第24話 常盤色の森から愛を求めて 


――――そこは、書物と森に囲まれた場所だった。


 窓から見える景色は、枝葉が風に揺れる木々がうっそうとしていた。森の中に、その建物が落ちて埋もれたような印象さえある。洋風とも和風ともいえない中途半端な風貌の建物は、市中に建てられる一般的な住宅と比べれば、確かに広く大きく頑丈で、豪華な造りであったが、屋敷と言うほどにはいかない。避暑地の別荘と言えなくない環境ではあるが、にしてはリゾート的な解放感は一片もなく、庭は、日照を取り込むだけに開拓した程度の広さしかない。数年、手入れを怠れば、森が建物を覆い尽くし隠すだろう、それを見越して建てられたと言えるようでもあった。誰がみても、どうしてこんな場所に家を建てたのだろう、と首を傾げたくなるその建物が、内部もまた一般的ではない間取りである事は、そこから出て、初めて理解した。


 2方を天井まで壁一面に備え付けられた書棚、腰窓に背面して置かれたデスクの部屋と、ベッドとクローゼットのある部屋を二対一部屋として配置され、その部屋の廊下をはさんで向かいには、食事をするだけの、テーブルと椅子と小さな冷蔵庫がある部屋と、トイレと風呂と洗面がある。それが2階の間取りである。

 廊下の先に扉があり1階へ通じる階段がある。一階は、父母が寝食する部屋として、キッチンや風呂、洗面、洗濯場などがあったと思われるが、詳細な間取りは、その家を出る直前まで知ることはなかった。

 完全に一階と二階の生活空間は切り離されて、独立して生活が可能な状況に、我は一切の疑問と興味はなかった。

 あったのは、沢山の書物と書物から得られる知識。

 寝食以外の時間を、書物を読んで過ごしていた。テレビやラジオ、パソコンなどのデシタル情報機器というものがある事も、書物を読んで知り得ていたが、見たい、聞きたい、欲しいとは思わなかった。

 書物がすべてを教えてくれる。過去も未来も、この世の成り立ち、そして人間という者の成り立ちも。

 書物以外からの知識の取得方法を、我は必要としなかった。

 そうして目覚めている時間のすべてを、書物から学び過ごすことが、我の生きるすべてであった。

 部屋には書棚に並びきれない書物があふれていた。それらの書物は何十回と通し読み、どこに何が書かれてあるのか覚えてしまうほど。母は三日に一回、図書館から書物を借りてきては返却する日々を繰り返していた。

 

 その日、朝から細かい雨が降っていたことも我は興味なく、朝、覚め、食事をするために部屋を移動した際に、窓の外の現象として理解していただけだった。昼食後、いつものごとくデスクの椅子で書物を読んでいると、窓から差し込んできた光に気づき、確認の為だけに顔を窓へと向けただけだった。雨が上がったことを視認し、書物に視線を落とそうとした時、窓の外に、これまで見たことのない現象を見つけたのだ。

 空という空間に、虹色の筋が出来ている。

 雲の切れ間から覗いた太陽光が、空気中の水滴によって分散され生じる現象、「虹」というものを、我は初めて見たのだった。


 その「虹」に導かれるように、我は部屋を出て階下に降り、玄関から外へと出た。建物外へと出たのは初めての事だった。 いや、もしかしたら覚えていないだけで、その日が初めてではなかったかもしれない。しかし、我自身の記憶の中では、階下の廊下の扉より先に移動した事は、その日が初めてだった。

 外へ出た。殺風景な玄関前には、母が使う車が停車している。詰めれば車が3台置ける程の広さの向こうには一本道が続いていたが、先でカーブしていて木々に囲まれているという印象は変わらない。

 出てきた建物を振り返り、その大きさを初めて知った。そして、「虹」は建物の向こう側にかろうじて見えていた。建物を回り、森を切り開いた狭い庭へと向かう。 しかし、「虹」は切り開いた狭い庭からでは、迫るように生い茂る木々が邪魔して僅かな部分しか見えない。

 書物に描かれていた「虹」は、虹玉を生み、その虹玉には、皆の願いを叶える力があるいうーーーそれがおとぎ話であり、「虹」の先になど、辿りつける事などない、虹玉なる物もありはせず、願いも叶えるはずもないと理解していたはずが、何故か妙に惹かれ、導かれるように足は歩んだ。森の樹々の合間を縫って、まっすぐ進む。当然ながら、「虹」はすぐに消え失せた。それでも、我はまっすぐに歩み進んだ。

 そして、たどり着く。我が住むその建物が、どのような所に建っているのかを把握できる場所に。


 高いフェンスがあった。自分の身の丈の3倍の高さはある緑色の金網フェンスに手をかけ眺める。

 開かれた視界の先には、川流れる渓谷があった。川は轟々と音を立て波打つしぶきをあげる、大地の動きがそこにあった。

 我は思う、これが「世」というものか、と。

「探しました。」

 息を切らした母の声を無視し、我は渓谷の川の流れを見続けた。

「危ないので、帰りましょう。」

 それでも動かない我の手を取り、フェンスから体を離されて、我は問う。

「これは?」

 母は何故か顔を横に逸らし答える。

 「熊避けです。外は熊や猪などの獣が沢山おります。襲ってこないように設置しています。」

 と説明された通り、その金網フェンスはずっと長く、切れ間なく続いているようだった。

「日も暮れて、寒くなってきます。帰りましょう。」

 まだ川の流れを眺めていたかったが、母はしきりに家に帰る事を所望する。仕方なく、我は従う事にした。

 父母の物言いが、一般家庭の物言いとは違う事も、書物から知っていたが、それもまた興味のない事。違和感が不審に変わることもなかった。

 我は、その書物に囲まれた場所、その生活を好んで馴染んで居たのだ。

 ただ、その渓谷の森の中に建てられた我の住まう場所を囲む金網フェンスが、どれほどの規模で周囲を一周しているのか、そして、他にも変化する景色は望めるのかを、その生活を好んでいたからこそ、確かめたかった。

 それから時々、建物の外へ出ては、金網フェンスの周囲を辿り歩いた。その都度、母が追いかけてきては、「危険ですから、帰りましょう。」と帰され、終いには外へも出られないように玄関で立ち阻まれるも、父が「好きにさせてあげなさい。」と理解を示し、自由にフェンスの囲い内を探る事が出来た。

 しかし、フェンスの周囲に、さほど驚くような発見はなかった。金網フェンスの支柱の間が2メートルである事から、その個数を歩いて数え測ると、建物を中心に半径500メートルの一キロ円の囲みになる事、玄関アプローチから続く一本道の先に大きなゲートがあり、金網フェンスと繋がっていて、そこが外へと続く道であろう事、そして「虹」を追いかけ偶然に見つけた渓谷の見えるあの場所だけが、流れる水という己の手に負えぬ力に満ちて、未知なる先へと進んでいるのが望める場所だった事、を知れただけである。


 また、書物を読む日々に戻った。

 時々、季節ごとに彩り変わる渓谷を眺めに散歩に出たが、相変わらず母は後を追ってくるも、「帰りましょう」とは言わなくなった。ただ、黙って後ろをついて来る。そんな母の行動が、一般家庭の母親とはかけ離れている事も、書物から知っていたが、不満に思う事もなかった。静かで必要以上の話をしない母は、何よりも、書物を図書館から運んできてくれる重要な存在であった。

 自身の年齢は、年に一度、赤飯が出される事によって知る。

 学校という場所に通う事が普通であり、そこで何をするのかも、書物から知っていたが、行きたいとは思わなかった。その学校という場で得る学問は、父が用意して持ってくる教科書を読めば理解できた。時折、問題集やテストのようなこともする。正誤確認は母もしくは父がした。満足そうにうなづきあう父母の表情で、この生活が続けられる、確認のようなものだと判断していた。

 外の世界の状況に、我は一切、羨ましいとか、憧れなどなく、書物を読み続ける毎日は大いに満足で、その日々が続くことを望んでいた。しかし、次第にその書物を読むことが難しくなってくる。

 視界がぼやけ、文字が見え辛くなってきたのだ。気づけば、書物を顔に近づけて読んでいる。

 ある日、父母は我を門外へと連れ出した。車に乗って山道を降りて行く。アスファルトが舗装された道に出ると車の振動は無くなり、格段に乗り心地が良くなった。車に乗った事も記憶では初めてだった。

 木樹々の密度が次第に薄れ、視界が広がってくると、建物が立ち並び始めた。その合間を車は走り、車の数もみるみる増えていく。ぼやけた視界でそれを認識し、書物で知った脳内にある外の世界の創造したものと、現実の世界との正誤確認をすることができる。さほどの間違いがない事に満足しながら、そこに着いた。

 個人経営する眼科だった。その日は診療日ではない日曜日だったからか、診療所内には医師ただ一人が居た。

 その医師は、我の顔を見て険しく眉間を顰め、診察を施していく。

「このままでは、いずれ右目も視力を失います。」

 その時初めて、我は右目の狭い視界だけで生きてきていたのだと知った。

「どうにかならないのか。」

「右目に眼鏡や視力回復手術を施し、視力の補強をしたとしても、白濁して視力のない左目の分を右目が補ってしまう限り、右目の視力は落ち続けていく。」

 思い返せば、書物に囲まれた2階の部屋に、鏡というものがなかった。それもまた興味のない事で、この日、その診療所で鏡に映る我自身の姿を初めて見たのだった。

 白濁した目・・・それは死んだ魚の様だった。

 死んだ魚を実際に見たことがないが、そんな文言を書物から得て知っていた。

 すべては、書物から知り得ていれば十分である事、はじめて見る事も、知識として得ていれば何も問題はない。驚く事もなく、慌てることなく、怯えることもなく、事実として受け入れられる、と実感した。

 ただ、いずれ右目の視力も失い、書物が読めなくなるのは最大の困惑である、それは何としても改善してほしいと願った。「方法はないのか?」

「あるが、無いに等しい方法しかない。」

「どんな方法だ。」

「眼球移植。左目の視力を僅かでも開眼できれば、右目は左目を補うために酷使することなく、その後の視力低下は防げる。 しかし、眼球移植など机上の空論の世界で、日本では10年前に実験的に一度行われたのみ、世界でも十件未満でしか行われていない。難易度の高い手術の割に、合併症の症状を伴い、思った成果が得られない。しかも、眼球を提供する臓器提供者がほぼいない。」

 父は苦悶の表情で我を見つめる。

「実現不可能な眼球移植などに期待せず、まだ視力ある右目を大事に、酷使しない生活を心がけ、視力低下を少しでも遅らせ、そうだなぁ・・・十年もったら良い方かな。当然、本を読むことは禁止だ。普通に生活しているだけでも、右目は左目を補おうとする。」

 その日、眼鏡を新調し、また、森の中の書物に囲まれた部屋に戻った。

 眼鏡の機能のすばらしさを実感する。書物の文字がはっきりと明確に読める。なんと素晴らしいものを提供してくれたことかと、そこだけは評価したが、書物を読む事を禁止する診断をした事は許されない。

 右目を酷使しない生活どころか、眼鏡を得たことによって、増々我は書物を読むことに没頭した。母は図書館通いを止め、新たな書物を借りて来ない事で、我の書物への没頭を阻止しようとしていたが、新たな書物がなくても、部屋には無数の書物があり、眼鏡で得られた明瞭な視界で読み返す事は、また新たな気持ちで知識を得られ、満足だった。

「もう、おやめください。右目をそれ以上使うのは。」

「失明してしまう。」

 父母がそう言って、我が書物を読むことを止めさせようとする。

「書物を読まぬ生活が、どのような事かわからぬ。」

 そこに書物があるから、手に取る。沢山の書物に囲まれた部屋で、書物を手に取らずにどう生活せよというのか。

 それは、書物からすべてを知り得る生活しか知らない我の、唯一知り得られない事だった。

「せめて、本を読むのは日中の一日一時間となさいませ、その他の時間は目を休ませて。」

「そうだ、渓谷の見える場所、あそこに椅子を置いたらどうだ。遠くを眺めるのは目に良い、あそこから景色を眺めるのを好きであったろう。」

 好きと言える範囲にあったわけではない。あそこが唯一変化する景色だっただけの事。そして、また「虹」というものを見たいと思っただけだった。その後、「虹」を見ることはなかったが、さりとて、さほど残念に思う事もなかった。

 重要なのは、

「渓谷よりも、書物を読める事を、何より望む。」

 書物が永久に読めるのなら、難度の眼球移植を望む気持ちを込めて、我は言った。

 苦悶の表情を、より一層濃くした父が唇をかんだ。

 我はまた書物あふれる部屋に閉じこもる。

 望んでも眼球移植が実現することなど期待はしていなかった。眼球に限らず、他の臓器においても、他人の臓器を移植する外科手術自体が、立案から成功までの全プロセスにおいて、高難度の手術であると知っていたからだ。このままでは、いずれ右目は失明し、書物は一切読めなくなる。それならば、読める今のうちにできる限りの書物を読み漁り、得られる知識を得ようと思った。

 そのような会話をしたのちから、父母は書物を読むことを止めさせる言葉はかけて来なくなった。

 父がここで寝起きして仕事へと向かうのは、だいたい二日に一度、時に3日に一度であった。そんな父が一ヵ月間帰ってこなくなり、そして久々に帰宅するや否や、デスクの椅子で読む我の前にして立ち、問うた。

「成功率が低くても、眼球移植をする気持ちは、おありか?」

「勿論。」

 即答後に、父は眼球移植をする算段をつけている事、うまく事が運べば、半年後に手術を行える事、そして、その眼球の臓器提供者が父自身である事を告げた。

「あなたっ。」母も初めてその話を聞いた様子で驚いた。

「このような慎ましい生活を、何よりも望むと所望される。ならば、私は喜んでこの目を提供しよう。」

 そう言って笑う父を初めて見た。

 それから、何度か山を下り、大きな病院へ行った。精密検査を行うのは、決まって日曜日で限られた少数の医療スタッフで行うのは、その眼球移植手術が、珍しい生体臓器移植である事に加え、実施例が日本で二例目の珍しい事ゆえに、公にはしたくないからなのだ。と暗黙に理解をしていた。が、それが大いに間違っていた事を知るのは、その臓器移植を終えた後の事。

 日本で二例目となる珍しい眼球移植手術は成功した。文章で書き綴ると、いとも簡単な表現で終わるが、その準備から始まるスタッフの確保、そして手術の実行及び、術後処置など、さまざまな難題があった。その難題はすべて、弥神道元の地位特権によって実現可能となったのである。手術前の検査病院通いの中で、父が、神皇家づきの世話役の職につき、神皇より賜る華族の称号地位を持っている事を知る。

 神皇家、その名は教科書に分類される書物から知り得ていた。

 この日本という国には、神に近しい存在としてあがめられる皇が君臨している。神皇家は一嗣継皇として、卑弥呼の時代から1700年続く世界でも類のない最長の皇家である事。

 そんな神に近しい存在の世話人として職する者の特権が、あらゆる方面に脅威をふり、その高難度の眼球移植手術は可能となり、成功した。が、術後すぐに、我はひどい拒絶反応により意識を無くす。免疫不全を起こし、あらゆる感染症を起こした。それはまるで、生まれてから今日までにかかるはずだった病気のすべてを溜めて一気に発症させたように。そう、それまで我は、一切の病気という物にかかったことがなかったのだ。

 朦朧とした意識の中で、その事実はじっくりと我に浸透して、理解した。

 すべてを。


「眼球をくれた弥神道元は、父ではない」

「その昔、道元は我を捨てきれず」

「道元の慈悲により生かされた」

「人でありて、人であらずの存在の」

「生まれながらに天に還す印のある」

「神の子の一族、神皇家の双子の継嗣の一人」

「我は還命新皇である」

 

 だからゆえ、人の眼球を移植したことにより、人の血が混じり、我は人並みに感染症を起こし苦しんだ。

 神の子の一族である神皇なる者は、[人でありて人であらずの存在]の通り、その身体は、誕生した時から神命尽きるまで神威に包まれる。

 神威とは、継続してこの国の安寧を祈り導く存在として望んだ人の想いが、神力により実現した奇跡の事である。 

 難しい解釈は必要ない。

 1700年長きに続く神皇家には、必ず男児が生まれ、世には必ず神皇なる者が存在する万世一継嗣である。神皇がこの世から失われないよう、神皇家は過不足なく神の意志で守られる。その清逸なる神の血が流れている我ら神の子一族は、俗世の穢れには弱く、死なぬ程度に弱体する。

 道元の眼球を移植した事により人の血が混じり、身体を穢した我の身体は、約10か月に及んで拒絶反応と感染症を繰り返し、そして馴染んだ。

 不純の者となれば、神の子新皇として認められないであろう。

 しかし、我は、穢れた人の血を得て、生きた。

 生きている事実が、神威に認められた事として

 左目の開眼と共に、我は、我の存在を理解する。 

 

 その力に気づいたのは、拒絶反応と感染症の症状が落ち着き、開眼した3日目の事だった。

 我の担当している看護師の女が、無意味におしゃべりで五月蠅い。

 毎朝の検温時から大声で話しかけてくる。

「具合はどうかなぁ。」

「今日はよく晴れてるよ。早く外に行きたいでしょう。もう少しの我慢だからね。」

 話しかける事が看護の一つとでも思っているのか、毎日同じ文言を繰り返し、馴れ馴れしく我を子供扱いする。

「退院すれば思う存分、外で遊べるからね。皇生君は何の遊びが好きかなぁ。今は皆ゲームかな。」

「黙れ。」

 目の様子を確認するために近づけた看護師の女を睨みつけた。

 左目の奥が熱く渦巻いたように感じた。

「はい。」

 それまでの、五月蠅い看護師の受け答え方とはあまりにも違った返事だったのは、我の物言いに驚いたのだと思ったが、しかし、その看護師は表情を無くし頭を下げた姿勢のまま、次の命令を待っているかのように、何もしようとしない。

 明かに不自然な様子へと一変した看護師の女に、我は試しに命じてみる。

「なんでもいい、売店で本を買って持ってこい。」

 また左目の奥が熱くなり渦巻く感覚がする。

「はい。」

 看護師の女は一つ返事で部屋を出ていく。

 本を読むことはまだ許されてなかった。医師の許しがない事を看護師が言うなりに行動するはずがない。

 しかし、この命令で看護師の女が本当に本を買って来たとしたら・・・

 さほどの時間を待たずして、看護師の女は病室に戻って来て、一冊の本を我へと両手で差し出した。

「はっ・・・あはははははは。」

 笑いが止まらなかった。

 思えば、笑った記憶が生まれてからない。

 はじめての笑い。

「素晴らしいっ。」

 胸が高鳴るとは、

 うれしいとは、

 面白いとは

 こういう事。

 なんとも

 楽しいではないか。


 看護師の女だけでなく、医師などにも試しに力を使った。

 思考錯誤、使い過ぎで眼や頭に痛みが生じ、熱を出し寝込む事もあった。

 何故、道元がくれた左目が、このような力をもたらすのか、それは道元に力を使って語らせても、解明はしなかった。

 退院後、華族の事を詳しく書かれた祖歴という書物を読む事で、我は解釈するに至る。

 道元たち華族の祖は、かつて神巫族と呼ばれた五感のうちの一つに秀でた力を持つ一族の末裔である。神巫族の者達は、目、耳、鼻、手、口に、視る力、聴く力、嗅ぐ力、触る力、言う力、に秘力を宿す。文明の進歩により、一族に宿す秘力は衰えるばかりで、当の華族の者達ですら、その秘力は昔話的に信じない者、知らずの者が多数となりし現代。弥神道元は、目に宿る「視知」の力を持つ者であった。「視知」の力とは、人の内なる心を読み取る力、古では悩める人の苦悩を読み取り、改善の助言をして人を導いていた。

 神皇たる者、送受の力を持ちて、この国に安寧をもたらす。

 人の祈りを聞き入れる「受」の力と、聞き入れた祈りを叶え送る「送」の力。

 しかし、双子の継嗣は、その「送受」の力を分け持ち生まれる。我は「送」の力しか持ち得なかった。

「受」の力がなければ、「送」の力の使い方を知らず。

 奇しくも、「視知」の力を持つ道元の眼球を移植して、その「視知」の力が、「受」の力の代わりと成した、と解釈する。



 約1年の入院を経て、我は退院した。 森と書物に囲まれた家に帰るも、もうそこで書物を読むだけの日々には興味が持てなくなっていた。

 外の世界、人の行動、音や物の流行、情報の蔓延、 あらゆる事に興味がある。

 まるでウィルスに侵されていくように、人の血が混じった事によって我の体は、「欲」に侵されたようであった。


 力を使い、母に市内を案内させ、外の世界のありとあらゆる事を体験する。

 今まで母と呼んでいた者が、実は他人であり、世話役だと知っていても、母子の立場のまま呼称するのが便宜であるから、我がすべてを知っている事を隠し、母子の関係を継続した。

 弥神道元もしかり。外の世界を堪能する生活を一年過ごし、我は父母に要望した。

「学校へ行く。」

 父母は驚愕に顔色を変えたが、すぐに母は、我の世話から解放される事を内心で喜び、父は苦悩に表情を険しくした。それでも父は、我が中学へ通えるよう手を尽くし、京都の南、大阪や奈良に近い城南市にある桐栄学園へ入学の許可を取り付けてきた。その桐栄学園が、京宮御所の真下、直線距離にして約20㌔の位置にあるのは何の因果か。

 それまで過ごした森と書物に囲まれた家からは通えぬ場所である為、学園近くのマンションに住まいを移す事になった。

 道元は心中、我が公の生活する事に、秘密が露呈しまわないかと恐れていたが、逆に我が一般人としての教養や自覚を持ち馴染む事で、継嗣への意識がなくなる事に期待もしていた。

 だが、そんな道元の期待とは真逆に、我の「欲」は大きくなる一方だった。

 

 何度も、京宮御所へと向かった。当然、中には入れない。隣接する御所前公園から、御所の塀を眺めるだけである。そうすることで、我の中の「欲」が明確になっていった。

 神皇継嗣としての自覚と「欲」が。










 学校という場が、同じ年齢の子を教室に集め、一斉に教育を施す場である事は、書物より知り得ていて、はじめての経験になろうとも、何の問題もないと思っていたが、実際にその場に身を置くと、その五月蠅さが、耐えがたく苦痛だった。

 他の者達が必要以上に大声で話す内容は、実にくだらない事ばかり、無駄に動き、無駄に騒ぐ。

 何が面白いのか?

 何が楽しいのか?

 何が悲しいのか?

 何に憤っているのか?

 理解できない。

 人との密度が苦痛で、度々休み、早退することもあった。

 苦痛を我慢してまで学校になど通う必要もなかったが、

 欲しい座を手に入れるには、我には必要と思われる物があった。

 《しもべ》

 双燕が生まれながらにして持つ者を、我は持っていない。

 我に従う《しもべ》を得る為には、学校という場が手っ取り早く、より取り見取りである。

 しかしながら、得るには思うほどに簡単ではなかった。

 左目の力で従わせれば簡単に得られるはずが、うまくいかない。この力が開眼してから、具体的な命令しか従わせていなかったからである。「《しもべ》になれ。」と命令しても、相手も我も、具体的に《しもべ》がどういう定義であるかを理解できていなかったのだ。

 梅雨が明け、やっと学校という場の集団生活における手順などに慣れた頃、ある生徒が我に声をかけてくる。

「待って、弥神君。僕も今日、体育休みなんだ。」

 追い駆けてきて並んだのは、白豚のような容姿の生徒。息を切らせながら無駄に太った体を我に寄せてくる。

「図書室に行くんでしょう。僕も。」と、細い目を更に細めて汗を手で拭う。「実は僕、今日さぼりなんだ。水泳苦手でさ。水泳だけじゃなく運動全部なんだけどね。いいなぁ弥神君は、体育を免除されてるんだってね。目を手術したって?痛そう。目の手術って手術中メスとか見えてるわけ?えー、僕注射とか嫌いだから見えると怖いな。」

 女のような声色でべらべらとよくしゃべる。鬱陶しく、左目の力を使って排除しようと思ったが、その生徒が同じクラスである事を踏まえ、《しもべ》として使えるかもしれないと考え、勝手にしゃべらせておいた。

 図書室では、はじめのうち、「何を読んでいるの?」とか「難しい本読んでいるんだね。」「僕には無理だ」など一人でまくしたてていたが、そのうち机に伏して昼寝をしだした。本当に豚のような奴だと呆れた。

 チャイムの音で白豚は起きた。

「やっと昼休みだ。僕、購買に行ってくる。先に教室に帰って待ってて。」と白豚は飛び出していく。

 何故待たなくちゃいけないのか?理解不能である。

 毎朝、母が弁当を作り用意していたが、我は気が向いた時しか食べなかった。元より食に興味がない。食べなくても餓死することのない神威に包まれた体なのだ。書物に囲まれた家では、昼食は食べないことが多い生活をしていた。手術後、何故か急に人並みに食への興味が出て、一通りの食の「欲」を満喫すると、食への「欲」は落ち着き、またさほどに食べずの生活に戻っていた。

 白豚が何を待てといったのか確かめる為、言われた通りに教室へ向かった。教室には体育授業の水泳を終えた生徒たちが戻って来ていた。

 スポーツ刈りで日焼け顔の同級が「気持ちよかった。今日は水泳日和だったぜ。」と声を張り上げる。

「あぁ、こんな日に見学とはかわいそうだな。」と頬に黒子のある同級が、我へと顔を向け言い放つ。

「今日も図書室に引きこもりか?」と聞いてきたのは般若のような形の口をしている同級。

「光にあてられないって、まるで吸血鬼みたいだな。」とまた黒子のある同級。

「太陽浴びたら、その目、溶けるとか!?」耳が正面を向いてサルのような顔の同級。

 4人がゲラゲラと笑う。この4人は常に一緒にいて、クラスの中でひと際五月蠅い。無礼な物言いに対してどのようにして罰を与えようかと思案している所に、白豚が教室に戻って来る。

「弥神君、お待たせ。」

「デブヤ、お前も今日の体育休んで、どこ行ってたよ?」

「お前が居なかったから、超つまんなかったじゃないか。」

「そうそう、デブヤの泳ぎ方すんごい面白くて、楽しみにしてんのによぉ。」

 他の生徒も笑う。

「ぼ僕、今日、か風邪気味だから見学、だったんだよ。」

「あぁ?風邪気味の奴が、こんなに食うか?」と白豚の手に抱えていた菓子パンの一つを取り上げる。

「あ、か、返してよ。」

「風邪ひいて体調悪いんだろ。体育休むぐらいに、こんなに食べられないよな。だから俺が食ってやるよ。」

 日焼け顔の者が、取り上げた菓子パンの封を開けて口に頬張った。

「あぁ、駄目ぇ。」

 取り返そうと向って行く白豚。しかし身軽にかわされ机につんのめる。黒子の奴は、すかさずもう一つのパンを取り上げてサル顔に投げ渡した。

「あぁ、僕のパン!」

 涙目になりながら飛び交うパンを追いかける白豚。

 教室を騒ぎ動く3人の様子を、腹を抱えて笑う般若口の者、そしてそれを遠巻きに見ているだけの多数の同級。

 これが苛めと言う現象かと我は観察する。

 白豚をからかっている4人の中のリーダー的存在は般若口のようだ。般若口は我の視線に気づき、不快を露骨に顔に表して威嚇してくる。

「なんだよ。センコーにチクったらシバクかんな。」

「下らないな。」

「あぁ?」

 白豚が買った菓子パンは騒ぎ遊んだ3人が食してしまい、般若口は我を訝しんで睨み教室外へと出て行った。

 白豚は、弁当を食べ終えても尚、泣き言を続ける。

「せっかく、焼きそばパンが買えたのに。ひどいよ。あいつら。」

 白豚の腹がぐぅと下品な音を鳴らす。

「焼きそばパンって人気だからすぐ売り切れちゃうんだよ。今日は購買に近い図書室から買いに行けたから、買えたんだよ。それなのに・・・うう。」

 またぐぅとから音を鳴らす白豚。

「お腹すいたなぁ」

 我の倍はある弁当の量を食して尚、腹が減るとはどういう生体構造をしているのか?

「弥神君、食べるの遅いね。いつもそんなに小さな弁当なの?足りる?」と言いながらも腹の音を抑えようともしない。

 我は自身の弁当を白豚に与えた。

「いいの!?弥神君、お腹空かない?大丈夫なの?」と言いながら目を輝かせて、白豚は躊躇なく母が作った弁当を引き寄せ食べ始める。

「おいしいっ、すっごくおいしいよ。」

 それからというもの、白豚は我に付いて行動するようになった。母の弁当を与えれば、左目の力を使わずとも喜んで我の小間使いをするようになった。


 いつものように、日焼け顔と黒子顔とサル顔の三人組が白豚を相手に騒いでいた。白豚の上靴の片方を箒で弾き、アイスホッケーだと言って教室中を駆け回っていた。放課後の掃除の時間である。我は帰宅準備を整え、騒がしい教室を出ようとした。すると般若口が教室の扉に足をかけ我の進路をふさいだ。

「細屋にやらせて、何帰ろうとしてんだ?お前が掃除当番だろうが。」

 白豚は細屋という名で、それで般若口らの4人組からはデブヤと呼ばれて野次られていた。しかし、4人組のリーダー的存在の般若口は、この時ばかりは野次った名を使わず、我を睨み憤る。

「やらせているのではない。やりたいと言うのに合意した。」

 毎日与える弁当のお礼に、何かしたいと懇願するので、掃除当番を代わりにするという合意になった。左目の力を使ったわけではない。

「いいように手懐けたもんだな。」

「・・・。」

 いつも4人一緒に居ながら、こうした悪ふざけの時は参加しない般若口。作為的な奴だと評価していたが、最近、白豚に嗾けては、我に詰問してくる事が多くなってきていた。

「あいつを見捨てて帰るのかよ。」

「あいつらを止めずに傍観かよ。」

「あぁ!?」

 口調を真似て反論すると、般若口は憤り睨んでくる。更に何かを言おうとしていたが、我は無視をして教室を出た。その三日後、その般若口に正門で待ち伏せされ、木瀬川の河川敷に連れられる事になった。今日はどういう事情か、他3人は居ない。その般若口が中澤と言う名である事を最近知り覚えた。

「こっちだ、弥神。」

 大阪へと続く産業道路が跨ぐ川の大橋の下へと連れられた所に、三人の見知らぬ生徒が屯していた。我らと同じ制服を着用していたが、背格好が大きい事から上級生であると判断する。そしてその判断が間違いじゃない事に、中澤は3人に向って、頭を下げた。

「連れてきました。お願いします。」

 しゃがんで屯っていた3人の上級生は、横柄な動作で立ち上がり、我を取り囲む。三人はタバコを吸っていた。

「全く、こんなガキ、手前で、〆りゃいいのによ。」

「すみません。」と中澤は数歩下がりながらニヤニヤと笑う。

「なぁ、状況わかるだろ。俺ら暴力で脅すほど野蛮じゃないんだ。」

「そうそう、俺ら優しい先輩だからさ。上納してくれるだけでいいんだよ。」

「どこまでも人は「欲」に溺れる。」

 呆れてそう呟いたら、「あぁ?」と威嚇を向けてくる。

「弥神、先輩らに逆らわず、素直に金を出した方が身のためだぜ。あの学校に楽しく通いたかったらな。」

と背後でクスクスと笑う中澤。

「くだらない。」

「なんだとっ。」と上級生の内の一番背の低い奴が、タバコを地面にたたきつけ我の胸倉を掴んだ。

「やめとけ。」 真ん中に立つ長袖のシャツを腕まくりしている奴が、背の低い奴を制止して、我に対峙する。腕まくりの奴は、タバコをひと吸いしてから、我の顔に煙を吹きかけた。

「なるほど、中澤がいけ好かねぇと言うわな。この状況で全く怯える様子をみせねぇ。」

 目と口を閉じてその汚い煙を吸い込まないようにしたから咳込むことはなかったが、気分が悪くなるほどに怒りは沸騰する。

「前髪大事なんだってな。誰か、切るもん持ってか。」

 背後の中澤が自身の鞄からはさみを取り出し、もう一人の長身の上級生がカッターナイフを取り出した。

「その髪型は校則違反だよな。先輩として、ちゃんと指導してやらないといけないよな。」

「アハハ、そりゃいいや。」とカチカチとカッターナイフの刃を出す長身の奴。

「押さえろ。」

 中澤が腕まくりの奴にカッターナイフを手渡し、背の低い奴と一緒になって我の体を掴もうとするのを振り払った。

「無礼なっ。」

「なんだお前っ、くそ生意気な!」背の低い奴が我を押し倒し、馬乗りになって我の前髪を掴んだ。

 露わになった左目でそいつを見据え、我の存在を心魂に強く染め上げる。

 背の低い奴はすぐに我に屈従し、ざらつくコンクリートに跪き、額を地面につける。

 突然変貌した動きに驚きの声を上げる他の面々。

「お、お前、なにしてんだ。」

「た、田中先輩っ。」

「お、おい、止めろよ。」

 長身の奴は背の低い奴の顔を上げさせようと肩を揺さぶるが、体勢を崩しても跪き直す田中。

「お前・・・な、何した。」と腕まくりの上級

「まだ何もしていない。」

「何?」

「無礼にも、我の胸倉を掴み、押し倒し、髪を掴んだ報いは、これからだ。」

 言い終わると同時に、跪く田中と呼ばれるやつの頭を踏みつけた。

「なっ!」

「弥神!」

「田中!なんで、抵抗しないよ。」

 体重をかけると、田中は顔面を地面に押し付けられ「ぐふッ」と無様な息を吐く。

「お前、」我は腕まくりの上級にまっすぐ指さし「汚い息を吹きかけた屈辱、許さぬ。」

「や、弥神やめ・・・」躊躇しながらも我の行動を止めに入る中澤へと睨み、制止させる。

「ヤロウ!」

 長身の上級が怒気の声をあげ、持っていたカッターナイフを振り上げ、我に切りつけてくる。中澤に顔を向けていた為、左目の力が間に合わなかった。咄嗟に腕で庇った為に腕の側面を切られてしまう。血が腕を伝い砂雑じりのコンクリートの上に落ちた。

 一同が止まる。

「せ、先輩・・ま、まずいですよぉ。」

「あぁ、とても拙いな。この我を傷つけた。」

「ぉ、お前が、た田中を、踏みつけるから。」と言い訳をする長身の男。

「この怒り、どうしてくれよう。治まらぬ。」

 こんな状況でも、深く地面に頭をつけたままの田中の髪を掴み、顔を上げさせた。

「お前に、制裁の任を与えよう。我を切りつけた愚か者を痛めつけろ。」

 左目の奥が渦巻き熱くなる。

「はい。」一礼をしてから立ち上がった田中は、長身の奴へと振り返りとびかかっていく。長身の男は後ずさりして、よろけ、手にしていたカッターナイフを落とす。それを拾う田中は長身の奴へとカッターナイフを闇雲に切りつける。

「やめろっ田中!」

「やめてくださいっ田中先輩っ。」

「ひぃぃ、やめろぉ。」

 我と同じにカッターナイフの攻撃を腕でよけ、長身の男は両腕に無数の切り傷が出来ていく。

 中澤と腕まくりの奴が田中を羽交い絞めで押さえ、カッターナイフは再び地面に落ちた。

 驚愕に動けなくなった長身の奴に、我は歩み見据える。

「頭が高い、跪け。」

「ひっ・・はぁっ」妙な悲鳴を上げた長身の奴は、すぐさま地面にひれ伏し、その頭を我は踏みつけた。ゴンと額と鼻がコンクリートに打ち付けられる鈍い音がした。

「次はお前だ。」腕まくりの奴へと振り向くと、息をのんで後退りする。

「ひぃっっ、あ、赤い、目・・・。」

 怒りで、左目は煮えたぎったように熱い。

「ライターを出せ。」

「はい。」

 左目の力で屈従させた腕まくりの奴は、素直に制服のズボンからライターを取り出し、我に捧げる。我はそのライターを中澤に渡した。

「えっ?」

「こいつの髪を燃やせ。」

「えっ・・・やややややれない。そんな事っ。」

「大丈夫だ。こいつももう、我に屈服している。」

 中澤は首を横に振り、我らから逃げる素振りを見せた。

「中澤、我に逆らわず、素直に言う事を聞いた方が身のためだぜ。あの学校に楽しく通いたかったらな。」

 従前の中澤のセリフを模範して言うと、中澤は動きを止め、恐る恐る我に振り返る。

「センコーにチクったりもしないさ。こいつらには仲間割れの喧嘩をしたと思い込ませておく。」

 我は親しみをこめて微笑をすると、中澤はぶるっと震えて硬直したが、次の瞬間には震える手でライターに火をつけた。

 左目の力で中澤を屈服させたわけではなかったが、目の赤さがまだあるうちは、微かに影響してしまうようだ。

 中澤は泣きながら、「すみません。すみません。」と何度も言いながら、足元にひれ伏す腕まくりの奴の頭にライターをつける。しかし、髪はさほどに燃えず、火はすぐに消えてしまった。

「田中、お前もライター持っているだろ。出せ。」

「はい。」

 従順に立ち上がりポケットからライターを出す田中。

「中身のオイルをこいつの頭に振りかけろ。」

「な!」

「はい。」

 田中は落ちていたカッターナイフを拾って金属とプラスチックの接合部分をこじ開け、腕まくりの奴の頭に振りかけた。

「や、弥神!」中澤は慄いてライターの火を消してしまう。

「中澤、ライターの火をつけろ。それがお前の報いだ。我をここに連れてきた。」

 中澤は涙しながらライターを拾い、震える手でカチカチと点火したライターの火を腕まくりの奴の頭に持っていく。

 瞬時に燃え上がり、腕まくりの奴は呻き声をあげてのけぞる。

 火はすぐに鎮火してしまったが、髪は頭に残っていない。

「神(髪)は大事にしなければならぬ。アハハハ。」


 次の日から中澤は学校に来なくなった。

 中途半端に左目の力が及んだ事で、恐怖だけが強く記憶に残ってしまったのかもしれない。

 中澤以外の三人の上級には、互いに喧嘩したと思わせて、我の事は忘れるように施した。中澤が第一号の《しもべ》となるようにしたのに、うまくいかない。

「ちっ・・・まぁいい。時間はたっぷりある。人などいくらでも居る。」






 従順なる《しもべ》は中々思うように作れなかった。中澤とつるんでいた3人の奴らはもちろん、他のクラスの者、そして教師にも試したが、具体的な命令にだけしか動けず、指示待ちのような状態になる。都度に命令しなくても、我の意向をくみ取り動くような賢い《しもべ》が欲しいのに、それには程遠いでくの坊ばかりが出来上がる。そして長期に渡り力に浸たれば、精神が壊れはじめ、終いには学校に来なくなる。

「なぜだ・・・せっかくこの力を手に入れたというのに。」

 そうした至難を繰り返し、2年が過ぎた。



「うわぁ、今日もとっても素敵なお弁当だね。そして美味しい。またこうして弥神君のお弁当食べられて、僕は嬉しいよ。」

と細屋は、満面の笑みで我のお弁当を食す。

 2年では同じクラスにならなかった為、こうして弁当を与えてやる事もなく接する事も少なかった。3年に進級し再び同じクラスになると、細屋は我に臆することなく慕ってきた。

(力も使っていないのに、何故こいつは我の言う事を聞く?)

