通の李家への忠孝の意思は、強靭に神格化されていくのです。」

「何が神格化だ。」

「李家の根絶やしは不可能です。」

「そうだ。それが出来なかったからこそ、初代代表のレニー・コート・シュバルツは、たった5年でアジア代表の座を退いた。だが、私は彼とは違う。代表になる前からじっくり、李家と繋がる黒龍会にも手をかけて、力を削ぎ落して来た。」

「もう十分です。生かさず殺さずの現状で李家と黒龍会を制御する方が、レニーアジアにはずっと有益です。」

「私に、いつまで黒龍会に神経を使わせる気だ。お前は何だ?黒龍会から何か、利潤でもあるのか?」

「そんなものはありません。」

「だったら、何だっ、同情か?数多くの李家の命乞いを見て感化されたか?」

 我は一度、息を吸い整える。

「頭目の、広く先を見据えた戦略構想には尊敬しております。しかし、李家の事になると頭目は・・・。」

 その先を言えなかった。李家に固執する理由を我は知っている。それは頭目から聞いたのではなく、内密に柴崎凱斗から聞いたのだ。

「何だ、何故口噤む。」

 低い声で睨む頭目。

「・・・冷静さを欠けられると感じます。」

 頭目は、フッと微笑んだ。その変貌に背筋が震える。

「私が冷静さを欠き、間違った戦略をしているとでも言うのか?」

「四川は、裏資金を作る新拠点となります。だから、中国の地盤を持つ黒龍会に任せた方が良いと考えます。」

「新拠点だからこそ、黒龍会には渡さず、オルゲルトを引き入れ、勢力拡大の契機とさせ、往くは黒龍会を潰す。」

「ロシアのオルゲルトでは、私には扱い切れません。」

「はっ、黒龍会なら扱えるような口ぶりだな。」

「言葉がわかるのは重要な事です。頭目を守る事に置いても。」

「李家さえ根絶やしにすれば、私を守る事など不要になる。あぁ、そうか、お前は自分の役目がなくなる事を恐れているのだな?」

 頭目が乾いた笑い声をあげる。

「そうではありません。」

「心配せずともよい。お前の次のポストは考えてある。」

「頭目!」

「だが、こんな背信をされると、考え直さなくてはならない。」

 頭目は椅子から立ちあがり、懐にいつも忍ばせている小型のサイレント銃を我にまっすぐ突きつけた。

英「グランド様っ。」

 日本語のわからないクレメンティが立ち上がり、慌てふためく。

 コンコンとノックする音と共に、部屋の扉が開いた。

英「遅くなってごめん。クレメンティ。」と柴崎凱斗が入室して来て、状況に驚く。「ど、どうしてっ。」

 頭目は銃を降ろすことなく、我を見据える。

「私が裏切りに容赦しないのは、お前が一番よく知っているはずだ。」

 頭目の指に力が入る。

 柴崎凱斗が駆け出し、頭目の手を払わなければ、銃弾は我の胸を貫通していただろう。

 弾は頬を掠めた。血が頬を伝い落ちる。

「何をなさるんですっ。」

「懐かしき再現だな。その運の強さも神皇家由来か。」

「・・・。」

 全員が息を飲む中、頭目は何事もなかったように銃を懐に仕舞う。

「四川の布陣、お前の思考通りにやって見ろ。ただし、私の与えた権限を無しで、だ。それで上手く行くようなら、認めよう。」

英「クレメンティ、棄皇の持つレニーの権限をすべて剥奪せよ。」

英「はっ、剥奪!?」

英「そうだ。これより棄皇は、レニーの人間ではない。」

「代表!何をっ。」柴崎凱斗も叫ぶ。

「柴崎凱斗、お前も同じになりたいか?」

「えっ・・・ええ?」

 我は懐からレニーのIDカードを出し、柴崎凱斗へと振り投げた。柴崎凱斗は無様に胸で受け、慌て戸惑う。

 一礼することなく、無言で部屋から出た。静まり返った廊下を足音無く歩き、エレベーターに乗り込んで鏡になっている壁に顔を映して見る。頬から流れ出る血を袖で拭いた。そして深呼吸をする。

 何の感情もない。やはり自分は人ではあらず。

 銃を突きつけられても、恐怖の感情が沸き起こった事が、今までにない。

 胸の内に「我は人の手では死なぬ。」そんな確信がある。

 死ぬときは、神の思し召ししかない。











 香港の、レニー・ロイヤルバレー競馬場内にあるVIPラウンジは、レースのない日の夜でもライトアップされた芝生の場内を見ながら酒が飲める。レニー・グランド・佐竹が代表になった翌年、庶民の遊興に過ぎなかった競馬場を買い取り、イギリス、フランスのような格式高い競馬様式に変えた。会員もしくはレニーの幹部のIDランクゴールド以上の者しか入れない。

 ここにレニー・グランド・佐竹が居なければ、もう今日は諦めようと考えていた。

 自分のレニーIDランクは、棄皇と同じ黒の金の縁取りのランクであるが、ここの入場権限は持っていない。競馬を嗜む趣味はなく、会員にもなっていない。ここに来る時は、いつも佐竹のゲスト扱いだった。フロントで支配人を呼んでもうと、凱斗の顔を覚えていてくれていて、ラウンジにいる佐竹に掛け合ってくれた。レニー・グランド・佐竹は、凱斗の同席を認め、支配人の付き添いでラウンジまで案内される。ラウンジまでの行き方は知っているのだが、勝手な行動をさせないためか、儀礼的なものなのか、彼の流儀なのか、ごくゆっくりした足取りで案内されるままについて行く。

 個室の方にいると思いきや、佐竹は、大パノラマ前のカウンターに座っていた。確かに、個室より視界は格段に広く見晴らしが良い。客は少数だったから、ほぼ個室状態に近い。

 支配人に、佐竹が飲んでいる物と同じ物を頼んで、背後に立つ。

「クレメンティと飲むんじゃなかったのか?」

 振り向かず、ガラス越しに凱斗へと視線を合わせた佐竹。

「もう、意味をなさなくなったのは御察しでしょう。」

「フン、ここに来ても、意味をなさない。」

「ええ、わかっています。」

 レニー・グランド・佐竹は優雅な仕草で、やっと凱斗を隣に座るのを許した。

 ブランデーのロックが運ばれてくる。

 佐竹は耳のそばでグラスを揺らし、氷の奏でる音を聞く。それは彼のよくやる仕草だ。

【世界が変わる瞬間の音や色を想像した事があるか?】

 そう言って凱斗を自分の配下へと引き入れたレニー・グランド・佐竹、世界の変わる音を聞いているのかもしれない。

「ただ黒子を取っただけの整形。私が気づかないとでも思ったか?」

「あなたの手法を真似たのです。あなたが気づくのを承知で、説明説得する機会を作った。」

「まるで子供のようだな。悪戯で親の気を引く。」

「そうです。棄皇はあなたを父のように大切に敬い、そして、彼なりにどうすればもう、命を狙われなくなるかを考えたのです。」

「・・・。」

 レニー・グランド・佐竹はブランデーのロックを飲み干した。

 フロアスタッフがいいタイミングでオーダーを聞きに来る。佐竹は同じ物を頼んだ。

「李家の事になると、私は、冷静さを欠くそうだ。」

「今まで消してきた人数を思えば、冷静であったとする方が怖いですけれどね。」

「言ってくれる。」

 ミスター・グランド・佐竹の前に次のグラスが届くまで、ライトアップされた場内の芝を眺めた。向かいの白い観客席がゆっくりと七色に変化する照明を目で追う。

「それだけの者を、殺めてくれてきたのだな、棄皇は。」と呟くミスター。「お前は、私を責めるか?」

「人を殺める事を棄皇にさせた事に対してですか?それとも、首にした事をですか?」

「どっちもだ。」

「棄皇をあなたに会わせたのは私ですが、あなたに就く意思を持って、あなたの所に行ったのは棄皇自身です。人を殺める事が嫌なら、今までいくらでも、あなたの側から去る事は可能だったでしょう。」

「お前は、すべてを、棄皇の責任だとするのか?」

「いいえ、責任は私達にあります。冷静さを欠いた恨み辛みを持って、人を殺せと指図した罪は重罪でしょう。」凱斗は飲みかけて口にしなかったグラスをコースターに戻した。「棄皇は、そんな罪を超える存在。」

 凱斗の呟いた言葉に、レニー・グランドは顰めて凱へと伺ってくる。

「彼は、神の子と言われる神皇家の血を引く者です。」

「私には、お前たち日本人が持つ、皇家に対する神格心を理解できない。」と首を振る。

「私にもよくわかりません。ただ認識するのです。棄皇が人を殺める所を見る度に、あぁ、それが神の権限だと。」

「神の権限?」

「私達は、蟻を踏みつぶしても罰せられる事は無いでしょう。」それ以上は言わなかった。

「人を踏みつぶしても罰せられる事は無い、それが神の子である棄皇の権限か・・・恐ろしい者を、私は手に入れていたんだな。」

「今頃気づいたんですか?」

「あぁ。」

「らしくないですね。」

「老けたと言われたな、クレメンティに。」

 凱斗は吹き出して笑った。レニー・グランド・佐竹は現在56歳、日本の新橋界隈に居る一般サラリーマンと比べたら、ずっと若い風貌だが、髪には出会った頃にはなかった白髪が混じるようになった。

「確かに。」

「言ってくれる。」

 凱斗は、氷が解け始めたブランデー一杯だけで終え、席を立つ。同時にレニー・グランド・佐竹は、グラスの氷をまた耳の横で奏でた。

「私は変えず、このまま推し進める。容赦はしない。それが神に敵対する事だとしても。」

 返事はしない。それが自分の立ち位置だ。

 レニー・グランド・佐竹も、凱斗がその立ち位置でいる事を見越し、利用し、そして推し進めるだろう。

 そのまま黙ってラウンジを出た。競馬場の前の通りで棄皇に電話を掛けたが、凱斗からの着信を拒否されてしまっていて、一向に繋がらない。その足で、棄皇の行きつけの飯屋や酒場などを巡ったが見つからなかった。

 棄皇は住む所を持っていない。左目の能力を使って、いくらでも寝る場所を提供する者を作れるからだ。主にホステスや裏家業にいる女の家を転々と寝泊まる事で、裏社会の情報を棄皇独自で仕入れていた。それは時にレニーの情報部が拾う情報より早く信頼性があった。そんな風だから、棄皇がいつもどこで寝ているのかなど、凱斗は把握していない。

 華族制度が終わっても変わらず、還命神皇こと棄皇の世話役というお役目を仰せつかっているつもりの凱斗であったが、今まで棄皇は、何時何所にいても、凱斗からの電話を繋げてくれていたので、堅ぐるしい束縛はしないで咎めもしなかった。

 着信拒否など初めてだ。焦った。朝になって、レニーの情報部を使い、棄皇の携帯電話の電波を追ってもらう事にした。しかし昨晩の時点で、レニーのビルを出た所で電波は途切れていた。棄皇の黒いスマートフォンが、ビル側の植え込みに捨てられていた。シムカードとSDカードが抜かれ、シムカードはふたつに割れて捨てられていた。SDカードだけが見つからなかった事を見ると、データーは棄皇が持っている。その事に凱斗は少しホッとする。自棄にはなっていないようだ。

 新たなスマートフォンを買ってデーターを移し替えているだろう。情報部に携帯電話会社のハッキングを依頼して、棄皇の新たに契約した番号を割り出してもらうように頼んだが、棄皇が偽名の身元で契約をしたり、裏で手に入れた他人名義の携帯を使用していれば、見つけるのは、とても時間がかかる。それに、棄皇に関する調査は、レニー・グランド・佐竹に止められる可能性が高い。情報部の調査内容や作業は、すべてミスター・グランド佐竹に報告されているからだ。

 凱斗は、棄皇に連絡をする手段を無くした。棄皇からの連絡を待つほかない。そうして3日待っても、一週間を待っても、棄皇からの連絡はなかった。

 棄皇のカンフー武術の師匠である、河南省に住むヤン・ツゥェンリィの家にも訪れ、棄皇が帰ってきたら足止めし、凱斗に連絡をくれるようにお願いしたが、こちらも見込は薄い。棄皇は、もう何年もヤンの所に帰っていない状態だ。そもそも帰るという概念も変だが。

 ヤンの家からの帰り道、義理娘のファンリンちゃんを思い出した。ファンリンちゃんは香港の国立大学に合格したと聞いていた。聞いたのはもう一年以上前だ。河南省から香港に出てきているはずのファンリンちゃんの居場所か連絡先を、ヤンに教えて貰えばよかった。と、香港に戻って来て気づき、自分の詰めの甘さにがっくりと項垂れる。

 しかし、ヤンは通信手段と言うものを一切持たない。ヤンもまた、凱斗と同じにアルベール・テラ掃討作戦の逃亡兵である。通信機器から身元がバレるのを、ヤンはとても警戒しいて、電話などの通信機器を一切持たないのだ。

 河南省にまた戻ってヤンに聞くより、レニーの権限を使って、情報部に香港国立大学の生徒「妹琳」と言う名の娘を探ってもらった方が早い。ヤンとは血のつながりがないファンリンちゃんの苗字を凱斗は知らなかったが、情報部はすぐに住処と携帯番号を判明し、凱斗に教えてくれた。

 黄 妹琳18歳、香港島西部にある大学近くのマンションに住んでいる。

 凱斗は彼女の携帯にかけ、おぼつかない中国語で話すと、何度か河南省の家を訪れたことのある凱斗の事を覚えていてくれていて、大学の講義の終わりに会ってくれる事となった。

 大学の通用門で待ち合わせ、ファミリーレストランで食事をしながら話をする。電話では、詳しい話をしていない。ヤンから香港に出てきていると聞いた。大学入学の祝いをさせて欲しいと言って約束を取り付けたのだ。

 ファンリンちゃんと会うのは7年以上ぶりで、凱斗の記憶では彼女はまだ10歳の子供だったが、現在は、とてもかわいらしい女性になっていた。笑うと幼かったころの面影は残っていた。

 ファミレスの席に着いて、注文の食事を待っている間に、祝いの品である電子マネーのギフト券を渡す。

「もう一年も前の入学ですよ?」と笑うファンリンちゃんは、大学は日本語専攻で、中々に流暢だ。

「日本では入学後一年経ってからお祝いするんだよ。」と冗談を言ったつもりが、

「そうなんですか。覚えときます。」と真顔で信じてしまう。

「いや、えーと、今のは・・・」嘘だと言えない。信用無くして口を噤まれたら大変だ。「えっと、そう、棄皇には入学祝い貰えた?」

「はい。アルバイトしないで勉強に集中できるのは、お兄ちゃんのおかげです。」

「そうなんだ。それはいい事だね。」

 凱斗は思い出した。棄皇はヤンの家で世話になった恩返しとして、ファンリンちゃんの香港での生活の面倒を見ると言っていた。

「この間、お兄ちゃんに成人のお祝いとして、ホテルのフランス料理店に連れて行ってもらいました。」

「へぇー。」

「それが、お兄ちゃん、メインディッシュも食べないで出て行ったんです。」

「えっ?ファンリンちゃんを残して?」

「そうです。仕事だって。テーブルマナーを学ぶ事も目的だったから、私一人でデザートまで食べて、帰ろうとしたら、お兄ちゃん戻って来てくれましたけど、ステーキ食べそこねて。」

「それ、いつの話?」

「一週間前、先週の金曜日です。」

 棄皇がレニーを解雇された日だ。という事は、ファンリンちゃんと食事の最中に佐竹に呼び出されて、あのような事になったのだ。

「お兄ちゃん、おかしいんですよ。戻ってきた時、頬を怪我していたから、どうしたのって聞くと、急いで戻ってくる時に、木の間を通ったら枝にひっかけて切れたって。」

 ファンリンちゃんはクスクスと笑う。

「その後、棄皇とは会った?」

「会ってませんけど?」

「そう・・・。」

 落胆する凱斗に首を傾げるファンリンちゃん。

「ファンリンちゃんは、棄皇が携帯の番号を変えたの、知ってる?」

「はい。その次の日にメールが来て、教えてくれました。」

「その番号、教えてっ」

 思わず、凱斗が身を乗り出すようにしたのを、ファンリンちゃんは仰け反って驚いた。

「あぁ、ごめん。その~実は、棄皇と喧嘩してしまってね。変えた携帯の番号を教えてくれないんだよ。」

「ええ!?喧嘩ですか?」

「そう、僕が悪かったと謝りたい。だからその番号を教えてくれないかなぁ。」

 ファンリンちゃんは戸惑った表情を一転して笑う。

「わかりました。」

 ファンリンちゃんは、バックから携帯電話を取り出して棄皇の番号を表示させて見せてくれた。

 早速、その番号にかけてみる。しかし、一旦はコールをしたが着信拒否になってしまった。

「まだ、怒ってるみたいだ。出てくれない。」

「じゃ、私が電話します。」

「あぁ、ちょっと待って、食事後にしよう。」

 ちょうど店員が注文した物を運んで来た。

「ほら、今すぐだと、僕が君に頼んで電話していると悟られてしまいそうだし。」

「そうですね。では食べてからします。」

 そうして食事をしながら、沢山の事を話した。棄皇との河南省での思い出話しから、学校の事、日本の事まで。

 食事を終えてファンリンちゃんは電話をかけてくれたが、コールはするが棄皇は電話に出なかった。仕方なく【凱斗さんが困っているよ】とメールを送ってくれた。

 ファミレスを出て、タクシーでファンリンちゃんのマンションへと送っていく。大学から二駅離れた公園沿いにある洒落たマンションだった。外装から見て新築間もないと見る。最新のセキュリティが施してあって、香港の学生の身分しては贅沢な環境だ。

「ここも、お兄ちゃんが用意してくれました。こんなに立派なところじゃなくていいって言ったのですけど。」と、タクシーから降りながらアプローチの階段を上がる。玄関ロビーへと視線を送ると、エントランスの柱にもたれて棄皇が立っていた。

「棄皇!」

「お兄ちゃん!」

 凱斗より先に駆けだし、近寄るファンリンちゃんの頭を押さえてかわした棄皇。

中「お兄ちゃん、喧嘩して電話に出ないなんて、子供みたいよ。凱斗さんが謝りたいって、ちゃんと聞いてあげなくちゃダメだよぉ。」

中「喧嘩?」

 棄皇は、凱斗を睨らんでから、呆れたようにため息を吐いた。

中「ファンリン、またの機会だ。」

中「えっ、そんなぁ。部屋に来てよ。」とファンリンちゃんは棄皇の腕にすがる。

中「あいつはな・・・」と棄皇はファンリンちゃんに耳打ちをした。するとファンリンちゃんは驚いた表情で、凱斗に軽蔑した表情を向けてから後ずさりをした。

中「また後日連絡する。ちゃんと鍵をかけろ。ここは河南省の田舎じゃない。」

中「わかってるわ。」

 手を振ってマンションロビーへと入って行ったファンリンちゃん。

「ファンリンちゃんに何を言ったよ?まるで、獣でも見るような目つきだったけど。」

「安心しろ、獣ほど人格否定はしてない。」

 と棄皇は、凱斗が乗ってきたまま待たせてあったタクシーに乗り込んだ。

「えー・・・」首の後ろをかきながら凱斗もタクシーに乗り込む。

中「どちらへ」

 タクシー運転手の聞きに、棄皇は答えずに変な間があく。

中「あっ、じゃー、レニーホテルへ。」と凱斗が答えた。

中「畏まり。」

 タクシーがマンションを一周して大通りに出る。

「宮内庁から正式な署名が欲しいと、上奏状を預かってまいりました。」

 言葉と姿勢を正した。神皇家の言付けを伝える時は、敬服を心掛けている。

「上奏とは大層な。」

「現在使われている棄皇の名が還命新皇様である事の認証に続いて、神皇継嗣の放棄、皇籍離脱の奏状に御署名、御押印をと乞われています。」

「還命新皇は死産と記されていたのでなかったか?」

「閑成神皇様が、3年前の華族制度の廃止の際に訂正したようです。祖歴の記載に一切の偽りを禁じさせ、今は神皇様自ら祖歴の記入管理をされているようです。」

 棄皇はわずかに顔を横に振って、息を吐いた。

「今、その奏状を持っているか?」

「いえ、ホテルにあります。」

「レニーとは縁切れたと言うのに・・・。」

「だからって、俺との縁まで切られちゃ焦るよ。探したよ、この一週間。」

 棄皇は鼻を鳴らし、冷ややかな目で凱斗をウザがる。

「佐竹代表は、変えず推し進める。棄皇と敵対する事になっても。と言っている。」

「凱、もう、我と接触するな。」

「俺が情報を流すことは代表も承知の上だ。それを見越してやるだろう。」

「あぁ、それが出来るのが頭目だ。だからと言って、調子に乗ると痛い目遭うぞ。もう、お前の価値も薄れてきているのだからな。」

「あぁ、わかっている。」

 それからタクシーは5分ほどでホテルに着く。凱斗が泊っている5階のシングルの部屋で、棄皇は宮内庁から預かってきていた大層立派な上奏状3つに署名し、印鑑代わりに自分の親指の平をナイフで切り、出血した血で拇印をした。

「血印だ。これ以上ない署名だろ。」

「なんて無茶を。」

「傷などすぐ治る。」

 凱斗に指の傷の手当をさせる暇なく、棄皇は部屋を出ていこうとする。

「棄皇!もう着信拒否はしないでくれよ。」

 棄皇は手を上げる仕草で答え、扉の向こうに姿を消した。

 凱斗は大きく息をつく。

 こんな署名など作っても、棄皇の神の子である血は消滅したりしない。

 日本人の、神を崇める祖魂が、棄皇の存在理由である。












露「香港の麻薬シンジゲートは、もう壊滅寸前だと言ったのではなかったか?」

露「誰が、そのような事を?」

露「惚ける気か?」

露「私は、アジアの麻薬密売ルートを取り仕切る李家の求心力が、衰えていると言ったのです。」

露「黒龍会の中の李家の存在は大きい。その李家の求心力が衰えて、壊滅寸前だと。」

露「ええ、黒龍会の半分は李家の息のかかった者ですからね。だからこそ、じっくりと李家の力を薄れさせていく、と同時に、黒龍会の縄張りを荒し疲弊させる。そういう戦略でした。しかし、中々、疲弊させるほどの強い圧力を与えられていないようですね。アジアを舐めてかかられておられる?」

 ロシアのマフィア、オルゲルトの一派であるブラトバのボス、モリス・ラズキンは、はち切れんばかりに脂肪のついた腹を強請って、私を睨む。

露「チェルノボーグが現れる。」

 チェルノボーグとは、ロシアのスラブ神話に出て来る死神、死や闇、破壊のイメージがあり、冥府の神、悪神として捉えられており、ウクライナでは相手を罵る言葉として「チェルノボーグに殺されてしまえ。」というのもある。

露「チェルノボーグ、神話ですか?」

露「仕掛ける抗争に、頻繁に黒い衣服を纏った者が現れ、邪魔をされる。」

露「ブラトバのドンともあろう方が、神話信仰があるとは思いませんでした。」

露「ワシではない。部下達が例えてそう言うのだ。気配なく闇より突然現れ、ナイフで切りつけられる。重傷者多数、一人が死んだ。」

露「あなたの部下は、とてもメルヘン的ですね。抗争の失敗を、神話の死神のせいにする。」

 モリス・ラズキンはムッとして怒りの表情をしたが、声色は変えずに続けた。

露「当然ながら、黒龍会の者だと思っていたが、どうもそうではない。」

露「黒龍会以外に、どこの組織がブラトバの邪魔をすると言うのです。」

露「さぁな。お前さんの方が良く知っているのではないか?情報通のレニー・コート・グランドさんよぉ。」

 表情が、思うところを良く読める男だ。私を疑っている。

 反対に私はいっさいの表情及び動きを変えず、ずっと微笑を保っていた。わざと間を置いて口を開かなかった。モリス・ラズキンはその間、鼻を膨らまし、目を泳がす。間に耐えられないギリギリのタイミングで私は、言葉を発した。

露「調べておきましょう。」モリス・ラズキンは目をむいて何かを言いかけたが、止めて喉を鳴らす。

 出されていたブランデーに一切手を付けずに、ソファーから立ち上がると、モリス・ラズキンは私のグラスに手を伸ばし、睨みながらそれを一気に煽る。私が毒殺を警戒しての飲まなかった、そんな陳腐な事はしない、との訴えの行動だ。しかし、私は警戒したのではなく、出されたブランデーの銘柄が好みではなかっただけだった。

