第25話 知る想いは深緋色に満ちて



 香港の高層ビルに押しつぶされそうに建つ小さな霊廟、傾いた陽に反射して派手な装飾が、赤、金を色濃く際立たせている。 

 入り口の前で線香を売る老婆に、香港ドルを一枚渡し、細長く茶色のまっすぐな線香を買った。中へと足を踏み入れると、天井から渦巻いて傘のようになった線香が、無数につるされている。その線香には奉納者の名前と願いが書かれた赤い紙がつけられており、煙を外に出す扇風機の風でくるくると回っている。

 500年前に徳を積んで死んだ僧侶を祀った廟だった。数人の参拝客が中に居る。仕事帰りに立ち寄ったと思われる若い社会人風の女性。薄汚れたシャツを着た頭髪薄い老人。買い物帰りに立ち寄ったと思われる婦人は、小さな子供の手をひいている。それらの先客と距離をとりつつ、廟の奥へとゆっくり進んだ。線香の匂いと煙が濃厚になり、体にまとわりつく。 青銅製のろうそく立てと線香を立てる鉢がそこら中に置かれ、廟の中を橙色に照らしていた。木製の床は軋んで歩くたびに音が鳴る。土地の勾配の関係か、奥に行くほどに数段の階段を上がらなければならず、歩幅の合わない段数を歩んだ。胸の位置にある祭壇には、煌びやかな衣装に包まれた銅像が置かれて、その手前には多数の果物やまんじゅうが供えられていた。銅像は、何重にも煌びやかな衣装を着せられて重そうに、顔もわからなくなっている。信仰対象との距離は、日本の寺より近い。それだけ、信仰心が身近の表れか、それとも、ただ、土地不足なだけなのか、わからない。

 祭壇に置かれたろうそくの火に、買った線香の束の先を近づけた。火が大きくなって燃える線香を一振りして消すと、たちまち煙が立ち上り、新しい線香の香りが体を取り巻く。手は合わさず、一歩下がって、その銅像を見据えた。

 亡き人を崇める精神が、我にはない。

 崇めるとは、自分が出来ない事を相手に願い乞う事だ。

 人は亡き人にまで欲深く願う。願われる者らからしたら、たまったものではない。たかが、果物や酒の貢ものだけで、何故、願いを叶えてやらねばならぬのか?

 腰を曲げた老婆が、新たに廟に入って来て、銅像の前の台座に果物を備えた。手を合わせ熱心に拝んだ後、ぐるりと回ってから我の右横にある線香台の灰を慣れた手つきでかき、整え始めた。

「遅くなりました。申し訳ございません。」

 こちらを振り向くことなく、持っていた籠から線香を取り出し、蝋燭から火を得る老婆。

「よい。どうだ?」

「はい。李子然の仕込みは終わりました。もう完全にこちらの手の内です。」

 手をすり合わせて銅像を拝む、老婆。

「よし。労苦であるが、次の仕事へと移行して貰う。」

「労苦などありません。何なりとお申し付けください。」

「台湾の青蛇幇に潜入し、出来る限り頭に近しい者となり情報を流せ。」

「青蛇幇・・・。」

「長い潜入になるやもしれぬ。出来るか?」

「はい。もちろんです。ご命令とあれば何年でも。」

 老婆、いや、飛龍は深く頭を下げる。

「資金は入れておく。何時から開始できる?」

「青蛇幇は、昔、馴染みがある組織です。現在の状況調査に一週間ほど頂きましたら、十日後から開始できます。」

「馴染みある?危険ではないのか?」

「若気の至りで組織を抜け出すことなど、あの世界ではよくある事です。そして出戻る事も。逆に潜入しやすいと言うものです。」

「調査に十日かけよ。開始は2週間後に。」

「痛み入ります。」

 老婆扮する飛龍は、拝み終えたふりをして籠を手に、ゆっくりと去って行こうとする。我の命令に従う飛龍の懇親的な動作を慈しみ、思わず声をかけた。

「飛龍、危険は冒すな、自身の安全は我の為と思え。」

 声をかければ、せっかくの演技も無駄になる。飛龍は驚いたのだろう、演技を止めて立ち止まり振り返ると、老婆とはかけ離れた素早い動きで、我の目前で片膝をついた。

「そのお言葉、心身に賜ります。」

 教えもしないのに、飛龍は皇前交手片座姿の一礼をした。

「その忠義、頼りにしている。」

 我は飛龍の頭にそっと手をのせる。飛龍はまた深々と頭を下げてから一歩下がり、また老婆そのものの動作で廟から出て行った。

 我は再び、半眼に見下ろす銅像を見上げた。

「頭が高い。飛龍を見習え。」

 そう言った直後に袖に仕舞ってある携帯が、着信メールを知らせる。頭目からの、時間と店名が記されただけのショートメール。そこに来い、という指示だ。

 我は銅像から踵を返して、廟から出る。

 空は紫色に染まり、街は早いライトアップに白く霞めていた。



 深夜に近い時間、香港島のビクトリアピークを越えた中腹の門前でタクシーを止めた。レニーのIDカードで支払いを済ませ降りると、コスプレのような服を着た門番が丁寧な物腰で、名前を聞いてくる。頭目の名前を告げ、タクシーで支払ったレニーのIDカードを見せると、カラーを視認した門番は、若干驚いた表情をして、我とカードを見比べてから

中「失礼いたしました。どうぞ。」とやっと中に入れてくれる。続いて「ご案内いたします。」と言うのを断って歩き出した。

 タクシーのまま中へ入る事も出来た。門前で窓越しにIDを見せれば建物前まで、タクシーを入れてくれるのだが、外の空気が吸いたかった。樹々が作り出す深緑の空気と深い闇。虫の奏でる静けさの中の雑音。香港の中心街に居ると、こういった深い闇の自然な場所は中々ない。そんな闇独特の心地よさを深い呼吸をしながら歩いた。しかし、闇は長くは続かない。直ぐに道は大きく曲がり、樹々の隙間は次第に広がり、九龍湾を望む100万ドルの夜景が見えくる。見飽きた派手な夜景だ。100万ドルの価値も、手に入れてしまえば、ダダのゴミだ。だから頭目は、このような静かな場所を好んで我を呼ぶ。大都市ほど、静けさこそが価値ある物となる。

 更に道を下ると、その100万ドルの夜景は再び樹々に隠れて闇となる。そして、ギリシャ神話のような建物の入り口が、闇にほんのりと浮かびあがる。建物の軒に入ると、蝶ネクタイをした黒服の男が中から出て来て、

中「お待ちしておりました」と頭を下げる。

 上の門番が連絡したのか、それとも監視カメラを見ていたのかだろう。流石にこの先は勝手に歩くということは出来ないので、黙って案内されるがままについて行く。

 中も外の照明と同じように、照度を抑えて暖色系にまとめられていた。左へとカーブする室内を歩いていく。直ぐに右側が一面ガラス張りになった。そこで、この建物がドーナツ型になっているとわかる。ドーナツ形に間隔をあけて、テーブルとソファが置かれた贅沢なバーである。ガラス張りの外、ドーナツの中心には、首と腕のない白い彫刻が天を仰いで、今にも駆け出しそうなポーズで佇んでいた。

 角度的にもその彫像が一番良く見える場所に、頭目は既に座っていて、ブランデーを飲んでいた。

 案内人に自分のグラスを頼み、数段の段差を降り、頭目の座るソファの斜め後ろに立つ。頭目は優雅に隣の席に座るように手の平だけで指示。一礼してから、従って座った。

 我のグラスが届くまで、頭目は中央の彫刻を鑑賞しながら、黙ったままブランデーを嗜んだ。グラスが届き、「頂戴します。」と一口含ませて、やっと頭目は語る。

「あれは、顔や腕がないからこそ、美しい。」

「人の想像を掻き立てるからですか?」

「想像を超える美は、この世にないのかもしれないな。」

 頭目はグラスを振り、氷を鳴らした。

「帰らないのか?今なら華族制度の廃止に乗じて、神皇家もお前を迎え入れやすいのではないか?」

「古より取り巻いていた信者たちの組織が、解体されたと言うだけです。神皇家自体の神格化意識、つまり国民の宗教観による意識は何も変わりません。」

「不思議な宗教観を持つ国だ。」

「頭目は、だからこそ、カイをどうしても手に入れたかったのでしょう?」

「そうだ。ただ力ある者が頂点に立つだけでは成り立たない国、国民性、その国を水面下で動かすには、華族と繋がる柴崎凱斗は、十分に価値ある者として欲しかった。」

「頭目の着眼点は的確でした。」

「あぁ、神皇家継嗣まで手に入れられるとは思ってもいなかったがな。」

 頭目はやっと我へと顔を向け、微笑する。

 この微笑みで数々の女を魅了し、殺してきた。

 りのもまた、魅了された者の一人だ。殺されなかったのは奇跡だったと言える。

「で、どうなのだ。」

「帰るつもりはありません。私の価値は、継嗣の意思を持ったまま国の外に居てこそ、切り札となりましょう。」

「誰の切り札か?」

 頭目はブランデーを煽り、頭と腕のない彫刻に再び顔を向けた。

 レニー・コート・グランド・佐竹。世界流通企業レニー・ライン・カンパニー・アジア大陸支部の代表。

 アジアの物流網、世界の情報網を牛耳る権威は、小さな島国日本の権威を超えている。神皇家の継嗣である我の価値など、大した切り札になりはしない。だからこそ「誰の?」と言って笑うのだ。

 そう、我の価値は、もう我の切り札でしかない。

 日本は来年4月に、正式に華族制度を廃止する。元々、華族制度があったからと言って、市井が不利益だったわけではない。華族制度の廃止により市井が変わることもない。神皇家を取り巻く神儀等の役割組織図などが大きく変わるだけだ。

 神巫族の末裔という血脈だけで地位を与えた華族制度の不当性が解体されるにあたり、その恩恵だった無課税制度が無くなると、神皇家に忠義する家は一部を除いて、ほぼ離散していった。華族会の解体後、神皇家を支えるのは、有事の際の皇政政務会に関わる人材だけとなり、それは華選の者達となる。華族会は今、正式の制度廃止に向け、華選に値する人材を多く集め、宮内庁内部に組み入れる組閣をしている。

 柴崎凱斗はその組閣の一任者として、半年以上前から、我々レニーとは離れた立場をとっていた。

 頭目は、カチンとアイストングでペールを叩き、音を鳴らした。耽っていた我を覚醒させる為だ。我は空になっていたグラスをテーブルに置いた。頭目は我のグラスに氷をつぎ足してくれ、ブランデーを注ぐ。

 我は酒で酔った事がない。どんなにアルコール度数の強いものでも酔わない。酔うには足りない物があるからだ。それは、民の崇めだ。民が神酒を捧げて崇める。民の崇めに酔いしれた神が、程よく地へと恵を施す。それが神と民のちょうどい良い関係だ。

 ロックを飲み干した。

「一か月後の、レニー・ライン・カンパニー創業500年の祝賀式典に、行く準備をしろ。」

「私がですか?」

「秘書としてお前を連れていこう。」

「は?」

「式典自体は大したものではないが、総本部の面々と一度に面通しできる、この上ない機会だ。」

 あまりの突然の事で、思考が及ばない。そんな我を見てクスっと頭目は笑う。

「私に銃を突き付けて、認めないかと問うたのは棄皇、お前だ。」

「は、はい・・・。」

「この5年分の仕事ぶりを認めよう。不服か?」

「いえ。」

「その服装はやめておいた方がいいな。必要な物はクレメンティに聞いて用意しろ。」








 


 りのが髪を切った。背中まであったロングの髪をショートヘアにして、身長を少しでも高くしようと底上げシューズを履き、対する年配者達に舐められないように、黒の飾り気のないスラックススーツを着て、廊下の床を叩き割れんばかりの足取りで、勇み歩んでいく。

 エレベーターを呼ぶボタンを、そこに蚊でもいたかのように叩き押した。

仏「っんのぉクソじじい、馬鹿にしやがって。人種差別撤廃国際連合に訴えてもいい案件だぞ。」

 到着したエレベーターに乗ったりのは、フランス語で怒りを叫ぶと、唇をかみしめた。

「りの、もういいよ。」

 フランス語自体は解らないが、りのが何を言って怒っているのか、慎一は十分にわかっていた。

「良くないっ、お前がもっとしっかりと意見を言わないから、こんなことになるんだっ。」

「フランス語を話せないのに無理だよ。」

「英語は喋れるだろ。あいつら、英語は話せる。話せる癖に、わざとフランス語しか使わないんだ。そうやって、フランス上位主義で、アジア人を見下してっ。」

「実際に成績を残せなかったのは事実で、俺の実力不足だから。」

「ああそうだ。だが、お前並みの実力不足は他にも沢山いる。お前だけじゃない。なのに、すべてをお前のせいにするチームの在り方に異議を問うた。なのに、なんだ!あのくそ爺どもっ。」

 3年前、アイルランドのノッティンガムACからフランスのマルセイズのプロサッカーチームに移籍した。新田慎一のフランス語通訳兼現地マネージメントとして、日本サッカー連盟が真辺りのを任命した。これは完全に柴崎家の(主に柴崎麗香による)ごり押しで決められた事だったが、りのは思いのほか断らず、請負ってくれた。それから3年、りのは懸命に慎一のマネジメントをやってくれた。ただの通訳で相手の言葉を伝えるだけじゃなく、フランスと言う国の社会性までをアドバイスしてくれて、りのはサッカーの知識はもちろんの事、歴史やスポーツ概念などを勉強して、慎一の選手生活を十二分にサポートしてくれたのにもかかわらず、この3年間、良い成績を残せなかった。

 一年目は「言葉の通じない文化の違いに戸惑った」と言い訳が出来ても、二年目、左足半月板を損傷したのは、不運だっただけでは済まされない。手術をして半年の療養を強いられた。復帰後、挽回の為に必死に頑張ってきたが、思いのほか体は動かず、不甲斐ない成績となった。チームマルセイズは、そんな慎一に契約金の大幅減額を提示してきた。文句があるなら契約更新しなくても構わないという姿勢のチームに、慎一は当然だと納得したが、りのが納得しなかった。

 怪我をして、戦力外になった選手は慎一だけじゃない。慎一よりも復帰に時間のかかっている選手がチームにはいる。その選手はフランス人だったために、手術環境やリハビリ環境が慎一よりも手厚く施されていた。その違いをりのは納得できずに異議をずっと問い、経営側と交渉してきた。しかし、アジアを見下す欧州上位主義が、こういうところに出る。一年目にしっかり成績を残していれば、その差異はそれほどでもなかったのだろうけれど、実績を出さないアジア人は、ただのお荷物でしかない。

 りのは険しい表情で左のこめかみの上部の髪をむしり始めた。中等部2年の時、教頭に殴られた時に作った傷痕だ。りのはイライラするとそこを触り、あげく髪をむしり始める。

「りの、やめよう。血がでるよ。」

 止めようとした慎一の手を、バシッと振り払い睨むりの。

「・・・ごめん。」

 つい謝ると、りのは増々眉間のしわを濃くしてから、視線を外した。ビジネスバックを握る手が震えている。

「・・・力不足なのは私の方だ。良い条件を取れなくて申し訳なかった。報告書並びに契約書のコピーをいつもの通り、藤木に送っておく。それで私の仕事は終了だ。次はもっといい人材をマネジメントに置いて活躍できることを期待する。」

 ビジネス口調で言い終わるのと同時に、遅いエレベーターも揺れてグランドフロアについた。りのは一切、慎一に目を合わさずにエレベーターを降りてビルから出ていく。

(りの以上にいい人材なんていない。成績を残せなかったのは、誰のせいでもない。自分のせいだ。)

『新田慎一、その名が世界を駆けて届くのを楽しみにしている。』

 すぐそばで、その夢の叶いを見守っていてくれていたのに、結果を出せなかった。

 慎一は自分の不甲斐なさに、どうしようもない諦めを抱き、大きく息を吐いてからりのを追ってビルから出る。すると、マイクやカメラを持った一団が、駆け寄って来て自分達を取り囲んだ。日本のマスコミだ。

「二人がお付き合いしているって本当ですか。」

「シーナさんの告白は本当ですか。」

「真辺さん、あなたは華選と言う立場を利用して、サッカー連盟に圧力をかけ、新田慎一のマネージメント契約を取ったと。」

「サッカーには全くの素人の真辺りのさんを、マネージメント契約で側に置いたのは、やはり恋人だったから?」

「シーナさんは、二股をかけられていたって怒っています。それについては?」

「ちょっと、皆さん、止めてください。」

 慎一が声を張り上げても、マスコミは聞きもせず、主にりのにマイクを向けて、出鱈目なインタビューをする。

「真辺さん、あなたはサッカーに関しては素人でしたよね。新田選手のここ数年の成績不振は、あなたのせいだと言われています。日本サッカー連盟も、新田選手のマネージメントは他の人を用意していたのに、あなたは華選という立場を掲げて言う事を聞かなかったとか。」

「やめてください。成績不振は誰でもない、自分の力不足です。」

「真辺さん、シーナさんに対して何かコメントは?」

 マスコミに押されて、りのは後退りしたヒールが石畳の溝に入り、転倒しそうになった。慎一は慌ててりのの体を抱き、転倒から守った。そのシーンをカメラが容赦なく撮影する。

「いい加減にしてください!危ないじゃないですかっ。」

 慎一が怒っている最中も、カメラのシャッターは切られていく。

 またこういう写真がネタになるのだろうとわかっていても、押し倒されそうになったりのを守らないわけにはいかない。守っても、守らなくても、どっちにしろネタにされ、写真はばら撒かれ、あることない事を適当に書かれる。

 丁度、空きのタクシーが向かってきたので呼び止めて、りのの肩を抱えマスコミの間を抜けた。りのだけをタクシーに押し乗せ、慎一はマスコミに振り返った。

「真辺りのをマネジャーとして迎え、契約したのは自分が切望したからです。彼女とは古い付き合いだからこそ、彼女の類まれな才能を尊敬し、マルセイズ移籍に必要だと思ったからこそです。シーナが何を言おうとも、あなたたちマスコミが何を憶測しようとも、真辺りのの才能は、嘘偽りない実績です。当時、彼女以上に最上の通訳兼マネジメント者はいなかった。それをわかって取材していますか?」

「ですが、彼女はサッカーに関しては素人で。」

「僕も素人ですよ。チームとの契約などの交渉術はいまだに持てない。フランス語も未だヒアリングもおぼつかない。しかし、彼女はフランス語だけじゃなく、ドイツ語、オランダ語、もちろん英語も、沢山の言語が堪能で、ヨーロッパリーグ転戦において、それが、どれだけ彼女の才能に助けられたか。しかし、それを僕がちゃんと成績として実を結べなかった。すべては、僕の力不足のせいです。応援してくれた皆さんには申し訳なく思っています。」









「うん、わかった。新田の意思を確認して、マルセイズとの契約は考えるよ。」

「ごめんなさい。」

「謝ることないよ。ミスりのの仕事は完ぺきだったよ。やり残したことでもある?」

「ううん、全く。私は全力でやったわ。」

「でしょう。素人だと自覚していたのは、誰よりもミスりのだった。だから誰よりも勉強しアジア人だと見下されない様に最善を尽くした。昨年には、解雇通達されてもおかしくなかったのに、留まったのは確実にミスりのの成果だったよ。」

「ギリギリよ。最低な条件だったわ。」

「日本に戻ってくる方がいいかもしれないな。見込んで獲得しようと検討し始めたチームもあるから。」

「そう。選択が複数あるならいいわ。」

「うん。日本の事は任せて。」

「ええ、私はこれでお役、終了ね。」

「新田がマルセイズに残っても、もうマネジメントはしない事に心変わりはなく?」

「もちろん。」

「即答だね。」

「期待しないで、わかっているでしょう、藤木も、これ以上はダメたって。」

「うーん。ダメって事はないと思うよ。別の観点からすれば。」

「その期待もしないで。」

「ごめん、ごめん。で、ミスりのは、この後どうするの?」

「報告書の作成が終わったら、旅行にいくつもりなの。気ままに一人旅。」

「そのまま行方をくらまさないでよ。」

「ふふふ、したいけれど、させてくれないんでしょう。」

「華選に見合う人材は貴重だからね。凱さん、俺にまでならない?なんて言うぐらい今困っているよ、あの人。」

「なったらいいじゃない。」

「無理だよ。認定項目が何もない。」

「認定項目に拘るからよ。普通に国家戦略精鋭として、人材確保すればいいのに。」

「そうすると、内閣と何ら変わらない。皇政政務会の発足基準は、内閣より上を行く精鋭戦略が出来る特別な能力集団でないと意味がないからね。」

「だからって、やる気のない私なんかを確保していても、人件費の無駄でしかないわ。」

「そんなことないよ、あのレニー・コート・グランド・佐竹が一目置いたミスりのなんだから。」

「一目置かれたんじゃないわ。私は切り札にされただけ。ミスターグランドが欲しかったのは・・・もう、過去はいいわ。」

「ごめん、どうも、今日は地雷ばかり踏むみたいだ。」

「違うわ、私のせいよ。マルセイズのわからず屋達を相手にして心が荒んだの。」

「休息が必要だね。旅で心癒してきて。」

「ええ、そうする。」

「じゃ、またね。」

「うん、また。」

 りのちゃんとの電話を切り、亮は大きく息を吐いた。予想はできていた事だが、こうも予想外のことがひとつもないと、逆に落胆が大きい。

 亮は今、日本サッカー連盟の常任理事をしている。常翔学園信夫理事長の後釜として、代理ではなく正式任命されて2年が経った。新田の事を含めて、常翔学園サッカー部関連は、すべて亮が引き受け、柴崎家での立ち位置は、翔柴会の文香会長の秘書に戻った形である。その文香会長を迎えに、車で都内へ向かっている途中でコールが鳴ったりのちゃんからの電話だった。

 亮は文香会長のベンツのシフトをドライブに入れ、コンビニの駐車場から車を出した。すっかり陽は暮れ、道路沿いの店はどこも、間近に迫った夏の季節をイメージする飾りでポップな装いを醸し出している。

 文香会長は最近、華族制度廃止に向けた組閣が忙しく、凱さんと一緒に行動をしている事が多かったのだが、今日は珍しく亮に迎えに来てほしいと連絡があった。何かの事情で、凱さんが柴崎家に戻れなくなったのだろう。迎えの指定場所は都内の会員制割烹旅館だった。泊まりよりも政治家たちの会談の場に使われる事が多い旅館だ。高級住宅街の路地に店の門があり、そこで予約の有無とセキュリティチェックをしないと入れない仕組みの店である。門をくぐって坂道を歪に上がっていった先に、5つの個別に建てられた部屋がある。約束の時間よりも30分早く着いてしまったが、門前で文香会長の名前を出し、自分の免許証を出してセキュリティチェックが済むと、愛想よく中へ通してくれた。奥から2番目の紫陽花の棟だと教えてくれる。 

 5棟ある部屋は、それぞれの季節に見どころの庭を有し、それにちなんだ名前が付けられている。会員制の中でも、季節によって変わる旬の見どころの部屋を使えるのは、ごく限られたVIP会員である事も、ステータスが上の証しだ。ベンツをその紫陽花の棟の前に停めると、どこからともなく、ホテルのフロントマンのような風貌の男が近寄ってくる。亮が窓を開けると、その従業員が亮の名前を告げた。

「藤木亮さま、お待ちしておりました。」

「えっ?迎えですが。」

「柴崎文香様よりご案内差し上げるよう賜っております。車のキーはこちらでお預かりいたしますので。」

「そ、そう・・・。」

 嫌な予感がしたが、ここまで来て拒否もできない。亮は言われた通り車を降り、車のキーをその従業員に預けて、案内されるままに棟へと入った。

 (まさか、文香会長、酒の飲みすぎで泥酔して歩けないとかじゃないだろうか?)とも、心配になる。

 棟の回廊を抜けると、開けてライトアップされた庭園、淡く虹色に変化した紫陽花が幻想的に美しい。

「藤木亮さまを、お連れ致しました。」と従業員が廊下に膝をついて、中の座敷に声をかける。

「ありがとう。どうぞ、入って。」と文香会長の声。

 酔っぱらった声じゃないとほっとするも、なぜ座敷まで自分が呼ばれたのだろうと首を傾げながら、従業員と入れ違いに廊下を進み出る。

「失礼します。」

 下げた頭を上げた視界に入った途端に、亮は顔を顰め固めた。藤木守幹事長、自分の父親が文香会長と対峙して座っていた。

「藤木君、こちらに。」と文香会長が立ち上がる。「ごめんなさいね。こうでもしないと、あなたは会おうとしないから。」

 踵を返して帰ろうかと思うも、それを察したかのように文香会長は「さぁ。」と言って亮の腕をとり、強制的に座敷の中へ招き入れる。そして、さっきまで座っていた文香会長の座椅子に亮を座らせた。

「困ります。」

「えぇ、大いに困って頂戴。」と意地悪い微笑をして亮の肩を押した。「じゃ、これにて失礼いたしますね。藤木様。」

「申し訳ございませんでした柴崎様。ありがとうございます。」

 文香会長は、しっかりお話しするのよ、と訴えるような表情を残して部屋を出ていった。

「柴崎会長に手間かけさせて。」と亮は嫌味をぶつけた。

「提案して頂いた事だ。」

「谷垣さんは?」

 いつも一緒にいる谷垣さんや、こいつを取り巻くSPつきの車が、店の敷地内に見当たらなかった。

「お前が来る前に移動して、また戻ってきている頃だ。」

「それは、ご足労なこった。」

「そうだ、そんな足労を周囲にかけなければ、息子と話もできない事が異常だと思え。」

「俺のせいかよ。」

「お酒のご用意が出来ました。」

 女性の声が襖の向こうからした。

「どうぞ。」

「失礼します。」

 着物の女性が、酒とつまみの小鉢をテーブルに並べて出ていく。酒は福岡の地酒だった。

「酒なんかいい。用件は何だよ。」

 父は大きくため息をついてから、正座を崩し胡坐をかいた。

「父の容態が悪い。医者から、覚悟をと言われている。」

「なのに、こんな所で晩酌とは優雅なもんだな。」

「お前もだ。優雅に放蕩息子など、していられなくなる。」

「まさか、文香会長にそれを?」

「当然だ。これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいかないからな。」

「ちっ。」

 亮は舌打ちをして、わざと苛立ちを表した。

「お前が藤木家次々当主であることは逃げられん。どうであろうと、一族には納得の体裁を組まなくてはならない。」

「有権者だけじゃなく、身内である一族にまで体裁を繕わなければならないとは、異常だぜ。」

「異常でも、藤木家一族の存亡の為には必要な事だ。」

「くだらない。体裁に縋らなければ存亡出来ない家など、さっさと滅亡してしまえばいい。」

「理想と現実は違う。お前は良く知っているはずだ。」

 そう、よく知っている。

 藤木家が清廉潔白にここまで大きくなった訳じゃない。薬の原料となる植物を栽培し薬を製造して、人の弱みに付け込んだ金額で販売して財を成し、武士衰退の時には、土地屋敷を担保に金を貸し、返せなくなった武士の領地と人材を奪って権力を得た。一地方の豪族だった藤木家は、そうした金と権力と人脈を使い、中央政権に進出し総理大臣を輩出する名家となった。もう、藤木家当主の一存では、フジ製薬株式会社の関連会社を含め、事を大きく変えるなど出来はしない。滅亡などもってのほか。総理大臣を輩出した名門藤木家は、対外的役割を担っていかなければならないのだ。

「・・・わかっている。」

「教育現場に身を置いていたのは良い体裁だ。」

「俺は、そんなつもりで柴崎家に仕えていたんじゃない。」

「どんなつもりでも、整った公示が大事なのだ。」

「嘘で塗り固められた公示の政界で、市井をうわべだけで撫で繕う。」

「深堀は危険だと学んだはずだ。3年前に。」

 注がれていた酒を煽った。

「もういいだろう。これ以上は、柴崎家も体裁を繕うのに困られる。」

「それもわかっている。身の引き際ぐらい自分で測るさ。」

 父も酒を煽った後、幻想的に彩った庭へと顔をむけた。その本心に羨ましさが溢れる。

「あがいた成果だな。自分で測れる選択肢があるというのは。」

「あると言えるのか?すべて、あんたの都合のいいように作った身の置き場だろうが。」

「私の都合ではない。藤木家の都合だ。」

「どっちでも同じだ。」

「お前は政治家に向いている、私以上に。今からでも遅くはない。」

「・・・それも、わかっている。あんた以上に。」

「賢明な息子で良かった。」

「まだ、決めたわけじゃない。」

 まだ、何をあがくのだと怪訝な表情を向けられた。

「時間をくれ、俺にも都合がある。」

 父は大きくうなづき、また酒を注いだ。











 朝早く、速報が流れた。

【第49代内閣総理大臣だった藤木猛氏が心疾患による肺炎で亡くなりました。去年89歳。】

 柴崎家では、食事中のテレビはご法度で、食事を済ませた後に、やっとテレビがつけられる。食後のコーヒータイムに各々が新聞やテレビのニュース、昨今ではスマホで、世の情勢を確認してから、麗香は小学部のある横浜へと出勤する。

 そのコーヒーを木村さんが運んできたタイミングで、その速報がテレビに流れた。

「まぁっ、大変!」とお母様は立ち上がる。

 麗香もつられて立ち上がったものの、何をしていいかわからない。

 藤木のお爺様が亡くなった。具合が悪く入院なさっていると、お母様から聞いてはいたけれど、亡くなってしまわれるほどの病状だとは麗香は知らなかった。

「木村さん、喪服を用意して頂戴。」

「和装、洋装どちらを。」

「洋装でいいわ。」

「かしこまりました。」

「お母様、私は?」

「うーん。藤木君の今の立場から考えると・・・」と言っている間に、玄関の方で扉が開く音がした。

 お母様が食堂を出ていくのを麗香も追った。

「藤木君!今っ。」

「おはようございます。」

 変わらず、姿勢よく頭を下げる藤木は、黒いスーツに黒ネクタイをしていた。

「申し訳ございません。未明に祖父、猛の訃報が届きました。」

「ええ、今テレビで速報が流れたわ。」

「お騒がせして申し訳ございません。」

「いいのよ、そんなこと。わざわざ来てくれなくても、福岡に行かなくてはならないでしょうに。」

「はい。それで、しばらくの休暇を頂きたく。」

「ええ、もちろん。そうだわ、通夜や葬儀はどこで?聞いておかなくちゃ。」

 お母様が、まだ玄関で立ち尽くしていた藤木を屋敷へと上がらせて、翔柴会の事務所へと促す。

 藤木は、茫然としていた麗香にわずかに頭を下げただけで、何も言わずに屋敷の奥へと歩んでいった。

 疎外感。は仕方がないのは理解している。今は翔柴会会長のお母様の正式な秘書である。いくら三年前に自分が雇うと言い、出て行こうとした藤木を引き留めたと言え。麗香自身は、もう立派に常翔学園小学部の理事を務め、誰のサポートなしでやっていけている。