 その疑問は一年の時からずっとあった。弁当という報酬の「欲」で動くのだと思考した我は、他の者で同じように試していたが、しかし、それもまたうまくいかなかった。

 金の「欲」を与えて従順させようと、金をやると言えば警戒され、我から逃げるようになり、しつこく迫ると教師に通報され面倒な事に発展する。

「ねぇ、弥神君、どうして皆あんな変な事言うのかな。もう中学生なのにね。おかしいよね。祟りだなんて。」

 細屋は水筒のお茶を喉を鳴らし飲み、増々太って一回り大きくなった顔を向けてくる。

「僕は、信じてないからね。だって、こんなにおいしいお弁当を作れるお母さんから生まれた弥神君が、悪神なわけないよ。」

「その弁当を作った母からは、生まれてない。」

「えっ!そ、そうなの!?ご、ごめんっ僕、知らなくて・・・」慌てて困った表情をする白豚。

「嘘だよ。」

「えっ?」

「冗談。」

「もう!びっくりするじゃん。」

 細屋は心底ほっとした顔をし、また我の与えたお弁当を堪能する。

「信じる者が馬鹿を見るか、信じない者が報いを受けるか。」

「ん?何か言った?」

 いや?相変わらず美味しそうに食べる。」

「おいしそうじゃなく、美味しんだよ。弥神君も食べなよ。」

「・・・いい。」

(それ、我の物だけどな。)

「こんなにおいしいのに、もったいない。」

「・・・。」

 この2年間、《しもべ》を作ろうと試行錯誤した結果、桐栄学園の生徒3人と一人の教師が精神を壊し、自死した。

 自死の直前に我と揉めた、もしくは、我と接触していた所を見られていたりした為、

【我と関わると、死ぬ】

と囁かれ、名前をもじって【悪神の祟り】とも言われ始めていた。

 教師による聞き取り調査が行われ詰問されるも、左目の力を使えば何とでもなったが、大多数に広がった噂を消して回ることは難儀で、言わせておくしかなかった。そうすると、我に近づく者が細屋しかいなくなり、《しもべ》作りは難航する。

若干の焦りに苛立ち始めていた時、ある生徒の悪行を目にした。

 その日は期末テストを終え、あと2週間で夏休みに入る前の短縮授業となった初日の事だった。

 我は久しぶりに京宮御所前公園を訪れ、鋭気を得ようと考え、帰宅経路を変更した。地下鉄に乗り換える為に電車を降りると、別の車両から同じ制服を着た生徒が降りて前を歩いていく。携帯を見ながら歩くその生徒が、同じクラスになったことはないが同級生である事は知っていた。―――その生徒が妙に気になった。

 何故気になるのかわからないまま、我は後をつけた。もう京都御所公園に行く事など頭にはなかった。

 その生徒は、駅ビルの上階にある書店へ入って行く。何か目的の品があるのか、わき目もなしに足早に漫画などが並ぶ場所へと向かい足を止めると、積まれた商品の一つを手に取る。それは、フィギア入りの初回限定本の漫画だった。それを一心に見つめる生徒は、急に周囲を見渡した。我は慌てて商品棚の陰に隠れる。商品棚の陰から生徒の行動を見ていると、初回本の漫画を手にして、別の棚へと移動した。何か他の商品を探しているのか、あちらこちらに顔を向けるので、我は見つからないようにするのに苦心し、店の外でその同級が出てくるのを待つ事にした。

 しばらくして、その生徒が出てくる。店を出た所で、駆け出す生徒を追いかけようとした所、書店からエプロンを付けた男性店員が飛び出してくる。

「待てっ」

 店員の叫びに後ろを振り返った生徒は怯えた表情をしてから、逃げるように駆け出した。しかし、すぐに店員に捕まる。

「君、ちょっと、来てくれるかな。」店員の口調は優しいが、生徒の腕を捕まえる腕は、逃げられないようにしっかり力が入っている。

「な、なんですか・・・。僕、急いでるんですけど。」

「じゃ、時間を取らせないように素直に応じてらおうかな。」

生徒はあきらめたように項垂れ、店員に引っ張られるまま書店へと戻っていく。

我は心躍った。

「見つけた。」

 新たなる《しもべ》となる対象を。

 我は書店で5分ほど時間をつぶしてから従業員室へと向かった。万引きをした生徒が、十分に絶望を味わう頃を見計らって。

「その制服が桐栄学園だってわかっているんだ。黙っていたら、学校に通報するよ。」

「・・・・。」

 四方の壁にロッカーが並ぶ窓のない狭い部屋の中央に、テーブルと4つの椅子が置かれてある。そこに万引きをした生徒と店員は向かい合って座り、生徒は腰を丸めて俯いている。

「な、なんだっ君はっ」

 入室した我に驚いて声を上げる店員。胸の名札に店長と書かれてあった。

 万引きした同級生も顔をあげ、我を視認すると驚愕に声を上げた。

「や、弥神・・・」

「友達か?」

「えぇ、そうです。」

「ち、ちが・・う。」

「店長さん、友達が万引きしたと疑っておいでのようですが、勘違いですよ。」

「えっ?何言ってるんだ。この子はこれを万引きしたんだ。」テーブルの上に置かれた箱入りの限定商品を掴み我に見せる。「私はね防犯カメラで見ていたし、レシートを出せと言ってもない。」

「そうですか?でも、見間違いってありますよね。」と我は左目を覆う髪をかき上げ、店長に迫り見据えた。「見間違いだ。」

「あっ・・・あぁ。そうだな。」それまで険しい表情をしていた店長は表情をなくし、我の言うなりになる。

「防犯カメラで見た万引き犯は、別の人物。レシートは渡しそびれた。この生徒は、ちゃんと金を払った。」

「あぁ・・そうだ。レシートは渡しそびれた。」

「じゃぁこの商品は持って帰っても大丈夫だ。」と我は店長からその商品を取り上げ、生徒へと突きつけた。

「えっ・・え?」

「ええ、どうぞ。ありがとうございました。」

「さぁ、行こうか。」

 面喰っている万引き生徒を立たせて、従業員室を出る。店長は、「疑ってすまなかった。」と店先で深々と我らに頭を下げた。そのまま駅のコンコースへと歩んだ。万引きした生徒は戸惑いながらも我の後をついて来る。

 縦横無尽に人が行きかう中、万引きした生徒は我を呼び止めた。

「や、弥神・・・さっきのは、一体・・・どうして?」と胸に抱きしめていた限定商品を改めて見る。

「欲しい物だったのだろう。」

「う、うん。でも・・・。」

「気にする事はない。」我はその生徒へと踏み込み囁いた。「それは報酬だ。」

「報酬?」

「お前は選ばれた。」

「選ばれた?」

「そう、我に選ばれた。選ばれし者だ。」

「選ばれし者・・・。」

「崇めよ、我は神の子だ。」

「僕は・・・神の子に選ばれた、選ばれし者。」

 万引きをした生徒、堀部は、我の言葉に陶酔し、目を輝かせ、胸を躍らせた。


 堀部は喜々として語る。

 いつか、こういう日が来ること待っていた。自分は特別なのだと。この世界における不変の自分は本来の自分ではなく、選ばれし者としての特別が、本来の自分なのだ、と。

 堀部は、ゲームの世界の夢想に身を浸せてやれば、いくらでも言う事を聞いた。面白いように。だが・・・堀部の夢想は思いがけない方向へと逸れていった。

 ある日、立ち入り禁止となっている校舎屋上に、我は呼び出される。屋上の出入口の扉はいつも施錠されているはずが、職員室から盗んできたのだろう、堀部は鍵を持っていて開けた。

「どうした?こんな所へ。」

「弥神様に、誰も居ない屋上の景色を楽しんで貰おうと考えました。」

 他の者が居ない時は、我の事を様つけて呼ぶ堀部は、恭しく頭を下げ屋上への扉を通した。

「そうか。確かに、上から眺めるのは良い。」

 4階建て校舎の屋上、うろこ雲が夕日に染まりかけていた。ひんやりとした風も吹いていて、心地がよい。

 景観条例に基づき、建物によって遮られる事のない京都の空。遠く東の山が紅葉で色づき始めている。

「お気に召しましたか?」

「あぁ、気に入った。堀部、褒めてつかわそう。」

「鍵をお納めください。さすればいつでも、この景色を望めます。」

 堀部は両手で鍵を我に差し出した。しかし、静電気が鍵に帯電していたのか、バチッとはじくような痛みと共に鍵は足元に落ちた。

 束の間、驚愕で落ちた鍵を見つめてから、堀部はしゃがむ。

「く、くくくく何が褒めて遣わすだ。」肩を振るわせて突然笑い出す堀部。「いい気になりやがってっ」と立ち上がりざま、制服の内から出した何かを我へと薙ぎ払った。

「これ以上、悪神の良いようにさせるかっ」

 堀部は、二週間ほど前に報酬として与えた、自身が好むゲームに登場する聖剣のレプリカを手にして、凄む。

「俺は選ばれし者。悪神を倒す勇者。」と聖剣を構えなおす。

 我を険しく睨むその目はふざけていない。真剣に妄想の世界に浸っている。

「残念だ・・・お前もまた狂ってしまったのか・・。」

「狂っているのはお前だっ。学生を装い、人を破滅に導く悪神。」

「人を破滅に導く・・・その言い様は間違っていないが、天を仰ぎ神の力を望んだのは、お前たち臣民だ。」

「黙れ、俺はもう騙されない。これまで騙されてやっていたんだっ。」

 と聖剣を大きく振りかぶって切りつけてくる。レプリカ、その刃はおもちゃだ。本当に切れることはないが、精巧につくられている為に重みがあり、その勢いで振り下ろされれば、木刀で殴られるぐらいの衝撃がある。腕で受け痛みが走った。振りかぶった勢いを抑えきれずに剣を落とす堀部。

「夢想に浸りすぎてしまっても駄目なのか・・・。」

「俺がこの世界を守る。俺が選ばれし皇だ!」

 痛みの腕を確認する間もなく、堀部が突進してくる。屋上の縁に我の身体を押し、首を絞めてくる堀部。自分こそは世界を救う勇者と信じ切っている堀部の力は、躊躇なく強い。そのまま我を下へ落そうと、堀部は全体重をかけて押してくる。堀部が我の首を押し絞める手は強く、ほどけない。

 我は空を仰ぎ見る。空は美しい茜と藍の漸次色を彩っていた。

(誰よりも、この国を愛おしく祈り守ってきたのは、我ら、神の子一族神皇家だというのに・・・)

 遠のく意識の中でそんなことを思考した。

 白鷺が一匹、甲高い泣き声を発し上空を横切って飛び去って行く。

 落とした聖剣を踏みつけた拍子に、堀部は首を絞めていた力が緩んだ。

 我は足で堀部を押し蹴り、縁から離れた。咳込む息を吐く。

「・・・許さぬ。」

「許さないのは俺だ。お前は三人もの生徒と島センまで自殺させた。その悪魔の目で。」

「この目を恐れるのなら、我の言う通りに過ごせばいいものを。無駄に抵抗するから狂うのだ。」

「誰が悪神の言う通りになるかっ。」

「神に手をかけた罪を贖え。」

 我は左目の力を最大に堀部へと浸透させた。

「ひやっぁぁぁ。」

 堀部は聖剣を拾い、奇声をあげて縦横無尽に振り回す。

「悪神っ俺が成敗してやる!」

 堀部は何もないあらぬ方向の空を見上げて、聖剣で大きな円を描きヒーローアニメのような構えをした。そして、力強く駆け出し、コンクリートの縁をよじ登り、勢いよく飛び出した。まるでそこに、敵の悪魔が存在するかのように、聖剣を大きく振り下ろしながら。

 ドスッと鈍い音が階下から聞こえた。下を覗くと、堀部はコンクリートの地面にうつ伏せになって倒れており、血が飛び散っている。堀部の頭部数メートル先には、聖剣のレプリカが落ちていた。

「破滅に導くのは人の「欲」である。それに気づかぬ愚か者が、自身を破滅と導く。」



 夏休み前より堀部と行動を共にしていたことが多かった為、我は警察と捜査に協力した学校からも、堀部と一緒に屋上に居たのではないかと聴取されるが、母に力で思い込ませて、その日はすでに帰宅していたと証言させ、尋問は簡単に終わらせた。

 学園内では、増々我に対する恐れが蔓延し、クラスの者は恐々として我を遠巻きにし、流石の細屋も躊躇し始めたが、弁当の誘惑には負けるようで、我が弁当を見せると、犬のようにしっぽを振ってついてきた。

 細屋の為に、人の目のない場所で弁当を食する。プール脇の壁際の段差を椅子にして座り、相変わらず幸福感万歳にして弁当を食べる細屋。

 細屋自身が持ってくる弁当は、2年前より一回り大きなサイズになっている。

「ねぇ、弥神君、堀部君の転落事故の時、本当に一緒に居なかったの?」

「細屋も疑うのか。」

「う、うーん・・だって、弥神君7月7日から急に堀部君と仲良くなって、一緒に帰ったりしてたでしょ。」

「日にちを覚えているのか?」

「うん、覚えてるよ。だって僕、弥神君に七夕まつりに一緒に行こうって誘おうと思ってたのに、弥神君、急に堀部君と一緒に帰っちゃって、違うクラスなのに、どこで仲良くなったのかなぁって思ってたんだ。」

細屋は我の弁当を瞬時に食べてしまい、丁寧に包み直してから我に還すと、胸の内を語りだす。

「こんな事言うと笑われるかもしれないけど、僕・・・寂しかったよ。弥神君を取られた気がして。」と目を伏せる細屋。

 堀部と一緒に行動し始めると、細屋は我らから離れるようになっていた。苛められる事を警戒しての態度だと我は解釈していた。

「細屋を邪険にした覚えはないが。」

「弥神君はね・・・堀部君だよ。」細屋は俯いたまま口を尖らす。「堀部君が、弥神様に選ばれたのは俺だって。何の役にも立たないデブは近寄るなって。だから僕、遠慮してたんだ。」

「そうか、奴は細屋にそんな事を言って・・・酷いな。」

「そんな風に、7月からずっと側にいたのに、あの時は堀部君と一緒じゃなかったんだね。」

 嫉妬の心が押さえきれないようで、細屋は顰めた表情を崩さない。

 何も答えるつもりはなかったが、細屋のそんな嫉妬心に苦悶する姿を見ていると、妙な気持ちが起こってきた。言葉では表しにくいが、おそらくペットを愛でる様なものだと解釈し、思考する。

 左目の力もなしに、我を慕い、嫉妬に苦悶する者。何の役に立たなくとも、その心がある事が大事なのではないか?犬が飼い主を慕うように、《しもべ》にも主人を従順する気持ちが必要。

「細屋のその嫉妬が嬉しいよ。」

細屋は顔をあげ細い目で我を見る。

「周りの下らない噂を信じず、供に居てくれた。信頼を込めて、細屋にだけ真実を教えよう。」

「な、何?」

「堀部が死んだ時、我もあの屋上に居た。」

「や、やっぱり?」

「堀部はあの通り、ゲームの世界にどっぷり嵌っていて、自分が勇者だと幻想を抱き、殺そうとして来たんだ。」

「え、えっ?弥神君を?」

「人を破滅に導くアクガミだと言われ。」

「も、もしかして・・・それでもみ合いになって、落ちたとか?」

 左目の力の事は言えない。

「まぁ、そんなところだな。」

「それ・・警察に言った?」

「言って信じられずに、あれこれ聞かれるよりは、居なかったとした方が簡単だ。」

 細屋は首を横に振り「そんなぁ・・・。」とつぶやいたが、その先の言葉は出てこなかった。

「信じる者が馬鹿を見るか、信じない者が報いを受けるか。」

 突然、強い風が落ち葉を舞い上げ、我らは目を瞑り風の勢いが止むのを待った。


《しもべ》を作る上での必要な事を教えてくれた細屋に対して、些細な報酬を与えたつもりだった。欲しい情報を与えてやっただけの事が、これもまた大きな騒動へと展開していった。


 一週間後、学年行事として3年生全員が体育館に集合させられていた。薬物乱用防止指導として、地元の警察署から警察官が来校して行うものだった。それまで、面倒な授業や学年行事は教師に力を使い納得させて、図書館に過ごす事をしていたが、力を乱用しすぎて生徒も教師も我に対して警戒し始めていたゆえに、仕方なくこの学年行事は参加することにした。

 クラスの名簿順でパイプ椅子に座る。我は最後尾、すでに警察官3名が壇上にて校長と共に生徒が着席するのを待っている。学年主任が司会を務めるようで、マイクで生徒へ静粛を求め、校長の挨拶へと進めたその時、

 体育館の設置されたスピーカーがガガガギと音響の不具合を奏で、そして音声が流れる。

《信頼を込めて、細屋にだけ真実を教えよう。》

《な、何?》

《堀部が死んだ時、我もあの屋上に居た。》

《や、やっぱり?》

《堀部はあの通り、ゲームの世界にどっぷり嵌っていて、自分が勇者だと幻想を抱き、殺そうとして来たんだ。》

《え、えっ?弥神君を?》

《人を破滅に導くアクガミだと言われ。》

《も、もしかして・・・それでもみ合いになって、落ちたとか?》

《まぁ、そんなところだな。 》

《それ・・警察に言った?》

《言って信じられずに、あれこれ聞かれるよりは、居なかったとした方が簡単だ。》

《そんなぁ・・・。》

《信じる者が馬鹿を見るか、信じない者が報いを受けるか。》

 ざわつく体育館、そして全員の視線が我に向く。

 繰り返される音声は、一週間前に交わされた細屋との会話だ。

「細屋・・・よくも我を、裏切るなど。」

  周囲の生徒たちが、我から逃げるように距離をあけ、6列前にいる細屋まで割れるように空間が空いた。

「ぼ、僕は、弥神君が・・改心してくれるように・・・」

 怒りに任せにパイプ椅子を蹴りつけながら、我はまっすぐ細屋に歩み進んだ。

〔気を付けろ!弥神は人を操る催眠術のような力を使う。〕その声は中澤の声だった。

 音響室からマイクを通じて叫ばれると、増々我の周囲から生徒たちが距離をあけた。

「中澤・・・。」

 音響室は正面舞台に向かって左にある。小さな窓があるが、ここからでは中澤の姿は見えない。舞台上の校長や学年主任と警察官が駆け下りてくる。尚も続く中澤の叫び。

〔死んだ渡辺、伊藤、植松、島本先生だって弥神の仕業なんだ。あいつが渡辺達に催眠術をかけて死ぬように仕向けた。それだけじゃない、不登校になっている平山や大西、林だって全部弥神のせいで、心病んだんだ。〕

「や、弥神、ちょっと来てくれるか。」と言いながらも学年主任や校長、他の教師は及び腰で、我に近づくことが出来ない。

 そんな教師の腑抜けな態度に、警察官達が首を傾げながら、代わりに我を捕まえようと近づいて来る。

「弥神君、ちょっと話を聞かせてもらおうかな。」

「今日の薬物乱用防止指導は中止にしましょう。」

「触るなっ。」

無礼にも我の肩に手を置く警察官の手を、振り払うと同時に左目の力を使った。

「黙ってそこに突っ立ってろ。」

「はい。」警察官は、我に敬礼をして棒立ちになる。そんな異常な光景に周囲から息をのんだ悲鳴が上がる。

「細屋っ許さぬ、」

「ち、違うよ!中澤君の疑いを晴らそうと、だ、だから僕、録音して、しょ、証明しようと。ぼ、僕、弥神君の事ずっと・・・」

「五月蠅い、白豚がっ。」

 細屋は腰を抜かして後退りするのを、我は馬乗りになって頭を押さえつけた。床に後頭部を打ち付けた細屋は、涙目になって尚も言い訳を続ける。

「弥神君は良い人だって・・・。」

「何の役にも立たない白豚はっ」

「アクガミなんかじゃないって信んじて・・いた・・・」

「死ね。」

「やめるんだ君っ。」

 警察官が我を細屋から引き離すと、細屋はブツブツとつぶやきながら立つ。

「何の役にも立たない僕は・・・死ぬべきだ・・・死ぬんだ。死んでお詫びを・・・。」

 細屋が走って体育館から出ていく。

「中澤ぁっ、お前も許さぬっ」

 音響室へとまっすぐ指さし向かおうとしたら、まだ我の腕を掴んでいた警察官が引き戻す。

「やめなさい君。どうしたっ、その目はっ赤い・・」

「手を離せ。」

「はい。」

〔みんな、逃げろ。奴はその赤い目で洗脳するんだ。〕

 中澤の叫びで生徒たちが一斉に体育館から出ようと出入口に向った。しかし、出入り口の外でドサッと嫌な振動を伴った音がして、外に出ようとした生徒たちの流れが止まる。

「ひっ!」

「ほ、細屋・・・。」

 細屋が校舎の非常階段の上階から飛び降りた。生徒たちの足の隙間から、倒れている大きな肉の塊が見えた。

「や、弥神が・・・」

「やっぱり悪神・・・」

「た祟りだっ。」

 その恐怖は一瞬で全員を染め上げて、狂気に満ちる。

 悲鳴、叫び、倒れている細屋を誰も助けずに我先にと外へと逃げていく。体育館に残ったのは警察官と教師数名だけ、それも沸き起こる恐怖と戦いながら、我を捕まえようとしている。

「邪魔するな。」

 見渡しながら、力を放った。そういう使い方で、効き目があるのかわからなかったが、我を止めようとするものは一人もいない。

 スピーカーからゴンッビビっガシャンという耳障りな音が聞こえ、音響室から中澤が飛び出してきた。どこから調達してきたのか、手に鉄の棒を持っていた。自身の身長ぐらいある鉄の棒をこちらに向けて、横に薙ぎ払いながら、我から逃げようとステップ踏む。

「残念だ中澤。お前のことは一目置いてやったものを。」

「来るなっ」

「なぁ、状況わかるだろ。我は暴力で脅すほど野蛮じゃないんだ。」

「やめろっ」

「中澤、我に逆らわず、素直に従った方が身のためだぜ。これからも平穏に過ごしたかったらな。」

 我は構わず間合いを詰めた。

「ふざけんなっ、これのどこが平穏なんだよっ。」

「平穏など、いくらでも作れるさ。我が存在する限り。」

「なんだょ・・」急に勢いを無くした口調になるが、それでも我を近づけさせないように、必死に鉄の棒を横に振り続ける。

「どこまでも人は「欲」に溺れ、自ら成すべき平穏の世までも、神に頼るほどに怠惰する。」

「来るな、来るな、来るなぁ!」

「怠惰も極め、堕落してしまえば良いものを、無駄な抵抗などするから、人は愚かなのだ。」

「うわああああ。」

 中澤は闇雲に鉄の棒を振り払い、我はそれを掴もうとして鈍い衝撃音と共にはじかれた。

 右手に激痛が走る。右手の中指と薬指があらぬ方へと向き、曲がらなくなっていた。

「骨が折れる事だ・・・愚かなる人を調教するのはなぁっ。」

 我は床を蹴って、中澤に飛びかかった。中澤は悲鳴をあげ鉄の棒を投げ捨て逃げようとしたが、間に合わず我と共に転がり這う。

「や、やめっ、助けてぇ、殺されるぅ。」

「簡単に死ねると思うな、神に楯突いた代償は、死よりも辛い苦痛を与えてやる、後悔するがいいっ。」

中澤の前髪を掴み、顔を上げさせると、中澤は抵抗して目を瞑る。

「無駄だ。この赤目だけで効かせているのではない。我の真の力は「送」による神力だ。」

 自然とその神歌が口からついて出てくる。

♪「人の祈心は神の存元、神の受心は人の存元」♪

 それは古より浸透した神巫族の、神力の発揚を期して唄う祈り、祝詞。

「我の言辞に心髄を開き、神威を受け入れよ。」

 中澤の瞼がゆっくりと開く。

「あぁ・・うううぅ。」無意味な唸りと涙をこぼす中澤。

「自分の愚かさを悔やみ、この世の」

「やめるんだ。」

 誰かが職員室へと助けを求めたのだろう。外から大勢の教師や事務職員などが体育館に駆け入って来た。

「ストップ、ミスターヤガミ、はなれなさいっ」と日本語の音階とは違う外国人英語教師ニック・ジャクソンも駆けつけてくる。日本人にはない強い椀力で、我の体を羽交い絞めして中澤から離された。

「やめろっ、外国人と言えども無礼は許さぬ、離せ。」と左目の力を使ったが、ニック・ジャクソン教師は手を緩めなかった。

「な、何故だ・・・。」

「どうした、ケガしたのか?目が血でいっぱいだ。」

「離せニック・ジャクソン。」

「ダメだよ。ケンカはだめ。」

 何度も力を使ってみるが、ニック・ジャクソン教師には効かない。左目の奥に痛みが生じ熱を帯びてくる。使いすぎて力尽きたのかと考えるも、遅れて駆け付けた教頭に「出ていけ」と命令すると「はい」と返事をして素直に従う。

「何故だ・・・何故お前だけ効かぬ。」

「ミスターヤガミ、落ち着いて、しないと、ぼくは君を力任せに床に押し付けないといいけなくなるよ。」

 日本に憧れ来日してきたニック・ジャクソンは柔道家でもあり、この学園の柔道部の指導もしている。

「くっ・・・。」

 我が混乱している内に中澤は外へ逃げ、救急車のサイレンが校庭に響いて止まった。








 騒動から身を隠すように、山奥の森に囲まれた家に戻って来ていた。

 10日が経ち、いつものように二階の自室で書物を読んで過ごしていたが、何故だが、少しも内容が入ってこない。

我は書物を読むのを諦め、考える。

 ―――何故、ニック・ジャクソンは、我の力が効かなかった?

 その疑問を解決するために、昨日、母に命令し外出をし、京都駅を利用している多数の外国人に試して答えを導き出す。ニック・ジャクソンだけが我の左目の力が及ばず効かないのではなく、その他大勢の外国人も効かなかった。外国人には効かない理由は、この力の神髄である。

 古より日本では、言葉には発した言葉通りの結果をもたらす力があると、言霊として大事にされてきている。

 我のこの力は、人の心を読み知る卑弥呼由来の「知視」の力により、人の心髄を開き、言霊に乗せた神力で行動を支配するものである。それが出来るのは、その身に神の存在が浸透している日本人のみ。日本人は固執した宗教は持たなくとも、生まれた時から、しきたり、習わしなどの風習より八百万の神々を祭る生活をしてきている。

 信仰は待たないと言っている者でも、正月には初もうでに神社へ行き、手を合わせ、頭を下げている。お守りも持ったことがないという者は皆無だ。それぐらい日本人は自覚せずとも、その心身に神の存在が浸透している。

 八百万の神の存在を心身に浸透する日本人特有の根底が、外国人たちにはない。他国の言語を持つ者が日本語を覚え理解し話せた所で、その心身の根底を理解できないのだ。

 ―――ではなぜ、我は人の心を読み知る卑弥呼由来の「知視」の力により、人の心髄を開き、言霊に乗せた神力で行動を支配できるのに、思うように《しもべ》は作れないのか?

 この身が人の血と雑じり、神の子として純粋ではないからか?

 左目の力を得た事と皮肉にも矛盾する。そもそも、卑弥呼が天より神を降ろした時点で、神皇なるものは、神としては純粋ではない。

 人の血が混ざり卑弥呼の力を得た我は、神皇家の誰よりも人に近しい存在であり、人の心髄を誰よりも知る。その理論でいけば、《しもべ》は簡単に作れるはずなのだ。

 ―――この身が神皇なるものとして、半人前だからか?

 神皇なる者、「送」「受」の力をありて神皇と成す。

 我が「送」の力しか持たず、「還命」として死んだと認識されているからか?いやしかし、民はそもそに「還命」という存在もしきたりも知らず。「送」「受」の力を持つ事すら知らぬ。神皇は国の皇として、大昔から現存し国の安寧を国儀によって願う、神に近しい存在程度にしか認識していない愚弄の民だ。

 だからこそ、神の存在を我の中に認識すると、畏れ混乱し《しもべ》になり切れないのかもしれない。


 朝から風が吹き荒れていた。窓から見える樹々が大きく揺れている。

 部屋がノックされ、「よろしいか。」と道元の声がする。

 「どうぞ。」と父子の関係を維持したまま答える。入ってきた道元は疲れ切った表情で、立ったまま起きた騒動の顛末を語る。

 まず、校舎から飛び降りた細屋は、全身打撲であったが命に別条はなく、一ヵ月ほどで退院できるが、精神的ショックが大きく、学校には行きたくないと言っていると聞く。

 中澤は、精神病院に入院し、未だ狂乱していると聞く。

 学校は、薬物乱用防止指導の際、指導教材の中に刺激的な内容があったため、一人の生徒が気分を悪くし保健室へと向かう際、眩暈を起こしふらついて、体が非常階段の手すりを超えて落ちてしまった。そして、その事故を目撃してしまった生徒達が集団ヒステリーになってしまったと、保護者や関係者達に説明していた。中澤に関しては、元々既に不登校で登校したりしなかったりを繰り返していた為、刺激的な楽物乱用防止指導の内容と集団ヒステリーを体験したことにより、症状が悪化したという事になっていた。学校側は警察の教材に何らかの不備があったと主張し、警察に責任を一方的に押し付けた形に持って行けたのは、弥神道元の華族会西の宗代表の権力を暴慢に使ったためである。

 騒動は、現場に警察官が三人も居て騒動を抑えられなかった事は事実としてあり、マスコミにも報道しないよう華族会が強く圧力をかける事を約束した為、内々に警察の落ち度として収拾した形となった。

「今後どうされる・・・あの学校にはもう・・・。」

 我は窓の外へと、吹き荒れる外の景色をまた眺めた。道元が我の返答をあきらめ、部屋から出ていこうとする。その背に、我は口を開いた。

「高校は東へ・・・常翔学園へ行こうか。」

「えっ?」

「東の宗を取り仕切っていた前代表が経営する常翔学園、寮もあるとは、あつらえむきではないか。」

「しかし・・・」

「何かとある因縁も・・・。」

 その先の言葉は言葉にはせず、我は最大にほほ笑んだ。

(一矢報いてやれるかもしれぬ。これまでの恩義の報酬にやろう。)

「わかりました。すぐに準備いたそう。」と頭を下げて部屋を出ていく道元。


 我はまた思考する。

 この身が純粋でなかろうと、神皇なるものとして半人前であろうと、道元や母、そして双燕の周囲にて世話をする者達は、我ら神皇家に従順なる姿勢を難なく続けている。

《しもべ》になれぬ者達と、何が違うのか?

 相違点は、その血筋しかない。

 卑弥呼を生んだ一族――神巫族の血脈する華族。

 華族の称号を持つ柴崎家が経営する常翔学園は、主に東日本に住まう華族の子が集う私立経営の学校である。

 我と同じ年生まれの華族の者は全部で12人。そのうちの7名が小学部より通っている事を、我は力の命令により道元が持ち出しした華族会の資料より知っていた。

 この者達を取り込めば・・・

「苦心などしなくても、十分な人材がいるではないか・・・誂えたように。」

我は声を出して笑った。

 






 常翔学園の寮へと向かう朝、道元は我の部屋で不安の表情をして立っていた。

 我が東の宗の本拠地とも言える学園で過ごす事に、恐怖に近い心配をする道元。

 我の身を案じてもいるが、最大の案じ事は、

―――我の正体が東の宗に露見しないかーーーである。

「心配など無用。その時にはすべてが事決まっているだろう。」

 そう言葉をかけたが、道元は意味を理解できなかった様子で、険しい表情のまま我の後を付いて階段を降りる。

「柴崎家には重々頼んである。体に気をつけられよ。」

 京宮の仕事が空けられず、父の立場のまま玄関で見送られた。

 常翔学園の寮へ行く前に、訪れたい場所があったため、新横浜駅まで供した母を「ここまでで良い」と京都へ帰るよう力で命じた。京都方面への改札へと向かう母に

「母、これからは心身共に自由の日々を送られよ。」

と声をかけると、母は驚愕に次いで目に涙をあふれさせた。

「勿体ないお言葉・・・恐縮して、いただきます。」

深々と頭を下げた後、母は改札の奥へと進んでいった。母は我が異なる存在である事を心身でわかっていた。わかっていて、母を演じ我の世話をしてくれていた。日々の困惑、心労はいかほどであったか。安堵の涙がその報われた心労を物語っていた。


 一人になった我は、降りた改札へと戻り東京行きの新幹線に乗り、ある場所へと向かった。


 ここが、大都会の中心である事を忘れるような自然が広がる東宮御所外苑。

 新緑の息吹あふれた樹々が、人々の欲に侵された空気を浄化し、俗世から隔絶させていた。

 まっすぐ神皇が住まう御所の方角を向いて、芝の広場に立つ。

 およそ一キロの距離に、本当の父が居る。

 そう考えても、何の感慨も起きなかった。

「だが、とても楽しみだ。」

 死産だと知らされていた継嗣の片割れが、生きていたと知る時、この国の皇は、いかような顔をし、いかような対応をするか。

【神皇なるもの、送と受の力を用いて、神皇と成す。】

 送と受の力が分離された祈りでは、この国の安寧はもたらせず。

 だから、二人の神皇は許されない。

 ゆえに、どちらかが命を捨て、力を譲り渡さないといけない。

「さて、神意はどちらに光与えるか?」

 空は曇立ち込め、青空はどこにも見えなかった。

「実に楽しみだ。」


























 その者と対峙した瞬間、表し難い感情が身体の奥から沸き起こった。苛立、不安、焦り、不審、が混ざりあい臓腑をかき乱されるような感覚に、不覚にも戸惑い、左目の力が暴走しそうになる。

 7名の華族の子の履歴を道元に用意させ、ここに来る前に顔写真と共に熟知していた。その7名の中にその者【藤木 亮】はいない。

 華族でもないのに、「知視」の力を強く持ち、ゆえに我の力と共鳴した様子で、激しい頭痛を伴っていた。

「何故、あいつが「知視」の力を持つ?」

の疑問の答えが判明しないまま、入学式を迎える。

 入学式の為に上京してきた父母には、普通の親子として振舞うよう、左目の力をも使って徹底させていた。が、常翔学園の会長柴崎文香もまた、藤木亮と同じ「知視」の力を持っていた。柴崎文香に関しては過去、前東の宗会長と道元ともにひと悶着あったようだが、華族である事は間違いないので疑問はない。しかしながら、「知視」の力で我らの真意を探ろうとした為、阻止すべく、我も左目の力を使うしかなかった。

「心配はご無用。面白い学園生活になりそうです。」

 髪をかき上げて周囲へと左目の力を巡らせる。

(余計な詮索はするな)

「お母様!」

「会長!」

 柴崎文香は持っていたバッグを地面に落とし、近くにいた藤木亮と同じように両手で頭を抑え、青ざめた。力が効かないわけではない。「知視」どうしは相性が悪いと結論付けるしかほかならず、要注意だと肝に銘じる。

 そして、こうした群集の中で華族の者が集まると、よくわかった。華族の者は、纏う気が他の者達と違うのだ。

 五感に宿す力でもって、人々を導いていた神巫族の末裔。卑弥呼の絶大なる力により天より降ろされた我ら神皇。

 我らと華族の密なる関係は、1700年続いてきている。神皇を崇める心髄を、彼らは心身に、いや、魂に染みついているのだ。

 やはり、こちらに来て正解だった。

 父母は一端応接室へと案内され、華族会の面々は散っていく。

 我も一度クラス教室へと足を踏み入れたが、入学式には参加しなかった。桐栄学園よりも大幅に多い集団は、まだ慣れない。「体調が良くない、保健室にいく」と担任を納得させる。力は使わなかった。力の乱用はやめておく。桐栄学園の二の舞にはならぬ様に。我は保健室には行かず、常翔学園の図書館へと向かった。

 学園が誇る図書館は、市営図書館以上の広さと蔵書数があり、近隣住人にも開放している。

 建物も大正時代に建てられた西洋デザインの講堂を改装移築したもので、二階へ上がる大階段も中々に趣がある。ゆったりと座われるソファ椅子やテーブル席も十分の数がある。

 内外ともに重厚感に包まれた静かな空間が気に入った。

「流石は、華族経営の学校だな。」

 この図書館を利用できるだけでも、東に来た甲斐がある。

 小一時間ほど図書館で過ごしてから教室に戻り、すぐに帰り時刻となる。急ぐこともない寮に帰るだけであるから、校内を散策しながら生徒の観察をしようと校庭からぐるり一周することにした。中等部と高等部が併設された施設は広く豪奢だ。昔は全国から華族の子が上京し学んだ学び舎と思えば納得だが、平民が使うにはいささか贅沢過ぎる感があるほどだ。

 そう評価をしながら図書館前の校舎脇まで歩んだ時、前を同じく校舎脇の前方を歩く女生徒に目が行き、視線を外せなくなった。

(何か・・・)

 とても轢かれるものがある。

(何に?)