 ドアへと歩みながらスーツのポケットに手を入れると、部屋の四方に立つボディガードが一斉に身構えた。

露「何か、まだ?」

露「オルゲルトのビクトル・ホールデンさんからの口利きじゃなければ、酒など振る舞っていない。」

露「私も、あなたがブラトバのボスでなければ、ここには来ていませんね。」

 モリス・ラズキンは手を一振りして、ボディガードに扉を開けるように指示した。

 白を基調としたリゾート風の洒落た廊下に、似つかわしくないボディガードが、私を挟むようにして二人つく。

 玄関アプローチに止めてあった自分の車に乗り込んだ。日本車、黒のGT-Rのエンジンをふかし、愛想のない黒服ボディガードに後ろ蹴りでも浴びせるようにして、アクセルを踏んだ。自動でゲートが開き、屋敷の外に出てから、窓を全開にした。海の匂いが鼻につく。

 香港島の南、南部にある海岸レパルスベイ沿岸、ここも香港では高級住宅街として人気の地域であるが、一流の場所ではない。ブラトバのボスが、まだここにしか住めない事が、現状を表していた。香港の最高地は、ビクトリアピーク他ならない。李家の力ある者を消し、求心力を衰えさせたてきたとはいえ、老舗、黒龍会の幹部達は、ビクトリアピークの一等地に住んでいる。そして、私もビクトリアピークにある住まいへと車を向ける。この車は、私がアジア代表の座に就いたとき公表したプロフィールが日本人とのハーフである事から、その愛着心を装おう為に購入した車だった。日本車など、と、ずっと貶していたが、意外にも乗り心地が良かった。この乗り心地と言うのは快適だけの意味ではなく、性能的な事を含んでいる。この車に乗る時は、音楽をかけなくなった。外国車のような荒っぽさがない、エンジン音までも耳に心地よく、聞いていたくなるデティール。小柄だが、その秘めたる力は侮れない。それが何故か、棄皇の動きをイメージさせた。派手なく一寸の躊躇なく人を殺す時の。

『棄皇は、そんな罪を超える存在。』

『・・・ただ認識するのです。棄皇が人を殺める所を見る度に、あぁ、それが神の権限だと。』

 赤信号を見落としそうになり急ブレーキをかけた。GT-Rは私の予測よりも短い距離で停止する。

「チッ」

 舌打ちが車外に響いたのを認識して、窓を閉めた。

「棄皇、私を超えて、アジアの神となるか?」

 しかし、私もまた、アジアを超える。

 信号が青になり、アクセルを踏み込んだ。










中「もう!お兄ちゃん、お酒ばかり飲まないでっ、私の手料理食べられなくなるでしょう!」

 ファンリンは菜箸を振りながら頬を膨らませる。

中「序の口さ、お前の作った料理を残したことが、今までにあるか?」

中「ないけど・・・お兄ちゃんがそんなにお酒むなんて知らなかったわ。」

中「まだか?」

中「あぁ、ちょっと待って。」

 ファンリンは慌てて背を向け、調理を続ける。

 ファンリンのワンルームマンションに来ていた。フアンリンとは、大学入学時に河南省から香港に出て来た時以来、さほど会っていなかったのが、成人の祝いを期に、顔を合わせてしまった事で、フアンリンの郷愁心を煽ってしまったのかもしれない。この間からファンリンは、毎日、我に電話をかけて来ては、「家に来て。」と乞う。その郷愁心を焚きつけたのは我であるから無視もできず、それに、正直なところ暇でもあった。

 レニーの権限を剥奪されて、出来る事などわずか。柴崎凱斗が僅かながら情報を寄越してくるが、そもそも柴崎凱斗はオルゲルトや黒龍会関係の裏組織の担当ではない。柴崎凱斗は、我だけじゃなく、頭目においても、日本との繋ぎ役だ。

 レニーの情報部を使わずに、オルゲルトの動きを察知するのは困難。黒龍会及び、巷で拾える情報だけで動かなければならない。このような状況で、どう、頭目と張り合えばいいのか?

 食べ物の匂いが漂って来る。河南省の師匠の家に居た頃によく嗅いでいた匂いだ。河南省での生活は質素だった。師匠は柴崎凱斗と同じくアルベール・テラのナショナル軍の命令違反及び脱走兵であった。退役手当などなく、また、それまで蓄えられていた口座も凍結されてしまい、身元を世界から隠さなければならず。師匠はナショナル軍から逃れ、中国の河南省に戻り道場を開いたが、そもそもが貧しい農村地帯である為、高い金を払い武術を習おうとする者はおらず、ほぼほぼ自給自足の生活だった。我が、身を寄せるようになってからは、柴崎凱斗からの給付金があったが、ファンリンの学費に使っていた。まともな学問を受けるには、公立の学校では将来が開けない河南省の貧村。ファンリンは河南省の都市部にある私立の学校に通った。河南省の田舎で私立の学校に通うのは、ファンリン唯一であった為、村中では異色で、家業も農村には必要のない道場と言う事もあり、ヤン家は、村八分的に扱われていた。そんな、生い立ちから苦労の多かったファンリンであるが、学業に加え洗濯などの家事を幼いながらする、よく働く子であった。

中「お待たせ。」

 河南省で毎日のように食べていた過橋米線を運んでくる。米粉で創った麺の中に具を入れた料理は、河南省の時よりも具数が豪勢だ。

中「久しぶりだ。」

中「石屏豆腐もあるよ。」

 焼いた豆腐にたれをかけた物である。河南省に居た頃は二つ同時に出て来たことはない。

中「豪勢だな。」

中「お兄ちゃんの為に腕を振るったんだから。」

 狭い座卓に皿を並べる為に、我が持参した紹興酒の瓶を取り下げられる。

 中国では「頂きます」「御馳走様」の言葉を発する習慣がない。何の躊躇なく食べ始めると、向かいに座ったファンリンが、

中「ちょっと待って。」と止める。

中「えっとぉ、日本では食べる前に何か言うのよね。」

中「イタダキマスだ。」

中「そうそう、イタダキマス。」と、どこで覚えたのか、箸を親指に挟んでお辞儀をした。

中「箸を持ってするのは、あまり行儀がよくない。」

中「そうなの?」

中「あぁ。上手い!」

 わざと大げさに誇張した。我は食事に関して興味がない。食よりも酒を好んで口にするのだが、油断すると数日、酒しか口にしていない事に陥るので、意識して食事を取るよう心掛けていた。

中「良かった。あんな高級な料理ばかり食べて、田舎料理は口に合わなくなっているかと、心配したんだから。」と破顔するファンリン。

中「ファンリンは、良い嫁になる。」

 ファンリンは、目を丸くしてから顔を赤らめて、そしてうつむいた。

中「どうした?」

中「ううん。なんでもっ。食べようっと。」

 体をゆすって座り直してから麺をすする。

左目に意識をかけ、注意深くファンリンの様子を観察する。ファンリンが、我に恋に近い羨望の気持ちを持っているのを、読む。

(まずいな。)

 もうファンリンとは会わない方が良い。そう思考して、視線を外した先のマガジンラックの中に、ある物を見つけた。それは日本への留学を斡旋するパンフレットだ。

中「留学したいのか?」

中「あぁ!これは、違うのっ。」

 我が手を伸ばし取ろうとしたパンプレットを横から奪うファンリン。

中「行きたいわけじゃなくて、ただ暇つぶしに見てたの。捨てるのよ、もう。」と言う割には、大事そうに胸に抱えている。

中「行きたいんだな。」

中「違う、違う。行きたいじゃない。」

中「言葉がおかしいぞ。」

中「あぁ・・・。もう、これ以上は、贅沢は言えないよぉ。」

中「贅沢なんかじゃない。ファンリンはそれに見合うだけの労働、学力を施して来た。柴崎凱斗に言っておこう。良いようにしてくれる。」

中「だめだめっ。」

中「どうして。」

中「これは、私自身でお金を稼いで行きたいの。そうじゃないと・・・自分の物にならない。」

 ファンリンは強いまなざしで我を見つめる。そこには先程あった、恋に近い羨望の思いは全くない。

中「小学から私立の学校に通わせてくれた事だけでも、異例の幸せだった。香港でこんなにきれいなマンションに住める事も、とてもありがたい事。留学まで当たり前のように望みが叶っちゃうと、それは私の物じゃなく、他人に付与された糧になっちゃう。だから・・・。」

中「そうか。」

(賢明な子だ。)

中「だからね、家庭教師のアルバイトをしようと思ってるの。」

中「あぁ、ファンリンが先生だと厳しそうだな。」

中「そんなことないよ。優しく教えるわ。お兄ちゃんの時にみたいに。」

 それからの食事は、たわいのない話をしながら終え、ファンリンが食事の後片付けをしている間に、我は持ってきていた紹興酒の一瓶を飲み空けた。ファンリンは泊まれと乞うたが、早々にマンションを出る。滞在時間2時間半ほど、時刻は9時半を過ぎていた。ファンリンがマンション下のロビーまで見送りについてくる。

中「ここで良い。」ロビー外まで出てこようとするファンリンを制止、頭を撫でてやる。「しっかり、励め。」

中「うん。また来てね。」

 それは、もうないな。と、心でつぶやきながら、頷いてファンリンから背を向けた。

 マンションの自動扉を抜けると不快指数200%の空気が襲って来る。夕方、雨が降ったのだ。ロビーからの冷気が背後で遮断されたことで、自動扉が閉まったと認識する。振り返るつもりはなかったが、不意に妙な気配を感じた。

 振り向くと、閉まったガラス製の自動扉の奥で、ファンリンが覆面の男に背後から口を押えられ捕まっている。助けを求め、こちらに手を伸ばした手が空を掻く。ファンリンは覆面の男に引きずられながらエレベーター前まで後退していく。

中「ファンリン!」

 自動扉は住民のカードキーがないと開かない。扉を叩くもビクともしなかった。覆面の男は背中で非常階段への扉を押し開け、恐怖に怯えたファンリンを引きずり連れ去っていく。

中「ファンリン!くそっ!」

 こういう時に限って、マンション住民の出入りがない。通りに出てマンション裏へと走った。非常階段へと行ったのなら、覆面の男は階下の駐車場の車に乗り込むに違いない、そう思考して駆けた。マンション周辺に無駄に植樹されたスペースがもどかしい。その分、大周りしなければならない。勾配した駐車場の出入り口は、センサーで黄色いバーが上げ下げされるタイプの物だ。奥から急発進するタイヤ音が聞こえ、ライトの光が目に入る。眩しさに目を腕で隠す。車は我に向って猛スピードで向かってくる。黄色いバーは根本から折られて跳ね飛んだ。我は飛び退り、植え込みに体を埋もれさせながらも、走り去る車から視線を外さなかった。運転席以外の窓は白く塗装された市場などに配達するような、何処にでもあるような

軽ワゴンだ。犯人の男は縁石の段差で跳ね上がる車体のハンドルを左に振りながら、こちらに睨みを向け、軋んだタイヤ音を鳴らしながら車道に出て行く。我はすぐさま体を起こし車を追いかけ走るも、大通りに出た車はスピードを上げ、すぐに見えなくなった。

「くそっ、誰だっ、あいつは。」

 見知らぬ男だったが、睨みの中に強い憎しみが感じられた。

 (散々殺して来た李家の残党か?)

 携帯を懐から出し、柴崎凱斗を呼び出す。繋がった柴崎凱斗の応答を待たずに叫んだ。

「ファンリンが誘拐されたっ、今から言う車のナンバーの追跡を情報部に頼んでやってくれっ。」

「えっ、えぇ!?」

「EW3487」

「誘拐?どうして、そうなった?」

「昌満地区ファンリンのマンション前の吉席街通りを東へ向かった。白の軽ワコンだ。ファンリンのマンションの防犯カメラに犯人の姿が映っている。覆面をしていたから無理かもしれないが、身元分析も頼む!」

 携帯を切ってまた走り出す。

 (誰だか知らぬが、許さぬ。)

 我は走りながら、怒りを拳に込めた。








「ちょと、待って!」

 凱斗の叫びで、店内は静まり注目を浴びた。

英「どうしたんだ?カイ。」

 刺すような周囲の視線に、頭を下げながらクレメンティは見上げる。凱斗は無意識に立ち上がっていた。

 明日の朝の便で日本に帰る。その前にキャンセルになったクレメンティと酒を飲む約束を、しんでいた所だった。庶民には少し高めだがホテルほどではないランクの、食事もできる中華飯店に来ていた。

中「失礼いたしました。どうぞ団欒を続けてください。」

 と片言の中国語を添えて周囲に頭を下げた。店内は元の雑音に戻る。椅子には座らず、脱いで空いた席にかけていたジャケットを手にする。

英「クレメンティ、ごめん。宴は終わりにしなければならない。」

 食事も酒も、半分も食していない。

英「どうしたんだ?」

 終いにはわかってしまうだろうが、レニーを解雇された棄皇の頼みで情報部を使うなど、今はまだクレメンティには言えない。

英「悪いな。」

 言えない事も重ねて、頭を横に振った。

英「手伝える事があったら言ってくれ。」と端正な微笑みで返してくるクレメンティ。

 同じ上司を持ち、使える言語が同じである為、4つ年上ながら同級のように接してくれるクレメンティ。ミスター・グランド・佐竹の下で仕えるには優しすぎるし、一度会った人物のフルネームを忘れずに覚えられるということ以外は、さほどの有能さはないのだが、あのミスター・グランド・佐竹が手放ずに側に置くのは、血筋に由来するバックボーンが大きいからだ。

英「ありがとう。」

 置かれていた伝票を取ろうとすると、クレメンティはそれを制し、早く行けの手振りをする。甘えて頷いてから席を離れた。歩きながらスマホでレニー情報部のマーク・マクレーを呼び出す。

英「あなたの要望をすべて叶える情報部の、優秀采配師マーク・マクレーでございます。」

 裏稼業をしているとは思えないほど陽気に答えるマーク。

 情報部の仕事は、ほぼすべてが犯罪行為だ。頭の線が数本切れていなければ、こんなに陽気に振る舞えない。

英「マーク、車の追跡を頼む。誘拐事件なんだ。急いで。」

英「はぁ!?警察じゃないんだよ。ここは。」

英「わかっている。警察よりもマーク率いる情報部の方が優秀だと信じているからこそ、頼んでいるんだ。頼む、急いでっ、誘拐された子は棄皇の妹なんだ。」

英「棄皇の妹!?なんて居たのか?」

英「車のナンバー言うよ。Ew3487白の軽ワゴン。数分前、香港島、昌満地区、前吉席通りを東へ向かったそうだ。」

 マークは、レニー・アジア総本部の地下、自室を兼ねている情報部のオフィスに居たようだ。電話の向こうからカチャカチャとキーボードを叩く音がする。誰かに指示を送っているのか、自分が自ら探索を始めたのか。

 レニーを解雇された棄皇絡みの依頼である事から、後者だろう。

 陰と陽のように正反対の資質であるのに棄皇とマークは、不思議と馬が合っていた。マークは棄皇がレニーの権限を剥奪された事にとても落胆していた。

英「車はレンタカーだ。九龍島の尖沙昌のレンタカー会社の持ち物。」

英「借主は?」

英「今やってる。ちょっと待て。」

 マークはVID脳ではないけれど、元々それなりに能力のあるハッカーでもある。

英「早く。」言ってもしかたのないことだが、つい口にしてしまう。

英「呂 天と言う名の人物が借りてる・・・・尖沙昌の住所だがでたらめだ。名前も偽名だろう。現金で二日分払っている。」

英「借りるには免許証の提示がいるだろう。」

英「顧客管理に免許証のスキャン画像はないから。持っている免許証に、どうにかマジックで上書きでもして見せただけじゃないか?どうとでもできるさ。」

英「車の追跡を早く。」

英「やらせている。その棄皇の妹の名は?」

英「この間、身元照会を頼んだ黄 妹琳だよ。」

英「なんとっ・・・その子が携帯を持って誘拐されていたら追跡は早いんだがなぁ。」

 その事を棄皇は言ってない。追跡などの仕方については、もう凱斗より詳しくなっている棄皇だ。ファンリンちゃんが携帯を持っていて誘拐されたのなら、いの一番に言っただろう。

英「あぁ、ミスファンリンの携帯はマンションから一歩も動いてない。」

英「だろうな。」

英「しかし、どうなって、ミスファンリンが誘拐される事になったんだ?棄皇に妹がいるなど、俺でも知らなかった情報だぞ。」

英「わからない。妹と言っても、血は繋がっていない。昔、棄皇が世話になった家の子で、妹のように面倒を見ているだけだ。」

英「なんだ、本当の妹じゃないのか。」

英「だからこそ、無傷で助けなければ。まだか、追跡。」

英「この時間だぞ、どれだけの車が香港を走っていると思っているんだ。」

英「数分前に、吉席通りを東へって言う情報があるんだから、そこから追跡すれば。」

英「数分が、どれだけ範囲を広げると思ってるんだ。分単位で範囲距離と検索台数は増え・・ヒットしたっ!情報を棄皇に送ったらいいか?」

英「あぁ、頼む、そして俺にも。」

英「了解っ・・あぁっと待てっ、棄皇のスマホにデーターが送れない。」

英「あぁ、そうだった。棄皇はスマホを変えていたんだった。」








 左目の力を使い、信号待ちをしていた原付バイクを奪って、犯人の車を追った。だが、一度見失った車を、そう簡単には見つからない。白い軽ワゴンなど、この時間、夕方の配達を終えたあらゆる職種の商用車が無数に走っている。走りながら白の軽ワゴンを見つけては、ナンバーを確認するが見つからない

 爆発しそうな怒りを抑えながら、車列を合間を走るが、夜間で、しかも雨に濡れた路面は、ヘッドライトの光が乱反射して見づらい。生まれながらにして左目が白濁していた我は、右目の酷使によって視力は低い。それ以上の視力低下を免れる為に、道元の眼球を左目に移植した事で、我は、人を操る力を手に入れた。

 神皇たる力、【送受の力】は本来、個々の意識下には働かない物である。大地の自然の厄災を鎮め、全土に五穀豊穣をもたらす力である。我の左目の力は、卑弥呼由来の知視の力が、道元からの眼球移植によって、人を操れる力へと変容し齎した。

 我は神と邪の両を持つ万事万能の存在である。

 の、はずが、フアンリンをみすみす目の前で誘拐される事になろうとは。

 懐に仕舞った携帯が、振動で着信を知らせる。走りながら取り出し、確認した。レニーの情報部からのナビゲート情報だ。犯人の軽ワゴン車の現在地が香港の地図上に表されている。バイクを路肩に停車し、よく見ることにした。

 犯人の車は、香港島を出て九龍の繁華街を北上中だった。

「ちっ、高速を使ったか。」

 せめて中型のバイクにでも乗り換え急行したかったが、都合よく周囲に見つからない。走っているのは、同じ原付バイクばかりだった。仕方なく、そのまま奪った原付バイクを急発進させ、高速道路の入り口へと向かった。ETCのバーを屈んで走り抜ける。後方で警告音が鳴っていたが、構うことなくスピードを上げた。あとで柴崎凱斗が情報部を使い、違反データーの消去を行ってくれるだろう。レニーの社員ではなくなったゆえに、その処理が出来ず警察に捕まろうとも、左目の力を使えば何とでもなる。

 香港島と本土九龍を結ぶ海底トンネルは、渋滞時間帯は終わっているが、まだ一般道並みの速度でしか走れない。走る車は低速走行していた。路側帯や車両の間をぬい、原付バイクの限界速度で追い抜かした。

「ファンリン、もう少し耐えろよ。いますぐ行く。」

 海底トンネルを抜けて走っている最中に、また着信のバイブがあったが、無視してとりあえず本土九龍の西を北上し、空港ハイウェイと合流するインターチェンジまで走り抜けた。また路側帯で原付バイクを一旦止め、携帯のナビを確認する。

 犯人の車を示す赤い点は、そこから北東へ金山郊野公園を抜けて、大園という名の街で停止している。柴崎凱斗から着信が入っていた。バイクを走らせながら通話の呼び出しをした。だが、バイクのエンジン音と風切り音で、着信しているはずなのに声が聞こえない。

「バイクを走らせながら話している。聞こえない。」と叫んだ。

 柴崎凱斗が何かを答えていたが、内容が分からないので、仕方なくバイクを止め、ちゃんと携帯電を耳にあてる。

「追跡対象は5分前から現在地に停車している。俺も車で向かっているが一般道を使っているから、棄皇の方が早い。」

「わかった。」そう答えて携帯を耳から離す直前、

「無茶するなよ。」と柴崎凱斗が叫ぶ。

 (無茶とは何だ?)

 何の罪もないファンリンを誘拐し怯えさせている犯人に、容赦など与えやるつもりはない。

 (我への心配か?)

 そんなものは、もう必要なくなったはずだ。我は正式に神皇継嗣の放棄に署名したのだ。柴崎凱斗が我の介添をする道理はなくなった。

 再びバイクを走らせ、高速を降りてからまたナビを確認する。地図を拡大すれば、ショッピングセンター内である事が判明した。おそらく、屋上か地下の駐車場に停めているのだろう。このショッピングセンターは8時で閉店している。犯人は、人気のない場所を選んで潜伏するつもりなのだろう。 

 (ファンリンに何をするつもりか?) の多くを思いつき、怒りに歯を食いしばった。

 原付バイクを急発進させ、赤信号を突っ切る。往来の車が急ブレーキを踏んだタイヤの音と共に、クラクションがけたたましく鳴る。

 原付の限界速度が疎ましい。無茶をしたくてもこんな陳腐な原付では無理だ。

 交差点を曲がり、その先に香港では珍しい低層のビルが見える。そこが目的のショッピングセンターだ。駐車場の入り口は、脇の路地奥にあるようだ。矢印つきの看板があった。運よく左折可の信号で交差点に進入できた。歩道を横断し駐車場へと飛ぶように侵入した。ミラーが壁に接触し、根本から折れた。下っていく駐車場、照明が落とされていて暗い。だが、最奥で灯る明かりを視認した。ファンリンを乗せて走り去った白の軽ワゴンが、店内への出入り口前で、左側面をこちらに向けて停まっている。後部ドアが開いていて、犯人は上半身を車内に入れて何かをしていた。バイク音に気が付いて、体を車外に出した犯人は、こちらを向いて驚愕の表情をした。覆面を外していた犯人の顔に見覚えはなかったが、縁故などで容赦はしない。そのままアクセル全開でシートから腰を浮かした。バイクを軽ワゴンの側面へ突っ込ませながら、我は犯人へと飛びついた。が、犯人も既に逃げの態勢でいた為、体当たりは出来なかった。それでも犯人の袖は掴むことが出来、犯人ともつれ合いながら地面に倒れ、転がった。右腕に激痛が走る。折ったかもしれない。しかし、それを気にしている場合ではない。犯人の方が早く立ち上がっていた。

中「棄皇!」

 何故か我の名前を知って叫ぶ犯人。

中「誰だ、お前は。」

中「知らないだろうな。だけど俺はお前を良く知っている。」

 恨みなど、あちこちで買っている。頭目を守る為、李家の一族、それに関わる黒龍会の末端の者から幹部の者まで、沢山の者を抹殺して来たのだ。その者達の親族や関わる者が、どこかで我の存在を調べ上げ、復讐に来ることも想定済みだ。その兆しを見せた者は、容赦なく抹殺するか、左目の力で廃人にしてきている。我に復讐を実行する者は、大体が年齢の重ねた者ばかりである。年配者ほど権威や地位に未練があるからだ。

 しかし、今、ファンリンを誘拐し、強い憎しみを我に向ける犯人は、それらの年齢より、さらに我よりも年若い青年だった。

中「よーく知っているぞ。お前が日本人である事。あははは。」と笑う若者。

 我が日本人である事を知っているのは、ここ中国では、ほんの身内のみだ。柴崎凱斗を始め、飛龍、師匠とフアンリン、頭目とクレメンティのみ。情報部のマークですら知らない。また、容姿、言語、振る舞い等で見破られた事もない。その身内から漏れ知られてしまったと考えると、頭目が、我の背信紛いの行動に怒り、レニーを首にしたと共に身元を晒した?と考えるが、それをして何になるというのか?そもそも、頭目は陳腐な腹いせなどしない。

中「日本人も日本人、神皇家の双燕新皇と兄弟だ。」

 血走った目を大きく開けた若者に、二か月前に抹殺した男の面影を見た。

中「お前は・・・。」

中「あははは、日本の神皇家の者が香港で人殺しをした。それを公表すれはどうなるかな?あははは。」

中「恐喝し金を取ろう気か?」

 我は立ち上がった。

中「おっと、近寄るな。俺は金など欲しくない。ただ、お前に復讐がしたいだけだ。」

中「じゃ、何故、ファンリンを誘拐した!」

 我の叫びに呼応したように、奇声が軽ワゴンの中から聞こえて来る。覗くと、フラットにした軽ワゴンの荷台の奥で、体を丸めて震えているファンリンが居た。しかし、その震えは異常なほどに激しい。それは快楽目的の通常投与を超えたドラック中毒に陥った時の症状だった。

中「お前っ!」

中「兄と同じ目に合わせてやるっ。復習だっ」

 どこに隠し持っていたのか、若者はナイフを手に大きく振りかぶってくる。我よりも体格が大きい若者も、同じくドラックを服用しているのは表情から明らかだった。振りかぶってくる勢いを避けて、男の背中に拳を叩き入れたが、肘下の腕に激痛が走り、力を入れこめる事が出来なかった。若者は前かがみによろけただけで、すぐに翻して向かって来る。

中「死ねやぁぁ!」

 男の叫びはファンリンの奇声とも重なる。低くしゃがんで男の足を払おうとしたら、軸にした右足は何かを踏み割って滑った。尻餅をついたが、地面に手をつき態勢を整えようとしたところに男が覆いかぶさってくる。顔を狙って来るナイフの男の手を掴むも、ドラッグで半狂乱になっている男の力は馬鹿強い。仰向けに倒される。パキバキと背中と若者が踏みしめる音の原因は、ドラッグを注入する注射器が割れる音だった。

中「キャハハハ。」フアンリンの奇声。

中「ヤハハハ、死ね、死ね。」男の唾が顔に降りかかった。

「くそっ」

 腕が折れてなければ、武術の経験もない若者など一締めで倒している。

 ドラッグを服用していなければ、左目の力で男の動きを制止させている。

 ドラッグ中毒の者に、左目の力に効き目が悪いのは、裏の仕事をして判明していた。

 何故か?