 福岡の藤木家の自宅で、明日通夜をし、明後日葬儀をした後、一日開けた3日後に、近くの市民会場にて一般向けの告別式をするという。なんとも大規模な葬儀スケジュールに驚くが、それも総理大臣を輩出した名家、藤木家ならば当たり前で、それでも昨今の流れで縮小気味にしていると聞いた。

 藤木はとりあえず1週間忌引きを取り、福岡へ向かった。柴崎家からは、お母様だけが福岡へ行き、通夜と葬儀に参列をして、告別式は学校法人翔柴会の名前で花輪を出すだけと決定された。

 落ち着かない朝を迎えたが、麗香の立場上、何の変化もなく普段通り小学部に出勤して、10時ごろに新田から電話が入る。藤木家の訃報を知って葬儀に参列しなくていいのかと聞いてくる。

「場所が関東近郊ってなら、参列しなくちゃいけないのだろうけど、福岡だしね。柴崎家はお母様が大臣と親密だから参列するけれど、私は行かなくていいってなったわ。」

「そうかぁ。香典だけでも渡した方がいいかなぁ。」

「うーん。嫌がりそう。」

「だな。俺も言いながら、藤木が受け取るイメージがわかなかった。」

「私も色々と考えたのよ。告別式の会場に、友人一同で花輪を添えて貰おうかなぁとか。でも勝手にやったら怒りそうで。」

「あいつの、家の事情は難しいからなぁ。」

「そう、結局、逆に何もしない方が藤木の為だと考えつくのよ。」

「だな。」

「そう。」

 新田は電話口で大きなため息をついた。

「そうだ。どうするの?藤木は1週間、こっちに戻って来れないわよ。」

「そっか・・・。」

「きっちり1週間後には戻ってきます、なんて言ってたけど、相続やら家督の手続きやら色々で、きっと1週間じゃ無理だと思うわ、あの家の規模だもの。」

「うーん。」

 日本での新田のマネジメントは、藤木が日本サッカー連盟の理事と兼任してやっている。新田はフランスのマルセイズとは契約を切ったが、次の所属チームとの交渉に難航していた。昨年の膝の怪我に伴った成績不振が影響している。藤木が国内のチームに売り込みして、数チームからのオファーが来ているが、どれも三年前のように喜べるような契約条件ではなかった。

「契約のことだろう?このまま、引退してもいいかなぁとか思ったり。」

「なに馬鹿な事を言ってんのよっ!」

「何だよ~。」

「ちょっとの怪我ぐらいでっ。」

「ちょっとじゃねーよ。」

「うっさいっ、足がもげても、あんたはサッカー選手であり続けるのよ。」

「もげたら、選手生命アウトだろ。」

「馬鹿、言葉のあやを含みなさいよ!」

 新田は唸る。麗香は、ちょっとばかり興奮した心を落ち着かせてから続けた。

「藤木の分も、一日でも長くサッカー選手でいてあげて。」

 その言葉が、新田を苦しめる事はわかっている。だけど、まだ学生だった頃に不慮の事故で夢をあきらめなくてはならなくなった藤木の方が、どんなに苦しかったか。反面のように順調よく夢を叶えていった新田が、いかに幸運であるか。少々の挫折なんて乗り越えてくれないと困る。

 新田は無言で何も言わなくなってしまった。

「あとね、もう私はあんたのマネジメントから手を引いているから、とやかく言う筋合いはないけれど、シーナの事、ちゃんとしなさいよ。」

「あぁ。」

「ああいうスキャンダルも、チームは敬遠するのよ。」

「わかってる。」

「大丈夫?藤木が居なくても?」

「うん。」

「元気ないぞっ新田!」

「お前が、気の滅入る話を出すからだろう。」

「気の滅入る女と付き合うからよ。」

「最初から気が滅入る子だったわけじゃ。」

「見る眼がなさすぎるわ。だから、私は反対だったのよ。」

「あーわかった、わかった。俺が全部悪いんだ。」

「自棄になっても、いいようには解決しないわよ。」

「わかってる。もう、切るよ。」

「ええ、しっかりしてよ。」

「うん。」

 電話を切ってから、今度は麗香が大きくため息をつく。そして、デスクの引き出しから週刊誌を取り出した。表紙をめくったすぐに記載されたスクープ写真は、新田がりのの肩を抱き、インタビュー人達を押し分けてタクシーに乗り込もうとしていしているシーンだ。新田はその時、一緒には乗らずにりのだけを逃がし、自分はインタビューに対峙して応じたと言っているが、どこにもそんなことは書かれていない。完全にこのまま二人でどこかに行った風のニュアンスを残している。

「全く、厄介な女に捕まったもんだわ。」

 三年前、フランスのマルセイズに移籍する直前、スポーツ用品メーカーのカタログ撮影がきっかけで、ハーフモデルのシーナからの猛烈なアプローチで付き合い始めた二人。一時はかっこよすぎる長身カップルなんて話題になった。その後、新田はフランスに拠点を移し、りのが側にいる事だし、新田がシーナに本気になる事はなく、シーナも売名的に新田を利用していて、二人の付き合いは長くは続かないだろうと麗香は高をくくっていた。しかし、麗香の予想とは裏腹に、りのはグレンとの変なルームシェアの関係を続けたまま。シーナは意外にも新田に愛想をつかさず、新田は相変わらず成り行きに任せるスタンスを取り続けて、二人の交際は長く続いた。そしてシーナが、フランスでのマネジメントをしているりのが、新田の幼馴染だと知った事から、大きな軋轢が生じた。

 シーナは週刊誌に、りのの経歴を嘘を含めて告発し、恋人を奪っていく悪女と言いふらした。巷では新田慎一は、二股をかけ、優柔不断に幼少の頃の初恋を引きずったままの軟弱男、のレッテルを貼られてしまう。

 麗香は、自分がりのを現地フランス語通訳兼マネジメントとして、日本サッカー連盟にごり押しして決めさせたので、この報道に関しては、手を出せない。これ以上何かをしようものなら、りのが華選であることがバレているだけに、更に拗れるのは必須だ。華族制度の最後に権威を振るう称号持ち女、なんて書かれたら、たまったもんじゃない。

「どうなるのかしら・・・。」

 その呟きは、新田とりのだけじゃない。藤木に対しても。今までのように、翔柴会の秘書として、柴崎家に仕えるのは無理だろう。まして、柴崎家はもう華族ではなくなるのだから。

もう引き留める物がない。

麗香は胸に生じた不安を、大きなため息と共に吐き出したかったが、うまくいかなかった。












 グレンを起こさない様にリュックを背負ったつもりだったけれど、リュックの脇につけたキーホルダーがコートハンガーのポールに当たって、不快な金属音を立ててしまった。私の枕を占領したグレンが薄目をあけて、くぐもった言葉を投げかけて来る。

仏「もう・・行くの?」

仏「うん。ごめんなさい。起こしちゃったわ。」

仏「うーん。りの・・・」

 寝ぼけて彷徨う手に誘われるように、私はグレンへと顔を近づけた。

 キス。

仏「愛してる。りの。」

仏「私もよ。」

 宵のぬくもりと香りが残るベッド。回されたグレンの腕をそっと外し、私はベッドから離れる。

仏「グレン、昨日も言った通り、家賃と私がいない間の生活費、ここに置いておくから。」

 グレンは欠伸か返事かわからない唸りをしながら、頷く。

仏「行ってきます。」

仏「いってらっしゃい。」

 スーツケースも持って部屋を出る。マンションの階段を降りて、まだ朝の陽ざし当たらないグレンとシェアしている部屋の窓を見上げた。グレンが窓から手を振ってくれているかと、わずかに期待したけれど、あの眠そうな顔じゃ、それはないと直ぐに諦める。

 昨晩、私の部屋に来てくれて愛撫してくれただけでも、餞だ。別に今生の別れではないけれど。グレンは、私が旅行に出 かける前日に、必ずセックスを要求してくる。それが儀式的になってきていて、旅の終わりにはグレンの元に、また帰らなければと思えるのだから、効果ありなのかもしれない。

 始発の地下鉄に乗って、シャルルドゴール空港へ向かう。行先は決めてあった。ドイツのシュヴァイツ国立自然公園。子供の頃に一度、パパと訪れたことがある場所だった。ドイツの東、チェコとの国境付近、州都ドレスデン近くにあるエルベ砂岩山脈が美しい山。そこで一日、ハイキング登山をしてからチェコへと向かう計画を立てている。チェコはまだ訪れた事のない国だった。チェコ語も馴染みが全くない。だからこそ、わくわくする。一週間も滞在していればヒアリングは完ぺきになるだろう。それからおぼつかない単語を並べて語るのが楽しかったりする。今回は予備知識を全く入れずにいた。

 ドイツのシュヴァイツ国立自然公園からチェコに向かうと決めたのは2日前だった。それまではドイツのブレーメンから、ハンブルグへ、そしてデンマークへと絵本を探す旅だけにしようと思っていた。二日前、たまたまテレビでドイツのシュヴァイツ国立自然公園の映像を見た。懐かしく子供の頃にパパとハイキングをした事を思い出し、急遽、山登りを付け加えた旅行に変更。気候もちょうどいい季節だ。

 空港内のレニー・エアラインのカウンターに行く。相変わらずどこの空港でもレニー・エアラインは立地のいい場所にあって広い。レニー・ライン・カンパニー500周年の、祝い旗が描かれたポスターや電光掲示が至る所で目について、見飽きるほどだった。別にレニーに拘った訳じゃない。どちらかと言うと避けたかったのに、他の航空会社に空きがなかった。

 手荷物のスーツケースを預け、搭乗手続きも済ませた。搭乗ゲート前の椅子に座る。周りはビジネスマンばかりだった。ドレスデンは陶磁器のマイセンが有名の歴史古い郡独立市だ。昨今、欧州の半導体製造拠点となっている為に、ビジネス客が多く、カジュアルな様相の自分が場違いに浮いている。そうした周囲を眺めて、改めて思う。良くチケットが取れたなぁと。

 元々のブレーメン行きのチケットは、一カ月前に予約していた。急に行先を変えたいと思っても、チケットが取れなければ、どうしようもない。電車の旅にするか、ブレーメン行きのままにするか、半分駄目だろうなぁと思いながらの検索だった。案の定、各社エアラインのチケットは完売で、キャンセル待ちも見込めない順番だった。レニー・エアラインの検索はいつも最後。ミスターグランドとの船旅を終えて以来、何となくそんな癖がついてしまった。世界のレニー・エアラインに空きがあるはずがない状況だった。しかし検索直後、完売の文字が、残り一席の空席に変わった。たまたま、旅行会社が抱えていた席の解放をしたタイミングだった?と思いつつ、購入決済をした。ドレスデンのホテルも、レニー傘下のビジネスホテルに一部屋空きがあって、予約が取れた。

 何かに導かれている。きっと、それは、パパだ。

 パパの思い出が、私を導いてくれている。そう思えた。











 亮がまだ決断の出来ていないうちに、爺さんは死んでしまった。決断できていないと言う事は、まだ沢山の選択肢が残っているともいえるが、亮が納得して望めるような選択は何一つない。

 午前のフライト福岡空港行きは満席でチケットが取れなかった。どの航空会社も14時以降のフライトなら空きがある。それでは福岡に着くのは午後4時ごろになる。それでもいいかと谷垣さんに聞くと、福岡ではなく、北九州空港へ来てほしいと言われた。そこまで車で迎えに行くからとも言われて。北九州なら午前10時台のチケットを取れたが、北九州空港から実家まで高速で一時間がかかり、谷垣さんに迎えに来てもらうのは大変な労働をさせることになる。それを告げると、谷垣さんは、相変わらずの馬鹿丁寧さで、「申し訳ございません。こちらの都合がありますので。お付き合いください。」と言われた。谷垣さんの都合は、どうせ藤木家のくだらない都合である事を悟る。駄々をこねても仕方がないので、北九州行きの飛行機に乗った。

 谷崎さんを含めて両親と妹たちは早朝、プライベートジェットで福岡へ先行っていた。亮だけがそれに乗らないのは、亮が父との同行が嫌な心情があるのはもちろんのことだが、長く両親と住所を一緒にしていない為に、亮が藤木守一家の者と公的な登録をされていないからである。だから亮は、中等部の頃よりSPがつけられずに自由な身であり続けられた。それに関して、父が寛大でいてくれた事に感謝しなければならないのだが、「自由の身は今だけ、そのうち藤木家の為に」と内なる本心を知っているだけに、亮は素直に感謝など出来ない。

 福岡の実家に着いたら、一族総出で迎えられるだろう。爺さんが死んで、家督は父、守が藤木家を継ぐ。祖父の持っていた資産が全部父へと下る。預金、国債、株、土地、会社名義、その他もろもろ、莫大だ。ある程度の分与、税金対策で、亮名義の資産も増える事だろう。うんざりする。家督順位が上がって妬まれる事柄も増える事になるだろう。

 亮がまだ決断できずにいる迫られた人生の選択は、3つ。

一、素直に政界へ進み、素直に父、守の議員秘書から始め、先は世襲議員となり、福岡の地盤を継ぐ。

一、議員にはならずともいいが、党の優秀な女性議員と結婚し、その女性議員のバックアップをしながら、福岡の地盤を守る。

一、政界に進まないのであれば、フジ製薬株式会社の経営役員として勤めながら、父の代理で家督の管理をする。

 今思えば、プロのサッカー選手にと新田と語っていたあの頃がかわいらしい。

 プロの可能性に足がかかれば、一族も応援して、家督を継げなんて言わないのではないか?と思った頃もあった。

 足の神経を切断する事故に遭ったのは、幼稚な夢を見た罰だったか?

 来年、また膝に埋め込まれた神経電位をコントロールする機器の、電池を交換する手術をしなければならない。

 大きくため息をついてファーストクラスのシートに背をつけたら、同年齢のころ合いの客室乗務員と視線が合った。微笑みで近づいてきて「お伺いしていますか?」と聞いてくる。ついさっき別の客席乗務員にインスタントじゃないコーヒーを頼んだところだった。

「別の人にコーヒーを頼んだところだよ。」

「失礼いたしました。もうしばらくお待ちください。」

「君、この仕事は、小さい頃からの夢が叶ったもの?」

 突飛な質問に、驚いた表情を見せたが、直ぐに満面の笑みで

「はい。子供の頃から憧れた仕事が出来て幸せでございます。」と答えた。本心だ。

「そう。もしさ、人生3回ぐらい遊んで暮らせる大金持ちにプロポーズされたら、その子供の頃から憧れた仕事はどうする?やめる?」

「えっ?」

 客室乗務員は、笑顔のまま表情を固めて思考する。本心は、疑心ながらも、それが亮の新手の口説く手法かと、ついに来たチャンスかと心を高揚させていた。

「ごめん。冗談。コーヒーで頭を冴えさせないとね。まだかな。」

「お待ちください。」

 ムッとした本心を表情に出さない完ぺきな笑顔で去って行った。

 くだらない事を聞いたと後悔。その後、その客室乗務員は亮の所に近寄ってこなかった。フライト時間1時間40分、亮はヘッドホンで音楽を聴きながら、コーヒーを飲み、余計な事を考えないようにした。

 北九州空港は、福岡空港の半分にも満たない小さな空港である。同じ福岡県にある空港だが、亮は初めて利用する。実家から20分もかからない所に国際線も配備している福岡空港があるのだから、わざわざ一時間以上かけて小規模の地方空港など利用しない。だから、わざわざこっちを指定する谷崎さんの都合が理解できずに、亮は到着ロビーへとゲートを出る。 その谷垣さんが、亮を見つけて駆け寄って来た。いつものごとく、馬鹿丁寧に頭を下げて、「お疲れでしょう」とか言ってスーツケースを奪うかと思いきや、谷垣さんは周囲をキョロキョロと見渡しながら、

「亮さま、こちらへ。」慌てた様子を見せる谷垣さん。

「えっ?え?」

 さっさと前を歩んでいく。いつもと様子が違う谷垣さんに首を傾げながらも、後を追った亮。谷垣さんは意外に歩くのが早いと、びっくりもする。

 一つしかないエントランスから外へ出て、左へ50メートルほど歩んだ所に路駐していたワゴン車の助手席の窓を、谷垣さんはコンコンと叩いた。後部のドアがスライドして開き、亮へどうぞと乗るように促しながらも、周囲、特に後方を気にしている。

「どうしたの?谷垣さん。」

「説明は乗ってから、お乗りください。」

 乗った車の後方に何故か、車いすが乗せられていた。ワゴン車には、福祉車両のマークが付いている。

 亮の隣の席に谷垣さんが座り、車は出発する。そこでやっと、谷垣さんは笑顔で

「お疲れ様でございました。亮さま、申し訳ございません。こんな地方の空港にご足労をお掛けしてしまいまして。」と頭を下げる。

「いいけど、なんなの?」

「はい。亮さまには、本当に申し訳ないのですが、演技をしてもらわなければなりません。」

「演技?」

「一族に対して体裁を繕う為に。」

「車いすに乗って?」

「そうでございます。福岡空港では、誰が見てるやもしれませんでしたので、こちらの空港の利用にして頂いた次第でして。亮さまからの返事を得られずして、旦那様がお亡くなりになられましたので、とりあえず、亮さまは事故による精神的障害があって、政界進出はまだ見送っていると言う体裁にして、時間稼ぎをしようと。」

「それ、谷垣さんの案?」

「いいえ、守先生です。亮さまの都合がつかないままに決断を迫られるのも、嫌だろうと言う事で。」

 亮は心の中で舌打ちをして、谷垣さんから顔を背けた。

「亮さま、守先生は、いつも亮様の事を庇っておいでです。」

「わかってるよ。」

 そう、わかっている。父が一番、亮の気持ちをわかってくれている。藤木家一族という莫大な家督を継ぐプレッシャーの重圧を。












 オランダは、国中をあげて世界企業レニー・ライン・カンパニーの創業500年を祝っていた。総本部があるアムステルダムは特に華やかで、街中に祝いの言葉が入ったポスターやペナント、そしてゴールドラインの入った青いリボンが外灯にまで結ばれていた。2カ月も前からオランダ国内は、このような浮かれた様子が続いていると聞く。世界中から観光客が、レニー・ライン・カンパニーの総本部ビルを観光に訪れて、記念撮影をする有様だそうだ。

 500周年という記念行事を、人々が浮かれるのは致し方ないが、華やか過ぎる風景に、我はどうも馴染めないでいた。 基本的に、アジアとは異なる欧州の、建物、空気、人物などの情景が我の肌に合わないのだ。世界の広さと強さに憧憬を抱いても、結局、自分はアジアだけが住みどころなのだと実感する。

英「棄皇と申します。」

英「中国人の割には訛りがないな。流石は君がそばに置くだけはあると言う事かな。ははは。」と、その笑いは褒めの笑いではないのはわかる。卒なく、とりあえずの挨拶だけ済ませたら、後方に控える。ただでさえ、このオランダ本部では中国人と言うだけで目立ち注目を浴びていた。愛想笑いも媚を売る相槌も下手にしない方が良い。最も、我はそれらを出来る術を持ってはいない。代わりに頭目がそれを完璧に熟す。

英「次世紀を担う人材となりえると見込み、こういった記念の場を知っておくのも必要かと思い、同行させています。」

英「そうだな、アジアはまだまだこれから伸びていく後進国であるだろうからな。ある意味羨ましいと言えるか。はははは。」

 頭目は微笑みを強くした。怒っているのだ。頭目は笑みを強めるほどに、内に怒りを溜める。

 3日前にアムステルに着いてから何度、このような挨拶を繰り返しただろうか。

 英語に中国訛りがないのは当たり前である。我が日本人だと言える証拠は、もう何もない。弥神皇生として生きた戸籍は、きれいさっぱり削除されている。神皇家の還命新皇は、依然として祖歴には死産と記されたまま。閑成神皇はテロ後、我の存在を聞き知り、即座に内閲の場を設けたいと何度も言ってきているが、我は断り続けていた。双燕が神皇として即位するまでにはまだ5年はある。それまで気を揉んだ日々を過ごしてもらおうではないか。我の存在をひた隠した鷹取のおかけで、悩まざる日々を少なくして済んでいるのだから。

 幼き頃から我の存在を察知していた双燕には悪いが・・・悪くもないか。双燕も、事なかれ的に口を噤んできたツケと言うものだ。どうしようとも、双燕が神皇に即位するのは間違いない。我が死なぬ限り、双燕は受の力しか持たぬ半人前の神皇として。

英「もしや、君は李家一族と関係する者か?もう李家の者はレニー幹部には入れないと、あの、グランド佐竹氏は言っていたのに、何故かね。」

 突然、後ろから話しかけられた。英語だが訛りが強く、辛うじて頭目の名前だけは耳に拾えたが、内容がわからなかった。

英「申し訳ありません、聞き取りが出来ませんでした。もう一度・・」

 その年配者は欧州人にしては珍しく背が低く、白髪交じりの髭をもみあげから長く伸ばしていた。我の謝罪に大げさに嫌悪の表情で首を横に振った。

英「君は李家の一族の者かと聞いていました。グランド様は、幹部に李家の者は入れないと言っていたのに何故かと問われています。」とクレメンティが我に耳打ちしてから、年配者に愛想よく握手の手を求めた。

英「ルドルフ・ゼルキン氏、お久しぶりでございます。」

英「んー、君は~」

英「クレメンティ・ラビン・ロマノフです。」

英「そうそう、そうだった。」

 クレメンティの特技は、一度挨拶を交わした相手のフルネームを正確に覚えて忘れない事だ。この我の事も約5年ぶりに、しかも最初は15分も満たない面会だったのにも関わらず、正確に偽名を憶えていた。

英「私は李家の者ではありません。全くの他人です。」

英「そうか、アジア人は皆同じに見える。」

 そう呟いて立ち去っていくルドルフ・ゼルキン氏。

英「去年までチェコ支部の代表をされていた方です。生粋のユダヤ人で、あの通り少々風変りな方で、しかし、グランド様には何かと気にかけてくださっていました。流石に引退してからは連絡もなくなりましたが。」

 何が、あの通りなのか、今一つ理解できないが、何か日本人に似た雰囲気を持つと感じた。

 自分が李家の人間だったら、どうしたと言うのだろう。李家がレニーの中で嫌われている立場であるのはわかるが、クレメンティが、風変りと表現するのも珍しい。

 明後日からが500周年セレモニーである。会場はレニーが所有し管理している古城。昨日今日の二日間は、世界中から集まってくる幹部達の交流の場として、城は開けられていた。

 流石にアルコールはないが、飲料と軽食がメインフロアに用意されていて、個室も申請すれば使えた。入場には事前登録されたレニーのIDカードが必要である。皆、見える位置にIDカードをつけていなければならない。そして、受付で渡された言語カードも胸につけておく必要がある。これは、自分が何語を話せるかというのを相手に知らせる為で、得意な言語から順番に国旗が記されている。我のカードには偽装上、中国語がメインで、次に日本語、サブに英語の3つだけ。頭目は英語を筆頭に、カードに余白がないまでに国旗が記されていた。見渡しても、そこまで沢山の言語を記されている参加者は、他にはいない。

 会場は、多様な人種、多様な言語であふれていた。レセプションでこれだけの人数であれば、本セレモニーはどれだけ凄いのかと想像を絶するが、頭目曰く、本セレモニーは、メディア向けに演出されただけの物あるから、さほどに驚くほどでもないだろうと言う。皆、この二日間のレセプションの方が重要であり、中々に会えない幹部同士のアポイント取り合戦がすさまじい。現に、欧州すべての言語が自由自在に話せる頭目は、休む暇なく誰かに声をかけられ、かけをして、会話をしっぱなしだ。英語、ロシア語、ポルトガル語の三か国語を習得しているクレメンティでさえも、置いてきぼりを食らって肩をすくめている。英語も完璧ではない我など、容姿と共に場違いに異質な存在だった。

 もし、この場にりのが居たら・・・きっと水を得た魚のように生き生きと、その才能を発揮しただろう。少々惜しく感じるが、致し方ない。我らに課せられた神意を断ち切る為には、りのは、新田のそばで生活をするのが一番なのだ。

 スーツの内ポケットに入れてあるスマホが振動する。我は会場の片隅に寄ってスマホを取り出し確認する。情報部からの新たな知らせだ。

【真辺りの、バジェット・レニー・ホテル、チェックイン】




「別に、意図的にりのが幼馴染である事を黙っていたわけじゃない。」

「呼び捨てなのね。」

「もう何十年前から、互いに名前で呼びあっている。」

「何十年もの仲だから、マネジメントに採用した。」

「絶対にって、俺が押したわけじゃない。真辺りのの才能を認めた柴崎が、現地マネジメントには彼女が最適だと押したんだよ。当時、他にフランス語と他の欧州言語にまで及んで通訳及び経営陣と交渉できる人材がいなかった。もし他にもっと優秀な人がいたら、もちろん、その人に頼んでいたよ。」

「柴崎さんも、同級生だったと言うじゃない。結局、皆して私を騙して、真辺押しをしたのね。」

「騙したつもりはないよ。」

「つもりがないのが、一番たちが悪いわ。」

 シーナは角度をつけて慎一を睨む。その角度が一番、綺麗に見える角度だと、付き合い始めた頃に言っていた。

 完璧な美は、とても攻撃的だ。

 帝国領華ホテルの高層階にあるフランス料理店、白鳥美月に頼んで個室を用意してもらった。マスコミは完全にシャットアウト出来たけれど、シーナが盗聴器でも持ってきていたら、それは防ぎようがない。

 今日限りでシーナとは完全に関係を終わらせるつもりだ。シーナも、週刊誌のインタビューを受けた時点で、慎一の関係を続けるつもりはなく、恋心は終わっているだろう。互いに、きっちりとした切れ目が欲しい。そうした目的の最後の晩餐だった。

 テーブルにメインディッシュが置かれた。シーナの前には舌ヒラメのムニエル、ワサビソースつけが置かれていたが、前菜からずっと一口ほどしか食べないで残している。モデルだからとダイエットしているわけじゃない。慎一と順調に交際していた時は、コレクション前日でも、カロリーを気にすることなく食事を楽しんでいた。

 正直、シーナと結婚する事を想像できずにいた。シーナからのアプローチが強く、押しに負ける形で付き合い始めたのだから、心が入らなくて当然と言えばずるい言い訳だが、慎一がフランスに移住すれば超遠距離になって、次第にフェードアウトするだろうと、それが理想の煩わしくない終わり方だと期待していた。まさか3年も続いて、しかも週刊誌を騒がす事態に、りのも巻き込まれることになるなんて想像しなかった。

 自分のメインディッシュ、子牛のステーキ特性和風ソースにナイフを入れた。シーナも舌ヒラメにナイフを入れ、一口食べたけれど、やっぱりそれ以上は食が進まず、ナイフとフォークを揃えて終えてしまった。

「確かに、私からあなたにアプローチをかけたわ。あまり好まれていないのもわかっていた。だけど、酷いじゃない。それなら、もっと早くに好きじゃないって言って欲しかったわ。」

「ごめん。」

「私、プレゼントを貰うたびに嬉しくて、自信を持ちなさいって、自分を言い聞かせた。私は世界で活躍するあなたにふさわしいように・・・」シーナは言葉を詰まらせて涙をこぼす。その姿もまるで映画を見ているように綺麗だった。

(だから、心が入らない。)

 無情な自分がだんだん怖くなってきた。

 デザートはシーナ自身が断った為、自分だけが食べるわけにもいかず。ワインだけを残し、すべてを下げてもらった。

「もう、これ以上週刊誌には、何も語らない方が・・・。」

 涙を拭いたシーナが、目だけで怒りを表した。

「自分を擁護したいからじゃない、シーナ、君自身の為でもあるよ。マスコミは人の人生に同情なんてしない。新たな話題が欲しいだけで、味方のフリをして君の話を聞くんだ。話題性が無くなれば見限る。」

「わかっているわよ、そんなことっ、それを私にさせたのは、あなた、いいえ、あの真辺りのよ。」

「りのは、何も悪くないよ。」

「ええ、そう、悪くない。私はね、あの人が大嫌いなのっ。」

「・・・。」

「そうやって、あの人を庇うあなたも。」

「ごめん。」

「最低だわ。私も、あなたも。」

「うん。」

「別れ際ぐらい、最高にさせて。」

 意味が解らず、ただシーナを見つめた。

「・・・殴らせて。」

「いいよ。」

 シーナは立ち上がる。慎一も立ち上がって、テーブルを回り込んできたシーナを迎えた。

 整い過ぎて好きになれない美しい顔の横に、ネイルで彩られた手が上がる。乾いた音を聞いた。左頬が熱くなる。シーナは目を潤ませて唇を噛んだ。

「気の済むまで、殴っていいよ。」

 シーナは頬を高揚させて、もう一度手をあげたが、振らずに慎一の胸元のシャツを掴み、顔をうずめて泣いた。

「気なんか、済まないわ・・・何回殴ろうとも・・・」

 慎一は、無情を心に決めて、シーナの体に手を回さないで、時間が経つのを待った。












「ほら、薬物依存の男が暴走事故を起こした事故、あの時の事故の後遺症ですって。」

「長く植物状態だったって、目を覚ましてもあれじゃぁね。」

「おかしいと思ってたよ。政界に出てこないから。」

「本家の後継者があれじゃ、藤木家も終わったな。」。

 亮は谷垣さんの要望通り、精神的障害ありの人物を演じた。いや、演じるほどの事は何もしていない。ただ車いすに座って、黙ってうつむいていればいいだけ。挨拶をされても応答はせず、わずかな動きだけにとどめた。人の顔を見なくて済み、本心を読み取らなくてもいいが、無神経な会話が不躾に聞こえて来る。

 通夜が終わって自室に戻った頃には、亮は鈍い頭痛がするほどに疲れていた。

 福岡の実家は、無駄に広い武家屋敷である。広大な敷地に4つの棟の平屋があって、一つは通夜、葬式が行われる広間のある集会建屋。襖を取り除けば80畳もの広さになる。一族が一同に集まり、冠婚葬祭や季節の挨拶の時ぐらいしか使われない。二つは藤木家が使う居室の建屋で、爺さん達が使っていた古い居室とリフォームをして新しくした居室だ。そして使用人が住まう居室の建屋。4つの棟は回廊で繋がっており、爺さんが体調を崩してからバリアフリー化も済んであったので、亮が車いすで屋敷を移動するのに何の問題もなかった。ちなみに車いすは電動で、超遅い車に乗っていると思えば、操作性は問題なく中々に面白いが、流石にずっと座り続けているのは腰が痛くなってきていた。

 小学6年生の時以来から使っていない自室入ると、亮は早速車いすから降りて伸びをした。首、腰、背筋、膝を回したり、屈伸したりして、体の凝りをほぐす。

 そして、自室を見渡した。懐かしいと言えば、懐かしい。だが、ここを使っていたのは10年も満たない。幼き頃に大きいと思った学習机は、それほどでもない。ベッドカバーの車のイラストが子供部屋感のままで亮は笑った。本棚の本、キャビネットの中のプラモデルまでが、亮が常翔学園の寮に入る直前のままだった。