 背の低さは特視するが、他と異質な事は何もない。

 その女生徒は上靴のまま雑木の中へと入って行った。我はつられるように後を追った。

 桜の木の下で仰ぎ見る女生徒、桜の花を撮りたいようで、スマホを持つ手をあげた。そして、数歩下がった所で我の足を踏む。

「あっ、あっ・・・」

 振り返る女生徒。

 互いに驚く。

 そして意識の奥から沸騰するような感覚。

 驚く感情を吹き飛ばすような春風が舞った。

 何の前兆もなく、風に煽られ露わなった左目に血が集結する。

「ひっ!」

 女生徒の感情が波のように押し寄せてくる。

 恐怖を越して、

 心臓が、

 ぎゅーと捕まえられる。

 そして、引っ張られる。

 押しては返す波の感情の合間に、

 古の条理を見る。

 我は理解する。

 この女性徒は、

 我自身。

「魂・・・」

 魂が引きよせ求める。

 苦しく、心地いい。

 抗いたくて、浸りたい。

「そうか、これが理由。」

 何の?

 と女生徒は心中で問いかけてくる。

「我らの・・・」

 出会い、そして・・・

 存在する理由。

 古の理に引き込まれ、倒れかける女生徒の身体を支え、背後の桜の木にもたれさせた。

 左目を手でふさぎ、女生徒から離れ、校内玄関ロビーへと駆けこむ。

 左目の力が暴走した。いや、「送」の力が先に暴走したとでもいうべきか。

「送」の力の暴走に「知視」の力が引き摺られた。

 あまりそばに居ない方がいい。今はまだ。

 しかし、我は心中歓喜する。

「やはり、こちらに来て正解だった・・・いや必然択だった。」

 神意は、我の存在を認める方向にあるようだ。

「中々に楽しい学園ではないか・・・。」

 暴走した左目の熱が中々治まらない。熱いうちは、左目は赤く充血したままで、人と相対すれば力の影響を与えてしまう。

 人を避け渡り廊下へと進んだ。曲がり角で誰かとぶつかりそうになり立ち止まる。

「ご、ごめんなさい。・・・えっと、弥神君?具合でも悪いの?保健室に案内しましょうか?」

 顔をあげると柴崎麗香が心配顔でこちらを窺っている。

「いや、具合など悪くない。むしろ魂の高揚を抑えきれないぐらいだ。」

 深呼吸をして、その高揚を抑える。

「あのぅ私、柴崎麗香、この学園の」

「知っている」

「そ、そうよね。朝、ちゃんとご挨拶できなかったものだから、ごめんなさい。よろしくね。」

 人懐こい笑みを向けてくる柴崎麗香。

「東の柴崎家か・・・」は、道元が何かと因縁を持っている家だ。

「えっあぁ、そう。あの私、西の宗の方とは初めてで、東と西とは思想が少し違うと、ついこの間知ったの。その、何か変わったことあるかしら?」

 西の宗の代表である息子が入学してくる事に、何かと気遣いをするよう両親から言づけられているのであろう、意識し過ぎで声が上ずっている。

「あ、えっと。」

「我もこっちの華族会の事も、関東に来たのも初めてだ。ちょうどいい、少し教えてもらおうか。」

 覆い隠していた左手で前髪をかき上げた。

「!」

 露わになった目に息をのんだ柴崎麗香は、我の質問に答えていく。

 とても従順に饒舌に、誇り高く。









 見た古の理の始まりであるこの場所。

 特に特徴もなく、ただ街並みが展望できる。

 緋色に染まりゆく空、

 電車の走る騒音が上がってくる。

 風が澄んだ空気を運び、

 我の髪をさらっていく。

 静穏の日常。

 安寧を地。

 誰も、知らぬ。

 それらが、

 神の守護の元にある事を。













 時が熟すまで、静穏に過ごすと誓い定めているのに、奴の存在が邪魔をする。

 藤木亮が居るだけで、何故か我の心中は苛立ちに混乱してしまう。

 藤木亮を力でもって排除しようと考えたが、藤木亮を取り巻く環境を考えると安易な事は出来なかった。

 柴崎麗華に語らせた事によると、中等部より藤木亮と柴崎麗華は恋仲であり、新田慎一とそして我と魂を引き合った女生徒、真辺りのは、特別の関係を築いている。藤木亮は、内閣総理大臣を輩出した福岡の大地主、藤木家の長男である事を含め、学園経営者の娘である柴崎麗華の特別な想い人である奴を、入学早々に排除すれば、大きな騒動となるのは必至。今はまだ、大人しく忍ぶ時だと拳を握りしめ我慢していたのだったが・・・。

 食堂に入ってきた藤木亮は、部屋に入り我の存在を視認すると、苦痛に眉をゆがめた。

 その一挙手一投足が気に食わない。

 我の視線に落ち着かない様子であるのに、ノートパソコンを開き居座るつもりのようだ。席を立ち、ドリンクコーナーにて飲み物まで用意しだす始末。

 部屋に戻れば良いだけのことだが、なぜ、この我があいつから逃げるように動かなければならぬ。

 飲み物を手に入り口近くのテーブルに藤木亮が座ると、廊下から3年の寮生が何かを叫びながら入って来る。

「誰だよ!洗濯場で洗剤こぼしたの。掃除しとけよ。」

 食堂に居た者全員が、我へと顔を向ける。こういうのも耐え難いことだった。

 時が塾すまでの辛抱とはいえ、洗濯なども何故我がしなければいけないのだ。力を使い誰かにさせる事も出来たが、乱用は危険だ。桐栄学園の二の舞は絶対に避けねばならぬ。

「こぼしてた?」我は立ち上がり歩む。

「弥神、また、お前かよ。」

「洗濯なんて、した事がない。」

 藤木亮が心中で、我を貶す。

〔・・・・・できる事ばかりだ、幼児じゃあるまいし。〕

 何故か他の者より思考が分かる事も、苛立つ要因の一つだった。

「ここでは、汚した所は自分で綺麗にする事って、最初に教えただろ。」

 ある策を思いつき、実行するべく藤木亮の方へと歩みむかった。

「藤木、やっといてくれよ。掃除。」

「なっ!」藤木亮は驚愕して言葉が出ない。

「やった事ないんだ。幼児の頃から」

 藤木亮が心で言葉にした、「幼児」の単語を使ったことに、目を見開いて驚愕する。

「弥神、やった事なくても出来るだろう。」

 3年生が我と藤木亮の間に割って入り我の肩を掴んだ。

 我は前髪を左手で振り払い、弱い力で命じる。

「我は藤木に言っている。お前は関係ない。向うへ行け。」

「あぁ、ごめん。そうだな、二人の問題に首を突っ込んだら駄目だな」

「怒れよ。あまりにも理不尽で横暴なのだろう。」

 我の力に共鳴をして頭痛に表情を歪ませる藤木亮は、あらゆる疑問に戸惑っている心の隙を突いた。

「お、お前、何を・・・」

【藤木亮、内なるものを、さらけ出せ】

「うっぁっ!」痛みに耐えかねて腰を折り悶える藤木亮。

【神威に逆らう事は出来ぬ】

「くっっ!」

【卑しい欲望こそ人である証拠】

 同じ「知視」の力は我の方が上だ。圧倒的な差を見せつける事が、こんなにも楽しい。

【それこそが人の存在理由】

 藤木亮の心中にある、屈辱、嫉妬、憎悪、殺意が圧縮され沸騰し、自我は崩壊していく。

「やれよ。藤木。」

 我の言葉に拳を握る藤木亮。我に飛びかかってきて、食堂の椅子と共に倒れた。

 馬乗りにされ、顎と頬を殴られる。唇を切ったようで、口の中に血の味が広がった。

「藤木!何してんだ!やめろ!」

 羽交い絞めで止めに入る同級生たち。だが藤木亮は中々に我への攻撃を止めない。

 息荒く尚も殴り掛かってこようとする。それほど、強く力を使ったわけでもない。なのに、この影響。

 中々に面白い。

「大丈夫か?弥神君。血が出てるじゃないかっ、誰か救急箱をっ」



 我を殴らせて、藤木亮を寮から追い出す策は成功した。藤木亮は一週間の謹慎となり、謹慎後は東京の実家から通う事になった。そもそも、家が東京から通学圏内にあるというのに、寮に住もうと思うのが怠惰なのだ。ともあれ、これで苛立つ存在であった藤木亮はいなくなり、平穏な寮生活ができる事となった。

 寮生活が快適になりはしたが、学園内は不快な人のうわさ話で混沌とする。

「あの子よ、藤木君が殴ったって子。」

「藤木君が殴ったって、よっぽどよね。どんな酷い事したのかしら。」

「俺も、あいつ、なんとなく嫌な感じだったんだよ。」

「寮で酷い態度だったらしいぜ、入寮以来ずっと、で藤木がキレたって。」

「藤木がキレるって、よっぽどだろ。」

「あのいつも優しい藤木君がぁーショックぅ。でも悪い奴を懲らしめるみたいでカッコよくない?」

「よくやってくれたよ。藤木。」

「あぁ、スカッとしたぜ。」

「一週間の謹慎は重くない?弥神が自分の失態を藤木に押し付けて殴り合いの喧嘩になったんなら、弥神も謹慎にするべきだろう。」

「あぁ、それに何だよ、あの髪、校則違反じゃん。」

 加害者である藤木が英雄のようにささやかれ、被害者である我が悪者の状況である。

 愚かな民の集まり、人の口はどこまでも貪欲に慎ましさを知らず。

 4時間目前の休憩時間、新田慎一とすれ違う。他の者と同じに興味本位に我を観察する視線が疎ましい。

 強く睨みつけて歩みすすんだが、ずっと、そうして右目で愚弄の者を威嚇していると疲労し、廊下の窓から入ってきた光が針のように突き刺さり、眩んで立ち止まった。

「大丈夫か?」

 背後から新田慎一が様子を窺ってくる。心より心配しているその表情。

(何だ?本気で心配している。)

「皆、勝手な事を言うから。俺、H組の新田慎一、藤木と同じサッカー部で、親友なんだ。」

 自信なくおずおずとしたその態度が、細屋を思い出させた。

「その・・・ごめん。俺からも謝るよ。」

「何だ。それは。」

「何って、その・・・理由がどうであれ、殴って怪我をさせた藤木が悪いのは事実だし、俺は親友の苦しみを共有して」

「あはははは。」笑わせてくれる。

「えっとぉ、あの・・・」

「我に同情など何様のつもりだ。」

「えっ?」

「愚かな者ほど、偽善に酔いしれる。」

 驚愕して、思考が停止した様子の新田慎一。

「同情は、傲慢な人の業。独りよがりの親友かもしれぬな。」

 心中の奥深くに溜まる不安と疑問をえぐりだしてやった。新田慎一は、はっと息を止め何も言えずに立ちすくむ。

「それもまた、偽善。」

 愚弄の民へ一矢報いた。愚の民の代表のようになった新田慎一は可哀そうだが、それはまた、特別の証しだ。








 華族の者と真辺りのを観察した日々過ごし、常翔学園での生活はひと月半を過ぎようとしていた。

 真辺りのが辿ってきた生い立ちは、中々に面白く、致し方ないかな不足する魂を自身の理想で埋めている。それが障害にもなり、正常を保つ利点でもあった。

 我らの存在理由を真辺りのが理解するには、魂の不足を埋め合わせるニコの精神は邪魔である。しかし、それを今すぐに排除し、素のりのだけにするには、何かと不備が出そうであった。りの自身が、ニコの精神を不要とするか、ニコ自身が未練なく消えるのが一番の理想だ。

 時間はたっぷりとある。状況を見守りながら、我との存在を理解させていくのが、良いだろう。

 そんな平穏な日々のある日、最終下校近い時間、帰宅しようと図書館から東棟へと向かう最中、様子のおかしい柴崎麗華を見かける。

 サッカー部のジャージを着ている柴崎麗華は、更衣室のあるプール棟から駆けこむようにして、東棟へと入って行く。

手にジャグポッドとプラスチックコップの入ったカゴを手にしていた。様子がおかしいのは、その顔が泣きそうだった事、そして、花壇から伸びていたツツジの枝木が柴崎麗華の手の甲に触れると、生き生き花がしぼみ落下したのを見たからだ。

 柴崎麗華は五感の中でも珍しい、手より発する気で人々の病を癒す触覚の力を持っている。柴崎麗華が触覚の力を持っている事は2週間ほど前に気づいた。玄関ホールの花瓶の花を無意識に触れたその花だけが、同じ種の他の花よりもいつまでも生き生きと咲き続き、枯れなかったからである。

 今、柴崎麗華は、心中荒れて、自身に怒り、悔いている。そんな負の心が触の力に影響し、触れられたツツジの花は枯れてしまった。

 我は後を追い声をかけた。

「柴崎さん?」

 校舎に6か所ある給湯室の一つ、南校舎の一番奥の扉のない狭い給湯室で電気もつけずにうずくまっている柴崎麗華。

「大丈夫?気分でも悪いの?」

「あっ・・・ううん、大丈夫。」

 我の声掛けに顔をあげ、取り繕うように立ち上がる。

「・・・顔色、悪いよ。」

「そ、そう?で、電気ついてないから、そう見えるだけじゃないかな。」

「保健室行った方がいいんじゃない?」

「大丈夫・・・・体は何ともないの、ただ、自分の失態に落ち込んでいただけだから。」

「柴崎さんほどのお人が、失態なんかするんだ。」

「えっ?」

「中等部の功績、色々聞いたよ。流石は東の祈宗を取りまとめた柴崎総一郎様のお孫さんだと感嘆したよ。」

「あ・・・ありがとう。」

 柴崎麗華の祖父である柴崎総一郎の名と前歴をあえて出す。華族の者達は、華族である事に誇りを持つゆえに、我らは神皇家を古より守ってきたという実績の自信を、確実に植え付ける為に。

「でも私、お爺様に足元に及ばない、失態ばかりよ。」

「総一郎前代表は凄い人だと聞いているからね。西にもその噂は良く聞いていた。」

「あ、あの~弥神君、傷、大丈夫?」

「あぁ、これね、ご覧のとおり、全然もう大丈夫。最初は食べ物が浸みたけどね。」と笑みを渡す。

「そ、そう、良かった。ごめんね。藤木が・・・・どんな理由があるにせよ手を出したのは、いけない事だから。」

 その名を聞くだけで苛立ち、笑みは消える。

「・・・お前もか。」

(なぜ、あいつが、こうも柴崎麗華を魅了する?華族でもないのに。)

 不審がられる前に笑みを戻した。そして心にもない事を言い繕う。

「ありがとう、東の人達は優しいね。藤木君とのことは、僕が悪かったんだ。僕が至らないから、皆、不満を抱いていて、藤木君は皆を代表して僕に教えてくれただけだよ。」

「そ、そう・・・。」

「あぁ、そうか、柴崎さんは藤木君と付き合っているんだってね。」

「ううん。付き合っていたけど・・・別れたの。」

「あぁ、そうだったの・・・それは、辛いね。」

「・・・・。」

「その辛さ、取ってあげよう。」

「え?」

 我は髪をかき上げ一度瞑った目を開けた。左目に集結する「知視」の力を持つ卑弥呼の血。

「柴崎麗華、君は真辺りのの友人として、彼女を守っていく必要がある。」

「はい。」

 藤木亮の存在は疎ましいが、柴崎麗華の心中をかき乱す存在となるのは得策ではない。疎ましくも、藤木亮は柴崎麗華の拠り所として利用する。そして、用が済み次第排除する。

 柴崎麗華の頭に手を乗せ、乱れた心中にある感情は消した。

「心穏やかに、触の力で真辺りのを癒し、これよりも我に学園の情報、状況を報告せよ。」

「はい。」

 柴崎麗華は、皇前交手をして我に黙礼した。

 我の力に圧倒したままの柴崎麗華を給湯室に残し、帰宅の為に下駄箱へと向かった。

 柴崎麗華の心中を乱した張本人が、愚弄にも彼女を心配して待っていた。藤木亮は我を視認すると顔を背け、下駄箱の奥へと逃げようとするのを、あえて立ちふさがった。

「うまくやったもんだな。」

 悔しくも、藤木亮が英雄視されるのは、中等部の頃からの信頼と実績があったからだ。

「知視」の力を使って、我が西でできなかった事を、こいつは、うまくまわりの人間を取り込んできたのだ。

「だか、所詮お前は、我には勝てぬ。」

「うっ!」我の存在に頭を抱え痛みに苦しむ藤木亮。

「くくくく、辛そうだな。もっと苦しめ。それは神に楯突く罪だ。」

 意識を失いかける寸前で、止めておいた。

 楽しい。

 学校生活が、こんなにも面白いとは

「その時が、来るのが楽しみだ。」











 ずっと寮の部屋で籠っているのも飽き、昼前に外に出てバスに乗り、隣町のショッピングセンターを訪れた。大型の書店に入る。図書館と違い書店は彩り鮮やかで、利点は、最新の書物が置かれている事と、人々の関心や人気の動向が一目でわかる事だろう。

 児童書のコーナーへ向かう。目的の本はすぐに見つかった。「虹のゆくえ」と表題の絵本は、一番目立つ場所に平積みされていた。幼き頃に過ごしていた森の中の家にも、この絵本はあった。その本は、絵本にしては異例の売り上げ部数となったらしく、100万部突破記念増販版として、虹玉のレプリカがついていた。

 一年前、堀部に褒美としてあらゆる品を、力を使って盗んだように、また金も払わず店を出そうになったが、気を取り直し支払いを済ませて店を出る。店の外で包装を破り虹玉のレプリカを取り出し、天井の照明にかざしてみる。

 虹色の光が幻想的に渦巻いていた。虹玉をズボンのポケットに入れ、片手に本を抱えエスカレーターで階下に降りると、「ママー」と叫び不安の表情満載にキョロキョロと親を探す迷子と遭遇する。

 少し真辺りのに似た色の白い女児。我と目が合うと、唇をかみ涙をこぼした。

「泣いても解決はせぬ。」

「泣いてないもん。」

と言いながら目に涙あふれる女児。負けず嫌いな心意気が面白い。我に臆することのない度胸も評価する。

「これをやろう。」

 単なる気まぐれだ。手荷物にしたくなかった事もあり「虹のゆくえ」の絵本をその女児に渡すと、女児は涙を止め、表情を明るくした。本好きだった様子で、さっそく表紙をめくり始めている。

「ななみー、ななちゃぁーん。」と母親が探す様子の声に、女児は全く反応しない。この集中力は、親とはぐれ迷子になるのも納得だと、我は苦笑しその場を離れた。

 ショッピングセンターから出ると、今にも雨が降りそうな空模様。電車に乗り急ぎ寮へ帰ろうとしたが、ふと、あの展望公園へと行きたくなった。虹玉を大切にする真辺りのの記憶に影響されたのかもしれない。

 東静線の支線に乗り換え、展望公園入口の駅で降りる。階段を上り、展望へと続く小道をゆっくり歩く。競うように茂った葉の切れ間から覗く空は、どんよりと雲が重い。緑の匂いが鼻を圧迫するように立ち込め、雨の匂いが強まった。

 徐々に木々の密集度がなくなり、開けて一望できる展望広場。彩都市の街並みが一望できる。奥止まりに一本だけ植わっている大きな樹に手をかけて、佇む真辺りのが居た。

 驚きはしない。心中、意識の深くで、出会う事が偶然でなく必然だと理解している。

 我らの魂は同じ。半分に分裂した二つで一つなのだから。同じ意識で、ここに来たくなる事は当然だろう。

 真辺りのは、その樹に手を掛け、古の記憶に呼び起こされる感情に戸惑いながらも、確認してしまう自分の行動に疑問を抱いている。

(何故だろう。)

「それは、魂が覚えているから。」

 答えた我に振りむく真辺りの。

 別れた魂を持った、初めての異性の生まれ変わり。

 意味なく、我々は存在しない。

 目的はただ一つ、別れた魂の融合。

 一つになる事が、我らに課せられた運命。

 だが、真辺りのは、永い永い古からの目的を思い出せず、我の存在を恐怖する。

 自身の、最も苦手とする蛇に例えて。

「蛇とは・・・中々に的を射た感想だ。」

「!」

「疑問など必要なかろう。」

 我から逃げようと後退り、木に背中をぶつける真辺りの。

「我らは・・・」

 真辺りのの心中を覗き見る。ニコの意識が虹玉のように渦巻いて、新田慎一との幻想に溺れていた。

「なるほど、そこまでも、古の性を引き継ぐか・・・」

 その様は、我ら始まりの時代、混迷する世を嘆き苦しみ分裂させたもう一人の双雲の、抱いた桃源の世界と同じ。

「あははは、そうだな、その強い宿命が表れているからこそ、我々は成し遂げなければならない運命。」

 笑った我の存在に、恐怖を抱きながらも安堵した、相反する感情に、身震いをする真辺りの。

「一度、分離させよう。この力を我が得たのも、この為の必然とすれば納得だ。」

 行き詰った新田慎一との関係に手を加える事にした。髪をかき上げ、左目の力を使う。

「ひっ!」

 瞬時に真辺りのの意識は奥底に落ち、残ったのはニコの意識。

「どういう事?もう一度私をりのから乖離させるなんて。」と怒り睨むニコ。

「嫌ではなかろう?」

「嫌じゃない。だけど・・・」

 我の力の尋常さに理解を示したが、舐めた態度でいるニコ。

「それらの疑問、お前が存在するから、わからないのだ。」

「なっ・・私が邪魔って事?」

「そうだ。」

 睨んでくるニコ。それがまだ子供の証し。

「りのと分離させて、私だけを消そうって事?」

「嫌だろう。」不貞腐れる表情が、本を与えた女児と似て笑えた。「案ずるな、我は慈悲深い。すぐにはせぬ。」

「何その言い方、時代劇みたい。」

 子供には躾が必要、ニコの身体を押し樹に押さえつけた。

「ギャッ!」

「調子に乗るな!今ここで消し去っても良いのだぞ。」脅し的に左目に力を込め、目が赤く揺らがせた。

「それをしないのは、りのの為だ。」

「・・・。」

 すべてがりのの為に、生み出されて使い捨てで消される運命だと再認識して悲観するニコ。

「そう、悲観するな。これをやろう。」

 我はスボンのポケットから虹玉を出した。子供はおもちゃを与えてやるのが良い。

「虹玉!」と目を輝かせて喜ぶニコ。

「少しは、存在できる望みが得られたであろう。」

 手の平に置くと、ニコは握り胸へと持ってき、願った。

(慎ちゃんといつまでも一緒に、虹玉を探るように。)

「ニコ、以前と同じようにりのと共存せよ。誰にも気づかれないよう、うまく。いいな。」

 ニコは、偽物の虹玉を手にうなづいた。

 陥ったりのの意識を再び呼び出し、ニコの意識を下がらせた。

 りのは相反し我の存在にひどく怯え、樹を背にしゃがんでしまった。 りの自身、何故ここまで我に恐怖を抱くのか理解できぬまま。

「理由を思い出せば、そこまで怯えずに済むものを・・・」

「や、止めて・・・」

「まだ何もしていない。」

「近寄らないで・・・怖いの、その目が・・・嫌い。」

「いずれ、好きになる。邪魔なものがなくなれば。」

 りのはわからないと頭を横に振る。

「だが、ちょっとした施しをしておこうか。」

 我はりのの頭を押さえ軽く暗示をかけ、意識を沈めた。

「何をしたの?」と抗議の色を強くして問うニコ。

「ちょっとした戯れさ。」




 戯れの施しに、真辺りのが面白い振舞いを見せる。異国の想い人グレンの事を想えば、蛇と遭遇した時のように全身に粟肌が立つようにしたのだ。

 手にスマホを持ち正門までの並木道を、腕をさすりながら走っては帰って来るりの。我は教室の窓から、それを見て、思わず笑ってしまう。

「異国の者などに現を抜かすからだ。」

 午後の授業が始まるチャイムが鳴る。今日は昨日の地震の影響で欠席しても欠席扱いにはならず、それで各教科は自習となっていた。早退する者も多く、チャイムが鳴っても先生は来る気配すらない。我も寮に帰るか、図書館に行くか迷い、再度窓の外へと向けると、ベンチに座った真辺りのに藤木亮が歩み寄っているのが見えた。

 鞄を手に取り、教室を出る。我が移動している間に、ニコに意識が移った様子で、はしゃいだ声が聞こえた。

 真辺りのを取り巻く仲間の中で一番警戒しなければならないのは、やはり藤木亮だ。中等部の時にも、真辺りのが多重の人格を持っていると気づいたのは藤木亮だったと柴崎麗華から聞いていた。

 我の目的を阻む者となれば面倒だ。

 我の気配に気づいた二人がこちらを向く。

(鬱陶しい奴め。)睨みを強くすると、逃げていく二人。藤木亮の後を追うのも癪にさわる。我は図書館へと向かった。

 最終下校まで図書館で過ごしても良かったのだが、藤木亮の怯え逃げていく姿を目にして、心中を乱され書物に没頭できなくなっていた。それに、館内には柴崎凱斗が居た。柴崎凱斗もまた、素振りが鬱陶しい。敵対する西の宗に所属する子が東の常翔学園に通う事に不審を抱いて、我の一挙一動を探っている。

 2時間ほどの滞在で寮に帰る事にする。二冊の書物を借りて図書館を出て気づく、まだ上靴のままであった事を。

 真辺りのに近づく藤木亮を排除しようと、逸っていたようだ。

(何もかも・・・我を苛つかせる。)

 高等部の玄関ロビーへと戻る。しかし、この苛つかせた事象が、神威が働く「時の調整」だったようだ。

 寮生に限っては、中等部側の正門を通っても構わない。IDカードも通れるようになっている。理由は、そちらの方が寮へ近いからである。下靴に履き替えた後、中等部の体育館脇を通り、中等部の正門へと続く並木道に出た所で、図書館方向へと向かう、一人の中学生を左目が追いかけた。

 その生徒が、柴崎麗華からの語りの中に登場していた黒川和樹である事を、顔を知らずとも決定づけられたのは、その者が我の事を心中で思考し警戒していたからだ。心中で我の事を謗る愚か者は、大体わかるようになっていた。

 黒川和樹の後を追うと、図書館へと入ると思いきや、直前で立ち止まって戻って来る。我は、小径内の樹々の陰に隠れた。黒川和樹は手に何かを持って立ち止まる。そして図書館を振り返り何かに迷っている様子。図書館から出てくる人に道をあけ、手に持つ小さな物を見つめ、険しい表情で思いつめる。

 黒川和樹はハッカーである。その能力は世界少数しかいないビッド脳を持つ凄腕だと聞く。その経緯から思考するに、手に持っている物がメモリーであり、我を警戒した恐れの感情を持ち、図書館に行くのを迷っている事から、何かしら我に関する過去の情報を手に入れ、柴崎凱斗に報告するかどうかを迷っていると推測する。

 黒川和樹は意を決し、図書館には行かず踵を返した。後をつけると高等部と中等部の唯一の共通施設であるプール棟の下、高等部の更衣室の前で一端立ち止まり、そして高等部の運動場へと顔を向けた。運動場では、サッカー部が練習をしている。柴崎凱斗ではなく新田慎一もしくは藤木亮に報告の矛先を変えたか?

 しかし、高等部の運動場へまでは踏み入れることはしないで、後方へと足を踏み出し我の足を踏んだ。

「す、すみっ・・・」

 振り返り慌てて謝罪の言葉を口にするも、驚愕で目を見開く黒川和樹。その一瞬で左目が黒川和樹の行動の真意を読み取り、推測が正解だったと判明する。

(何故、ここに?)と黒川和樹は焦り混乱するも、手に握り持つUSBは見つかってはいけないと冷静に思考を巡らせ、スボンのポケットに入れる。

「あ、あの~」と困惑した声を出すのと同時にポケットに入れた黒川和樹の左手をガシリと掴かんだ。「あっ」

抵抗しようとする黒川和樹、だが、もうすでに左目の力は発動し、彼の魂は我の神気にひれ伏している。

(何?どうして、柔道をやってる僕が、動けない?)

「お前がVID脳と言う物を持つ者か。」

(どうして!何故知っている?!僕がVIDである事は数少ない人しか知らないのに。)

 映像で思考する黒川和樹。

「なるほど、確かに他とは違う毛色だ。」

 髪の隙間から見えた我の左目が、赤い事にやっと気づく。

(な、何?)

 我に抱いた恐れの感情も映像に変換された。

「ほほぉ、感情の起伏も絵に変わるか・・・面白いな。」

 掴んだ左手を引き上げ、

「その力、いずれは利用するに価値ある。だが。」

 手の平をこじ開け、USBを取り上げた。

(どうして握っている手の中に物があるとわかった?)

「今は要らぬ。」

前髪を振り払い、最大の力でもって黒川和樹の意識を制圧する。

「柴崎凱斗に報告するな。集めた情報は全て消去しろ。知った我の過去は忘れろ。」

「・・・わかりました。」


 寮にはまだ帰らず、校舎内に戻りパソコンルームへと入室した。黒川和樹から取り上げたUSBの中身を確認する為だ。やはり黒川和樹は、桐栄学園での我の失策の数々の情報を手に入れていた。桐栄学園の生徒がネット上で話題にした我の噂は、道元が多額の金と権力で、各ネット関連会社に手をまわし、全消去したと聞いていたが、及ばず消去できなかった物があったようだ。当事者たちの書き込みは流石に無かったが、中にはやたら詳しく書いている者もいて、読んでいる内に、当時の事が思い起こされ、怒りが沸々と生じた。

「君!下校時間過ぎたよ。ん?高等部の生徒じゃないか、駄目だよ。君、何年年組の誰かね。先生に報告しな」

「黙れ!汚い手で我に触れるなっ」

「・・・はい。」

 守衛の老人は、左目の力によって屈服し、我が怒り任せに体を押した事により、床に手をついてうなだれる。髪を掴み、顔を上げさせる。この力の欠点は、相手の目を見据えなければ効き目がない事だ。そのためにはこうして掴みたくもない人の髪を鷲掴まなければならぬ事も。

「いいか、我は神の子であるぞ。気安くお前なぞが触れるなど、無礼極まりないのだ。こうして顔を見られる事もな。自身の粗暴を悔い贖え。」

「・・・わかりました。」

 守衛の老人は床に額をつけ黙礼してから、フラフラと部屋を出ていく。

「ちっ・・・。」

 完全に八つ当たり、力を強く出し過ぎてしまった。

 命じた「悔い贖う」意味を、老人がどう捉えるかは、我自身もわからない。

 例え老人が命で贖うとしたら・・・

「神の思し召しとして、幸せの死であろう。」

 我はUSBのデーターを消去し、パソコンルームから退出し近くのトイレで、そのUSBを流した。





 真辺りのは、異国の男に失恋した。我の戯れが効いたのではない。異国の者がりのに愛想をつかしたのだ。酷く傷心氏て内に引きこもる真辺りの。変わりにニコの意識が日々を補っている。ニコは我に対して反発心がある。りのが引きこもりから出てこようとしない状況を喜び、調子に乗り、我らにとって不都合の振舞いをしかねない。監視を含めて我は、りのが好むバスケがどのようなスポーツであるかも興味があり、その日、バスケ部の練習試合の会場である横浜の高校へと向かった。その高校が制服廃止の私服着用の学校であるのも紛れるのに好都合であった。ニコは我が会場にいて観戦している事に気づかなかった。りのはバスケの試合であっても出てくることはなく、終日ニコがバスケの試合に出場もこなした。一日中、表に出られる事を喜び満喫するニコは、我が監視している事に気づかず帰路につく。

 車両の連結よってできた運転席横の空いた空間で一息ついたニコ。特に気になる素行はなく、このまま気づかれぬまま寮に帰る予定をしていたのだったが、ニコが入り込んだ連結の空間へと一人の男がむかう。そして、ニコの真横にピッタリと並んだ。ニコは窓の景色を眺めていて気づかない。男のいやらしい顔がニコの耳に近づいて、やっと気づいて振り向く。

 我は急ぎ人をかき分け向かい、男の手を掴んで捻り上げた。

「何をしている!」

 痴漢男は「痛てて、」と叫び、掴まれた手を振り払い、我の肩を押し向こうの車両に逃げていく。

「そいつは痴漢だ。取り押さえろ。」

 と叫ぶと、乗客の男性たちが痴漢男を取り囲んで床に押さえつけた。

「愚か者が。」

「どうして・・・」やっと我の存在に気付いたニコの声は、掠れて震えていた。

「どうして?わからないとは、お前も愚かだ。」

 ちょうど駅について、電車は止まる。扉が空くと痴漢は乗客に引きづられるように車外に出されていく。次いで駅員が乗り込んで来て、「被害に遭われた方は!」と叫び、車内にいる人々がこちらを向く。誰かが車内の通話ボタンで車掌に伝えたのだろう。「事情を聞きたいので、一度降りてもらっていいですか。」と駅員は我らに歩み寄ってくる。

「降りるぞ。」足元に置かれたスポーツバッグを拾い持ち、ニコの腕を掴み引く。

 電車を降りると人の輪が出来、中心で痴漢男が乗客達に取り押さえられていた。

「大丈夫ですか?」と駅員。痴漢男は取り押さえられても尚、ニヤニヤと笑っていた。

「嫌・・・」ニコが腕を抱え、涙をこぼす。

「もう、大丈夫ですよ。ちょっと駅長室まで来ていただけますか?えっと、君は?」

「僕は彼女の同級生です、偶然乗り合わせて、そいつを一度捕まえたのですが逃げられて、皆に捕まえてと頼みました。」

「そうですか、それはご協力ありがとうごいます。では君もついてきてくれるかな?」

「はい。」

 停車中の電車が発車するとアナウンスが告げる。見物の人だかりは、駅員の誘導で分散していく。駅員や周囲の乗客が発車する電車に気を取られている間に、我は痴漢男の顔を見据え、左目の力を使った。

「死ね。」

 単純明快な一言ほど、良く効く。

 痴漢は「へ、へへ・・へへへへ」と引きつり笑いを次第に大きくし、狂ったように叫んだ。その異様な痴漢の様子に驚いた駅員たちは、捕まえていた痴漢男を手放してしまう。

「うぁぁはははぁ、いひひひ女ぁぁ~。」

 走り出した痴漢。駅員が慌てて追いかける。

「あっこら!待て!」

 痴漢男は、駅員の制止を無視して線路内に飛び降りた。反対側の線路へと走り行った所で通過車両のアナウンスが流れる。

「おいっ、そっちへ行くな、ホーム下へ逃げろっ。」駅員の怒号。

 両ホームから人々のざわめきが、悲鳴に変わる。

 特急電車のブレーキ音が耳を貫く。更なる怒号と悲鳴、そしてゴッと嫌な振動。

 収拾のつかなくなったホーム内の混乱。

 改めて、我は自身の力の威力に満足し、そして、一人の薄汚い愚者を排除できた喜びをかみしめる。

「あれは、世のゴミだ。行くぞ。」


 翌日、学園に警察官が来る。痴漢男が特急列車に轢かれた直後に我らはその場を去ったので、事情を聞きにやってきたのだ。その警察官が校内を歩いている時にすれ違ったのも、神威が働いた必然であろう。

 柴崎凱斗が二人のスーツ姿の男たちを誘導して歩いて来る。すれ違い、行き過ぎた時「あの、もしかして警察の人ですか?」と我から声をかけた。

 柴崎凱斗を含めたスーツ姿の男たちは、驚いて立ち止まり振り返る。

「そうだけど、どうして?」

「そういう雰囲気だから。」と素直な観照を述べる。「もしかして、昨日の東静線の事故の事ですか?」

「どうして、それを?」

「僕が捕まえました、昨日の痴漢。」

「えっじゃ、君があの男子生徒?」と若い方の警官。

 柴崎凱斗は慌てて周囲を確認して「ちょっと、ここではまずいので、高等部の応接室に案内します。」と会話を制止させた。

「あぁ、良かった、見つかって。」

「じゃ、弥神君も来てくれるかな。」

 2階の応接室に入るや否や「君は、弥神、何君?」と若い警官が質問を開始する。

「気安く呼ぶな。」怒気を含めて睨んだ。

「えっ?」我の変容ぶりに驚く面々。

「余計な捜査など必要ない。我らに関わるな。」

 前髪を左手で払い、左目の力で命令する。

「はい。」警察官の二人は素直に言う事を聞いたが、

「何!?えっ?目が、赤い・・・」と柴崎凱斗は、状況を不審に慌てる。

(効かない?こいつ・・・)

「大丈夫か弥神君、保健室へ、いや病院に行った方がいいか。ご両親に連絡して。」

「必要ない。」

「いや、そういうわけにはいか」

♪「人の祈心は神の存元、神の受心は人の存元」♪

 祝詞と共に、強く強く右目に意識を集中し、命じた。

「な・・に・・・」

「我の言辞に心髄を開き、神威を受け入れよ。」

「・・・・はい。」柴崎凱斗に力がやっと効き、従順に頭を下げた。

「我に対する余計な詮索はするな。そして、この状況を忘れろ。記憶から無くせ。」

「はい。」

「それぞれ、持ち場に戻り、普段通り仕事に励め。」

「はい。」

 三人が応接室を出ていくのと同時に左目を押さえて、うずくまった。強く使いすぎて眩暈を起こしたのだ。

「柴崎凱斗もまた、我を手こずらせる存在なのか・・・。」

 柴崎凱斗は養護施設育ちの養子である。紙面の文字を一瞬で記憶し忘れる事はないという驚異の記憶力を買われて、華選になった。華選選定項目に、学力も付随していると、この学園に入学する前に道元が用意してくれていた資料にあった事を思い出した。たしか、米国のハングラード大学へ飛び級で入学している。外国語での生活が長かったことが、日本語による言霊の浸透が浅くなった原因か。特殊な記憶力も阻害しているのかもしれない。