 我が左目の力を使うとき、卑弥呼由来の知視の力が発動し、相手の意識を探し見つけると同時に、我が本来持つ「送の力」が捕らえた意識を神力で捕らえ、言辞で操る。力を使うときは決まってそのようなイメージが我の中にある。その神力で捕らえた時の脳内が、ドラッグを服用した時の脳の麻痺状態と同じ状態であると思われる。既に薬物により麻痺状況になってしまった所に神力を注ぎ入れる事は出来ない。という見解をしていたが、本当かどうかは知らぬ。

 若者の股間を狙って膝蹴りを入れたが体制が悪く、さほどのダメージを与えられない。力の存在を知ってか知らずか、若者は、我の左目をナイフで突き刺そうと狙ってくる。利き腕に力が入らないのは致命的だった。

 若者は狂気に満ちた笑みを浮かべた。ナイフの先端がぼやける距離となった。眼球を刺されるまで数ミリ。その時、駐車場に派手な音が響き渡り、車が侵入してくる。音に気がそれた若者の力が緩んだ。すかさず横へ転がり立ち上がり、若者の側頭めがけて蹴り入れた。男は吹っ飛びワゴンのバンパーに体を打ち付けて倒れ込む。衝撃で車体が揺れた事に、ファンリンは手を叩いて奇声し笑う。

 侵入してきた車のヘッドライトが、ワゴンの中のファンリンの姿を照らし出す。ファンリンは子供の様に足を投げ出し、口から涎を出し、目も当てられない様相だった。

「許さぬ。」

 脳震盪を起こして朦朧としている若者の腕を掴み、ファンリンから見えない位置まで引きずり運んだ。

「棄皇!」

 侵入してきた車は、柴崎凱斗だったようだ。運転席から降りて駆け付ける。

「我らに楯突いた事を、兄と共にあの世で後悔するがいい。」

 拾っていた若者のナイフを、心臓めがけて叩き下ろす。若者は血走った目を見開いて「ぐはっ」と血交じりの息を吐いた。引き抜き、もう一度叩き下ろす。それでも怒りは治まらない。四度目を降ろす時、柴崎凱斗が我の肩を掴んだ。

「棄皇、もう死んでいる。」

「許さぬ。こいつだけは。」

「キャハハハ。」ファンリンがワゴン車から飛び出して来た。

「ファンリン!」

 ファンリンは駐車場の中央まで踊るように走り、立ち止まって服を脱ぎ始めた。

「もしかして・・・。」

 絶句して問う柴崎凱斗。

「こいつに、投与された。匂いからして高濃度の覚せい剤だ。頼む、早くファンリンを病院へ。」








 覚せい剤によって異常行動を起こすファンリンちゃん。

中「暑い」と言いながら、花柄のブラウスのボタンをはずして肩をはだけさせる。そしてスカートも脱ぎ始めたのを凱斗が腕を捕らえて止めると、叫び声を上げ、暴れられる。

中「イヤーっ!」

中「ファンリンちゃん!」

 遅れて棄皇も駆け付け、ファンリンちゃんの首へと手を伸ばした。

「しっかり押さえていろ。」

 頸動脈を絞め上げ、脳への血流を止めて失神させる方法は、凱斗が教えた防衛術だ。暴れるファンリンちゃんを体全体で包み込むようにして動きを止める。頸動脈を絞め上げ失神させる方法は、強く絞めすぎると死んでしまいかねないので力加減が難しい。しかし、棄皇は凱斗が実践を加えて教えると、すぐにその難しい力加減をマスターした。

 ファンリンちゃんは、ふわりと体の力が抜けて失神する。凱斗はそのままファンリンちゃんを抱き上げ、タクシーまで運んだ。クレメンティと飲んでいた中華飯店の入る雑居ビルから出て、すぐに捕まえた空車のタクシーの運転手に、手持ちの紙幣、日本円で20万円ほどの金を渡し、強引に借りて来たタクシーである。後に返却すると言ったのだが、凱斗の中国語がカタコトだったため、ちゃんと伝わったかどうかは怪しい。タクシー泥棒と間違われたかもしれないが、車で来て正解だった。タクシーの後部座席にファンリンちゃんを寝かせ、凱斗は急いで運転席へと回る。棄皇はそのまま後部座席に乗り込んでドアを閉めた。

中「ファンリン・・・ごめん・・・」

 ファンリンちゃんの乱れた服を整えながら項垂れる棄皇。

 その頬に光る物が流れ落ちたように見え、驚いたが、棄皇が顔を上げたので慌てて、ハンドルを手にシフトレバーを動かした。バックミラーで確認したが、棄皇の頬には何もない。目の錯覚だったのだろうか、棄皇が泣く姿など今までに見たことがない。

 半地下の駐車場を出てから、情報部のマークに電話する。

英「マーク、病院の手配を頼む。」

英「怪我したのか?」

英「怪我じゃない、ファンリンちゃんが犯人に覚せい剤を打たれてしまった。解毒の出来る病院をナビゲートしてくれ。」

 マークは電話の向こうで舌打ちをして「了解」と答える。

英「それと、犯人をショッピングセンターで殺した。処々の後始末を頼む。」

英「そんなのは後だ、病院をさっさとナビゲートしろっ。」

 棄皇の叫びは、電話の向こうのマークにも届いた。マークは「直ぐに」と呟いて通話を切る。そして間もなくスマホに近くの病院が表示された。車で5分もかからない所にある総合病院だ。すぐに病院へと向かう。

 夜間でもある事から、タクシーを救急搬送口へと横付けした。マークが病院へ、急性薬物中毒患者を運ぶと連絡していてくれていた。だから搬送口では医師や看護師がストレッチャーを用意して待ち構えてくれていて、スムーズに処置室へと運ばれて行く。棄皇も続いて病院内に入りながら、流暢な中国語でファンリンちゃんの容態の説明をしていた。凱斗は病院内には入らず、またタクシーに乗り込み後退させた。狭い病院敷地内を二度ほどの切り返しで道路に出て、ショッピングセンターへとまた戻り向う。ショッピングセンターのある一つ手前の交差点で路地に入り、マンション前でタクシーを止めて客待ちの状態にして降りた。そこから歩いてショッピングセンターへと向かう。閉店したショッピングセンターに、タクシーで何度も乗り付けるのは目立ち過ぎるからだ。

 凱斗は周囲の人気に注意を払い、またショッピングセンターの地下駐車場へと歩み入る。まだ誰にも見つかっていない惨状があった。

 胸をめった刺しにされた犯人は、まだ若い。かわいそうだが、神を怒らせた代償として諦めてもらうしかない。衣服を漁り持ち物を探る。しかし、何も持っていない。落ちているナイフを拾い、犯人の着ていたシャツを適当な大きさに切り裂いた。ナイフの柄を綺麗にふき取る。続いて棄皇が乗って来たバイクのハンドルやシートも拭き取った。棄皇がどこを触ったかは不明だが、棄皇もこういう状況に慣れた人間だ。やたら滅多に指紋を残すような事はしていないだろう。ワゴン車のドアノブやハンドルなどをふき取りながら、犯人の持ち物を探した。が、何もない。ファンリンちゃんが乗せられた荷室も確認し、何も無いことを見てから、後始末を終える事にする。

 駐車場を出る時、通行人が横切って行ったが、料金精算機の裏に隠れ気配を消した凱斗には、全く気付かず通り過ぎていく。凱斗はその気配を消した状態を保ちつつ、タクシーへと戻る。途中2人の通行人が反対車線の歩道を歩きすれ違ったが、いずれも凱斗の方へと顔を向ける事はなかった。

 タクシーに乗り込み、運転しながら情報部のマークに電話をした。棄皇がショッピングセンターに乗ってきていたバイクのナンバーを知らせる。ショッピングセンター内の防犯カメラ及び、各所々の交通システムのカメラ映像に映った凱斗と棄皇の姿、バイクの通過経路データーをすべて消去してもらう為だ。これはマーク一人では難しい作業であるためVID脳を持つハッカーの作業になるだろう。そうなればレニー・グランド・佐竹に内緒にはできない。でも致し方ない。棄皇から頼まれたのではなく、凱斗自身も誘拐された現場に居て、情報部を使ったという事にすればいい。佐竹も了承してくれるだろう。

 しかし、何故ファンリンちゃんが誘拐される事になったのか?棄皇がついていながら、みすみす誘拐されてしまった状況は想像ができない。

 また、棄皇が無慚に人を殺す場面を見る事になった。神の怒りは容赦ない。

 止める事が烏滸がましく、いつも躊躇ってしまう。だから時として、このように、その現場は惨憺たるものとなる。

 神皇家の者は穢れに弱く、穢れると病う、と言われている。人の血は穢れた物として、ケガ人などは神皇や新皇の側には寄らせない。女性の世話役は、生理のある日は宮内に入らないという決まりがあるぐらいだ。なのに、棄皇は病うことなく人を刺し殺し、自身の手を人の血で汚す。神聖なる神皇家の者であるのに、穢れ病う事のない例外について、本人と話し合ったことがある。棄皇曰く、それは神皇の存在を神格化する人の意識が作り上げた現象。神皇や新皇は神聖な存在であって欲しいという民の意思、希望が神皇に伝わり、現実の現象となるだけだと言う。そもそも新皇は、人の腹から血に塗れて生まれて来る。人の血に弱ければ新皇は生まれながらにして死ぬではないかと、棄皇は失笑した。それもそうだ。しかし、人の神格化した意思が伝わり現実化するのであれば、棄皇とて例外ではないはず。そのことについては、まずもって棄皇が神皇家の者であると認識する者が周囲に少ない事、そして神皇たる力、受ける方の力を棄皇は持たない事、更に、道元の眼球を移植した事により、人の血が体内に入っている為に耐性がある事、などの複合で平気なのだろうと、棄皇は分析していた。

 夜市のある繁華街までタクシーを走らせ、車を路地の片隅に乗り捨てた。もちろん、ここまで走らせてきた経路のデーターも情報部はリモートナビをしていて、消去してくれている。

 夜市のある繁華街は観光客にあふれていた。日本人が多く、凱斗の存在は目立たない。急ぐ心を抑え、観光客の足並みに合わせて、やっと大通りに出る。そこで今度は客としてタクシーを捕まえて乗り込んだ。病院へと指示を出す。

 約二時間が経ち病院に戻ると、集中治療室前の廊下の椅子に、棄皇はうずくまって座っていた。凱斗の気配に顔を上げたが、すぐに具合の悪そうな顔を落とした。髪の合間に見えた左目が赤かった。医師や看護師、病院スタッフに、ファンリンちゃんの事を警察に通報しない様に、左目の力を使って洗脳させたのだろう。

「ファンリンちゃんの容態は?」

「終えて、明日まで監視。」棄皇はうつむいたまま答える。「処置が早かったから慢性中毒になる事はない見立てだ。」

「そうか、良かった。」

 棄皇は静かに長い息を吐いた。辛そうだ。

「大丈夫か?」

 凱斗の声掛けに返事をせず、左側の顔を抑えて頷く。

 夜間とはいえ、この規模の病院であれば、関わるスタッフは多数だ。その者たちすべてに力を使って人を操るのは、相当の体力を要したはず。中国圏でも人を操れるようにはなったが、日本で行うよりも幾分強い力が必要で、体力も消耗すると以前に聞いていた。

 しばらくの後に、また声をかける。

「朝まで、ここに居るか?外にタクシーを待たせてある。どうする?」

 棄皇はまた静かに長い息を吐いた後、ゆっくりと立ち上がり、首を振って顔の左側を髪で隠すと、出口へ向かう素振りを見せた。凱斗が先導するようにして病院を出て、待たせてあったタクシーに乗り込んだ。

「レニーホテルでいいか?」と聞いても棄皇は黙ったままなので、異論はないと判断し運転手に告げる。

 ゆっくりとタクシーは病院の敷地内から走り出た。

「あの男・・ストーカーか?」

 棄皇は首を横に振ったあと、好んで着ている黒い漢衣の袖に手を入れ、何かを取り出して凱斗に向けた。

 それは男性物の財布。棄皇は殺した犯人から既に身元に繋がる物を抜き取っていたのだ。中には免許証も入っていた。

「2か月前、そいつの兄を薬物服用による突発的な自殺を装い殺した。我の素性を、日本にまで行って情報を得ていた、中々の着眼点が良いジャーナリストだった。情報と共にすべて消したつもりだったが、どうやら弟に話していたのか、バックアップ的にデーターを渡していたのか。」棄皇は凱斗の持っている免許証を顎で示す。「そいつは、兄と同じ目に合わせてやる。復讐だと言った。」

「だから、ファンリンちゃんをターゲットにしたのか。」

「稚拙で卑劣な考えだ。」

「情報部に頼んで、この男の端末も調べて消去しておいた方がいいな。」

「もう、足がついて困る事もない。我はもう神皇家の者でも、レニーの者でもないのだから。」

「それでも、困るだろう。棄皇自身が。」

「どうかな・・・。」

 凱斗は犯人の財布をジャケットのポケットに仕舞った。

「一つ、頼みがある。」

「何なりと。」

「ファンリンを日本へ留学させてくれ。」

「お安い御用。」

「ファンリンは、自分で稼いで行きたいと言っていたが、そんな悠長な事ではダメだ。我に関わっている事でこの先、また同じような事が起こるやもしれぬ。」

「まぁ・・滅多な事ではないが・・・皆無とは言い切れないな。」

「頼んだ。」

「お任せあれ。」

中「止めろ。」

 棄皇は体を乗り出してタクシーを止めさせた。九龍市街地に入っているが、レニーホテルまではまだ5キロほどある地点だ。棄皇は車が停止するやいなや、車道側にも関わらずドアを開けて出てしまう。

「棄皇!」

 タクシーの運転手が「危ないですよ!」と嘆いている間に、棄皇の姿は路地裏の闇へと同化して消えた。

「今日ぐらい、一緒に泊まればいいのに。」

 凱斗はため息を吐いて、どうするのかと振り返っている運転手に、ホテルへ向かうよう言った。








 2か月後、フアンリンは覚せい剤の中毒症状に陥ることもなく、日本へと学問の場を移した。誘拐した犯人はフアンリンのストーカーであり、まだファンリンの事を狙ってくるかもしれないからと、日本への留学を勧めたのだ。誘拐された夜の事は、覚せい剤を打たれた時の記憶だけを消し、ある程度の恐怖心は残しておいた。その残った恐怖心から、ファンリンは、日本へと行く事を素直に決断できたのだ。

 保安検査ゲート前に足を進める前、一度周囲を見渡したファンリンは、寂しそうな表情をしてため息を吐いた。柴崎凱斗に何かを話しかけられて、首を横に振り微笑んでからゲートをくぐり、姿が見えなくなった。後に続く柴崎凱斗は、気配を消して空港施設を支える柱の陰に立っていた我へと確実に視線を合わせてから頷き、ゲートの向こうへと進んだ。

 小さな先生だったファンリン。もう、会うことはない。

 フアンリンが日本で、我が双燕とそっくりである事に疑問を抱き、懸念しても、何もすることはないだろう。柴崎凱斗もうまく誤魔化すだろうし、ファンリンが事実を知った所で、我はもう、神皇家とは縁切りの確約をしている。

 アジア最大のハブ空港から出た空は、憎らしい程に晴れていた。

 そんな爽快とは反対に、現在、香港裏社会は、従来から香港を拠点に中国全土にテリトリーを伸ばす老舗の黒龍会と、ロシアから勢力を奪いに来ているロシア最大のマフィア組織オルゲルトのブラトバと対立して、緊張状態が続いている。

 ロシア最大のマフィア組織を香港へ導いたのは頭目である。当初は、黒龍会の勢力を弱らせる目的と、頭目の存在を裏社会に知らしめ、レニー・アジアの運営をしやすくする為の、ビジネス戦略の一環であった。しかし4年前、世界の麻薬市場を揺るがす素材が、遺伝子組み換えによって創作された。毛髪に蓄積されない麻薬の素材を作るのに成功したのだ。創作したのは台湾の二流私立大学の植物博士である。その者は名声よりも私服を肥やす選択をした。学会で公表するよりも裏社会に、その素材の種と栽培ノウハウを売ろうとしたのだ。しかしながら裏社会との取引ノウハウを知らない植物博士は、素材の原種を奪われ、あっさりと殺された。手に入れたのは台湾マフィア組織の「青蛇幇」であったが、素材の原種は簡単に栽培できる代物ではなかった。青蛇幇は、その原種を台湾内で栽培し増やそうと試みるが、台湾の風土や水に合わず、悉く失敗に終わる。原種があれば簡単に栽培増産できると思っていた「青蛇幇」は、後になって遺伝子操作の研究資料を確認するが、肝心な所がデーター保存されていなかった。

 植物博士が殺された時点で、頭目は、博士の唯一の研究助手だった向 思宏(シャン・スーホン)を、シンガポールにて保護していた。保護の指示を出した当時は、何故、向 思宏を手厚く保護するのか、理解できなかった我ら。向 思宏自身も当時、「先生は遺伝子配列を一切見せてはくれなかった。先生だけしかその配列を知らず、先生が殺された今となっては新たに原種を創作する事はできない。」と言い、保護する価値がある者とは思えなかった。それよりも「青蛇幇」にアプローチをかけ、まだ残っている原種からどうにか栽培増産する施設の創設と新麻薬の売買ルートの確立をする方が急務と思えた。

 頭目は、「青蛇幇」がまだ原種を手に入れていない頃から我に、監視と内部通報者の確立を指示していた。それで、我は3年前から飛燕を潜入させていたのだ。

 素材の原種が、他国では簡単に栽培増産できないと判明した今、向 思宏は、栽培方法知る唯一の人間となった。遺伝子配列により生み出された新麻薬は、中国四川から取り寄せた水と土を使って室内栽培されていた。それらは手厚い保護の間に知り得た情報である。その情報を得た頭目は、私財を使い、新種の新麻薬栽培及び精製工場を作った。今思えば、その時期から頭目は、黒龍会の勢力を弱らせる方向ではなく、黒龍会を潰す方向へと戦略を変えたのだろう。

 台湾での栽培を諦めた「青蛇幇」は、残り少なくなった原種を高値で売りさばく決断をする。「青蛇幇」では、四川に進出して新麻薬を栽培増産する事は無理であった。中国全土の裏社会を牛耳る黒龍会の縄張りを、荒らす事など自殺行為に等しい。立ち向かえば壊滅させられ、台湾の縄張りも乗っ取られる事は、目に見えている。ならば売るしかないとなった段階で、頭目は新麻薬の存在をロシア最大のマフィア組織オルゲルトのブラトバに情報を流した。四川に工場を作っている事を含めて、香港麻薬市場をブラトバに握らせ、黒龍会潰しを狙う。

 それらの一連の計画を、教授されて動いてきた我だったが、どうにも、昨今の頭目のやり方には無謀な事が多くみられ、違和感を生じ、その気持ちを柴崎凱斗に話すと、頭目が実は、李家の血筋を引いた、レニーのビジネス策略で生まれた者であると聞く。増々、我は、黒龍会に深く根付く李家をこれ以上、抹消し、潰すわけにはいかないと考え至る。老舗の信頼ほど裏市場に必要不可欠な事はない。それは、約十年、香港を拠点に、裏社会で生きて来た我自身の実経験に基づく。

 我は密かに、任された四川の主要当局の人事を、頭目の考えとは違う目論見で配置してきた。

 頭目は、ロシア、オルゲルト本部とは親密な関係を築いているようであるが、香港に進出してきているブラトバ派のボスとは今一つ良い関係を築き上げられていない。ブラトバのボスが、頭目の嫌いな風貌である事から、致し方ない面があるが、ただ風貌が嫌いなだけで、信頼関係の築きに手を抜く愚かさは頭目にはない。別の理由に、ブラトバは、重要な麻薬取引の現場で失敗を繰り返していた。それが互いの不信感につながっている。その失敗の原因を作っているのは、実は我だった。

 我は聞き入れた麻薬の闇取引現場を荒らし回った。顔を隠して全身黒い服で荒らし回っていた為、影、悪魔と言われて気味悪がられ、最近では「チェルノボーグ」と叫ばれるようになった。調べてみると、「チェルノボーグ」とは、ロシアのスラブ神話に登場する死神であり、黒い神であるそうだ。云い得て妙である。

 アジア全般の裏社会の監視及び、四川の新麻薬精製工場に関した人選確立などの根回しを一任されていた我は、その立場を利用し、裏切る事になる事は必至承知で、四川省、警察、水道局を含む各局長を黒龍会の息のかかった者を就任させた。その者達は、我の言いなりに出来る者である。いつかは頭目に悟られ、説明しなければならない事は覚悟していた。就任し揃えて稼働すれば、ブラトバよりもスムーズな運営が出来る。結果で説得できればと思っていた。しかし、事はそう上手くは運ばない。「青蛇幇」が思いのほか新麻薬の栽培を諦めなかった事に加え、売手の選択に時間を要した。オルゲルトか、黒龍会か、どちらを選択しても、その後のリスクが伴う。「青蛇幇」は、実は厄介な物を手にしてしまっていたのである。

 我がレニーの権限をはく奪された後、新麻薬の栽培方法を唯一知る向 思宏は、保護されていた場所を移され、我はその居場所を知る由もない。四川の新薬精製工場周囲の人事も変更されるかと思いきや、それはまだ変えられていない。

『四川の布陣、お前の思考通りにやって見ろ。』と言われた通り、試されているのだろか。言葉通りに受け取っていいのかわからない。このまま、我の敷いた布陣で成功すれば、また頭目の下に戻れる?などと甘い考えが、頭目には当てはまらないのは、十分に知り得ている。最たる時を見据え、ここ一番で奪い潰すのが頭目のやり方だ。我など簡単に切り捨てるだろう。神皇家との縁の切れる我の存在は、頭目にも無価値になりつつあるのだから。