 本棚の卒業文集に目がとまった。小学校の卒業式に「将来の夢」という題材で書かされた作文の綴り。

自分が何を書いたのか、開かなくても覚えている。それは亮が幼き頃から何度も書いて来た嘘の定型文だったからだ。


 『将来の夢』

     6年3組 藤木 亮

 ぼくの家は、代々日本の政治を執り行う議員をしています。お爺さんは第49代内閣総理大臣で、昭和で一番長く総理大臣を務めました。お父さんも与党の議員です。僕も与党の議員となって、お爺さんのような立派な内閣総理大臣を目指したいです。それには沢山勉強しなければなりません。政治の仕事とは、人々の話を聞き、生活を良くするために、ルールや制度を作り、運営していく社会のかじを取る人の事です。困っている人々の生活をよくするためには、人々の話を理解できる頭がないとできません。政治家は国内だけを見渡していてはだめです。世界中の国と手を取り合い助け合って、平和を維持していかなくてなりません。それの手を取り合う事も議員の仕事です。だから僕は英語も勉強して、通訳なしでアメリカと対話をしたいです。世界と仲良くするには、国内の安定した国の情勢が必要で、それは国民の生活の豊かさにつながると思います。小さい頃から母に「人にやさしく」と言われてきました。人にやさしくするには、寛大な強い心を持っていないとできないと思います。僕は、人々にやさしい政治を行う内閣総理大臣を目指し、心身共に強い自分になれるように励みます。


 引き出しを開けてみる。几帳面に鉛筆や消しゴムがトレーに並んでいる。二段目の引き出しに名刺サイズのカードファイルが入っている。6年3組お別れメッセージとシールが貼られてあった。卒業の時に、クラスメート一人ひとりにメッセージを書いて送った物の、これは皆から亮宛のカードをファイルにした物だ。取り出しめくってみる。皆、ほぼ同じ文面で、イラスト一つなかった。

【お元気で、立派な総理大臣になってください。】

「心入ってねーな。」

 自分も心込めてメッセージを送っていないから仕方のないことだ。ここ福岡で、亮は息を潜めた優等生を演じ続けていたのだから。久々に帰ってきても、また変わらず演技している今の状況が奇しくも悲しい。

「・・・お兄ちゃん・・・」

 囁くような声が部屋の外、廊下かから聞こえて来る。唯の声だ。

 亮は慌てて、引き出しにメッセージカードファイルを仕舞い、車いすに座る。妹たちが、亮の状態をどう聞き及んでいるか知らない。体裁の為には、身内にも平気で嘘をつく一族だ。人を騙すには身内から、なんてことがまかり通って妹たちは、本当に兄は、事故の後遺症で、精神的障害に陥っていると思っているかもしれない。

 しかし、亮が車いすに座り正さない内に、引き戸は開けられた。

「お兄ちゃん・・・えっヤダあははは。」と唯は入ってきて笑う。

「唯、静かに。」と舞が口に人差し指をあてて中へと押し入って来て、引き戸をきっちり閉めた。

「もしかしてお兄ちゃん、気に入ったの?その電動車いす。」

「えっ、いや・・・」

「知ってるから、もう演技はしなくて大丈夫。」と舞が微笑む。

「そうか。」亮は苦笑して、車いすから立ち上がった。

「お兄ちゃん!」と唯が抱きついてくる。

「おいおい。」

 唯は21歳、もう立派な女性の体だ。戸惑いながらも頭を撫でてやる。まともに会うのは何年振りだろうか。二人が成人する時もプレゼントを贈って、メールのやり取りをしただけ。家以外で二人と会うことになると、SPが付くから面倒なのだ。特に亮はSPの警護対象から特別に外してもらっている微妙な立場である。二人の妹と行動を共にすれば、同等以上の警護となってしまう事もあり、同行には事前に申請しなければならなかった。そんなわずらわしさもあり、妹たちが亮に会いたいと希望しながらも、実現は中々できなかった。

「もう、子供じゃないだろう。」と放そうとすると、唯はしっかりと亮の背中を捕まえて抵抗する。

「いや、十年分をするんだもん。」

「十年ぶりか?」

「そうだよ。お兄ちゃんが事故に遭った時以来だもん。」と見上げた顔は、幼き頃の可愛い面影がまだある。

「そっか・・・」頭をポンポンと軽く叩くと、首をすぼめて喜ぶ天真爛漫な唯。

 そして、いつも品行方正な舞は、相変わらずその姿勢を崩さず、両手を前で組んで唯のすることを見守っている。だが、その本心には、唯に対する嫉妬、憧れが僅かにあって、それでも芯強く方正の心でそれを抑え込んでいる。

「舞。」

 近寄るように手の仕草で呼んだ。唯と入れ違いで舞を抱き寄せた。

「お、お兄さん・・・」わずかに抵抗するのを強く抱きしめた。「ありがとうな、舞。全部、舞に任せきりにしてしまった。」

 舞は首を横に振る。

「ずっと我慢ばかりさせてしまったな。駄目な兄のせいで。」と言うと、舞は亮の胸で静かに泣いた。

 舞の頭も撫でる。唯よりわずかに体格が細く華奢だ。

 唯が拗ねて頬を含まらせ、車いすに座った。

「・・・ごめんなさい。」

 泣いてしまった事すらも謝る舞。

「舞、我慢ばかりしないで、吐き出して。谷垣さんなら聞いてくれるだろう。」と言いながら、舞をこんな風にしたのは自分のせいでもある、と負い目を感じながら、涙で濡れる舞の顔をハンカチで拭いてやる。

「はい。」

「いいなぁ。唯も泣くぅ。」

「唯は、少しは我儘をする。」

 唯はまた頬を膨らませて電動車いすをくるりと一周させた。

 妹たちもまた、亮とは違った次元で、藤木家という権力の縛りに苦しんでいる。

「お兄さん、私、決心しました。」

「ん?」

 舞の顔を覗き込むと、強い眼差しで亮を見上げる。

「私が政界に出ます。」

「えっ?」

「ずっと考えていた事です。でも、お父さんはお兄さんの政界進出を望んでいて。言い出しにくかったの。」

「舞、お前が家の為に犠牲に・・・」なる事などないとの言葉は必要なかった。舞は犠牲とは思っていない、強い意志を持って、志している。

「女性の社会進出は、初の女性総理大臣を成して、やっと国及び世界に浸透される、でしょう。」

 舞は、にっこりと微笑んだ。














 大きな杉の木。

 あぁ、そう。こんな景色だった。

「懐かしい。」

 丸太で作られた小屋は、もう少し大きかったような気もするけれど、子供の時との視線の高さの違いが、記憶の相違になるのは往々にしてある。

 登山コースに入山するには、自然環境保全協力金というのを払わなくてはいけない。丸太小屋のカウンターでお金を払った。日本円換算で約3000円。そして、身分証明の提示と名前を記入する。これは悪意で自然環境を破壊されない為の抑止と、破壊時の犯人追跡の為となる。海外はこういった事には厳格だ。車の免許を持っていないので、パスポートを提示して名前を書いた。ドイツ語で「行ってらっしゃい。」と笑顔で声掛けされて、同じくドイツ語で「行ってきます」と手を振って踵をかえした。

 初心者向けの低難度コースと経験者向けの高難度コースがある。低難度コースは緩やかな傾斜角度の道で中腹までしか到達できない。高難度は、傾斜角度もきついが頂上まで行ける。パパと一緒に来た時は、いきなり高難度コースだった。パパは学生の頃、登山部で経験がある人だったし、私も沢山の経験を積んで、パパの歩むスピードについて行けていた。

 森林へと踏み込むと、湿気た土の匂いが濃厚に体を包む。私は大きく深呼吸。酸素が濃い。それだけで細胞が生き返る感じがする。

 風でなびいた葉の擦れる音、鳥の鳴き声。虫のざわめき。生きる物はとても騒がしい。大地を踏みしめる感触を楽しんで、私は歩む。直ぐに体温が上がって上着を脱いだ。半そでのTシャツになる。腕をさらっていく風が気持ちいい。

 時々立ち止まっては、合間に見える山々の写真を撮った。一台で何役もこなすスマホを作った人は偉いと思う。通話機能以外に、カメラ機能に地図、方位磁石、ライト、植物を調べる百科事典にもなる。そしてアルバムにもなる。ここで撮った写真ではないけれど、幼き頃にパパと並んで映っている写真を、データーとして保存していた。ピースをする私の後ろで肩に手をかけて顔を寄せて笑うパパ。

 私の知識の礎は、すべてパパから伝授された。山歩きの楽しさ、厳しさ、注意点など。

『りのは世界中が遊び場。』が口癖だったパパ、生きていれば、二人して世界中を旅して思い出を語り、また次はどこへ行こうかと、話尽きない仲のいい親子になっていただろう。

 どうして、パパは死んでしまったのだろうか?

と、つい考えてしまう。自殺じゃなく、不運な事故だったと理解しても、思い返さずにはいられない。あの日の私は、誕生日プレゼントを拒んで突き返した。その後悔は、いつまでも私の胸の奥底に沈んでいて消えない。

 思えば、あの日から、すべてがうまくいかなくなった。私と親密に関わる人ほど拗れてしまう。

 私とママ。

 私と慎一。

 私とグレン。

 私と棄皇。

 修復が必要とわかっていても、先送りにしている関係ばかりだ。

 空気が薄くなってきた。息が上がる。思考の余裕がなくなり無心で歩き続ける。

 息の音、擦れる衣類の音、踏みしめる土の音、キーホルダーがカバンのファスナーにあたる金属音。無心は、とても騒がしい。

 広場に出る。展望にもいい休憩場所だ。切り落とした丸太が3、4個の塊を作って置かれてある。既に中年のカップルがそこに座り、サンドイッチを食べていた。ちょうど昼に到着するような場所に設営してある。

 私の足音に振り返った中年カップルは驚いたような表情をしたが、でも愛想よく「こんにちは。」と片言の日本語で挨拶をしてきた。

「こんにちは」私も日本語で返してから、ドイツ語に切り替えた。

独「ご一緒してもいいですか?」

独「あら、ドイツ語を話せるのね。どうぞ。歓迎よ。」

独「ありがとう。」

独「ドイツに住んでいるの?」

独「いいえ、ドイツに住んだことはないけれど、ここに登るのは二度目です。」

独「あら、そう。びっくりしたわ。だって、こんな場所で外国人と会うなんて。」

独「一人?」男性の方が初めて口を開く。

独「はい。一人旅が趣味で。一人で旅をしていると、こうして声をかけて話がしやすいの。」

独「あはは、確かに。」

独「沢山の出会いが、いい思い出となるわ。」

独「素敵な考えね。」

 私も、出かけにホテルで注文して包んでもらったサンドイッチを取り出して昼食を取る。

 中年のカップルは夫婦で、このシュヴァイツ国立自然公園から電車で30分ほどの所に住んでいるという。年に数回、ここに登山に来て季節の移り変わりを楽しんでいる、という話から始まって、旦那さんの働く自動車工場の技術者に日本人が居てと言う話から、日本人の性格、戦争の話までに及んで、少々長く昼休憩を取った。

独「そろそろ、降りなくちゃね。」

独「じゃ、ここでお別れです。残念ですが。」

独「上へ登るの?」

独「はい。一度目の時は行けなかったから、今回は行ってみたくて。」

独「そう。気をつけてね。」

 夫婦とハグをしてさよならをし、下山していく二人を見送った。

 ここを到達点として、引き返す登山客がほとんど。さらに200メートルほど上へと登れるが、続く道は幅狭く危険で、雨が降った翌日などは登山禁止と注意書きされているほどである。パパと来たときは、ここで引き返した。

 リュックを背負うと、SNのロゴのキーホルダーがファスナーの金具に当ってチリンと音が鳴った。

 歩き出す。次第に足元の地質がゴツゴツと荒々しくなってきて、苔や草が見られなくなった。

 樹々の密度も薄くなり、渓谷の対岸に見える山が白く視界が開け始めた。

 鳶が一声して、気持ちよさそうに滑空していく。

 足を止め、景色をよく見ようと帽子の鍔を上げる為、あご紐を緩めた。

 追うように、もう一羽が滑空していく。

 珍しい。写真を撮ろうと足を止めた。

 リュックのポケットからスマホを取り出してカメラ機能を立ち上げる。

 また鳶が気持ちよさそうな泣き声を発声させ、急上昇。

 突風が吹き、帽子を飛ばした。











 二日間のレセプションを終え、明日からの本式典の準備の為、会場の古城が閉鎖された今日は、空き日であるが、頭目は積極的に総本部の主要部署を訪れ、我を紹介していく。

 挨拶をかわし握手する相手は決まって、我の容姿に驚き、懸念の声を上げ、失笑する。

英「アジア人はとても若く見えるが、おいくつかな?」

英「30です。」

 日本を脱する時に凱が作った偽造パスポートでは、3つのサバを読み20歳として、世界に出て来ていた。今でもそのままの年齢で通している。

英「おう、本当にお若い。」

英「生きた年はまだ浅いですが、とても思い切りのよい優秀さがあります。レニーの次世代を築く者と私は確信しております。」と頭目。

英「中国人がねぇ。」とその男は我を見下す。

英「ええ、世界の人口19パーセントを占める中国を、統括する能力を持ちます。」

英「しかし、中国は人口過多による低賃金労働の場から逸脱しない。結局のところ、先進日本を追い越せはしないし、敗戦国日本もまた、欧州や欧米を追い越せやしない。アジアの弱点はそこだ。」

英「そうですね。おっしゃる通り、アジアは結局のところ、欧州には頭があがりません。」頭目は笑みを強くした。

英「そうであろう。ははは、我々レニーが500周年を迎えるのも、ヨーロッパが国を挙げて航路を開いたからだ。」

 頭目は微笑み崩さず、同意の頷きをした。ヒシヒシと伝わってくる。殺意に近い頭目の怒りを。

『アジアの強みは、世界がまだ、後進国の集まりだと思い込んでいる事にある。』と頭目は言う。『欧州の馬鹿どもが、アジアを甘く見ている間が私の隠れ蓑だ。』と。

英「どうだね、これから食事でも。アムステルダム随一の食事をもてなそう。」

英「申し訳ございません。まだ会談の予定が残っておりまして。」

英「まだ会談の予定があると。」とその男はこれ見よがしに腕時計を確認した。

英「こういう機会でないと、中々にこちらに来れませんから、なるべく沢山の本部の方々と会談したいと思いまして。」

英「それは、それは、感心だ。では、無理に引き留めはしないでおこう。」と男は無様に腹を揺らして立ち上がった。

 馴れ馴れしく頭目の肩を組んで部屋まで送り出る。クレメンティが苦笑を我慢しながら、我と共に頭目の後に続いた。

英「では、明日の式典を楽しみにしているよ。」

英「はい、また明日、お声かけ下さい。」

 ビルから出ると頭目はやっと笑みをなくし、手を出す。すぐさまクレメンティがその手に除菌アルコールスプレーを吹き付けた。

中「無能に太った屑がっ。」 そう吐き捨てながら、頭目はクレメンティの手からアルコールスプレーを奪い取り、自身の肩にも吹き付ける。

 頭目は年々、潔癖症になってきているような気がする。特に自分とそりが合わない人間との握手後は、必ずハンカチで手を拭くようになった為、クレメンティは携帯のアルコールスプレーを持ち歩くようになった。

中「新たに誰かとアポイントをお取りになったのですか?」

 去り行く無様な男との会談が最後だと聞いていた。

英「嘘だ。あんな男と食事などしたくもない。今日ぐらいは、ゆっくりしたいだろう、お前たちも。」

 アムステルダム入りしてから、昼食、夕食は誰かとの会談を兼ねた食事だった。交わされる言語は英語が主だったが、たまにオランダ語しか使えない相手も居て、そうすると何を話しているか全くわからない中で、気配りだけはしなければならない場となり、肌に合わない欧州のマナーにも疲れていた。

「洋食も飽きただろう、日本食でも食べに行くか?」と頭目は我をみて片目を瞑る。

「はい。気遣い有難く受けます。」

 夕焼けに染まり始めた街、頭目は手を上げてタクシーを呼び止めた。こうした何気ない仕草に、目を奪われる瞬間がある。

 何故、自分はこうも頭目を慕い憧れ、魅了されるのか?と考える。我は神の子。慕われるのは我の方であるはずなのに。

 答えは単純。我がその答えを持つのではなく、りのが持つ。りのが、我よりも先に頭目と出会い魅了されていた。それが分かつ魂によって同調し、我もまた頭目を魅了し慕うのだ。魂の相乗効果とでも言おうか。

 アムステル郊外の海辺に建つ日本食レストランの前で、タクシーは停まる。陽はすっかり落ちて冷えた風が漂い始めていた。

「寿司がメインの日本食レストランだ。日本の富山県で修業を積んだすし職人が開業しているから安心しろ。」

 海外で日本食レストランというと、たまに怒りを覚えるほどに勘違いの食事を出される事がある。世界中を駆け巡りビジネスをしてきた頭目が連れてくれる店に不味い店はなかった。

 カウンターの席に頭目を挟んで左に我、右にクレメンティが座る。好きに頼んでいいと言ってくれたが、面倒なので大将のお任せの盛り合わせを三人とも頼み、頭目が冷酒を付き合ってくれた。クレメンティは日本酒が飲めないので白ワインで寿司を堪能する。

 アムステルダムに来て、頭目が定型文のように紹介する単語に、妙に引っかかる事があった。

『中国を統括する能力を持ちます。』

 頭目は我の能力を知っているのか?能力の事は慎重に隠してきたのだが、しかし頭目は侮れない。

英「お聞きしたい事があります。」

「英語も疲れただろう、必要ならクレメンティには私が通訳する。話しやすい言語でいい。」

「では、お言葉に甘えて。日本語で。」

「ふむ。なんだ、改まって聞きたい事とは。」

「頭目は、先ほどの方に、私の事をレニーの次世代を築く者と紹介されました。」

頭目はクレメンティにロシア語で通訳をする。クレメンティはロシア語が母国語だ。

「あの方は、私をまだ若いと笑い、私もその通りだと思います。私はビジネスをまだ知らず、頭目の部下としては不十分であると自覚しております。隠れ蓑にもならないほどかと。」

頭目は通訳を終えると我へと向き直る。

「それは、聞きたい事ではないな。お前の分析だ。」

 そう、本当に聞きたい事はこれではない。能力の事、だけどそれは口にすることはできない。

「はい。隠れ蓑にもならない私を、レニー総本部の幹部に紹介する真意を教えて下さいませんか?」

 クレメンティに通訳をし終えても、頭目はその質問には答えず、大将が握って置いた鯛の寿司を食して、冷酒も飲んだ。

 頭目が間を置いた話術をすることを、クレメンティも我も十分に知っている。しかし、あまりにも長く間を置かれ、頭目は答えてくれないのかと諦めかけた時、言語を変えて頭目は語る。

中「私の戦略は、アジア制圧が終わりではない。」

 寿司を握る大将の手が一瞬止まった。急に中国語に変わって驚いたようだ。

中「総本部へ乗り込むのですか?」

 頭目はまるで女に愛想をかけるように首を傾げて我に微笑む。肯定か否定かわからない。

中「わかりません。」

「私にはわかる。お前が大きな隠れ蓑になりえる事を。」

「ご冗談を、頭目がご指摘されたんです。私にはビジネスセンスがないと。」

「あぁ、そうだ。お前にはビジネスセンスはない。」

「頭目?」

 酔っぱらっているのだろうか。小さく声に出してまで笑う頭目は、次に置かれた炙りサーモンの寿司に箸を進める。そして我に「食べないのか?」と指さす。仕方なく、まだ一つも食べていなかった寿司に箸をつけた。寿司は頭目が勧めるだけあって、日本で食べる味と変わらずに美味しい。頭目は大将の握りが終わるまで、その話の続きをしなかった。途中からクレメンティと同じ白ワインに変えて、優雅に嗜む。美味しい寿司のおかげか、頭目はとても機嫌がよい。

我も満足感を得られ、もう、質問の答えなどどうでも良く、この先、頭目の良いように扱われて捨てられても良いと思える。そんな思考になるのも、りのとの魂の同調ゆえだ。

「何故、私の前で、「我」を使わない?」突然に再開される話、その質問も飛躍しすぎて戸惑う。

「えっ?」

 頭目はゆっくりと我に顔を向ける。

「私の前で我を使わない事が、お前の隠れ蓑か?」と笑う。

「いえ、そういうわけでは・・・」

「トップに立つ者に必要なのは、ビジネスセンスではない。統括力だ。」

「頭目は、ビジネスセンスのない者を、私を含めて失笑されて・・・」

「もちろん。私より劣るものは失笑に値する。」

 我は首を傾げる。

 それを見て頭目はまた笑う。

「私はすべてを持つ。」

 大きな自信も、頭目なら納得で頷かされる。

「私の後を継ぎアジアの代表になる者に、もうビジネスセンスは必要ない。統括力だけで十分。」

 我はまだわからない。頭目の真意が。

「私は、神皇家の誇りを捨てずにあるお前を称賛する。」

「期待されるほど、私の価値はもうありません。5年後に新たな神皇が誕生すれば、私はただの。」

「そうだ、価値がもうない。それもまたいい。」

 増々わからない。頭目の話術に完全にはまってしまっている。通訳がなくなって蚊帳の外に出された感のクレメンティは、ワインも飲み干して、タブレットでメールの確認をし始めていた。

 戸惑う我を見て、頭目は増々機嫌がよくなって笑う。

「私の後、アジアの代表を継ぐ者に必要なのは・・・」

 得意の間を置いて、頭目は片方の眉を上げてから目を細める。

「すべてを持たない統括力のある者。」

「すべてを持たない統括力のある者?」

 復唱して、はっとする。頭目はアジアを踏み台にして総本部に乗り込むのではない。アジアも手にしながら、支配する世界の拡大を望んでいる。だからアジアを後にする時、任せる者が頭目よりも優る者であってはならない。

 頭目は、残ったワインを飲み干して、微笑みを我に向ける。

「なくなったお前の価値を、私が作る。それがお前の価値だ。」

 クジラのような大きな存在に、飲み込まれる情景が頭の中で広がった。しかし、それは恐怖の感情を伴うのではなく、不思議な事に包まれる安堵感だった。

(あぁ、これが欲しかったものか・・・)

 りのに影響されずとも、我は我の意思で頭目を魅了する。












 コポコポと湯が注がれるのを見つめる。

 珈琲の香りが漂ってきて、私は体の内からリラックスを感じた。

 人はリラックスしている時に後頭部からα波が出ているという。珈琲の香りを嗅いだ時、そのα波が多く出ている事がどこかの国の大学の研究チームで証明された、との記事を読んだことがある。

 たっぷりの砂糖と粉末ミルク入り珈琲の入ったステンレス製のカップを手にし、混ぜるのは携帯している小型ナイフ。しかし注ぐ湯の回転で、さほど混ぜる必要もなく、珈琲は良い具合の茶褐色になっていた。

「熱いから気をつけて。」

「熱っ。」

「言ったそばから。」

 フウフウと息を吹きかけても、耐熱カップは、中々熱さを逃がさない。ズズっと少々下品な音を出して飲んだ。

「美味しい。」

 歪な形をしたスコーンを紙袋から取り出し、かじる。砕いて練りこんだアーモンドが香ばしい。

「固いわね。」

「パパ直伝のスコーンよ。」

「固いスコーンが?」

「ううん、教えられた時は固くなかったの。どうしても固くなってしまう。」

「何か不足しているのでは?」

「そうかな?」

「他の料理は?」

「ジャムも作れるわ。イザベラ婦人直伝の。」

「スコーンにジャム。朝食だ。」

「本当だ。ジャムもまた、うまく作れなくなった。直伝してくれた人たちがそばに居ないと、どうして美味しく作れなくなっちゃうのかしら。」

「料理上手な彼に聞いてみたら?」

「嫌よ。笑われて、貶されるわ。」

「酷いな。」

「そう、酷いの。自分が得意だからって、いつも私の不器用を笑うのよ。」

「じゃ、こっちの得意な事で相手を見返したらいい。」

「そう、そうして、私達はいつも競争し合ってきた。」

「いい相手だね。」

「そうね。私にはもったいないわ。」

「もったいないとは、片方が相手より劣らなければ成立しない言葉だよね。競争相手に、もったいないの定義は当てはまらないのでは?」

「競争するいい相手だったのは、幼い頃だけ。彼は私を追い越して、夢にまっすぐ一つ一つ手に入れていった。」

「今は、いい相手じゃなくなった?」

「幼き頃は異性を感じない対等の相手だった。だけど、体が変化すれば、男と女を意識せざる得なくなった。彼は、見上げるほどに成長したのに、私の成長は止まったまま。」

「男と女の成長の差がある事は、当たり前だよ。」

「わかっている。だけど、すべてが競争の対象だったの。身長の伸びも、勝った負けたで一喜一憂していたの。」

「戸惑ったんだね。」

「相談する相手を失った。もっと話をして、気持ちを聞いて欲しかった。」

「その相談相手としても、彼は担おうとしていたんじゃないかな?」

「そう・・・彼は私にすべてを捧げるの。」

「いい相手じゃない。」

「そう、いい相手、怖いぐらいに。」

「怖い?」

「ええ、怖い。私の為に夢も捨てようとするのが。」

「誰かの為に捨てられるという事は、彼の一番の幸せは夢じゃない。」

「そんなことないわ。サッカー選手になる夢は、彼の子供の頃からの夢よ。」

「大切な物が夢であるとは限らない。」

「そんなこと・・ないわ。」

「じゃ、りのの夢は?」

「私の夢・・・。」

「その夢は、自分にとって一番幸せな事?」

「私の夢は、世界中の人と友達になる事で・・・。」

「どうして、それを叶えようとしていないの?」

「どうしてって・・・世界中の人と友達になるなんて、現実的には無理な事。子供の頃の戯言よ。」

「彼も子供の頃の戯言かもしれないよ。」

「違う、彼のは・・・だって叶えられる夢で。現に今とっても頑張っているわ。」

「それはりのと約束したから。」

「そう、約束した。新田慎一、その名が世界を駆けて届くのを楽しみにしている。と。」

「それは、りのの想い。彼との約束じゃない。」

「えっ?」

「彼の一番はいつでも、りのの存在。」

「そう、だから、怖い。慎一は私を一番に、どこまでも、寄り添うの。」

「それが彼の幸せだから。」

「そんなの、幸せなんかじゃないわ。」

「そんなの、彼に聞いてみないとわからない。」

「聞いてみないとわからない?」

「幸せの定義は自分の中にしかない。他人は測れない。」

「幸せの定義・・・。」

「そう、りのの幸せの定義は何?」

「私の・・・わからない。幸せが何かがわからないのに。」

「幸せの材料が不足しているのかも。」

「幸せの材料?」

「料理上手な彼に聞いてみれば?」

「嫌よ。笑われて、貶されるわ。」

「酷いな。」

「そう、酷いの。」

「違う。りのが。」

「私が?」

「そう、りのの彼に対する見誤り方が。」

「私の、見誤り方?」

「彼が、不足する幸せを埋めてくれる。わかっているよね。」

「わかっている。だから・・・。」

「怖い?」

「怖い。有り余る愛を受けても返せない。」

「返す必要はないんじゃないかな。」

「どうして?不公平だわ。」

「それが彼の幸せの定義だから。」

「聞いてみないとわからないと言ったのは誰?」

「そう、聞いてみないとわからない。りのが心を開き、聞くべき。」

「私が心を開いて?」

「りのを愛する事が、彼の、無限の幸せであり、返す必要のない無上の愛。」

 口にするに良い温度になった珈琲を飲む。冷えた体にほっこりと温まった息をゆっくり吐いた。

 幸せの定義は、体が温まる事を言うんじゃないだうかと考える。

 残る珈琲の香り、立ち昇る湯気、吐いた白い息の向こうで、朧気に微笑んで見つめるのは・・・。












 麗香は、いつもの日常通りに、一人でくつろぎの部屋で紅茶を飲み、考えごとをしていた。いや、さほどに思考は進んでいない。考えても仕方ないことで、先程届いた一通の招待状を眺めつつ、暇を持て余しているだけだった。

 届いたのは、佐々木さんからの結婚式の招待状である。佐々木さんは、職場の同僚と三か月後に結婚する。もちろん今野ではない。

「いいなぁ。」とつい呟く。

 だけど、何に羨ましがっているのか、今一つわかっていない。

 普通の女性であれば、結婚式に着るドレスとティアラに憧れて、人生で最高の美しさを見せつける場に夢を見ることだろう。しかし麗香は、ドレスやティアラなど、華族会のパーティで沢山着飾って来た。流石に白色のドレスは着てこなかったけれど、ドレスやティアラで着飾ってお披露目する宴という場面に、夢見るほどの憧れる気持ちはない。

 じゃ、何故『いいなぁ』という感情が出るのか?真剣に考えると良くわからない。

 麗香の幼少の友人たちは、ほぼ結婚してしまっている。美月もしかり。そんな先に結婚した友人たちはこぞって言う。

『結婚ってさほど幸せでもない。』『なんだが、暇なの。』『夫になったら、さほど好きでもなくなる。』

 そんな言葉を聞くと、結婚を夢見るほどの事ではないものとして、定義理解できる。

 現に麗香は、一度結婚まで考えた人と破談になっている。あの結婚が、友人たちの誰よりも最悪の結婚になりそうだった事で、麗香の結婚願望は消失してしまった。だから、「いいなぁ」と言う感情が出るはずがないのである。

 自分は、結婚がしたいわけじゃない。

 結婚が面倒な事極まりないと十二分に知った。結婚だけではなく、これからの人生において、数々の面倒が起こるだろう。その面倒な事を、手を取り合い助け合うと誓ってくれる伴侶が、麗香は欲しいのだ。

 佐々木さんが、麗香の想いと同じで、この人と結婚をしようとしているのかどうかはわからないけれど、少なからず、

『健康な時もそうでない時も、この人を愛し、この人を敬い、この人を慰め、この人を助け、その命の限りかたく節操を守る事を誓いますか?』を誓える相手を得たのは事実。

 麗香は大きなため息をついた。残っていたカップの紅茶を飲み干した時、部屋にある電話の子機の呼び出し音が鳴る。

「はい。」

「あ、麗香お嬢様、お休みの所申し訳ございません。」住み込みの林さん。

 用事がある時は部屋に直接伺いに来るので、内線を使っての会話は、外線電話の取次ぎだろう。今、屋敷には麗香しかいない。

「何?電話?」

「はい。それが、ドイツの日本大使館の石原様と言う方からのお電話でして。」

「ドイツ?大使館?」

「はい、何でも真辺りのさんの事でお話があると。」

「え、何だろう。」

「お繋ぎしてもよろしいでしょうか。」

「もちろん。ありがとう。聞くわ。」

 (りのの事で?何かしら?)