「ちっ、どうもこうも、難儀ばかり・・・。」

 その日の夕方、真辺りのの家を訪れた。いつまでも傷心に浸り奥底に沈んでいるりのの意識を、引っ張りだそうと説得したが、りのは言う事を聞かない。

「まぁいい。時間はまだたっぶりある。」

 りのに関しては焦らずともいずれ、我と引き合う。それが我らの運命、存在する理由。

 その前に、華族の者達を、我の支配下にしておかなくてはならない。彼らが、双燕の世話役となる前に。


 


 学園近くの神社で、七夕まつりが催しされる事を知った。

 宮中では、7月7日は特別な神事行事としてある。市井の七夕行事はどのようなものか。宮中といかような違いがあるかを確認する為、七夕まつりの日の夕刻、星見神社へと足を向けた。本殿に向う参道の両脇に、数々の屋台が立ち並ぶ。欲にまみれた人の掛け声。束の間の満たされに歓喜する人の様を観察しながら歩いた。途中、学園で見る顔ぶれを多数見かける。りのや柴崎麗香、そして鬱陶しい藤木の姿も見かける。相変わらず女の後を金魚の糞のようについて回っている。りのは我の存在に気づき、すぐにニコと入れ替わった。ニコは表に出られた嬉しさを、この祭りの雰囲気に上気させて、屋台を指さし柴崎麗香をつれて行く。

(うまくやっているようだな。)

 ニコも柴崎麗香も浴衣を着ていた。

(浴衣では心許ないが、まぁいい。この日に着物を召す気持ちがあるだけでも、良い心がけだ。)

 我はニコが行った方向とは反対の、本殿へと足を向け、人の流れに身を任せ、やっと社前にたどり着く。星見神社は、拝殿と本殿が一緒になっていて、本殿の周囲をぐるりと切り出した竹を竹で作った土台に括りつけて立てかけて設置されていた。竹の枝葉には色とりどりの短冊が枝に飾られていて、桃源郷のような幻想的な光景で、中々に趣のある光景であった。

 我は拝殿前に設置されている木製の看板へと足を向けた。主祀神の説明書きを読むと、稲作の豊穣をもたらす田の神、豊受媛神を祀る。神社の名称はここ周辺が昔、星が見渡せるほど田が広がる平地であった所から名付けられたとある。

 民が崇め作った格下の主祀神である。

「なら、参る必要などないな。」

 皇祖神の系列であるのなら、先祖を崇める為に、手を合わせようかと思ったが、必要ない。 暇つぶしに本殿周囲を散策しようと周囲を見渡した。

 指差しながら駆けて行く幼き子が叫んでいる。

「短冊のお願い書く!」

 女児は母親に手を引き歩みをせかし、拝殿前の両脇に設置されている長テーブルへと向かった。

 親子はテーブルの上に置かれた色とりどりの短冊とマジックを選び取り、何やら書き始めた。一連の親子の様子を観察する。どうやら、短冊は願いを書くための物で、笹に結び付けるようだ。

 我は本殿周囲へと歩きすがら、民が括り付けた短冊の願いの文面を拝見する。

「これは・・・。」

 風に吹かれくるくると回る色とりどりの短冊、

【恋人ができますように。】

【吉田君と付き合えますように。】

【志望校に合格しますように。】

【金持ちになれますように。】

 場所柄、民は五穀豊穣を願い、国の安寧平穏を祈っていると思いきや、

「なんと稚拙、戯けた願い・・・」

 どれを手に取って見ても、豊受媛神に因む願いなど無かった。

「いつから、こんな馬鹿げた季節祭を。」 

 どこまでも愚弄な民なのだ。怒りの感情がふつふつと沸く。

 星の絵柄の書かれたマークが入った白色の短冊に目がいき、手に取る。

【☆彡常翔高女子バスケ部、全国大会出場を願う。真辺りの】

 握り、引きちぎった。

【このような、願いは間違いだ。】

 りのは、正しく知らねばならぬ。

【おいで】

 真辺りのたちが行った参道へと顔を向け強く念じた。

【教えよう。七夕の神髄を。】

 りのは感じ取るだろう。

【おいで】

 抗えぬ我らの宿命と 魂を引き寄せる、強い力を。

 サラサラと風になびく笹の音、夕闇迫り、屋台に照明が灯り始めた。 

 笹枝を立てかける台座の下には竹を輪切りにした灯篭が無数に置かれてある。中にはろうそくが入っており、法被を着た神社関係者が数人、点火銃で一つ一つ火をつけて歩きまわっていた。

 我のそばに来た一人の神社関係者の肩を掴んだ。

「な、なんだね。」

 驚くその者に、我は髪をかき上げ、露わにした左目の力を使った。

「こんなバカげた笹など要らぬ。すべて燃やしてしまえ、その火種で。」

「は、はい。」

 神社関係者は竹の灯篭ではなく、笹の短冊に火をつけ歩む。

 枯れ気味で茶色に変色しかけている笹枝はよく燃えて、すぐに煙と炎が立ち上がった。

「も、燃えてる!」

「笹が燃えてるぞっ。」

「火事だっ。」

 火をつけて歩く神社関係者の先で怒号が飛び交い、あわただしく走り回る職員たち。

 野次馬の人だかりをかき分けて、やっと真辺りのが我の元に駆け付けた。いや、今はニコの意識である真辺りの。

『七夕の神髄、それは、選ばれし巫女が、神に身をささげる日だ。この社は、稲作の豊穣をもたらす田の神、豊受媛神を祀るものであるものを、棚機祭には関係のない七夕祭を行うなど、神への冒涜も著しい。馬鹿な民どももまた、恥ずかしげもなく稚拙な欲望を書き記すなど。』

 我は怒りの根源である短冊を引きちぎり握りつぶす。

『これは願いではなく、欲望だ。』

 ニコへと振り返った。この怒りを分からせる為に。

『神は、欲望など聞き入れはせぬ。』

(おいで。)掌を差し向けた。

 引き寄せられるように、恐怖心を募らせながらニコは歩み、我のそばに立つ。

『選ばれし巫女はひと月間、祈心を反物に織り込み着物に仕立て、そして着物と共にその清らかな心身をも神にささげるのだ。』

「それが、本当の七夕・・・」

『そうだ。こんな邪心に満ちた欲望など、要らぬ。』

 本殿裏から燃える笹を消そうと、消火器を持ち走りまわる神社の関係者達、我らの近くを走り抜けようとした男の肩を掴み、力を使った。

「何だね。君は!危ないから下がっ」

 消火器を地面に落とし、我の言辞どおりに燃えている笹を一本引き抜き、隣のまだ燃えてない笹へと火を移し、次々とそれを繰り返し歩んでいく。

『燃やしてしまえ。俗物、欲望の願いなど神は聞き入れぬ。』

 乾いた笹はパチパチと音をならして燃え、火の粉が空に舞い上がる。

『そうだ、神に慈悲などありはせぬ。』

 舞い上がる火の粉のように、我の気分も舞い上がり、天に手をかざした。

『神は慈悲なく、厳粛だからこそ、神々しい。』

 消防車の音が間近に聞こえて、裏手の方で停まった。

『神に欲望を願うなど、烏滸がましい。』

 炎の動きは不思議な力を持つ、魅了され、我らは無心で見つめる。

『神の思し召しは、我らがこの世に生まれた事』

 神社の奥から、消防隊員たちがホースをもって走り来て叫び、我の声はかき消される。

「こっちにも火が移っているぞ!」

「何故だっ!こんな広範囲に。」

 炎はパチパチと乾いた音を奏でで、火の粉を飛ばす。

『すべて燃してしまえ』

 我はまだ握りしめていた引きちぎったりのの願いの短冊を、炎めがけて弾き飛ばした。白い短冊は吸い込まれていくように炎に触れ、燃え落ちた。

『神の無慈悲を知るがいい。』

 ニコもりのも、我の教えを胸に浸透させている。

 熱風に煽られて色とりどりの短冊がくるくると回る。

 突然ニコは燃える笹へと駆けだし、風揺れる笹の枝葉に飛びついた。青い短冊に手を伸ばし、しきりに飛びつき掴み取ろうと何度も試すが、届かない。

『やめろっ』

 ニコは燃えている笹の木へと踏み込んで枝葉を掴み引き寄せる。火の粉が怒ったように舞い降りてきて、りのの袖に炎が移る。嫌な臭いがした。袖だけじゃなく、炎はりのの着物の裾も焦がす。

「やめろ!ニコ!」

 我の制止を聞かず、必死につま先と手を伸ばし、青い短冊を掴もうとするが、青い短冊はくるくると逃げ回りつかめない。終いにその青い短冊にも火が着いた。

『やめろっ、ニコ!りの、ニコを止めさせろ。』

 ニコは下駄で飛びつき、やっと青い短冊に手が届くが、笹を立て支えている台座ごと倒れてしまう。大きな音がして神社関係者が集まってくる。

「君!大丈夫か!」

「女の子が巻き込まれたぞ!」

「早く、消防士、こっちだ!」

 人々の喧騒を抜けて、我は退いた。

 消防士たちによってニコは助けられ、救急車へと連れられて行くのを見届け、我は星見神社を去る。




 『今日のニュースをお伝えします。

 神奈川県香里市にある星見神社で行われていた七夕祭りで火事があり、消防と警察が駆け付ける騒ぎとなりました。この火事により祭りに来ていた女子高校生が燃えた笹飾りの下敷きになりましたが、消火に当たっていた地元青年団と消防員により助け出されました。下敷きになった女子高校生は軽い火傷の軽傷を負いました。星見神社では今月4日から七夕祭りが催されており、境内に多数の七夕飾りの笹が設置連れていて、その七夕飾りが何らかの原因で火が付き、広範囲に燃え広がり、七夕祭りに訪れる大勢の参拝客は一時騒然となりましたが、火は消防による消火活動で20分後には鎮火しました。出火の原因について、消防と警察は、放火の疑いがあるとのことで、捜査を進めています。』





 我の言う事を聞かず、火傷を負った真辺りのが、どのような状態であるか確認するために、今日は食堂へと向かった。

昼食時に食堂を利用したのは入学当初、華族の者達の趣向と人脈を観察した時の10日ほどしかない。中学と同じに、昼食時は食べずに図書館で過ごしていた。今日から華族の者達には精進料理が提供されるのも、いい具合だ。

 カウンターで申し出ると、別口から精進料理の乗ったトレーが出される。それを持ち、真辺りのがよく見える位置のテーブルに座った。視線が合い、我に気づいたりのは、ニコと入れ替わった。入れ替わったニコは我を視認すると、あからさまに表情を険しくし、顔を逸らした。

 真辺りのの意識の入れ替えが行われた瞬間、藤木亮が反応して真辺りのを凝視した。

(あいつ・・・ニコの存在に気づいたか?)

我が不愉快に睨んでいると、藤木亮は眉間を抑え、我の存在を探すようにして確認してから、慌てて視線を逸らし、逃げるように食堂から出ていく。

 なぜ、こんなにも藤木亮に苛立つのか?

 その答えを求め、道元に言って藤木家の調べを行ってもらったが、曾祖父が政界に出る前は製薬業界上位、フジ製薬株式会社の創業一族の直系長男であること以外、何もわからなかった。柴崎文香の実家のように華族の称号拝命の取りこぼしの一族かとも思ったが、その事実を証明するには祖歴を辿り、藤木家以外の側面からも照合した確かな事実を合わせなければならない。今の段階で、その取りこぼしの可能性を見出すのは不可能であるし、それが出来た所で、我には逆に邪魔な存在となる。疑問は解決しないが、藤木亮が華族ではないただの民である事の方が、我には好都合であるゆえに、この件に関しては、それ以上の調べはしないことにした。

 その藤木亮の、真辺りのに対する詮索が邪魔だ。

 放課後、いつものように、図書館の二階で書物を読んでいると、階下で柴崎麗香の声がした。大階段の手すりから階下を覗くと、真辺りのと藤木亮達の面々が書棚の間を通り行くのが見えた。

 試験前で部活動禁止の週間である。一階のテーブル席で試験勉強をするのだろう。我はエレベーターで下に降り、書棚に身を隠し藤木亮を観察する。強く思考しなければ、真辺りのやニコ、そして藤木亮も我に気づくことがないという距離間を、我は会得していた。そのギリギリの距離である。

 奴は、皆が陣取るテーブルの後ろのソファで耳にイヤホンをして音楽を聴いているが、視線はずっと真辺りのを追っている。しばらくして、真辺りのが立ち上がり、図書館を出て行き、藤木亮が追った。

 我もまた、図書館を出る。

 二人は、中棟と北棟の間の中庭へと向かった。我は校舎の中から様子をうかがう。

 会話は聞こえない。たが、明らかに、ニコが動揺して言い争っている。

「ニコじゃない!」との叫びが聞こえた。

 やっぱり、藤木に気づかれ問われている。

(あれほど、うまくやれと言ったのに。)

 怒り任せに渡り廊下への扉を開けた。二人がこちらを振り向き、藤木が表情険しく頭を抑える。

 頭痛の痛みに腰を折る藤木の腹に拳を打ち付けた。

「かっ・・・はっ。」

「この間のお返しだ。顔はやめておいてやる。何かと面倒だからな。だから、もう一発。」

 今度は蹴り入れた。藤木は吹っ飛び、アベリア木々に埋もれる。

 呻きながらもこちらの動向を視認してくる藤木亮が、不快だ。非力だと言われているかのようで。現に、藤木亮が苦しんでいるのは、我と反発する頭痛の痛みの方が大きい。

「ふ、藤木っ」悲鳴を上げたニコ。

「ニコっ!バレずに上手く演じろと言ったはずだ。」

 ニコの首を掴み絞めた。ニコの顔はみるみる赤くなり、喘ぎ苦しむ。

「りのちゃんっ」

 埋もれている藤木が動くのを睨み制した。途端に苦しみ目を瞑る藤木。

「昨日も、我の言うことを聞かなかったな。」更に手に力を入れた。「我の言うことが聞けぬのなら、ここで消す。」

 ニコは口をパクパクさせ、首を振る。

「あっくっ・・・」藤木がどうにか体を起こそうともがく。「や、止めろ・・・。」

 ニコの首から手を放した。

「かっはっ・・ケホッ・・・ケッホっ」ニコは腰を折って、苦しそうに咳き込む。

 藤木は我を軽蔑した目で見つめる。何故なのか?何故、人道に劣る行為ができるのか?と。畏れ交じりの非難の表情を我に向けてくる。

「知りたいか?我が何かを。」

 藤木の顔へ迫った。藤木は自分の心を読まれた事に疑念し、自分と同じ力を持つ我に驚愕し、目を見開く。

「違うな、お前は、卑しい卑弥呼が残した視知の力があるだけだ。神巫族の末裔でもないお前が何故、その力を宿しているかわからぬがな。」

 咳の止まったニコが後ずさりをして、逃げて行く。構わないでおいた。

「我は、神と卑弥の両の力を持つ、万全なる皇!高々、卑しき視知の力があるだけで、識者きどりでいたお前とは、違うのだ。」

 項垂れる藤木亮。

「最初からお前は目障りだった。」

 藤木の髪を掴んで顔をあげた。目が開く。

「我に楯突いた罰だ。」

 一度閉じた目を開き、体中の力を左目に集中させた。熱くなる。

「我の存在を畏れ、心意に刻め。罪を受け入れ、心の奥にしまった死の願望を・・・」

 藤木亮は我の力に耐えきれず意識を失う。

「ちっ、半ばで気絶か。」









 その日の夜、熱を出して寝込んだ。力を使い過ぎた一過性の疲労だと思っていたが、次の日も次の日も熱は下がらず、一週間後、寮管理長と理事長は我を一度京都に還すことを提案してきた。親である弥神道元は同意し、我はまた森の中にある屋敷で療養することになった。

 臥せっていた間中、ずっと夢を見ていた。

 燃え盛る屋敷から女の手を引いて逃げる場面から始まったその夢は、時系列がばらばらで断片的であった為、すべてが一つの物語となって完結するには一ヵ月がかかった。


 火の手が回っていない廊下を選び屋敷裏へと行き急ぐ。不意に握る女の手が引き戻り、我は後ろを振り返る。

『双晴様・・・』そう呟いて、火の手盛んな奥間へと向かおうとする女。

『何をしてる、こっちだ。』

『双晴様を助けないと。』

『死にたいかっ』

『ええ、死んでも構いません。双晴様の御身を守れるのなら。』と振り向いた女は、柴崎麗香にそっくりだった。

『双晴も先に逃げている。いくぞ。』

 柴崎麗香そっくりの女は激しく頭を横に振り、懇願する。

『奥間を確認してきます。双雲様は先にお逃げください。』

『玲衣、お前は我の后であるぞ。』

『契りは済ませておりませぬ。』

 強いまなざしで訴え、握る我の手を振りほどいた玲衣。

『攻めて来たぞ、藤原軍勢だ!』

 屋敷を守る守衛達が、煤けた姿で火の手から逃げてくる。

『双雲様!お逃げくださいっ』


 双雲が我自身であり、夢は千年以上昔に実際に起きたことだと魂で理解していた。双雲と双晴の夢は、8月8日の華冠式の日まで続いた。

『双雲、玲衣と共に逃げてくれ。』と憂いた表情で我に訴える双晴の生まれ変わりが、藤木亮である事も認識すると同時に(あぁ、だから我は藤木亮を一目見た時から、不安、焦り、不審が混ざる苛立ちが起きたのだ。)と納得した。


『双晴様!』玲衣が悲痛の叫びをあげる。

『このまま逃げてばかりいては、民が巻き添えになってしまう。我は引き返し藤原氏と上聞しようと思う。』

『危険です。奴は、私欲に天下を取りたいが為に、神皇家を潰しに来ているのですぞ。』

『藤原氏から神皇へ上聞の訴状が届いていたのだ。今からでも遅くはなかろう。』

『神皇御身の不調を認めると、途端に攻め動いたのですぞ、あやつは。』

『・・・・。』

 双晴は苦悶に顔を歪め、こめかみを押さえた。

『双晴様、大丈夫ですか?顔色が悪うございます。少し横になさってください。』と縋りよる玲衣。

『ありがとう玲衣、大丈夫だ。』

 と玲衣に最上の微笑を向ける双晴。

 二人の姿を見て我は決断をする。

『二人だけで話がしたい。良いか双晴。』

『あ、あぁ。』

『皆の者、悪いが外へ出てくれるか。』

『危険です。守衛をせめて一人置いてください。』

『勅命だ。』

 部屋間にいる総勢8名あまりの守衛や女が息をのんで顔を見合わせた。我の言葉に皆の者は渋々黙礼し退いた。




 道元は、我が体調不良で華冠式を欠席することを望んでいて、提言しても来たが、我は撥ねた。

 初めて相対する実の父、神皇は、我の存在にどのような反応を示すか?

 とても楽しみだったからである。道元の語りでは、神皇は我が生きている事を知らぬ。生誕時に皇后と共に死産であったと思い込んでいる。

 神皇の力よって、もしくは、神意の采配によって、我の存在が明るみになるか、否か?

 賭けだった。

 我としてはどっちでもよかった。明るみになれば、その瞬間から我は双燕と同等の扱いをされるだろう。

 ならなければ、その日が来るのが先延ばしになり、それまでの間に、我は我を支援する華族の者を取り込む事が出来る。





 双晴の衣を着て、我は東へと向かう。藤原勢と相対する勢力になりつつある源氏の保護を受ける為である。

源氏には伝令を送り、二日後に浜松で合流する予定となっていた。しかし、双晴に成りすましてわずか一日後、その衝撃は訪れた。

 民の祈り、望みが突然に聞こえる。いや、体に入り込んでくるといった方が正しい。突然のあまりの衝撃に、我は地に手をついて、直前に食した物を吐いた。そして、理解する。

 双晴が死んだと。

 双晴が持つ民の祈りを受ける「受」の力が、我に移ったのだ。我らは神皇たる力を分かち生まれし双子。

片方が死ねば、その力はもう一人の方へと移り得る。

『・・・これで、我が神皇だ。』




 華冠式当日は、台風接近に伴い、朝から雨風荒れる日であった。まるで、これから起こる事を予言しているかのようで、少しそれを期待する気持ちでいた。

 我は風邪をひいているとマスクで儀に参加した。鐘が鳴り、名札のついた榊を両手で持ち立ち上がる。その一挙一動に視線を感じたが、神皇は我の存在に異を感じないようだ。頭上に榊をかざし前に進む。榊を向こう向きで置き、2歩下がり、神皇の正面に来た時、わざと顔をあげ目を合わしたが、神皇の様子は何も変わらず。こんなものかと一寸の落胆をした。

 神意はこのまま事なしに済ませようとしているらしい。平穏である事に越したことはないが、それはそれで、我の存在を無視されたようで、いささか癪にも障る。 

 神玉をもつ神皇の手が、我の頭上にかざされた。

「弥神皇生、巫氏として」

 神皇が我の名を口にした時、ピカッと派手に天窓の外が光る。時間を置かずにバシャーンと建物が揺れるほどの雷鳴が静寂を引き裂いた。一同はざわつき天窓に意識を取られている中、神皇だけが神玉の異変に声をあげた。

「玉が・・・あっ!」

 無色透明の澄んだ水晶である神玉の中心に、小さな傷が入った。その傷はみるみる伸びていく。

 驚いた神皇が後退りし、手を引っ込めた。神皇の手から落ちた神玉は、我の跪く目前で割れた。粉々に散った神玉の破片が飛んできて、我の右足首の皮膚を裂いた。

 悲鳴、雷鳴。

「神皇様っ、御身大丈夫ですかっ」

 神皇付きの世話役が駆け付け、よろめく神皇の身体を支える。

「君っ!血がっ」

「神皇様、御下がりください。汚れます。」

「玉が・・・」

「駄目です、神皇様、どうか御下がりください。」

「君も下がってっ」

 神皇付きの世話役が、無礼にも我を押し、尻と左手が床についた。神玉のかけらが左手に刺さる。

「そんな、ひどいっ」

 柴崎麗香が抗議の声をあげたが、誰も我の事など見向きもしない。 立会人として神政殿内に居た道元も、唖然として動けずにいた。

 神皇が御帳台へと下がり、錦帳降りる部屋の外へと姿を消した。

「どうされたのだ?神皇様は?」

「落雷に驚かれて、手を滑らせてしまわれた。」

「だけど、神玉が割れるだなんて。」

「不吉な。」

「宝珠が・・・。」

「三種の神器の一つだというのに。」

 立会人の親たちが我の周囲に集まってきたが、神皇と神玉の心配ばかりをする中、柴崎麗香が我に声をかけてくる。

「弥神君、大丈夫?」

「大丈夫。かすっただけ。」

「お母様、弥神君、手も怪我しているわ。世話役に押されてかけらの上に手をついたから。」

「そうなの?」

「大丈夫です。」欠片が刺さり血の出た左手とは違う右手を見せた。「ほら、何ともありません。」

「よかったわ。」

「えっ、違っ、手は」右手で前髪をかき上げて、柴崎麗香へと睨んだ。

(言うな。)

「これにて華冠の儀は終えよう。割れた神玉は集めて台へ。」

 神政殿に残った華族の面々が、我の言葉に皇前手交立姿で黙礼する。とても自然に誰も不審がることもなく。我もまた、自然に主上の立場を振舞っていた。

 そして、また大きな雷鳴が轟く。










 二学期からまた寮生活をし、常翔学園へ通う。久々に学校へ登校してみれば、色々と変化があった。

 まず、藤木亮が何ごともなく居る事。左目の力を使って心の奥そこに沈む「死」の願望を引き出した。かける半ばで気絶したとはいえ、あれだけ強くかけたのだ、影響が全くなかったはずがない。だが、双晴の生まれ変わりであるなら、それごときで死ぬはずもない事は当然であると、忌々しくも納得もする。

 りのの心にも変化が見られた。緋連の生まれ変わりである新田慎一に心惹かれはじめていた。しかし、新田真一は逆にりのに愛想をつきて、別の女、岡本悠希に心惹かれてしまっている。

 このすれ違いが、今後どう影響するのか?

 面白いと感じた。その面白い影響は、すぐに結末を迎えた。良い方向に。母親の再婚に衝撃を受けたりのは落ち込み、ニコの意識が生活の大半を補っていた。

 週明けから二学期の中間テストが始まるその日、いつものごとく図書館で心静かに時を過ごしていると突然、行かなくてはならない衝動に胸が疼いた。何の予兆もなく発生したその疼きは、神意の導きによるもの。我は素直に従った。

 学園を出て、駅前でタクシーに乗り込む。目的地は深見山国定公園。力を使って無賃で降りる事も考えたが、力の温存を優先し、素直に金を払った。ゆっくりとこの地に紡がれてきた歴史に思い馳せながら登った。

 特に何もないこの山が、何故、国の管理する展望公園となっているのか。本当の意味を誰も知らないだろう。今はもう、昔からそうであったから、国の仕組みとして管理されているだけとなっているに違いない。

 奥どまりに、その大きな樹はある。その楠木に手をかけ街並みを見ているニコ。我の気配に気づいてゆっくりと振り向いた。いつもなら、我を視認すると嫌悪の感情を起こし時に態度と表情にも出すニコだったが、それがなく、とても静かに憂いている。

 夕日に染まる街並みに顔を戻すニコは、もう子供じゃない。その表情も仕草も大人に成長していた。

 手にもつ虹玉を、夕焼けの空にかざし、そして、笑う。

「馬鹿みたい。こんなのを信じたなんて。」

 虹玉を、投げ捨てた。夕日の光を反射し、きらめいて虹玉は崖下と消えていく。

 我はニコに声かける。

「満足したか?」

「ええ、もう、十分。」

 ニコは微笑み、大きな樹を見上げて背もたれた。

 この世に未練なく去る決断したニコを、初めて愛おしく感じた。

 我は、真辺りのの中からニコの人格を消そうと、前髪をかき上げた。

「いいわ。自分で逝けるから。」

「それは、手間が省ける。」

 ニコは空を仰ぎゆっくりと目を瞑った。

 ニコの意識が蝋燭の火が消えるように完全に無くなった。そして、りのが目覚める。

「どうだ?一人の気分は?」

「寂しいわ。」

「長く、ニコが埋めていたからな。」

「ええ。」

 りのの目から涙が一筋流れる。その涙は異なる感情が同時にこみ上げた証し。

ニコが居なくなった寂しさと、真実を理解した懐かしさ。

「やっと、わかったみたいだな。」

「ええ、どうして、ここに来るのか。」

りのは顔だけ横に向けて夕暮れの空を眺める。

「無意識に、存在理由を確認しに来ていたのね。」

「とてつもなく長い時期を経てきた存在理由だ。」

「ええ・・・ここは、私が生まれた場所。そして、私は、あなたの・・・」

続く言葉を接吻で塞いだ。

我の魂の半分。

別れた魂は一つになろうと求め、引き寄せる。

「一つになる事が、我々の存在理由。」

りのは陶酔したように、満ちた表情を見せた。

余計な意識が取り除かれた真辺りのは、自分の存在理由を明確に理解し、別れた魂を求めて我と惹かれ合う。





 生徒会役員選挙―――総勢9名の役員を決める。任期は来年の1月から12月まで。

 華選に上籍した真辺りのを含めて、華族、華准の者が8名常翔学園には通っている。我を含めれば、生徒会をすべて称号持ちの者のみで構成できる。

(なんと誂えたことか。)

 新皇が生まれる時、神巫族の者も増える傾向にあると華族の祖歴に記されていたが、これほどまでに神威が働くとは驚きだ。

 我は白鳥美月に接触し、会長に立候補するよう働きかけ、その他の華族、華准の者たちにも各役員へ立候補するよう説得しろと命じた。

 柴崎麗香を会長に仕向けなかったのは、藤木亮との接触が多く、阻まれるのを懸念してだ。それに、柴崎麗香よりも白鳥美月の方が上位主義の意識が高い。柴崎麗香は学園の経営者という立場に固執した意識の方が強く、先の事を算段すれば、白鳥美月を統率者とした方が良い。

 称号の持たない者の立候補は力を使い辞退させ、生徒会員は我の従順なる配下のみで構成された。その統制は、我が神皇となるべき時、優位に働くであろう。

 柴崎麗香の経営者権限を利用して、応接室の一つを生徒会室として提供させる。

生徒会役員が揃う室内、我は上座へと歩んだ。白鳥美月が黙礼し一歩下がった。

「真辺りの、ここへ。」

 我の隣に来るよう指示すると動揺して躊躇したが、大人しく言う事を聞いて隣にくる。

「この生徒会は、華族、華准、華選の者によって構成された。これは偶然ではなく神威がもたらせた必然である。先の、この国を統率する者として、修練の場であると心せよ。」

「はい。」

 真辺りの以外の者は声を揃えて、皇前交手をし頭を下げた。流石は、神巫族の血をひく者達、多く揃うほど、我(神皇家)に従属する資性が強くなる。

(やはり、常翔学園に来て正解だったな。)

 我を崇め従う者達が居て、隣には生涯共にする伴侶が居る。

 真辺りのは、聡明なる皇后として申し分ない。我は大いに満足だった。

 図書館で書物を読む静かな時を共に過ごし、時に知識を語らう時が愉しい。学園の図書館は誰にも邪魔されない、静かに過ごせる良い場所であった。知識の語り合いは、互いの思考、趣向の確認となり、敬愛へと変化する。

「知っているか?我々が見ている色は、実はその物質が持っている色ではないという事を。」

「色の見え方の事?色は波長の違う光を網膜がとらえて識別している感覚。」

「そう、色覚の説明としては簡潔で間違っていない。我が言いたいのは色彩論だ。色には光そのものの色である光源色と光が物質にあたり反射、吸収、透過した際に生じる物質色とがある。」

「加法と減法の混色の事なら知ってるわ。」

「光の三原色を混ぜ合わせると明度が高くなり最終的には白になり、色の三原色を混ぜわせると最終的には黒になる。」「光の混合は加法混色、色の三原色は減法混色、舞台のライトと絵の具の混ぜ方で違いを理解したわ。」

「そう、物質は減法混色で成り立っている。例えば、そのりのの赤い眼鏡ケースは、赤色の波長の光を反射し我々の目は赤いと識別する。反射しなかった赤色以外の波長の光はその眼鏡ケースに吸収されている。すなわち、その眼鏡ケースは赤以外の色を持つ色の眼鏡ケースだと言える。」

「面白いわね、吸収している色が、物質が持つ本来の色だと捉えるところが。」

「目でとらえられる物は、真実を表してはいない。まさしくこの世の真理だ。」

「あなたらしい認識ね。」

「同意できないか?」

「いいえ、ありきたりな認識論を語られるよりいいわ。あなたの知識は、思慮深く独創的で面白い。」

「りの、いい加減に名前を呼んだらどうだ?」

「ありきたりに名前を呼んで欲しいの?」

「なるほど、ありきたりが嫌なら・・・オウキ・・・いや、キオウというのはどうだ。」

「キオウ、逆にしただけじゃない。でもそうね、あなたにピッタリだわ。」

 りのは「皇生コウセイ」を逆にした天邪鬼的な表現だと気に入ったが、我は別の意味を含めていた。

【棄てられた皇――キオウ】


 真辺りのと我が、恋人同士である事が学園で周知され、誰にも邪魔されない上位の者達と過ごす日々に満足し、我は油断していたのだ。だから、気づくのが遅れた。奴らが我の過去を調べて我の存在に危惧している事を。柴崎凱斗を巻き込んで、我を学園から排除する方法を模索し始めている事を。

 それに気づいたのは、中、高合同の芸術鑑賞会の場である。会場となったブリリアントクラシカルホールの出入り口にて、黒川和樹の姿を見かけた。黒川和樹はホール外の廊下の隅で、周囲に警戒しながら携帯の操作をしていた。その警戒の様子が目に付いたのだ。妙な予感がし、我は黒川和樹に近づいた。我を視認すると恐怖に逃げようとした事で、我は確信した。以前かけた左目の力が切れてしまっていることを。我は追いかけ、トイレに逃げ込んだ黒川和樹を捕まえて、力を使って語らせた。

「理事補とやっと連絡がとれて、これから理事補の自宅で藤木さんと、弥神皇生が中学時にしてきた事の情報集めと、今後の対策を考える予定です。」

「ちっ」

 藤木亮も我の左目の力が解かれかかっているという。

「柴崎凱斗の自宅まで案内せよ。地下鉄新町駅の改札口にて待て。」

「はい。」

 トイレから出て行く黒川和樹に次いで廊下へと出ると、りのが険しい表情で立っている。

「引き寄せられたか。」

「な、何をしたの?」

「わかっているはずだ。」

「わかりたくない、だけ。」

 声が重なった。

「あなたは私、私はあなただから。」

「よくわかっているじゃないか。」

 そう言って微笑み出口へと向かう後をりのはついて来る。

 エントランスの混雑は解消されて、会場前から斜め向いにある交差点まで良く見えた。中央分離帯のある大きな通りの中央で、柴崎麗香が派手な服装の男に頭をしきり下げている。先に渡っていた藤木亮が柴崎麗香の異変に気付き、踵を返して駆けつけた。何か話し合いをして、信号が赤に変わりかける時、二人は手を繋いで駆けだした。派手な服装の男は何かを叫び、何かを拾っている。二人は派手な男から逃げるように、次の筋を曲がりオフィスビルの脇へと駆けて行った。

 藤木亮を捕まえて、もう一度、左目の力で余計な詮索をしないよう抑え込まなければならない。しかし、何度やっても、 奴が双晴の生まれ変わりである以上、解かれてしまうだろう。面倒だ。まだ7ヶ月もあるのだ。

(邪魔されたくない。)

 ここで、1200年前と同じ運命を辿ってもらうのも・・・・それも必然。

 歴史は繰り返す。

 繰り返し修正を加えて、我らは一つなるのだ。

 ブツブツと悪態をつきながら、こちらに向かってくる派手な服装の男は、我の視線に気づき暴言を吐く。

「何だっお前っ何見てんだ?お前もあいつと同じ学校か、くそ生意気なっ。」

 無礼にも我の胸倉を掴んできた。

 藤木亮に対する怒りを、この無礼極まりない下衆の男にぶつける。

「ゃ、止めて・・・」と悲痛に叫ぶりのに対し、下衆の男はりのにも威嚇の声をあげる。

「あぁ!?」

 我は下衆の男を、すぐ横のビルの壁に押し付けた。

「お前っ、何っすんだっ。」

 頭を振り左目を露わにし、力を最大限に使った。

 背後で、りのが身もだえし、怯える。

 我の力により精神が崩壊した男は、目をうつろに両手を力なく下にだらけ、ブツブツと何かを言い、ふらつく足取りで、来た道を戻る。自動販売機の商品補充の為に路駐してあった赤いトラックに乗り込み、発進させた。

 ドサドサと缶ジュースが入っていた段ボールがトラックから落ちて、カラカラと缶ジュースが辺りに転がる。トラックの持ち主である、自販機の設備調節をしていた男が慌てて追いかけるも、走り出したトラックには追い付けず、頭を抱える。トラックは、交差点で対向車が来るのもお構いなく、スピードを上げて右折していった。





 柴崎麗香の悲鳴が、ビルの合間に響き渡る。

 警察、消防、救急の車両が取り巻く中、りのは茫然と立ち尽くしていた。

 意識のない藤木亮が救急車に運ばれていく状況を見て、罪を心に刻もうとしている。

 そんな悲痛に苦しむりのが、愛おしい。

 我の代わりに心痛するのもまた、我の魂の半分である事の証し。

 りのを背後から包み、優しく囁いた。

「罪など、思う事はない。あれは報いだ。」

 りのは震えながら、我の言葉をその身に浸透させる。

「どうして・・・」

「どうしてか、など、知れたことであろう。」

 すべらかな頬から首へ這わせた。

 りのは理解する、藤木もまた逃れられない我らの定めに巻き込まれている事を。

「よくわかっているじゃないか。」

 我はりのを放し、地下鉄への階段を降りて行った。改札では地上で藤木亮が事故に遭っているのを知らぬ仲間達が戯れて待っていた。黒川和樹もその中に居たが、我は耳打ちしながらすれ違い、ついて来させた。

 柴崎凱斗の自宅は横浜駅すぐの高層マンションだった。黒川和樹に先導させ部屋に押入り、柴崎凱斗にも左目の力を使い、それまでの彼らのやり取りを忘れるようにした。しかし、柴崎凱斗は力がかかりにくい。どれだけ保つか、それだけが心配だった。あと7か月、来年の交接の儀まで邪魔されなければいい。