―――もう、身を引き、頭目の息のかからない場所で静かに暮らせばいい。―――

 そんな場所が世界にあるだろうか。いくつもの秘密裏を知る我を、頭目が生かせておくはずがない。レニーの情報部を駆使して我を探し出し、この世から抹殺するのはたやすいことだ。左目の力でそれを回避するのも限界がある。古めかしい術よりも、文明の利器の方がはるかに優れているのだから。

 何よりも、やってみろと言われた事から逃げる事などしたくない。その点でいえば、我はまだ頭目の指令を受けて動いていると言える。結果、その頭目に切り捨て抹消さる事になろうとも、我は頭目と対峙したい。









 棄皇がレニーの権限を剥奪されて5カ月が経った。レニー・グランド・佐竹は変わらず、ロシア最大のマフィア組織、オルゲルトのブラトバの香港麻薬市場拡大に手を貸し、四川の麻薬精製工場の稼働開始に向け、各当局の根回しに動く。

 棄皇が配置した人事は、即座に解雇して自身の手駒に就かせるかと思いきや、全く変えなかった。後に変える計画があるのかどうかは知らないが、早々の人事変更により精製工場の存在を、世間に知られてしまうのはまずい。意に反した布陣であったとしても、麻薬精製工場として上手く稼働する方向で、ブラトバとの関係は調節したようだ。

 それに、腐っても李家である。この中国流通網の基盤を作った大連流通の李家の力は、私怨があっても認めざるをえない。何はともあれ、レニー・グランド・佐竹は、すべてを考察し直し、期を狙っているに違いない。そして、結果、すべてがレニー・グランド・佐竹の利潤となるだろう。

 チェス盤が

 凱斗の白の陣営は次の手が出せない。だがしかし、白のキングはチェックメイトされてもいない。

英「ステイルメイト・・・」

 若干の驚きを噛みしめながら、凱斗はその単語を口にする。

 佐竹は微笑んでサイドテーブルに置いてあったブランデーの入ったグラスを手にする。

 レニー・グランド・佐竹とのチェスに、これまで何度も手合わせして勝った事がない。文字が記されている将棋なら一手からの配置を記憶できるので、手本などを照らし合わせて勝つこともできるだろうが、チェスはそうもいかず。

 そこそこに手合わせできるクレメンティもレニー・グランド・佐竹には勝った事がないと聞く。

 ステイルメイト、これは完敗であり、この布陣になるように仕組まれ誘導されたゲーム、そしてサインだ。

「強くなったではないか。」

 ミスターは言語を日本語に変える。

「手加減されたのでしょう。」

「いいや、てこずったから47手もかかった。昔なら27手で白のクイーンを取れていたのだが、それが出来なかった。それが敗因だ。」

 凱斗は自身の陣営であった白のクイーンを手に取る。マホガニー製の台座に真鍮の王冠が組み合わさっている。それをひねり回して取ると、中に小さな紙が入っている。そこには日本人にも人気のリゾート地フィリピンのセブ島にあるホテル名と部屋番号が記されていた。

「ポーンをビショップに昇格させたのは良い手だ。」

 ポーンをビショップになど昇格させていない。凱斗は一般的に最適と言われるクイーンに昇格した手を使った。

 佐竹は微笑んだまま凱斗の視線を確認してから、白のナイトを手に取り、黒のビショップの横に置いた。そして、盤から他の駒を丁寧に降ろしていく。やがて盤の上には両カラ―のキング二つと、先程移動させた黒のピショップと白のナイトのペアだけが残った。

「次はキャスティングを教えよう。」

 ミスターは日本語らしい発音で、そう答えた。チェス用語であるキャスリングとキャスティングを掛けたのだ。

 レニー・グランド・佐竹は、並ぶ黒のビショップと白のナイトを掴み、対局する両カラーのキングの間に移動させた。

「いつですか?」

「一週間後の11月25日。青蛇は黒を選ばなかった。」

「そうですか。」

 これは指令だ。ここレニー・グランド・佐竹の家は、盗聴などのセキュリティは定期的にチェックして完璧に施しているが、それでも用心深く隠語を使い、裏の仕事の指示を出す。その会話術も感心するほどうまい。

 凱斗はクイーンから出て来た紙をチェス盤の横に置いてあった灰皿に乗せる。シガ―ケース引き寄せ、オイルライターを取り出し焼いた。紙は燃え消えても、凱斗の頭の中の記憶は一生消えない。つもり溜まる一方だ。

「良いのですか?私に教えて。」

「それで、私が負けるとでも?」

「そうですね。あなたに太刀打ちは出来ませんね。」

 佐竹はソファーの背に深く沈み、肘をつく手に持ったグラスを耳の横で振った。より一層柔らかい微笑みを凱斗に向け、澄んだ音が品よく鳴る。

 凱斗は理解する。レニー・グランド佐竹は楽しんでいる。そして待ってもいるのだ。予想の範疇を逸脱したゲーム(世界)を。勝ちがわかっているゲームほど、つまらないものはない。


 一週間後、凱斗は指示されたフィリピンのホテルへ、向 思宏(シャン・スーホン)を迎えに行き、香港へと連れて来た。凱斗の役割は向 思宏(シャン・スーホン)の護衛である。

 台湾の青蛇幇は、新麻薬の原種の売買相手に、ロシア最大のマフィア組織、オルゲルトのブラトバに決めた。ロシア最大は世界屈指とも言える。言語の壁はあれど、その世界屈指の力量にかけたのであろう。黒龍会と取引すれば、黒龍会共々、世界屈指に潰される。台湾の青蛇幇は、より生存率の高い方との取引を選んだのだ。

 取引商品である新麻薬の原種が本物であるかどうかは、向 思宏(シャン・スーホン)しかわからない。取引の場において、向 思宏(シャン・スーホン)自身が判別することが必要であり、ロシア最大のマフィア組織、オルゲルトのブラトバから向 思宏(シャン・スーホン)を匿っているレニー・グランド・佐竹へと依頼が来たのだ。

 正直、凱斗自身は、新種の原種がどちらの組織に売り渡されるのがいいのかわからない。どちらの組織が新麻薬の流通基盤を広げても、レニー・グランド・佐竹の立ち位置、誇示する力は変わらないだろう。だから、結局これは、レニー・グランド・佐竹と棄皇の気持ちの置き所でしかないように思う。

 そんな凱斗の思考を見据えて、向 思宏(シャン・スーホン)の護衛を任すあたり、レニー・グランド佐竹には敵わない、食わせ者だと思う凱斗だった。

―――お前は、どっちに就くのだ。と暗に問われている。

 棄皇に就くのか?

 レニー・グランド・佐竹に就くのか?

 迷っているのではない。またもや、行き詰まるばかりの自分の立ち位置が、嫌になってくるのだ。かといって、自分は前線を進み周囲を導く資質のある人間ではないのは知っている。

英「ステルスメイト・・・」

 凱斗は大きなため息をつく。

英「えっ、な、何ですか?」

 前を歩いている向 思宏(シャン・スーホン)が振り向く。声に出ていたようだ。

英「何でもない。とにかく行け。」

 向 思宏(シャン・スーホン)は怯えた足取りでのろのろと進み、本当にこの先で良いのかとまた振り向く。

英「前を向け、その怯えた態度が目立つんだ。」と背中を押せば、変な悲鳴を上げる。

英「ったく・・・」

 桟橋の下から聞こえて来る波音に、その悲鳴は消されるとはいえ、凱斗は念のために周囲を見渡し、こちらに注意を向けている者はいないかと注意を払う。

 この男、向 思宏(シャン・スーホン)は、殺された博士の助手として働いていただけの運のない一般人だ。まさか自分が裏社会に影響を及ぼす新種の種を見分けられる唯一の存在になると思わなかっただろう。その境遇には同情するが、態度には同意できない。 

 タイのホテルに来る前も、レニーホテルの一等客室に滞在させていた。約3年に及び、そういった贅沢な待遇を与えて、調子に乗った向 思宏(シャン・スーホン)は、迎えに来た凱斗に対して、横柄な態度を示したのである。

 レニー・グランド佐竹からは、丁重に扱えとは指示されていない。凱斗は怒り、向 思宏(シャン・スーホン)の胸ぐらを掴んだ『俺はただ取引現場にお前を連れていく事だけを指示されている。種の査定が終えた後、生きてその場から帰りたければ、口の利き方と態度に気をつけろ。』と脅したのだった。おかけで、凱斗のため息にすらも怯えるようになってしまった。その怯え方も鼻につく。

 ここは香港島側のヨットハーバーである、昼間に小型のボートを借りていた。ここから対岸に見える九龍島側の黄龍尾埠頭へとボートで向かう。

 黄龍尾埠頭は、半年前に埋め立て完成したばかりの人口埠頭で、細長い土地に倉庫が立ち並ぶ。稼働したばかりで、企業誘致が未完で、夜は完全に無人になるとはいえ、あまりにもおざなりな取引現場に、凱斗はもう苦笑するしかない。

「誰があんな場所を指定したんだか・・・」

英「え、な、なんですか?」

英「さっさと乗れっ!」

 向 思宏(シャン・スーホン)の尻を押し蹴った。向 思宏(シャン・スーホン)は、また不愉快な悲鳴を上げて、ボートに転がり落ちた。

 黄龍尾埠頭は、九龍島の市街地と5㌔もなく二つの橋で結ばれている。これはビジネスとしては利便性がいい最高の立地だが、闇取引には最悪な場所だ。二つの橋を封鎖されたら逃げ道がなくなる。だから凱斗はボートで向 思宏(シャン・スーホン)を取引現場へ連れて行く事に決めた。種の査定が済んだらまたボートで対岸へと連れて帰る。それだけだ。

 一つ不安な事があった。それは、棄皇がどう動くかだ。

 種は、黒龍会も欲しい所だ。だがここで取引を邪魔するのは得策ではない。四川の工場及び密売ルートは黒龍会が持っているようなものだ。種が四川でしか育たないという特徴がある限り、辛抱強く待てば、結果、周り回って黒龍会の手中に来る事になる。今、台湾の青蛇幇とロシアのオルゲルトとの取引を妨害する利点などない。取引後、オルゲルトが四川に進出して来た時に、初めて防戦すればいいのだ。

 だが、棄皇はレニーの権限を剥奪されても尚、オルゲルトの香港進出をかき乱している。餅は餅屋、香港は香港の老舗が裏社会を牛耳るべきとの考えは明快で、確かにレニー・グランド・佐竹の策略の方が無謀だろう。だが、規格外な未来予想図を描ききるのがレニー・グランド・佐竹という人物だ。だからこそ、50の若さで世界のレニーの大陸の一つを手に入れられた。

 宣戦布告がされたこれらの状況に、棄皇が大人しく引き下がって静観する思考ではない事を、凱斗は十分に知っている。ボートを運転しながら、棄皇の携帯にかけた。コールもせず、「この電話は繋ぐことが出来ません」とアナウンス。凱斗は舌打ちをして携帯を懐に仕舞った。着信拒否されている状況が、棄皇もまた、今日のこの時間を邪魔されたくない重要だとしている事だと推測し、凱斗は嘆き天を仰いだ。

 東の空に満月に近い月を見る。その月を見て、何故か随分昔の事を思い出した。

 常翔学園の屋上で、虚ろな表情で月明かりを浴びるりのちゃんは、とても美しかった。あれは何年前になるか?記憶にあるりのちゃんのプロフィールから算出して、16年の年月を導きだす。

「そうか、棄皇はりのちゃんと同じ誕生日だった。」

 凱斗のつぶやきに、向 思宏(シャン・スーホン)が、また怯えの顔をこちらに向けてきたが、もう「何ですか」とは言わなかった。

 二人とも30歳の誕生日を迎えた。

「大人になったんだな。」

 湧き起った感慨深い気持ちが治まりきらずに、目的の場所が見えて来る。もう既に埠頭沿いの倉庫立ち並ぶ場所に、二つの陣営がある。様子からして、向かって左が台湾の青蛇幇。右がロシアのオルゲルト、人並ぶ体格が対照的だった。

英「さっさと終わらせるぞ。」

英「ちゃんと、守って下さいよぉ。」とボートを操作する凱斗の腕に縋りつく向 思宏(シャン・スーホン)。

英「防弾チョッキ着てるだろう。」

英「頭はどうするんですかっ、頭を撃たれたら死にますよ。」

英「これでも被っとけ。」とシートの下に収納されている救命胴衣を引っ張り出して押し付けた。

英「こ、こんなんじゃ・・・」

英「黙れ、その口叩き潰すぞ。」

 凱斗は、ポケットから黒のニット製の覆面を取り出し被った。身元は隠しておきたい。両陣営から目をつけられ、凱斗まで命を狙わる事になったら、棄皇を守りづらくなる。









 レニー・ライン・カンパニーアジア大陸総本部のビル、最上階の私の部屋からは、香港九龍島の港がよく見える。

 観光客相手に音楽に合わせて、色とりどりにビルをライトアップされるシンフォニーは、品なく醜悪であるが、乗じて闇を隠匿すると思えば必要性は認めよう。

 半年前に完成された黄龍尾埠頭も、夜目に慣れてくると輪郭が視認できてくる。ここからだとペンケースほどの大きさで、微かに、車のヘッドライトと思われるライトが岸壁沿いに点在し移動するのが見て取れた。

英「グランド様?」

英「何だ?」

 振り向けば、クレメンティは眉間に皺を寄せて渋い顔をしている。そして呼んでおきながら、その先を話そうとしない。もう一度、「何だ」と促してクレメンティはやっと口を開く。

英「その・・・やはり一度、検診に行かれた方がよろしいかと。」

英「何を突然に。」

英「突然に歌われたのはグランド様です。」

英「・・・。」

 どうやら、脳内で奏でていたクラッシックが口に出てしまっていたようだ。

英「歌を披露して、検診に行けとは心外だな。」

英「今までなかったことです。ご自分が口ずさんでいる事もお気づきになられていらっしゃらなかったでしょう?」

(全く・・・。)

 ここ最近のクレメンティは、何かと私を老人扱いする。

英「それぐらい、人生を謳歌しているのだ。」

英「それは、それは。とても良き人生で何よりでございます。」

英「クレメンティ、お前も、こんなオフィスで煮詰まっていないで、もっと遊べ。」

英「これらの仕事を押し付けているのは誰なんでしょうかね。」

 クレメンティは目を剥いて頬を引きつらせる。

英「誰だろうなぁ・・・あははは。」

 クレメンティは大げさなため息をついてパソコンへと向き直る。

 私はまた大パノラマの景色を望み、脳内で奏でていたクラッシックはクライマックスを迎える。

「さあ、キャスティングは万全だ。思う存分踊れ。そして私を楽しませてくれ。」












 潮風に靡く髪を手でかき集めてゴムで結んだ。髪は、頭目にレニーを首になって半年が経ち、散髪しないでほおって置いたら結べる長さとなっていた。我を取り巻く縁の結びは、解かれて行くばかりだと言うのに皮肉なものだ。

 片耳に装着したイヤホンから、ピピピとメールの着信を知らせる音がする。取り出して確認すると、携帯電話会社からの知らせだった。

【着信拒否された方からの着信あり。柴崎凱斗。】

 相変わらずのお節介に、ため息を吐いた。

(もう我などほおって置けばよいのに。継嗣を放棄した我を保護する価値も使命もなかろうに。)

 それが出来ないのが柴崎凱斗の優しさであることは十分に知っている。柴崎凱斗の立場を考えれば、レニー・ライン・カンパニーアジアの代表である頭目と敵対する事は回避しなければならず、柴崎凱斗は頭目側に就く事が最善であるのに、こうして連絡をしてくるという事は、まだ迷い、完全に決断できずにいる様子。おそらく事起こっても、柴崎凱斗はどっちにも付かずの行動をとる。それもまた、頭目の見通し通りであろう。そして頭目は、柴崎凱斗をうまく利用し誘導する。人に誘導される事で居場所を作るのが、柴崎凱斗の人生の特徴でもある。

 携帯を出したついでに、一つメールを打っておくことにした。もう何度も念押しの指示をしていることであるが、再忠告だ。

【何が起きようとも、お前は何もするな。身の安全を第一に、逃げ道だけは常に考えておけ。】 

 返信の代わりに、西から二台の車が入ってくる。その車は飛龍の潜入調査の報告通りに、倉庫9番の前で停止しヘッドライトを消した。取引時刻の10分前だった。まだ早いからか、人は降りてはこない。飛龍はおそらく、後ろの車の運転席にいるであろうと凝視したが、全く見えなかった。 

 5分前になって南から三台の車が入って来て、11番倉庫の前で止まった。南から来た三台の車は、ロシア最大のマフィア、オルゲルトの一派ブラトバ勢。ヘッドライトを消さず、すぐに中から人が降りて来る。総勢6人共に黒いスーツを着ていて、特定の人間を保護するような素振り見せていない事から、ブラトバのボスはこの取引現場に来ていない事を見てとる。

 対する青蛇幇は、ボス自らこの取引現場に来ている。それが組織の大きさの違いである。

 青蛇幇の方も車から人が降りて来る。こちらも6人。車の台数までは指定されていないが、互いに6人までと決められた取引である事も、飛龍から報告を受けて知っていた。

 青蛇幇側の取引現場に立ち会う人間は、全員が中華系で中国語が母国語である事も調査済みだ。左目の力で動きを制御できる。問題は、ロシア勢の6人。飛龍が、「いざとなれば、私が応戦、盾となります。」と言ったのを、それは絶対にするなと警告していたのだが・・・命令を守れるだけの忠誠心であれば良いのだが。飛龍が無意識で動いてしまうのを懸念していた。

 10番倉庫の屋根に身を伏せ、我はその布陣を見届けてから下に降りようとした時、軽い動力音のようなものが聞こえて来る。倉庫下にいる青蛇幇とブラトバ達に気づかれない様に、体を起こし音の正体を探すと、正面、海側から、小型のボートが一隻、近づいてくる。船体が白いのでよく見えた。ボートは接岸し、運転していた者ともう一人、岸壁の上へと上がって来る。その二人の動きを、ブラトバ勢、青蛇幇の面々が一定の距離を保ち静観している状態だ。ボートを運転している者は、頭に黒いニットの覆面をしていたが、慣れ親しんだもので、背格好から柴崎凱斗だと、すぐにわかった。柴崎凱斗の後ろに隠れおびえた様子でいるのは、向 思宏(シャン・スーホン)だ。何故か救命胴衣を頭に被っている。

(頭目も人が悪い。向 思宏(シャン・スーホン)の護衛に、柴崎凱斗を使わなくても・・・)

 舌打ちをしそうになって食いしばる。我は急いで後退し、10番倉庫と11番倉庫の間に音を立てずに飛び降り、用意していたモトクロスバイクにまたがった、所で、イヤホンから呼び出し音に着信し、応答せず着信したままの携帯を懐に仕舞った。

 着信相手は飛龍である。飛龍は、三年前から青蛇幇に潜入し、ボスに上手く取り入り、運転手兼ボディガードとして認められていた。この取引現場に随従する事も許され、取引商品を持ち、10番倉庫前に置くという大役を任せられている。

 大役と言えば聞こえは良いが、危険を晒す捨て駒にされているのだが、そのおかげで、こうして着信したままの携帯から状況を伺える。

 ガサガサと少々耳障りな雑音が入る。リズム的に歩いているとわかる。ロシア側の人間も銀色のジュラルミンケースを持った一人が歩いてくのが倉庫の隙間から見えた。コトンと音がする。飛龍が新種の種の入ったケースを置いたのであろう。ロシア側の銀のジュラルミンケースの方が大きいのは、中に金塊が入っているからだ。新種の種は金塊4本と取引する。約2億円換算。

 少し経ち、「種が入っているのは黒く小さなケースの方です。対してロシア側は銀色のジュラルミンケース。互いに物から10メートルほど離れて向き合っています。向 思宏(シャン・スーホン)が査定を始めました。シャンには覆面の男が一人、付いています。」とささやく声。

 飛龍に、柴崎凱斗を面通しさせていないが、互いに存在は知っている。しかし、向 思宏(シャン・スーホン)の付き人が柴崎凱斗であるとはわからなかったようだ。

「査定が終わりました。」と飛龍の囁きに続いて、

英「本物だ。間違いない」と向 思宏(シャン・スーホン)の叫ぶ声。

「向 思宏(シャン・スーホン)が付き人の男と共にボートに戻ります。」

 ボートのエンジン音が大きくなったのと同時に、我はバイクのエンジンを起動させ、すぐにアクセルを全開にする。反動で体が後ろに持っていかれるが強引に伏して一気に加速、狭かった視界はすぐに開ける。

 ターンしてロシア側へ、慌てたロシア勢の者達が我のバイクを避けながら懐に手を入れる。

露「チェルノボーグ!」

 ロシア側の者達は闇雲に拳銃をぶっ放し、自身が乗って来た車にも跳弾するが、防弾仕様とあって、流石にガラスは割れない。

露「チェルノボーグ!」

 ロシア人達をバイクで蹴散らせながら、またバイクをターンさせる。

 あちこちから銃弾が掠め飛んでくる。こうなれば銃弾が当たるか当たらないかは運任せ、我はその運が良い事を知っている。

 金塊を運んだロシア人の一人が、二つの鞄を抱えて逃げようとし、もう一人は我に銃を向け発砲した。青蛇幇は、飛龍も含めた全員が、状況が把握できずにいる様子で、立ちすくんでいる。

 我に向って発砲するロシア人達。二つの鞄を抱えて逃げるロシア人の背にバイクで突っ込んだ。ロシア人は喘ぎ声を出して吹っ飛び、二つのケースは路上に転がり落ちる。飛龍の報告通りに、種の入っている方は、30センチ四方ほどで小さく軽い。転がる種のケースをバイクにまたがったまま拾うと、青蛇幇の者がやっと我に返ったかのように、懐から拳銃を取り出し発砲して来る。脇腹や腕を銃弾が掠めて行くが、服を裂くだけで重症な傷を負いはしない。

「棄皇様!」

「棄皇!」

 飛龍と凱が同時に我の名を呼ぶ。そして、サイレン。香港警察の車両が西と南から多数押し寄せて来る。

 (誰が通報したのだ?)

 撃ちあいになっていた銃声は止み、両陣営の者達は車両へと戻り逃げはじめる。

 我に轢かれ転倒していたロシア人が起き上がり、悪あがきに我に銃を向ける。飛龍がバイクの前に飛び出して来て立ちはだかり、そのロシア人に応戦して銃で撃とうとする。我は飛龍の腕を掴みバイクで一周回った。手からケースが落ちて転がると共に、飛龍も尻餅をついて転がった。ロシア人が発砲した弾は、バイクの側面に当たっただけ。

 青蛇幇の他の者達は、車に乗り込み、警察が塞いでいる道へと突っ込んで行く。ロシア人達は、乗り込んだ車で我に向かって来る。驚愕に見上げたままの飛龍に左目の力を使い命令する。

【混乱に乗じて逃げ、青蛇幇から脱せよ。】だが、向かって来るロシア勢の車のせいで術を完結することが出来なかった。

「棄皇様!」

 ロシア人が乗った車は我のすぐそばで止まり、ドアが開いて、落とした種のケースに手が伸びる。我はその扉を勢いよく蹴り閉めた。ドアに手を挟んだロシア人の叫び。再び我は種のケースを拾いバイクを走らせたが、もう一台のロシア勢の車に進路をふさがれ、衝突し、バイクごと転倒する。すぐに立ち上がったが、車窓から体を乗り出し発砲の銃を向けられる。

 とっさに種のケースで身を防いだ。弾かれてまた路上に落ちた種のケース。

 南からの警察勢が派手な忠告をしながら、迫っても来る。ロシア勢は警察へも容赦なく発砲。

 混沌とする取引現場。

「棄皇!」

 ボートを旋回した柴崎凱斗が海から手を振り叫ぶ。

「こっちへ!」

 我は三度目、種のケースを拾いボートの方へと投げた。

「えっ!うわっ、これじゃないっ」と驚き慌てふためていたが、ちゃんと受け取った柴崎凱斗。

「ロシア勢には渡すな。それを持って逃げろ!」

 この中で日本語などわかる奴などいない。柴崎凱斗が覆面してこの場に居合わせたことは好機になった。

露「貴様!」

 ロシア勢の者達は、車から出て来て、柴崎凱斗に向けて発砲し出した。

露「殺せ!」

 ボートのフロントガラスが割れて、向 思宏(シャン・スーホン)は悲鳴を上げて船底に身をかがめる。柴崎凱斗も身をかがめながらボートを操縦し、埠頭から離れた。それでも、柴崎凱斗達に向けて発砲するのをやめさせようと、一人のロシア勢の者に蹴りを入れたが、相手が避けて距離が足りず、体勢を崩しただけとなった。すかさず銃を向けられ、上半身はよけられたが、弾は太ももを掠めて皮膚が吹っ飛んだ。

「棄皇!海へ飛びこめっ!」と柴崎凱斗。

「無茶を言うな。」

露「チェルノボーグ!何度も何度も邪魔をっ、地獄に帰れっ」

 今度は外さないとでも誓ったのか、ロシア勢の男は両手で銃を構えた。

 こんな場所で我は死なない。それを我は知っている。

 なぜなら、我は神の子、神皇家の血筋であるから。

 神の子神皇は絶えることなく続く。

 それがあの国の民が貪欲に望んだ奇跡。

 我は身を低くして男の懐へと突っ込んだ。放たれた銃の弾は、やはり当たらず空を裂く。

 腰から引き出したナイフで男の首をめがけて刺し入れた。

 銃を過信する者は接近戦に弱い。太く切りにくかったが、押し倒しながらナイフを薙いだ。

 吹き出す血に驚いたロシア人の男は、すぐに失神する。

露「チェルノボーグ!を殺せっ」

中「逃げ道はないぞ、手を上げ、発砲はやめろ!」

「棄皇!海へダイブしろっ」。

 多国言語が叫びかう混沌。

「何してるっ早くっ」

 柴崎凱斗は銃弾が当たらないようにボートを蛇行させながら、銃で応戦している。

「駄目だ。我は泳げぬ。」









「は?」

一瞬、理解が追い付かなくて、銃弾を避ける為に蛇行操縦する手が止まった。

(泳げない?今や俺より強く俊敏の棄皇が?)