 嫌な予感がしながら、切り替わった電話の応対をする。

「お電話変わりました。私、柴崎麗香と申します。」

「私、ドイツの日本大使館の大使をしております石原と申します。初めまして、こんにちは。」

「初めまして。真辺りのの事でお話があるとか?」

「はい、真辺りのさんの身元保証が、華族会事務所になっていまして。先程、そちらに電話を致しましたら、華族会では対応できないとのことで、柴崎家の方ならできるとお聞きしましたので、お電話差し上げた次第なのですが。」

「あっ、はい、真辺りのは、柴崎家が身元保証になっています。何か?」

「実はですね。真辺りのさんが、シュヴァイツ国立自然公園の崖から滑落し、病院に運ばれています。」

「滑落⁉」

「はい。真辺りのさんは、こちらの時間で7日の朝シュヴァイツ国立自然公園に入山し、高難度の登山コースを登ったようです。その自然公園は入下山時に受付で身分証明を提示し氏名をサインするのですが、夕刻になっても下山しない事を不審に思ったスタッフが、警備サービスに連絡をして捜索をしたところ、未明、頂上展望へと行くコース途中の10メートル崖下に倒れている所を発見されました。」

「りのの容態はっ!」

「足を骨折されて・・・。」

「骨折!」

「意識障害があるとか・・。」

「意識障害⁉どういうことっ?」

「私も詳しいことはよくわからないのです。病院からそういう風に連絡を受けたばかりで。真辺りのさんが携帯していたパスポートナンバーで検索して、華選のお方だとわかり、それで華族会へと問い合わせをしたら、対応できないと言われまして、それで柴崎様宅へと連絡する事になった次第でして。」

「ああ、そうなの。」

「ご家族はいらっしゃらないのですか?」

「えーと・・・。」

 りのは、りののお母様と絶縁状態。17の時、弥神君に刺された事を華族会が隠匿しようとして、怒ったお母様が柴崎家と折り合いを悪くし、りのとの関係も悪くしてしまった。

 りのが海外で怪我をして病院に運ばれている。この場合、母親の村西家に連絡を差し上げるべきだろう。だけど、それが麗香には恐ろしくて出来ない。また、『あなたがりのをそそのかした、奪った』と罵られるかと思うと、息が詰まるほどつらい。

「りのの事は、柴崎家がバックアップをしているので私が・・・。」

 家族の事はとりあえず誤魔化した。

「そうですか、病院側は、身元の保証が出来ない外国人を入院させることに躊躇していまして、その・・費用が出せるかと言う事を気にしていまして、それで。」

「出すわ。どんなに高額になっても、私が責任を持つから、ちゃんとケアしてと、病院側に言って。」

「あ、はい。」

「それから、私、今からそちらへ行くから、病院の場所を教えて。」

「ドイツへ来られるのですか?」

「ええ、りのをほっとけないわ。」

「わかりました。では、私がドレスデン空港へお迎えに上がります。飛行機の到着時間がわかりましたら、お知らせくださいますか?」

「ええ、あなたの連絡先を教えてください。」

 麗香は電話切ると、お手伝いの林さんにタクシーを呼んでもらうよう叫び、機内持ち込みサイズのスーツケースにとりあえずの衣服類を詰め、パスポートを手に20分後には屋敷を出た。

 タクシーの中で、スマホでドイツのドレスデン行きの飛行機のチケットを探す。こういうのは、いつも藤木に頼んで自分でやったことがなかった。藤木に電話をして事情を説明し、チケットだけでも手配してもらおうかと一瞬考えたけれど、葬儀中にそんな非常識な頼み事が出来るはずもなく、しかも、もう藤木を柴崎家に縛る理由がなくなる。華族制度が無くなれば資産も歴史も柴崎家よりはある藤木家の方が立場は上になる。そんな名家の長男である藤木を雇う関係をしていては駄目なのだ。何もかも自分でやって行かなくてはならない。

 麗香は、藤木が手配していた手順を思い出しながら操作し、チケットの手配をする。ドレスデンまでの直行便がなく、フランクフルトを経由する便しかない。日本の航空会社じゃないからとても不安だけど、今から最速でドレスデンへと行くにはそれしかなかった。麗香は何とかなるだろうと、本日のフランクフルト行きの最終便のチケットを購入し、運転手に「早く!」とせかした。

(りの・・・滑落なんて、一体何があったの?)














 アムステルダムのレニーホテルから古城までは車で10分ほどであるが、その道のりは式典に参加する者たちが乗ったタクシーの渋滞になっていた。時々、護衛付きの高級車が占有道路を使って追い越して行き、当着地点で割り込むので、すぐ目の前に見えているのに中々到着しない。30分以上がかかり、ようやく古城にたどりつく。

 タクシーを降りると、妙なめまいに襲われ、足がふらつき、タクシーの扉に体をぶつけた。

「どうした?」

 目ざとく頭目に気付かれてしまう。

「いえ、何でもありません。」

「慣れない文化に疲れたか?」

「いえ、疲れてはいません。」

 そうは言ったものの、今朝、起きた時からその症状が出ていた。風土の違う場所に来た気疲れはあるだろう。雨の予報はないが、空はどんよりと曇っている。気圧が低い影響もあるかもしれない。

「今日明日は、王族貴族を阿るだけの物だ。何だったらホテルに戻って休んでいてもかまわない。」

「このような式典も滅多にないことです。勉強させて下さい。」

 頭目はクスっと笑い、「そうか。まぁ、好きにしろ。」と古城内へと足を向ける。

 クレメンティの後ろに続いて我も歩み出したが、フワフワと地に足がついた感じがしない。これでは、護衛にもならないじゃないかと、親指の付け根を噛み痛みでふらつく感覚を強制的に無くした。しかし、護衛しなければならない危険は、流石にここでは無い。李家の者もこんな場で頭目の命を狙うほど馬鹿ではないだろう、という見解を我らはしていて、今日に至っては王族貴族も来るので、セキュリティは最強だ。常に携帯しているナイフを、持てない事が心もとなく不安であるが。

 レニー関係者と王族貴族の招待客の出入り口は違っている。一昨日、我々が使った正面出入り口は、その王族貴族達専用となっていて、リムジンが連なって停車し、煌びやかな衣装の人物がレッドカーペットの上を歩いている。張られたバリケードの外から報道のカメラマンたちがシャッターを切る音がこちらまで聞こえて来ていた。

英「あれが、オランダ国王、ウィレム・アレクサンダーだ。」

英「流石に、威厳に満ちていらっしゃいますね。」とクレメンティ。

英「周りの護衛やお付きの多さで、そう見せているだけだ。レニーのおひざ元で国が潤い続けるおかげで、国王は苦労知らずに、欧州随一の無能王だと評判だ。」

英「グランド様、謹んでください。」

英「フン、これぐらいどうってことない。レニーの幹部内では誰もが思っている事だ。」

英「ですが。」

 レニーの関係者は、古城の裏口を利用する。こちらはレッドカーペットではなく、ブルーのレッドカーペットが敷かれているのは、レニー・ライン・カンパニーの企業カラーが青だからだ。無能の国王に花道を譲ってやっていると言うわけだ。

 明日の一般企業向けの式典は、我々レニー関係者がレッドカーペットの敷かれた正面玄関を通り、一般企業の招待客はブルーカーペットを通る事になっている。

 受付で金属探知機を使ったセキュリティチェックを行い、頭目は青い大綬を受け取った。クレメンティに手伝ってもらって、それを上着の内側へと装着すると、こちらも負けず劣らず威厳に満ちる。各大陸支部代表は、この大綬をつけて壇上に座り、順番に祝辞を述べる予定だ。

 開始までまだ少し時間がある。会場内を覗くと、既に壇上に座っている大陸支部代表が3人。他はフロア内もしくは会場前廊下で立ち話をしている。

 内ポケットで携帯がバイブで着信を知らせてきたので、頭目に断り少し離れた場所で内容を確認する。

【真辺りの>パスポートナンバー照会実績報告

  IP場所>ドイツ大使館→日本国パスポートセンター

  アクセス時間>8:34、8:58  9:02】

「ん?」

 思わず声を出して首を傾げてしまった。

(パスポートでも失くしたか?)

情報部へ返信の指示を中国語でメールを出した。

【引き続き、監視、真辺りのの現状を探り、報告せよ】












 葬式は身内だけで、としたにも関わらず、参列者は列をなして周辺道路は警察の交通整理が行われるほどになってしまっていた。そんな状況に、一族の一部の者は、これが権力の象徴とばかりに自慢げに豪語する者がいて、亮は反吐が出そうになる。勘違い甚だしい。そんな奴は覚えておき、後に一族から追い出してやる、と心に誓う。

 納骨も終わり、葬儀の片付けも残すところわずかになった頃、藤木家主要一族の長が広間に集められていた。座布団が敷かれただけでお茶も出されていない。使用人もシャットアウトした一族会議が始まる。全員が揃うのは稀だろう。

 谷垣さんに車いすを押されて、父に続いて広間に入った亮は、部屋に揃い座る一族の目が、興味深々で亮に注目しているのをヒシヒシと感じた。 

 本家以外の者は、フジ製薬の関係者ばかり、内実、新薬や開発施設建設などの省庁関係承認に関しては、政界で力を持つ藤木家の忖度があり、他製薬会社より優位に働いていたのは事実だ。それが元内閣総理大臣の権威をもつ爺さんが死んで、そうした忖度が失われることを、葬儀に集まる一族たちは、故人の死を悲しむ感情よりも案じる感情がありありと渦巻いていた。

 母と、舞と唯が続いて部屋に入り、最後に弁護士が入り、扉は閉められた。

 シーンと静まった座敷に、黒い服を着た総勢40名余りが正座する光景は、どこぞの任侠映画のワンシーンかと思ってしまい、亮は笑いをこらえた。まだ任侠の世界の方がマシかとも思う。

 父が葬儀を無事終えた事の報告と一族への労いを述べて始める。父の声は流石に疲れの色が出ていた。

「さて、当然のことながら、私は父、猛から家督を引き継ぎ、これまでと変わらずに皆の後援を賜りたく存じる。その為には本家の方針として、皆に告げなければならない。」

 そこで父は一旦口を噤み、一同に視線を送ってからまた口開く。こういう場の発言のしようは、流石に慣れたものである。

「皆知っての通り、息子、亮は16歳の時に生死を伴う交通事故に遭い、長く意識のない状態に陥っていた。幸いにもこうして存命したのは感謝する事であるが、その時の病症の影響で健常とは言えない状態である。亮が政界へと進出するのは断念せざる得ない。」

「では、本家は守様の代で政界から身を引かれると言う事か?」

 フジ製薬を取り仕切る藤木壮馬氏が問う声を上げる。

「いや、政界へは娘、舞が出る。」

「なんとっ。」

 部屋がざわついた。

「次の選挙で出馬させる。女性議員も珍しくなくなった。皆のおかげで、ここ福岡では揺るがない基盤を築けているが、舞を出馬させることにより、女性有権者の獲得増を目指し、更なる基盤の強固を築く。」

 一族は顔を寄せ合い、ひそひそと勝手な思いをつぶやく。

「皆さま。」舞が透き通る声で、場を静めた。「私は、兄がこのような状態であるから仕方なく、出馬を決意したわけではありません。」

(中々に言ってくれる。)

 伏せた顔の奥で亮は苦笑する。しかし、舞のおかけで亮は政界へ進まなくて良くなった。舞の為なら、自分はどんな恥さらしになろうとも構わない。どんなことでも演じ、協力しよう。

「亡くなった祖父、そして父の姿を見て育ち、この日本を背負って立つ藤木家の役割が、どんなに素晴らしいことであるか、また、国には残された課題が沢山ある事に、常々考えてまいりました。女性として祖父や父とは違う視点で政界に身を置き、そして、ゆくは内閣総理大臣を目指します。」

 藤木家一同は、舞の堂々たる演説に、目を見張り言葉を失った。

「舞はまだ若く支援者もいない。まずは皆の支援が必要である。協力をしてあげて欲しい。」

「皆さま、どうぞ、ご指導ご支援くださいますよう、お願いいたします。」

 舞は揃えた手を畳みにつけて頭を下げた。全員が慌てて、同じように頭をさげる。

「これは驚きました。ええ、もちろん。我々藤木家一族は、藤木舞さんの政界進出に、総力上げて後援致します。」

「女性初の内閣総理大臣を、藤木家から目指しましょう!」

 一族の者達は、称賛の言葉を発し、喪中であるにもかかわらず部屋は歓喜に満ちた。舞は、もう既に有権者の一部を取り込んだようなものだ。亮が政界に出ると言っても、こうは喜悦な雰囲気にはならなかっただろう。例え、亮が健常で政界に意欲のある姿勢を前前から発していても。一族の長兄が政界に入る事は、一族の中では当然の慣習なり、凡退する不満を払しょくできなかったに違いない。

 日本の政治の女性進出は、世界から遅れている。まだまだ男性優位の日本の政界だからこそ、チャンスなのだ。世の中の負の要素を利用して藤木家はのし上がってきた、ならではだ。











 ドイツ時間、午前9時を過ぎて、やっとドレスデンに到着する。到着ロビーにて「シバサキレイカ様」と書かれた紙を持つ人を見つけ、駆け寄った。

「柴崎麗香です。」

「あぁ、遠い所、よくお越しくださいました。石原です。」

 ドイツ日本大使館の全権大使という肩書のイメージから、麗香はもっと貫禄のある人を想像していた。だけど石原全権大使は小柄の体つきで、ネクタイも地味で、大使に命令されて迎えに来た部下という風貌だった。

「お世話をお掛けします。」

「いいえ、これも我々大使館の務めでございます。まして、華族の方とあれば・・・」

 麗香は、わずかな笑顔で顔を伏せた。もう、その華族特権もなくなる。三年前、大きなデモとなって市井に反対され、非難された階級は、今やそれを持っているという経歴が、恥ずべきことのような気持になってきていた。

 大使が口ごもったのは、非難のつもりではなく、同情のような憐みであるのは、十分に察知できる。

「一度、大使館へとお越しになられますか?それとも真辺りのさんの病院へ?」

「病院へお願いします。心配なので。」

「わかりました。車へどうぞ。」

 小柄な石原全権大使の後について空港出口へと向かう。外で運転手付きの車が待っているのかと思いきや、立体パーキング場へと向い、停めた車の運転席に自ら乗り込んだ。車は日本車の高級セダンだけど、運転手もつけられないほど、ドイツの大使館は人手不足なのかしらと、麗香は心の中で首を傾げた。ただ、大使館のトップが運転手付きの車を利用しているというのは、麗香の勝手なイメージで、世界各国、日本の大使館ですらも、実情を知らない。

 車を走らせてから石原全権大使は話をはじめる。

「昨日、病院へ行き、りのさんの容態を伺ってきました。」

「どうなの、りのは?」

「目を覚まされているのですが、朦朧とされている様子で、誰の声掛けにも反応しない状態でして。」

「どうして?」

「医師は始め、滑落による頭の強打、脳の損傷を疑ったようですが。」

 麗香は悲鳴を上げてしまった。全権大使は首を振って否定。

「MRI及びレントゲン、脳波計測などで頭は念入りに調べて、結果、頭を打つような滑落ではなかった、と医師は見解していましてね。足を骨折していますから、足から地面に着地した滑落だったのだろうと。」

 麗香は息を吐く。

「救助されたのが昨日の未明で、滑落してから12時間ぐらいは経ってしまっていました。発見された時には意識がなく、おそらく一晩中気を失われていたのだろうと。逆にそれが二次的事故につながらなかった幸いでもあると。救助隊にも話を聞きに行きましてね。」と全権大使は、運転の合間に麗香の方へと渋い表情を向けるので、麗香は相槌にうなづく。

「初夏と言えども、ドイツの夜は気温が下がります。まして標高の高い場所となると・・・軽度の低体温症にもなっていたようです。意識障害はそのせいであるだろうと。」

 意識障害・・・りのはまたそれを引き起こす。

 海外でそれを起こされたら、麗香はどうしたらいいのかわからない。急に一人で来たことを後悔し、心細く不安になった。誰か、せめて新田に連絡して一緒についてきてもらえばよかったと、今更ながらに一人で意気込んだ事を後悔する。

 大使館から連絡が合った時、麗香は当然のように藤木に連絡しようとして、思いとどまった。祖父の葬儀最中である藤木に連絡するのは迷惑極まりない。昔から、りのの異変を新田には教えない意識が麗香達にはあって、その慣習は大人になっても抜けていなかった。

(どうしよう。)

 意識障害の度合いがどれぐらいのものなのか、りのに会ってみないとわからないけれど、もし酷い場合、日本に連れて帰る事が出来るのか?ドイツで入院となれば、誰が世話するのか?私?1、2週間ぐらいなら可能だけど、それ以上は無理だ。そうなる以前に、村西家に連絡しなければならないだろう。そうなったら・・・麗香は唾を飲み込んで小さく息を吐いた。

「りのさんが運ばれている病院は、ここから30分ほどのピルナという市街です。」と全権大使は麗香に気遣う。

「よかったわ、近くて。」

「そうそう、りのさんは、フランスに住まわれているのですね。」

「あぁ、そう、そうなの。」

「昨日、病院へ伺った時に、失礼ながら荷物を検めさせていただきました。財布の中からホテルの清算書を見つけまして、問い合わせたのです。そうしたら、フランスの住所から予約されていまして、そちらに電話をしてみたのですよ。そうしましたら、恋人だと言う方が電話に出られまして。」

「グレンね。」

「ご存じでしたか。」

 どうしてそれを知らせなかったのか、と言うような少し責められるような口調と表情を向けられた。

「あ、えっと、グレンは、ちょっと・・・あまり好ましくなくて、私達は皆、お付き合いに関して反対しているというか・・・なので・・・。」

 正直な心情を理由に言い訳にした。全権大使は納得した風で頷く。

「その、グレン・ユーグ・佐藤さん。今日ドイツに来ると。」

「えっ。」

「申し訳ありません。そのような事情と知らなかったものですから。」

「いえ、そうですよね。それはもちろん。当然のことです。」

「申し訳ございません。」

(更なる難題が増えた・・・さて、どうしよう。)

 グレンは恋人としては最低だけど、りのの事で今後どうするかと相談できると思ったら、麗香はわずかに安堵した。

 りのの事を一通り話し終わると、「柴崎様は、ドイツは初めてですか?」と全権大使が聞いてくる。無言で気まずくならないようにと、気遣ってくれているのかもしれない。

「ええ、初めて。」

「お時間があれば観光名所をご案内差し上げたものを。」と言って、ドイツの名所などの説明をしてくれる。病院に着くまでは、あれこれ考えても始まらないので、その話を興味深く聞いて、本当に、せっかくだから観光でもして帰りたいと思った。そうして、あっという間に病院につく。歴史ある街並みの古い建物で、病院とは思えないロマネスク調の5階建てのビルだった。麗香はテーマパークにでも来た気分で周囲をキョロキョロと見渡しながら入る。

「お金の心配はせず、ちゃんとケアしてくれと言いまたら、個室の方に移動されましてね。」と石原全権大使は苦笑して頭を下げた。

「ええ、かまわないわ。」と言いながら、どれだけの金額を請求されるかと心配になる。外国では日本のように保険制度がなく、救急車を呼ぶのにもお金がかかると聞く。

「そういえば、救助隊がりのの捜索をされたとか、その費用とかも請求されるのかしら。」

「いえ、救助はシュヴァイツ国立自然公園の入山時に払う自然環境保全協力金の中に含まれています。」

「そう、じゃ、ここの費用だけね。」

「はい。後で手続きしていただいていいですか?」

「ええ。通訳していただければ。」

「もちろんです。」

 りのは華選だ。華選は華族制度がなくなっても、生き残る貴重な地位であり人材なのだから、これらの費用を華族会で出してもらってもいいだろう。領収書を華族会の記載でもらっておこうと考えながら、エレベーターで4階まで上がる。

「こちらです。」と案内されて入室した部屋は、窓枠がレトロな雰囲気の薄暗い部屋だった。

 りのは起こしたベッドで正面を向いている。麗香達が音をたてて入室しても身動き一つしなかった。

「りの!」駆け寄り、ベッドに手を着いた。

それでもりのは動かず、半眼でどことはわからない所を見つめている。

「りの!」もう一度叫びながら、これは重症だと愕然とする。











 式典も2日目となり、レニー幹部の顔ぶれも馴染みとなって、中国人で通っている我にさほど驚愕される事もなくなった。

 今日も頭目は大綬をつけて、あらゆる言語を使いレニーの幹部主要陣と会話をしては微笑する。

 昨日の頭目の演説は最高だった。式典はオランダ語が主言語で進行されていて、壇上両側の大きな画像機器に、他の主要4言語が文字による通訳がされていたが、アジア圏の言語の表示はなかった。頭目の言う通り、アジアを見下すレニー総本部の対応が、世界におけるアジア地位の実情であると実感した。その対応に対して頭目は、『アジア大陸代表としまして、アジア圏の方々にもこの式典の素晴らしさを感銘していただきたく。お聞き苦しいかもしれませんが、中国語とオランダ語の同時スピーチをさせていただきます。』と断ってから、祝辞を述べた。それも原稿を持たずに。

 その発音、表情、身振りは惚れ惚れするもので、どの大陸支部代表よりも優れていて、貴族達からスタンディングオペレーションが送られたほど。

 あのような事が自分にできるだろうか?と考える。

 例えば、神皇たる者、国民の前で言辞を述べる事は確実に多々ある。しかし、それは国民が最初から神皇であることを認識して、畏まることが染みついた上での上聞だ。話す内容も事前に宮内の者が校正をしているだろう。神皇自らの言葉が半分も入っているだろうか?人を魅了する演説の趣旨が違う。そして我が神皇家の血脈である限り、その趣旨を頭目の演説に近寄せていく事は出来ないと考え至る。

 真似のできない頭目のスピーチは、世界中の人間が魅了した事だろう。りのはこの映像を見て、また憧れ恋心が再燃し、惜しく逃した好機に身もだえしなければいいが。

 そういえば、情報部から、その後の知らせが届いていなかった。りのも頭目に劣らず言語に不自由しないゆえ、パスポートを失くしても大して困りはしていないだろうが、言語以外の処々で困りごとになっているのであれば、裏から手助けもやむなし。

 りのの動向は、パール号を降りた以来、監視させていた。真辺りのの旅券番号が世界各局コンピューターに入力されると、拾い上げる体制を整えている。りのの使っている端末機器も遠隔監視させ、注視すべき言語の検索があれば、抽出一覧して我に報告が来るように、情報部に指示しているのだが、しかし、それらの指示は情報部の私的運用にあたるので、作業順位は最尾で、仕事の合間で良いとしてあった。だから、昨日の指示も後回しになっているものと考えられる。

 りのがフランスより出国する旅行を計画しているのには、少々焦った。レニー・ライン・カンパニーの創業500周年記念式典に頭目が参加するのは安易に想像できることで、りのが会いに来るのではないかと警戒した。が、最近の検索単語からみて、どうやらその可能性は薄いと判断したが、急に心変わりして行先変更する事もある。オランダより遠い場所へとりのが移動するのは良い事なので、行先をドイツ→デンマークから、ドイツ→チェコへと変更の検索を幸いに、情報部へ緊急依頼し、レニー傘下の航空会社及びホテルの予約システムを操作させ、一人分を空けさせたのだった。

 今日は、大陸支部代表たちの祝辞は簡易的に行われ、主要取引先の取締役やら顧問やらが、長くつまらない祝辞を述べる。

それが終われば別フロアで昼食会である。昨日は会場を丸テーブルと椅子が埋め尽くされていて、王族、貴族をもてなした最高級料理が振る舞われたが、今日は立食形式である。

 式典が終わり、その昼食会会場へと人々が移動するさなか、携帯のバイブレーションが情報を知らせて来る。

【ドイツ、ピルナ市 ピルナ総合病院、カルテ情報端末に真辺りのパスポートナンバーの入力記載あり】

「ん?」またもや声に出して、その報告を二度読みした。

「棄皇!」

 頭目が我を呼ぶ。携帯を懐に仕舞い駆けつけた。

「取引関連の重要人物を紹介していこう。レニーの代表ともなると、何もしなくても向こうから握手を求めて寄って来るが、私がお前を紹介した、その実績が後に効力にもなる。」

「ありがとうございます。」

 情報部へと次の指示を出せなくなってしまった。

 立食の合間に【詳細を調べて報告せよ】と送り、その報告が来たのは、宴も終わり近くなった頃だった。

 各取引企業要人との談話が途切れた瞬間を見計らって、我は頭目を呼び止める。

「頭目、お願いがあります。」

「何だ。」

「今から、私的所用で、退出させていただいてよろしいでしょうか?」

「私的所用?」

「はい。突然で申し訳ございませんが・・・」

 頭目はじっと我を見つめ、得意の無言の間を持たせる。

「実は・・・」

 我はわざとクレメンティへと視線を這わし、意味を持たせた。名前を言えない事を伝える為だ。

「私の、初めて肉体関係を持った女が、ドイツで怪我をして病院に運ばれております。日本から柴崎麗香女史が駆け付けているようですが、困っている様子でして、助力に駆け付けたく。」

 頭目は目を見張って驚く。そして声を上げて笑った。

「あははは、いや、これは失礼だ。すまない。そうか、それは心配だ。かまわない。もちろん行ってやれ。」

「憂慮ありがとうございます。それと、その情報の詳細を探る為に、ドイツ大使館レニー配下の石原氏を使わせて頂きました。」

「かまわない。早く行ってやれ、お前のブラック権限で間に合わない事があるなら、私の代表権限をフル活用してもかまない。」

「お気遣いありがとうございます。失礼します。」

 踵を返す背中で、クレメンティの問う声が聞こえて来る。

英「どうしたのです?」

英「人間らしくなってきた。」













 フランス語で何かを叫ばれ、麗香は振り返った。グレンは病室のソファを占領してスマホで動画を見続けている。どうやら、競馬の実況中継のようだ。麗香が非難の視線を送っても一向に気付かず、ずっとフランス語で独り言を発しながら、一喜一憂してうるさい。

 最低男、何故りのはこんな男と一緒に3年も同居しているのだろう。働かず衣食住のお金はすべて、りのが工面していると聞いた。

 りのは、『いいの。私がそれで満足だから。グレンはそのうち俳優として花咲かせるわ。何でも下積みってあるでしょう』と言っていた。完全にヒモ状態だ。麗香達は当然にグレンとの交際は反対であるけれど、それをりのに強く言えない。言えば、りのは私達からまた離れ、一切の連絡を取らなくなってしまう恐れがあるからだ。

 藤木は『好きにさせとけよ。』と、またりのを甘やかす。『それもまた、一つの生き方なんじゃないの。』と。

 麗香はりのへと向き直り、手を握り念じる。

(りの、しっかりして、足の骨折も早く治って。大丈夫、私が付いているわ。)と念じながらも、言語のわからない異国では不安がぬぐいきれなくて、その念じも弱弱しいと自分でわかっていた。

 石原全権大使は、仕事があるのでと一旦ベルリンへと帰って行ってしまった。夕刻には戻ってくると言っていたけど、一人にされる事が不安だった。グレンと二人きりの時を、もう5時間も過ごしている。片言の日本語をグレンは話せるとしても、りのを心配するどころか、ここまで来る費用を大使館が出してくれるんだろうかとか、お金の心配ばかりして、もう麗香はうんざりしていた。

(本当にどうしたらいいのかしら。)

 そういえば、林さんにも詳しい事を言わず、日本を飛び出して来ていた。忙しい両親に相談するのは気が引けたが、治療費の事もある、麗香の独断で事済ませない状況だ。麗香は母に電話をしようと、病室をそっと出る。廊下に出て、どこか電話のしやすい場所はないかと探すも、日本と勝手が違う施設のレイアウトに加えて、案内表示の文字もさっぱりわからず、結局一階まで降りて玄関から外に出た。すると、ちょうどエントランスに石原全権大使の車が入って来て停まった。麗香はほっとして、全権大使から母に報告してもらうのが一番的確だと思い、車から降りてくるのを待った。全権大使が運転席の扉を開けるよりも先に、黒いスモークガラスの後部ドアが開けられた。

降りて来る人を見て、麗香は驚愕に息が止まる。

「柴崎さん、りのの為に、こんな所までご足労をかける。」

「そっ・・」

 双燕新皇様と言いかけた口を止める。前髪の短い髪型とモーニングを着用した姿が、一緒に踊ったあの時にそっくりだったからだ。しかし、そっくりでも近くに寄れば違いを判別できる。纏う雰囲気が違った。双燕新皇様はふんわりとして白のイメージであるのに対し、弥神君は、漆黒を纏うイメージだ。今日は黒縁の眼鏡をかけていて増々黒が強調されている。

 唖然として立ち尽くしている麗香に対峙した弥神君は、目を細めて首を傾げてから、「りのの病室はどこ?」と聞いた。

「4階でございます。こちらへ。」と運転席から降りて来た全権大使が答え、麗香を越して先導する。

「もう案ずることはない。行こうか。」と麗香の背中を押し促す。

 エレベーターに乗り込み、息をひそめてドキドキする鼓動が鳴り響かないよう必死に抑える。

(何故、弥神君は、ここにりのが居る事を知っているのか?全権大使が弥神君に知らせた?どういう経路で?何故?