 藤木亮は死ななかった。

 それもまた神威が働いた、互いに与えられた試練なのかもしれない。

 りのは、我の暴走を止められなかったと自責の念に駆られ、我に対して反発するようになった。

 画面がひび割れたスマートホンを手に、藤木亮が入院する病院に見舞いたいと気持ちと、自責の念で行けない気持ちで決断できずにいるりの。

「考えることもあるまい。」

 行けばよい。行って、藤木の受けた報いがいかようか、見てくるといい。

 我の意思を悟り、怯えるりの。

「行きやすいように思考を消してやろうか?」

 歩み寄った。

「やめてっ、行かないからっ、お願いやめて。」

 後退りしたりのの手から、藤木亮の携帯電話を奪う。そして、彩都の街並みへと向かって投げ捨てた。

 携帯電話の消えていった崖下の先を見つめるりのの耳元へ、囁く。

「行くといい。あいつの報いを見てくるといい。」

 陶酔するりのの頬に接吻をした。

 振り切るように我から退いたりのは、憎しみを込めて睨み、心に誓う。

 藤木の意識が戻るまで、見舞いには行かないと。




 高等2年になっても、藤木亮は目覚めなかった。死ななかったが、与えた試練は中々に重篤だ。だがしかし、そのうち藤木亮は何事もなく目覚めるだろう。奴もまた、我らの始祖である双晴の生まれ変わりとしての存在理由があり、成し遂げなければならない宿命があるからだ。

 紫陽花の花が咲き揃う頃、藤木亮は目覚めた。

 りのの験かつぎは終わった。藤木に会いに行くことを躊躇するりの。

「怖い。」

 照明の消された技術教室の窓が鏡のようにして、りのの顔を映し出している。

「恐怖に耐えてまで、行く価値などない」

「報いを見に行けと言ったのは、キオウ、あなた。」

「行かないと言ったのは、りの、おまえ。」

 りのは、振り返り我を睨む。

「行けば、報いを認識させられるだけだ。」

「報いを与えたのは、キオウ、あなたよ。あなたがその認識から逃げるの?」

「逃げる?」

「私はあなた、あなたは私。怖がっているのは私であり、キオウ、あなた。」

 我に怖さなどあるものか、反論するりのへと怒りを向けた。

「我は、統べる者だ。怖さありて、何を統べようと言うのだ。」

 りのの可愛がっているカタツムリ足をのせた。この世の生死は我の手中にある。

「やめてっ」

 りのが我を押しカタツムリを助ける。

「私は、行く。」

「勝手にしろ。」

 怒りのまま立ち去った。




 数日後、りのは目覚めた藤木亮へと会いに行く。報いの結果を見届け、更に自責を認識してきたりの。

「だから、言ったであろう。行く価値などないと。」

「あったわ。」

「報いを見届け、何になった?」

「人の強さを知って、やさしさを受けてきた。」

「あははは。面白いな。」

「ええ、だから、この世は面白いの。」

「よく言ったもんだ。その世から目を背けて長く沈んでいたお前が。」

「皆がいたから、その沈みから抜け出せた。」

「愚の者たちが、慣れあっているだけ。」

「ええ、だけどあなたが一番欲しいもの。」

「我は愚弄な者など要らぬ。欲しいのは。」

 りのに迫った。

「賢従なる者と、お前の魂。」

 長く濃厚の接吻で、我らの魂の惹かれ具合を確認する。

「捧げるわ。だから、もう誰も裁かないで。」

「くくく。」

 愛おしいりの。

 りのは我であり、我はりのである。

 その頬を撫でた。






 やっとその日は来る。

 七夕。

『選ばれし巫女はひと月間、

 祈心を反物に織り込み、

 着物に仕立て、

 そして、七夕、

 着物と共にその清らかな心身を

 神にささげる。』

 交接の場として、真辺親子が昨年まで住んでいたマンションに、りの一人が帰り住み始めていた事も、神威は、我らを祝福している証拠だ。

「神は慈悲なく、厳粛だからこそ、神々しい。」

 りのは浴衣を着て待つ。

「おいで。」

 逆らうことなく、りのは相対する。

 美しく聡明な、皇后に適した者。

 出会えた事は必然だ。

 その頬に手を添え、すべる触感は

 冷たく、やわらかい

  接吻。

 解いた帯と着物が

 衣擦れ音しなやかに、

 はだけ落ちた。

 露わになった。

 胸に同じ形の痣、

 それは古に刻まれた

 剣の傷跡。

 魂の分割の印。

 合わさる鼓動、

 同じ律動

 あえぐ呼吸

 は神との交信の手段。

 交わる体、

 絶頂による高揚は

 神域への到達。




 二夜続けてりのと性交をした。

 我らはその絶頂の果てに得られる官能を共有する。

 その期を狙ったかのように、我が神皇家の双子の継嗣の生き残りである事が発覚する。

 柴崎凱斗が、黒川和樹や藤木亮が調べていたのとは別口で、桐栄学園で起きた多数の生徒死亡事件を聞き入れてきた事によって、我の経歴を調べる内に、双燕と顔がそっくりだと気付いたのだ。

 京都から弥神道元と母が、華族会東の宗本部に呼ばれ、事情聴取される。我もまた華族会本部の一室に身を移されていた。

 華族会12頭家の内の、東の主要4家が集い密談する部屋へ、我は堂々と入った。

 柴崎家、白鳥家、諏訪家、橘家の当主を前にして、弥神道元と母は項垂れて座っていた。

「告知は済んだか?」

 驚きの表情で停止した面々。

「頭が高いな。」

 やっと一同は、慌てて椅子を降り、皇前交手片座姿をする。柴崎凱斗だけが我の存在を認めず立ち尽くしていた。

「これまでの無礼は許す、だが、これからは、そうはいかぬ。」

「凱斗っ。」

 柴崎文香が柴崎凱斗を掴みしゃがませ、やっと皇前交手片座姿をする柴崎凱斗。不貞腐れた戸惑いが可笑しくて笑った。

「上げよ。」

 我の命じで動く一同。

(そうだ、これを、この日を待っていたのだ。)

 近くの椅子を引き寄せて座った。

「道元は、我を生かせてくれた者だ。道元への罪の糾弾は許さず。良いな。」

「は、はい。」

 白鳥東の宗代表が返事をする。

 部屋が鎮まる中、柴崎凱斗が口を開く。

「何を目論んでいる。事決まっているとは何のことだ。」

「凱斗、お言葉。」

 柴崎凱斗は立ち上がる。

「目論む、とは腹に据えた企ての事、我に腹に据えた企てなどあらず。」

「そんなはずはない。わざわざ常翔学園を選んで来た、その真意がある。生徒会役員をすべて称号持ちばかりで揃えて、何かをするつもりだっただろう。」

「道元が告知したであろう。すべてが事決まっていると。」

「どういうことだ。」

「神依女(かしめ)を選び交接の儀を終えた。」

「かしめ?こうせつのぎ?」意味が分からず、おうむ返す柴崎凱斗の疑問に答える弥神道元。

「かしめとは、神の依代となる女の事、交接の儀は、7月7日の宵、その神依女が機織りして仕上げた着物を身にまとい神皇に身を捧げる儀式のこと。」

「それって・・・」まだ釈然としない様子の柴崎凱斗。

「解釈せねばならぬか?」とわざと蔑む笑いをして告知した。「しきたり通りに、七夕の宵の日、皇后となる者と性交を済ませた。」

「だ、誰だ・・・その相手は・・・」

「真辺りの。皇后にふさわしい相手であろう。」

「お前っ、まさか、力で、無理に」

「凱斗っ」

 我に向ってこようとするのを柴崎文香に取り押さえられる柴崎凱斗。

「彼女は望んで、身を捧げている。」

「うそだ・・・」

「衝撃が大きいか?気にいった女を取られて、ロリコン理事補。」

「お前っ」

 怒りを向けて叫ぶ柴崎凱斗は、橘と諏訪にも取り押さえられる。

「凱斗っ」

「か、還命新皇様・・・」

「皇生でよい。」

「皇生様、これより、どう致しましたら。」

「正しい位場所に戻る事が自然であろう。」

「正しい、位場所?」

「京宮で皇后と、嗣が生まれるまで静かに暮らす。」

 驚いた面々。

「何も問題はなかろう。」

 しかし、それが一番平穏な解決策である事を納得する皆の宗。一人、柴崎凱斗を除いて。

 その日、我はりのの元には行かなかった。代わりに白鳥と柴崎文香が事実の確認をしに、りのへと聴き取りに行く。

 皇后になる者として、京宮にて隠密な生活になると聞いたりのは、衝撃のあまり、翌日は学校を休んだ。我は夕刻、りのもとへ向かった。りのの母が世話に来ていたので、左目の力を使い、しばらく外へ出ているように命令した。りのが抗議の声をあげる。

「ママに、何したのっ」

「我にふさわしい皇后よ。」

「知らない、私は皇后なんてっ」

「知識は無用、その身を捧げるだけでよい。」

「嫌よ、身だけが欲しいのなら、他の人を当たれば良いのよ!」

 それが見当違いの意見だとわかりつつも、りのは反抗の言葉を告げる。

「他の者では意味がない事を、知っているであろう。」

「えぇ、知っている。だから、意味なんて、私にはどうでもいい。」

「意思も無用、我らが異性で生まれた神意が、ここにあるだけだ。」

 りのの上着の胸元を大きく引き下ろし、痣を指さした。

 呼吸が合い。

 死滅再生を繰り返す細胞のリズム

 同じ瞬間を刻む

 惹かれあう魂。

 求めあう体。

 唇が触れる間際、

 拒んで我の身を押すりの。

「神意に背く、私は私。」

「出来ぬ事だ。お前の魂は我の魂。半分だ。」

 迫る我を睨みながら後退して逃げるりのは、台所に突き当たる。

 まな板の上に調理途中の食材が散らばっていた。りのは包丁を掴みこちらへと向ける。

「神器としては、質素だな。」

「飾りじゃない、よく切れるわ。」

「知らぬか?神皇家の者は中々死なぬ。」

「もっと、早くこうするべきだった。」

「だから神の名がつく。」

「もう、うんざり、縛られるぐらいなら、」

「だから解放を目指して、我々は、」

「死んで・・・」

 怒りに満ちて、唇を嚙み、その先の言葉を詰まらせるりの。

「生まれた。」

 りのは我の言葉を身に染みこませるように、目を瞑り息を吐いた。

そして、震える手で握った包丁をくるりと向きを変え、微笑む、美しく。

「何をする・・・。」

「こうして、私達の魂は別れた。」

 りのは自分の胸にある痣に刃先を当てる。

「やめろ・・・りの。」

 我は左目の力を使い、りのの動きを止めようとした。

 しかし、りのの動きは止められない。

「何故効かぬ。」

「絶頂の先に無を知ったから。」

「無・・・」

 そう、確かに知った。

『無』は神意の総意。無から魂は産まれ、魂は無へと還る。

「神意は無慈悲に単純。」

 りのは自身の胸に突き刺そうとする。

 のを、我はりのの手を掴んで止めた。しかし、りのは片方の手を包丁から放し、我の体を強く引き寄せた。

「やめっり・・」

 りのは我の言葉を遮るように接吻をする。

 刃物が肉体に食い込んでいく感触を手に・・・

 しびれるように

 苦しく、心地いい。

 抗いたくて、浸りたい。

 官能。

 感応。

 神呪。

 神呪。

 唇を離したりのは、囁く。

「還すわ。あなたに魂を・・・」

 りのは微笑みながら我から離れる。

 その美しさに我は見とれた。








「や、弥神・・・お前っ!」

 新田慎一の叫びで我に返る。

 床に落ちた包丁が血にまみれている。

「りのに、何したっ!」

 叫び向かってくる新田の勢いに押され、ダイニングの椅子に落ちるように座った。

 肉体に刃が食い込んで、抜いた嫌な感覚が手に残っている。

「し・・・ん、い、ち・・。」

「りのっ。」

 新田に抱えられて仰向けにされたりのの胸は、真っ赤な血に染まっている。

「い、いいの・・・」

「りの、しゃべるなっ、いま救急車を。柴崎っ救急車!」

 我が刺した・・・

 歴史は繰り返し、修正し、悔い改める。

 それが、神意が我々に課せた宿命だというのか?

 意識が遠のく、いや、魂に意識が引き込まれると表現した方が正しい。

(あぁ、また、やり直さなければならぬか・・・。)

 いつの間にか、柴崎文香が目の前に居た。

「還命新皇様、部屋を出ましょう。」

「・・・我は・・・」中々、死なぬ。それがもどかしい。

「怪我はございませんか?」

 柴崎文香がハンカチで、我の手に着いたりのの血をふき取った。されるがまま、何もできなかった。

「凱斗、綺麗なタオルを探して持ってきて。」

「嫌です。こんな奴の為に。」

「凱斗っ」

 柴崎凱斗も部屋に居る事に今気づく。

「人を刺した新皇など、今までに居ましたか?」

「やめなさいっ凱斗!」

「こいつは、神皇家千七百年の歴史の神聖を犯した異端だっ。」

 その言葉が胸に鋭く突き刺さる。

「あぁ、そうだ。我は千七百年来の存在。聖と邪の力を併せ持つ唯一無二の、異存の皇だ。」

 意気込で立ち上がったが、ふらつき、どうにも立っていられなくて倒れ込む。

「新皇様っ。」

「くっ・・どうしてだ。」

「人の血に汚れて体調を崩すのです。部屋を出ましょう。凱斗、手伝って、新皇様を外へ、屋敷に来ていただきましょう。」

 反抗する柴崎凱斗を柴崎文香が叱り窘め、柴崎凱斗に担がれる。悔しいかな、そうしないと歩けなかった。

「きもい、ロリコン理事。」と牽制するも、柴崎凱斗は応戦する事も無く我を車に運んだ。

 柴崎凱斗が運転すると思いきや、彼は車にも乗らず、見送られる。

 我は柴崎家に連れていかれ、ベッドに寝かされるも、意識が魂に引き込まれる感覚が強く襲ってきては治まる、波のような感覚を繰り返す。それは現世と幽世を行ったり来たりしているのだと理解するも、自身でどうする事も出来ない状態が続いた。神意も、我の処遇を迷っているのか。

 そんな中、柴崎凱斗が部屋に現れる。

「無礼であろう。」

「承知でなければ、来ない。」

「それもそうだな。」

 笑おうとして、意識が途切れそうになって、体が揺れた。

 ベッドにしがみついて揺れる自身の体を止めた。柴崎凱斗はそんな我を冷酷に観察するだけ。この者だけが、自身の想いに正直だ。

「何故、りのちゃんを刺した。」

「お前は、何故生きている。」

 僅かに顔を歪めた柴崎凱斗、この者の経歴は、道元から聞いていた。日本人でアルベール・テラ帰りの激戦を知る兵士上がりであった。人の死に際を数多く経験してきたはずだ。その者に生死の意味を問うのは、きっと傷をえぐるような思いであろう。

「答えられないであろう。我も同じだ。」

「同じなわけないっ」

「何を言っても、言い訳にしか捉えないであろう。お前が今、生きている理由と同じに。」

「ちっ・・・。」

「欲しい言葉を作ってやろうか?」

「そうだな。それを遺言として残してやる。」

 柴崎凱斗は我の首を掴む。我はされるがままにした。左目の力を使えるだけの力も気力もない。迷いのある神意がどう結論づけるのか。答えを待つ。

 柴崎凱斗は、我が左目の力を使い阻まれると思考し、首を絞める手と反対の手で尻のポケットから小型のナイフを出し、太ももに向けて降ろす。寸前、その手を掴み止めた。

「案ずるな、今、力は使えない。」

 険しい表情で柴崎凱斗は疑問に首を傾げ、掴んだ首の手を離す。

「その力は、一体何なんだ。神皇もそのような力を持っておられるのか?」

「これは我のみ、道元の目を移植して得た物。」

「移植して、得るような物なのか?」

「他の者の事は知らぬ。我は得た。道元が元より持っていた視知の力を。」

「視知の力?」

「視覚に宿り知る力、卑弥呼が残した力だ。」

「卑弥呼・・・」

「卑弥呼が何故ヒミコと呼ばれたか、知っているか?」

「いや・・。」

 もし、このまま死ぬのであれば、我がもった力の根源などを話しておくのも、この先の為になるやもしれぬと判断した。

 華族の者は神皇家に崇拝するあまり、嘘も厭わぬ繕いをする傾向にある。それは我ら神皇家が未来永劫存続する上で必要な事だが、過去の真実が消失されてしまう。柴崎凱斗なら、崇拝過ぎるという事がなく、正確に残してくれそうな気がした。

「西暦230年、五感に秘めた力を宿す一族がいた。のちに神巫族と呼ばれ、現代で華族と呼ばれるお前たちの祖先だ。その一族の者は、五感のうちの一つに秀でた力を持っていた。目、耳、鼻、手、口に、視る力、聴く力、嗅ぐ力、触る力、言う力、それぞれに秀でた秘力で、小国をまとめていた。当時、各地で小国の争いが多発していた。欲望の争いに世は荒れている。そんな中、五感に秘めた力を持つ神巫族の中に、五感すべてに秘力を宿す者が現れた。その者は、絶大なる秘力で近隣小国を治め、大国を手にいれる。にも、欲望は尽きることなく、力に自惚れ、更なる力を求め、神の力を手に入れようとした。その者が卑弥呼だ。゛極めて卑しく天に力を求めた者と名を遺す者゛との意味含め、後に卑弥呼と呼ばれるに至った。その卑弥呼の力によって地に降ろされたのが、我々、神皇家の祖だ。初代の皇は、天の人と呼ばれた天人神皇、その継嗣から神皇家は神の子と崇められ、現代まで続く。」

 これらの事は、華族の祖歴に記されている。しかし、誰でも閲覧できることじゃない。現に柴崎文香や麗華は、その卑弥呼の力を微かに持ち合わせ生まれた者でありながら、その根源を知らない。

 大きく息継ぎをして続ける。

「本来、神の力と卑弥呼由縁の力は交わる事はない。神皇が神巫族の者を神依女に選び性交したところで、生まれる継嗣は神の子であって人ならず。だから、現代に至るまで神皇家は途絶えることなく神の力を宿す嗣が生まれてきた。」

 これは我自身が書物を読み漁り、体感と共に導き出した論説だ。

「お前は・・・」

「我は、移植により卑弥呼の力の一つである目に宿る力を得て、神と卑、両の力を持った。天地征夷する唯一の存在だ。」

「・・・の割には、弱弱しいな。力が使えないのなら好都合、16年前に捨司の役目を放棄した弥神道元の代わりを、俺がしてやる。」

 再び、柴崎凱斗は我の首へと手を伸ばす。今度は両手だった。その慈悲深さに柴崎凱斗の優しさを見つける。

「りの、捧げよう我の魂を、そして、無に返そう神意を。」

 気にかけていた生徒を傷つけられて、怒り心頭に我を殺すことしか頭になかった柴崎凱斗が、我の言った言葉で、力を入れる事に躊躇した。

 戦場で何人もの人を殺してきた者が、殺したくても殺せない立場と気持ちの板挟みに陥り、戸惑っている内に部屋の外が騒がしくなった。柴崎凱斗は舌打ちをして部屋の外へ様子を見に行く。

「神意は、我を生かし、更なる混沌へと世を向かわせるか、それとも・・・」

 絶望と希望が混ぜ合う、何とも言えない気持ちが胸を渦巻く。

「双燕にはなむけの剣を手渡すか・・・。」

 部屋がノックされ、扉が開かれる。

 双燕と共に屋敷に残っていた華族の面々が部屋に入って来る。

 双燕は黒い和調の服を着ていた。

 全く同じ顔、違うのは髪型と衣服、そしてその内に秘める「送」「受」の力。

「同じ・・・」とつぶやいたのは双燕の世話役であろう女。

「鷹取千尋様、どうして双燕新皇様をこちらにお連れに。」

 白鳥の問いに双燕が口開く。

「我が無理を言って宮を出て来た。」双燕は改めて我に向き直り再び口開く。「ずっと、感じてはいた。薄く微かな陽炎のような気配、対なる存在を確信したのは、5日前の宵。」

 5日前は、りのと性交した七夕の日である。

「その頃から、双燕新皇様は外に出たいと申されて、お止めしていましたのですが、今日は聞き入れてもらえず。」

「強くなっていた対なる存在が、夕刻突然、消えそうに弱くなった。何故だ?」

 我と相対する双燕から、波動のような物を感じた。

「理由など必要あるまい。我が死ねば、お前は神皇たる力が完全になるのだ。」

「神皇たる力・・・」

「神の子神皇は、民の祈心を受け、厄災を沈める祈祷を大地に送る。それら民と神皇の祈りの力を受け送る力を持って、神皇として崇められる。神皇家に生まれる双子は、その送受の力が別れる。ゆえに捨て殺さなければならない。」

「あなた様は・・・」と鷹取千尋と呼ばれた双燕の世話役の疑問に、我は答える気力も尽きて顔を背けた。

「還命新皇様です。16年前、弥神道元が、捨司の役目を完了できずに、お育ちになられました双燕新皇様の双子の新皇様です。」

「還命、よくぞ生きて・・・」

 事もあろうか、双燕は両腕を広げて歓迎するように破顔する。

「戯言をっ、我の存在に気付いたのなら、死を望んで当然。分かれた神の力は、どちらかの死をもって移行し合わさる。」

「やっと会えた兄弟の死など望まぬ。」

「やめよっ」

 その偽善じみた台詞が不快で、我は立ち上がり広げた双燕新皇の手を振り払った。しかし、また意識が魂に引っ張られ、立っていられなくなった。

「還命新皇様っ」

「皆、望む所であろう。我は存在してはならない過ちの嗣だ。」

 静まる中で、双燕が口を開く。

「過ちは、お主の存在ではない。」床に手をついた我の手を重ね握る。「死なせはせぬ。そなた、麗香さんと申したか。」

「は、はい。」

「こちらへ」

 呼ばれた柴崎麗香が、我らの横で皇前交手片座姿でしゃがむ。

「そなたには触の力がある。」

「触の力・・ですか?」

「そう、神巫族が五感に宿した力の内の一つ、触の力は、病を治癒する癒しの力。この手を握ってもらえるか。」

 我の手を柴崎麗香に握らせようとする。

「やめよっ」

 拒むと双燕は我の額に指二本を当ててくる。身動きが取れなくなった。

「今日、何かあったか申せ。」

「還命新皇様は、神依女に選ばれた者を刃物で刺し、その者の血の汚れにより弱られております。」

「汚れ?」

 首を傾げて我の様子を覗き込む双燕。

「その神巫女はどこの者だ?」

「双燕新皇様も一度とお目通しされています。昨年華選に上籍しました真辺りのでございます。」

「あの者・・・なるほど。」

 双燕新皇は立ち上がって告げる。

「その真辺りのさんの所へ、参ろう。」

「双燕新皇様、もう宮へ帰りましょう。」と鷹取千尋。

「還命のこれは、汚れによるものではない。あの者は還命と共魂する者。真辺りのを良くせねば、還命は良くならず。であろう。」

 悔しくも我らの性質を誰よりも理解している。

「余計な事を・・・」

「真辺りのは、今、病院か?」

「は、はい。」

「夜更けに申し訳ないが、麗香さんも来てもらえるか?そなたの触の力が必要である。」

「はい。」

「絶好の機会を逃すのか?」

「車の用意をせよ。」

 我の問いを無視し、華族の者に指示を出す双燕。

「我は、卑弥呼の力をも得た、送の力でもってしてお前の死を求めるかもしれぬぞ。」

今、万全であるなら、絶好の機会である物を・・・

「かまわぬ。」即答し我をまっすぐ見つめる双燕。「それが神意ならば受け入れよう。」

 その言葉に偽善などない。それが受の力を持つ、我と同じ顔をした双子の継嗣、双燕の御心だった。


 そうして、りのが運ばれた病院へと向かい、柴崎麗香の触覚の癒しの力を我らの力で増幅し、りのの傷を癒し、死への道を塞ぎ現世へと魂を戻した。引きずられていた我の魂も我の中にしっかりと戻り、それに伴いふらついていた身体も元通りになった。





 鷹取千尋により、神皇皇宮宰司である鷹取靖前に我の生存の事実が報告される。鷹取靖前と先刻に知る華族会東の宗代表を含む主要四家、そして西の宗代表弥神道元が集まり、我の処遇をどうするかの話し合いが行われる。

 その話し合いは一日では終わらず、それぞれの立場、主に鷹取靖前の個人的固執による否定意見が、大きく占めて邪魔をし進展せず、3日に及んだ。我はその間、華族会本部のある帝国領華ホテルの一室に匿われていた。

 鷹取は、立場も心情も我の存在を認めず。

 道元は、若き日の捨氏としての役目を果たせなかった負い目から、我を擁護する心情を口にはできず、かつての権威は失墜するばかり。

 西の宗と対立していた東の宗の面々が、道元の心情に寄り添い、我の存在を認め擁護する側だが、古より神巫族随一の神皇側近として仕えてきた鷹取家の威厳の前では、たとえ華族会十二頭家がすべて揃おうとも、太刀打ちできない状態だった。

 そんな中で、柴崎凱斗のみが、我を人の範疇で咎め、皮肉を容赦なくぶつけてくる。

「還命新皇を認めない鷹取家の独裁で、お前のささやかな望みもままならない。鷹取を洗脳して、望みを叶えたらどうだ?もう使えるのだろう、その左目の力。」

 暇つぶしに読んでいた書物を閉じた。読んでいたのは、華選第一号の徳重という者が書いた本「国家と神格」。

「国際化の進展は、国家の品位と神格の衰退をもたらす。らしい。」

 立ち上がり、その本を柴崎凱斗に突き出した。

「その変容を外から見届けるか?」

 柴崎凱斗は混迷する華族会の話し合いに見切りをつけ、独自に我に制裁的な処遇を考えていたが、それを実行するのをためらっていた。我は左目の力で、その躊躇いを取り除いてやった。

 受け取った本をテーブルに置き、我を促す柴崎凱斗に続いて部屋をでる。エレベーター前にいる受付担当の事務職員が我らを見つけて慌てて立ち上がる。

「凱斗さん、どちらへ?」

「ちょっとね、散歩に。」

「鷹取様はご存じで?」

 信用しない受付の華族の者は、内線電話に手を掛けながら詰問する。

 我は柴崎凱斗を押しのけ、受付の者の額に、指二本を押し付け座らせた。そして頭を振り現した左目を事務員の顔に寄せる。驚愕した目に力はよく浸透していく。事務員は何事もなかったように業務を続ける。

「万能の力だな・・・。」

 呆れ気味につぶやく柴崎凱斗と共にエレベーターを乗り込んだ。カウントダウンしていく階数表示を見上げる。柴崎凱斗はスーツの内ポケットから赤い表装に国紋の入った手帳を取り出し、自分の行動に首を傾げる。

「俺も、力を使われていたのか?」

 パスポートを掴み取った。中を検めると、趣きのない名が記されていた。

「もっとマシな名を考えられなかったのか?」

「贅沢言うな。」

 渋々承諾し、作らせたばかりのパスポートを尻のポケットにねじ込んだ。

「まぁよい。」

 互いに別の意味を含めたため息をエレベーターに残し、外に出る。




 初めて乗る飛行機の窓から、我は祖国を上空から見下げる。

 神の視点はこれよりもっと上だろうか?とくだらない事を思う。

 

 国を捨て責務を放棄する我に、

 神意はどうのような処分を下すのか?

 神皇たる力の片方しか持たぬ双燕を神意は継嗣として認めるのか?

 完全ではない継嗣を持つ祖国日本は、どうなるのか?

 それらは、我が天に還されなかった時から、神意による試行錯誤。

 

 目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。

 鼓動に意識を集中させ、脈打つ波動の先にりのの存在を確認する。

 我と共鳴するりのの魂。

 これで、りのも海外へと向かわせる神威が働くであろう可能性を信じて。

「りの・・・これで詫びよう。」

「何か言った?」

 隣に座る柴崎凱斗が、覗き込んでくる気配を無視して、そのまま目を瞑り続けた。









「私に子供の面倒を見ろと?」

 と首を傾げ微笑む顔を向けられた瞬間、何故か心の奥底で懐かしい感情が強く煌いた。

 柴崎凱斗が我を連れてきたのは、中華人民共和国の特別行政区である香港。

 異国の地に初めて降り立った我は、日本とはまた違った空気とエルネギーに、眩暈を起こすほどの圧巻を感じた。

 馴染みある日本企業のロゴが多数目立つビル群。それだけ経済大国日本が、アジア拠点の一つとして重要視している証である。場所を柴崎凱斗に指定したわけではない。どこへ行くかは、柴崎凱斗任せであった。我は、香港経由で他の国へ、アメリカぐらい遠くへ行くのだと思っていた。しかし、香港に着くと柴崎凱斗は空港の外へ出て、タクシーに乗り九龍市内へと指示を出した。我は、今日は香港で一泊し明日また飛行機に乗るのだと思っていた。


 レニー・ライン・カンパニー アジア統括本部。

 柴崎凱斗は受付でゲストと書かれたカードを受け取り、我に手渡した。そして8台あるエレベーターの一番奥の最上階へ直行するエレベーター機の前で、自ら持つパスをスキャンし、エレベーターの扉を開けた。使ったパスは、柴崎凱斗自身の名前が書かれたカードであった。

 我が評価している以上に、柴崎凱斗という男は、秀逸であるのかもしれない。

 副代表執務室のプレートのある部屋へと連れられる。

 部屋には40代とみる黒髪黒目のアジア系人と、20代とみる金髪茶眼の西洋人が居た。

英「やぁ、久々だね。ミスターカイ。」

 とフレンドリーに握手とハグをしあう柴崎凱斗と西洋人。

英「やぁ、クレメンティ。」名前が判明する。

 重厚なデスクに座り、目を細めて微笑むように我を見つめるのが、この会社の副代表であろう、その前で、柴崎凱斗は改めて姿勢を正し、頭を下げた。

英「突然でもうしわけありません。」

英「しばらく連絡も取れずに、あきらめかけていれば、突然に連絡を寄こし、珍しく頼み事。」

英「彼の経歴は読んでいただけましたか?」

英「あぁ、こうして紙面にしてまで、じっくりとな。」

英「では・・・」

 柴崎凱斗の続く言葉を遮るように、手に持っていた書類を机に投げ捨てるように置いた副代表は、急に言語を日本語に変えた。

「私に子供の面倒を見ろと?」

 と首を傾げ微笑む顔を向けられた瞬間、何故か心の奥底で懐かしい感情が強く煌いた。

「二十歳です。日本では大人と認められる年です。」

「二十歳・・・それより若く見えるが。」

「日本人は、年齢より若く見られますから。」

「事故による記憶障害・・・」

「身体的には何ら問題ありません。記憶障害もただ自身の経歴を一切喪失しているだけで、日常生活に支障があるわけではないので。」

 机に置かれた我の経歴を見ると、

日野本翔太 1993年6月25日生まれ

国籍 日本 東京都 板橋区

最終学歴 常翔大学中退

中退理由 交通事故による身体及び記憶障害による学習困難により、本人の希望による

 その他、偽造した我の成績などが連なっている。嘘ばかりの経歴が、突然恥ずかしく思えて、我は顔を逸らした。

「それと、面倒ではなく、あなたのそばで、世界を見せてやってほしい、世界一流の世界を。」

「できる言語は?」

「日本語。あと、英語も少しは出来るな?」

 振り返り問う柴崎凱斗の言葉を無視した。英語の出来具合など自身ではわからない。英会話など中学3年間と常翔の1年半しかやってないのだ。それに何も知らされていない。

 柴崎凱斗は我の罪科の償いに何を求めているのか?

 長い沈黙に包まれる。

 軽い息を吐く副代表は、座っていた椅子から立ちあがり、デスクを回り、出てくる。

 柴崎凱斗の立ち位置を退かせる仕草が品よく、紳士という言葉がこの人を模範して作られたと思うほどの所作に見惚れながら、そんな風に高評価する自身が不思議だった。

(まだ何も知らない者であるのに・・・)

知らない?では、先ほどの懐かしさは何なのか?

見定めるように見つめてくる副代表と視線が合い、胸の内が熱くなる。そうなった自分の胸の現象に驚いた。

 瞬間、柴崎凱斗の叫びと共に、我は突き飛ばされ、後退して尻もちをついた。目前の絨毯に、焦げた穴から煙が上がっている。それが銃弾の跡である事、撃ち殺されるところだったのだと理解するのに束の間の時間を要した。

 唾をのみ、やっと息ができる。

「何をするんです!ミスターグランド!」柴崎凱斗が息巻く。

「英語もロクに出来ず、日本語だけで私のそばで世界を見ようなど、レベルの低い冗談はやめてもらおうか。」

 意気消沈する柴崎凱斗。

「ただ一つ、死ななかった、その運だけは買おう。私の側で世界を見たいのなら、話せる言語を増やすか、それを超える術を持って願い乞え。」

 死ななかった・・・神威は異国でも働いた。

 その神威の事象を、ビジネススキルの一つとして扱い、信仰ではなく、ただの技能と判断するミスターグランド佐竹副代表。

 この人は・・・我を取り巻く呪縛のような神威をも、手駒にする。

 それは、ただ崇め諂うだけの華族の者達とは違い、我の存在をただ人と認め、自身の野望に取り込もうとしている。

 我は何故だか発生した胸のときめきが、左目へと集結しそうになり、慌てて頭を振って髪を降ろし俯いた。




「いやー、驚かせたね。まさか、銃をぶっ飛ばすとはねぇ。」

 無駄にお道化た声で話す柴崎凱斗。

「当たらなくて良かったよ。」

「・・・。」

 レニー・ライン・カンパニーのアジア総本部のビルから退散した我らは、香港のホテルで一泊し昼過ぎに空港へと向かう。 上海へと移動した。そこでも1泊する。レニーの総本部ビルを出てから、柴崎凱斗は誰かと連絡を取っていて、誰かからの連絡を待っている様子だった。その連絡がついたのか、また昼過ぎに、今度は小さなプロペラ式の飛行機に乗って河北省の武漢天河空港へと向かった。武漢の空港を出てからはレンタカーを借りて移動する。どこへ行くか柴崎凱斗は言わなかったし、我も聞かなかった。柴崎凱斗が、我を断罪しなければならないという責務を、心に抱えたのを知っていたからだ。

 手に未だ残る刺した感触。断罪したがっている柴崎凱斗の要望に応えたら、この手に残るいやな感触は消えるだろうか?