と問うて、棄皇が普通の教育を受けてこなかった生い立ちを思い出す。まさかの事態。

 埠頭から離れていた船体を岸へと戻すと、向 思宏(シャン・スーホン)が凱斗の腕に縋りつき、泣き叫ぶ。

英「どうして戻るのですか!早く逃げましょう。」

 銃弾がすぐそばで爆ぜた。向 思宏(シャン・スーホン)が悲鳴をあげる。

 警察も凱斗たちをマフイアの仲間だと思って、容赦なく撃ってくる。

 レニー・グランド・佐竹が護身用に用意してくれたサイレント銃の弾はすぐに無くなった。使う事はないと思いながらも念のために用意していた替えのカートリッジを内ポットから取り出そうとしたその時、銃に銃弾がヒットし海に落ちた。手の掌が切れて血が噴き出る。

 凱斗よりも先に向 思宏(シャン・スーホン)が悲痛の叫びをあげる。

「チっ!」

 無用の長物となったカードリッジを海に投げ捨てた。

「種を持って、逃げよ!」

 そう叫び凱斗達から背を向けた棄皇は、突然大きく弾かれた。

 警察のサーチライトが棄皇の姿を捉えている中、肩も脇腹も撃ち抜かれて吹き出す血しぶき。

露「チェルノボーグを殺せ!」

中「マフィア達を逃がすなっ、撃て撃て!」

 『無茶をする・・・』凱斗の苦言に棄皇はいつも『我は人に殺されはしない。この身に神の血がある限り。』と高飛車な表情を向けていた。

 確かに、神皇家の者は途絶えることなく継嗣が生まれ続く。世界でも類をみない最長の皇族である。戦国の世、幾度も政権奪取をたくらむ愚弄の民に命狙われた歴史があっても、神皇及び継嗣が民に殺されたという史実は無い。神皇崩御は天寿全うと祖歴には記されているという。そんな歴史を凱斗は完全に信じているわけじゃない。祖歴には偽りがあることを凱斗は知っている。だから、棄皇の過信を心配するのだが、棄皇に『無駄な心配はするな』と言われると、凱斗の憂いは一瞬で吹っ飛んでしまっていた。

「棄皇!」

 肩に続いて脇腹も撃たれ、よろめき後退した踵が車止めのコンクリートに躓いた。

 そして棄皇は海に落ちる。

「棄皇!今助けるっ」

英「どうしてっ、逃げるんですよっ、警察に捕まるっ」

向 思宏(シャン・スーホン)は凱斗が操作するハンドルに手をかけて、ぐるっと回した。

英「何するっ」

英「逃げるんですよっ」

 ボートは大きく揺れて旋回し、東の空に大きな月が見えた。







英「何かあるんですか?」帰り支度を始めたクレメンティが上着に袖を通しながら、そばに立った。

英「いや・・・賑わしいな、と思って。」

 クレメンティは、窓の外へと覗き見たが、わざとらしく首を横に振って小憎らしい表情をした。従順過ぎた敬いは、今はどこへやら。そんな態度が目に付くようになったのは、3年前、ミスりのへのプロポーズが失敗してからだ。あれ以来クレメンティは、僻みの思考と態度を、私の前でするようになった。

 真辺りのーーーークレメンティだけではなく、棄皇にも影響を及ぼした女。

 子供にしか見えぬ容姿であるにも関わらず、その頭脳、話術はロシアのエリート養成学校、マルコス・エンゲルス学校の首席と同等クラスだ。容姿が欧州人ほどにあれば、迷うことなく私のそばに置いていた。彼女は公私共に私のパートナーとなり、私史上最高の、そして最長の女となっていたであろう。

 3年経っても尚、思い出し、あの時、船から降ろさなければよかったのか?と意味のない思考をしてしまう。

 クレメンティが言うように、私は老けたのだろうか。

 それとも、ミス・りのは、私にも影響を及ぼした、のかもしれない。

英「では、帰ります。」

英「ああ、お疲れ。」

英「失礼します。」

 企業誘致が遅れまだ稼働していない黄龍尾埠頭。いつもなら漆黒の闇に埋もれているだけが、今日は騒がしい。赤と青の光が忙しなく点滅する群集が連なっている。まるで深海魚のようだ。

 警察は私の通報をちゃんと信じ、私の予想通りの行動をしている。それも当然だ。警察内部にも、私の息のかかった者を作ってあった。どう転回しようとも、欲しいものは手に入るよう展開する。それが私の流儀。 

(さぁ、棄皇、お前はどう展開する?)

 神の流儀を見せてもらおうか。

 顔を上げると視線の先に満月が出ていた。












 キーボードを打つのを止め、大きく息を吐いた。あと数十行で、この本の翻訳が終わるというのに落ち着かず、続けられなかった。立ち上がってベランダ側の窓を開けて空を見る。微かな潮の香りと共に、船舶の航行灯の点滅が動いているのが見える。

 胸の底からうずく興奮が、欲情となって沸き立つ。このような状態が最近、頻繁にある。原因は分かっていた。そして自分ではどうする事も出来ない。ただその興奮が治まるのを待つだけ。しかし、翻訳の締め切りは待ってくれない。その興奮を糧にしてやり遂げるしかない。

 またデスクに戻ってパソコン画面に向い、キーボードに指を置いた。


【6年ぶりに母国日本の地を踏みしめた。空港の床はゴミ一つなく輝いていて空気が澄んでいる。あまりにも違い過ぎる空港内の状況に戸惑いを覚えたが、どこからともなく懐かしい出汁の匂いが漂ってきて、「あぁ、帰ってきた。」と実感すると、涙が込み上げて来た。零れそうになった涙を腕で拭き、麗子さんの後について空港の外に出る。程よい湿度を含んだ風がリクの顔を撫でていく。モーター音を奏でながらモノレールが頭上を横切っていく。空港ターミナル前に停車している車はタクシーも一般車もモーターショウかと思うほどきれいに磨き上げられ、照明の光に輝いている。麗子さんは、そんな状況に足淀むリクへ振り向き、微笑してタクシー乗り場と促した。離発着のピークが過ぎた時間帯ではあるが、2台のタクシーが客待ちをしていて、その先頭に停車していたタクシーに、麗子さんと一緒に乗り込んだ。丁寧すぎる応答でタクシーは、無駄に明るい空港を背にゆっくりと走り出す。麗子さんが座る姿勢を直しながら、りくの様子を伺ってきたが、リクは顔を背け、車外の景色を眺めた。空に大きな赤い満月が見えた】

 

赤い満月にするか、ただ赤い月とするか、迷った。

原作では大きく赤い満月と記されている。だが直訳すると諄過ぎる。赤い月と訳する方が日本語的には綺麗だ。日本語で読む人が、赤い月がイコール満月だと想像できれば、赤い月と表したい。これは編集者と相談することにしよう。

明後日が締め切りである。担当編集者は必ず一日前に電話をしてくるので、その時に月の表現をどうするか決めてから翻訳を完了しても十分間に合う。今日の仕事はこれで終わりにし、書斎から出ると、リビングの中央でジョギングウェアを着た慎一が、ウェアラブルウォッチを腕につけている最中だった。

「あぁ、今から走ってこようと、コーヒーでも淹れようか?」

 毎日欠かさないジョギングに出ようとしているのに、私のコーヒーの御用聞き、相変わらず私ファースト対応の慎一。

「待って、私も走る。」

「仕事は?締め切り間近じゃなかった?」

「うん、あと数行で終わる。」

「そう、良かった。お疲れ様。」

 慎一は自分のことように破顔する。いつもながらだけど、暑苦しいと思う瞬間である。

 無駄に私に接近して触ろうとする慎一から逃げるように、私は寝室へと着替えに入った。

 慎一と結婚して2年になる。子供はまだいない。慎一が横浜を拠点にしている日本1部リーグチームと契約している事もあり、利便性も考えて横浜にマンションを購入して住むことにしたのだが、これが奇しくも凱さんが住むマンションと同じだった。引っ越す直前までそのことを知らず、後悔するも後立たず。幸い、今までにロビーでバッタリ会うなんて事がまだ一度もない。凱さんはミスター・グランドの正式な部下として忙しくしているそうで、この横浜のマンションには、ほとんど帰ってきていないようだ。

 胸の底にうずく興奮が治まらない。治める方法などなく、自分意思じゃない現象なのがとても腹が立つ。しかし、最近、このうずく興奮を利用し楽しむ事を覚えた。慎一のジョギングに付き合って走ったり、激しいセックスをすると心地よい。

 慎一のジョギングコースは決まっている。マンションから出て北西へ500メートルほどの海岸沿いに埠頭公園がある。北東に長い面積の公園で一周すると約1.5㌔。2周してマンションまで帰ってくると4㌔になる。それを横浜にいるときは欠かすことなく朝と夜の1日二回、慎一は走っている。

 朝はお断りだが、夜のジョギングに時々は付き合って私も走る。と慎一はとても喜び、増々張り切り、夜はいつになく獰猛なセックスになる。よくわからない法則。

「一周だけにしとくか?」

 埠頭公園の海側を走り始めると慎一がそう言って、私の顔を覗き込んでくる。

「どうして。」

「ここずっと、仕事詰めだったから、昨日もほぼ徹夜状態だったろ?」

「余計なお世話。」

「心配してるんだよ。」

 これも相変わらずの過剰な心配。

 遠征で長期不在でも毎日電話をかけてくる。結婚したら、そういうのは減ると思いきや、全く減らない。

 麗香は、「いつまでも熱々でよろしいじゃありませんか。」と言い。

 藤木は「新田のりのちゃんに対する愛は永久不滅で不変だからね。」と笑う。

 求めた安定は、少々暑苦しい。いつになったら私は慎一の過保護から脱却できるのか?

 慎一から逃げるようにスピードを上げた。

「あっ!そんなペースで走ったら1周も持たないぞ。」

英「心配無用。」

 走れる。今日はどこまでも。うずく興奮が私の足を動かす。

 いつもの通り、2周でマンションに向おうとする慎一を無視して、更に一周へと向かうと、慎一は苦言を発しながらも一緒についてきた。まだまだ走れたが、慎一が一度止まろうと懇願するので、仕方なく三週を走った所で、足を止めた。

「大丈夫か?」と言う慎一の方こそハァハァと息を乱しているくせに、私を窺うのはもう病気だ。

英「いらぬ世話。」

 かくいう私も、息の乱れが邪魔してはっきり言えなかった。

 足踏みしながら周囲を回る。公園には私たち以外誰もいない。肌寒くなってきて、紅葉も終わった。クリスマスのライトアップもまだの11月下旬に差し掛かった中途半端な時期だった。

「飲み物いるか?」

 慎一が、自販機を指さして聞いてくる。

「うん。」

 便利になったもので、ウェアラブルウォッチで物が買える世の中になった。スマートフォンで何十万冊の本が読め、私の翻訳もデーター化されて紙面に残ることも少なくなってきた。自動翻訳も簡単になり、私の仕事は減少していく一方かと思いきや、自動翻訳では文章の組み立てがうまくいかない事がままあり、幸いに仕事の依頼は途切れずある。

 海の方へと階段を下りていく。潮風は、汗をかいた皮膚にはあまり気持ちのいいものではない。

 東の空に月が出ている。白く輝く月の光は、地面に影を作れるほどに照度が高い。

 これから、月や星が綺麗に見える大好きな冬がやってくる。横浜は雪が降らないのが残念だけど。

 今年の冬は雪を求めてフィンランドへ帰ろう。そう誓った時、白い月が赤く染まった。

 (えっ?)







 海に落ちる間際、空に月を望む。

(あぁ、今日は満月だったか・・・)

 海は我を闇沈めるように、身体を纏わす。

(これが海の味・・・)

 辛いと辛いは、同じ漢字であることを妙に納得した。

 水面に届く月明かりが、赤く揺ぐ。

 海は我を闇沈めるように、身体を纏わる。

 重く、想いを、思う。

 途切れゆく意識の中で、

 死を認めた。

(りの・・・すまない。)








 レモン味と、ノーマル味、どっちか良かったのか聞き忘れた。りのに好みの法則がなく、勝手に買い渡すと、レモン味が良かったのにと言われる事がある。どっちが良いか聞こうと振り返ったら、りのは階段を下りた先の埠頭の間際に立ち、海を見ている。大きな声を出すには憚れる時間でもあり、声はきっと波の音に邪魔されて聞こえないだろうと思われる。さらに、聞こえたとしても、きっと、大きな声出さないで、非常識と叱られる決まっている。

 よって、どっちの味も買う事にする。ガコン、ガコンと連続してボタンを押したら、出口で詰まって取りだせない。しゃがんで扉を押したりしてやっと取り出せた。冷えたスポーツドリンクのペットボトルを二つ手にして振り返る。

 「えっ?」

 さっき確認した場所にりの姿がない。移動したのかと左右に顔を向けるが、りのの姿どころか人は一人もいない。静かな公園だ。まだ走り足りなさそうだった、だからまた、走り始めたのかと階段へと向かうと、埠頭の手前で倒れている人影を見つける。

「りの!」

 ペットボトルを投げ捨てて駆けつけた。

「りのっ、どうしたっ。」

 そう叫びながら、だから2周で止めさせていれば、いや、1周でも走らせなければよかった。と後悔する。うつ伏せで倒れているりのを抱き寄せ仰向けにした。

「りのっ、しっかりしろっ。」

 頬に触れて息をのむ。冷たい。

「う、嘘だろ・・。」

 人肌がこんなにも冷たいはずがない。額、頬、首、手と握って気づく。

 息をしていない。脈がない。

「嫌だ、りのっ、嘘だ。」

 そう叫びながら、落ち着け、しっかりしろと自分に言い聞かせる。

 心肺蘇生法は知っている。何度も講習と実習を受けている。

 額を抑え顎の先端を持ち上げる。胸の真ん中に手を重ね、リズムよく圧迫を繰り返す。

「りのっ息をしろっ」

 30回を数えて、人工呼吸。

 りのは息を吹き返さない。胸部圧迫イチ、ニ、サン

「誰かっ、誰かいませんかっ」

 周囲へと叫ぶも、こんな時に限って誰もいない。いつもなら犬の散歩をしている人がいたりするのに。

 30回を数えて人工呼吸。

「りのっ、死ぬなっ」

 心肺停止から1分経つごとに、生存率が10パーセント下がっていくと聞いた。だから救急車が到着するまでの心配蘇生が人の命を繋ぐと。絶対に死なせはしない。慎一は胸部圧迫をしながら、何とかウェアラブルウォッチで緊急通報をすることに成功した。

「こちら消防です、火事ですか救急ですか?」

「救急!妻が倒れて、息をしていない。すぐに救急車をっ」

「場所はどこですか?」

「埠頭公園の東、浜交差点から入った海岸近く、自販機があるところを降りてきて。」

「すぐに向かいます。落ち着いて、あなたのお名前を教えてください。」

「新田慎一、妻は真辺りのっ」

「奥様ですよね?」

「夫婦別姓を採用している。早く救急車をっ」

「わかりました。どのような状況ですか?」

「心肺蘇生と人工呼吸を2回繰り返した。それでもまだ息を吹き返さない。」

「そのまま続けてください。」

 すぐに救急車のサイレンが聞こえてきた。そういえば、ここからそう遠くないところに、消防署があったと思い出す。

「りのっ!」

 30回の胸部圧迫を6ターン繰り返しても、りのは息をしない。単純計算で、3分が経ったとしたら、生存率70パーセントまでに下がっている。そこに救命救急士が担架をもって到着した。

「代わります。」

 一人の救命救急士が心肺蘇生を代わってくれた。もう一人は意識の確認をしてから、AEDの準備を始める。慎一はりのの手を握った。冷たい手。

「ジョギングですか?」

「はい。」

「日課で?」

「はい。」と答えて慌てて訂正する。「いえ、妻はたまにで、最近はあまり、久しぶりだったんです。」

 救命救急士は、渋い表情でうなづきを返してくる。あぁ、それが原因だとでも言うように。

「助けてください。りのをっ」

 もう、懇願しかできない。りのがこの世からいなくなったら、想像しただけで慎一は恐怖で手足は震える。

「めくります。」

 容赦なくカップ付きのTシャツをめくり、慣れた手つきでAEDの電極パッドを胸に張り付ける。

 胸部圧迫が中断される。AEDの充電が完了して、【ショック可能です。患者から離れてください。】と機械音声が知らせる。

 講習会で教わった通りに、救命救急士は「離れてください」と覗いていた慎一に注意する。りのの手を地面に置いた。

「ショックを開始します。」と言った瞬間、ビーと不愉快な音がAEDから発せられた。講習会でも聞いたことがない音、

救命救急士二人も驚いて、AEDを確認する。

「ショック不要です。一時中断します。」と機械音声。

「は?何故?」とみんなで戸惑っている最中、りのがむくりと起き上がった。

「うわっ!」救命救急士もおののく。「どっ、どうしてっ」

「りのっ!よかったぁ。」

 りのを抱きしめると、堪えていた涙がこぼれる。

「新田慎一・・・。」

「そうだよ。そう。よかった。本当によかった。大丈夫か、苦しくないか?ちゃんと、息してるか?」

 りのの顔に触れる。暖かい。その人肌が、ちゃんと生きている証拠。

「えっと・・・奥様、本当に大丈夫ですか?」

 と心配して声をかけてくれる救命救急士に対して、りのは、目を細めた。

「日本語・・・ここは・・・日本?」






 混乱している。我もりのも。

 意識が、思考が、感情が、りのの体に混在していた。

 我は死んだーーーーだから、魂が分かれたりのの所へと移り合わさった。

 そう思考すると、りのの心は、怒りの混じった嫌悪でいっぱいになった。そして

「嫌よ。イヤ。こんな事なら私も死ぬ。」と叫び、救急車から降りて、海へと駆け出した。

「え?な、何っ、りの!」

 突然の事で誰もりのを追いかけられなかった。

 りのは、本気で海に飛び込もうとしている。りのは泳げるはずだが、今のりのの怒りと感情を鑑みれば、泳ぐ動作を放棄して本気で溺れ死のうとするだろう。 

 口を動かせたのだ。体も制御できるかもしれないと、意識を足に向けた。同時にりのへと語りかける。

『落ち着け』

 予想した通りに走りは歩みになり、新田慎一が追い付く。

「りの!」

「嫌だ・・・」

 りのは、自分の意識とは違った体の動きに驚愕し、震える身体を両腕で抱きしめながら足を見つめる。

「りの、頼むよ。さっきまで本当に心臓は止まっていたんだ。だからちゃんと検査しないと。」

「いや・・・」

 首横に振ってポロポロと涙を流すりの。

「どうしました?」

 隊員も追いかけてくる。

「りのは、その~救急車が嫌いなんです。救急車に乗らずに搬送って出来ますか?」

「は?」

 AEDを使用することなく蘇生したりの。驚いた救命救急士達は、脈伯などの基本チェックをしたが、どこにも異常はなかった。しかし、一度病院で検査をした方が良いと搬送することに。そんな話の流れになったのを、りのは我との意識の混在に混乱していて経緯を理解できていない。

 新田慎一は、りのが救急車で病院に行くことを嫌がっていると勘違いしている。

りのは、我の混在を拒否し否定する。しかし、どうすることもできない。そう語っても、その我が語る現象をおぞましく、嫌悪するりの。りのの体の中で、意識の違う意思が堂々巡りの争いになっていた。

 そうこうしている内に、病院への搬送は、りののカルテ情報がある彩都市の神奈川医大病院へ、タクシーで行くことになった。病院への受け入れ要請だけをさせられた救急隊員たちは、最後はもう苦笑に肩を竦めていた。

 時間が経つにつれ、りのの感情は落ち着いてくる。

 40分ほどかけて彩都市の神奈川医大病院に着いたころには、あきらめの放心状態になっていて、一言も言葉を発しない。

だから、新田や医師達の質問には我が答えた。

 検査の合間、新田は異常なまでにりのの心配をし、過剰な世話をする。緋連の生まれ変わりで、りのに寄り添う事を使命として生まれてきた新田慎一。それを受け全うすることが、次世に繰り返さない我々に課せられた宿命だと知っていても、りのの中でそれを体感すると、なんとも暑苦しいことこの上ない。

 検査は真夜中までかかり、担当医師は疲労気味の表情でりのの全身のCT画像を見ながら結果を語る。

「頭部、胸部から至る腹部に心配するような疾患は見られません。」

「本当ですか?」

「ええ、さっきまで心配停止だった事が、何かの間違いかと思うほどですよ。」医師は首をかしげながら苦笑する。

「でも、本当に息をしてなかったんです。脈もなくて、あっ、昔の傷が開いたとかありませんか。」

「昔の傷?」

「13年前、りのは心臓の附合手術をしています。ここの病院でしてますからデーターが残っているはずです。」

「あぁ、これですね。」医師はパソコンのカルテ情報を読み、もう一度CT画像を見る。「13年前のは、手術痕も残ってないぐらいに何もないですよ。」

「本当ですか、先生、後から後遺症とか出てきませんか。」

「ないですよ。」

「それよりもですね・・・」

「それよりも、なんですかっ」

 新田が食って掛かり、医師はおののく。

「いや、僕は産婦人科医ではないので、検査結果の断定ができませんので。」

「婦人科系、もしかして子宮がんとかですかっ、それとも乳がんとか。」

「いやいや、真辺さん落ち着いて。」

「新田です。夫婦別姓を採用しています。」

「そ、そうですか。すみません。」

 医師は迫ってくる新田を手で押しながら、立ち上がり、「今日は婦人科医が宿直していませんのでね。後日、検査を。」

「後日で間に合うんですかっ、今すぐに他の病院から婦人科の先生を呼んでください。」

「後日で大丈夫ですよ。」

「大丈夫って、先生婦人科じゃないでしょ。診る事が出来ないのに、そんな適当な事を言っていいんですかっ」

「だから、適当な事を言えないから。後日、」

「後日じゃなくて、明日にしてください。明日の朝いちばんに。」

「あぁ、はいはい。後は、看護師の島田さんに。」

 新田の滅茶苦茶な言い様に、逃げるように診察室から出ていく医師。

「先生っ」

 新田は産婦人科の診察を、ごり押しで朝一番に予約を取り、そして診察までの間にまた心肺停止もしくは急変したらどうするんだとごねて、りのを入院させるまでした。ここまで来ると、りのへの過保護ぶりは異常だ。そんなやりとりの間も、りのは全く言葉を発せず、意識を奥底に沈ませたままだった。

 個室のベッドをあてがわれたのは、もちろん新田の要求であったが、病院に管理されている真辺りのの個人情報に、華選及び、医院長の身内の表示が記されていたので、滅茶苦茶な要求に応じた病院側だった。

 眠れば、我の意識は消えてしまうのか?