そして、どうして弥神君はモーニングなんて着ているのだろう。どこかでパーティでもあったのかしら?というか、弥神くんもドイツに居たなんて、驚きの偶然だ。)

 沢山の疑問を鼓動と一緒に抑え込んでいると、弥神くんはそんな麗香をじっと見つめてからクスっと笑った。

「一週間前から、オランダのアムステルダム入りしていた。レニーの500周年記念式典があってね。」

「あぁ、そうだわ、ニュースでもやっていました。今日だったのですね。」

「そう、昨日と今日。」

(途中で抜けて来られたのかしら。)

 突然、弥神くんは麗香の顔にグッと近寄り、麗香はドキリと胸の鼓動を高鳴らせる。

「石原大使は、レニー・グランド・佐竹の配下の者でね。りのが怪我をしてここに運ばれている事を知らせてくれて、空港まで迎えに来てもらった。」と、麗香の耳に囁く。

 石原全権大使は操作ボタンの前で前を向き、麗香達の話は聞こえていない様子。弥神君は何故、全権大使に聞かれないように囁いたのが?その疑問は、胸のドキドキが邪魔して、思いめぐらす事が出来なかった。

「そ、そうだったのですか・・・」

 遅いエレベーターが揺れて4階に着き、降りる。通りかかる看護師たちの驚異の視線を交わしながら、りのの病室へと入ると、流石にグレンも驚いてソファから腰を上げた。

仏「な、何?」

 弥神君はグレンに一瞥をするも無視して、ベッドへと直行する。

「りの。」

 弥神君が声をかけても虚ろな目は変わらず、一ミリも微動しない。そんなりのの顔を覗くようにしてから、弥神君は大きなため息を吐いて首を振った。

「まったく・・世話をかける。」

 そのつぶやきは、まるで妹か親しい身内にでも言う様で、麗香はなんとも言えない複雑な気持ちになった。

「お前、誰?そのファッション、おかしい。」とグレンは失礼な事を言う。

 弥神君はベッドの角度を平たく戻すと、身軽にベッドへと昇って、りのの身体を跨いで膝をついた。

「何を・・・」

 眼鏡を取り、りのの額と自身の額をくっつける。

「お、お前、何する!」グレンが弥神君に掴みかかる。

「邪魔するな。」振りほどいて振り返った弥神君の左目が、赤く染まっていた。

「駄目よ。」

 麗香はグレンの腕を取りベッドから引き離した。

 弥神くんは、再びりのへと向き直り、額をくっつけると祝詞を唱えはじめる。その唄は麗香の体の内にも不思議な波動をなびかせ、奇妙な高揚が湧き上がってくる。

「りの、出て来い。沈んでも代わりはいない。」

 りのは、びくりと体を震わせた。

「りのっ」と弥神君が強く名を呼び額を離すと、りのは胸を膨らませて息を吸い、吐いて苦しそうな息遣いで喘ぐ。

「はあ、はぁ、はぁ、き、棄皇?」

「りの!」麗香が呼ぶと、りのはこちらに顔を向け、

「れっ」りのは激しく咳込んだ。

「意識は覚醒しようとも、体は休息が必要だ、眠れ。」とりのの顔へとまた顔を寄せる。それがキスをするように見えて、麗香はまたドキリとする。

「お前っリノに、なに、するっ」と怒ったグレンは、麗香の抑えを振り切り、再び弥神君に掴みかかる。

 弥神君はベッドから降りて、グレンと向き合うと、大きなため息をついた。

「グレン・ユーグか?」

「なぜ、僕、お前、知らない。」

 顔を向けられたので、麗香は「そうよ。」と頷く。

「グレン・ユーグ、そのスマホにレニーeマネー口座を開設しているか?」

「かいせつ、なに?」首を傾げるグレン。

英「レニーeマネー口座を持っているか?」

 弥神君は英語に言い変えて、更に自身のスマホでそれを表示させてグレンに指さし見せる。

 レニーeマネー口座は、世界で一番流通している電子マネー口座である。がしかし、急にそれを聞く意味がわからない。

 グレンも訝し気だが、提示されたスマホ画面を見て「持っている。」と英語で答える。日本語よりは英語の方が話しやすそうだ。

英「送金する。お前の口座コードを表示しろ。」

英「何故?」

英「金が欲しくないのか?」

英「欲しい。だけど、何故?」

英「金をやる、りのと別れろ。」

英「はっ?それで、りのと別れる事しない。馬鹿にしてる、お前。」

英「この金額ではどうか?」

 と表示した金額を見て、麗香も驚いた。0の数が目を疑うほど多い。

英「100万ユーロ!」

 日本円に換算して約1200万円超え。

英「要らないのなら仕方ない。」

 と弥神君はスマホをモーニングの上着の内ポケットに仕舞おうとする。グレンは縋ってその手を止めた。

英「待て、待て、もう一度、見せて。あぁ、凄い、わかった。オーケーだ。」

 グレンは急いで、自分のスマホを操作してレニーeマネー口座の口座コードを表示した。互いのスマホを重ねて取引が行われると、シャリンと言う音と共に、あっさりと1200万円もの大金が送金された。グレンは自身の口座の残高を見て、奇声を上げて喜ぶ。

仏「こんな事ってある?最高だ!」

「ちょっと、グレン、静かに、りのは寝てるのよ。」

 麗香の注意も効き目なく飛び上がる始末。

英「グレン・ユーグ、これより、りのと接触するな。」

英「わかった。」

英「もし、約束を守らず、りのと会ったり連絡をしたら、殺す。」

英「わぉ!怖いね。」

英「脅しではない。我は、お前の行動を監視できる。」

英「わかったよ。」

英「なら、さっさと国へ帰れ。」

英「来てよかったよ。りの、さようなら。」

 グレンはりのに投げキッスをして病室から出て行った。

「き、棄皇様・・・」

「呼び捨てで良いと言ったはずだけど、3年も前に。」

「あっ・・・」

 でも、弥神君は麗香の事を柴崎さんと呼んでくれるのに、神皇家の継嗣と知っていて、呼び捨てなんて無理だ。そんな麗香の心を見透かしてか、弥神君は苦笑して、

「じゃ、弥神でいい。もうその名を知られて困る危惧はなくなった。」と言う。

「では、お言葉に甘えさせていただきます。」

「敬語もいらない。昔のように。」と笑う。

「あ・・・うーん。」麗香は苦笑する。「弥神君、こんな事、りのが知ったら。」

「大丈夫、りのもいい加減に終わりにしたいと思っていた。」

「そ、そう?」

「さて、我は戻らなければならない。柴崎さんはもう少し、りのに付き添って骨折の足を癒してくれるか。その触の力で。」

「ええ、もちろん。」

 弥神君は微笑み頷くと、スマホの時計を確認する。

「ドレスデンのレニーホテルから夕刻、迎えを寄越す。日本語の話せる者を探すが、用意できなければ悪いが、英語の者で我慢してほしい。明日もここに来れるように話を通しておくから。」

「ありがとう。」

(なんて心強い。)

「石原大使、りのが目覚めたら、医師に診察をさせ、退院できるように手配を。」

「はい。」早速、部屋を出ていく石原全権大使。

「診察後、医師の説明で退院できる見解となったら、知らせてくれるかな?」

「あっはい。」

 メールアドレスを教えられ、病室から出ていく弥神君に麗香は、心の中で深く感謝して見送った。












 日本サッカー連盟会長、本間邦武氏が慎一の携帯を耳にしてうなづく。

「あぁ、それは聞いた。うん。うん。そうか・・・いや無理はしなくていい。大変だろう。・・・・わかった。変わらなくていいか?ん。では。はいはい。」

 本間会長は藤木との電話を切り、携帯を返してきた。

「藤木君、明後日の夕刻までにはこっちに戻ってくるだと。」

「はい。」

「それから、この数社と本格的な話し合いを取ると。それまでにこのスキャンダル熱を少しでも冷ます手を打たないと、と藤木君も言っている。」

「はい。わかっています。」というか、もうこれ以上は何もしない方がいい。

 シーナと別れた次の日にコメントをSNSに上げた。

 マスコミは、【恋人フリーになったサッカー界のプレーボーイ新田慎一は、真辺りのと付き合う算段へ】とか、【シーナを捨てて真辺りのを選んだサッカー界色男の思惑】などの見出しをつけて、慎一を追いかけまわした。慎一がSNSのコメント以外、何もお話しする事はありませんと言ったきり黙って、マスコミを悉く無視したので、やっと追いかけて来るマスコミは少なくなったが、まだしつこい数人は、今もビルの外で慎一の出待ちをしている。

「今日も茨城のトレセンか?」

「いえ、今日は実家の方に帰ろうと思います。」

「実家のフランス料理店の方にもマスコミが行っただろう。」

「ええ、両親に怒られました。」

「悪くも注目されると言う事は、人気があると言う事だ。あまり酷いのは困るが、注目されないよりずっといい。ご実家のフランス料理店もそうじゃないかな?」

「はぁ・・・」

「ま、頑張り給え。」

 この話の流れと状況で、何を頑張れというのか?これぐらいの年配者は、必ずと言っていい程に最後には「頑張り給え」で話を終える。

 会長と共に会議室を出て、廊下で再度挨拶をかわし、慎一は単身でエレベーターに乗り込んだ。壁に、日本代表のユニホームを着た自分が中心となったVの形で並ぶ大きなポスター。遠藤は『俺がキャプテンやのに、なんで先頭ちゃうねん!』と怒っていた。遠藤が所属している大阪ガンズのチームからも契約オファーが来ている。遠藤と同じチームは、確かに面白そうだけど、濃い付き合いになる事は確実で、それがサッカーとは違う難点で嫌厭したいところだが、贅沢を言える身分ではない。

 フランスのマルセイズとの契約更新はないと決断をしている。今、会長にその気持ちを話して、その書類を送ってもらう手筈を頼んだところだ。自身の年齢と足の故障具合から見ても、選手生命は長くない。残りは日本でプレイをしたい。もう海外は十分だ。さらに先の人生を考えたら、第二の人生設計を組み立てておかないといけないと思う。

 藤木は、組み立てずとも、贅沢しなければ、生活できるだけ稼いだだろうと言う。確かにそうだけど、それを言ったら、藤木だって同じ、慎一以上の資産を持っている。だけどちゃんと働いている。根本的に、人は何かしないといけない性なのだろう。慎一は漠然と、どこかのチームで子供たちにサッカーを教えていけたら、と思っている。当たり前過ぎる第二の人生ではあるが。

 エレベーターが一階に着くと、玄関ロビーに数人のリポーターがいて、慎一に気づいて駆け寄ってくる。

「日本サッカー連盟から、今回のスキャンダルについて何か言われましたか?」

「次期チームの契約はどこに?」

「やはりマルセイズと契約をして、真辺さんとまた一緒に?」

 慎一は無視をして、待たしてあったタクシーに乗り込んだ。

「新宿へ。」

「はい。」

 タクシーが進むと、マスコミたちも路上に停めてあったバンに乗り込んで追っかけて来る。

「大変ですね。」と運転手はバッグミラー越しに笑う。

「まぁ、あの人達もあれが仕事で、生活の為にやっているのだろうけど。」

「撒きましょうか?」

「ううん、大丈夫。安全運転でお願い。」

「わかりました。」

 わざと人通りが多い新宿駅正面で車を止めて貰うようお願いしていた。運転手はこういうことに慣れた人だったのか、一つ手前の信号で止まった時に支払いをここで済ませましょうとメーターを止め、「車が止まったらすぐに外に出られますから。」と言ってくれた。言葉に甘えて支払いを済ませ、座席の背中に挟んである名刺を取っておいた。都内でタクシーを呼ぶときは、今後この人に頼もうと心に決める。

 そして指示通りに新宿駅正面で車が止まると、慎一はサングラスをつけて飛び出した。ちらりと、後ろへと確認すると追っかけて来ていたバンが停まった所だった。慎一は駆け足で駅中へと入り、直ぐの場所にある改札に交通マネーカードをタッチして入る。人混みを交わしてメトロ方面へと急いだ。柱を回った所で後ろを確認すると、連盟のビルで待ち構えていたマスコミの男二人が、こちらに向かって走って来る。慎一は更に駆けだして地下へと階段を降りた。降りた階段の反対側へとまわり、また階段を上がる。そして、そのままメトロの改札にまた交通マネーカードかざし駅の外へ、同じ駅で入場出場をしたことになる。普通の駅ならばそれをするとエラーになって改札から出られないが、沢山の路線が乗り入れる駅では、改札を設置した鉄道会社が違えば一駅乗った事になり、料金を支払えば普通に出られる。マスコミも改札を通ったら電車に乗ると考えるだろし、新宿駅なら人の多さで見失う確率も高くなる。現に今、マスコミは慎一の後を追って来てはいなかった。

 慎一はサングラスを取って、眼鏡に変えた。

 このマスコミからの逃れ方を教授してくれたのは藤木である。慎一は藤木が教えてくれた通りに歩き、高架下のバスローターリーに出る。路線バスや長距離バスが多数縦列で停まっていて、ここから神奈川へとバスを利用するか、またタクシーを利用するかをしたらいいと藤木は言った。

 連盟の本間会長には実家に帰ると言ったが、実際には帰れない。当然にマスコミが張っているだろうし、何よりも、母さんから帰ってくるな、迷惑だと怒られていた。いつものごとく、藤木のマンションに寝泊まりさせてもらうつもりだった。

 最近の帰国は、実家よりも藤木マンションで過ごす方が多い。それは藤木が慎一の手料理を食べたがったからで、慎一もホテルや実家より居心地がよかった。今では藤木のマンションの合鍵を持っているぐらいだ。しかし、今回の帰国では、藤木のマンションをマスコミには知られたくなかったから、まず、茨城のスポーツトレーニングセンターで寝泊まりさせてもらう事にした。日本代表に選ばれている海外所属選手は、帰国時の滞在中、そこを使用してもよい事になっていたが、慎一は今まで積極的に利用した事がなかった。が、今回ばかりはマスコミをシャットアウトできるしトレーニングもできるので、利用したのだが、サッカー仲間が居ないトレーニングセンターというのは寂しいものである。ああいうところはやっぱり仲間と一緒にトレーニングをして気合が入るというもの。

 シーナとの事は自分なりにけじめをつけたつもりである。マスコミも少なくなったところで藤木のマンションに戻る事にした。藤木も早くこちらに戻って、慎一の手料理が食べたいと言っていた。

 藤木が帰ってくる日に、何を作ってやろうかと考えるも、何も浮かばない。それを考えるよりも、まずはバスを使うかタクシーかを考えるべきだ。さっきのタクシーをもう一度呼び、横浜まで頼むか。それならば、あのまま藤木のマンションまでお願いすればよかったのだ。あの運転手は、そういう運転には自信があるようだったのに。

 慎一は大きくため息を吐いた。どうも最近、うまくいかない。

 とりあえずバスを利用しようと彩都市までの路線を探す。壁に貼られたロータリー案内図を見、⑧番停留所と判明して向かう。⑧番の所にバスはまだ来ていない。歩道のベンチに女性が座っていた。慎一は眼鏡をサングラスに変えた方が良いかと迷うっている内に、ベンチに座っていた女性がこちらに向いた。視認されてサングラスに変更するのも逆に注目されてしまうだろう。諦めて眼鏡の位置を正しながら顔を背けて歩いた。

 その女性は、まだバスも来ていないのに立ち上がる。バレてしまって声をかけられるかと警戒した。かけられるセリフは決まっていて、『新田選手ですよね?』次に『ファンなんです。サインしてもらえますか?』もしくは『一緒に写真を撮っても良いですか?』だ。それが・・・

「慎君。」

「悠希!?」

 信じられない思いで立ち尽くす事、数秒。悠希が首をすくめてぎこちなく微笑んで、やっと慎一は言葉を紡いだ。

「げ、元気、だった?」

「・・・うん。」はにかむ悠希。

「どうしてこんな所に?」

「買い物に来ていたの。帰る所。」

「バスで?」

「そうよ。意外と便利なのよ、乗り換えしなくていいから。」

「そうなんだ。」

「慎君こそ。どこに行くの?」

「俺も帰り。茨城のトレセンで寝泊まりしてたんだけど、今日は彩都に帰ろうかなって。」

「そうなんだ・・。」悠希は「どうぞ。」と言って、座るベンチの位置をずらして慎一に促す。

「ありがとう。」並んで座った。

「活躍、ずっと見てたよ。ほら、ファンクラブにも入ってるの。」と手に持っていたスマホのストラップを慎一に見せる。

 イニシャルSNのロゴをデザイン化したキーホルダーは、慎一のファンクラブ入会特典の品だ。慎一自身はリュックのチャックにつけていて、カバンを肩からずらしてそれを見せた。

「入会ありがとうございます。」

「そうよ、ファン歴はとっても長いのよ。」

「うん。高校の時からだもんな。」

「違うわよ。小学校よ。」

「そっか・・あははは。」

 互いに体を揺らして笑った。白く綺麗な歯を見せて笑う悠希は久々だ。

 悠希は、常翔大学に進まなかった。金沢の私立大学に学びたい学部があると受験して合格。高校を卒業してから金沢で一人暮らしを始めた。大学卒業後は神奈川に戻って、父親と同じ信用金庫に勤めていると聞いていた。情報源はもちろん藤木からだ。

「眼鏡、似合ってるわ。」

「伊達なんだ。」慎一はその眼鏡を取った。

「知ってる。スター選手は大変ね。」と悠希は肩をすくめて笑う。

「スターでも何でもないよ。絶不調。公私共に。」

「それも、知ってる。」

 慎一はこめかみを掻いて苦笑したものの、それ以上、何も話すことがなくなった。悠希も携帯につけたストラップを触って、黙っている。バスはまだ来ない。昼の本数の少ない時間帯にはまってしまったのかもしれない。

 しばらく無言で行先の違うバスを見送った。隣の⑦番バス停にバスが止まる。降りて来た若い女の子二人が、こちらに歩いてきた。バスの行先表示が変更されて運転手がマイクで出発時刻を放送する。楽しそうに話しながら慎一たちの前を通り過ぎていくとき、その女の子一人と目が会ってしまった。直ぐに顔を背けて手に持っていた眼鏡をかけたが遅かった。

「ねぇ、あの人、サッカーの新田慎一じゃない?」

「うそっ。」

 立ち止まって振り返る二人、戻ってこようとする。

「もしかして、一緒にいるの、シーナじゃないよね。」

「違うわ、シーナってもっと細いし。」

「別の女?」

 慎一は悠希の手を取り立ち上がった。

「行こう。」

「あっ、逃げた。」

「写真、写真!」女の子たちがスマホを慎一達に向けようとする。

 また出版社にでも売られたら、たまったもんじゃない。慎一はもうすぐ出発する⑦番のバスに乗り込んだ。座席の中ほどに座って身を縮めた。女の子たちは追って来るように駆け出したが、流石に乗り込んでは来なかった。発車時刻になって扉が閉められ、バスはゆっくりと走り始めた。慎一はやっと体を伸ばしてちゃんと座る。

「ごめん。」

 悠希は微笑んで首を横に振る。

「マスコミは嘘ばかり。」

「うん。でも・・・マスコミが報道してくれたから、知った事があるわ。」間を置いて、悠希はつぶやく。「真辺さんが現地マネージャーに起用されていたの、驚いた・・・。」

「三年前、俺がマルセイズに移籍する時、りのもまた、グレンを追ってフランスに移住したんだ。」

「グレン?」

「ぁぁ、知らなかったか。りのが子供の頃のフランス在住時のボーイフレンド。ずっとりのはグレンの事が好きで、今では同棲しているよ。」

「うそ・・・。」

 慎一は首をすくめて頷いた。

 悠希は驚いた表情から険しく変えて、視線を落とした。

「私、てっきり・・・ごめんなさい、これじゃ、マスコミと一緒だね。」

「悠希はマスコミとは違うよ。ただの勘違い。マスコミは悪意しかない。こうだと面白いだろうからって決めつけてインタビューをしてくる。」

 バス停で止まる度に乗車の人が増えて、話すのも憚れた。無言に外の景色を眺める。

 通路に立った同じ年ぐらいの男性と視線がぶつかった。慎一は顔を伏せたが、バレたかもしれないと思うと気が気でならない。堪らなくなって、降車ボタンを押した。そこがどこか、わからない所で降りた。

「慎君・・・気にしすぎだよ。」

「ごめん。そうか、一緒じゃない方が良かったのか。」

「そんなこと言わないで。」

「ごめん・・・」

「謝ってばかり・・・」

「うん・・・それしかできないから。」

 悠希は、首を傾げてため息を吐いた。

 道路の標識を見る。埼玉との県境に来ていた。近くの駅へ向かって歩む。しばらく無言で歩いて、駅が見えて来た時、悠希が口を開く。

「うれしかったな・・・久しさに手を握ってくれて。」と自分の手を見つめている。

 何の事かわからなかったけれど、新宿のベンチから立ち上がる時に握った事を言ってるのだと、やっと気づいた。

「私達、今、どういう状態なのかな?」

 慎一は立ち止まり、悠希へと体を向けた。

「ごめん、変な事、言っちゃったね。」と微笑する悠希に、何とも言えない気持ちが込み上げてくる。思わず抱きしめていた。

「ちょ・・・慎君・・・誰かに見られるよ。」

 慎一は悠希を放し、手を取り歩んだ。駅前で止まっていたタクシーに乗り込む。

「どこでもいい、どこか静かな所へ。」

「はっ?」

 初老の運転手は驚いて、悠希にも視線を向けた。












 弥神君が手配してくれた日本語の出来る人は、エミリア・ベッカーさんと言って、30代後半と推定する女性だった。聞けばレニーホテルの従業員ではなく、レニー・ライン・カンパニー傘下の旅行会社の職員だと言う。弥神君は気を利かせてくれたようで、用意されたホテルも内部屋があるスウィートだった。英語もままならない麗香の為にエミリアさんが同室して泊まってくれるのにはありがたかった。エミリアさんは10年前、日本の常翔大学に留学して日本語を学んだとも聞いて、麗香はすっかりエミリアさんと仲良くなる。そして、弥神君がそういう人を探して手配してくれたのかと思うと、頭が下がる思いだった。

 翌日の朝、タクシーでまたりのが入院している病院へ向かう。りのは起きていて、朝食のヨーグルのカップを手に持っていた。しかし、パンやスクランブルエッグなどのメニューには手を付けていない。なんだが、昔もこんな光景を見た事があったなと麗香は苦笑する。

 エミリアさんを紹介しても、まだ本調子じゃないのか、りのはわずかに頭を下げただけで、特に何も言わない。エミリアさんは特に気を悪くしたふうでもなく、すぐに退院の手続きをしてくると病室を出て行った。

「足、痛くない?」

「うん。」

「早く治るように擦ってあげる。」

 麗香は足元の布団を捲った。

「麗香・・・」囁くようにつぶやくりの。

「何?」

 固定器具の上から擦っても癒しの力は効くのだろうかと思いながら、麗香はりのの方へと顔を向けた。

「いたでしょう。」

「ん?」

「どこ?」

「弥神君?」

 りのは首をふる。

「一緒にいた人が・・・。」

「あぁ、石原全権大使ね。」麗香はあえて惚けた。「今日はどうかな、忙しそうだから。」

 グレンの事は言いたくない。金を受け取って帰ったなんて。

 りのは納得したのか、あきらめたのか首を傾げて「そう・・・」と呟き、ヨーグルトを舐めるように口に運んだ。

 朝食後に医師の診察を受けたりのは、今日には退院できることになった。軽い低体温症の後遺症はなく、足の骨折も医師がびっくりして首を傾けるぐらいに治癒の進行が早かった。麗香の癒しの効き目はあったようだ。

 電話をかけて来ると言って出て行っていたエミリアさんが病室に帰って来て、退院は昼からになると告げられた。弥神君が車の手配をしてここに来るとも告げられる。りのは、顔を顰めて嫌悪の気持ちを表す。

 昼食はエミリアさんが病院の外でテイクアウトのバーガーを買って来てくれて、みんなで食べた。それがとても美味しく、りのも「美味しい」と顔をほころばせた。エミリアさんが「迎えが来るのを一階フロアの待合室で待ちましょうか」というので、荷物をまとめて病室を出た。

 りのは、初めて使う松葉づえをどうしていいかわからず混乱し、エミリアさんを爆笑させた。途端に機嫌を悪くしたりのは、「もう、こんなのいらない。」と骨折の足を使って歩こうとする。

「駄目よ。りの。」

「痛くないし。」

「痛い、痛くないの問題じゃないの、大事にしないと、悪化したらどうするよ。」

「チッ」と舌を鳴らすりの。

「ほら、こっちに持って、こうするのよ。」

 そもそも、松葉づえを一本で良いと言ったのはりのだ。素直に二本貰っておけば混乱せずに済んだものを。

 エレベーターで一階のロビーへと降りると、りのは受付のカウンターへ行こうとする。

「退院の手続きはいいのよ。すべてエミリアさんがやってくれたから。」

「聞きたい事がある。」と麗香の言葉を無視して向かう。エミリアさんがりのを追いかけた。

独「すみません。私がここに運ばれた時、同じように運ばれた人はいませんでしたか?」

独「あなた、ドイツ語を話せたの!?」

 エミリアさんは驚いて麗香へと問うように顔を向けたが、ドイツ語だったので分からず、苦笑して首をすぼめる相槌だけにしておいた。

独「そう言うプライバシー的な事はお答えできません。」

独「身内だったらいいでしょう。」

独「身内かどうか、こちらではわかりません。」

独「だったら、調べて。」

「エミリアさん、りのは何を聞いているの?」

「りのさんが運ばれた時に、同じように運ばれた人は居なかったか?と。」

「えっ?」

「病院側は答えられないと言ってます。」

 受付の人はどこかへ電話をかける。

「りの、登山していた時、誰かと一緒だったの?」

 りのは振り向いて、頷く。

独「あの日、救急で運ばれてきたのは、あなただけだそうです。」

独「嘘!」

独「嘘ではありません。」

独「あぁ、じゃあ別の病院に運ばれたのね。シュヴァイツ国立自然公園の近くの他の救急病院を教えて。」

独「シュヴァイツ国立自然公園から一番近い救急病院はここです。あそこで怪我をされたらここに運ばれてくるのが通常です。」

独「だからっ、その通常外の事が起こったのよ。わかった。レスキューに問い合わせるわ。私を運んだレスキューの電話番号を教えて。」りのは受付カウンターを乗り越えそうな剣幕で、抗議している。

「りの、どうしたのよ。」

「りのさんが運ばれた日はりのさんだけで、だけどりのさんは嘘だと、自分を運んだレスキューに問い合わせるから電話番号を教えてと。」

「ちょっ、りの。落ち着いて。」

 麗香は、りのの腕を引っ張った。待合室にいる患者さんたち皆が、麗香達に注目していた。

「一緒にいたの。一緒に展望で話をしていたの、パパと。」

「えっ?」

「別の所に運ばれているなら、迎えに行ってあげなくちゃ。」

独「あなた、シュヴァイツ国立自然公園を管轄しているレスキュー電話番号調べて電話を繋げて。」とりのは、エミリアさんに何かを指示する。エミリアさんは戸惑い首を傾げながら、携帯電話を取り出した。

「ちょっと、何しようとしてるの?」

「シュヴァイツ国立自然公園を管轄しているレスキューの電話番号を調べるようにって言われました。」

「待って、エミリアさん。」

「麗香、邪魔しないで。」

「りの!りののお父様は亡くなっているでしょう。」

「パパは死んだりしない。山に慣れた人よ。」

「りの!しっかりして。ずっと前に亡くなっているのよ、電車の事故で。」

「違う、一緒に居たの。あれは、パパだった。」

 エミリアさんも顔を顰めて困る。

 他の人の迷惑になるので、とりあえず、りのを受付の前から放し、ロビーの隅へと移動した。

「麗香、信じて、私はパパと一緒に山の頂上に居たの。」

 麗香は手で顔を覆って首を振る。

(どうなっているの?記憶の混乱が起きている?あぁ、全然治ってない。)

そこへ「遅くなって、すまない。」と弥神君が麗香達を見つけて歩んでくる。今日はモーニングではなく。白い長袖シャツに黒パンツのラフなスタイルだった。

「弥神君・・・」

「私は、行かない。」

「ミス・エミリア、ありがとう。」と弥神君は、胸ポケットからカードのようなものを見せて握手の手を出した。

「あなたが棄皇さん。ご指名頂き、ありがとうございます。」とエミリアさんは握手に応じ、丁寧に頭を下げた。

「あなたとは行かない。私はパパを探さなくちゃ。」

 りのはおぼつかない松葉杖で、そっぽを向き玄関へと向かっていく。

「りの!」

「また何か、我儘か?」

「パパが生きてると、りのが言うの。一緒に山に登っていたと。りののお父様、11歳の時に亡くなっているのに。」

 弥神君もまた大きなため息をついて、首を振った。そして3人でりのを追いかける。玄関を出たところで追いつき、弥神君がりのの腕を取る。

「待て、りの!」

「放してっ。」振り払い翻すりの「どうして、ドイツに居るのよっ。」

「お前の為に来ていたんじゃない。」

「りのの為に来てくれたのよ。」

 弥神君と正反対の言葉が重なった。

 りのは険しい表情で麗香と弥神君を交互に睨む。

 弥神君がりのをしっかりと捕まえようと更に踏み込んだのを、りのは後退って停車してあるバンに背中をぶつけた。そして、「近寄らないでっ。言うなりにはならないっ」と、松葉づえを水平に上げた。

 松葉づえを突き付けられた弥神君は、険しい表情のまま、また大きくため息をついた。

「山に探しに行けば納得するんだな。」

「納得も何も、行かないと、パパが待っているわ。」

「と言う事だ、石原全権大使、今からりのが滑落した山へ行ってもらえるか?」

 りのがぶつけた車の運転席から、ドイツの日本大使館の全権大使、石原氏がちょうど降りて来ていて、麗香達に微笑んで頭を下げた。

「かしこまりました。」












 タクシーは奥多摩方面へと向かっている。どこでもいいと言った慎一の言葉に、運転手がそれでは困ります。と言ったのを、悠希が奥多摩へと言ったからだ。悠希は慎一に首をすくめて笑い、窓の外へと指さした。そこには、おいでませ奥多摩温泉へと書かれた大きな看板があった。

 タクシー運転手は走らせはじめながら、「当てはありますか?」と聞いてきた。「ない。」と答えると。良い旅館があると言ってきた。遠い親戚が経営している旅館だと言う。運転手は車を走らせながら、そこに電話をして部屋が空いているかを聞いてくれた。泊まりだなんて考えてもいなかったから慌てて断ろうとしたが、悠希が慎一の袖を掴んで止めた。

「ゆっくりするのも、いいかも。」と笑う。

 業務報告を記すバイターに挟んでいるボールペンが、プロ野球チームのロゴが書かれたものだった。様子からしてサッカーに興味がなく、慎一の事を知らない人だと推測。後ろを振り返って見ても、マスコミらしき車は見当たらない。あとはその旅館が口の堅い事を祈るしかないのだが、それが甘い旅館は営業倫理として駄目だろう。

 それからは、タクシー運転手の世間話に適当に付き合って、山間の旅館につく。温泉場の集落から、ここの旅館だけがポツンと離れた場所にある。土産物やコンビニに行くには歩いて20分はかかって不便だが、その分、静かな自然を満喫できるという。建物は古かったが、清掃が隅々まで行き渡っていて、床や柱などが磨かれ光っていた。

 案内された2階の部屋の広縁からは、小川が流れているのが見える。玄関ロビーに飾られた写真が、彩られた紅葉の小川の写真だったので、きっとその季節が売りの旅館なのだろう。

「その小川には蛍が居て綺麗だったんですが、残念ながら今年は、もう終わってしまいました。一週間早ければ。」と案内された仲居さんがお茶を入れながら語る。

「蛍なんて見たことがないわ。」

 慎一も相づちをする。

「残念。」

「まだ、一匹、二匹ぐらいは出遅れたのが飛んでいるかもしれません。」

「後で探しに行ってみよう。」

「ええ。」 

「お食事は、6時でよろしいですか?」

「はい。あの、どこで?」

「ここがよろしければお持ちしますよ。」

 悠希と顔を見合わせ頷いたので、部屋に持ってきてもらう事にした。その対応だけでも、中々に良い旅館だと慎一は気に入った。

「温泉は24時間お入りいただけます。どうぞごゆっくり。」

 仲居さんが出て行って、二人だけになった。ホッとするどころか、逆に緊張し、何を話していいかわからなくなる。悠希も出されたお茶に手を伸ばし一口飲んで視線が合うと、戸惑ったように、うつむき、窓の外へと顔を向けた。