 山間の村に着いた頃にはすっかり日が暮れていた。遠くの山の向こうに十六夜の月が綺麗に浮かんでいた。

 村のはずれにある古びた平屋の家屋の前で車は止まり、柴崎凱斗はつぶやく。

「ここ?」

 柴崎凱斗自身も知らないでここまで来たようだ。自身で問いかけ、そして答えている。

「いや、間違いない、送られてきた座標の数字はあっている。」

 車のエンジンを切りヘッドライトが消えると、暗闇に包まれる。

 一言で説明すれば、朽ちて放置された寺、という表現が最適の様相をしていた。門扉や塀は今にも崩れそうになって傾いているし、所々に土台だけになっていて敷地内が見える状態だ。入口以外に2か所ほど中入る事が出来る。その傾いた門扉へと歩み向かうも、扉は当然にない。

 後ろをついて歩きながら、柴崎凱斗の足音がない事に気づいた。自分の足音だけが闇に響きわたっている。真似て音を出さないように歩くが、柴崎凱斗のように無音に歩くことはできなかった。

 焼け朽ちた門扉をくぐる。左右に灯篭らしき残骸、井戸があり、雨よけに屋根がつくられていたが、竹で作られた屋根はまだ新しくそこだけが周囲から浮いていた。

 柴崎凱斗は立ち止まり、後ろ手で我にも止まるように押さえ、しゃがんだ。周囲を警戒するその様子は、少し前まで言い訳しながら首の後ろを掻いていたのとは一変している。周囲を警戒しながら、足元の石を数個拾った。それを崩れた灯篭の間へと転がす。すると何かが月明かりに反射して光ると同時に、左右の茂みと崩れた灯篭付近で音がし、柴崎凱斗が急に身をひるがえし我に抱き着くように覆いかぶさる。タンと後方でも音がする。

「くっ・・・。」

 我の耳元で唸りをあげた柴崎凱斗。

「なっ、なんだ。気持ち悪い・・」

「ここで、間違いない。」

 そう言いながら立ち上がり、家屋へと向いた柴崎凱斗の背中に、小型のナイフが刺さっていた。

「お、お前・・・。」

英「相変わらず容赦ない警戒ぶりだな。」と降参のように手をあげる柴崎凱斗。

 朽ちかけた家屋の屋根に黒い物が揺れたと思った瞬間、それは消え、家屋の下へと移動していた。

 伸びるようにその黒い物は立ち上がり、こちらに歩みながら空を切るように手を振る。と、あちこちからビュンという風切り音がして、何かが飛んでくる。

英「おいおい、本気かよ。」

 飛んできた物を見れば、竹を削って尖らせた物で、まるで忍者屋敷のように仕掛けが施されていた。その者は、我らと対峙する為に仕掛けを切りながら歩んできていたのだ。我らと二メートルほど間をあけて立ち止まったその者は、顔を隠していた黒い布を首からめくり取った。伸びた髪を無造作に後ろでくくり、無精ひげを生やした中国人。年は柴崎凱斗とさほど変わらないように見えた。

英「元気そうだな。」

 柴崎凱斗がそう言いながら一歩足を前に踏みかけた時、その者は足で土を払いながら地面を掴み取った。砂埃が舞い、我らは目を瞑る。開けると、目の前には深く掘られた穴があり、中には竹槍が、落ちた者を串刺しする原始的な設計の落とし穴。

 柴崎凱斗はため息をついてうなだれ、まだ地に降ろしてなかった片足を後ろへと戻すと、ナイフが刺さったままの背中が痛んだのか、「うっ。」と唸った。我はそのナイフを抜き取ろうと手を伸ばしたが、

「奴にやらせるからいいよ。今抜くと血が噴き出るし。」と苦笑する。

 そして、落とし穴を迂回しようとすると、その者は、片手で何かのサインをすると家屋に戻っていく。

 柴崎凱斗はまた大きなため息をつく。

「待ってろって、渡し板を取りに行った。こっちにも落とし穴があるらしい。」と周辺を指さす。

「・・・。」

 その者が長い板を運んできて、やっと我らは家屋の前まで行くことが出来た。

 玄関に入る時、柴崎凱斗は壁や天井を見渡し

英「ここにも仕掛けてんじゃないだろうな。」と警戒する。

 その者は何も答えず、三和土を上がり奥へと消える。

「大丈夫みたいだ。上がろう。」

 明かりが一切なく、外よりも暗くなったのにも関わらず、その者と柴崎凱斗は、上り間口の段差も正確に踏み外すことなく上がっていく。

 我には全く見えなくて、盲目になったように手さぐりしている内に、置いて行かれた。

 踏み出すたびに軋んだ音が鳴る床。我よりも体重があるはずの二人は、一切の音を鳴らさずに奥へ進む。

「あぁ、悪い。俺らは夜目が効くから明かりは不要なんだ。」

 柴崎凱斗は戻って来て、携帯のライトで足元を照らしてくれた。

 廊下を進みすぐの扉を入った所は、何もない空間だった。真っ暗で何も見えないが、床の軋んだ音が、やたらと響き渡り、その広さを反響させた。

 やっと暗闇に眼が慣れてきて見渡していると、その者が手にランタンと火のついた蝋燭の入る瓶を手に持って、奥から出てくる。

英「えっ、ここ電気通ってないの?」

 その者は頷く。一切しゃべらないその者へ柴崎凱斗は英語で話しかけ、そして外の数々のトラップの設営から、柴崎凱斗のかつての戦地仲間だろうと推測する。戦地で声帯を壊したのだろうか。

英「まぁ、俺は落ち着くが・・・」と我に振り向くが、無視した。

 その者は部屋にランタンと蝋燭の瓶を床に残し、また廊下の奥へと出て行く。どうやら廊下の奥にも部屋があるようだった。

 柴崎凱斗が広間の壁側へと歩み、木製の雨戸を開けた。入ってきた正面より南側の側面になる。縁側があり、月明かりが入り込んできて部屋は全体が見渡せるぐらいに明るくなった。部屋の柱や天井だけが、やたら豪華な装飾が施されてあるが、色あせ剥げ落ちていて、質素なのか豪奢なのかわからない。外観の様相とこの部屋の様相を総合的に観察して、寺なのではないかと予想するが、部屋の中には仏像など神仏を象徴する置物などは何もない。

 開けた戸から、冷えた空気が底を這って入って来る。夏と言えども肌寒く日本の秋のような気候だった。

英「勝手に開けるな。」

 突然声がして振り向くと、我のすぐ後ろに、その者が立っていて驚いた。

英「俺は良いけど、彼が埃っぽいのは嫌だろうと思ってね。」

(しゃべれないわけじゃないのか・・・)

 その者は水の入ったバケツと布製のボストンバックを持っていて、それを床に置き座った。脇に抱えたタオルをバケツにほおり込み絞る。まるで今から床掃除でもしそうだった。

 ボストンバックを開け、中から小さなポーチを取り出した。

英「うわ、まだそんなの持ってたのかよ。」と柴崎凱斗は驚きの声をあげる。そして、ボントンバックの中を漁り、「リジェプロまで・・・期限切れてる・・・」

 その者は、不愛想に手で座れのサインをし、柴崎凱斗はその者に背を向けて座る。そして、何の合図もなしに肩に刺さったナイフを乱暴に引き抜く。

英「うっ、言ってから抜いてくれよ。」と痛みに唸る柴崎凱斗を無視し、抜いたナイフで柴崎凱斗の着ているダンガリーシャツの背中の部分を切り裂き、傷の処置を始める。切り取ったダンガリーシャツで流れる血を抑えふき取りもする。

 肌が露わになった柴崎凱斗の身体に、我は目を見張った。無数の傷は薄暗いランタンの明かりでも良く見えた。最もひどい傷が左わき腹にある、ケロイド状にひきつった火傷の痕。柴崎凱斗が癖のように掻く首の後ろの付け根も、赤く歪に皮膚の符合をしたと思われる傷跡があった。

 その者は新たに増えた肩の傷口を指でつまむ。

英「あー忘れてた。彼は人の血に弱いんだった。」

英「何?」

 我に顔を向け、痛みをこらえながら言う柴崎凱斗。

「ごめん・・忘れてたよ。終わるまで部屋の・・・外に。」

アルミ素材のパックを口を使って開け、中から出てきた濡れた脱脂綿を傷口に塗りたくる。微かにアルコールの匂いがした。滲みたのか、片目をつぶって痛みをこらえ葉を食いしばりながらも、我に気遣う言葉をかけてくる。

「また・・弱られて、倒れられても・・困るから。」

こいつは、我を断罪したいのか、敬いたいのかわからない。

「あれは穢れで弱ったのではない。我は目の手術で免疫が出来ている。」

「そうか?」

バシッュと音がして、その者の手元に視線を戻すと、ホッチキスのようなもので、切れた傷を止めている。3回止めた所で、ホッチキスはポーチに仕舞われ、大きな絆創膏を貼り処置は終わった。

「あーあ、買ったばかりの服なのに・・・。」と血まみれたダンガリーシャツの残骸を見て嘆きながら、腕を回し背中の具合を見ている。ついさっきまで痛みに唸っていたはずだが。

「痛くないのか?」

「さっきの、アルコールの匂いがしたやつね、局部麻酔液も含まれているんだ。」

 その者は、さっき柴崎凱斗が手にして驚いていた薬と別の薬も手渡し、部屋を出て行った。銀色のフィルムに包まれたそれらの薬を柴崎凱斗は水なしで飲み込む。

「お前は、我を断罪したいのではないのか?」

「断罪・・あぁ、許しはしないよ。どんな理由があろうとも、俺は、りのちゃんを刺したお前を許さないし、贖罪をしてもらうつもりでここに連れてきた。」

「その思いがあって何故、怪我をしてまで我を守った?」

「そういえば、そうだな。」と柴崎凱斗は首の後ろを掻く。

 呆れてため息を吐いたら、柴崎凱斗はつぶやく。

「俺の求めている断罪は、目には目を歯には歯をのハンムラビ法典式じゃない。更生だ。」

「こうせい?」

「そのくそ生意気な、皇様気質からの更生を望んで、ミスターグランドの傍で世界を見、上には上がある事を知ってもらうつもりだったが、当てが外れた。」

「・・・・。」

 その者が薬缶と湯呑を持って戻って来る。

「彼はここで、武術の道場を開いていてね。次の当ては、ここで身も心も鍛えてもらおうかなと思っている。」

英「今晩は寝間を与えてやるが、朝には帰れ。」

英「えっ?受けてくれたんじゃぁ?」

英「ノーだ。」

英「えー、座標送ってきたのはOKだったからじゃないのか?」

英「ノーだ。」

英「マスターが、依頼内容を伝えてあるからここに行けと、だからはるばる来たのに。」

英「電文は届いた。」

英「電文・・・マジで携帯持ってない?」

英「当たり前だ、そんな危険な物…お前、電源を切っているだろうな。」

英「あっ、悪い、まだ。」

英「チッ」と下を鳴らし殺気に満ちた目で柴崎凱斗を睨みつける。

 柴崎凱斗は尻のポケットにしまってあった携帯電話の電源を切り、また対峙する。

英「大丈夫だよ。俺が生きてるんだからさ。」

英「帰れ。」

そう言って、その者は月明かり入る雨戸を閉め、広間はまた薄暗くなる中、足音なく部屋を出て行った。

英「うーん。」と柴崎凱斗は首の後ろを掻く。

「また当てが外れたようだな。」

 柴崎凱斗は、我の嫌味に顔を顰めてため息をついた。




 昨晩は気づかなかったが、雨戸にはたくさんの隙間があり、日の出とともに部屋に無数の光が差し込み、天井や柱の掠れた装飾絵図がおぼろげに浮かんで幻想的な雰囲気を出していた。我は目が覚めても体は起こさず、しばらく、その幻想的な雰囲気をただ見ていた。

 しばらくして、パタパタと言う音で体を起こす。部屋に柴崎凱斗の姿はなかった。

 広間の外から聞こえるパタパタと言う音は、外の廊下から聞こえてくる。その音は一旦行き過ぎて、先で扉の開け閉めのする音、しばらく静かになったと思ったら、また扉の開け閉めのする音に続いてパタパタと近づいてきて広間の扉がいきなり開いた。朝の光と共に姿を表したのは女児、は、我を視認すると短い悲鳴をあげた。

中「だ、誰?泥棒?ここにはお金なんてないよ。」

 中国語で何かを言いながら身を低くして構える。

中「ここは武術の道場だよ。師匠は物凄く強いんだから。」

 強気にまくしたて、構えを頻繁に変える動きが可笑しくて吹き出しそうになる。

中「私は師匠の一番弟子だぞ。泥棒になんか負けないっ」

 我が立ち上がるとその女児は、短い悲鳴を上げて、奥へと逃げて行った。

「あの者、妻子持ちだったのか・・・」

 そんな風には見えなかったが、事実、子供が朝早くから家屋の中で走り回っているという事はそうなのだろう。

 我は雨戸をあけた。日差しが目に刺さり、しばらく瞑った目を開けられなかった。

 またパタパタと足音がして女児が戻ってくる。その手に包丁を持って。

中「出て行けっ泥棒!」

『もう、うんざりっ、』

 と睨み向けられた包丁の光る刃先が、りのの幻想と重なった。

「りの・・・」

中「おもちゃじゃないよ。ファンリンは毎日これでご飯を作ってるんだからっ」

『縛られるぐらいなら、死んで。』 刃先を変えたりの。

「やめよ、りのっ」

 手を伸ばしても、届かない。

中「ファンリン!」

『絶頂の先に無を知ったから。』

中「師匠!こいつ泥棒なのっ、やっつけて!」

「りの・・・」

『神意は無慈悲に単純。』

 その者は、我をかき分けるようにして前に出て、りのの元へ行き、頬に平手打った。

 パンっと鳴る音で、りのの姿は消えた。

 女児は包丁を落とし、ぶたれた頬を抑え泣き出した。

中『包丁を人に向けてはならない。』

「ど、どうした?」

 いつの間にか柴崎凱斗も広間に上がって来て、我の横に立っていた。

中『彼らは客人だ。』

中『お客さん?』

中『あぁ、泥棒じゃない。叩いて悪かった。』

 女児はその者に縋るようにして、わーんとまた泣いた。

 

 朝には帰れと言われていたが、この一騒動があって帰りそびれる。

 柴崎凱斗が土産に買って持ってきていた月餅を渡すと、女児ファンリンは泣き止み、3つも食べてご機嫌になった。

 そして、我に「ごめんなさい」と中国語で謝る。

 驚かせてしまったのは我の方だ。真似て中国語で「ごめんなさい」と言うと、何が可笑しいのか、ケラケラと笑い転げる。

 まだ残っている敷地内のトラップが危ないと、その者と柴崎凱斗が落とし穴を埋めているのを、広間の縁側に座り眺めていると、ファンリンが奥から絵本を持ってきて、我の横に座った。その絵本は、りの達が幼少の頃好きだった虹の絵描かれた絵本の中国語版だった。思い余って凝視していると、我が読みたいと勘違いしたのか、ファンリンはにっこりと笑ってその絵本を手渡してくる。

「いや、読みたいのではなく・・・」首をふれば、読めないと勘違いしたのか、

中「私が読んであげる。」

 何かを語り掛けてきて、体を増々密着させ、その本を朗読し始めた。

 柴崎凱斗がこちらの状況を見て、汗を拭きながら笑う。

 それからというもの、ファンリンはどこに行くのも付いて来て、話し、良く笑った。どうやら懐かれてしまったようだ。

 柴崎凱斗から聞くところによると、ファンリンはその者の娘ではなく、遠い親戚の預かり子だという。その者は独身であり、最近ではファンリンが家事の大方をやっていると聞く通りに、ファンリンは小さいながらもよく働く子だった。

 柴崎凱斗とその者の話し合いが長く続く。話し合いと言うよりは、柴崎凱斗がしきりに頼みこんでいるという状態だ。その話し合いは、昼過ぎに柴崎凱斗が諦める形で決着がつく。

 日本の酷暑ほどはないが、鳥も蝉も沈黙する昼下がり、我の隣で歌を歌っていたファンリンは、気づくと寝てしまっていた。柴崎凱斗が苦笑交じりの落胆の仕草で奥から戻ってきて、寝ているファンリンに気遣って、手の動きだけで出ようと我を促す。頷き一つで立ち上がり、荷物を持ち柴崎凱斗の後に続いた。部屋を出る前に板の間で横になっているファンリンに一度だけ視線を送り外へ出た。

 当てが外れ、思惑が何一つ定まらない苛立ちをぶつけるように、来た時のまま置かれている車に、荷物を投げ入れる柴崎凱斗。我らが車に乗り込んでも、その者は見送りにも出てこなかった。エンジンをかけ、柴崎凱斗が大きなため息をついて首の後ろを掻く。万策尽きたのだろう。我は何も言う事はないが、できれば、りのの為にもしばらくは日本ではない場所に滞在しておきたい。

 柴崎凱斗が車を発進させる。が、すぐに急ブレーキをかけ、我はつんのめた。

「な、なんだ」と言ったそばから異変に気付く。

中「行かないで~」

 ファンリンの泣き叫びと、車のどこかを叩く音がする。どこに居るのかは見えない。

「開けてあげたら。」

 苦笑しながら後部ドアを指さす柴崎凱斗。

 正直面倒だ。たった6時間程度、寄り付かれただけの子供は、何を思って我との別れを惜しみ泣くのか?

 仕方なく、我はドアを少しだけ開けた。すぐさまファンリンは半身を乗り入れてきて、我の膝に縋りつく。

中「お兄ちゃん、どうして行っちゃうの。ファンリンもっと本を読んであげたいのに。行かないで。」

 何を言っているかはわからないが、必死に我の服を引っ張り車から降ろそうとしている。

「その子は少しだけ英語がわかるみたいだ、俺とヤンの会話を聞いて、もうここで一緒に住むと勘違いしたようだね。」

 と言われても、交渉は決裂し、ここには居られないのだ。

「どうしろと言うのだ。」

 柴崎凱斗は首をすぼめ「涙でも拭いてあげたら?」とふざけたことを言う。

中「一緒に胡瓜取ろうよ。ファンリンの育てた野菜、美味しいよ。」

 柴崎凱斗に向けて舌打ちすると、ファンリンが自分に向けられたと勘違いし、驚いた顔をあげた。涙に潤む目で唇を嚙みしめる。

「いや、違う。お前じゃない・・・」

中「ごめんなさい。」

 日本語のわからないファンリンは、涙を噛みしめて俯く。

 そっと頭を撫でてやると、ファンリンは我の膝に顔をうずめ、声を殺して泣く。気配で顔をあげると、その者が車のそばに立っていた。泣き縋るファンリンを引きはがすでもなく、ただ無表情に我をじっと見据えている。そして、何かをつぶやき踵を返した。

 英語だったが、口を開かずに発するのでよく聞き取れなかった。柴崎凱斗に問うように顔を向けると、破顔して答える。

「受け入れを承諾してくれたんだよ。ファンリンちゃんのおかげで。」




 そうして、我は師匠ヤン・ツゥイイの家に居候することになった。ファンリンは増々我に懐き、片時も離れずどこにでも付いて来ては、あれこれと世話をやく。ある意味、小さな世話役と言ったところだが、華族たちの様相と違うのは、何事も我にやらせようとすることだった。我の生活必需品と当面の金を用意して置いて去った柴崎凱斗は、ファンリンの為にも服や本、ノートや鉛筆などの学習道具を沢山買い揃えていて、ファンリンは喜々として我に文字を書いて見せてくる。

中国語の辞書と英会話テキストまでもがあり、ファンリンは先生のように、我に文字を書くように勧め、そして赤鉛筆で採点をする。

中「よくできました。」

「まるでごっこだな。」

中「ちがうよ。できました。って言うんだよ。」

中「出来ました。」

中「違う、音が違うよ。」

 中国語は難しい。文法は英語と同じであるから、何とか理解できるもののヒアリングが難解で、発音ができない。

 ファンリンは、我が、また寝ている間に出て行ってしまうと思ったのか、寝る時も我の服を掴んで離れなかった。

 道場の(元はやはり寺であって、仏像を拝む場所であった本堂)裏に小さな住処があり、短い廊下で繋がっている。二つの部屋の一つに我はファンリンと一緒に寝ることになった。驚いた事に、釜戸のある土間や薪で焚く風呂、離れに掘っただけの便所、水ももちろん井戸であり、一か所だけ土間の洗い場に蛇口があったが、ちゃんと浄水されている水かどうかは怪しい、そんな時代錯誤な様相の家で居候し、ヤン・ツゥイイに武術を教そわり、身体を鍛えろ、というのが柴崎凱斗の我に対する断罪だった。

 初見で柴崎凱斗が質問した通りに、家に電気もなくテレビやパソコンと言った日本で当然の生活必需品が一切ない。照明もないため、朝日と共に目覚め、日暮れと共に寝る。食事はほぼ自給自足。朝、目覚めては畑に出て野菜の収穫をし、井戸から水を汲み運ぶ作業をし、食事の用意をする。食事が終われば再び田畑に出て昼まで農作業をし、昼からはファンリンと勉強をし、夕刻になってまた畑に行き、夕食用の食材を収穫をして調理し食す。その後、薪で火を起こして風呂の湯を沸かして入り寝る、のが一日の流れとなった。

 ヤン・ツゥイイは、我とファンリンが勉強をしている間、薪を割り、家の修理などをし、一向に我に武術を教えようとする兆しがない、それどころか、本人が、その武術の鍛錬などをする姿すら見ることがなかった。柴崎凱斗が武術の道場を開いていると言っていたが、生徒の一人も来る事もなく、家に訪れてくる人も皆無だった。

 我はヤン・ツゥイイに「武術をしないのか?」と英語で聞いたが、顔を向ける事すらせず完全に無視された。柴崎凱斗と英語で会話していたのだから、英語が分からないはずがない。ヤン・ツゥイイの中で、生活内では中国語をと決めごとがあるのかと、ファンリンに教えてもらった片言の中国語で聞いても、我の語りかけには、一切の反応を見せなかった。ファンリンとは少ないが話をしている。と言う事は、我の事が気に食わないのだ。と結論づけるしかなかった。居候の件は、ファンリンの我儘で仕方なく決まった事だ。だから、ヤン・ツゥイイは嫌がらせのように我を無視している。そんな人間として愚かな態度をとるしかできない人間なのだと思い、何も我から請い願うことも馬鹿馬鹿しい。

 その者の態度だけが不満であったが、この極限までの質素な生活に、特に不自由や嫌悪などは無かった。ただ・・・このままでは、何も得られない。

『ただ一つ、死ななかった、その運だけは買おう。私の側で世界を見たいのなら、話せる言語を増やすか、それを超える術を持って願い乞え。』

と言ったミスターグランド佐竹副代表の姿が度々脳裏に浮かび、妙に胸の内が熱くなり、焦りもする。

 何故、一度きりにあった者の言葉が、こうも脳裏から離れないのか?

 思い出すたびに胸熱くなり、焦りが生じるのか?

 ミスターグランド佐竹副代表は、無礼にも我を殺そうとした者なのにだ。

 答えは

 時代錯誤な質素な生活を送ること3か月が過ぎた。季節は夏から秋へと進み、寒さが身に染みる具合になって来た。

 相も変わらず、その者は我と話をしようとしないし、武術をする姿を見ることもない。ファンリンとの勉強のおかげで、中国語による日常会話と読み書きは出来る程にはなった。が、時々街へ不足する調味料や生活用品などを買いに出ると、店員の語りに聞き取れない事の方が多かった。普段ファンリンは気遣って、速度を緩くして話しているのだと気づく。そういった自身の未熟さを実感すると、「このままでは駄目だ。」と思い、気づく。一刻も早くミスターグランド佐竹副代表の求める人間になりたいと思っている自分に。

 中国語と武術を会得すれば、ミスターグランド佐竹副代表に願い、そばで世界を見る機会も与えられる。何故かそう確信めいた希望が我の中にあった。

 だが、このままでは、中国語は何とか会得できるだろうが、武術に関しては、ヤン・ツゥイイが無視し続ける限り、得ることはできない。それから、何度も話しかけて武術を教えてくれと頼むも、変わらず無視し続けるヤン・ツゥイイ。月に一度様子を見に来る柴崎凱斗に武術を教えてくれるよう頼んでくれと言っても、ヤン・ツゥイイの態度に変化はなかった。

 ある日、我は畑で使う添え木を手に取り、ヤン・ツゥイイに向って殴りかかった。だが、あっさりと振り上げた添え木を掴み奪われた。その時ばかりはヤン・ツゥイイは我に一瞥したが、表情も変えることなく添え木を遠くに投げ棄て、何もなかったように農作業を続けた。

 英「何故だ・・・。」

 呟く我の疑問は当たり前のように無視される。

 添え木を奪う時の動きや伝わってきた力量は、確かに一般的でないと感じるものがあった。柴崎凱斗から聞いていたように、強いのは理解する。だが、いくら強い武道家がそばに居ても教えてくれないようじゃ、我はここに居る意味がない。

 我は見切りをつけて、ヤン・ツゥイイの家を出る決心をした。


 町で買い揃えたばかりの冬支度の衣類を、ここに来る時に持ってきていた旅行鞄に詰め、金はヤン・ツゥイイが畑仕事をしている間に、家中に隠してある所から盗り集めていた。総額日本円にして50万ほどになった。

 ヤン・ツゥイイは、柴崎凱斗と同じく、アルベール・テラ紛争でナショナルチームに所属していた兵士だった関係で、居場所を特定される事を極力避けていた。その一環で、現金を銀行に預けることはしない。その為、月に一度、柴崎凱斗がわざわざここまで足を運び、我の様子を見に来る際、生活資金と報酬を置いていく。具体的な金額は知らないが、ヤン・ツゥイイに渡す封筒の厚さから、自給自足の質素な生活とは見合わない程のかなりの額であるのは見て取れた。その事からしても、ヤン・ツゥイイの態度は暴利に値する。それも訴えた事があるが、ヤン・ツゥイイには馬の耳に念仏状態だった。

 ファンリンがまた追いかけてくる事を懸念して、我はまだ皆が起きてこない早朝に家を出る。

 吸い込む空気が冷たい、東の空に金星が鮮明に輝いていた。

 ここから商店のある町までは車で40分ほどかかる。車を拝借することも一瞬頭をよぎったが、見ただけで運転は流石にできないだろうと諦めて歩くことにした。換算して5、6時間も歩けば町に着く。気持ちは急いでいるが、急く旅でもない。

 田舎道を歩く。時々通り過ぎる車が停車し、運転手が早口で何かを言ってくる。言葉が分からず最初の2回は無視していたが、身振りと聞き取れた単語で、乗っていくか?どこへ行くんだ?と親切心に声かけてくれている事を3回目で理解でき素直に承諾したら、町に着いた時に金を要求されて驚く。日本との国民性の違いを見る。

 運転手に金を払いながら、駅の方向を聞く。指さす方向を見ると、木製の小屋のような物が建っている。駅舎には到底見えなかったが、その建物に近づくと、数段の段差の向こうに線路が横断しているのが見えた。小屋の中を覗くと、駅員のような服装をした人物が、建物の中の掃き掃除をしていた。我に気づいて窓口となっている小窓を開けながらテーブルに着く。小屋は待合室と駅員室が合わさったような様相になっていた。

中「武漢天河空港に行きたい。」

と言うと、我が日本人だと知った駅職員は、驚いた表情をして、首を傾げた。間違った中国語であったかと、もう一度、丁寧に行先を告げる。

中「武漢空港に行きたい。」

 駅職員は、困った表情で何かを言ったが、理解できない。身振りからして、ここから行けないと説明しているのだろうが、三か月前、我は柴崎凱斗の運転するレンタカーで武漢の天河空港よりこの町に来たのだ、ここから一番近い空港が武漢天河であるのは間違いない。空港に行けば、香港行きの航路があるはず、無くても上海行は確実にあるのだから、着た時と同じに経由して香港へと行けるだろう。こんな田舎町で無駄な日々を過ごす事もあるまい。柴崎凱斗が更生を望んでいるというなら、既に日本を離れたことで半分は叶っているはずだ。ヤン・ツゥイイの元で過ごすことに拘る理由もない。一般的な人の労働というものを我にさせたいのであれば、香港でもかまわないだろう。

 ミスターグランド佐竹副代表の居る街で、レニー・ライン・カンパニーほとの会社であれば、様々な仕事は巷にあるはずだ。香港についたら、レニー傘下の仕事を探すつもりであった。

 そうして、少しでもミスターグランド佐竹副代表に近づける状況を想像して、我らしくもなく心は弾んでいた。

 念を押してもう一度、武漢天河空港へ行きたいと言うと、駅職員はため息をついて窓口から離れてしまう。言語の稚拙さに呆れられてしまったのだろうかと思いきや、駅職員は奥に置いてある鞄をごそごそと漁ってから窓口に戻ってきた。地図を広げて指さす。指さした場所は、河南省の南端位置する興中という町で、そこがおそらく現在地であり、そこから武漢の天河空港へは、確かに距離的には一番近い。しかし、山脈を超えなければならず、鉄道は通ってない。鉄道を乗り継いで行けるのは、同じ河南省の中央に位置する鄭州空港だと地図を指さしで丁寧に説明してくれる。そもそも、ファンリンと三か月余り住んでいたヤン・ツゥイイの家が、河北省ではなく、河南省であった事が僅かに驚いた。

 柴崎凱斗は、単純に最短距離での移動を選択して我をこの町に連れてきたのだろう。確かに車は長く山間の道を走っていた。

 鉄道職員の説明により、知った鄭州空港へと素直に行先を変える。だが、河南省最南端の田舎町、その空港へ行くには、三度の乗り替えをしなければ行きつかない上に、この町から出ている鉄道路線は、河南省主要都市である瀋陽市まで各駅停車の電車しかない。その鉄道も2時間に一度の頻度しかなかったが、あと15分もすれば電車は到着するとのことだった。

 瀋陽市までの切符を買い、盛り土をしてコンクリートで固めただけのホームで電車の到着を待つ。当然、ホームに屋根などない。駅職員が駅舎の小屋の待合で待つように身振りで促してくれたが、断って外で待つ。外の方が日差しがあり、温かい。

 10分ほどして、3人の乗客と思しき老人が待合室に入って行き、駅職員と雑談する。駅職員の言った15分が経っても電車が到着する気配がない上に、駅職員も何の言動がなく、5人の乗客との雑談が続いている。

 15分の単語を聞き間違えたのだろうかと考えながら、何となく気になって後ろへと振り返った。何もない。駅周辺に建ち並んだ民家の壁があるだけ。

(なぜ我は振り返ったのか?)と不思議に思うのは、存外にも我はヤン・ツゥイイが追って来て、連れ帰されないかと気にしているのかもしれないと自嘲することで疑問を治めた。

 電車は言われた時刻より15分を経過して電車は到着する。しかし到着した電車は電車と言えるのだろうかと疑問に首を傾げた。一車両しかないディーゼルエンジン式の、日本では30年も前に消滅したのではないかと思える物だ。そんな古めかしい車両に3人の乗客と、何故か駅員までもが電車に乗り込む際の会話に、「今日は早い」というような内容を聞き取る。

定刻通りに到着しないのが通常なのだろう、これまた日本ではありえない事だ。乗り込んだ駅員は、運転手と業務連絡のような会話をして降りずに電車は発車した。その駅員は次の駅で降りて行ったから、そうやって各駅を管理清掃するのが彼の仕事なのだろう。たまたま、駅舎に彼が居る時間帯に訪れる事が出来たのは、やはり神威による我の運の良さだろうと納得した。

 神意は我がミスターグランド佐竹副代表へと向う事に賛同している。それを得心して我はほほ笑んだ。

 うんざりするぐらい遅く乗り心地の悪い電車を乗り続け、瀋陽市に着いたのは夕刻になっていた。ここから河南省の省都鄭州市へは、特急列車に乗り換える。が、鄭州までの特急列車は、もう最終便しかなく、しかも指定席の全席が売り切れていた。疲れもあって鄭州行きは明日へ持ち越すことにした。そうなれば宿を探さなければならない。

 瀋陽市は、元々お茶の産地であるらしい。駅中の土産は茶に因んだ物ばかりを見て、京都を思い出す。

 中国の茶は日本の茶とは味は全く違う事は、この三か月の間に知っていた。ファンリンが淹れてくれた中国茶しか飲んだ事が無かったが、その茶が何となく薄いである事は感じていた。綺麗事で言うならば慎ましい生活、正直に言えば貧しい生活だったのだ。駅中の売店で、試しに瀋陽産の中国茶を飲んでみる。確かに美味しい。が、日本茶とは異なる味に、母の淹れてくれた茶が懐かしく好みに合っていたのだと知る。

「身に染入る日本人なのだ、我は。」

 そう呟いたら、何を勘違いしたのか、土産にどうかと3袋もの茶葉を進めてくる。

中「要らない。」

 飲み干した茶のコップを返却し、夜の帳降りる瀋陽市の駅舎より出る。市と言っても高層ビルはあまりない、それもまた京都の空の広さと同じだが、最近になって土地開発されたのだろうか、駅周辺の建物は比較的新しい様相をして、京都とは全く違ったゆとり設計になっていた。観光案内所みたいな所を探したが、よくわからない。手っ取り早くタクシー乗り場に行き、運転手を捕まえて聞くことにする。

中「ホテルはあるか?」

中「ホテル?」

 おうむ返しで首を傾げた運転手。言い方を変えてみる。

中「宿場に行きたい。」

中「どこの?」

中「決めていない。」

中「無謀な旅をしてるね、お兄さん。わかった、いい宿につれて行くさ。」

 早い口調で話されると何を言っているかわからない。運転手は喜々として我をタクシーに押し込んだ。まぁ、泊まれる宿につれて行ってくれるなら少々遠くてもいい。しかし、タクシーは3分もしない内に中華的な趣向の木造建築の家屋の前で停車する。見た所、日本でいう旅館である事は門構えや看板の文字からわかった。駅舎の明かりが、ほんのりとまだ見える場所である。

「これなら歩けたものを・・・」

中「20元。」

 日本円換算で350円ほどの初乗り料金は、中国の物価を考えれば高いと感じたが、日本の料金よりは安いので素直に支払うが、後、暴利な料金だった事が判明する。

 タクシーを降りると、運転手も降りてきて何やらまくしたてる。

中「ここはかの有名な宿屋さ、日本人の君も良く知っているだろう。ジャッキーチェンが好んで泊まった宿屋さ。ジャッキーチェンはこの瀋陽の茶を好んで好んで、わざわざ茶を飲みに泊まりに来てた。その時泊まった宿屋さ。」

 何を言っているかわからない話は無視して宿屋へと足を向けると、運転手は我を追い越して宿の入り口で奥へと声をかけた。どうやら宿泊利用の交渉をしてくれるようだ。日本のように、その親切が無料ではない事は、もう分り切っていたが、まだ中国語が完璧ではないのだから、致し方ない。

 奥から太った女が出てきた。この旅館の経営者並びに女将と言ったところか。赤い花柄の甚平の中華版というような服を着ている。

中「客を連れてきたよ。部屋、空いてるだろ。」

中「空いているけれど・・・。日本人か?」

中「そう、あまり中国語がわかない日本人さ。」

中「ふーん。」

 旅館の女将は、訝し気に我の頭から足元へと視線を這わせ、運転手は女将に何かを耳打ちした。あからさまの不穏な態度である。別の宿を探したほうが良いのかもしれない。

中「駄目なら、他を探す。」と踵を返した。

中「いやいや、どうぞ、よくおいで下さった。」急に愛想のある態度で、我を引き留める女将。

中「嫌なのでは?」

中「とんでもない。お客さん、中国語あまりできない様子とこの運転手に聞いたのでね。ちゃんとしたもてなしが出来るかと不安になっただけだよ。ささ、どうぞ、どうぞ。」

 女将の言葉が少しもわからない。訛りがあるのかもしれない。何の要素が好転したのかわからないが、とにかく泊まれる事にはなった様子だ。

中「食事は?」

中「頼む。」

中「わかった。一泊でいいかね。」

 ジェスチャーがあってやっとわかる。

中「良い。」

 最上級の4~6人家族部屋しかなく、宿代は前金で700元、日本円で14000円程度、それも値引きしての価格だと何度も聞き直し説明されて理解する。宿の様子からして法外な値段なのはまるわかりだ。高いと突っぱねて出て行くことも考えたが、疲れていて面倒だった。中国語がもっと理解できたのなら、交渉も簡単だっただろうが、我の勉強不足が要因なのだから致し方ない。それに金は、まぁまぁある。無暗に節約しなくても大丈夫だろう。

 3階建ての建屋上階に案内されると思いきや、庭に沿った回廊を歩き、奥間へと案内される。本館から出っ張った形の部屋で、後から建て増した風であった。主室と寝室が分かれており、主室には中庭が見える広縁があった。

 我は、大きく息を吐いて、広縁の窓向きにおかれた椅子に座る。もうこれ以上座っていたくないと思うほど電車に揺られて座っていたのだが、揺られない椅子にすわるのは、本当の寛ぎである。よほど疲れが溜まっていたようで、食事が運ばれてくるまでの一時間、眠ってしまっていた。



 次の日、宿から出ようとする玄関先で、昨日ここまで連れてきたタクシー運転手が待っていた。歩くから良いと断ると、何やら凄い剣幕で説得される。

中「ダメダメ、駅まで遠いよ。道に迷ったらいけない。それにここはあまり治安が良くないよ。日本人旅行者は強奪に狙われやすい。タクシーなら安心さ。僕は警護も兼ねているからね。」

聞き返すのも、反論するのも面倒なので、素直に乗る事にする。駅までは、昨日と同じ道のりなのに、25元を請求された。

中「・・・。」

中「警護代さ。ほら、安全に駅まで着いただろ。」

 これも面倒なので、払う事にする。

中「まいどあり、良き旅を。」上機嫌のタクシー運転手。

 茶の産地瀋陽市発の列車で、鄭州市へ。時刻表を調べたわけではなかったが、15分後に発車する特急列車の指定席券を買うことが出来た。またもやちょうど良い時の流れに乗る事が出来るのは、神意が働いたとしか思えない上の、そうなる事もわかっていた。

 昨日、茶を飲んだ売店で茶のペットボトルと一口サイズの乾パンのような物が6つ入った菓子パンと新聞を買い、ホームに向かう。ホームは人と荷物で溢れていた。一人の持つ荷物がやたら多く大きい。農産物が入っていて、田舎町から都会へ売りに行く様子だ。行商人は皆、普通席の車両に乗り込んでいき、既に満席で立っている客もいる。6両編成の内の一車両分しか指定席のない特急列車だった。

 特急列車とは言え、鄭州市までは5時間かかる。鄭州駅からさらに空港線に乗り換えてやっと鄭州空港に4時までにはつく算段だ。うまくすれば今日中には香港に着ける。ミスターグランド佐竹副代表の居る、あの煌びやかな香港の街に。

 行商人が担ぐ荷物の間を抜けて歩んでいると、ふと、気になり後ろを振り返った。

 突然足を止めた我に怒鳴りながら追い越していく男。違う。

 発車の知らせをメガホンを使って叫びながら、乗客の誘導をする駅員。違う。

 溢れかえっている人々は、誰もが忙しそうに荷物の整理をしたり担ぎ直したりして車両に乗りこんでいく。

 何が気になったのか?