 朝にはこの一つの体に二つの意識がある異常は解消されて、我の意識は完全に無になるのか?

 様々な事を考えて、りのも我も眠れなかった。朝方になってやっと眠れたが、一度マンションに帰った新田が朝早くに病室に来て起こされる。

 目が覚めても、我はりの中に居たままだった。









 気持ち悪い。あの人の意識が私の中にある。

 口はあの人の意思でしゃべり、手足もあの人の意思で動く。

 私の身体なのに、あの人の意識が優位に働いて動く。

 私たちは、一つの魂を分け生まれた。魂は同じなのに意識の強弱、優劣がある。私の方が劣勢なのは、私が後から発生した意識だからだ。

 分かれた魂を求めて移ってきた理由はわかる。だったら、さっさと私の魂を取り込んで乗っ取ればいいのに。こんな中途半端なのはどうしてだろうか。とても嫌だわ。気持ち悪い。

「りの、大丈夫。」と言う慎一の方が悲壮感が漂っていた。慎一は診察室まで付き添って、診察台に横たわる私の手をぎゅっと握る。

「あぁ、やっぱりそうですね。」

「そんなぁ・・・。先生、治るんですよね。最近は癌でも、ちゃんと。」

 慎一は苦悶に首を振ってから医師にすがる。

「癌じゃありませんよ。」と医師は笑う。「妊娠されています。」

「はっ?」

「えっとーご夫婦別姓でしたね。新田さん、真辺さん、おめでとうございます。ご懐妊ですよ。」

 懐妊・・・私も棄皇も驚きに声が出ない。

「それも、双子です。9週目に入るところですね。」

 双子。

 その言葉に棄皇の意識が激しく動揺した。

「やったー!」慎一は、万歳をして私に抱き着く。「やったーりのっ子供だ。」

 (子供・・・このお腹の中に。)

 私とは別の意思を持って生まれてくる命、しかも二つの・・・。

 棄皇と私、二つの新たな魂。

 そう思った瞬間、吐き気がした。

「りの!」

 診察台から飛び降りて、診察室を飛び出した。

「真辺さんっ」

「りのっ」

 一番近くにあった多目的トイレに駆け込み、カギを閉めた。

「りのっ」

 追ってきた慎一がドアを叩く。

「嫌だ・・・」

『なぜ、望んでいたことではないか。』

 棄皇の意識が私の口を勝手に動かし、独り言を発する

「やめて・・・」

『双子というのが気がかりだが。』

「やめて・・・」

『中々の命運だ。』

「やめて!」

 洗面台を叩き叫んだ。

「りのっ」

「真辺さん、大丈夫ですかっ」

「りのっ!ここを開けて。」

 慎一の声はより一層に大きく、激しく扉をたたく。

「スペアキーを持ってきて。」

 確かに望んだこと。

 麗香たちが子供を産んで、その可愛さに身もだえして私たちも欲しい、と願った。

 だけど、こんな状況で懐妊するなんてありえない。

「・・・お願い・・・何もしないで。この子達に干渉しないで。」

『・・・わかった。』

 そうして私の中の棄皇は口をつぐんだ。

 その後は、棄皇の意識に支配されることなく、語り掛けてくることもなく静かだったが、ずっと棄皇の意識は私の中に居て消える事はなかった。










 忙しないニュースが活況となってきたクリスマス。

 毎年のことながら、クリスマスパーティを開催する柴崎家に泊まりで訪れた。

 妊娠4か月目になったりのは、つわりがひどく、ほとんどの食べ物を受け付けない。大好きだったプリンもダメで、かろうじて酸っぱめフルーツジュースとヨーグルトが食べられる状態であるが、それも調子が悪いときは吐き出してしまう。そんな状態だから、クリスマスパーティは行けないとお断りの連絡をしたが、妊婦経験の柴崎が、「つわりなんて何所に居ても辛いんだから、気晴らしに来たほうがいいのよ。ベッドで寝てるよりも、誰かとおしゃべりしたりしてたほうが辛くないわよ。」と相変わらずの強引さで欠席を許してくれなかった。

 まあ、自分達の家よりも、柴崎家の方が病院に近いのだから、何かあったらすぐ駆け込める。

「りの、新田、いらっしゃい。」

「たらったいっ」

 藤木、柴崎夫妻の第一子、穂香ちゃんがペコリと可愛いおじきをする。以前二人がショッピングついでに横浜のマンションに遊びに来た時、穂香ちゃんは、まだやっと立ったばかりの赤ちゃんだった。

「おお、おっきくなったな。」

 そう言うと、穂香ちゃんは柴崎の足にしがみついて後ろに隠れ、「うえーん」と泣き出した。

「お前、泣かすなよっ」

 藤木は慎一を睨みつけて、穂香ちゃんを抱き上げる。

「何もしてないじゃん。」

「お前の声がでかいんだよ。なぁ~ほのちゃん、怖かったよねぇ。だいじょうぶ、パパたまがついてるからねぇ。」

 生まれた直後から娘にデレデレに甘い藤木だった。

「りの、大丈夫?」

 りのは一つうなづいて笑おうとしたが、辛そうに唾を飲み込む。

「大丈夫、大丈夫、今日は源さん特性の鯛雑炊を作ってもらうから。」

「何が大丈夫だよ。」

「その鯛雑炊を食べたら、つわりは治るのよ。」と柴崎は膨らんだお腹をさすった。

 雑炊なら慎一は何度も作っている。でも、りのは一切の食べ物を受け付けなかった。

「まぁ、上がって。」

「あぁ、お邪魔します。」

 段差に躓かないよう、手を添えてりのを介助する。

「部屋は、いつもの所ね。」

「あぁそうだ。一階に部屋って無かったっけ。」

「ベッド仕様の部屋はないわよ。どうして?」

「階段は、妊婦のりのに大変だろう。」

「はぁ⁉」と柴崎が奇声を上げると穂香ちゃんがまた「ふぇーん」と泣き出す。

「だからっ、泣かすなって言ってんだろうがっ」

「俺じゃねーじゃん。柴崎だろ。」

「あぁほのちゃん、大丈夫でちゅよ。パパたまが悪い奴はやっつけてあげまちゅからね。」

「何だよ。気持ち悪い。」

「相変わらずね、増々過保護が過ぎてんじゃない。」

「だって・・・」

「少しは体を動かしたほうがいいのよ。これからお腹が大きくなってきたら、嫌でも動きづらくなるんだから。」

 妊婦に関しては先輩だし、自分は妊婦を経験できない以上、柴崎の言う事を聞くしかない。

 クリスマスパーティと言っても、昔のようにバスケや卓球、カラオケ、ゲームなどして騒いだりしない。豪勢な食事をし、酒を飲みながらの談話にとどまる。特に今年は、りのの悪阻がひどいし、柴崎だって6か月に入った妊婦だから、食事はそこそこでデザートもケーキはなくフルーツゼリーに留まる。食事後は穂香ちゃんがぐずりだして、柴崎とりのは、穂香ちゃんを寝かしに二階の部屋へと行ってしまった。

 柴崎が言っていた通り、りのは源さんの鯛雑炊を一善食べる事が出来て吐く様子もなく、穂香ちゃんの可愛さがりののいい気晴らしになった。

 藤木と二人、テレビのある部屋へと移り、酒を飲む。

「来て良かったよ。何より、りのが雑炊を食べられてよかった。源さんの鯛雑炊、すげーな。俺、レシピ教えてもらおう。」

「特別な料理方法はないぜ。あれは、暗示だよ。」

「暗示?」

「あぁ、これを食べたら悪阻が治るって経産婦から言われたら、そうだって思いこむ。麗香も最初の悪阻の時、文香会長にそう言われてから食べて、悪阻が治まったんだから。」

「なるほど。」

 食事中からの続きで、まだ残っていたワインを注ぎあって飲みあう。

「しかし、双子とはねぇ~。まだどっちかはわからない?」

「一昨日の検診で一人は男の子だと判明したから、もう一人も男の子だと。一卵性だから。」

「おっ、いいじゃん、サッカーできるじゃん。」

「うん・・・」

「なんだよ~もっと喜べよ。」

 慎一には手放しで喜べない不安があった。妊娠が発覚した時のりのが心配停止になった事、身体の心配は当然あるが、りのはあの時、「こんなことなら死ぬ。」と言った。そして、産婦人科の診察時、りのはトイレで「やめて」と叫んだ。

 りのは家でも鏡に向かってブツブツと何かを言っている時がある。そんな様子のりのに、慎一は何故か近寄りがたく、声をかけられない。そうした心配事の全部を藤木に話した。

「本当に心配停止していたのか?お前の勘違いだったんじゃないか?」と藤木は苦笑する。

「間違いじゃない。異様に冷たかった。」

「大体、人間は死亡後すぐに冷たくなったりしない。」

「だから、異常だと思ったからこそ、救急車を呼んだんだ。救急隊の人も心肺停止を確認したからAEDの準備をしたんだし。」

「その後は?大丈夫って医師のお墨付きをもらってるんだろう。」

「うん・・・」

「りのちゃんが悪阻ひどいの、お前のそういう態度なんじゃないのか。」

「俺?」

「お前が、そんな暗―い顔して心配ばっかりするから、りのちゃんに伝染するんだよ。」

「う・・ん。」

 だけど、りのが辛いときに、横で能天気にはしゃぐなんてできない。

「麗香を見習え。」

「そうしたいけど・・・怖いよ。いろんなことが。」

「ったく・・お前がマタニティブルーに陥ってどうするよ。」

 酒が回って感情が抑えきれなくなった。不覚にも泣いてしまった。

「ほんと、麗香の言う通り、今日はお前らを無理に呼んでよかったよ。」

 藤木は、ハイボールのボトルを開ける。

「飲め、愚痴れ、泣け、とことん付き合ってやる。」









「いつまでも見ていられるね。」

「そうでしょう。」

「子供の寝顔って最高の癒し。」

「そうよ、どんなにささくれた心も、浄化してくれるの。」

 私たちの声がうるさかったのか、穂香ちゃんは少し眉間にしわを寄せて寝返りを打った。ジェスチャーで部屋を出ようと、促される。隣の麗香の部屋へ移る。穂香ちゃんのベッド脇には音声センサーが設置されていて、穂香ちゃんが泣いたら屋敷のあちこちに設置されている機器が光って知らせてくれる。麗香の部屋は結婚したといえども学生の頃からほとんど変わらずにそのままだった。家族が増えても部屋の仕様を変えることなく住めるのは、なんとも贅沢なことだ。

 麗香は「よっこらっしょ」と大きなお腹を支えながらベッドに座る。私も横に座った。これも学生の頃からの定位置の並びだ。

「何度も言うけど、ほんと、楽しみだわ。」

 麗香は現在6か月目に入った。予定日は4月12日、私たちの双子と同級生になることを麗香は本当に喜んで、今から将来が楽しみと、そればかりを言っていた。

「ねぇ、こっちに引っ越して来なさいよ。なんだったら、うちの庭に別棟の家を建てて住むとか。」

「無茶苦茶な。」

「あんたたちみたいに、兄弟のような幼馴染ってやつをしたいのよ。」

「で、また関係性に悩ませるわけ?」

「そ、それを懐かしく見守るわけ、私たちは。」

「私は嫌、見たくない、そんなの。」

 麗香は笑いながら天井を仰ぐ。

「いいなぁ、男の子。」

「いいじゃん、柴崎家の家族が増えて。」

「うん。だけどやっぱり藤木家に申し訳ないよ。男の子も産まないと。」

「プレッシャーだね。」

「まぁね、でもよかったわ。お母さま達みたいに不妊症じゃないみたいだから。」

 二人目のお腹の子は、おそらくまた女の子だという。

 3年前、華族階級制度が廃止されたが、神皇配下の精鋭として組織された華選だけは残った。それまで認定されていた凱さんと私を含む華選の称号を持つ者はそのままで、新たに全国から選出し承認されて、現在は70名近い人数となっている。

 華族階級制度の廃止に伴い、戸籍法と税制法の改正が行われたが、神皇家および華選の地位の保護の観点から、華選の離籍制度はそのまま残る。今後の華選の増加を見越し、行政上の円滑な施行を目指して、夫婦別姓の新法が制定された。

 要するに、華選の子供は華選の戸籍に入れる事ができない為、氏名による戸籍差別を目立たなくさせる為の法施行である。

 世間ではまだ認知度が低く、それを採用している夫婦は少ない。私と慎一は夫婦別姓にならざるえない状況だったが、麗香たちは、その制度を切望して採用した。総理大臣を輩出する名家、藤木家の長男と元華族の称号を持つ柴崎家の唯一の跡取りである娘の二人では、旧戸籍法では、結婚は無理だったんじゃないかと麗香たちは言う。麗香たちは、男の子が生まれたら藤木性にし、藤木家の本家相続子とし、女の子であれば柴崎性にし、学園を継いでいく子にするという。

「藤木、またデレデレになるね。」

「困ったもんよ。甘やかし過ぎて。」

「女好きもあそこまで行くと、子煩悩の良いパパってことか。なるほど。」

「良いんだか、悪いんだが。」

「あぁ、ずっと聞きそびれてた、どうしてパパたま、ママたまなの?」

「うん?」

「パパ、ママじゃなくて、お父様、お母さまでもない。」

「あぁ、それ。私も昔はパパ、ママってお父様たちを呼んでいたのよ。」

「そうなの?」

「お父様、お母様の呼称は幼稚舎に入って、そう教育されたから。」

「えぇ!うわー、じゃ常翔学園育ちは皆、様呼称なんだ。この子達入学させるのやめておこう。」

「今はやってないわよ、そんな教育。」

「あっそう。」

「亮がたまたまパパ様がって言ったのが面白くてね、そうなっただけ。」

「穂香ちゃん、ほんと可愛いい。」

「りのも、すぐよ。」

「うん・・・。」

 こんな会話も棄皇は、私の中に居て聞いている。そう意識すると増々棄皇の意識は私の中で存在感を増し、身震いするほど気持ち悪い。普通に産んでいいのかと不安にもなる。

「どうしたの?」

 こんな事、誰にも話せない。話した所で信じてもらえない。そもそも私と棄皇が一つの魂を分け繋がっている者同士である事など、誰も知らないのだから。待望の妊娠だったのに。また棄皇にかき乱される。

 棄皇が勧めたはずの平穏を、棄皇自身に乱される怒りを、私はどうぶつけていいのかわからない。

「何でもない。」

 私はただ願うしかない。

 私たちの異常な運命が、子供たちに影響が及ばない事を。







 りのの腹に宿る二人の子は順調に育ち、妊娠8か月に入った。もう足元も見えないほどに大きくなった腹を、りのは重そうに、しかし大事に抱えて毎日を過ごす。

「新田大地、駆ってどうだ。」

「却下。」

「大海、大永。」

「問題外。」

「大空、飛翔。」

「だからっ、どうして二つを関連づけるのっ」

「だって、せっかくの双子なんだし。」

「普通の名前でいいよ。」

 新田慎一は、名づけの本を多数購入してきて、双子の名前を数日前から考えていた。

 りのは、我の意識が混在する状況に慣れたのか、りのの精神も落ち着き、子を授かった幸福を実感した日々を送っている。

 来月、6月23日に帝王切開で子を取り出すことに決まっていて、その一週間前からりのは入院する。気の早い新田慎一は、入院は三週間も先であるにも関わらず、入院準備を万全にしている。だが、その割には、まだ子の名前は決まらない。

 りのがソファーから立ち上がろうとするのを、新田が慌てて止める。

「何?お茶のお替りか、食べ物か、りのは座ってて、俺がやるから。」

「トイレ。」

「トイレ、よし、行こう。」

「もうっトイレぐらい一人で行ける。」

「駄目だ。躓いて転倒でもしたら。」

 りのは大きなため息をつく。新田の過保護は相変わらず続いている。トイレ内にまで入ってきた新田に、りのは怒って押し戻し扉を閉めた。思わず笑ってしまった。

「いい加減にしてほしいわ。」

『それが新田の、古より課せられた宿命だ。この世でその宿命を全うできなければ来世に持ち越すぞ。』

「うんざり。あなたの存在もね。いつまで居るの。」

『それが分かれば、ここには居ない。』

「はぁ~。」

 りのは大きなため息を吐く。

「りの~、大丈夫かぁ。」

「トイレぐらい、ゆっくりさせて。」

「あぁ、ごめん。どうぞごゆっくり、待ってるから。」

「待つなっ、向こう行って。」

「わかった、終わったら呼んで。」

「呼ばないっ」

『面白い』

「面白くないわよ。」

 ブツブツと不満を吐き出しながら便座から立ち上がったりのは、驚愕に悲鳴を上げた。便器の中が赤く染まっている。

「慎一!救急車、救急車を呼んでっ」

 子宮からの出血。りのは分娩予定の彩都市の神奈川医科大病院へと救急搬送される。搬送途中で陣痛が始まり、りのは悶える。

 到着した病院で医師に、「数時間前から痛みがあったはずだ。なぜわからなかった。」と責められる。

 我々の持つ神的特徴、傷の治癒が早いに伴う痛覚が鈍い事が弊害となったようだ。

 帝王切開は間に合わず、通常分娩での対処となる。陣痛の間隔が短くなり、耐えがたい痛みが襲ってくる。

「頑張れ、りの。」

 新田の方が涙を流して、りのの手を握る。

「まだまだ、力まないでっ、力抜いて、息吐いてー吸って。」

 我もまた、共感する痛みに耐えるのみだ。りのは叫び声をあげて体をこわばらせた。

「ダメダメっ息止めないで、力抜いて。」

「無理っ痛いっ!」

 陣痛の波の合間に考える。この身体は、我の意思が優先されて制御できる。力むしかできないりのの意識を超えて制御すれば、力を抜くことができるはず。と考え、我は師匠から習った武術の呼吸法をやってみる。

「そうそう、いい感じですよ。」

「りの、頑張れ。」

「頭が見えてきましたからね。」

 赤子の泣き声が分娩室に響き渡る。

「真辺さん、頑張って、もう一人。」

 生まれた赤子は、へその緒を切られてすぐに洗浄の処置をされる。

 赤子の泣き声に混じり、新田の泣きうめく声、そしてりのの身もだえする叫びは続く。

「また、力まないで~さっきみたいなリラックス、リラぁ~くす。」

 りのの息が浅くなってきて、意識がもうろうとする。我とりのは同じ呼吸、鼓動も合わせて同じ、我の意識も遠くなっていった。

「真辺さんっしっかり!」

「りのっ」

「酸素吸入!」

 とっさに新田の腕を掴んで意識を保とうとした。しかし、どこかに引っ張られるようにして我の意識は遠のいていく。

『頼む、りのを・・・』

 そう、懇願していた。泣き顔だった新田が驚愕の表情を見せたところで、スポイドで吸い取られたように我の意識は途絶えた。



 暗闇の先に光が見える。

 近づいてくる光、いや、自分が押し出されている感覚。

 光は見る見るうちに大きくなり、自分の全身を包み込む。

 痛いほどまぶしい光。

 肺を満杯にする苦しい酸素。

 うるさいほどに忙しい鼓動。

「おめでとうございます。真辺さん、新田さん。」

「あぁ、よく頑張った。りの。」

「慎一・・・」

「二人とも異常なく、元気なお子さんですよ。」

「弟くんはお母さんに抱っこしてもらいましょうね。」

 浮遊する身体。とてつもなく不安で不安で仕方がない。

「やっと会えたね。」

 その声は自分のすぐ頭の上から聞こえる。

「可愛い・・私達の赤ちゃん。」

「うん。りの、ありがとう。」

 頬を摺り寄せられる。

 ぎゅっと全身を包まれると、我は安堵する。

 無上の心地よさに、我は安心して目をつむる。

 あぁ、これが母というものか。

 初めて浸透してくる不思議な感覚だった。

 胸いっぱいに入ってくる空気を吸って、大きな声で泣く赤子の意識を感じ取った瞬間、我の意識はなくなった。








露「まだ、できませんか?」

露「まだだ。研究資料が残っていれば、簡単だった。本当にないのか?」

露「おや?私を疑っておられる。心外ですね。」

露「向 思宏(シャン・スーホン)を長期にわたり拘束していたのは、レニー・グランド・佐竹、お前さんだ。」

露「四川の施設を稼働できなくて、身もだえしているのは私ですよ。」

露「ふん。どうだか。企む事に長けている。10か月前の取引を警察にリークしたのはお前さんじゃないのかね。」

露「御冗談を、取引を邪魔して、どうしようというのです。」

露「警察にリークし、種を警察に押収させる。そして、警察からその種を手に入れ、新麻薬の製造から流通までを牛耳る。」

露「警察の押収品をどうやって手に入れるというのです?」

露「いかなる国、世界機関の関与を許諾しないレニー・ライン・カンパニー。裏を返せば、いかなる国や世界機関の裏関与し、言いなりにさせられるって事だ。」

露「種は手に入れられず、代価だった金も押収されて、どこかに恨み晴らしたいお気持ちはわかりますが、被害妄想的に状況を据えられては、いささか、失望します。」

 ブラトバのボス、モリス・ラズキンがムッとした息遣いをして黙った。

露「妄想ではなく、実際に部下が多数死傷し、一人死んでいる。」

露「それは、こちらも同じ、死んだ優秀な部下は、警察ではなく、ブラトバ勢に撃たれたと、向 思宏(シャン・スーホン)は証言していましたが。」

露「うちの部下はチェルノボーグに刺し殺された。チェルノボーグはお前さんの息のかかった者であろう。」

露「前にも言いましたが、チェルノボーグなる者など、私は知りませんし、取引を邪魔する利点がありませんね。」

露「惚けるのもいい加減にしておかないと、地面を舐めることになるぞ。」と脅しの声色を使ってくる。

露「私も、いい加減に世辞を口にするのも、うんざりですよ。」

 相手の言葉を聞かずに先に電話を切った。

 半年前の青蛇幇とブラトバの取引は失敗に終わった。ブラトバは麻薬の新種を手に入れられず、取引現場にいた組員全員が警察により逮捕拘束された。青蛇幇も同じであったが、麻薬の新種が行方不明となっていて、青蛇幇も何を売ろうとしたのかを一切の口頭をしないので、一か月後には両組織とも、不起訴放免となる。

 ブラトバのモリス・ラズキンが執拗に、私が取引を邪魔したと疑うので、保護していた向 思宏(シャン・スーホン)をブラトバに渡し、もう一度、新麻薬の遺伝子組み換えによる研究をさせている。しかし、ただの助手だった向 思宏(シャン・スーホンの研究は半年経っても成果が上がらない。四川の工場はこのままお蔵入りで構わないと思っていた。棄皇敷いた布陣の四川は、私では扱いづらい人事なのだ。だからこそ、私が扱わなくても稼働できる、いわば、私が指示しなくても事運ぶ、良い布陣でもあった。

 改めて、棄皇という人間の稀有さを実感する。いや神か?

 日本の神格文化の筆頭にある皇族、神皇家の血筋。

 棄皇を私の下から外したのは失策だったかと、今更ながらに惜しく悔やんでいる。棄皇が言うように、私は冷静を欠いていたのかもしれない。裏社会にこれほどまで首を突っ込まなくとも、私はアジアを、そして世界を手に入れられるのだ。その自信があるはずなのに、なぜ新種の麻薬などに拘ったのか?