 ゴォゴォと岩肌を流れる小川のせせらぎの音が、意外にも大きい。鳥の鳴き声の方が負けている。一昨日降った雨で増水しているからかもしれない。苔むす緑が鮮やかだった。

「外に出る?」

 悠希が顔を向ける。

「俺は、茨城のトレセンを引き上げて来たところだから、着替えあるけど、悠希は・・・。」

悠希は恥ずかしそうに頷いた。

「来るとき、コンビニに寄ってもらえばよかったな。ごめん、気付かなくて。」

「ううん。夕食まで時間あるもの、散歩するのもいいわ。」

「うん。」

 旅館の人に声かけて外に出た。帰りに裏の小川に回って、蛍探しをしようと提案してから、タクシーで来た道を戻り歩く。

 アスファルトの道が左右に走る所まで、下るように砂利の山道を降りる。その辺でやっと民家が点在して、旅館横を流れていた小川が合流した本流の川の橋を渡る。本流の橋と言っても、20メートルほどしかない細い川だ。

 吹き抜ける風が、悠希の髪を荒らし、うなじを見せた。髪を抑えた右腕に古い傷跡。その傷を負った事件を淡々と話した時の過去を思い出す。

 悠希もりのも、藤木も、傷を負った時に、自分はその現場に居る事が出来なかった。結局何もできなくて、後日、馬鹿みたいに騒いだだけだ。いつも皆が、お前はサッカーをすればいいのだと言った。それが、皆の希望になるからと。

 慎一のファンクラブの中に、プロサッカー選手を目指していた10歳の男の子がいた。少年サッカーチームで慎一のようにドリブルが上手くなりたいと頑張っていた男の子は、突然白血病を発症し入院。その男の子にサプライズで会いに行こうとテレビ局が起こした企画に賛同した慎一は、骨髄移植のドナー登録を呼びかけ、自分も検査をしたが、型は合わなかった。

 その男の子は、残念ながら骨髄移植のドナーが見つかる前に亡くなってしまった。亡くなったのはイングランドに移住してからの事だった為、葬儀には行けなかったのに、その男の子の母親から手紙が届いた。【ドナー登録を呼びかけ、新田選手自身も検査をしてくださったことに、息子はとても喜んでいました。死ぬ間際まで、僕もサッカー選手になって、新田選手のように世界で活躍するんだ、と言っていました。あの子の希望となって下さった事に感謝いたします。】と締めくくられていた。男の子が助からず亡くなってしまった事は悲しかったが、自分のプレイが誰かの希望になった、はじめての実感として、自分が進んだ道に間違いはなかったと心から思えた。

 しかし、今はどうだろう。マスコミにサッカー界きってのプレイボーイだとか、二股野郎なんて書かれて、人の目から怯えて逃げている現状。こんな自分が誰かの希望になるはずがない。いや、そもそも誰かの希望の為にサッカーやってきたわけじゃない。小さな頃からボール遊びが好きだったのは確かだが、プロになりたいと思ったのは、ただ、りのに自分の姿を見せたかったからだ。りのが居ないと学校にも通えないダメダメな子供だった慎一を、宥め言い聞かすのは苦心したことだろう母さんが、『慎一がサッカーで有名な選手になって、新田慎一って名前がニコちゃんが居るところまで届いたら、ニコちゃん喜ぶと思うよ。』と言ったのが、慎一の希望となった。

 そして、この名はもう届いた。りのを日本に呼び戻す事にもなった。だから、もうサッカー選手として頑張らなくていい。そんな風に思ったつもりはなかったが、フランスに移籍してからの不調の成績を見ると、気づかないうちにそんな気持ちが心の底に根付いてしまっていたのかもしれない。

「慎君、今、何を考えている?」

「何も。」

「慎君は昔から嘘が下手だよね。」と悠希は苦笑する。

「これからどうしたらいいかなって・・・」の言葉には二通りの話の筋を作った。慎一のサッカー人生の事か、今現状の再会した悠希との関係か。悠希がどちらを取って話を展開するか、どっちでもいい、結局は最終的に同じ筋に合流する。

「マルセイズとの継続は?」

「もう、海外はいいいかなって。」

「そう、日本のチームからのお誘いは?」

「うん、いくつか、でも・・・。」

 悠希は、覗き込むようにこちらに顔を向けたが、慎一が逸らした。逸らした先の道路を挟んだ斜め向こうに公園が見えて来る。押しボタン信号の横断歩道があるが、押すほどでもないぐらい車の交通量はない。駄目とわかりながら、赤信号を渡った。

 温泉集落に住む子供たちの為に作られた公園だろうか、遊具は錆びたブランコと滑り台が片隅にあるだけだが、フットサルのコートぐらいの広さの広場があって、4人の男の子がサッカーボールを蹴って遊んでいた。慎一と悠希は自然と足を止めて、その子供たちを観戦する。男の子達は、身長もまちまちで年齢もバラバラのようだった。よく動いて、常にボールをキープしている子は、遠藤が所属するチームのユニホームを着ていて、背番号も遠藤の番号だった。

「あの子、慎君のライバルよ。」と悠希が笑う。

「うん。声も一番大きい。」

 別の子が蹴ったボールが石にでも当たったのか、変に軌道を変え、こちらに転がってくる。柵もない公園だから歩道まで飛び出してきて、道路に転がり出るのを慎一は駆けて足で止めた。

「すみませーん。」

 礼儀良く帽子を取り、頭を下げる遠藤ファンの男の子。慎一は、その子を真直ぐ指さし「パスを送るよ。」と言ってから、蹴り上げた。綺麗な弧を描き、遠藤ファンの子の元へ、遠藤ファンの子は一瞬慌てたが、ちゃんと胸でバウンドキャッチして、落ちたボールを追いかける。「すげぇ。」と呟いたのは、ボール追いかけて拾いに来た子。慎一は悠希に視線を送った。

「ちょっとだけ、気晴らし。」

「いいわよ。たっぷり時間はあるもの。」と悠希は微笑んで頷く。

 慎一は、尻のポケットに入れてあったスマホと財布を悠希に預け、子供たちに向かって「仲間に入れてもらっていいかな。」と叫び、公園へと駆け入った。

 太陽の光が囲む山に沈み、茜色に染まり始めた頃、一番背の高いワタル君が「疲れたぁ。喉乾いたぁ。」と言ったのをきっかけに、サッカーは終了した。サッカーをしている間に子供たちの名前も判明している。

 慎一たちがコンビニ行く途中だと言うと、自分達も行く、案内してやるといって、公園の入り口に置いていた自転車を各々手で引いてついてくる。

「案内って、ここ真直ぐだろ。迷わないよ。」

「おもてなし、だよ。」

「そうそう、もてなして案内するからジュース奢って。」

「そんな風にして、いつも旅行客相手に、たかってるんじゃないだろうな。」

「兄ちゃんこそ、いつも見ず知らずの子供のサッカーに乱入してるんか?」

 悠希と顔を見合わせ、首をすぼめた。

「わかった。いいよ。」

「やったーぁ」と口々に喜ぶ子供たち。

「兄ちゃん、何でそんなにサッカー上手いんだ。」

「ずっとサッカー部だったんだ。」

「プロにならなかったんか?」

「今、何やってるんだよ。仕事は?」

「年、幾つだよ。」

 矢継ぎ早に慎一に質問をしてくる子供たち。プロサッカー選手の新田真一だとはバレていないようでほっとした。

「ツバサ君が着ているユニホームの遠藤選手と同じ年だよ。」

「と言う事は、27歳。」

「おっさんじゃん。」

 悠希が吹き出して笑う。

「なぁ、会った事ある?遠藤選手と。」

「ないなぁ。」

「俺、あるぜ。3年前にオーシャンズカップのチャリティイベントに行って、サイン貰ったんだ。」

「へぇーそれは凄いな。」

「ツバサはいいよなぁ。サッカー観戦にもいっぱい連れて貰って。」

「こいつ、あの一番デカイ旅館の息子なんだ。」と小高い山肌に聳え立っている大きなホテル旅館を指さすワタル君。

「ふーん。じゃ後継がないといけないのかな?」

「いや、俺はプロサッカー選手を目指す。」と強く言ったものの、意気消沈してうつむいたツバサ君。「本当は少年サッカーチームに入りたいんだ。だけど、ここじゃそんなチームなくて・・・だから中学は寮のある神奈川の常翔学園に行きたいって親に言ってるんだ。」

 慎一は言葉なく固まって、悠希と顔を見合わせた。ツバサ君がこちらに顔を向けるので慌てて話を繋げる。

「遠藤選手のファンだったら、大阪の星稜中学の方がいいんじゃないの?星稜も数年前に寮が出来たはず。」

「遠いじゃないか。」

「あぁ、そうだね。」以外にも現実的思考を持つツバサ君に脱帽。

「遠藤選手は、海外に行かずにずっと日本で、でも海外勢に負けずに、ずっと代表に選ばれてる。そんなところが好きでファンになったけど、同じ学校に行ったからって、自分がプロになれるってわけじゃないだろう。」

「ぁぁ、そうだね。ツバサ君はしっかりしてるなぁ。」

「兄ちゃんがしっかりしてないんじゃないの?こんな温泉街に何しに来てんだよ。」

「何しにって・・・」

「そうだよ。兄ちゃん仕事は?何してる人?」とワタル君。

「さ、サラリーマンだよ。」

「普通―。」

「今日、月曜日だぜ。仕事さぼって来てんのか?」

「さぼり、わーるぅ。」

「彼女と婚前旅行か?」

「うわ、わーるぅ。」

「スケベ―。」

「えぇっ?」

 子供たちは散々慎一を貶して、コンビニが見えて来ると、自転車に乗って先行ってしまった。

「まいるなぁー」

「ウフフ、でも慎君とっても楽しそうよ。」

「うん、子供たちとのサッカーは楽しいよ。シュート率とか、勝敗を考えなくていい。心から楽しむ事が出来る。引退して、子供たちに教えるってのもいいかなぁって、思ったりしてるんだ。」

「引退には早すぎる、もったいないよ。」

「早いかな。怪我で復帰できない選手はいっぱいいる。怪我じゃなくても、契約チームが無ければ選手生命は終わり。」

「慎君はまだオファーが来てるじゃない。」

「うん、でも・・・。」

「夢が達成して、気力がなくなってしまったんだね。」と悠希は預けたスマホを返してくる。

 受け取ったスマホにつけていた地球儀に羽根の生えたキーホルダーが、コロンと慎一の手の平で転がった。

「おーい早くぅ。」子供たちが手を振って呼ぶ。

「オファーだ。」

 慎一は苦笑してコンビニへと駆けた。子供たちは既にジュースを手に持って慎一が来るのを待っていた。レジで早々に支払いを済ませ、子供たちと一緒に店を出る。入れ違いに悠希がコンビニへと入って行き、買い物かごを持つ。店員が慎一の正体を見破るかもしれないので、悠希と一緒には入れないなぁと思っていたから、子供たちの存在は好都合だった。

「プファー。」と一気飲みして感嘆の声を上げる子供たち。

「ウメェ。」

 空の赤さが増々濃くなっていく。コンビニの壁にもたれてそれを仰ぎ見る。遠くでカラスの鳴き声が木霊した。

 子供たちは宿題の話をして、もう慎一には興味なしだ。そんな中、ツバサ君がみんなの輪から抜け出して来て、慎一を仰ぎ見る。

「腹減った。食うもん買って。」

「はぁ!?」

「口止め料だよ。シーナとは別の女の人と一緒に温泉旅行してるって事は、黙っててやるからさ。」

「・・・・。」

 慎一は財布から千円札を二枚抜き取り、ツバサ君に渡した。

「皆、兄ちゃんが好きなの食えって。」

「イエーイ。」

 子供たちは喜び勇んで再び店内に入っていく。すれ違いに悠希が出て来た。

「ジュースだけじゃなかったの?」

「口止め料を取られた。」

「えぇ!?」

「中々、見込みあるよ。」

「何の?」

「・・・サッカー選手。」













 シュヴァイツ国立自然公園に着くと、りのは飛び出すように車を降りて、もう骨折している右足をお構いなしに踏みしめ、入山受付のある小屋へと駆けて行った。

 麗香は追いかける。遅れて弥神君、全権大使は運転席から降りたが、ついて来ず車の番をするようだ。エミリアさんとは病院でサヨナラをしていた。

独「6月7日の入山名簿を見せてっ」

 いきなり叫ぶもんだから、受付のドイツ人女性はびっくりしておののいている。

独「私は真辺りの。6月7日に滑落して、次の日レスキューに運ばれた真辺りのよ。同じ日に運ばれた男の人が居るでしょう。」

 小屋の奥から男性が出て来て、りのに笑いかけるも、りのが何か言うと険しく首を振った。

独「あの日は、あなた以外に運ばれた人はいないよ。」

独「嘘!」

独「本当だよ。僕は嘘をつかない、山に誓って。」

独「だって、一緒に頂上で珈琲を飲んだのよ。」

独「入山名簿を見せよう。」

 男性がファイルを捲ってりのに向ける。りのは、それを食い入るように見て、首を振る。

独「ほら、君以外の登山客はちゃんと下山してきたチェックがある。君が閉山時刻になっても降りて来なかったから、ぼくがレスキューを呼んだんだ。」

 りのは更に強く首を振って、受付の窓口から後退る。

「気が済んだか?」と冷たく言い放つ弥神君。

「あなたが何かしたのね。また私を日本に帰らせようとしてっ。」

「するわけないだろう。」とため息をはく弥神君。

「じゃ、どうしてっ、私の記憶は鮮明にあると言うのに。」

「それは、りの、お前自身が出した答えだからだ。」

「私が出した答え?わからない事を言わないで。」

「わからないふりをしているのは、りのだ。」

「やめてっ、そうやっていつも、私の事をわかった風に支配するのは。」

「風ではなく、わかるのだ。」

「いや・・・。」

「我らは同じ魂を分かつ者。」

「やめてっ。」りのは弥神君を強く睨む。「探さなくちゃ、きっとまだ救助されずにいるのよ。」

りのは体の向きを変えて駆けだした。登山口の方へと。

「りの!」

 麗香は弥神君と同時に叫び追いかけた。大きな杉の木のそばで弥神君に捕まる。

「いい加減にしろっ。」

「そっちこそ、私の事はほっといてっ。」

「それができない事も、いい加減に解れっ。」

「最低よっ、わかりたくない事をわからされた私の気持ちを、わかろうとしない癖に。」

 りのは暴れて、松葉杖を弥神君の体に振り当てようとした。

「りのっ!」

 弥神君は松葉杖を掴み、りのから奪う。りのは反動で地面に手をついて転倒した。

「ちっ。」

 舌を鳴らして怒った弥神君は、松葉杖を投げ捨て手をついて倒れているりのの髪を掴みあげた。

「いやっ、止めてっ、痛いっ。」

 叫び暴れるりのと、抑え込もうとする弥神君。麗香はこの修羅場をどうしていいかわからず、両手を握りしめて固唾を飲んだ。

「やめて、いやよ。消さないで。大事な記憶よっ。」

「それは記憶ではない、自答だ。」

「違う。」

「違わない。自分で出した答えだ。素直に受け止めろ。」

 りのは涙を流して首を振る。

 弥神君はりのの顔と肩を抑え、顔を合わせた。

 左目が赤く染まる。

「眠りの中で、しっかりと答えを受け止めろ。」

「やっ・・・」

 りのは力が抜けるように、地面に横たわり眠る。

独「どうしたのですっ。」

 小屋から、りのと話していた男性が駆け付けて来た。

英「なんでもない。この女は病気だ、今クスリを打った。」

 英語がわかる人だったらしく、男性は首をすぼめて、英「お大事に。」と呟いて小屋へと戻って行った。

「弥神君・・・。」

「全く、世話のやける。」

 そのつぶやきは、まるで、りのの保護者の様だ。

「車に運ぶ、りのの体を支えてくれるか。」

「あっ、はい。」

 ぐったりと力のないりのの上半身を麗香が支えていると、弥神君は、りのの膝に手を入れて軽々と抱き上げた。

「だ、大丈夫ですかっ。」

 駆けつけて来た石原全権大使が慌てる。

「車のドアを開けろ。」

「あっはい。」

 日本車のバンより大きい車の後部は、対面シートになっていて、弥神君は後ろのシートにりのを座らせてから、シートを45度に倒し、シートベルトを締める。周りを見渡しクッションを見つけると、りのの頭に添えて振動で当たらないよう固定した。その延長で乱れた前髪を整え、頬に触れた。その繊細な仕草で、弥神君はまだりのの事を好きなんだと、麗香の胸はきゅんとなった。

 10年前、高等部の頃に付き合った二人。校内での二人は常に静かで、楽しく会話をしているような姿を見たことがない。生徒会室でも、二人は並んで座っていたが、会話は全くなかった。公私混同をしないと決めて、恥ずかしいのだろうと当時の麗香は思っていた。生徒会室以外では、二人は図書館内で居る事が多く、それもまた会話なく静かに本を読んでいた。

 その後、どういうことか弥神君がりのを包丁で刺して、弥神君が神皇家の継嗣だった事が発覚した。双燕新皇様より継嗣としての優位性を高める為にりのの華選という立場を利用しただけ、刺したのは、それを知ったりのと言い争いの末の事故で、弥神君はりの事を心から好きではなかったと麗香は思っていた。それが、こんな仕草や行動を見せられると、弥神君の愛情表現が少し特異なだけなのだと思い至る。

 弥神君は、手の平の振りだけで、りののの横の座席へ麗香を促し、自身は向かいの席に座った。

「ホテルへ向かって、よろしいですか?」と全権大使が確認してくる。

「あぁ、頼む。」

 全権大使はバンのスライドドアを閉め、運転席へと回る。小さな体で大きすぎる車に乗り込む姿が滑稽だった。

 車がゆっくりと走り始め、車内は変に沈黙が漂った。

「あの・・弥神君。」麗香の声掛けに、りのに向けられていた視線を移動させた弥神君。「えっと、さっき、りのに我らは同じ魂を分かつ者。と言ってたの、どういう意味?」

 本当に聞きたいのは、「まだ、りのの事が好きなの?なのに、どうして自身のそばから離そうとするのか。」なのだけど、それをダイレクトに聞くことは憚れた。その魂うんぬんの言葉も不思議に思っていたから、そこから本疑問の話題に流れ行きつく事を期待した。

「藤木に聞かなかったのか?」

 若干の驚いたような表情をする弥神君。

「藤木?」

「教えてやったのに、奴は話さなかったのか・・・。」

 とため息をつき、足を組んで座りなおしてから答える。

「我とりのの魂は、古に生きた同じ人物の生まれ変わり。」

 あまりにもさらりとファンタジー的な事を言われて、麗香はピンと来ない。

「信じ難いだろうが、本当だ。我らは、西暦888年11月5日神皇家に生まれた双子の双雲という名の新皇の生まれ変わりだ。」

(双雲・・・)

 名前に聞き覚えがある。双燕様と名が似ているからそう思うだけなのか。

「柴崎さんも、我らと関わりのある人物の生まれ変わりだ。」

「えっ、私?」

 弥神君は真剣な表情で頷く。

「みているだろう。セイと玲衣の夢。」

 麗香の胸はドキリと熱くなる。

「どうして、それを?」

「その夢の物語は、本当にあった話。」

「本当の話?」

「そう。柴崎さんは玲衣の生まれ変わり、そしてセイは藤木だ。」

「え・・・。」

「二人は無念に添い遂げる事が出来ず、東尋坊から海へと身を投げた。追ってから逃れる為、次の世で必ず添い遂げられることを願って。」

 誰にも言ったことのない忘れられない夢だ。それを言い当てられる。

「だから、柴崎さんあなたは、藤木の事を好きで離れ難い。」

 何故か涙がこみあげて来る。

「3年前、藤木にもこの話をして、くだらぬ拘りを捨て、素直に柴崎麗香と添い遂げ、古の未練を断ち切れ、と言ったんだが。」

「何も・・・藤木は何も言ってくれないわ。」

 弥神君は大きくため息をつく。

「我とあいつは折り合いが悪い、のは古からだ。我の言葉を素直に受け止めるのには、抵抗があったのだろう。」

 沢山の感情が麗香の心中で沸き起こって、コントロールが難しく、思考も追いつかなくなった。涙がこぼれ落ちて。慌ててカバンの中からハンカチを出しふき取る。

「我も、人の事は言えぬがな。古の未練を断ち切る事が、本当に正解かわからないまま来ている。」

 弥神君はりのへと視線を移した。そのまなざしは、とても優しく、そして寂しそうだった。













 子供たちとはコンビニで別れ、宿へと道を戻る。

 話せる事が尽き、帰りの道は黙りがちになる。この沈黙が懐かしくも辛い。

 りのが弥神に刺されてから、慎一は沢山の事を話せなくなってしまった。二人で居ても黙りがちになり、悠希はさぞかしつまらなかっただろう。だけど、悠希は慎一にずっと寄り添って、全国大会までサポートしてくれた。優勝しても、悠希と笑って喜びあっただろうか?覚えがない。そんなだから、悠希が石川県の大学に行って、自分も全国を転戦とすると、互いに連絡をしなくなった。別れの言葉はもちろんなかった。

 悠希が先ほど呟いた『私達、今、どういう状態なのかな・・・。』は、過去から続く最たる本音だろう。

 宿の玄関へと入る前に裏へと回った。入り組んで流れる小川は、宿屋の敷地に沿って流れている。川の淵沿いは歩きやすいように平たい石が埋まっていた。人の手で造られた散歩道だ。すっかり陽が落ちて、林の中はもう闇深い。旅館からの明かりが水面を照らし、揺らめいて趣がある。

 悠希が濡れた丸い石に足を滑らせ、小さい悲鳴を上げた。それを期に悠希の手を取り握って歩く。自分達が泊まる部屋の真下で立ち止まった。周囲を見渡したけれど、蛍は見つからない。まだ光って飛ぶ時間には早いのだろうか。蛍の生態など慎一は知らない。

「ごめんな・・・つまらなかっただろう。」

「何の事?」

「今も、昔も、俺は、悠希に付き合わせてばかり。」

「そう、慎君は・・・いつだって、真剣なんだよね。」

 手を繋いだまま悠希と向き合った。

「夢にも、人に対しても、真剣で、手を抜かない。だから、そう、彼女になるとつまらない。」

「悠希・・・。」

「慎君は不器用にずっと約束を守り続ける。後に知りあった女の方が不利よね。だって慎君、手一杯なんですもの。」

「その通り。」

「でも、その約束ももう達成した。だから何を目指していいかわからなくなってしまっているのよね。」

「そう・・。」

 悠希が慎一の心の中を整理してくれる。悠希はいつも、困って悩んでいる慎一を助けてくれる存在だった。

「私が、もう一度、選手としてフィールドを駆ける新田慎一が見たいと言ったら、約束してくれる?」

 慎一は悠希を見つめた。

「悠希が・・・そばに居てくれるなら。」

「・・・ずるいわ。」と眉を顰める。

「何が?」

 悠希は軽く息を吸い込むと、首を振って慎一の胸に顔をうずめて来る。

 悠希の気持ちがわからない。というか、女心が全く分からない。何故ずるいのか?自分は何か悠希の心情をつぶすような事を言っただろうか?

「・・・慎君。」

「ん?」

「一つ、私との約束を忘れていることがあるのよ。」

「約束?」

「そう、藤木君が事故に遭ったから有耶無耶になっちゃった約束。」

 慎一は記憶を辿る。だけど思い出せない。悠希は慎一の胸から離れると、ショルダーバックの中を漁り携帯を取り出した。画面を操作して慎一に見せて来る。

【ごめんな、もっと良いの買ってあげられなくて。】

【やめてよ。私はこれが気に入ったのよ。】

【嘘はわかるよ。】

【じゃ、明日の誕生日に、もう一つお願いしようかな。】

【えっ、もうお金はないよ。】

【大丈夫。お金のかからないプレゼントだから。】

【何?】

 昔にやり取りしたメッセージだった。

 慎一は思い出す。

「何?お金のかからないプレゼントって。」と言いながら、もう何かはわかっていた。あの頃は本当に解らずに【何?】と送っていただろう。でも今はわかる大人になった。

「ずるいわ・・・」と身をよじる悠希。

「ごめん。」

 慎一は悠希の腕を掴み、体を向けさせた。

「今からでも遅くないのなら。」

「遅くないわ、でも・・・。」

「でも?」

「ううん、何でもない。」

 悠希はつぶやいてうつむく。慎一は悠希の頬にそっと手を添えて顔を上げた。

 唇を重ねながら、遅かったなと感じた。あの時、ちゃんとキスをしていたら、もっと感動していただろう。キスぐらいどうともなくなっている自分に、大人になったと喜ぶべきなのか、それとも、初心さを失くしたと悲しむべきなのか、わからない。

 風に揺れたのか、尻のポケットから出ていたスマホのキーホルダーがチリンと音が鳴る。それが合図のように唇を放した。

 互いに無表情。来た道を無言で戻る。

 お茶を入れてくれた仲居さんが慎一たちを見つけて、「お食事ご用意していいですか?」と聞いてくる。時計を確認すると6時を10分ほど過ぎていた。謝って食事を運んでもらうようお願いをした。

 部屋に戻ったら、隣の和室には布団が敷いてあった。ここでやっと恥ずかしさがこみあげて来る。食事が運ばれてきて、仲居さんがメニューの説明をしてくれるのが、全く頭に入ってこなかった。

 美味しい。美味しいね。ぐらいの言葉しか話さず、食事を終えた。

 共同浴場の温泉を利用するために部屋を出る。

「先に部屋に帰ってていいよ。」

「うん。」

 温泉の入り口の前でそう言って別れて入った。こじんまりとした岩風呂。他の客はいなかったけれど、湯が少し熱めで慎一は早々に上がった。部屋に戻り、広縁の椅子に座って外を眺めながら、火照った体を冷やした。

(もう一度、選手としてフィールドを駆ける新田慎一が見たい、か・・・)

 そう言われても、やりたいという気持ちが起きない。悠希がそばに居てくれたら、また昔のように自分は前向きになれるかもしれない。そう思った気持ちを素直に出したつもりだった。けれど、悠希は、『ずるい』と言った。

 約束を結べたのか、結べてないのか?

 わからない。

 まどろんで、朦朧とした意識の中で漂う気だるい思考。

 気づけば一時間半近くが過ぎていた。 女性の風呂が長いのは承知しているけれど、流石に長すぎる。のぼせて倒れているんじゃないかと心配して立ち上がった。そこで、部屋の扉がノックされる。

「桔梗の間のお客様。」

 仲居さんの声。慎一は扉を開けに行く。

「あの~。」

 何か言いづらそうに顔を伏せる仲居さん。

「何か?」

「お連れ様が帰られたことをお伝えに来ました。」

「帰った?」

「はい。急用が出来たと。ご自分の宿泊料を支払われて、お連れ様がまだお風呂に入っているから、上がったら伝えて欲しいと言われまして・・・。」

 慎一が言葉を失っていると、仲居さんは「お茶をお持ちしましょうか?」と気遣ってくれる。

「いい。ありがとう。」

「失礼します。ごゆっくり。」

 慎一は、また窓際に戻り、力なく座った。

 笑いがこみあげて来る。

「だよな。」

 何を思いあがっていたんだか・・・悠希がずっと自分の事を好きでいたはずがない。だから、『ずるいわ』と怒ったのだ。

 テーブルに置いてあった携帯がメールの着信をして震える。

 手に取り確認すると悠希からだった。


【慎君、ごめんなさい。勝手に帰ってしまって。恥をかかせてしまったね。それもごめんなさい。まさか、温泉旅館に泊まるに至るなんて思わなかった。寝るのが嫌だったわけじゃないよ。うれしかった。私がタクシーの運転手に行先を告げたんだもん。キスするまで、そうなっていいと思ってた。でもわかっちゃった。

 実はね、今日、慎君と会ったのは偶然じゃないの。あそこで慎君が来るのを待ってたの。決断する前に慎君と話がしたくて、藤木君に会えないかなって相談したの。そうしたら日時と場所を教えてくれて。回りくどいことしなくても、直接連絡してくればいいのにって、思ったでしょう。それはお相手さんへの義理立てがあって、出来ないなと思ったの。自分に対しても言い訳がしたかったから。

 私、今、お見合い中なの。誘拐事件の事があるから両親が心配して、大学卒業後、あちこちからお見合いの話を持ってきて、ずっと写真も見ずに突っぱねてたんだけど、流石にこの年になると、突っぱねる理由もなくなっちゃって、一カ月前、はじめてお見合いをしたの。年が離れているけれど、いい人だった。誘拐事件の事をも知っても、そんなの気にしないって言ってくれた。その人と結婚するか、しないか、そろそろ決断しなくちゃならなくなって・・・慎君に会いたくなった。ずるいのは私。

 見合い相手をバックアップして、慎君との復縁も、期待してたのよ。

 会ってよかったわ。よくわかったから。

 結局、私は真辺さんには勝てないなって。

 慎君がどんなに私の事を愛してくれようとも、大事にしてくれようとも、私はずっと真辺さんの存在に怯えて生きていかなくちゃならないな、って。それは耐えられない。

 今更でしょう。そんなの高校の時からわかっていた事なのにね。

 慎君を混乱させちゃってたら・・・少しは私の気も晴れるかな。だって、やっぱり悔しいわ。どんな時も慎君は、真辺さんを気にかけているのよ。スマホにつけていたキーホルダーむしり取って捨てたくなったもの。最低よね。慎君と付き合う人、皆、そんな風に最低になってしまうんだね。今までの数々の熱愛報道の顛末が良く分かったわ。って・・・ごめんね。9年分の嫌味を言っちゃう。

 最後に・・・

 私はずっと、そしてこれからも、新田慎一ファンとして、活躍を願っています。

 もう一度、選手としてフィールドを駆ける新田慎一が見られるように。】



「ごめん・・・悠希。」

スマホの画面に涙が落ちた。それを浴衣の袖でふき取ったら、スクロールされて、追伸のメッセージが現れる。


【追伸、謝ってばかりいると、「ごめん」の重みが薄まるよ。】

「・・・気を付けるよ。」

 涙を拭いて顔を上げると、窓の外に蛍が一匹ふらりと飛んでいく。

 パートナーを探して光る蛍、出遅れたあの蛍は、一人寂しく死んで逝くのだろうか。

 目で追っていると、暗さに慣れた眼が、遠くの藪の中にもう一匹の光を見つけた。

「・・・そっちじゃないぞ。向こうだ。」

 迷走して飛ぶ蛍を、慎一は何も考えず見続けた。












 ほぼ一時間でドレスデンの街の中心に入る。空港近くのレニーホテルが見えて来て、弥神君が、もう起こしていいと言うので、麗香がそっと揺さぶってりのを起こした。りのは静かに目を覚ますと、目の前にいる弥神君を無言で睨みつける。また、言い争いが始まるのではとハラハラして、麗香はりのの腕を取り手を握った。りのが軽く息を吐いたとき、車はホテル前で停車する。

 弥神君が扉を開けて外に立つ。麗香はりのの手を握ったまま介助して、車から降りるのを手伝った。

「もう、通訳は要らないな。りの、お前を心配してドイツまで飛んできてくれた柴崎さんに失礼のないように、感謝とサポートをちゃんとしろ。」と言いながら、りのの松葉づえを手渡す。