 わからない。状況から言えば、誰かの視線を感じたのだろうと思うが、振り返ると誰も我に感心を持ってい者などいない。 ヤン・ツゥイイが追いかけて来ているはずがない。我の事は露程の関心がなかったのだ。

 発車のベルが鳴り、我は気を取り直して指定席の車両まで駆け足で飛び乗った。車内のドアの前に車掌が居て、切符の確認をさせられる。車掌は切符と我をジロジロと見て、「日本人か?」と中国語で問うてきた。さっきの何かわからない視線と怒鳴りながら追い越して行った男の事があって、妙に苛ついていたので、日本語で答えた。

「だから、何だと言うのだ。日本人が乗車してはいけない電車でもなかろう?」

 車掌は、わからない日本語に首を振りながらさっさと中へ入れと、投げやりな態度をとる。

「ここが日本であったら、その態度、悔い改めてやるところだ。」

 言いながら背を向けて座席へと向かった。

 特急列車の扉が閉まり、車両はゆっくりと進む。

 車両中ほどの進行方向左側の通路席に腰を降ろした。指定席の乗車率は50%と言ったところだ。普通席車両の混み具合と客層の質も大違いで、指定席に座っているのは背広を着た会社員が多い。新聞を読んでいるか、パソコンをひらいて仕事をしている者が多数、車内が静かで良いと安堵する。

 鄭州まで5つの駅に停車する。発車して5分ほどで隣市の周景に停まったあと、山間部を走り、鄭州近くになって3つの駅を各駅停車して終着だ。

 早速、暇つぶしに買った新聞を広げた。中国語の会話より、読みの方が我は得意だ。しかし、まだわからない字も多く、柴崎凱斗が買い置きしてくれた辞書も持ってきていた。まずは見出しのニュースを流し読みし、わからない漢字を辞書で調べようとしたところで、次の駅周景に電車は停まる。

 この駅でも普通席の車両の乗客の方が多く、指定席に乗ってくる客は少ない。やっと乗車率70%になったぐらいだ。空席だった窓際の隣席に乗客がくるかと思ったが、誰も座ることなく列車は出発した。我は安息が続くことに納得し新聞に視線を戻そうとしたとき、派手なシャツを着た品悪い男が前方より歩いてくるのを見る。男は歩き方も凡俗に悪く、そして視線の合った我をじろりと一瞥し、我の座席の背もたれを掴んで、横柄な態度で真後ろに座った。

 世界のどこにでも、そういう輩は居るものだと変な得心をして我は新聞に意識を戻した。

 新聞を流し読み終えること3時間程、車内は静かだ。時々、携帯電話で話す声が所々で聞こえてくるのが耳障りだったが、短い受け答えで終わる者が多く、苛立ちも寸時で終わる。寝ている者がほとんどだった。

 新聞と辞書を隣に置いてあった旅行鞄に仕舞い、立ち上がった。後ろに座った派手なシャツの男も腕組をして寝ている。

 海外で、旅行鞄をその場に残したまま席を離れるのは盗んでくださいと頼んでいるようなものだと言う事は、知識として知っていたが、嵩張る荷物をもって狭いトイレに行くのは憚れる。一瞬迷ったが、置いていく事にした。貴重品は旅行鞄には入っていない。背負いの鞄に入れてある。旅行鞄を盗られて困るのは一時だけだ。金はあるのだから、香港に着いた時にでも買えば良い。

 我は、凝り固まった体を柔軟させるためにも、ゆっくりと車両通路を歩きトイレへ向かった。

 十分に時間をかけて用を足し、窓の外の野山広がる田舎の風景を見ながら席に戻ると、派手なシャツの男が我の席に座っていた。腕組をして、席を立つ前に見た状態と全く変わらない状態で、我自身が座席を間違えたのかと思うほど。しかし我が買った座席の番号は間違いなく、今、派手なシャツの男が座っている場所だ。それに我の旅行鞄は男が座る隣の座席に置いたままだ。

中「おい。そこは我の席だ。」

 男は目を開けない。寝ているはずがないのだ。5分程度の間の事なのだから。

中「おい。」

 増して上げた声量に反応したのは、男以外の周りの乗客で、迷惑そうに顔を顰めては、もう一度寝に入る。

 男の足を軽く蹴った。やっと目をあけ、我を睨んでくる。下手な演技である事は判り切っている。

中「なぜ我の席に座っている。」

中「何言ってるんだ。ここは俺の席だ。お前こそ何を言っている?」

 あぁ、とても面倒だ。深く息を吐いて自身を落ち着かせた。

中「我が購入した切符は、この18Bで、ついさっきまでここに座っていた。」

中「俺は周景から乗ってこの席に座り、寝ていたのに、日本人に絡まれ足を蹴られた。」

中「嘘をつくな。」

中「あぁ?」と男は凄んでくる。「じゃぁ、その切符を見せろよ。」

中「もちろん。」

 我は背負いの鞄から、財布に仕舞った切符を取り出して男に向けた。

男が手に取って見ようとしたら、切符が床に落ちてしまう。

中「おっと。すまない。」

 座ったまましゃがんで切符を拾う。その時、あろうことか、自分の切符とすり替えたのだ。

中「何するんだ。」

中「おや、やっぱり、お前が間違いだ。」すかさず、自分の切符を突き付けてくる。「おまけに、お前の切符は自由席じゃないか。」

中「は?それはお前の切符だ、お前がすり替えた!」

 らしくもなく叫んでしまった。その騒ぎに、車両中の客が我々に注目する。

中「何を言ってるかな?現にこの切符を見ろよ。ほら、なぁ、指定席の切符じゃないだろう。」と派手なシャツの男は、通路反対側の乗客へと切符を見せて同意を求める。社員風の男は、「あぁ・・」と相槌撃つ程度にしか答えない。

中「いや、違う。我はずっとここに座っていただろう。なぁ、お前は見ただろう。この男が、我がトイレに立ち上がった後、この席に移動したのを。」

中「え、いや・・・」

 巻き込まれたくないのか、首をふりつつ、顔を背けた。周囲を見渡すと、全員が慌てて顔を背けて見ぬふりをした。この状況では、何を言っても勝ち目はない。切符を取られてしまった事が失敗だ。

中「わかった。」

 我が諦めのつぶやきをした時、派手なシャツの男はにやりと笑みをこぼした。

中「席を譲ってやるよ。」

男の隣に置いたままの旅行鞄を引き取ろうと腕を伸ばした。すると派手なシャツの男は我の腕を振り払い、旅行鞄を引き寄せる。

中「なに盗ろうとしてるんだよ。俺の荷物に!」

中「は?」

 唖然とそれ以上の言葉が出なかった。男は、その旅行鞄をも盗むつもりらしい。

中「荷物の強奪が目的か、だが、その荷物には金品はないぞ。」

中「人を強盗呼ばわりするんじゃねぇ。」

中「強盗ではなかったら、何と言うのだ。」

中「これは俺の荷物で、この席も俺の席、強盗はお前だろう。」

 盗られて困るのは一時だけ、金はあるのだから、また買え揃えれば良い。なのだが、相手の姑息なやり口と言い様にあまりにも腹が立ち、引き下がれなくなってしまった。

中「無礼な、ここが日本であったなら、その態度悔い改めてやるところだ。」

中「日本人が、訳の分からない事を言ってるんじゃねぇ。」

 そこへ、誰かが通報したのだろう、車掌が我々の仲裁に入ってくる。

中「お客様、どうされました?」

中「この日本人が、席を間違えやがった。」とすかさず、自由席の切符を車掌に突きつける男。

中「あぁ、そうだ、車掌は知っている。我の切符をちゃんと確認したな。」

 車掌は、我を「日本人か」とまで言って、切符を確認したのだ。覚えているはずだ。なのに、車掌は、男から受け取った切符を見て、

中「あぁ、確かに、これは自由席の切符だ。間違えたのですね。自由席はあちら、1~5車両ですよ。」とすました顔で言う。

中「こいつ、俺の荷物を盗もうとしやがった。間違えたふりする強盗だぜ。」

中「本当ですか!それは一大事!次の駅で警察に突き出さないといけません。」と車掌は我の腕を掴む。「ちょっと、車掌室へと来ていただけますか?」

中「何を言って・・・」

 腕を振り払おうとしても抜けなかった。

中「俺も手伝うぜ、こんな悪党をのさばらせとけないからな。」と派手な男も立ち上がり、我の腕と肩をがっしりと掴み、後方の車掌室へと押される。

 そこでやっと、我は車掌と派手な男がつるんでいると悟る。

中「ふざけんな!お前らっ」

中「お客様、お静かに、他のお客様の迷惑になります。」

中「嵌められた、こんな事ありえない。なぁ、わかっているだろう。」と他の乗客に助けを求めても、顔を背けるだけの車内。

 ここが日本であれば、左目の力を使い、こいつらなど膝つかせて蹴りつける所だ。だが、力は外国人には効かない。 

 二人の男に腕を取られて、指定席車両の後方へと連れていかれる。指定席車両と連結している扉を超えた次の車両の、貨物室のような部屋に我は押し入れられた。山間部を走る特急列車は、ディーゼルの補助エンジンが必要で、そのエンジン車両の空きスペースが定期便の荷物室となっていて、土臭い匂いが充満する汚い部屋だった。

 車掌が扉にしっかりと鍵をかけている間に、我は派手な男に押し倒され、車両の壁にあるコンテナを固定するバーに通した手錠を手首にかけられてしまう。

中「お前ら、こんなことして、許されると思うなよ!」

 どんなに大きな声を出しても、ディーゼルエンジンの稼働音がうるさく、指定席の乗客には聞こえないのだろう。こんな手錠も用意しているという事は、それがこの二人の定番のやり口だ。列車に乗り込む時から、車掌は金の持っていそうな客を物色していた。そして、派手な男に連絡をして、トラブルを起こす。

 案の定、派手な男は我の背負いの鞄を奪い、中を物色しはじめた。

中「わおっ、すげー持ってんじゃん。」と財布と、封筒に入れた札を見つけた男は口笛をふいた。

中「私の見極めのおかけだろう。」と車掌も札束を見て喜々たる表情だ。

中「他にもあるかなぁ。」と男が我へと迫る。

 我は抵抗し拘束されていない足で蹴りつけようとしたが、そんなことは百も承知だと男は膝で押し付け、車掌も手伝い、衣服のボケッとをまさぐり探す。しかし、懐には小銭一つ入れてなかったので、二人は「ちっ」と舌打ちして止めた。

中「さて、日本人さんよ。自由席の切符で指定席座り、人の荷物を盗もうとしたのは、中国では重罪だよ。」

中「それをしたのはお前たちだ!手錠を外せ!」

中「この金で許してやるよ。示談金としようぜ。」

中「は?馬鹿な事を。」

中「本来なら、次の駅で警察に突き出すところだけど、それをしたら、あなたは日本に帰れなくなるよ。金で解決できるなら、その方がいいと思わないか?」

中「最低な車掌だな。日本ではありえない。」

中「あーそうさ。日本ではありえない。だからこうして取引ができるんじゃないか。警察に突き出したらパスポートまで取り上げられて、日本に帰れないよ。」

中「中国の取り調べは厳しいよ。俺達は優しいね。この示談金だけで、穏便に済まそうっていうんだから。」

中「手錠で拘束しておいて、何が穏便だ。」

 男達は金を数え始めて、二人で半分に分けはじめた。小銭までもきっちり半分にするつもりだ。割り切れない小銭を、車掌は自分の財布から釣銭まで渡している。

中「我はまだ、示談に了解していないぞ。」

中「不運と思って諦めな。」

 派手なシャツ男が小銭を尻のポケットに入れようとして落とした。それが我の足元に転がってくる。男は小銭を追ってしゃがみ、そこに我は蹴りつけた。避けるか防ぐかと思った男は、大金に執着するあまり気が緩んでいたのだろう、まともに蹴りを食らう。

中「痛ってー、何しやがるっ」

中「不運と思って諦めな。」

 男の言いようを真似ると。男は憤怒して我の顔へと拳を叩きつける。まともに頬に拳が入り、口の中を切る。すかさず、その血交じりの唾を男に吐きつけた。

中「うへっ、貴様~。」増々怒り心頭の男は、我の胸倉を掴み、さらに殴り掛かろうとしてくる

中「やめとけよ。ケガさせたら、俺達が悪くなる。せっかくこんなに大金を手に入れたんだ。我慢しろよ。」と車掌。

 派手な男は車掌の注意で、殴るのをためらったが、怒りは引かないらしく、我の腹に蹴りを入れて下がる。

中「こんな生意気な日本人初めてだぜ、大概、言う事聞いて金を払うんだが。」

 詰まって止まっていた息をやっと吐く。

中「我を・・大概の日本人と、一緒にするな。」

 やっとの事でそういうと、二人は顰め面で我を睨み、派手な男の方は舌打ちしてから、我の鞄を漁り始めた。

中「我慢ならねぇ。」

中「何するんだよ。」と車掌。

中「こいつを警察に突き出す。」

中「はぁ?そんなことしたら、俺らも危ういだろう。」

中「パスポートを捨てたら、不法入国罪にもなるだろう。」

男は見た目通りに学が無いようだ。もう入国している我は、この場合、現地でパスポートを紛失したとなるだけだ。

中「やめろよ。警察を呼ぶのは。」

中「心配すんな、駅では呼ばねーよ。俺が警察に持ち込む。外国人強盗を捕まえたと言ってな。あった。」

 我の鞄からパスポートを取り出した男は早速、部屋の明り取りになっている小さな窓へと持っていき、パスポートを投げ捨てた。

中「ふん、くそ生意気な、パスポートを捨てても、慌てもしねーぜ。」

 車掌はそれが、さほどの痛手ではないのを知っているのだろう、首をすくませて何も言わない。

中「次の駅まであとどれぐらいだ?」

中「あと・・2時間はあるな。」

 腕時計を確認して言う様は、車掌そのもの。

中「暇つぶしに、こいつを弱らせておくか。暴れられた面倒だからな。」

 派手な男は荷物のコンテナ脇に立てかけてあった一メートルほどの角材を手に取る。

中「ここを血で汚すのはやめろよ。始末が大変だし、上に何と言ってごまかすんだよ。」

中「大丈夫さ、血を流すようなやり方はしない。」

そう言って、派手なシャツの男はにやりと不敵な笑みを浮かべた。

中「動画で見たんだ。拷問のやり方をな。」

 男はその角材で、我の腹を突いてくる。その力加減が微妙だった。強くもなく、弱くもない。痛いと言えば痛いが、先ほどの蹴りの様に息を詰まらせるほどでもない。何だこの程度と思えるほどの突き具合だった。しかし男は、まるで太鼓でも叩いているように、連続して突いてくる。突かれるたびに、防御反応で体は強張り、束の間、息は止まる。そして吸い込もうとする時には、次の突きが腹に来ている。リズムの合わない呼吸に、吸う息が追い付かなくなってくる。

「くはっ・・・」無様な唸りが自分の口から出てくる。

中「苦しいだろう。素直に従わないからだ。」

中「や、やめ・・・ろ。」

中「おい、死なせんなよ。」

中「死なねーよ。こんな弱い叩きをしてるんだから、体に傷も残りやしねぇ。だけど、精神は壊れる。見た動画では、捕虜はよだれ垂らして廃人になってたよ。」

中「えぐいな。」

 確かに、これがずっと続けば狂ってしまうかもしれない。酸素が欠乏して考える事もままならなくなってくる。腹の痛みは次第に気にならなくなってきたが、体は防御反応で強張り、緩めるを繰り返している。一体、男は我を何分突き続けたのだろうか、そして、いつになったら止まるのか?時間の感覚もなくなる。痛みがない代わりに体の内側から叩かれる衝撃音が脈のように打ち始める。が、脈のリズムとは違いがあるので、脳が混乱する。腹の中の物がこみ上げてきて、ぶちまけた。

中「うわ、きったねぇ、こいつ吐きやがった。」

中「くせーな。掃除はお前がしろよ。」

中「何だよ~。ムカつくなぁ。」

 吐しゃ物を避けて男の突きが止まり、やっと自分の置かれた状況を再確認できる。座った自分の下腹から太ももにかけて、吐しゃ物にまみれ、口を拭いたくても両手は頭の上で手錠をはめらて下ろせない

中「うわっ、こいつも汚れちまったじゃないか。」と角材の先を我の口に突っ込んでくる。

 何故、我がこんな目に合わなければならない?「許さぬ」と言ったつもりだが、執拗に角材を押し込まれて、言葉にならない。

中「あが・・がぁ・・」

中「ひゃっはは、何だって?」

 我がこんな下等な奴らに弄ばれるなど・・・許さぬ、許さぬ。許さぬ!

 怒りが左目に集結する。

中「何だぁ?」

中「お前、目に当てたんじゃないのか?」

中「いいや?」

中「目が充血するほど怒ってるってわけ?ははは、傑作だぜ、そんな下呂塗れでさぁ。」

 突然、激しい音が遠くでして、地響きが床から伝わってくる。ギギギと金属がこすれる音、衝撃と同時に体が宙に浮いた。

派手なシャツの男の驚愕した目と一瞬あったが、男は車掌と共に客室へと続く壁に激突して、短い叫びを途切れさせた。

 バーに繋がれた手錠が手に食い込み、千切れそうな痛みが生じる。だが、状況を見て取れたのは、そこまで。次の瞬間には、怪獣がこの車両を叩きつけたのかと思う衝撃が来て、破壊された木箱の破片が散弾銃のように襲ってくる。

 束の間、気を失っていたようだ。目を覚ますと、我の体は揺れていた。

 手錠を通したバーが天井に、我は両の手首だけでぶら下がっている状態で、肩が脱臼しそうに痛い。我はどうにかしてバーを掴んでから、周りを見渡した。何が起きたのかわからないが、車両は横転しているようだ。ギギギとまだ鈍い金属音がどこぞからして、人の唸りのようなものも聞こえる。

「列車事故か?」

 とにかくこの懸垂状態のままでいるわけにはいかない。左へと移動して、ひしゃげ盛り上がっている車両の壁にかろうじて足が届いた。そして、手錠を通しているバーを引っ張った。車両の床や壁が歪んでいるので、バーの一部の止めネジはすぐに取れたが、全部ははずれない。足を踏ん張り引っ張るも、駄目だった。

 そうこうしている内に、外から人のうめき声に交じって、叫び声も聞こえてくる。どれほどの事故なのかわからないが、助かった乗客が車両の外に出はじめたのであろう。

中「おーい。誰か来てくれ。」

 叫んだつもりだったが、ぶら下がった状態で、しかもついさっきまで拷問を受けていた腹に力は入らず、外に聞こえるような声量は出なかった。

「くそっ」

 この状態だと、時間が経てば経つほど体力はなくなり、自力ではこのバーを外せなくなるだろう。

 明り取りから見る外の景色は、白い岩肌がみえる。かなり高度のある山間部を列車は走っていた。救助隊が到着するのは随分と時間がかかるはずだ。それに、救助隊が来たからと言って、自分が一番に助けられる保証もない。

 手錠回りの皮膚は無理して引っ張ったりしたりしたので、うっ血して青黒く変色している。

 最後の踏ん張りのつもりで、全身に力を入れてバーを引っ張った。

「ぐっ・・・ううう・・・」

 ガクンと外れた。バーから手を離してしまい、足も壁から離れて、下へと落下するかと思いきや、手錠の鎖が壁に取り付けていたバーの留め金所に引っかかって、宙ぶらりんになる。また自身の体重で手錠が手首に食い込んだ。

「くっ・・・。」

 引っかかっている鎖を外すには、自身が重しとなっている下向きの力を緩めなければならない。

 足場を探したが、いい具合に足を乗せる所がなかった。さっきまで足場にしていた所は、バーが外れて垂れ下がった事によって、地面に近くにはなったが、足を乗せることが出来ない位置になってしまった。

 バーの留め金の部分を何とかして握った。ネジが掌に刺さったが、そこしか握れないので仕方ない。

 自身の体重を握力だけで持ち上げるのは、いかに大変かを思い知る。こういう状況に陥って、自分が運動という物をほとんどしてこなかった事を悔やむ。地面までの距離が一メートルもないのが、恨めしい。

 ジャンプするように身体を揺らし、鎖を持ち上げさせるようにするが、そうそう上手くは行かない。

「くそっ、あいつら・・我をこんな目にあわせやがって・・・」

 ずっと上を向いているので首が痛くなってくる。ネジが刺さる掌から血がにじみ出て、滑る。バーの留め金を両手でつかんだ。またネジが刺さる。血が出始めて滑り始めたら、もう終わりだ。握力もなくなってきている。足の振りの動きと、這い上がる動作は同時にして、うまく鎖を跳ね上げさせないといけない。最後の一回だ。さっきもそうやってバーは壁から外れた。

「神意よ。我を生かすのか、殺すのかどっちだ。答えろっ」

 勢いよく足を振り自身の体重を上へと持ち上げ、鎖を跳ね上げた。しかし、留め金を超えるほどまで届かず、悔やしく舌打ちをしかけたその時、列車がガクンとおおきく揺れ下がった。その下がる力が手伝って鎖は留め金を超えて外れ、我は尻から床に落ちた。

「はぁ、はぁ、はぁ。はっ・・・ははははははは。」

 神意は、我を生かすようだ。

 よろめきながら立ち上がった。客室車両との連結扉は、もげて無くなっていたから、簡単に外に出られた。

 外の状況を見て唖然とする。我が乗った鄭州市行の特急列車の6両全車両が、折り重なるようにして横転、九の字に曲がっている車両もある。

 岩肌目立つ山間部に、車両から出てきた乗客たちが、泣き叫んでいる。

 自由席だった前方の方が車両の損傷がひどく、けが人も多いようで、車両の窓から半身投げ出された姿勢のまま動かない者もいた。

「これは・・・」

 沸き起こった思慮を人の唸りが遮る。人の唸りを探して見れば、横転したディーゼル車両に下半身が下敷きになった車掌がいた。さらに、車掌の脇に派手なシャツの片方の腕だけが出ている。押しつぶされてもう命はないだろう、指はピクリとも動かなかった。

中「うううう・・・」虚ろな目を向けてくる車掌。

中「諦めな、我に楯突いた報いだ。」

中「うう・・ぐふっ」口から血を吐いた。

中「汚ねーな。掃除は自分でしろよ。」

 そのまま見捨てようと歩きかけたが、思い出して車掌の所に戻りしゃがんだ。車掌の上着のポケットを探る。手錠の鍵を探したが、出てきたのは、派手な男と折半した我の金。

中「返して貰うぜ、金。」

 それを自分の上着のポケットに苦労して入れてから、また手錠の鍵を探しかけた時、指定席の車両の向こうから、無事だった数人の客が

中「おーい車掌!」

中「車掌は無事かー?」と叫びながらこちらに歩んでくる。

中「助けを呼んでくれたか?」

中「後続車に知らせないと、突っ込んでくるぞ。」

中「反対車線も・・・おっ、お前何してるんだ!」

中「あっ、お前は、さっきの日本人!」

中「手錠!」

中「やっぱり強盗だったんだな!」

中「我は強盗じゃない。我から盗んだ物を返してもらってるだけだ。」

中「こんな時に!車掌の懐から盗もうとしてるぞっ」

 そんな声で、増々人が集まってくる。

「ちっ」

 面倒な奴らだ。また言いがかりをつけられて、拘束されるのは御免だ。

中「あっ、逃げた!」

中「逃亡だ!」

中「犯人が逃げたぞ!」

 我は金を手にして山の中へと駆けた。







 樹々の間からヘリが飛んで行くのが見えた。サイレンの音が風に乗って、大きくなっては小さくなってと波のうねりのように聞こえてくる。 やっと、事故現場に救助隊が到着したのだろう。

 腕時計で時間を確認する。事故現場から離れて1時間が経とうとしていた。

 他の乗客の「犯人が逃げた」と叫ばれた場面が妙に頭について離れない。

「我は逃げたのではない。」

 そう言っても、お前たちは耳を貸さないだろう。

「我が刺したのではない。」

 そう言っても、お前らは信じないだろう。

 信じないくせに、人は、都合良く己を正当化して、神に縋る。

 愚かだ。

 低能だ。

 そんな奴らと一緒にするな。

 我は神の子であるぞ。

 山の中を歩き続けた。すぐ、人里に出るだろうと思っていたが、民家の一つにも行き当らず、まともな道すら出会わない。

 列車は確かに山間の峠を走っていた。事故現場はゴツゴツとした白い岩肌が垣間見えるほどの高山の域を走っていた。落石でもあって、下りのスピードが出ている所で衝突し、あのような激しい脱線となったのだろう。

 昨日でもなく、明日でもなく、一本前でもなく、後でもない。今日、我が乗った列車が・・・いや、我が不当な拘束と拷問を受けたから、列車は大破した。

 我を虐げたあいつらが死傷して、我は無傷で生きている。

 それが神の神意で神威だ。

 樹々の密度が深くなった。木の実が成る樹木も見かけるようになった。だが、一向に山が開ける気配がない。

 初めて歩みを止めた。下れば、どこぞに出ると簡単に思って歩いていたが・・・。

 確かに、山の様相は変化した。しかし、これは、山深い所へと向かっているのかもしれない。か、まっすぐ歩んでいると思って、実は同じ所をぐるぐると回っているか?

 太陽を探す。針時計で方角を知る方法があるのは知っている。だが、どうやるのだったか・・・。

 思い出せ・・・。

 想い出せ・・・。

 りのの顔が思い出される。

「りの・・・。」

 2ヵ月前、様子を見に来た柴崎凱斗から、りのはフィンランドの学校に編入留学したと聞いた。

 やはり、我が日本を離れることによって、りのにも、日本を離れる神威が働いた。日本を嫌っていたりのは、それは大いに喜んだであろう。

 りのは我。我はりのである。元は一つの魂であった我々の意識は、共鳴して反発する。

 共鳴と反発、それは相反して矛盾と思われる現象だが、思いの強さによって、どちらかに流れると我は分析している。

 強く日本を嫌い、海外に行きたいと願った意識は、我の祖国を思う心の強さの反発した現れだ。

 我が祖国の事を思えば思うほど、りのは日本を嫌う、反発の現象。

 我が祖国を脱することになると、りのも日本を脱することになった、共鳴の現象。

 心意で反発し、神意で共鳴した。

 鳥の奇声で思考を元に戻す。方角を導きださなければならない。時計を見る。手錠が邪魔だ。午後2時16分。確か、短針を太陽の位置に合わせ、12時との間が南だったはず。地図もないから鄭州が東西南北どちらの方角なのかわからないが、とりあえず、南なら南と決めて歩めば、いずれどこかの町に行きつくだろう。闇雲に歩くよりマシだ。

 それに、我は神威が味方しているのだ、困ることはない。導き出した南に向かって歩み出した。

「それにしても、この時計役に立ったな。」

 これを貰った時は、今時アナログなんてと貶したものだったが。

 この時計は柴崎凱斗からもらった物である。ヤン・ツゥイイの家には、一応道場と思わしき部屋に壁掛け時計一つしか無かった。携帯電話はもちろんの事、電化製品というものが皆無で、時間を知りたい時は、いちいち道場の時計を見に行かなければならず、とても不便で、その不満を柴崎凱斗に言うと、「じゃ、これあげるよ。」と手渡されたものだった。身分的に、高級な時計をしている印象だったが、手渡されたのは、日本製ではあるが、さほど高級とは思えない代物で意外だった。だから貶しを含めて、「今時アナログなんて。」と言ったら、柴崎凱斗は「針の方が色々と便利だよ。」と答えたのは、こういう使い方を含めての事だったのか。

 柴崎凱斗―――辞書を丸ごと覚えられるという記憶力を持ち、アメリカの大学に飛び級で進学し卒業ののち、軍隊に所属した者。その多彩な能力は、華選の地位でもって神皇に承認された。

 その柴崎凱斗だけが、あの時、自身の思いに素直な言動をしていた。

 誰もが、我が双燕の双子であると知ると、慎ましく崇めた。確かにそれは望み欲した事だった。皆が我に皇前片座姿で傅く。気持ちが良かった。これが本来あるべき対応なのだと得心した。そんな中、柴崎凱斗だけが、怒り、『神皇家千七百年の歴史の神聖を犯した異端だ。』言った。

『許しはしないよ。どんな理由があろうとも、俺はりのちゃんを刺したお前を許さないし、贖罪をしてもらうつもりでここに連れてきた。』

 柴崎凱斗をはじめ華族会の面々は、あの殺傷の原因を、我がりのに接合を強要し、嫌がったりのに腹を立てて、我がりのを刺したと思っている。

 確かに、我は刃物を手にし、刃が肉を貫く感触をこの手に覚えた。

 しかし、それは我の意思ではない。

 りのの意思。

 止めようとしたのだ。

 りのは我であり、りのは我であるから、止められるはずだった。

 なのに、止められなかった。

 何故か、あの時ばかりは、左目の力はりのの動きを止められなかった。

 りのが、柴崎凱斗のように、取得言語によって阻められる、効き目が悪い種類の者ではない。

 我らは魂の半分を分かつ者ゆえに、我の意思はよく届くのだ。

 なのに、何故、あの時りのの動きを止められなかったのか?

「絶頂の先に無を知ったから。」とりのは言った。

「無」そう、確かに知った。

 接合における絶頂は、確かに、心を無にした。

 身も意識もしびれるほどの感応は絶頂の果てに無となる。

 その行為に溺れ、理性を失う馬鹿がいるのも頷けると、理解した。

 だから、我もその感応に溺れ、理性を失ったとでもいうのか?

「ありえない。」

 我は神の子であるぞ。俗世の愚弄の人と同じに色欲に溺れるはずが無い。我が接合を要するのは神皇家の継続の為、神依女(かしめ)に継嗣を産ますことにあるのみ。接合における絶頂の喜びは、副物の施しだ。

 古来より、神依女(かしめ)に神の子が降りた兆し、いわゆる妊娠の兆候が現れるまで、性交は毎夜続けられていた。

それほどまでに古来の神巫族にとっては、神皇家が永続することが国の安寧であり、人々の安定の元であり、第一であった。選んだ神依女(かしめ)に不遇にも神の子が降りなければ、一年後、また新たな神依女(かしめ)が選ばれ、再び性交は毎夜続けられる。古来の民にとっても、神の子の降臨が、いかに天佑神助的なものであったかが、祖歴書に書かれた歴史によってわかる。医学進歩した現代では、さすがに毎夜までは行われず神依女(かしめ)になる女の排卵日や吉日に合わせて性交の日が決められ、毎夜ではなくなったが。毎夜であった時に、性交に何の感応もなかったとすれば、それは拷問に近い。毎夜苦しみにだけ味わされる性交など、神依女(かしめ)となる女のみならず、我々新皇もさすがに辛い。

 神は上手くしたものだ。いや人側か?

 神の子との性交は、毎夜飽きなく求め合えるように、感応の喜びを与えたもうた。





 両の掌の傷は血で固まりふさがりつつあるが、頬に新たな傷を作った。木の枝が頬をこすり裂いたのだ。

 道なき道、獣道すらない所を、ただまっすぐ南へと歩いた。以前山深く、里という物にも出会わない。

 こんなにも山は深いのか?

 ここが日本であればすぐに人の手が入った道などに出くわしそうなのに。

 ここが中国故か?

 確かに中国は広いが・・・

 ほどなく夜が迫ってきた。樹々に囲まれた周囲は足元に月の光すらも遮る。月も出ているか出ていないのか、見つけられなかった。

 時計は太陽光蓄光の使用だったようで押せば時刻は確認できた。まだ5時だと言うのに、辺りは漆黒に包まれ、我は足を止めた。途端にぶるっと総身が震える。列車に置いてきた荷物が悔やまれる。衣服は綿素材のシャツにパーカーを羽織っているだけだ。11月の初頭の山の中で、その軽装がいかに無防なのかぐらいは知っている。

 体温が保たれず死ぬであろう、人ならば。だが、我は神の子だ。事故の時のように危機的な状況には必ず事が動く、神威が我を生かすために状況の打開を強いるのだ。よって今の状況も、特に悲痛な不安を感じられない。

 しかしながら、こうも見えなければ歩むこともできない。手にはめられた手錠が邪魔で、まともな歩き方が出来ず疲れた。どこかで休む所をと、周囲を見渡した。

 都合よく、大きな樹の根が張り出している窪みを見つける。そこに背を預けて座り込んだら、枯れ葉が思いの外深く

体が埋もれてしまった。かさかさと気持ち悪く起き上がろうとして、ふと気づく、意外にも暖かい。

「なるほど、やはり、神は我を死なせはしない。」

 笑いがこみ上げてきて、こんな場所で遠慮も何もないなと声に出して笑うと、それに呼応したかのように、何かの獣の鳴き声が山間に響く。

「神の子がこんな所で寝るなど、あり得ぬな。」

 だが、これも面白い経験だ。双燕は絶対的に経験しない事ゆえに、我は貴重なる存在となる。

 我が天に還す命を全う出来ずに生きた意味が、古より御座なりの神皇になりつつ状況を、変える神意が働いてるやもしれぬ。そうでなければ、我の存在を生かすように進展してきた、数々の神威に説明がつかない。

「あぁ、そうか、これは試されているのだ。」

 神皇たる者の存在価値を高める為の試練か。


 

 覚醒し、あたりが白んで靄がかかっているのを視認する。朝を迎えたようだ。だが、はっきりと眠った感がない。が、起きていた意識もなかった。体は夜露に濡れた枯れ葉で重く、中々起き上がれなかった。やっとの事で起き上がると、すぐ近くの茂みで、ガサゴソと何かの動物が動いて逃げていくような気配がした。何の動物かは見て取れなかった。

「最悪の目覚めだ。」

 強張って軋んだ体を伸ばしつつ、衣服についた枯れ葉を落とす。

 時計を確認すると5時52分だった。空を見上げ太陽を探すも、一面雲に覆われていてわからない。

「そうか、曇りという日もあるか・・・。」

 太陽が出なければ方角が分からない。かと言って、太陽が出るまでこの場に留まるのは、気持ち的にもどうも進まぬ事だ。回りを見渡し、体を沈めた樹との角度から、昨晩自分が歩んできた方向を思い出す。

「こちらから来て、この樹をみつけた、ならばこのままあちらへ向かえばいい。」

 多少の誤差は元よりある。とりあえず一方向へ向かえば、どこか人の手の加わっている場所に行きつくだろう。ひと昔とは違い、山深き所にも、人は欲深く富や利便を求めて入り込んできているのだから。


 靄は霧雨に変わった。じっとりと衣服が濡れて重く、足運びがままならない。平坦な場所は皆無に等しい。常に登っているか下っているか。樹の根が浮き出た凹凸が、足を滑らす、時々地面から出ている岩を超えるのにも一苦労となってきた。

「くそっ。」

 一体どうして我はこんな目にあっているのか?

 これが柴崎凱斗の求めた断罪なのか?

「我が何をした?」

 そもそも断罪を求められるようなことはしていない。

 りのを刺したのはりの自身。

 それを、刺したのは我だと理屈を合わせ、怒りの矛先を勝手に定めたのは、彼らだ。

 愚かなる人は欲深く、服罪すらも神の子に押し付けようとするのか。

 そうであった。

 我らは、卑しく力を求めた卑弥呼が神に縋り、降り立たされたのだ。降り立った時点で、人らの祈りを受け入れる事を承諾したのも同然だったのか。

 どうすることもできぬ天変地異を、神の子へと押し付け、人はのうのうと平穏を待ちわびる。だからか、だから我は今、このような心身労を費やしているのか。愚弄の者たちの為に。

 出張った岩を乗り越えようとして足を滑らせ、尻と手を地に着いたところで、立ち上がれなくなり、先へと進もうとする気力も出なくなった。

 結局太陽は一度たりとも見えはせず、降っては止みを繰り返す雨空が続いている。酷く降りはせず、雨粒が直に体を叩きつけないだけましであったが、搾れるほどに重くなった衣服は着ている意味がなかったが脱ぐこともできない。

 ごつごつとした岩に背を預けて目を瞑る。

「難事がなければ、今頃・・・。」

 ミスターグランド佐竹副代表に会えていたのかもしれぬのだ。まぁそれは希望的観測だ。忙しい御仁はきっと、三か月前に突っぱねた子供に合う事もないだろう。それもわかっっている。会う資格もまだ自分は得ていないのだから。

 だが、遠くからでも良い、移動中の姿を見るだけでも良い、自分が香港で生活をする前に、目標とする人に一目会うと決めていた。そして、そんな場当たり的な行動でも、我はきっと思い通りに、ミスターグランド佐竹副代表の姿と出会えるはずだと思っていた。

「何故だ・・・」

 どうして、これほどまでにミスターグランド佐竹副代表に見惚れるのか?