 私の支配下にあるアジアで、その新種が開発されたからだ。新種をめぐり、裏社会の均衡が私の範疇外で乱れるのが我慢ならなかった。だから警察にリークした。取引現場に突入した事によって、現場は銃撃戦の大混乱に陥った。そんな中で棄皇は銃に肩や脇腹を撃たれ、海に倒れ沈んだ。警察からの報告ではブラトバの銃弾によると聞いたが、本当はどちらの発砲によるかはわからない。警察の手によって海から救出され病院に運ばれた棄皇は、意識不明が今も続いている。もう意識を取り戻す可能性は低いと医師は言う。生命維持装置を外し、安楽死を選択することが罪人のためだ、とも言われていた。

 棄皇は、ブラトバの人間を一人刺し殺していた。多数の警官のいる前での殺しだったので、警察幹部に手回しをして殺人容疑を外すことは難しかった。そんな棄皇の生命維持装置を外すことを猛反対したのは、柴崎凱斗だった。

「棄皇は必ず目を覚ます。」と皆無に等しい奇跡を信じ続けている。

 私には簡単に靡かなかった忠誠心を、柴崎凱斗は棄皇に対して出す。それが棄皇の持つ皇の気質というものか。

 ふと、気配を感じて振り向くと、腕組をした柴崎凱斗が扉の脇で壁に背をつけ立っていた。

「帰っていたのか。」

「はい、あなたがブラトバからの電話を取った時から、ここにおりました。」

 柴崎凱斗は冷たい目で私を見つめる。

「そうか・・・飲むか?」

 私はまだ持ったままだった携帯と入れ替えに、ブランデーの瓶を柴崎凱斗へと向けて振った。柴崎凱斗は冷たい目のまま返事をしない。それでも私は柴崎凱斗の分の酒を作りはじめた。

 柴崎凱斗は、棄皇が銃弾に撃たれて香港警察病院に収監されてから一度も日本に帰っていない。香港滞在中はいつもホテル利用だったが、こうなっては長期に渡り、不便だろうと私の家に呼び寄せた。

 マドラーで混ぜ終えたグラスをローテーブルの向かいに置く、それでも柴崎凱斗は動かない。

 怒っているのだ。柴崎凱斗もまた、警察にリークしたのが、私ではないかと疑い監視をしている。

「柴崎家のご令嬢は、確かもうすぐ、二人目の子供が生まれるんじゃなかったかな?」

「もう生まれています。」

「いつ?」

「あなたのビジネスに必要のない情報では?」と冷たく言い放つ。

「そうでもないさ。柴崎女史の夫である藤木亮氏は、かつて私がロシアのガスパイプライン構想を一緒に推進した藤木外務大臣の息子でもあるし、二人ともパール号にて食事をした間柄だ。」

「戯れに、若者の関係をかき混ぜただけ、必要視するほどの間柄でもない。」

「そう牽制することもなかろう。祝いを送ろうと思っただけの事だ。」

 柴崎凱斗はそこでやっと壁から離れ、わざと足音を鳴らしてこちらに歩んでくる。そして、テーブル上の私が作ったロックの酒を手に取ると一気に煽る。空になったグラスを少々乱暴に置いた。その右手の掌には、8か月前に負った傷跡が派手に残っている。

「お断りします。」

 むき出しの感情で私を睨む。今までしなかった柴崎凱斗のまっすぐな抵抗。優柔不断気味だった性質は、崇拝対象を失いかけて、より強剛になった。踵を返して私から離れていくその途中、柴崎凱斗の携帯が鳴った。

英「はい・・・すぐ行く!」

 そう叫んで、私へと振り向いた柴崎凱斗の眼は潤んでいた。








 身体が思うように動かなかった。息がしにくく、肺は全力で呼吸をしているのに、中々酸素を取り入れてくれない。

まるで呼吸をするのが初めての赤子のようではないか、と思い、気づいた。

【産まれた】のだと。

 だが、この体は赤子ではない。30年間、我の意思に基づいて動き続けた元の身体。

 やっとのことで体を起こす。額についていた何かの機器の吸盤が外れた。ビーと不愉快なエラー音が鳴り響く。

腕に刺さっていた点滴の針を引き抜く。それだけで、息が切れた。

 バタバタと走ってくる足音が部屋に近づいてきて、立て付けが悪いのか、ガチャガチャという音がした後に扉があいた。

我と目が合った看護師は驚いて、また部屋を出ていく。

中「先生!308の患者さんが起き上がってます。」

「中国語・・・そうか、戻ってきた。」

部屋を見渡す。確かに、そこら中にある文字は中国漢字ばかりだ。

撃たれた。肩と腹を撃たれて血を吐いた。海に落ちて水面が赤く染まった。

病衣を開いて傷の状態を見てみる。撃たれたはずの肩と腹には跡形もなく肌は綺麗で、変わらずに、ひし形の痣が心臓の上にある。人より治りが早い。よって傷の状態から日数換算ができない。

 また足音が聞こえてくる。今度は複数だ。ノックもせずに扉が開けられ、先ほどの看護師が医師を連れて入ってくる。

中「これは、本当に驚きだ、奇跡。気分はどうか?」

中「体が重い。」

中「そりゃそうだ。あなたは半年あまり意識不明だったのだから。診察を。」そう言って、せっかく起こした身体をベッドに倒される。抵抗する力がでなかった。仕方なく医師のされるままにすることにした。

(半年・・・)

撃たれて海に落ち、意識を無くした。死んだと思ったのだが、どういうわけか、りのの身体に魂が移動し、そして、りのが子供を産むまでの間、我はりのの中で過ごした。その間、この体は仮死状態だったようだ。

中「驚いた、脈拍、心音に異常は見られない。体が重いのは長期の寝たきりで筋力が衰えているせい。今日はもう遅い、明日、詳しい検査をしよう。」

 医師が言うように、カーテンの隙間から見える窓の外は闇だった。脳と繋いでいた医療機器に表示されている時間は9時05分。

中「まだ安静に。何か欲しいものがあれば看護師に。」

中「飲み水を。」

中「用意してあげて。」

中「はい。」

 部屋を出ていく最中、看護師は医師にささやく。

中「当局に連絡は?」

中「私がする。」

(当局・・・)

 思い出す。我を撃ったのは警察だった事を。取引現場に何故か香港警察が押し寄せてきた。誰が通報したのか?当然に取引の時間と場所は内密だ。例え漏れたとしても、あれだけの警察車両と警官を配置するには、その情報が確かな者による確かな情報と裏付けされた時だけだ。そのような情報を警察に与えられる事が出来る人物は限られている。

 そして、我の目覚めを警察=当局は待ち、拘束しようとしている。レニーのバックアップが無ければ、左目の力があっても逮捕拘留から逃れるのは難しいだろう。

(逃げるには、今しかない。)

 重い体に鞭打って起きる。ただそれだけのことに時間を要した。看護師が水差しを持って戻ってくる。

中「無理しちゃだめですよ。寝てなくては。」

中「もう十分に寝た。」

 看護師は微笑して水差しを口に添えた。温くまずい水だった。

中「ここは、どこの病院?」

中「香港警察病院ですよ。」

 思わず、看護師に驚愕の顔を向けてしまった。

中「脱走をしようとしても駄目ですよ。ここは檻が張り巡らされていますし。警備の者も沢山いて監視していますからね。」

 すでに収監させられていた。当然か、あれだけの警官隊の中で海に落ちたのだから。思考の浅はかさに苦笑した。すると看護師は何を勘違いしたのか、下手な構えをする。

中「私をどうにかしようとしても駄目ですよ。ここの看護師はみな、警護武術を体得していますから。」

中「そんなことはしない。したくても体はまだ思うように動かない。それより、もう少し水を貰いたい。」

中「あっ、ごめんなさい。」

 また水を口もとに持ってきた看護師の手を掴み引き寄せた。悲鳴を上げた看護師の後頭部を抱え込み、目をとらえる。

中「心髄を開き、我の言辞に従え。」

 弱った体とは関係なしに、術の威力は衰えていなかった。こわばった看護師の身体は一瞬だけ痙攣し、すぐに力が抜けた。

中「ここの所長か、一番の権力のある者を連れてこい。」

中「はい。」

 我の支配下になった看護師が出ていったあと、我はベッドを降りる。足に力が入らず床に崩れた。情けないほどに体はやせ細っていた。

「くそっ、こんな・・・」

 この体は神威が尽きるまで死滅しない。だったら無茶でも動かせる。呻きを上げ立ち上がった。部屋の片隅に備え付けられている錆びたロッカーまで、ベッドと壁を伝って歩いた。肺が締め付けられるように痛かったが、こんな痛みなど、子を産む女の痛みに比べたら何でもない。

 全身に力を入れなければ、錆びついたロッカーの扉はすんなりと開かなかった。体全体で引くと、開いた反動で後ろに転倒しそうになったが、握った扉を離さず、ベッドの策にもしがみついて防いだ。そうして苦労して開けたロッカーには、何も入っていない。

「チッ。」

(押収されて当然か・・・。) 。

 携帯もおそらく押収されているだろうが、粉々に破裂していたはず、あの分じゃ電話番号などの解析は不可能だろう。

 最初に撃たれた胸は、ちょうど懐に仕舞っていたスマホに当たり破裂した。息が止まるほどの衝撃だったが、弾が身体を貫くことはなかった。その神懸った幸運がなければ、我は即死していた

(やはり我は死なぬ。神威尽きるまで、天意が味方する。)

 廊下の遠くが騒がしくなった。金属同士があたる音も響いてくる。扉をよく見れば、ガラス窓に格子がついた鉄製の扉だった。

「確かにここは普通の病院じゃないな。」

 その格子窓の向こうから男が顔をのぞかせた。

中「何だ、ワシに用があるとか。」

 中に入ってこようとしない男の後ろに、洗脳して支配した看護師が立っている。

中「女、ここを開けろ。」

中「何言ってるんだ。駄目だ。開けては駄目だ。」

 男に止められても尚、扉の鍵を開けようとする看護師を、終いに突き飛ばして男は叫ぶ。

中「何だっ、お前はっ、看護師ごときが、次長のワシのいう事を聞けぬとは!どういうことだ。」

中「次長さん、申し訳ありません、こんな所にご足労くださいまして。」

 こういう男は下手に出るとつけあがる。

中「お偉いさんの方に、どうしてもお話ししておきたいことがありまして。」

中「何だ、罪人の話などロクでもないことだろう。」

中「話は、ここの所長の事です。」

中「所長?」

 不信の中に、わずかな興味を示したのを見逃さなかった。

中「うまくすれば、所長は罷免されることでしょう。空いた所長の座にあなたが昇任される可能性もおありの位置にいるのではないですか?」

男は格子越しにこちらを睨みながら一歩下がった。

中「罪人と取引きはしない。それがここで務める者の鉄則だ。」

 馬鹿じゃないらしい。それがもどかしい。心の中で舌打ちする。

中「取引など考えておりません。ただ世が正しくあって欲しい。だから私はあの取引現場を赴いて邪魔をしたのです。私がどちらの組織にも組みしていない事は、調べて知っている事でしょう。」

中「ま、まぁ・・・。」

中「残念ながら私の正義は事叶いませんでした、警察の方にもご迷惑をおかけした。申し訳なく思っています。だから少しでもお世話になったあなたや、そこの看護師に恩返しができればと、思ったのです。」

中「いゃ・・・ワシは世話など。」

中「そこの看護師には、ここで一番信頼できて正義感に満ちた上司を連れてきてほしいと頼みました。それがあなただったようです。」

 よくもここまで嘘八百が出るもんだと、少々楽しくなってきた。

中「見返りなど要りません。ただ私の話を聞いてくだされば、いいのです。」

中「まぁ、話を聞くだけなら。」

中「内容がはばかることですので、中に入って来てくださいませんか。」

 男は一瞬頷きかけたが、首を振り、周りを確認する。

中「駄目だ、規則だ、担当医師と看護師以外は入れない。」

 ちっ!一筋縄ではいかない。だが、男は我の話を聞きたがっている。

中「周りは誰もいない。両サイドも空き室だ。ここで聞かせてもらおう。」

中「すみません、目覚めたばかりで、これ以上大きな声を出せません。今一歩、近づいていただけると助かります。」

 ガラス越しに左目の力で術を掛けたことなどない。効くのかどうかはわからないが、しかし、やってみるしかない。

 伸びた前髪をかき上げる。意識を左目に集中して、男の目をとらえた。

 男は赤く染まった目を見て驚愕に目を見開く。その一瞬の無の瞬間に侵入する。

中「心髄を開き、我の言辞に従え。」

 普段より力強く念を送った。

 男の眼球は揺れ、身体は痙攣しながら、我に引き寄せられるようにガラスに顔を打ち付けた。

中「ここを開けろ。」

 男は看護師からカギを奪い取ると、痙攣する手で鍵穴に差し込もうとして失敗し、カギを落としてしまう。

(強すぎたか・・。)

中「女、カギを拾ってお前が開けろ。」

 強い眩暈が起き、倒れそうになり、扉に手をついて支えた。

 眼球が燃えるように熱い。

 扉が引き開いて、女にだきつくようにして倒れた。

中「さっさと我を起こせ。そして出口へ連れていけ。」









「お前の言う通りだったな。医師も匙投げた奇跡が起こった。」

 ベンツを運転しながらレニー・グランド・佐竹はそう凱斗に話しかける。答えず黙っていた。

 自分の態度が子供じみているのはわかっていた。疑いの怒りを向けても平然としているミスター・グランド佐竹。さぞかし心の中で笑っていることだろう。「若いな」と。

『変えず推し進める、容赦はしない、それが神に敵対する事だとしても。』と言った佐竹。その戦いの佳境だったのだ、あの取引は。佐竹の戦略に組み込まれていたのは棄皇だけじゃない、凱斗自身も組み込まれていた。それを知っていたのに、棄皇を守れなかった。

 棄皇を意識不明の重体にしたのは、誰のせいだ?と問う事はナンセンスだとわかっていても、自分に、誰かにその不備を責めなければ気が済まなかった。そんな感情でしか自分を納得させられない事が、稚拙、愚弄この上ない。神皇継嗣を放棄したとはいえ、恐れ多くも貴重な存在であることを、長き付き合いの内に鈍化した自分の感覚を責めた。

「それも、棄皇の権限か?」

「そうです。」

 佐竹はフッと笑って前を向き直る。

(棄皇が目覚めた。やっと。)

 銃で撃たれ、海に落ちたことによる溺水で蔓延性意識障害、一般的に植物状態と言われる状態が続いていたこの半年、凱斗は息の詰まる日々を過ごした。マフィアの密売抗争に巻き込まれて瀕死の重傷を負って意識不明ですなど、神皇家に報告などできなかった。

 『我は死なぬ。』と何度も言われていた事を信じて、生命維持装置を外すことに猛反対した。

(生命維持装置を外さなくてよかった。)

 安堵が胸を充満し、涙がこみあげてきて、車外の景色がにじんだ。

 高速を使っても、香港九龍島北にある香港警察病院には30分ほどかかる。ノロノロと走る周りの車にイラついているのは、道のりだけの理由ではない。病院の担当医から棄皇が目覚めたとの連絡が来て、嬉しさと共に、心身は本当に大丈夫なのかと心配がこみあげてきた。そんな平常でいられない凱斗の心を見越して佐竹は、自分が運転すると言ったのも鼻についたが、まさしくな事だったのもイライラを増す要因となっていた。

 レニー・グランド・佐竹は、棄皇の素性を警察にもブラトバにも一切ばらさなかった。向 思宏(シャン・スーホン)の護衛をしていた凱斗の事も。実際、向 思宏(シャン・スーホン)がボートを旋回した後、凱斗はブラトバの組員に腹を銃で撃たれたのだが、防弾チョッキを着ていた為に弾は腹に到達することはなかった。しかし防弾チョッキを着用していても衝撃は強くあり、腹を押さえてうずくまった。その際に押さえた掌の血が、銃弾に空いた腹の衣類につき、向 思宏(シャン・スーホン)は、凱斗が完全に撃たれて死んだと思い込んだ。向 思宏(シャン・スーホン)はパニックになり、そのままボートを沖へと走らせ、結果、凱斗達は警察から逃れる事が出来た。

 そういった一連のすべてが、佐竹の戦略構想にあり、自分が踊らされているとわかっているのに太刀打ちできない。

やっと病院の門前につく。高い塀に囲まれ厳重に管理されるゲートの守衛に、偽りの身分証を見せ開けてもらう。本来ならこんな時間に面会などできない。だが、この8か月の間に、ここの担当医と所長に賄賂を渡し続け、取り込み、棄皇が目覚めたときには一番に凱斗の所へ連絡を寄こすようにしてくれたのも、佐竹の手腕だ。

 ゲートすぐの数台しかない駐車スペースに車を止め、歩いて病棟へ向かう。建物は夜間照明に変わっていて薄暗く、数か所の部屋に明かりが灯っているだけだった。入り口は、ブザーを押して人を呼ばないと開けてもらえない。しかし、すぐに人が奥から駆けつけてきて、入口を開けてくれたのは、もう馴染みとなった棄皇の担当医師だった。医師は中国なまりの強い英語を話せる。

英「308の患者の具合は?」と凱斗は逸る気持ちを押さえて聞いた。

英「筋力が衰えているだけで、特に異常なく、受け答えもしっかりしています。」

英「世話になった。」と佐竹が医師に微笑む。

英「いえ、これで捜査は進展しますね。」

英「素直に話してくれる事を願うよ。」と佐竹は医師の会話に合わせる。

 凱斗たちは、ここでは日本の公安という身分を偽造していた。アジアの麻薬密売現場を荒らし、品を横取りして日本に密輸する日本の組織がある。その実行犯が、大けがを負い香港警察病院に運ばれている。そんな情報を得た公安捜査官という設定だから、凱斗たちは警察に目を付けられずに、棄皇の所に何度か様子を見に来る事が出来ていた。

 日本に移送すると言えば、ここから出すことも簡単だ。だが急がなければならない。香港警察が取り調べに来れば、凱斗たちの偽装などすぐに見破られる。まずは棄皇の体調を見てからの手配となるだろう。

 縦に長い香港警察病院を、三つの区画に区切って脱走防止の格子扉が設置されている。鍵はまだ電子制御になっておらず、二重ロックと河南省錠という古臭いものだから、開閉に時間がかかっていた。電子制御よりも、その古臭い施錠の方が強靭なセキュリティだという事を凱斗は知っているだけに、厄介だなと思っていた。

 やっとエレベーターホールにたどり着いた。これも鍵がないと動かない。案内する医師は大きな沢山のカギがぶら下がる輪っかを、ジャラジャラと選んでエレベーター内の操作盤の鍵穴に差し込み3階のボタンを押した。近代には珍しいほどの揺れがあるエレベーターは、派手な音を立てて3階へと到着しゆっくりと扉が開く。もどかしくやっと開いた途端に人の叫び声が聞こえた。

中「次長!どこへっ、その男をどこへ!」

 エレベータを出て左右に顔を見やり、格子向こうの区画の廊下に人だかりを見つける。3人一塊と、一人が一歩離れて立つ光景。叫んだのは、その一人の方で警備の制服を着ている。3人組の中に病衣姿の棄皇を見つける。看護師と何故かスーツ姿の男に支えられるようにして歩いていた。

 凱斗は名を叫びそうになって、慌てて口をつぐんだ。一瞬だけ佐竹と顔を見合わせる。

 棄皇は凱斗たちには気づかず、スーツの男と看護師の支える腕から離れると、警備員に向かった。

中「なっなんだ!気様っ。」

中「心髄を開き、我の言辞に従え。」

 壁に押し付けられた警備員は、すぐに抵抗する力を抜いた。

中「その警備服を脱ぎ、我に渡せ。」

 左目の術に従い、素直に服を脱ぎ始める警備員。

その異様な光景に、凱斗達を案内してきた医師が驚愕の声を上げる。

中「次長!?どうして、何が!」

 その声で棄皇はこちら向いた。左目が鮮やかな赤に染まっている。

「どういうことだ?・・・あの目は?」

 佐竹のその問いに、凱斗は答えず黙っていた。

 棄皇は三人をその場に残しこちらに歩んでくるが、肩で息をしていて、何度か壁に手をついて支えなければならなかった。

 格子越しに、意識ある棄皇と半年ぶりに対面する。こみあげてくる感情を押さえながら、語りかけた。

「大丈夫か?」

 左目を手で覆いながらうなずいた棄皇。

 「その力が使えるなら、未明まで待て、4時に正門前で待つ。」

 ここに日本語のわかる人間はいない事は調査済みで、話した内容が悟られることはない。

中「どういうことだ?308の君、警備員はどうした?次長!張さん!」

英「トイレに行きたかったようですよ。」

英「トイレ?警備員は?」

 パンツ姿でたたずむその姿は、喜劇でも見ているようだ。

英「さぁ?変態趣味なのでは?」

英「お取込み中の様ですので、私たちはまた後日窺う事にしましょう。」

英「えっ、あの・・」

 凱斗は踵を返し、戸惑っている担当医を無視して再びエレベーターに乗り込んだ。佐竹も黙って凱斗の後をついてくる。

英「エレベーターを動かせてくれませんか?」

英「あっはい。」

「説明してもらうぞ。」

 顔を向けずに囁いた佐竹の顔に笑みはなかった。





 ゲートのわきにある小屋を覗くと、守衛はテーブルにうつ伏していた。ゲートは20センチほど開いている。守衛は柴崎凱斗が薬を飲ませて眠らせたか、締め上げて気絶させたかのどちらかだろう。待つと言っていたが、周囲に柴崎凱斗の姿はない。監視カメラが、すぐに見つけられる所だけでも二か所あるので、近くには寄ってこられず、監視範囲外にて待っているのだろう。我は、ゲートから堂々と出た。脱がした警備員の服を着ている。帽子も目深にかぶっているからそうそう、簡単にはバレはしない。

 通りに出て左右を見渡した。50メートルほど先の通り向かいの商業ビルの合間の闇で、チカチカと光る合図を見つけ、そちらへ足を向けた。

 夜の明けきらない街は、人も車もなくひっそりとしている。通りを渡ると、人一人がやっと通れるビルの合間の路地に、柴崎凱斗が立っていた。駆け寄り「助かった」と言おうとすると、柴崎凱斗は我の体を路地内に引き込んだ。帽子が落ちて凱の胸に顔がうずまる。

「よかった。本当に。」

 痛いほどに強く抱きしめられる。

「何度も言ったであろう。我は死なぬ。」

「俺が死ぬほど心配した。」

「痛い、凱、離せ。」それでも離そうとしない。「病み上がりだぞ。大事に致せ。」

「あぁ・・ごめん。」

 やっと腕を離した柴崎凱斗の顔は涙に濡れ、無様だった。

「心配かけて、すまなかった。」

 柴崎凱斗は首を横にふり、涙を腕で拭く。

「介添え役でありながら、守れなかった、謝らなければならないのは、俺の方。」

「あの状況では無理だったであろう。それに、我はもう、お前を介添え役などとは思っていない。」

「それでも・・・」

「我は、神皇家から離籍したのだ。」

 柴崎凱斗は渋い顔で息を吐いた。納得できないのは致し方ない。我も最近まで神皇家という権威を利用し言いくるめてきたのだ。

「だいたい、敬服する相手に抱き着くなど、矛盾している。」

「あっ・・・」

 柴崎凱斗は苦笑しながら、首の後ろを掻いた。その仕草を見るのも久しぶりだ。

柴崎凱斗の促しで、その狭い路地を抜けて通りに出ると、エンジンのかかったベンツが止まっていた。柴崎凱斗が開けてくれた後部座席の奥に頭目が座っていた。微笑んで招く動作は、変わらず我を魅了する。胸が熱くなる想いに躊躇いながら横に座った。

「体はどうだ?」

「筋力の衰えが、苦しいです。」

「ゆっくり静養するといい。」

「痛み入ります。」

 頭目にそれを言われるとは思わなかった。新種の種の取引現場を邪魔した。責められてもおかしくない。ロシア側のブラトバの組員を一人切った。おそらく死んだはずだ。手加減せずに頸動脈を切ったのだから。ブラトバとの関係はどうなったのだろう。そして種は?四川の布陣はどうなった?路地裏で、まず、それらの話を柴崎凱斗とするべきだったと後悔する。