「あなたに、言われなくてもするわ。」とりのは、けんもほろろに松葉づえをひったくる。

「私は良いのよ。弥神君にこそお礼を。」と麗香が言うと、りのは増々表情を険しくして

「余計なおせっかいを、どうもありがとう。」 とプイと顔を逸らし、ホテル内へと歩んでいく。

 麗香のため息と弥神君のため息が重なって、顔を合わせて苦笑した。

「りのの分まで、お礼を言います。本当にありがとう。私一人だけじゃ、どうしていいかわからなかった。」

「礼には及ばない。大したことはしていない。」

「でも、用意してくれたホテルの部屋はグレード高いし、エミリアさんの手配もしてくれて。」

「部屋とミス・エミリアの手配は、レニーの特権を使っている。結果的にはミスター・グランド・佐竹代表の配慮となり、りのが滑落し病院に運ばれている事も知っている。ここだけの話だが。」と弥神君は人差し指を口に立て、内緒の仕草をする。

「あぁ、それは、りのには言えないわ。黙っておく。」

「まぁ、我がヨーロッパに居た事で、りのは覚っているとは思うが。ミスター・グランド・佐竹代表は、もうヨーロッパには居ない。」

「終わったのね、500周年記念式典。」

「あぁ、盛大に。」

「ちょっと、見たかったわ。」

 弥神君はクスっと笑って相づちをうつ。

 りのの荷物を運んで戻ってきた石原全権大使にもお礼を言って、握手をする。

「もう大丈夫だと思うが、何か困ったことがあれば、連絡してくれていい。明日の朝までなら、我はベルリンに居る。」

「ありがとう。」と麗香は自然に弥神君へも握手の手を出した。

 弥神君は目を見張って首を傾げた。そこで麗香ははっと、流石に過ぎた行為だったと慌てて手を引っ込める。

「ご、ごめんなさい。」

 申し訳ございません、だったか?どこまで許されるのか、わからなくなる。

「いや、戸惑わせて悪い。」と弥神君は微笑み、「お詫びに、一つプレゼントをしよう。」と目を細める。

「えっ?」

「失礼するよ。」と言って弥神君は麗香へと一歩踏み込んで、顎を掴まれあげさせられる。

 キスをされるのかと、驚きとドキドキ感で顔が赤くなるのと同時に、弥神君の左目も赤く染まる。

 脳裏に蘇る記憶。

 それは子供の頃のパーティ。

 大人の真似して社交ダンスを踊った。

 かくれんぼで一緒に倉庫に隠れた男の子。

『素敵な靴だね。ドレスにピッタリ。』

 と褒めてくれたシルバーのタキシードを着た男の子。

 自己紹介で、名乗ったあの子は・・・

(うそ・・・)

 驚きで動けなくなっている麗香の前で、弥神君が微笑んでいる。

「鮮明にさせたその記憶を、どう使うかは、柴崎さんのご自由に。」と言って弥神君は踵を返し、車へと乗り込む。

 扉が閉められ、車が走り出して道路へと見えなくなっても、麗香は動けなかった。

「麗香!どうしたの?」

「ううん何もないよ。」

 待ちわびて戻ってきたりのは、麗香の顔を覗いて首を傾げる。

「鍵貰って来たよ。部屋に行こう。」

「うん。」

 部屋に入った途端、りのはその部屋の豪華さに「余計な事をっ」とまた弥神君を貶し、ソファに足を投げ出して座った。

「麗香、まだしばらく滞在できる?」

「え・・・うーん。」

「フランスに一緒に来る?」

「あっ、あのね、りの・・・実はね。」

 麗香はグレンの事を話した。100万ユーロを抵抗なく受け取り喜んでいた事も。

「そう・・・。」

「怒らないで、弥神君はりの事を思って・・・。」

「わかっている。でも、フランスには帰らないと。」

「りの!」

「荷物があるもの。グレンと別れるにしても、戻らなくては始まらない。」

「じゃグレンとは別れるのね。」

「うん。あの人、何をするかわからないもの。麗香、一緒に来て。」

「ごめん。私、帰らなくちゃ。」

「あぁそう、そうだね。ごめん、仕事あるもんね。」

「うん。ごめんね。」

「ううん、ありがとう。麗香が来てくれなかったら、私、あのままだった。」

「ううん、私はただ駆け付けただけよ。何もできなくて戸惑っていたんだから。」

「それでも、嬉しい。」

 りのは麗香に抱きついてくる。

「髪の毛切っちゃったのね。」

 麗香は、りのの頭を撫でながら、昔を思い出した。

「失恋の前に切っちゃった。」

「あはは、でも、だから現状を変えられたんじゃなくて?」

「あーそうだね、うん。」

「あぁ、私も切らなくては駄目かなぁ。」

「どうして?」

 探りを入れて見つめて来るりのの視線を外し、天井へと向けた。

 変えたい・・・それはずっと思ってきた事。

 だけど変えられなかった。現状が心地よくて、抜け出せない、傷つくことが怖かった。

 変えたい・・・は、自身に傷がつくことに覚悟を決める事。

 包帯を巻いたりのの足に目が行った。りのは幾度も傷つき、変えて来た。今回もまた・・・

(あぁ、そうか。あれも、変えたくて・・・本当は、りのが・・・。)

 ふいに10年前の真実がわかったような気がした。

「麗香?」

 考えに耽っている麗香を、訝し気に首を傾げるりの。

「ううん。なんでもない。」












 一週間で戻ると宣言していたが、一日早めて東京に戻って来た。断固として政界には進まないと決め、そうするのならば、本家の管理事業をすべて引き受けるしかなくなるだろうと踏んでいたが、舞が政界へ進むと宣言し、自分は病に臥せった不肖の長男であると、一族に宣言したようなものだから、相続する物も少なく、フジ製薬内における亮の立場も代わることなく、爺さんが持っていた持ち株を振り分けられた分の増資をしただけで終わった。大変なのは父と舞だ。亮以外はまだ福岡に残って手続きやら、挨拶回りで忙しくしている。

 マンション前でタクシーを降り、見上げた。

 新田はどうしただろうか。悠希ちゃんからの事後報告はない。

 ポストを覗くと、溜まった封書やはがきがまだ取り入れずに残っていた。

「来てないのか?ちぇっ、昼飯ありつけると思ったのによ。」

 新田には合鍵を渡していて、帰国時は好きに滞在していいと言っていた。新田が来ると手料理にありつける。それが最大の喜びだ。流石に精進料理ばかりで飽きて、新田の手料理を楽しみにして帰ってきたのに。

 エレベーターに乗り、部屋の前で鍵を取り出し開錠、扉を引き開けると、醤油と出汁のいい香りがした。

「なんだ?居てたのか。」

「あぁ、お帰り。」

 キッチンから菜箸を持ったまま顔を出す新田。常々思う、新田が女だったら最高なのにと。

「あぁ、藤木、お爺様の事、どうもご愁傷様で・・・」

「やめっ。」

 新田の腹にパンチを入れてリビングへと荷物を運んだ。

「おうっ。」不意打ちで食らった新田は腹を抑える「でも、本当に良かったのか、香典も献花もしなくて。」

「要らねーいらね。お前らの名前があるかどうかなんて、誰も分かんねーし、あの家に重要じゃない。」

「でも・・・。」

「香典なんて唸るほどあるんだ。記述管理する手間が省けたってもんで、無い方がありがたいってもんだよ。」

「そうかぁ。」

 亮はスーツの上着を脱いで匂いを嗅いだ。葬儀に来ていた喪服ではないが、線香が充満していた家から着て帰ってきたから匂いが染みついていそうだった。しかし、嗅いでも分からなかった。嗅覚が麻痺しているのかもしれない。

「なぁ、俺、線香臭くないかなぁ。」と、キッチンに戻った新田を追って亮も入る。

「いいや。」と新田はこっちも見ずにパチパチと音を鳴らす鉄鍋に菜箸を入れる。

「あぁ腹減った。昼飯は何を食わせてくれるのかなぁ。」と鍋の蓋を開けて亮は、顔を引きつらせた。「げっ、カボチャ。」

 新田の手元を見ると、カボチャの天ぷらがそろそろ出来上がる頃。

「お前っ、俺がカボチャ嫌いなの、忘れたのか!」

「忘れてないよ。お前が嫌いだから作ってんだ、わざわざ。」

「はぁ?」

 ピーピーピーと足元のオーブンが仕上がりのお知らせをする。

「出来た、出来た。」

 新田はミトンを手にはめてオーブンからトレーを取り出す。

「初めて作ったけど、上出来、上出来。」

「何だよ。それ・・・」

「パンプキンパイ。」

 新田が怒っているのを読みとる。怒りの理由は分かっていたけど、あえて冗談気味に振る舞った。

「何ボケてんだよ。今日はハロウィーンじゃねーぞ。」

「ボケて、こんな手間のかかった嫌がらせ、出来るかっ。」

「悠希ちゃんから相談されたんだ。女の頼みは断れない。」

「くだらない事して・・・。」

「お前こそ、くだらない嫌がらせしてんだろうがっ。」

「俺は今日、カボチャが食いたいから作ってんだっ、お前の好き嫌いなんか知るかっ。」

「さっき、俺のかぱちゃ嫌いを忘れてないって言っただろが。」

「いつもいつも、好物が出てくると思うなよっ。」

「ちっ。」

「舌打ちしてまで、食べなくていいっ。」

「あぁ、食わねーよっ。」

 亮は貴重品の入ったカバンと紙袋一つを持って、玄関へと向かう。

「どこ行くんだよ!」

「柴崎家っ、挨拶に行くんだっ。」

「晩御飯は?」

「カボチャだったら要らんっ。」

「世話のやける・・・美味いのに。」

 新田のつぶやきを背に外廊下へ出る。

「何だよ・・・え?悠希ちゃんと・・・どうなったんだ?」

 カボチャに動揺して、そこは読み取れなかった。まぁ、どうせ夜にでもその話を聞かされることになるだろう。亮は柴崎家へ歩いて向かった。徒歩数分で、柴崎邸の塀が見えて来る。道を渡って塀沿いの日陰を歩く。蒸し暑さが若干緩和されて心地よい。

 門の解除番号は知っていて、勝手に入る事は出来たが、一日早く戻ってきている分、遠慮する。呼び鈴を押し待つと、応対してくれる林さんが、「あら、この度は・・・」と、もう聞き飽きた挨拶をしてくるので、「申し訳ありませんが、中に入ってからお願いします。」と言って笑った。

 チチチと鳥の鳴き声に迎えられて敷地内へと踏み入れる。

 何とか、まだここに居られる事にはなったけれど、いつまでもこのままと言うわけにはいかない。来年の4月、華族制度が消失したら、自分はどうなるのだろう。亮自身は、華族の称号がなくなろうが特に立場を気にはしない。しかし、柴崎家の人たちは気にするだろう。爺さんが死んで、増々藤木家当主に近くなった亮を使いにくいと思うだろう。そんな気使いを読み取りながら仕事をするのは、嫌だ。

「はぁ~何だって、俺は普通の家に生まれなかったんだろう。」

 そう呟いて亮は桜の木を周る。踏みしめる砂利の音を聞きながら歩き、柴崎邸のステンドグラスが埋め込まれた扉を開けると、林さんが迎えに立っていて、奥から文香会長も出迎えた。

「会長、遠い所お越しくださって、立派な献花も頂きありがとうございました。」

「ううん、粗末さまで、こちらこそ申し訳ないわ。」

「林さん、これ明太子です。夕食の足しにでもしてください。」

「あら、申し訳ありません。これ美味しんですよね。」

「藤木君、大変だったわね。ゆっくりしてよかったのに。あっ中へ。」

「失礼します。向こうでは自分は厄介者ですし、マンションには新田が居るんで・・・。」

「ん?」と文香会長が目を細めて覗き込んでくる。嘘ついても読み取られる。繕う方が面倒だ。

「ちょっと言い争いをしまして。」

 文香会長は苦笑して、亮を食堂へと促す。

「藤木君、お昼ご飯は?」

「新田の手料理を食べようと思ってたのですが・・だから、食べ損ねました。」

「あはは、そう、林さん、源田さんに言って、もう一人分作ってもらって。」

「かしこまりました。」

 亮は食堂で、留守にしていた間の仕事の引継ぎと、今後の打ち合わせを30分ほどして、林さんが源田さんの作った鱧御膳を運んでくれた時、文香会長の携帯が鳴った。

 文香会長は画面を見て、「あら、小学部からだわ。」と呟いてから電話に出る。

 翔柴会の固定電話にかかって来た電話に出る事が出来なかった場合、携帯電話へと自動転送するようになっている。

「はい、翔柴会柴崎です。―――森本校長お疲れ様です。――――――は?麗香理事長が?いいえ。休んでるなんて・・・行ってませんか?」

「えっ?」

「えっ?」

 林さんと共に驚いた声を出して、顔を見合わせる。

「ちょっとお待ちください。麗香、昨日今日と出勤してないって・・・そういえば朝、見てないわ。」

「え?お嬢様、お出かけになられていますよね。」と林さん。

「どこへ?」

「どこへ?」

 と今度は文香会長と言葉が重なり、林さんはおののいて、言葉を続ける。

「いえ、行先は存じませんが、えっ?奥様も藤木さんも知らないのですか?」

「知らないわ。」

「知りません。」

「えっ?」

「えっ?」

「えっ?」

 と全員が驚愕して、顔を顰める。

「三日前、お嬢様、急にスーツケースを持って出かけていかれましたけれど。」

「スーツケース!?」

「はい、お嬢様が出かける前に、ドイツの大使館から電話がありまして。」

「ドイツの大使館?」

「真辺さんの事で話があると・・・。」

「ちょっ、ちょっと待って、一旦電話を切るわ。」文香会長は眉間に濃い皺を作って携帯電話の保留ボタンを解除して耳に当てる。

「お待たせしました。申し訳ございません。柴崎麗香理事長は海外の視察が急遽決まりましたようで、出張しております。緊急でしたので、校長に連絡が出来なかったようで、申し訳ございません。―――ええ、ご迷惑おかけして申し訳ございません。ええ、後で藤木を代行させます。はい。よろしくお願いします。」

 文香会長は電話を切った後、はぁーと息を吐き、亮へとすまなそうな表情を向ける。

「悪いけど、行ってくれるかしら?」

「あ、はい。それは構いませんけど、麗香お嬢様は一体どこへ?」

「申し訳ございません。てっきりお嬢様、奥様か藤木さんにお知らせして、お出かけしている事だと思っていました。」

「あぁ、そうよね。いいのよ、林さん。」

「ドイツの大使館から、何の話だったんですか?」

「話の内容は知りません。お嬢様が電話されている時、そばにはおりませんでしたから。」

「麗香に電話するわ。」

 と文香会長は苦悶の表情で首を横に振りながら、電話を掛けた。しかし、電話はコールするも出ないと、文香会長は飽きれながらも根気よく何度も電話をかけ、5度目でやっと繋がった。












「優雅な物ね。休みたいときに休めるって。」

 美月が冷ややかな目で麗香を見下ろす。

 帝国領華ホテルに隣接したショッピングセンター棟の最上階にある室内温水プールサイドで、麗香は美月の言う通りに優雅に、ビーチチェアに寝転がって、トロピカルなカクテルを飲んでいた。

 ドイツから帰国後、麗香は直ぐにここへと足を向けた。逃げた、引きこもったと言っていい。屋敷には帰りたくなかった。  帰りたくないというより、藤木と顔を合わせたくなかった。

 弥神君が来てくれたおかげで、すっかり両親に連絡をするのを忘れてしまった麗香。結果、二日を無断欠勤してしまった小学部から翔柴会へ問いあわせがあって、お母様から叱りの電話が入る始末。事の起こりから顛末を報告すれば、ねぎらいの言葉と共に、理解してくれたけれども。

 葬儀が終わって、もう戻って来ているという藤木から、それらの話を聞いたのだろう、ドイツからのフライト中に【何時何分着の飛行機ですか?お迎えに上がります。】なんてメールが届いたが、麗香は返信することなく電話のコールも無視し続けた。

 そうして、帝国領華ホテルに引きこもった麗香に、お母様からの電話を取り次いだ美月。麗香は、『急なドイツ行で疲れて体調が悪いから、仕事をしばらく休ませてほしい。』と懇願した。お母さまは心配して、病院へと行くようにと言われたが、そういうものじゃなくて、精神的なものを匂わせて言うと、『仕方ないわね。』と了解してくれた。

 半分嘘で、半分が本当。仕事をする気力がない。

「有給休暇よ。4月、ほとんど休んでないもの。」

「何が有給休暇よ。経営者側にそんなものないでしょう。呆れる。」

「美月も休んだら?今から一緒に、泳ごうよ。」

 と言いながら、まだ持っていた外線電話の子機を返した。

「そんなこと、できるわけないでしょう!」

「融通利かないんだから。」

「麗香が、ずるずるに融通利きすぎているのよ!どうしちゃったのよ。」

「べつに・・・」

 美月が麗香をじっと見下ろす。その圧力が嫌で麗香は視線を外し、テーブルに置いてあるカクテルに手を伸ばす。

「ま、とやかくは言えませんけれどね、お客様ですから。」

 と美月は嫌味を言って、くるりと背を向ける。

「あー、美月!」

 麗香は去り行く美月を止める。

「何?」

 お客様に対する表情ではない顔で振り返った美月。

「あのね、ちょっと聞きたいんだけど、昔ね、ここの大ホールでパーティあったじゃない。華族会の方じゃなくて、こっちの本店であった。」

「昔って、いつよ。」

「私達が5歳か6歳頃。とても盛大なパーティ、覚えてる?」

「あぁ、うちのホテル開業100周年記念パーティね。」

 と美月は表情を緩めて戻ってくる。

「・・・そうだったんだ。」

 何のパーティかも知らずに参加していた。いや、当時、知らされてはいただろうけれど、覚える気がさらさらなかったのだ。

「それがどうかしたの?」

「そのパーティの出席者名簿とかってある?」

「出席者名簿?芳名録って事?」

「うん、芳名録でも何でも、誰がそのパーティに来ていたか、わかる物。」

「あるけど。」

「見せて!」

「ええ!?何するのよ。」

「ちょっと調べたいの。」

 美月は眉間に皺をよせ唸ってから口を開く。

「22年も前のパーティの記録よ。倉庫よ。探し出すの、冗談じゃないわ。」

「私が探すわ、その倉庫に入らせて。」

「ええ!?そこまでして、何を調べたいのよ。」

「お願い!」

 麗香は拝み、美月は大きなため息を吐く。

「理由もなしに倉庫へ立ち入らせるわけにはいかないわ、流石に麗香でも。」

「そこを、なんとか、幼馴染のよしみで。」

「父に許可取らないといけないのよ。」

「どうしても、知りたいの。」

「だから、何を?」

「あの時、一緒に居た子。私と大人の真似して踊った子・・・。」

「藤木でしょ。」

 美月はいともあっさりと答える。あまりも即答だったので、麗香は言葉なく唖然としてしまう。

「えっ?麗香、忘れてたの?」

「えっ、ううん、お、覚えてたわよ。でもほら、昔過ぎて本当かなぁ・・・て。」

 疑うような表情で見下ろす美月。

「だから、藤木と付き合ったんだって、私、思ってた。中3だったっけ?藤木と付き合ったの。」

「うん・・・。」

「藤木家は、わがホテルにとって、華族以外の、超級クラスのお客様なのよ。私ご挨拶させられたから、とても良く覚えているわ。」

「そ、そう。」

 やっぱり、この霧が晴れたように思い出した記憶は本物だったのだと、麗香は複雑な思いにため息をつく。

「それが、何なの?」

「ううん、もういいの。」

 麗香はまたカクテルに手を伸ばして飲む。

 美月は再び、くるりと麗香に背を向け立ち去ろうとする。

「あー美月!」

「もう、一体何!」

「ごめん、もう一つだけ、その大ホールに後で入らせてくれない?」

「はぁ!?」

「少しだけ、中に入って見たいの。」

 美月は、もう何度目かの大きなため息を吐いて項垂れた。













 どうしてか、亮からの電話に麗香は出ない。どころか、終いには電源を切ってしまって、全くの音信普通となった。

 文香会長が帝国領華ホテルに直に電話して繋いで貰い、麗香と話をしたようだが、何故、麗香はドイツから帰宅後、屋敷に帰って来ずに仕事にも行かないのか、説明はなく、ただ『気が乗らないみたい。悪いけれど、麗香が戻ってくるまで藤木君、小学部の理事の代行をお願い。』と言われた。

 代行をすることは特に問題はない。凱さんの時代から麗香へと仕事を引き継ぎ教えたのは亮だ。しかし、ただ気が乗らないからって簡単に欠勤することを許していいわけがない。これだから一族経営は娘に甘いと言われかねない。と麗香に怒りたいけれども、出来る立場に亮はなく、そもそも麗香が亮からの連絡を一切シャットアウトして、連絡のしようがない。

 亮はもうあきらめて、仕事の報告だけを記したものをメールするだけにして、理事長室の椅子の背もたれに背を預け、ため息を吐く。

「全く・・・。」

 無意識に独り言が出ていた。

 ドイツで何かあった?りのちゃんと喧嘩でもしたのだろうか?だったら、亮に相談がありそうだ。

 一昨日、りのちゃんが滑落事故に遭い骨折して病院に運ばれていた事を知った亮は、その後すぐにりのちゃんへと電話をした。骨折は麗香が来てくれたおかげで驚異的に早く治りつつあると、とても元気な声を聞かせてくれていた。せっかくだから麗香ともうしばらく一緒に居たかったが、麗香が、『仕事があるから帰らなくちゃ』と言ったから、仕方なく引き留めなかった。と聞いた。

 それなのに、麗香は仕事に気が乗らないとは、どういうことだ?

 帰国したものの、もっと遊んでいたかったと思ったのだろうか?

「全く・・・。」

 また同じ言葉で独り言をはく。

 5時半の下校の音楽が鳴り響いた。

 椅子をくるりと回して外の様子を見る。ここから運動場は見えず、別棟の校舎に西日が当たって光る窓ガラス郡が見えるだけだ。まだ空は青い。

 舞が政界へと進出してくれるおかげで、亮は自由の身になったと言える。唯はまだ学生だが、舞を手伝うと言っているし、亮が政治関連で手伝わなければならない事もない。とりあえず現状の立場を続けてよくはなったが、いつまでもこのままだらだらと続けるわけにはいかないだろう。そうした節目を、今までに何度迎えたことだろうか。

 次の節目は、華族制度が終了する3月31日。4月1日からは華族の称号は消失し、地位と言うものがなくなる。そうなれば藤木家の方が名実的に上になる。亮がそれを意識しなくても、柴崎家の人々は意識するだろう。

 翔柴会の手伝いを辞めたら、何をするか?

 やりたい事など何も浮かばない。働かなくても遊んで暮らせるが、あまりにも暇だ。

 日本サッカー連盟の理事は、学校法人翔柴会ありきの就任であるから、翔柴会を辞めるなら連盟の理事も一度退陣して、新たに選任されなければならないだろう。翔柴会の肩書を無くして何の実績もない亮が、理事に再選任されるはずはない。

「余りある金と時間は、人間を駄目にするな・・・」と呟いて、ふいに納得の答えを見つけてしまう。

(あぁ、だから藤木家の祖先は、政界へと乗り出したのか。あまりにも暇だったから、国でも政ろうって。)

「暇つぶしに導かれた国は、どうなんだか・・・。」

 だから、この国はいい加減で、いい具合に温く平和なのかもしれないな。と考え至り、亮は苦笑して椅子の向きを戻した。

 メールの着信。

 どうせフランスに到着したとの新田からの報告メールだろうと無視して、パソコンの電源を落とし、帰り支度をする。

 新田は、りのちゃんが滑落をして怪我をした事を知り、フランスに帰る日を一日早めた。

 上着を着てスマホをポケットに仕舞う時に気付く。メールの着信は新田ではなく麗香からだった。

 亮は急いでメールを開き読む。

【今すぐ帝国ホテルに来て、6時までに、4階大ホールへ。】と短い文。

 直ぐに電話を掛けたが、電源を落としていると通知され、メールを送る。

【今、小学部に居ます。6時までには到着できません。急いでも6時10分以降になります。ご了承下さい。】

 亮は急いで理事長室の戸締りをし、教務室に声をかけてから、学園の駐車場へと走った。麗香の赤いアルファロメオを乗ってきていた。勢いよく乗り込んで呟く。

「どういうつもりだよ。全く・・・世話のやける。」

 少々強引に信号を突っ切ったりしても、亮の予想通りに45分がかかって都内の帝国領華ホテルについた。地下駐車場のエレベーターが到着するのに時間がかかりそうだったから階段で一階フロントフロアまで上がる。そこからはエスカレーターを使って4階宴会場フロアへと上がった。大フロアで何かイベント事でもやっていて、だからそこへ迎えに来てほしいのだと思っていたが、大ホールのある4階はひっそりとして、廊下も薄暗く、従業員の一人も歩いていない。数ある大フロアの扉もすべて閉められていた。

 場所を間違えたのかと、スマホを取り出してメールを読み返す。間違いなく帝国領華ホテルの大ホールと書かれている。

亮は走って乱れた息と服装を整えてから、扉をそっと開けみる。高等部の体育館並みの広さのあるホールは、今はテーブルも何もなく、敷かれた絨毯の柄がどこまでも続いて見えていた。

 舞台前に、麗香は後ろ向きで立っていた。進み歩いて、ホールの中央程まで来た時、麗香が怒っている事に、亮は読み取り気づく。後姿からでも、その感情を読み取れるのは、麗香だけ。

「遅くなりました。申し訳ございません。」

 亮がそう、声をかけても麗香は身動きせず立ったまま。亮は歩を止めず、麗香の背後へと進む。

「麗香理事長、お疲れとお聞きしました、お体は大丈夫ですか?」

「ここへ来るのは何回目?」

 突然脈絡もない質問をされる。それでも麗香の背中は怒ったままだ。

「は?」

「何回目?この大ホールに来るの。」

 亮は周囲を見渡す。記憶にある賑やかな景色を思い浮べた。あの時以来、この大ホールには来たことが無い。友人の結婚式などは中ホールだった。

「今日を含めて、二度目でございます。」

 何故それを知りたいのか、見当がつかない。

「一回目はいつ?」

 亮は麗香の後ろ姿を見つめて、もしやと思うと同時に麗香は振り向いた。

「一回目はいつ?」

 射るように睨む麗香。やっぱり、麗香は思い出している。

「帝国領華ホテル100周年記念パーティに、家族で出席しました。五歳の時です。」

「しっかり、覚えているのね。」

「はい。自分にとっては初めての、最大で最高に華やかなパーティでしたから。」

「私は忘れていた。何のパーティだったかも。」

「麗香お嬢様は、既に数多くのパーティにご出席されていたことでしょうから。」

「ええ、そう、だけどね、大人の真似して社交ダンスを踊ったのは初めてだったわ。」

「・・・・。」

「かくれんぼも楽しかった、冒険の話も。楽しかった記憶はずっとあるのに、一緒に手を繋いだ相手が誰だったか忘れてしまっていた。馬鹿だわ。」

 麗香の怒りが突き刺さってくる。

「わかっていたわよね。私が必死に思い出そうとして、その相手を探していた事を。」

 視線を落とし伏せた。

「都合よく、すべてを読みとるわけじゃない、なんて言わせないわよ!」

(終わりだ・・・。)

 麗香の思いを壊さないようにしてきた結果がこれだ。あのまま、御田克彦氏が、子供の頃に踊った相手と思い込んで結婚していれば、華族の称号も失わず、美しい記憶のまま安泰だったはずなのに。あのテロ事件で狂ってしまった。

「どうして黙っていたの!どうして教えくれなかったのよ!」

テロ後に、自分がその相手だなんて言えるはずもなかった。

「申し訳ございません。」

「克彦さんを、あの時の男の子だと勘違いをしていた時も、あんたはわかっていたくせにっ、どうして黙って。どうして交際を止めてくれなかったのよ!」

「御田氏との結婚は、誰もが望んだ良縁でございました。」

「ええ、そうよっ、皆が喜んでいた。だけどっ私がどんな気持ちだったか、あんたは、わかっていたでしょう!」

「どうであれ・・・交際を止める権限など、私にはありません。」

「そうねっ、それが正しいわ。そうやって正論をかざして、私の愚かな心を覗き見て、笑っていたのね。」

「そんなことは・・・。」

「わかってるわ!独りよがりだって事、勝手に勘違いをした相手と結婚をしようとして、駄目になった。もう3年も前の事よ。今思えば駄目になってよかったと思えるわ、すがすがしい程にね、克彦さんに未練も何もない。あるのはね、あんたが何故、ずっと黙っていたかって事よ!」

「それは・・・ただ・・・。」失望させたくなかった。

 華族制度が消失するなんて思いもよらなかった3年前、思い出の子が、華族の称号を持たない亮だと知った時の、麗香の落胆を見たくなかった。華准落ちを覚悟するか、気持ちを抑え別れの選択をするか、といった悩みを与えるぐらいなら、勘違いの記憶のままにした方がいいと、亮は黙りを決心した。

「ただ、何?」

「いえ、申し訳ありませんでした。」

 亮は深々と頭を下げた。言い訳などしても、もう遅い。

 麗香の怒りは最高潮に膨れ上がり、言葉を失う。

「・・・もういいわ。首よ。明日から、屋敷に来ないで頂戴。」

「・・・畏まりました。お世話になりました。」

 亮は息詰まる想いで、その言葉を絞り出した。












 極限まで怒りが沸騰すると、人は冷静になるのだと、麗香は変な自己分析をしていた。馬鹿丁寧に頭を下げる藤木を、冷たい気持ちで見つめた。首を宣告された藤木が、今どんな気持ちでいるか、ゆっくりと折った腰を戻して合った視線からは、全く分からない。いや、何の感情もないのかもしれない。政界への道から逃げる為の、ただの暇つぶし、華族の家に仕えた体の良い言い逃れ。働かなくても個人資産は麗香よりも格段にあって、何も困りはしないのだから。

 麗香から視線を外して、体を後ろに向けた藤木。

(もうこれで本当にサヨナラだ。)

 その時、フロアの照明が落ちて真っ暗になった。麗香はあたりを見回す。

「な、何?停電?」

 窓のない大ホールは、非常出口を示す緑色の案内板だけが弱弱しく光っているだけで、暗闇に包まれた。ゆっくりとスポットライトが灯り始める。藤木の姿が視認出来るほどに照明が灯ると、音楽が流れ始めた。

(この曲は・・・)

 弥神君に記憶を戻してもらった為に、しっかりと思い出せる。大人の真似して踊った時の、思い出の曲。

 麗香と視線があった藤木がフッと苦笑をした。そして、麗香に歩み、腰を折る。

「私と踊って下さい。」

「な、何を言って・・・。」

 躊躇するが、片足を一歩後ろに引いて手のひらを差し出されたら断れない。嫌な相手でも一曲だけは踊るのが社交界でのマナー。麗香は唇を噛んで、応じる。添えた手を、握られた藤木の手は相変わらず冷たい。戸惑う気持ちの表れで、離れていた麗香の腰を、引き寄せて誘導する藤木。

(何度目だろうか?こうして踊るのは。)

 今までで、最悪の気持ちで踊るダンスだ。

 変わらず、何を考えているかわからない藤木の視線から顔を背けて踊る。

(どうして、私達はこんな風になってしまったんだろう。)

 ダンスは上手くなっても、意思疎通は全く上手くなっていない。

 大人になるにつれ、感情に流されることなく、状況を見極めた振る舞いも上手になる、だったはず。

 なのに、私は失敗した。

 結婚も

 称号も

 恋愛も。

 全てが上手くなっていない。

 涙が出て来る。

 これは何の涙?

 怒り?

 悔しさ?

 悲しさ?

 惨めさ?

 懐かしさ?

 曲の半分を泣きながら踊った。

 エンディングを迎え、フェードアウトしていく曲。

 フロアが静まり返った。自分の鼻をすする音が響く。

 手を放し一歩下がった藤木が、片膝をついた終わりの挨拶をする。

 麗香は、終わりの挨拶をしなかった。わずかな抵抗。

 涙で視界がぼやけた中で、藤木は立ち上がり、ポケットからハンカチを取り出して麗香に差し出す。

 溜まっていた感情は涙で流されたようだ。無感情にそのハンカチを取って目を抑える。

「楽しかったな。」

「えっ?」

「親に連れられて参加したパーティの中で、唯一楽しかったといえるパーティだったよ。」

藤木は、目を細めて遠くの見るような仕草で語る。

「ありきたりの幸せよりも、ずっとずっと冒険がしたいと言ったお姫様は、とても可愛かった。5歳にして一目ぼれ。マセていたのかな。そんな可愛いお姫様の冒険物語に、ずっとついて行きたい。そう思い願ったよ。その日限りで別れるのが本当に残念だった。上京してからのお姫様との再会は、運命だと素直に喜べるほど、俺はメルヘンな心は持ち合わせていなかった。それでも、あれらの学園生活を経験して、幼き頃に願った思いが再燃したのは、今思えば必然だったのかもしれないな。柴崎家に仕えてからは、麗香以上に、苦しんだつもりだ。」

「藤木・・・。」

「事故で現実の夢を絶たれた。だったら、せめて5歳の頃に願った夢を叶えてもいいのではないか。語り合った夢物語を現実に持ってくることなど、馬鹿げている。そう思いもした。麗香があのパーティで踊ったのが俺だと忘れているのを幸いに、麗香が、俺じゃない最良の相手を見つけるまで、お姫様の冒険物語に脇役として登場させてもらおう。そして、お姫様の幸せなエンディングを見届けて身を引く事を夢描いた。」

「あんた以外の誰が、私の最良になれると言うの!そんなのわかっていたくせに。どうして身を引く夢なんか描いたのよ!」

「・・・怖かったんだ。」

「怖い?」

「俺のせいで、柴崎家が華准落ちになる事を。」

麗香は唇を噛む。

「知っていたから、麗香がどんな考えで御田家との縁談を心決めたか、知っていたから。」

涙がまたあふれ出て来る。ハンカチで抑える。

「冒険物語では、俺はお姫様のサポート役であって、王子様役じゃなかったから。」

「何を・・馬鹿な。」

「馬鹿だな。自分でもそう思うよ。5歳の頃の記憶に縛られたまま、成長できていない。」

 それは自分も同じだと麗香は思う。いや踊った相手をすっかり忘れていた自分は、より以下だ。

「だけど、そう。あの5歳の頃の記憶に縛られたからこそ、俺は今も昔も、そしてこれからも、柴崎麗香を好きで、離れられない。」

 ハンカチで拭うのが追いつかないぐらいの、大粒の涙がとめどなく零れ落ちる。

 頭の中にあのフレーズが響く。

「気持ちまで、5歳の頃の記憶のせいにするの⁉ずるいわ。」

「ありきたりな冒険なんて面白くない。そう言ったのはお姫様だ。ありきたりの気持ちを告白しても満足させられない。」

「え?」

「俺を柴崎麗香の冒険物語に、最良のパートナーとして配役してください。」

 麗香は無意識に首を振っていた。涙がボタボタと床に落ちる。

「馬鹿・・・馬鹿っ」

 藤木の胸にこぶしを叩き入れながら、脱力任せに体を預けた。藤木は、麗香の背中に手を回す。

「回りくどいのよ。そういうのはちゃんと、はっきり言って。」

 藤木は麗香の肩を持ち胸から離して、麗香をまっすぐ見つめる。息を吸い込んでから、

「俺、藤木亮は、柴崎麗香を愛しています。」

 何年、その言葉を待ったことか。

 うれしいはずなのに、怒りが混じるのは何故だろう。

「許さない・・・。」

「うん。」

「許さないから。冒険から離脱なんか、させないわ。」

「あぁ、もう逃げたりしない。」

 涙に濡れる麗香の頬に手を添える亮。

 キス。

 夢のフレーズが頭に蘇る。

『継こそは、柵のない世であなた様を支え尽きとうございます。』

『継こそは、柵のない世であなたを愛し抜くと誓う。』



「お二人さん、そろそろ終わりにしてもらえるかしら。」

 フロアのスピーカーから美月の声が響き渡る。

 ミキサー室の窓に明かりが灯って、マイクの前で冷めた表情の美月が居た。

「キス、長いわよ。」

「ホテルマンが覗き見していいの!」

「何言ってるのっ、私が演出したからこそでしょうが、感謝してよね。」

「もう!」

「ここ、明日の準備をしなくちゃなんないの、さぁさぁ、出て行って。」

 亮と顔を見合わせ、肩を竦めてからフロアの外へ向かった。

「全く、世話の焼ける・・・」と美月は、つぶやきまでもマイクに乗せる。

 亮は苦笑して麗香の肩を抱き寄せ、つぶやいた。

「仲人は決まりだな。」













 5つの段ボールがトラックの荷室に運び入れられた。送り状にサインをして、ドライバーに渡す。

仏「水濡れ厳禁にしてね。大事な物だから。」

仏「わかりました。大事な荷物5つを確かに預かりました。」

仏「お願いします。」

 走り去る黄色いトラックを見送って、マンション内へと戻る。古く揺れの激しいエレベーター、この趣のあるエレベーターも今日で最後かと思うと、哀愁に別れ惜しい。チンと鳴る停止の合図も、アナログチックで好きだった。名残惜しさを胸に玄関へと歩み、扉を開ける。

 リビングからグレンの叫びが聞こえて来た。

仏「行け!行け!ほらスパートだーーーーーーあぁ。くそっ」

 テレビの前で項垂れるグレン。テーブルの椅子で珈琲を飲んでいるミレーヌと視線を合わせて、互いに首をすぼめた。

仏「ミレーヌ、持って出るのはこれだけなの。部屋に残ってる服とかリネン類は貰って。要らない物はリサイクルしてくれていいから。」

仏「わかったわ、ありがとう。もう行くの?」

仏「うん。」

仏「寂しくなるわ。」

仏「グレンをよろしく。」

仏「ええ。」

 ミレーヌと握手をしてからハグをした。

仏「リノ、もう行くの?」

仏「うん。」

仏「あぁ、リノ、最後にもう一度頼んでよ。」

仏「何?」

仏「きっとリノが頼んだら、あいつ、またくれるさ。」

仏「グレン・・・。」

仏「もうこれだけしかないんだ。」

レニーeマネー口座の画面を見せて来る。棄皇がグレンに渡した100万ユーロのお金は、既に1/4に減っていた。

仏「駄目よ。」

 グレンが立ち上がり、私を抱きしめる。

仏「お願いだリノ、次こそはきっと、リノの為に当てるよ。」

 耳元でささやくグレンの体を押した。

仏「グレン、あの人は頼んで聞いてくれるような人じゃない。そのお金はグレンの為でも、私の為でもなく、あの人自身の為の陽動金なのよ。」

仏「陽動金?なんだそれ?」

仏「もう行かなくちゃ。」

仏「ちぇっ。」

 子供の様に拗ねた仕草をするグレン。

仏「グレン、賭け事はほどほどに、ミレーヌを大切にして。」

 グレンは私の言葉を無視してソファにドカッと座り、ミレーヌの入れた珈琲のカップに手を伸ばす。

 私は部屋の隅に置いてあったスーツケースと貴重品の入ったリュックを手に取る。SNのキーホルターがチリンと音を鳴らした。

仏「じゃ、グレン、さようなら。」

 グレンの言葉を待ったが、無言でテレビのリモコンを手に取ったのを見て、私は諦めてへ玄関へ向かった。

 あんな風にしたのは私。それなのに、私はグレンからも逃げる。

 人との別れに哀しくない。建物との別れの方が哀しい。本当に最後となるエレベーター、チンの音も聞き納め。

 通りに出てとりあえず歩いた。松葉づえは置いて来た。骨折したところはもう痛くない。病院は行ってないが、テーピングで固定していれば自然に治る。人間には治癒能力があり、私はそれが人より早いのだから。

 空は薄曇り、少し蒸し暑い。行く当ては考えていなかった。

 麗香が日本に一度帰っておいでと言ってくれていた。それが当然の行動だろう。でも日本に帰る気はなれない。

 いい加減、ママと仲直りした方がいいのはわかっている。大輝の為にも帰国してあげたいとも思うが、どうにもママと顔を合わす勇気が出ない。今年も、大輝の誕生日に会うことが出来なかった。プレゼントだけ送って電話で会話をしただけだ。大輝からは、【会いたい、ドイツ語を教えて】とメールをくれていた。

 地下鉄に乗って空港へ向かう。

「空港の掲示板で、行先を決めるしかないか。」

 そうして気ままに世界を転々とする。幸いに翻訳の仕事はどこでもできる世の中になった。そしていつか、また偶然にミスター・グランドと再開したりしたら、とても素敵だ。

「また会えたね、日本語よりロシア語が得意なお嬢さん。」との言葉と共に魅力的な微笑に、私はまた恋焦がれるだろう。

 大きくため息をついた。途方もない空想だ。

 パリのシャルルド空港は、いつも人であふれている。人種様々、沢山の言語が飛び交っている喧騒の中を進み、電工掲示板の前で立ち止まる。

 ふいに、孤独感に取り囲まれた。

 (寂しい・・・)

 こんなにも人がいるのに、私は独りだ。沢山の言語が理解できるのに、誰も私と話そうとしない。掲示板に表示された国名のどれもが、途方もなく外国だ。

 こんなにも沢山の国があるのに、行きたい場所がない。疎外感が強くなる。

 掲示板を見れば見るほど、どこも私を受け入れてくれそうにない。

 私は踵を返して喧騒から逃げた。

(寂しい。)

 人が溢れた中だからこそ、それを強く実感する。

 沢山の国の飛行機が溢れているからこそ、行きたい場所じゃないと強く実感する。

(そして、私はまた逃げる。)

 出入口へと戻った。空港から外に出ると、タクシーの運転手が陽気に片言の日本語で声をかけて来る。

 そういうのじゃない。

 私は人肌恋しいのだ。

 誰かに甘えて縋りたい。

 誰かに、強く抱きしめられたい。












 空港に降り立ち、改めて考える。りのが滑落して骨折したと聞いて、居ても経っても居られずに、予定より早めてフランスに戻ってきたのは良いけれど、りのがそれを喜ばない。わかっているのに、性懲りもなくしてしまう。

 懐かしく、自分がりのに宣言した過去の情景が思い浮かぶ。

【ニコが選ぶ物すべてを認めて。俺はずっと変わらずニコの心配をする。】

 あぁ、あれはりのじゃなく、ニコに言った言葉だったか?

 わからない。

 嫌いだと言われても、何故か、これだけはどうしようもなく、改善できないのは何故だろうか。

 それが性分。りのの心配をする為に生まれて来た気がする。そう断言してしまえば、とても楽だ。

 コンベアに流れて出てくる自分のスーツケースを引き上げ、出口へと向かう。ゲートの出口では沢山の外国人が、待ち人を迎えていた。反射的に、マスコミが待ち構えていないか警戒して周囲を見渡すが、いない。予定を早めて、成田空港で空き座席のあるパリ行きの飛行機に乗り込んだのだから当然だ。

「自分のマンションに帰るしかないよな。」と呟く。

 今すぐにでも、りのに会いに行きたいところだが・・・りのに電話するのを躊躇する。りのは、慎一がまだ日本に滞在していると思っているはずだ。

 慎一がフランスに移住して、グレンと住むりののマンションへは、一度も訪れた事がなかった。もちろん住所は知っている。マンション前までタクシーで送ったこともある。だけど中に入ったこともなかったし、グレンと顔を合わせる事もしなかった。慎一が故意に避けていた。

 賭け事にはまり、仕事もせず、りのの金をせびるような男になってしまったグレンなど、見たくなかったし、りの自身も見られたくなかっただろう。一度も部屋へと誘われなかったし、サッカー観戦にグレンを連れて来ることも、りのはしなかった。

 怪我をしたと聞いて、心配だったから戻るのを早めた。と、今すぐりのに連絡したいところだが、荷物もある事だし自分のマンションに戻ってからにするか、と空港出口へと向かう。

 自動扉が開き、一変する空気。排気ガスの匂いと走行の喧騒。タクシー乗り場へと歩む。ゴロゴロと振動する自分のスーツケースの音が耳障りだ。そういえば日本製の新作のスーツケースは音が静かなんてCMを日本で見た。そろそろ買い替えてもいいかなと考えている最中に、ふと足が止まった。振り返る。建物に迫られた狭い青空に、飛び立ったばかり飛行機が横切っていく。

 何故、振り返ったのか、自分でもよくわからず、首を傾げてまた歩み出した。一歩、二歩、三歩、歩みながら、そんなはずはないと自分に言い聞かせる。

 タクシー乗り場の先頭車の後部座席を開けて、運転手に声をかける。

英「トランク開けて。」

英「了解。」

 ボンと音が鳴ってトランクの扉が浮く。運転手が降りて来て、スーツケースを持ち上げる慎一を手伝ってくれる。

 そんなはずはない感覚が強くなり、手を止めた。スーツケースが手から滑り落ちるのを、運転手が慌てて抑える。

英「おいおい、しっかり持ってくれよ。」

 慎一は運転手の言葉を無視して、また振り返っていた。

英「どうしたんだ。」

 そこに居るとは限らない。だけど、絶対に、そこにいるという変な確信。

(こんな所で?)

 いや、疑問は確かめてからでいい。そこへ行かなければダメだ。そこに、りのが居るはずだから。

英「ごめん、乗らない。これで許してくれ。」

 タクシー運転手にチップを握らせて、スーツケースを奪い取った。そして来た道を戻り、走った。

 そこに居るとは限らない。だけど、絶対に、そこにいるという変な確信へ。

 何も考えず、ただ感覚のままに足が向かうのに任せた。

 空港の出入り口を通り過ぎる。フェンス越しの格納庫の合間に、慎一が乗って来た日本の航空機が見えてくる。

 蒸し暑いパリ。空港周辺の歩道は誰も歩いてなんかいない。一方通行で空港を取り巻く道路は、派手なカラーリングのタクシーに交じり一般車もひっきりなしに走っていて、やや渋滞気味ではあるが、流れてはいる。

 道路がカーブして芝の生えた余地が長細く続いた先に、格納庫の立ち並びが途切れて、滑走路が見渡せるようになってくる。

 そこに、りのが居た。

 フェンスに手をかけて、眺め立つ後ろ姿は、間違いなくりのだ。

 慎一は自分の感覚に納得と満足の息を吐いてから、進む。

 名前を呼ぼうとして躊躇、怒るだろう。どうして、ストーカーか!と。

 それは、自分でもわからない。どうして、りのの居場所がわかる変な感覚が起きるのか?

 そうして、りのとの距離が10メートルほどになって足を止めると、同時にりのも振り返った。

 りのは、泣いてた。

「りの?」

 りのは慎一の姿に僅かに驚きの表情をしたが、駆けて慎一の胸へと抱きついてくる。

「えっ、ちょっ、ちょっ、何!?」

 何があった?と心配するよりも、こうして頼られる喜びの方が勝った。

 むせび泣くりのを抱きしめ、頭をなでた。

「どうした?」

 りのは慎一の胸にうずめながら顔を横に振る。

「うわっ・・鼻水拭くなよ~。」

 ひとしきり泣いた後、りのはやっと顔を上げる。

「どうして、こんな所に?」

「それはこっちが聞きたい事だよ。山で滑落して怪我をしたと聞いて、こっちに戻ってくるのを早めたんだよ。」

「あぁ、そう。」

「足、大丈夫か?痛くて泣いてたんじゃ?」

「ううん、痛くない。知ってるでしょ。痛みに鈍くて、治りが早いの。」と言って泣いてむくんだ顔を足に向け、「もう治った。」と言う。

「ほんとかよ。じゃ、何で泣いてたんだ?」フェンス前に置き去りにされたりののスーツケースを見つける。「どこかに行こうとしてたのか?」

「うん・・でも・・どこにも行く所がない・・・迷子になっちゃった。」

「迷子?」

「うん・・・迷子・・・。」と本当に心寂しそうに、りのは俯く。

 慎一は手を出す。

「じゃぁ、手を繋いで行こう。」

「えっ?」

「歌をうたいながらだと、怖くない。」

「うん。」

 りのも昔の事を思い出したようで、苦笑し、慎一の手を取る。

 手を繋いで、りののスーツケースのあるフェンス前まで歩く。そして、しばらく離発着する飛行機を眺めた。

「ねぇ慎一、慎一の幸せの定義って何?」

「幸せの定義?」

「うん。」

「難しい事を聞くなぁ。」慎一は空へと視線を向けた。「幸せが何かってことを明確にしないと、それは答えられないよな。」

「じゃ、慎一にとっての幸せって何?」

「俺にとって?」

「うん。」

「うーん。何だろうなぁ。小さい事ならいっぱいある。昨日、久々に日本で食べたそばが死ぬほどうまかったとか、はじめて作ったパンプキンパイがめちゃめちゃ上手く出来たとか。」

「何それ。小さすぎる。」

「うん、幸せって小さい事の積み重ねじゃないかな。」

「小さい事の積み重ね・・・」

「特にその小さい事に、毎日、幸せだって感じて過ごしてるわけじゃないけどさ。」

「幸せの定義は自分の中にしかない。他人は測れない。」

「何?誰か、有名な人の言葉?」

 りのはうなづく。

「パパの言葉よ。」

「うーん、確かに、そうかもな。めちゃめちゃ美味しく出来たパンプキンパイは、カボチャ嫌いの藤木には最悪の不幸だったもんな。」

「藤木に作ってあげたの?どうして?」

「いやぁ、ちょっと嫌がらせを・・・。」

 りのはクスクスと笑う。その笑顔を見る事が、慎一にとっての大きな幸せだと確信する。

「りのは?りのの幸せの定義は何?」

「同じことをパパに聞かれたわ。」

 パパ?さっきも出て来た名称に、慎一は首を傾げながらも、りのの言葉を遮らずにいた。

「私も、幸せが何かがわからないから答えられなかった。パパは、幸せの材料が不足している、慎一がそれを埋めてくれると言った。」

「俺が?」

「私が心を開き、聞くべきと。」

 飛び立って行く飛行機に遠く視線を送るりの。

「聞くべき相手は、慎一じゃなく、私自身。やっと、わかったわ。私の幸せの定義は、安心だと。」

「安心?」

「夢よりも、すべてを埋めてくれる安心がここにある。」

 ゆっくりと、りのは慎一へと顔を向けて見つめる。

「どこに居ても、寂しく困ってる時に、駆けつけて居てくれる慎一の存在が安心になり、幸せへと繋がる。」

「また、しつこいとか怒られると思っていたよ。」

「ううん、もう、怒らない。」

「俺も良く分かったよ。誰と付き合おうとも、りのへの意識を消すことはできなかった。常にりのの存在が心の片隅にあった。」

「インプリティングが強いだけじゃない?幼馴染という。」

「そうかもしれない。だけど、それが俺には最も大切な事だったんだ。子供の頃から。」













『それでも新田は、限りなくお前を許す』

 あの人の言った言葉が頭に蘇る。

 許される事が私を安心へと導く。

「りの、」

 まっすぐ私を見つめる慎一。

「俺は、これからもずっとりのを好きで、離れていてもりのの存在を意識し続ける事を大切に思う。迷惑かもしれないけれど。」

 首を振った。

 返事の代わりに、慎一の首に飛びついてキスをした。

 また涙が出て来た。これは幸せの証し。

 虹色の涙。

「愛している。」

 その言葉を、私はずっと待っていたのかもしれない。グレンではなく慎一の口から出される事を。














 さらりとした快適な心地よさを肌に感じながら目を覚ます。

 柔らかな朝日がレースカーテンを透過して部屋を包んでいた。

「おはよう。」やさしく微笑む亮の顔がすぐそばにある。

「やだ・・・もしかして、ずっと見てた?」

「うん。可愛い寝顔を。」

「もう!」

 亮は顔を寄せて麗香にキスをする。

 愛されるキスが、そしてセックスが、こんなにも心地よくて、胸が熱くなるものだと、麗香は昨夜思う存分堪能した。

 亮のキスは首へと下りて、そして胸へ。

「ちよっ、ちょっと亮・・・」

「何?」

「何って、朝から・・・」

「10年待った、昨晩だけじゃ足りないよ。」

「えっ・・・ちょっと・・・学園に遅れるわ・・・」

「何を今更、理事長なんて居なくても、大丈夫さ。」

「あぁ・・・駄目よ。」

 麗香は、愛される愛撫に喜びが魂に染み入るのを、感じた。





 さらりとした快適な心地よさを肌に感じながら目を覚ます。

 柔らかな朝日がレースカーテンを透過して部屋を包んでいた。

 慎一はハッとして焦る。肌掛けを捲って、ホッと胸をなでおろした。

 りのが猫のように丸くなって眠っている。

「ちゃんといる・・・。」

 明かりに反応して眉間に皺が寄ったのを、愛おしく手で塞いだ。そして掛布団をかぶせて慎一はベッドから降りる。

 りのが慎一の愛に答えてくれても、心配は消えてなくならない。

 しかし、今はそれが、慎一にとって苦しい事ではなかった。

 成長への鍛錬で、ゴールはない。

 それでもいい、りのの為に生きる事が自分の幸せなのだから。

「さて、腕によりをかけて朝ご飯を作るか。」





 さらりとした快適な心地よさを肌に感じながら目を覚ます。

 柔らかな朝日がレースカーテンを透過して部屋を包んでいた。

 聞きなれない音がリビングの方から聞こえて来る。

仏「あぁ、そうか。ここは慎一のアパート。」

 時計を見みて、驚く。いつになく長く寝ていた。

「安心って・・・凄いな。」

 安心と睡眠時間の関係を調べたら面白そうだ。そんなことを考えながらベッドから降りる。

 リビングの奥のキッチンから食べ物の匂いがしてくる。慎一は鼻歌をしながら上機嫌に何かを焼いていた。

 ダイニングのテーブルには既に、ホテルのバイキングかと思うほどの食べ物が並んでいる。

「おはよう、りの。」

「はぁ~。」おはようの代わりにため息が出た。

「おいおい、何か纏うとかしろ。」

「何を今更・・・。」

 全裸のままシャワー室へ向かう。

 あの量の食事が毎日出ると思うと、食べる前から吐き気がする。

 逃げ出したくなる気持ちを、どう抑えるか、苦悶に悩む。














 香港の海沿いに聳え立つガラス張りの高層ビル。周囲のビルよりも存在感強く、夜になればライトアップされて七色に変化する。レニー・ライン・カンパニー・アジア大陸総本部のビルだ。

 ロビーフロアに足を踏み入れると、瞬間に汗ばんだ体が冷却されていく。冷房が効き過ぎるのは、レニー・ライン・カンパニーのビル内だけじゃない。香港のどこの施設もが、冷房の設定温度が極寒に低い。香港人は暑がりで、昨今流行りのエコなど気にもしない。

 我は袖からレニーのIDカードを取り出し、ゲートを通る。ゲートのランプが青に変化して側に立っているガードマンが頭を下げて黒色のネックストラップを手渡してくる。ビル内にいる時はIDカードを首に下げておかなければならない。ネックストラップはIDカードの色と同じ色で、すなわち階級によって違い、一目でわかるようになっていて、ビル内の入れる場所も制限されている。と言っても、制限のかかった場所はIDカードをスキャンしないと入れないようになっているのだストラップなど無用なのだが、まだセキュリティ機器のなかった時代の名残である。ビル内の各要所にもガードマンが立っているのも、最新設備が整う前の名残だ。防犯カメラもふんだんにあって、セキュリティは最高レベルを誇るというのに、そうした無駄な雇用の確保を、行政と約束しておくこともトップ企業としての役割であり、ビジネスである事を最近知った。

 世界トップ企業レニー・ライン・カンパニー。世界を牛耳る流通企業は、大陸ごとで社を分け、IDカードの本体の色で一目見てわかるようになっている。ヨーロッパ支部は紫、北アメリカは青、中東は黄、南アメリカは緑、アフリカは茶色、オーストラリアは橙、そしてアジアは赤。ダブルL のロゴ色は、社内での地位及び権限を表す。代表は一つ目のLが虹色で箔押しされ、二つ目のLが金色。ヨーロッパの総本部の総代表は二つ共に虹色の箔押しであり、それを含めて虹色のL文字を有するIDカードは世界に8枚だけということになる。虹色の次に高位であるのは金色、副代表や専務、常務クラスの幹部、それらに付随する秘書で、社内の施設利用、情報アクセス権など、おおよその権限が認められている。続いて、銀色は、執行役員幹部、施設利用の権限は金色の幹部と大差ないが、情報のアクセス権が大幅に制限される。そして次に紺色から7段階に格付けされている。新入社員は緑からスタート。二つ目のL文字は部署を表す。

 流通業のみならず、航空事業、ホテル業、情報サービス業など様々に広く展開する為に、単色だけでは仕分けられず、文字の縁取りや地模様を付けたりと、最近では次第に派手になりつつある。

 情報部は二つのL文字を、世界共通で黒を使い、他部署の黒色の使用は禁止されている。我や一部の情報部の数人は一つめのLに金の縁取りがされている。情報アクセス権だけは金色と同等クラス。という意味である。その為、黒のダブルLのIDカードを首にぶら下げていると、すれ違う社員は、仰々しく頭を下げて来る。面倒と優越感が入り混じながら、エレベーターホールの先にある木製の扉に付いているカードリーダーにIDカードを当てた。機械音声が「認証されました。」と英語で告げ、ガチャリと扉のロックが解除される。扉を押し開け中に入ると、直ぐに背後でガチャリと施錠される扉。2畳ぐらいの狭い空間に一台のエレベーターだけがある。地下の情報部のフロアへと行ける唯一のエレベーターである。誰かが使用したばかりだったのか、エレベーターは一階に止まっていて、ボタンを押すと扉は待ち時間なしで開いた。鏡になっている背面の壁に自分の姿を映しながら入ると、我のIDナンバーと所属に次いで、

英「階下への入室を許可します。階数をどうぞ。」との音声。

英「地下2階。」

英「扉が閉まります。」

 エレベーターボックス自体が、セキュリティボックスになっている。鏡は顔及び骨格の認証をし、階数を発声することで声帯認証を行っているのだ。それほど、情報部というのは重要拠点。レニーの心臓部、いや急所と言った方がいいか。

 地下2階に到着したエレベーターの外は、上階と同じように、また狭い空間を経て、その先がやっと情報部としてのフロアになる。白い壁に半透明のガラスの扉を、またIDカードをかざして開ける。扉を抜けると、まっすぐの廊下の左右に、色分けされた扉が並んでいる。地下二階は能力あるハッカーたちの個室と、幹部クラスの個室のフロアだ。さらに地下3階は機械室。スーパーコンピューターが並んでいるらしいが、我は入ったことがない。

 エレベーターの直ぐ脇に給仕室がある。そこにマーク・マクレーがコーヒーカップを手に居て、我の姿を視認すると大げさに驚いた表情をした。手を上げて軽い挨拶のままやり過ごそうかと思ったが、マークがコーヒーカップを持ったまま出て来て話し始める。

英「珍しいじゃないか、棄皇がここに来るなんて。」

英「暇なんだ。」

英「そりゃ、良いことだ。」と笑うマーク。

英「マークこそ、暇そうにしてるじゃないか?」

英「あぁ、暇だ。だからレニー・アジアは安泰さ。」

 マーク・マクレーは、我と同じ配色のIDカードを持つ情報部のコーディネーター的役割をしている。誰をどの仕事をさせるかなどの策略や、仕事の戦略なども行う。レニーの表裏の隅々までを知り、ビジネス戦略を頭目とも行うので、ある意味、頭目の片腕と言ってもいい。名前はアメリカ人ぽいが、風貌は北欧的で色が異常に白い。もちろん名は偽名で、頭目がヘッドハントしてきた人物である。年齢は我より一回りぐらい上か、まともに尋ねたことが無いので知らない。

英「あぁ、今朝、棄皇の部屋に荷物を運んだぞ。何かの資料か?」

英「荷物?」

英「あぁ、やたら重い荷物が5つも。江 雪女史が困っていたから、手伝ったよ。」

英「届く予定なんてないが・・・私がここに席を設けている事など、公にしていない。」

英「知らないさ。」

英「セキュリティチェックは?」

英「そりゃ、完璧にやったから運び入れられた。」

英「だよな。」

英「まぁ、仕事があるなら、言ってくれよ。」と片手を上げて、マークは自身の部屋へと戻っていく。

 マークの個室の扉の色は赤だ。我は廊下を進み一番端にある黒い扉に手をかける。

 窓一つない真っ暗な部屋、後ろ手に照明のスイッチを探りながら進むと、ガンとつま先と顔に何かがぶつかった。

「痛っ・・。」

 やっと照明スイッチを探し当て点けると、目の前に積み上げられたダンボールが5つ、聳え立っていた。

「チッ、何だってこんな所に置いとくんだっ。もうちょっと考えろ。」

 段ボールの送り状を見る。フランスからの国際空輸便だった。送り主の名前が我自身の名前になっていて、我のIDナンバーが間違いなく記されてあったから、着払いであっても許可されて運びこまれた。

 この段ボールは、我が我宛てにフランスから送った荷物と言う事になるが、送った記憶も何かを送れと指示した覚えもない。

 フランスからの荷物である事に嫌な予感をしながら、一番上の段ボールを開ける。中は薄い本がぎっしりと詰まっていた。

引き出してみる。外国の絵本ばかり。無地の白い封筒も入っていて、開け、紙を引っ張り出して読む。

【あなたのおかげで、宿無しになったわ。これらは私の大事なコレクション及び仕事の資料。汚したり無くしたりしたら、殺すわよ。】

りののサインが記されていた。

「全く・・・」大きく息を吐く。

 レニーのアジア大陸支部総本部を倉庫代わりに使うとは。

「どこまでも、世話のやける・・・。」





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