「あの・・・」

「オルゲルトには、向 思宏(シャン・スーホン)を渡し、新たに遺伝子組み換えの研究をさせている。」

という事は、ブラトバには種を渡していないという事だ。運転席に座る柴崎凱斗へ顔を向けたかったが我慢した。

「四川は?」

「そのままだ。何も動いていない。」

「そうですか。」

「香港警察にリークしたのは私だ。」

柴崎凱斗が勢いよく振り向き叫ぶ。

「やはり、あなたがっ」

 車はまだ走り出していない。

「私は最大限に策を講じただけ。その、いつものやり方を知らないはすはなかっただろう。」

「それでもっ、あの場に警察を呼ぶ必要などなかったはずだ。」

 頭目はわずかに首を横に振り笑う。

「その思考にしか及ばないから、お前たちは世界を手に入れられないのだ。」

「世界など、いらない。」

 凱は歯ぎしりをして前を向いた。

「日本を手に入れそこなった皇子は、そうは思っていない。」

 頭目の言う通りだった。我は、日本に帰れば疼く。足りない力を求めて双燕に向かうのだ。そのどうしようもない疼きをアジアに向けている。

「おっしゃる通りです。驕りがありました。今回の件でよくわかりました、私は未熟者だという事を。」

「その理解を超えて、成熟する。」

「はい。」

「さて、こんな所に長くいる必要もないだろう。車を動かしてくれるか。」

 柴崎凱斗はまだ納得しがたい素振りだったが、仕方なく車を走らせた。

 車は九龍市内に向かって高速に入った。レニーホテルに行くのだろうと思っていたら、降りるはずの高速の出口に車は向かわない。

「なぜ、私が銃を向けた時に、その赤眼の力を使わなかった?」

 一瞬、どの時の事を問われているのかわからなかった。赤眼とは洒落た物言いだとも思う。

「この左目の力は・・・。」説明するのは難しい。「多言語を持つ頭目には効きません。」

 頭目は、アームレスにひじを預けた手に頭を乗せ、傾げる。

「本来は、日本の全土の安寧をもたらす力だったものが変化したものです。人の心を支配し行動を操る事ができるのは、私と同じ言語を持つことが条件です。」

「その条件であるなら、私も当てはまるのではないか?」

「本当は、私もよくわかりません。元々外国人には効かないのは確認していました。中国語を話せなかった時も力は使えませんでした。中国語で夢を見るほどに自身の言葉となり得て、中国人にも力が使えるようになったのです。それらの事象を考察すると、この左目の力は、相手の持つ言語の浸透性の強さによって効き目あるのだと思います。」

「多言語を持つ私は、棄皇の持つ日本語、中国語による浸透性が薄い、だから支配できない?」

「はい。おそらく、そういう事だろうと私は解釈しています。」

「うむ・・・。」

 頭目は思いついたのだろう、柴崎凱斗の方へ顔を向ける。

「凱も、昔から効き目が悪かったです。そして年々効き目が悪くなっています。」

「なるほど。」

 大きく納得した頷きする頭目に対して、面白くなさそうに、鼻息を吐く柴崎凱斗。

車はいつの間にか、ビクトリアピークを登っている。

「頭目、どちらへ?」

「私の家だ。」

「頭目の家ですか?」

 2年前に購入した家に、我は訪れたことがなかった。ホテル暮らしを辞めたのは、新しい女と住まう為だと噂されていた。

「不愛想な男との晩酌はつまらん。」

「誰のせいですかね。」

 と、柴崎凱斗はビクトリアピークの中腹にある屋敷の門前で乱暴に車を止めた。

「しばらく、私の家に滞在するといい。カイも居てることだしな。」

「ありがとうございます。」

「何か欲しいものはあるか?」

 柴崎凱斗が振り返って我に聞く。

「欲しいもの・・・」

 すぐに浮かんだが、答えるのをはばかんで頭目へと向けた視線をわずかに伏せた。

「何だ?遠慮など必要ない。」

「はい、では・・・酒が飲みたいです。」

「ははは、それでこそ、棄皇だ。お前の好物、白酒も家に揃っている。いくらでも飲め。」

 笑った頭目は、やはり魅力的だった。

「病み上がりなんだから、体を大事にしろよ。」

 柴崎凱斗は大きくため息をついて眉間に皺を寄せた。







 ジグソーパズルにあるような景観が望める、香港文化センターの前にある観景台と呼ばれる展望デッキに来ていた。

 毎夜、音楽と共に彩る光のショーが楽しめるが、昼間の今は、世界でも有数の経済大国を知らしめるバローメーターとなる高層ビル群が、海を挟んだ対岸に見られるだけだ。晴れていても空は爽快とは言えず、空気が常に霞んでいるのは、日本を抜いて世界二位の経済大国となった中国の代償だ。

 展望への階段を上る棄皇の足取りは軽く、8か月も意識不明で生命維持装置を付けていたとは思えない。

「もう、完全だな。」

 そう声をかけると、棄皇は振り返りつつ、

「ああ、10日も休養したからな。」

「辞書にある休養という言葉の意味を書き換えないといけないと思うぞ。」と凱斗が言うと、棄皇はフフンと鼻で笑い、先へと進む。

 警察病院から脱走してきたその日から、棄皇はすぐに筋トレをはじめ、痩せた身体を元に戻し始めた。そのトレーニングはストイックで、レニー・グランド・佐竹もあきれていたほど。

 デッキの真ん中で立ち止まった棄皇に続いて並び、観光客と雑じりながら対岸のビル群を眺める。デッキ下からと、背後から吹きあがる風が棄皇の伸びた髪をかき乱した。乱れる髪を押さえるも、荒らす潮風に苦戦する棄皇は、挙句に袖口から取り出したゴムで後ろ一つに括り付けた。

「頭目は今後、四川を、ブラトバを、どうするつもりなのか?聞いているか?」

「四川の布陣は棄皇が築いたまま、種が新たに開発されるのを待つつもりだろう。」

「向 思宏(シャン・スーホン)では、成果が上がっていないそうではないか。」

「それも見込んだ、新たな策を描いているだろう。」

「お前も撃たれたのだな。」

 無意味に上げた凱斗の右手を指さす棄皇、掌には8か月前に撃たれた時にできた傷跡が残っている。

「ケースは海の底か・・・すま・・・」

 続いて何かを言おうとする前に、凱斗はポケットからそれを出した。何かわからず、キョトンとする棄皇は、それを手にして、やっとそれが何であるかを視認し、再び凱斗を見上げる。

「頭目に、渡さなかったのか!?なぜ?」

「それが、命令だっただろ。」

「・・・そうだったか?」

 棄皇は少し考えた後、麻薬の新種の種が入ったプラスチックケースを回して開けた。

 この種があれば、裏社会の勢力図を自分の意のままにできる。はたまた、レニー・グランド・佐竹をも出し抜くことも可能だ。日本を手に居られなかった棄皇が、起死回生にアジアを支配し、日本を取り込める事も可能だろう。

 もし、棄皇がそれを望み、レニー・グランド・佐竹とまたもや対峙していくなら、自分は棄皇について行くと決めていた。

 生徒を守ることが自分の役割、使命だ。棄皇も常翔学園の生徒だったのだから。

 棄皇はケースをひっくり返すと、5粒ほどの麻薬の新種の種をパラパラと海へと捨てた。

「あぁあ、死ぬ思いで手に入れた物を・・・。」

「良いんだ。我には手に余る。」

 ケースも海に投げ捨てる棄皇。

「まあ、だけど安心した。」

 と言った凱斗の真意を窺うように、棄皇は凱斗へと見つめて、目を細めて凱斗の顔を覗き込んでくるが、わからないとでも言うように、頭を横に振って首を竦めた。

「さぁて、明日から心機一転、我は新入社員だ。」

「新入社員って大げさな。情報部に戻るだけだろ?」

 棄皇は馴染みの中華様服の、広い袖の中から取り出して見せる。

「はぁ!?」

 見せられたレニーラインのIDカードのL文字は、新入社員の証であるグリーンと、物流部の青色だった。本当にそれが棄皇の物であるのか疑問に思うや否や、棄皇は裏返しても見せた。裏には棄皇の顔写真と名前がちゃんと記されている。

「うそ!?聞いてないよ。」

「我も今日、頭目より内示を受けたばかりだ。倉庫の荷物整理から始めるようだ。」

「種、捨てないほうが良かったんじゃ・・・。」

 手すりから海へとのりだすも、無駄だ。

「頭目を追って、アジアを制する者になれるように、レニーの全部の部署を数年かけて経験し学ぶ。」

「倉庫の荷物整理・・・ぁぁ、神皇様には絶対に報告できない。」

「言う必要もなかろう。」

「そうだけど、やっぱり心配なさっていて、会うたびに聞かれるんだよ。」

「ふんっ。」

 と鼻を鳴らした棄皇だが、昔ほど嫌厭の感じはない。

「ここから本当の修業が始まるのだ。」

 IDカードを懐へと仕舞い、海へと向ける横顔が、とても楽しそうで希望に満ちている事に、凱斗は安堵する。

 二人で、しばらく海の向こうのビル群を眺めてから、登ってきたとのとは反対側の階段へ、並んで展望デッキから降りる。階段を降り切ったところで、おぼつかない足取りで走ってきた幼児が棄皇にぶつかり足元で転倒する。幼児はえーんと泣いてしまい、子の親と思わしき夫婦が泣き声に気づいて、慌てて駆け寄ってくる。

「す、すみません。」

 日本からの観光客だったようだ。

 驚いたことに、棄皇は足元で泣く幼児を抱き上げた。

「母を、困らせたら駄目だぞ。」

 さらに驚いたことに、頭をなでながら母親へと幼児を渡した。

 変わった。やもすれば、足元で泣く子を「邪魔だ。」「無礼だ。」と足蹴りするやもしれないほどに、冷酷な気を放っていた棄皇が、今は驚くほどに柔らかい。

 生死を彷徨った者の世界観が変わる、性格も変わる人がいると聞いたことがある。それが棄皇にも生じたのかもしれない。

「すみません。」

 母親が子を受け取りながら棄皇の顔を見て、はっとした表情をした。

 歩み行く棄皇を追って、凱斗もまた歩みだす。その背後で夫婦の会話が聞こえてくる。

「い、今の双燕新皇じゃなかった?」

「は!?神皇家の?」

「そう。」

「新皇が香港に居るわけないじゃん。」

「そ、そうだよね。でもそっくりだったよ。びっくりするほど。」

「そうかぁ?」

 日本では、一カ月後、閑成神皇に代わり、双燕新皇が神皇として即位される為の準備が整えられるにつれ、双燕新皇の姿がメディアに多く出ていた。

「髪切るかぁ。」

 後ろ一つに結んだ髪型は、双燕新皇と同じである。

「有名すぎるな。今や。」

 笑った凱斗の脇腹に軽いパンチを入れてくる棄皇。

「さっさと帰れ、日本に。」

「つれないなぁ。もう。」

「そうだ、凱、頼まれてくれ。」

「ん?何を?」

「そうだな、明日から仕事だし、今から買いに行かねばならないな。」

 と独り言ちの棄皇をまた、変わったと思う。人らしくなった。と。






「よぉ!」

 自宅マンションの一階ロビーで交わされるには、不躾な呼びかけに振り向く慎一。

「凱さん!」

「初めてだね。マイマンションで会うの。」

 何年振りかと思い出せないほどに久しく、そして言われたように、ここに住み始めてから初めてだというのに、その声掛けは・・・と突っ込みたくなるタイミングを逃して、互いの姿の確認へと話題は移行する。

「帰国してきたばかりですか?ってか、どこに行ってたんですか?」

 凱さんは、大きなスーツケースと紙袋を二つ持っていた。

「香港だよ。新田君は買い物?」

 と慎一が抱えた沢山の荷物の中のおむつを見て、微笑む。

「双子誕生、おめでとう。」

「あぁ、ありがとうございます。」

 慎一達に双子の子供ができた事を、凱さんがタイムリーに知っているのが、意外な感じがした。

 凱さんからは、一年後ぐらいにおめでとうと言われて、ずっこける。みたいな間の抜けることが事例が多々あるからだ。

 そうこうしている内にエレベーターの扉が開いて、二人で乗り込んだ。10階のボタンを押す。

「凱さんは、25階でしたっけ。」

「うん、だけど押さなくていいよ。」

「は?」

「出産祝いを、りのちゃんに届けに行くから。」

「えっ、あぁ、ありがとう・・・ごさいます。」

 りのは嫌がるだろうなぁと一末の不安で、素直に歓迎ができない。かといって、無下にも断れない。母校の理事長補佐で世話にもなり、今や同じマンションに住むご近所さんだ。

「二人の子供は、さぞかし可愛いだろうねぇ。ずっと楽しみにしてたんだよ。」と上機嫌で笑う凱さん。

「凱さん、柴崎達の二人目の子には会いました?」

「いや、まだ。」

 (あぁ、やっぱり。)

「そっちが先でしょう。」

「ん?順番、関係ある?」

「いや無いですけど・・・いやある?」

 そんな会話も途中になって10階にエレベーターは着いた。

「新田君、試合はないの?」

「ええ、今はスタメン外してもらっているんです。育児休暇ってことで。」

「スポーツ選手もあるの?育児休暇。」

 このマンションはカード式の施錠システムで、苦労して荷物一杯の手でカバンから取り出す。

「いえ、ないですけど、一か月だけ無理を言って。」

「おお、さっすが、日本代表入りする選手は違うね。」

 日本代表入りは2年も前から外れている。それを指摘するのが面倒で、苦笑するにとどまる慎一は、玄関の扉をあけて、中へ「ただいま。」と声をかけるが、その声は、赤ん坊の泣き声で消される。凱さんを家の中へと促しながら慎一は急いで奥へと急行する。

「起きちゃったか。」

「うん。」

 泣いているのは先に生まれた子、壮大だ。りのが抱っこしてあやしているが、すぐに泣き止む泣き方じゃないのは、ここ一か月で蓄積した育児経験。

「手を洗って、食材入れるまで待ってーーそれと、お客さんが。」と説明する暇を与えず凱さんが入ってくる。

「やぁ、やぁ、すっかりママらしい。」

「げっ!」顔をしかめて固まるりの。

「下のロビーでばったり会って・・・。」

「あー小さい。可愛いねぇ。りのちゃん似かな?」とすやすやと眠る雄大のベビーベッドを覗く。

「なんで連れてくんだっ。」と怒るりの。

「だって、出産祝いをって。」慎一は綺麗になった手でりのから壮大を預かり、「よしよし、おむつかなぁ。」と声かける。

「変えた。」

「じゃ、ミルク?にはちょっと早いけどなぁ。」

「眠いんだね。僕に貸して、寝かしつけ得意だよ。」と伸ばしてくる凱さんの脇腹に、りのは蹴りを入れた。

「汚い手で触るな!」

「おうっ・・。」

「け、蹴り!?りの・・・。」

 りのの叫びに雄大が泣き始める。

「あーもうっ!」

 妊娠8か月で普通分娩で双子を出産したりの。出産直後は貧血がひどかったが、特に心配される経緯もなく一週間で退院した。子供たちは早産であったために新生児集中管理室の保育器に入れられたが、二人とも2000gを超えていて、こちらも臓器未発達などの障碍はなく、母乳とミルクをよく飲み、一か月後には退院することができた。自宅での新生児二人りの生活が始まって1か月があっという間に過ぎた。双子の世話は寝る時間と落ち着く時間を与えてくれず、りのと慎一はずっと、寝不足の日々が続いている。

「ここまでしなくても・・・。」

 子供たちを触る前に手を洗うのは、慎一もお願いするところだけど、服まで脱がした上に、除菌スプレーを全身に吹き付けるのは、ちょっとやりすぎだと思うも、りのの行動を止められない慎一。凱さんは、慎一の洗いざらしのシャツに着替えさせられた。

「にじみ出てくるばい菌が、子供らに付着したらどうする。」

「そんな、人をばい菌培養器みたいに。」

「不法侵入を見逃してるだけ、ありがたいと思え。」

「えー、僕はちゃんと、新田君に招かれて来たんだけど。」

「黙れ、唾が飛沫する。」

 とても年配者に対する、そして世話になった母校のかつての理事長補佐に対応した態度じゃない。しかし、それが許されるのは、りのが特別であって、相手が凱さんだからである。

 慎一が抱いていた壮大が泣き止み、そっとベッドに置くも、また泣いてしまう始末。ベッドで泣いたまま放置されている雄大を、仕度の整った凱さんがやっとのことで抱き上あげる。

 寝かしつけ得意とか、また誇大に適当なこと言ってるよ、と思う慎一。双子たちの寝かしつけはそうそう簡単にはいかない。しかし、凱さんの抱き方は意外にもしっかりと慣れていた。

「あーいいなぁ。こういうの。教え子が産んだ赤ちゃんを抱っこできるのって。」

「教えられてない。」

「んーよしよし、眠いねぇ。」そう言うと凱さんはまだ泣く雄大をベッドにいったん置くと、ベッドに敷いてあったタオルシーツで雄大をしっかりと包んでから、また抱き上げる。

「えっ、ちょっと凱さん。」

「こらっ、雄が圧迫して死んだらどうするんだっ。」

「こうしたほうが安心して寝るんだよ。―――ほぉら。」

 次第に雄大は泣き止み、ベッドに置いても泣かない。壮大も凱さんに預けると、見事に寝かしつけに成功する。

「へぇ~。寝かしつけ得意って本当だったんですね。」

「疑ってたの?心外だなぁ。」

「でも、どうして、そんなに育児の事詳しいんですか?結婚もまだなのに。」

「隠し子がいるんだろう。」とどこまでも凱さんを貶すりの。

「いないよ。僕は精子が作れないからね。」

「えっ?」衝撃告白に近い言葉に、説明を求めたつもりだったけど、凱さんは別に話を進めてしまった。

「子供の頃から、児童養護施設に来る赤ちゃんの世話を、よく手伝っていたんだ。」

「・・・。」

 それも、中々に相槌を打ちにくい。眉間にしわを寄せたりのと見合わせて黙った。

「凱さん、コーヒーか何か飲みます?」

「あぁ、うん。頂いて良いのなら。」とりのへと了解をとるように顔を向ける。

「・・・寝かしつけの礼だ。仕方なく飲め。」

 苦笑の顔を合わせた。

「あ、そうそう。出産祝いを渡さなくちゃね。」

「すみません。気を使っていただいて。」

「気を使うなら、家に来ないという気の使い方をしろ。」

「りの~。」

「こめん、ごめん。預かってるお祝いがあったから、えーと。」

「預かってる?」

 りのが首をかしげる中、凱さんは、玄関前に置き去りにしていた荷物へと取りに行く。








すやすやと眠る子供たち、悔しいかな、こんなに簡単に寝かしつけが成功したのは始めてだった。

「はいっ、これは僕から、おざなりに商品券にしたから、ベビー用品でも買ってあげて。」

「すみません。ありがとうございます。」

 と慎一がカップの乗るトレーを手にしてキッチンから出てくる。

 慎一は、妊娠中から、いや、それ以前から、家事のほとんど全部を率先してやってくれている。自分は乾燥機が仕上げた洗濯物を畳む程度にしかしていない。育児も私より熟す最高の夫でありパパである。

 慎一との結婚は、棄皇が作為的に望んだ事だったが、今では慎一と結婚して本当によかったと実感している。

「それから、これは、棄皇から。」

「えっ・・」

「えっ⁉」

 慎一と同じ感嘆の声を上げたが、語尾は違っている。慎一は、言った瞬間から険しい表情に変えていく。

「どうして、弥神が・・・。」

「まぁ、まぁ、棄皇も子の誕生には心から喜んでいるから、受け取ってやってよ。」

 慎一が棄皇の事を嫌うのは仕方がない。あの人の言動にかき乱されたのは私だけじゃない、慎一もだ。慎一の性格を思えば当時、私以上に苦しみと割を食ったはず。

 棄皇からとテーブルに置かれたのは、50センチ四方の少々大きめの箱で、牡丹の花が印刷された包装紙が中国的だった。

 若干の躊躇を持ちながら、それを手にする。

「開けて、良い?」

 慎一に聞いたつもりだったが、慎一は憮然として祝いの品から顔をそむけている。

 代わりに凱さんが「どうぞ。」と返事をする。

 包装紙を破くと無地の白い箱が出てくる。蓋を開けると、2組のベビー服と靴が綺麗に折りたたまれていた。ベビー服と言っても、光沢のある生地で唐草模様の織り込まれたチャイナ服デザイン。靴の甲には子供たちの名前が刺繍されていた。壮大が緑で、雄大が青色だった。

「可愛い。」青いほうを取り出して広げた。手に触る感触が驚くほどに柔らかい、シルクで作られていた。

「歩き始める頃に着られるサイズを注文していたよ。」

(あの人がベビー用品を注文して購入・・・)

 想像の難しい裏切りのような行為に、思わず笑ってしまった。

「どうしたの?」

「ううん、何でもない。歩き始めが楽しみ。ね。」

「う、うん・・・」

 複雑な表情でコーヒーをすする慎一。

「さて、帰るよ。」

「もう、ですか。」と慎一。

「これから、麗香の所にも祝いを持っていかなくちゃならないからね。」

「そっちも、まだだったんですか。」

「もちろんっ」

(何の威張りだ。)

 と心の中で突っ込みながらソファーから立ち上がった。

 麗香の所は、もう3か月近くも前、4月10日に生まれている。名前は紗香。

「あぁ、服を着替えないと。」

「脱ぐな。」

「でも・・・」

「汚染された服なといらない。持って帰れ。」

「えぇ!」首の後ろを掻く凱さん、その癖も変わらず。

「じゃ、育児頑張って、もし寝かしつけに困ったらいつでも呼んで。ご近所さんなんだから遠慮なく。」

「いつでも居ないだろっ。」

 と慎一とハモった突っ込みをして、声にびっくりしたのか、雄大がぐずった声を上げた。慎一がすかさずベッドへ向かい、ポンポンとやさしく体をたたく。

「あぁ、いいよ。見送りは。」

「するつもりない。」

「もう、りのちゃんは相変わらず、つれないねぇ。」

 リビングから外へ、玄関の扉が閉まる音を聞いてから、私は思うところがあり、追いかけた。

「ちょっと、塩、撒いてくる。」

「ええっ。」

 スーツケースを引っ張る凱さんは、エレベーターに乗り込むところだった。

「凱さん!」

 半身入りかけた身体をバックして振り向いてくれる。

「どうした?」

露「あの人に・・・何かあったんでしょう。」

 言語を変えた。慎一が不意に追いかけてきて聞かれたらいけない。

露「あの人って?」

露「棄皇。」

露「何かって何?」

露「それを聞いてるの。」

露「どうして、そう思うの?」

 あの日、私の心臓の鼓動が停止したあの日から、出産までの間、棄皇の意識が私の中に入っていたから、なんて言えない。

露「問いを問いで返すってことは、あったのね。」

露「まいったなぁ・・・」と凱さんはまた首の後ろを掻く。その右手の掌に、これまでになかった傷跡があるのを見つける。

エレベーターの扉が閉まって、表示のランプが階下へと下がっていく。微笑み見つめられる間の取り方が、ミスターグランドに似ていた。ため息を一つ吐いた凱さんは、やっと口を開く。

露「ちょっとした事故にあってね、しばらく入院していたんだ。あぁ、でも大丈夫だよ。すっかり元気になって、こうして祝い品を買いに行けるほどなんだから。」

露「事故・・・」

露「そうだよ、事故、交通事故。心配ないよ。すっかり跡形もなく傷も綺麗に治っている。」

 そうだろう、と思う、私たちは治りが早い。

 凱さんの不自然な言い方と、棄皇のレニーでの立場と役割を考えれば、交通事故ではない。きっと、とてつもなく重大な異変、棄皇の意識が私の身体に入りこんでくるほどの何かが、あの人の身の上に起きた。そして、その要因は、

露「まだ、ミスターは・・・」 命を狙われたりしているのか?と聞きかけて口をつぐんだ。「何でもない。」

 それを聞いてどうするのだ。と心の中で叱咤する。私はもう、あの世界から身を引いた人間だ。

露「気にかけていた事を、伝えるよ。」

露「伝えるなら、こう言って。」

「迷惑よ、2度としないで。って。」

「えっ?」

 困惑に顔しかめる凱さんから踵を返した。

「気まぐれの行動はやめて、ふざけんじゃないわ。」

「ええ!?いや・・・そこまで嫌わなくても・・・元恋人に。」

「ちゃんと伝えてよ。」振り返り睨みつけた。

「は、はい。」

(ほんと、身勝手なんだから。祝いなんかで許されると思って?)

 私は大きく深呼吸をして、引っ張られそうになっている魂に新鮮な空気で釘をさし、気持ちを入れ替えた。

 目前にあるのは幸せのマイホーム。

 (私は、家事と私にマメな新田慎一の妻、そして双子の母親なの。)

 様子を見に玄関扉を開けた慎一に私は真っ直ぐ見つめた。

「ただいま。」

「お帰り、りの。」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

虹色の記憶 湯浅 裕 @morotam

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