「もう、これは恋としか言いようがない現象ではないか。」

 見つめられ、胸が熱くなった。

 りのとの出会いの時でもそんな現象は起きなかった。いや起きなかったのではなく、りのとはもっと別の、魂の求め合いであり、元は一つであった魂の引き寄せの凄まじい現象が起きたのだ。ミスターグランド佐竹副代表との出会いは、それとは違う。至って普通の、これは色恋現象だ。

 同性愛への偏見思考はなく、我は普通に受け入れ、認めた。それほどまでに、ミスターグランド佐竹副代表は魅力に満ちていた。

 こんな所で立ち止まっている訳にはいかない。一刻も早く山から脱出し、ミスターグランド佐竹副代表に一目会う。そうすれば、必ず、己の方向性が導く神威が働くだろう。

 我は重い瞼をあけ、岩に張り付いた背中を剥がし、足に力を入れた。

 歩まねばならぬ。ミスターグランド佐竹副代表の元へと。



 霧雨の雨は、時折本降りの雨となっては止みを繰り返す。寒さは感じなかった。ずっと歩いていたからかもしれない。 

 滴るほどに濡れてしまった衣服は、何かをおぶさるかのように重く腰が折れる。岩が出ている脇で立ち止まり、上着のファスナーを開け、肩から脱ぎ足をくぐって前に持ってくる。上着を丸めて岩に押し付け水分を絞り出した。さほど絞り出す事は出来なかった。思いのほか効果の上がらなかった作業だけで、息が上がる。思えば丸一日、飲まず食わずであった。その事象が辛いということはない。元より食することに興味がない。どちらかと言えば食する事が面倒だと常に思っている。そして今現在も、腹が減って辛い、腹の虫が鳴って仕方がないなどの現象もない。喉の渇きは顔を滴ってきた雨水が勝手に口から入って喉を潤していた。

 だが、こうも、息が上がり、体に力が入らないのは、自分が存外に体力を減らしていると知る。

 大して絞れなかった上着をもう一度着るには更に苦労した。手錠で拘束されていると後ろに手をやれず、どうにも不便だ。

 落ちている細枝を拾い、手錠の鍵穴に差し込み、どうにか外れないか試した。細枝はすぐに折れて終いには、鍵穴の中が木くずで詰まってしまった。輪っかになっているつなぎ目にも木を刺しこみ外れないか試した。やはりすぐに木の方が駄目になる。あれこれ触っている内にようやく気づいた。左右の錠を繋ぐ鎖の一つに、ゆがみで隙間ができている事を。

列車に乗ってから、新聞を読むために眼鏡をかけた。その眼鏡は派手な男と揉めた時にもかけていた。列車が横転した時に吹っ飛んだのだろう、宙にぶら下がっていた時にはなかった。歩き始めて何度も手錠を外せないか、見ていたはずなのに気づく事が出来なかったのは、眼鏡を失い、視力がなかったからだ。

 その緩んでいる鎖の一つに、新たな枝を差し込んで引っ張ってみる。やはり枝の方がつぶれる。なるべく先端の尖った石を見つけて、緩みのある鎖の輪に突っ込み、足でその石を踏みつけ引っ張った。滑ってうまくいかない。息があがり、疲れて休み、こればかりに固執してもどうかと思い、歩きはじめた。

 鎖壊しに随分と時間を取っていたようで、すぐに辺りが暗くなり始める。今日は太陽が一度も見ぬ雨曇の空であったから、夜になるのも早いのかもしれない。早々に、どこか休める所を探すも、昨晩のような枯れ葉で暖を取れるような場所はない。雨ですべてが濡れてしまっているからだ。

 雨の降りは無いが、夜露なのかわからない、湿り気が空気全体を濡らしていた。

「不快なのはどこも一緒か。」

 探し選ぶほどの場所もなく、背もたれ出来る太さの木の下に座った。目を瞑るとすぐに眠ったのか、妙な夢を見る。



『探しました。』

 息を切らした母の声を無視し、我は渓谷の川の流れを見続ける。

『危ないので、帰りましょう。』

『危ない?何が危ないというのか?』

そう、問いながら振り返ったが、母の視線は全く違う方向を向いている。なぜか、視線を下に向けていて、そして、我の体にそっと手を添えて後ろへと下げられる。

『これは?』

と言った自分の疑問に首を傾げながら、その疑問の元となっている手へと向けると、手は何かを掴んでいる。その何かは感触がありながらも、白く霞んでいてはっきりとは見えない。

もう一度母へと視線を移すと、母は横を向いて答える。

『熊避けです。外は熊や猪などの獣が沢山おります。襲ってこないように設置しています。』

と説明された通り、その手に掴む見えない何かは、確かに金網フェンスのようで、周囲をずっと切れ間なく我を囲っていた。

『寒くなってきます。帰りましょう。』

『帰る?どこへ?』

 また母へと振り返ったが、母は足のつま先を見るように俯いていて、顔を見る事は出来ない。

『危ないので、帰りましょう。』

『だから、何が危ないのだ。』

『寒くなってきます。帰りましょう。』

『寒いのは当たり前だ。こんな山の中を彷徨っているのだ。』

『帰りましょう。』

『どこへだっ、ヤン・ツゥイイの所へか?奴は我の帰りなど望んではおらぬぞ。初めから我の事など居ぬも同然に扱っていた。』

『帰りましょう。』

『国へか?二人の継嗣は認めぬと厭うたのは、お前たち華族の者であるぞ。』

『帰りましょう』

『何処へだ・・・。』

『帰りましょう』

『母、おぬしも、我の世話をしなくて良いと安堵していてたではないか…。』

 母の『帰りましょう。』の懇願と、我の異論のやり取りを何度も繰り返し、目が覚める。

 辺りはまだ暗いが、漆黒ではなかった。僅かだが夜が明ける兆しのある薄闇だ。そんな中、何故目を覚ましたのか、ずくに理解した。前方の茂みがガサガサと音がするからだ。

 その音は次第に大きく近づいてきて、何やら動く物が見え始める。

 我はゆっくり、音を立てずに立ち上がった。

『熊避けです。外は熊や猪などの獣が沢山おります。襲ってこないように設置しています。』

 母のその言葉が、金網を設置していた言い訳である事は後に理解していた。京都の山奥に、猪は生息しているかもしれないが、流石に熊は居ないだろうと知っていたからだ。

 そうか、ここは、京の山奥とは違う、人里離れた山岳地だった。その心のつぶやきに反応したかのように、暗闇に動く動物はこちらに顔を向けた。

 夜行動物の目が光る。熊であった。

『危ないので、帰りましょう。』

 その意味を理解した。山は、獣に襲われる危険性がある。死んだふりが無効である事は書物で読み知っている。背を向けて逃げる行為も、熊の攻撃性を高めると読んだことがある。熊は逃走する対象を追いかける傾向があるからだ。このような至近距離の場合、どうしたらいいか、書物には何と書いてあったか、思い出す暇なく、熊はその巨体を跳ね揺らしこちらに向かって来た。 反射的に回避行動を取る。後ろへと駆けようとしたが、木の元であった為、根に足を取られて倒れた。熊は我へとその前足を叩きつけようとあげ、我は悲鳴と共に、手錠繋がる両手で頭部を庇った。

 容赦ない力で叩きつける熊の手に、両の手は弾かれ、体は横向きに転がる。しかし、何故か、すぐに両の手は持ち上げられ、熊の顔を見る事になる。熊は牙をむき咆哮し、反対の手の方を上げる。我は握る拳で迫る熊の顔を押しのけようと叩き下ろす、と、最初の一手で上げた熊の手もついて来る。それで熊は少し体制を崩したようで、熊の前足は我の体の横の地面についた。そして、またもや我は体が引きずられ横向きになり、熊の前足に手首を踏まれる。そこで気づく、熊の爪に手錠の鎖が刺さり絡まっている事を。最悪だ。これでは、熊から逃げられないではないかと悲観する間もなく、熊はその前足をあげ、仁王立ちになり、我の上半身も持ち上げられる。手を振り回す熊。我も全身使って必死にもがいた。再び地面に転がされる。這いずり回わされ、何が何だがわからなくなる。そして手錠の鎖は地面から生え残っている切株の枝に絡みつき、熊は力任せに振り引いた。すると熊は咆哮一声で身を翻し、逃げて行った。

我はしばらく寝転んだまま、茫然と身動きが出来なかった。

 気持ちも、呼吸も落ち着き、絡まる枝から手錠の鎖をとり、手錠の輪が擦れる手首をさすった。そして、立ち上がり歩き始める。



 歩き始めると、歩調に合わせたかのように、辺りは次第に明るくなり朝を迎えたが、またしとしとと、雨が降り始め、そして、強く激しい雨になる。

 覆い茂る樹々の葉も雨よけにはならず、容赦なく体に降り注ぐ。

前髪に滴る髪を一度かき上げた。上着の袖口に黒い染みがあるのに気づいた。泥汚れのはずで、今更汚れを気にしようにもどうしようもないはずが、妙にその汚れに目がいき、そして疑問に思う。

 あの熊は、どうして急に獲物である我を襲うのを止めたのか?そういえば、あの咆哮は、まるで悲鳴を上げて逃げて行ったように思えた。我の拳が当たったわけではない。

 枯れ枝に手が刺さり痛かった?この汚れはその時に負傷した血か?

 手錠の鎖を触り改めて見ると、隙間の出来ていた鎖が、大きく伸びている。これなら強く引っ張れば鎖はちぎれそうだ。やってみると、案の定、鎖はちぎれた。

「あぁ、やっと腕は自由だ。」

 腕と肩を回した。手の自由があると、体は思いのほか軽くなる。

「熊のおかげか・・・そうか、熊は痛かったのだな。」

 熊の爪は意外にも細く鋭かった。あれで顔などを引っ掻き切られたら、かなりの深傷を負うだろう。

 運よく、一撃目で熊の爪がこの鎖に入り込み絡まった。前足を動かすたびに、我の体重が熊の爪にかかる事になったのだ。だから痛がり、振りほどこうとした。そして、自ら前足を引いたその力で、鎖の穴は大きくなり外れた。さぞかし痛かったのだろう。だから、咆哮一斉で逃げた。爪を剥がすほどだったかもしれない。この袖口の血は、その時負った熊の血なのかもしれない。

 熊に遭遇しても死ななかった。しかも、遭遇した熊は、この手錠の鎖を壊す役割となった。

 何と凄い神威が働いたものか。

 やはり、天は我を生かす方向にあるようだ。

 我は雨の中、心勇み歩きはじめる。だがしかし、雨は緩むことなく強く降り続く。

 足元は濡れて滑りやすく、何度も手をついた。手が自由になったとはいえ、こうも容赦なく雨が続けば、体温も取られて、体は身動きがままならない。

 方向も、またわからなくなった。

 心勇んだはずの気力はすぐに無くなり、思考を鈍らせる。

「くそっ」

「何故、こんなことに」

「許さぬ、あいつら」

 闇雲に歩くのはまずいとわかっていても、歩みを止めなかった。その禁忌は、一般的な山歩きの常識だからだ。登山者、あるいは山菜取りなどの入山者が遭難した時、遭難者が入山して帰宅しないと、身内の者などが、山に入った事を想像できている。遭難者は闇雲に歩いて体力を消耗するよりは、一つ場所に留まり、いずれ来る救助を待つ方が良い。しかし、我の場合は違う。黙ってヤン・ツゥイイの家を出てきた。我がこの山に入山している事は誰も知らないのだ。指定席の切符の売り上げと列車事故にあった乗客の人数が合わない事は判明するだろうが、しかし、それが我であると判明はしないだろう。事故現場で回収された荷物を調べ、被害者を特定する捜査も行われるだろうが、それで我が判明することもないだろう。唯一身元が判明するパスポートは、派手なシャツの男が、列車事故の前に窓から捨てていた。パスポートの他に身元が知れる何かは、何一つあの鞄には入っていない。

 可能性があるとすれば、「犯人が逃げた」と言って騒いだ、指定席の乗客達の証言だ。しかしあれほど大きな列車事故後に、乗っていた強盗犯が山に逃げたと言って、警察が探すだろうか。我は護送されていたわけではないのだ。トラブルにあった日本人が居た、ぐらいは聞き及ぶかもしれないが、列車事故の現場より優先して探索するものではないだろう。指定席の乗客達の証言は、事故で混乱した戯言とされる可能性が高い。

 ならば、やはり我は自力でこの山から脱するしかない。どんなに疲労しても、体が動く内に歩いた方がいい。誰も救助には来ないのだから。

「くそっ」

「何故、こんなことに」

「許さぬ。」

 繰り返されるその言葉は、言霊にも成らずに、激しい雨に流されていく。その悪態が成らず物の無駄だとわかっていた。だが口に出さずには前に進めなかった。

「くそっ」

「何故、こんなことに」

「許さぬ、」

「何故こんな目にあっているのだ。」

 もう引きずるようにしか歩けぬ、体を動かす律動になっていた。

 樹の根や出張る岩に足を取られ、地に手を付けるともう動けない。倒れているのか、休んでいるのか、はたまた寝てしまったのか、気絶していたのか、わからない時を経て、朦朧と覚醒する。そして、また歩きはじめる。それを何度が繰り返し、辺りは暗くなり始めた。

(あぁ、また夜を山で過ごさなくてはならない。また熊でも襲ってくるかもしれぬな。)

そう思考した時、暗くなり見えなくなっていた足元の地面が崖になっている事に気づけず、滑り落ち、体は尻と背中をつけて斜面を下った。何所にも掴まる事ができず、速度は速さを増し、そして急に浮いた感覚がした瞬間、体は激しい衝撃で打ち付けられ、そのまま意識を失った。



 チチチと鳥の鳴く声が耳にうるさく、朦朧と目を覚ます。辺りは明るい。土の匂いが鼻についた。枯れ葉が顔に触れて気持ち悪い。体を起こそうと、利き腕の手を地につけようとしたが、何故だがどうにも動かぬ。左手を動かしどうにか体を浮かせた瞬間、右肩から上腕にかけて激痛が走る。悶え、空を仰いだ。

「はぁ、はぁ・・・はぁ。」

 樹々の合間から見える空は青空が広がっている。そして、頭上は崖だ。十数メートル上に出張った岩肌が見える。その岩肌より先は斜面が続いていた。

 崖を滑り岩から落下して、体勢から見て右肩から落ちたのだろう。この痛み、肩を脱臼したか骨折したかどちらかだ。

「くっ・・・」

 空は青空が広がっている。

 肩の痛みが一番激しいが、全身の鈍い痛みもある。

 このまま、ここでじっとしていたい。もう歩くのは嫌だ。

 しばらく目を瞑り眠ろうとした。しかし、眠気は襲ってこないで、やたら鳥の鳴き声が耳につき、苛立った。

「歩まねばならぬか・・・」

 こんな所で寝転がっていても、ミスターグランド佐竹副代表と会える神威が働くとは思えない。

 右肩を動かさないよう、慎重に上半身を起こすと、右腿の側面のデニムスボンは派手に破れ、皮膚も裂き、血は既に固まりつつも、傷口の周囲は青く打ち滲んでいた。掌は元より傷だらけだったが、血は固まっている。脇腹や背中も鈍く痛いが、右肩に比べればたいした事はなかった。体を起し立ち上がる、それだけで息が切れた。それだけで冷や汗が出た。

「くそっ、何故だ。何故こんなことに。」

 その言葉は、やたらと騒がしい鳥の鳴き声と雑じり紛れていく。

 時計で方角を掴む、幸いな事に崖とは反対の方向、つまり歩いて行きやすい方向が南であった。

 息を吸い込んで歩み始める。

 山は、やっとの晴天で餌を探しができるとあってか、鳥や獣の鳴き声が、風吹く樹々を揺らし騒がしい。

 手ごろな木を拾って杖にして歩いた。登りより下る方が心身に辛い。時折、均衡を崩し右肩に力を入れた途端にくる激痛に悶え、うずくまった。ギチチと一声を発した山鳥がすぐ先の地面に下りてきて、ついばみこちらを見る。杖にしていた木を振り回すと、山鳥はすぐに飛び立ちどこかへ行った。

そ列車事故に遭った日の山に入った初日も晴れていたが、これほどまでに小動物を見る事が無かった。小動物が生活する場所まで、山を降りてきたという事だろうか?わからない。そういう書物は読んだ記憶がなかった。

「もっと、幅広く書物を読むべきだったな。」

 りのであれば、こういう状況は得意であったかもしれない。

 りのとの知識の語らいは、愉しかった。競うように、書物から知識を吸収しては披露しあう。互いに相手に「知っている」と言わせないために、まだ知らぬ知識を図書館で探し読み漁った。りのは、我が野外の事に疎いと知ると、得意げな表情で野営の仕方などを語らってきた。針時計から方角を知る方法を教えてくれたのは、りのだ。

「りの・・・今どこで何をしている?」

 あぁ、そうだ、フィンランドに留学しているのだったな。

 我が国日本を嫌って、出ていく事を望んでいた。その気持ちは、我が祖国を思う事の反発であり、鼓動を合わせ魂の結びつきを強くすれば、他国へのあこがれなど消えるはずであった。

 それなのに、どうして、りの、その思いは消せなかった?

 学園の図書館で静かに本を読んでいたあの時、この上なく穏やかな安らぎの時を互いに満足していたではないか。

 魂が一つになる時まで、それはつまり死ぬ時まで、そんな穏やかな生活を誰にも邪魔されることなく過ごせる上質の日々を与えられたのに、どうしてりの、お前は嫌がったのだ?

 降ってきた木の実がコロコロと足元まで転がってきた。先にある樹を見上げると、りすがしきりに頬を動かし木の実をほおばっている。我が見ているのに気づくとリスはさらに上部の枝へと走り、隣の木の枝へと飛び移った。

「飛び移る世界は楽しいか?。」

 そこには我の知らない世界があるだろう。書物で知った世界よりも、ずっと楽しいに違いない。

「あぁ、だから、我はその世界を采配するミスターグランド佐竹副代表に恋をしたのかもしれぬな。」



 獣の姿が頻繁に見れたところで、獣が人里まで案内してくれるわけでもなく、獣の姿が道しるべになるわけでもない。 獣たちは我をただ遠巻きに見ては逃げていく。

 一向に山は開けず、人の手が加えられたという場所に行きつかない。頭上で山鳥が飛び立ち、奇声を発する。それらに気を取られて、支えていた杖の重心を傾けてしまい、その場に膝をついてしまった。

 肩に痛みが走り、唸る。

 未だ乾かず濡れた衣服が重いのか、力が入らず体自体が重いのか、どちらなのかわからない。一度座り込むと立ち上がるのに苦労する。左肩や腕に力が入らないため、支えられないのだ。

 時刻はあと少しで3時になろうとしていた。山の夜は早い、今日もまた、一日が過ぎようとしている。

 立ち上がれず、限界だった。このまま、この場で夜を迎えようかと、完全に尻を地につけ座った。

 一息ついて、ふと、騒がしい獣の鳴き音に交じって聞き覚えのある音に顔を上げる。風に吹かれて時折届いて来る響きは、それは幼き頃に初めて見知った、轟々と音を立て波打つしぶきをあげる渓谷の音と同じだ。つまり川が近くにある。

これまで歩いてきた山中で沢を何度か見つけたが、その沢はすぐに地面と馴染んで無くなる短いものばかりだった。

 大きな川があれば、下ればいずれ海にでよう。海まで行かずとも、川のそばは、いずれ里に出るだろう。

 そう思考すれば、皆無に等しかった力が、どこぞから湧いてくる。立ち上がるのに苦労していたのも、この時はすぐに立ち上がることが出来、音の方へと足を向けた。

 樹々が開けて見降ろした川は、そこそこ大きな川であった。岩の大きさから推測して、中流より少し下ぐらいだろうか、森に囲まれた家を囲う金網から眺めた渓谷と比べての推測だった。あの家の渓谷よりも川幅は広いが、岩の大きさと、角の取れ具合が緩やかで、すこし沢もある。難儀する場所もあるかもしれないが、川沿いを下っていけると判断した。

 利き腕と肩が使い物にならないので、たっぷりと時間かけて慎重に川縁を降りた。ここで足を滑らせてまた負傷などありえない。上手く川縁に下りて、水際の岩に上って、勢いよく流れ行く川下へと視線を送る。水は昨日の雨で茶色く濁っている。おそらく普段より水嵩が増しているのだろう。轟々と流れ行く力は、己の手に負えぬ力に満ちて、未知なる先へと進んでいる。その未知なる先にいるのは、ミスターグランド佐竹副代表であるのは間違い。この川を下る事がミスターグランド佐竹副代表に会える近道なのだ。

 岩に尻をつけて座り、川へと片足をだけを入れてみる。川の深さはちょうど膝までだ。水流は思いのほか強く、今すぐにでも我の足を川下へと持っていこうとする。たとえ30㎝の深さでも人は川で溺れる事は、書物で読んで知っている。だから、こんなに水嵩が増して茶色く濁った川の中を歩いて下ろうなんて無謀にも思っていない。川の中を歩けば疲れるだけだ。

 ただ、太ももの傷についた泥を落としたかった。手を洗いたかった。茶色く濁った水で洗っても綺麗にはならないのはわかっていたが、乾き始めた泥は皮膚を固めて気持ち悪かった。もしかしたら、痛みのある肩を冷やせば、少しは楽に動かせるかもしれない。そう思考し、まだつけていなかった右足も水流の中にいた。しっかりと岩にしがみついた左手首の時計の針は、3時21分を指している。

「あぁ、あそこから降りるのに、20分もかかったのだな。」とくだらない事を思考した瞬間、左手は掴んでいた岩から滑り、空を泳いだ。体は均衡を失い、負傷している右側を打ち付け、痛みの唸りとともに、我は全身を川に沈める。轟々と勢いよく流れる川は、すぐに我の体を流していった。

 すぐにどこかに掴まり、立ち上がれると思ったが、何処にも掴まる事などできない。それどころか、四肢は水流の勢いに荒くはねられ、自分の意思で動かすこともできない。水の波が顔に大きく被さり、束の間息が出来なくなる。

「ぐはっ・・・」

 やっと息が出来ると思うと、また大きく水が覆い、しこたま水を飲む。

 脇に岩の先端があたり、のんだ水を吐いたが、吐いて吸ったのは水交じりの少しだけの空気。

 苦しい・・・・

 我は泳げないと知った。書物で泳ぐことがどういうことかは知っていた。知識さえあれば何とでもなる事を実績してきた。だから、泳ぎ方を知っていれば泳げるのだと思っていた。それがどうにもならない。泳ぎ方を思い出す暇もなく、水は我の体を覆い沈め、息をさせてくれない。

 これは、完全に溺れではないか。

「だ、だれ・・・か」

「た・・・ぶ・・ごぼっ・」

 こんな、山奥に誰がくると言うのか・・・。

 しかし、我は神威が働く神の子だ。ここで神威が働かなければ、我は死んでしまうではないか。

「し・・・んい・・・」

「こ・・・たえ・・・ろ」

 だが、列車の時のようなタイミングの良い奇跡は起きない。

 負傷した肩に岩がぶつかり、口に含んでいた空気を吐き切ってしまった。

 痛みと共に、意識が遠のいていく。




『・・・もううんざり・・』

 囁く声がする。

『意味なんて・・・』

 その声の主は顔を見ずともわかる。

『どうでもいい。』

 りの・・・

『だから、死んで・・・』

 知らぬのか?神の子は中々死なぬ。だから溺れても、まだ死なずにこうして生きている。

 息もするのも面倒だと思うほどであるのに、気管のどこかが防御反応で咳込み、口から水を吐いた。その咳で朦朧とした意識と視界がゆっくりと戻って来る。

 夜だった。

 川の中腹で、どうやら岩に引っかかり、枕のように岩を頭にのせることが出来ていたから、意識のない時も息が確保できていた。仰ぎ見た空から満月の光が届いて明るい。川面は月明かりに照らさられて輝いている。

 かなりの距離を流された様子だった。川幅は広くなり、岩と岩の間隔も空いて、砂地の川縁も見える。水深もぐっと減り半身が水に浸かっていたが、もう体がもっていかれるような力はない。

「やはり、神威は我を生かしたか・・・」

 口に出した声なのか、頭の中での声なのか、わからぬつぶやきに、

 囁く声は答える。

『・・・もううんざり・・』

「りの・・・」

『意味なんて・・・どうでもいい。』

「どうでもよくはない、我らが生まれた神意がある・・・」

『神威に背くわ、私は私。』

「出来ぬ事だ。お前の魂は我の魂。半分だ。」

『もう、うんざり、・・・・』

 りのの繰り返すつぶやきに、我もまた言葉を重ねる。

「りの・・・」。

『だから、死んで・・・』

「知らぬか?我々は死んで、生まれたのだ。」

『えぇ、知っている。だから、意味なんて、私にはどうでもいい。』

「どうでも良くできないからこそ、りの、お前は・・・」

『神威に背くわ、私は私。』

「神意に背き・・・・」

『だから・・・』

「自ら刺したのであろう。」

『死んで・・・』

 りのは囁く。

『死んで・・・』

「りの・・・」

『死んで・・・』

 何度も、何度もりのは、その言葉を繰り返し、

 呪文のように言霊し、我の思考を止め、次第に意識を薄れさせていった。




 鳥の鳴き声に交じり、子供の声が聞こえた気がした。

 しかし、すぐに幻聴だと理解する。相変わらず、りのの囁きが繰り返されていたからだ。

『死んで・・・』

 瞼を開けなくても、夜ではない事が知れた。

『もう、うんざり・・・』

 四肢を動かせたが、体を起そうとすると、どうしてか、衣服が締め付けられて首が絞まる。

『だから、死んで・・・』

 瞼をあけて確かめようとすると、眼球が痛いほどにまぶしい。 半眼で無理やり首をまわして確認すると、どうやら、岩に挟まった樹木の枝が我のパーカーのフードに絡まり、我の体を留めているようだ。それだけの動作でも、もう死んでしまいたいほどに、疲労した。

『死んで・・・』

 引っ張っても、何しても取れない。ならば、ファスナーを開け脱げばいい。さほど苦労せずに脱ぐことができ、四つん這いで水面から出た沢で、倒れこんだ。

『もう、うんざり・・・』

 頬にあたる砂が温かった。陽の強さからして、正午にさしかかる頃だろうか・・・いや、わからない。時計を確認したが、まぶしくもあり朦朧としていて、文字盤など見えやしない。時刻を知るのを諦めた。

『だから、死んで・・・』

 肩の痛みは消えていたが右腕は取れてなくなったかのよう動かない。だから立ち上がるのにも苦労する。二の足で大地を踏みしめるだけで、息があがった。

『死んで・・・』

 よろよろと、歩きはじめるも、すぐに石に躓き、倒れこむ。

『もう、うんざり・・・』

「やめろ・・・りの。」

『だから、死んで・・・』

 このまま死ねば、また繰り返される。だから歩まなければならぬ。立ち上がり、足をひきずるように歩んだ。

『死んで・・・』

 駄目なのだ。このまま死ねば、我らの魂は分かれたままだ。

『もう、うんざり・・・』

 あぁ、そうだ、うんざりだ。魂が分かれたままなのは。

『だから、死んで・・・』

 りの、何故聞かぬ。

『絶頂の先に無を知ったから。』

「無・・・」

 そう、確かに知った。

『無』は神意の総意。

 無から魂は産まれ、魂は無へと還る。

 だから別れた魂を一つにする為に、我々は互いの鼓動を合わせた。

『絶頂の先に無を知ったから。』

 そうだ、性交は互いの呼吸を合わせ、無へと辿り着く手段。

『たから、死んで・・・。』

 りの、どうしてわからない。

 足がもつれ、再び倒れた。

『死んで・・・』

「りの・・・」

『もう、うんざり・・・』

 立ち上がろうとしたが、いくらも体を浮かせぬうちに、地に張り付いた。りのの囁きが、呪縛して体を地に縛り付けているようだった。

「なぜだ・・・りの。」

『だから、死んで・・・』

「なぜ、わからぬ・・・」

『死んで・・・』

「この思いを・・・」

『もう、うんざり・・・』

「こんなにも・・・」

『だから、死んで・・・』

「りのを・・・想っているのに。」

『もっと、早くこうするべきだった。』

「りの・・・」

『だから、死んで・・・』

 あぁ、そうだ神意は

『・・・無慈悲に単純。』

 りのの囁きは、遠く我の意識を無に帰す。






 耳障りな人の話し声で目を覚ました。

 ぼやけた視界が次第に鮮明になってくる。コンクリートにペンキを塗っただけの天井、何かわからない太い配管も一緒くたに塗られて壁をぐるり巡っている。窓は白く薄いカーテンが中途半端に開いた状態で、汚いすりガラスの窓が見えた。布団の重みに気づき、どうやら、やっと誰かに救助されたのだと理解する。

 やはり、神意は我を死なせなかった。

 もう、りのの囁きは聞こえてこない。

 大きく息を吸って吐き、少し体を動かすと、誰かが喧しく騒ぎ立てた。

「気が付いたかっ、良かった。気分はどうだ?どこか痛いところはないか?」

 答える隙なく矢継ぎ早に問われては、答えられるはずもなかろうに。「「馬鹿じゃないか?」と言いかけて、咳込んだ。

「あぁ、大丈夫かっ、えーと、医者を呼ぶ、待って。」と言いながら、我に覆いかぶさるようにして手を伸ばしてくる柴崎凱斗。

「お前が、待て。」

「えっ?」

「状況を説明しろ。」

「あぁ。」

 柴崎凱斗は身体をやっと我の前から離し、ベット横の椅子に戻る。

 我が身体を起そうとすると再び椅子から立ち上がり、「寝てなくてはダメだ。」と制する。

「寝ては聞きづらい。大丈夫だから起こせ。」

「いや、でも・・」

 右肩は脇に固定されるように包帯が巻き付けてあった。それで動きがままならないで、もがいたら、柴崎凱斗がベッドを起すハンドルを回し、介助する。左の腕には点滴の針が刺さっていた。繋がるチューブが揺れて鬱陶しいので、引き抜いたら、柴崎凱斗が悲鳴に近い声を上げる。

「ひやっ、何するの。」

「うるさい。」

「いや、だって・・・。」

「大丈夫だと言ったであろう。我は死にはせぬ。」

「いや、死にかけていたんだって。」

「何日だ?」

 日付を聞いたつもりだったが、柴崎凱斗は勘違いをして、我が丸6日も遭難して、そしてここ、病院でも丸一日は危なかったと言う。そして今は病院に運ばれてから3日目になろうとしている所だと言う。

 柴崎凱斗が丸椅子を引き寄せ、背を伸ばして座り直した。

「列車事故に巻き込まれて、どうして、山ん中へ入って行ったんだ。そのまま救助を待っていればよかったのに。」

 列車事故・・・それは、もう随分と昔のような感覚だ。

「まさか、歩いて現場から下山していると思っていないからさ、ずっと現場で探していて、だから山への探索活動が遅れた。」

 手首に手錠がない、しかし、両手首には青黒く内出血の後が残っていた。我が手首をさすっている仕草で察し、話を続ける。

「手錠は救助した時に外した。」

 どこからかその外した手錠を取り出し見せてくる。

 何処から話そうかと考えあぐねていると、柴崎凱斗は言い放つ。

「これはおもちゃだ・・・そういう趣味?」

「は?おもちゃ?」

「そうだよ、本物はもっと頑丈で鎖も太い、こんな風に簡単に引きちぎれないよ。え、知らなかったの?」

「知るかっ、趣味でもないし、我のものでもない、嵌められたんだ。」

「嵌められた、誰に?」

 我は、ヤン・ツゥイイの家を出たことを話し、列車事故が起きる前の出来事を語った。そして山に入り、すぐに人里に出られると思っていたと話した。

「無謀な考えを・・・」そう言って柴崎凱斗は、渋い表情で頭を抱えた。「奇跡的に、村の子供たちの話を聞けたから良かったものの、子供たちが話してくれなかったら、あの周辺は探してなかったよ。」

「子供たち?」

「そう、倒れていた近くに村があってね、子供たちは川の橋を渡って、隣町の学校に通っていてね、朝、学校に行くとき橋の上から、川の中で人が倒れているのを見つけたんだ。でも子供たちは、死んでいたら怖いと川まで降りて行かなかった。学校に行くよりは村に戻った方が早い、子供たちは大人達を呼びに村へと戻ったんだよ。」

 そういえば、子供の声を聞いた気がするのを思い出した。

「橋なんか、あったか?」

「あるよ。木でできた細くて頼りない奴だけどね。」と首をすぼめて苦笑する。

「そうか・・・気づかなかった。」

「村はその橋から20分かかる往復40分だ。大人達を連れて戻ってきた時、倒れていた人は居なくなっていた。川へと降りてみたが、服だけが残されていて、子供たちが言う人もしくは死体もない。服が人に見えて見間違ったのだろうとされ、子供たちは学校に早く行けと怒られた。」

「我は、その子らが村に戻っている間に目を覚まし、また歩いた。」

「そう。」

「しかし、村まで20分の距離の方が学校より近いとは、学校まで何分かけて通っているのだ。」

「学校まで1時間20分かかるらしいよ。」

「・・・くそ田舎だな。」

「そう、だから遭難したんだろ。」

「まぁ、そうだが、それで、その橋は事故現場からどれぐらい離れた場所だったんだ?我はどのくらい歩んでいた?そうだ、この病院は中国のどこの市の病院だ?」

 矢継ぎ早の質問に、柴崎凱斗は苦笑をうかべ、一旦ベッドから離れた。ベッド脇にある長椅子に柴崎凱斗自身の荷物だろう、鞄を手に取り戻って来る。病室内を見渡して見れば、そこそこ広い個室だった。

「ここは、洛昌市という列車事故現場から一番近い市の病院。」

とタブレットを取り出し地図を表示させて見せてくる。

「列車事故はここで起こった、日野本翔太君を救助したのはここ。」

「その名はやめろ・・・そうだ、パスポートを無くした。別の名前でまた作ってくれ。」

「えー、もう再発行手続きをしてるよ、そのままの名前で。」

「ちっ、勝手な事をっ。」

「ちっ、て・・・。」

「もう、いい。」とタブレットを奪い自分で地図を拡大して確認した。

 我が溺れた川は、翠河という名称で海までは届いていなかった。そして、我は事故現場から38キロほど離れた場所で発見されたらしい。

「5日も歩いて、たった、これほど、しかも川に流されてもいたのに・・・。」

「良く歩いた方だよ、しかも飲まず食わずで、本当に良く生きていたよ。」

 思い返せば熊にも襲われた。そのことは話すつもりもない

「ヤンも驚いていた。で、謝っていたよ。本人に謝ればいいのにさ。家を出る勝手をしたのとチャラだとか言って。まったく、あいつは昔からヘンコで堅物で人見知りだからさ。」

「ちょっと待て・・・そもそも我が列車に乗っていたと、なぜわかった?」

 柴崎凱斗は眉を上げ、笑いを浮かべた表情で言い放つ

「ヤンもその列車に乗っていたんだよ。」

「えっ?」

「ヤンは家からずっと後をついて行ってたんだ。」

「ずっとついてきていた?」

「そうだよ。わからなかっただろ。奴は俺より尾行がうまいからね。」

 唖然とした。

「何故?」

「そりゃ、預かり子に何かが起きたら駄目だからさ、見守る為に後をつけ、そして、列車にも乗りこんだ。さすがに同じ車両じゃ見つかるから隣の車両に乗ったんだけども、まさか、あんなに大きな列車事故が起きるなんて想定外で、ヤン自身も脳震盪を起して、しばらく気絶していたらしいんだ。気が付いてからすぐに探したらしいけど、見つからなくて、流石に焦って奴は俺に電話をしてきたんだ。」

 柴崎凱斗は、列車事故の起きた次の日の早朝、やっと現地の救助本部近くで、ヤン・ツゥイイと合流できたらしい。

 香港にはヤン・ツゥイイから電話があった5時間半後には到着出来ていたが、そこから事故現場までレンタカーで運転して来たのだが、細い道路は取材や野次馬の車で渋滞していたという。

「あれだけの規模の列車事故だからね、負傷者は線路わきに溢れていたよ。死体もね。俺達は探した。でも見つからない。車体の下敷きになってしまったのかと、嫌な唾を飲み込んだよ。」

 我はタブレットを操作して、列車事故のニュースを読み漁る。列車事故が起きて一週間が経っても、そのニュースは未だ世間の大きな話題となっている。

「事故から一日半後の夜、ようやく死者のリストが出揃った。しかし、身元不明者の死体はない。なら負傷者の中にいて、周辺病院へと運ばれているかと回ったけれど、日本人が運ばれているという情報は皆無だった。列車に乗っていなかったはずはない。ヤンは周景の駅を出発した後、日野本翔太君の姿は確認している。事故の少し前、トイレに立つ姿をも。」

「その名はやめろ。」

 柴崎凱斗は挑発するような笑みをして、続ける。

「では、病院で手当てを受けるほどもなかった乗客者たちに紛れたかと、少し安堵して、事故調査局にリストを見せてもらったが、しかし、ここでも載っていない。事故調査局被害者担当局員を捕まえて、何でもいい日本人というキーワードで何か情報はないかと問い詰めたら、日本人強盗犯が車掌の金を盗んでいたとか何とか騒いだ奴がいたから、車掌の荷物を検めた。という事案があったと教えてくれた。しかし車掌室から見つかった鞄や着衣からは、ちゃんと金は残っていて、事故の被害者リストに日本人は一人も居ないから、虚言だろうとなったと当局員は言う。唯一日本人と言うキーワードに引っかかった手掛かりだ、俺達は、その虚言を言った奴は誰か、連絡先を教えてくれと頼んだ。当局員は嫌な顔したよ。」

「中国も個人情報の開示に厳しいか。」

「そう、でもね、金品不正受領には緩いよ。ちょいと金を握らせたらニコニコで教えてくれてね。しかも騒いだ奴、強盗犯が逃げたという証言が、重要な情報になるだろうから金になるはずだと、えらく執拗で、そして、丁寧に自分の連絡先を残してたから、当局もよーく覚えていてね。俺達はそいつと会う事が出来て、事故現場から逃げた方角を知ることが出来た。」

 我は苦笑し、水をくれと頼んだ。柴崎凱斗は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、コップを用意しようとするのを断った。

「そうだ、目覚めたばかりだよ、医者に見せないと。」

「大丈夫だ。」

「そういうわけにも行かないよ、医者に俺が怒られる。」

「あぁ、存分に怒られろ。」

「えぇ!?」

 柴崎凱斗は首の後ろを掻きながら立ち上がり、病室のドアから半身体を出して通りがかりの看護師を捕まえ、携帯電話で訳した中国語で医者に来てくれと頼んでいる。

 医者が来る10分ほど間に、山の捜索に及んで見つかるまでの話を聞く。山に入ったと判明し、すぐにでも捜索を開始したかったが、何分、列車事故の方に人員が取られている上に、あやふやな情報だけで中国の警察や消防などの公的組織は動いてくれなかったという。そこで、柴崎凱斗は、華族会から支給されている我の生活資金と介添え金などの私財を使って民間の捜索会社に依頼した。ヘリも使い大がかりに捜索し始められたのは、事故から3日後の晴れた日の午後からだった。そこから、まる2日間を捜索したが見つからない。

「そこで、近隣の村の人も捜査に協力してもらおうと村に行った所で、子供たちの話を聞けたんだ。で子供たちの証言した周囲の山の中を捜索したら見つけたってわけ。」

 話が終わるのを見計らったように医者が部屋に入って来て、診察が始まる。

 肩は上腕骨大結節の剥離骨折をしていて、全治7週間と知らされる。我を見つけた時、脱水症状と低体温による意識障害で本当に虫の息だったという。目覚めたのなら、点滴も不要、驚くほど回復が早いと医師が感想を述べ、部屋を出て行った。

 柴崎凱斗は再び丸椅子に座り、拳を膝に置いて神妙な顔でうつむいた。

「・・・申し訳ありませんでした。」

「何だ、急に、畏まって。」

「自分の、個人的な想いで、分不相応な生活をさせてしまいました。それにより、命の危機にさらせてしまいました。」

「たしかに今回、沢山の危機に直面した、だがその危機は、ヤン・ツゥイイの家で生活を始めたのが直接の原因ではなかろう。」

「はい、しかし、自分は神皇家の血族であられる方の御身を、隠遁させた責任がごさいます。勝手した自分は、御身を預かる者として、命の危機など晒しては絶対にならない事でした。」

 悲痛な面持ちで口を堅く結んだ柴崎凱斗。我の捜索時には、さぞかし肝を冷やしただろう。以前、我を認めないと険しく主張したとはいえ、我が神皇家の血族である事は揺るがない事実である。そして、柴崎凱斗が「隠遁」という言葉を使った通りに、我が中国で生活している事は華族会の誰も知らぬ事であり、今回の列車事故の巻き添え及び行方不明は報告が出来なかったに違いない。そして、いま現在も、柴崎凱斗しか病院に居ないという事は、これまでの事情も華族会及び鷹取家、弥神家にも知らせていないのだろう。すべてを背負い責任を感じている。

 我は一つ長い息を吐いて口を開いた。

「何を勘違いしているのだ。」

 顔を上げる柴崎凱斗。

「勘違い?」

「忘れたか?我の力を。」

「力って・・・。」

「我はいかようにもできるのだぞ。その結果、今、ここに居る。」

「・・・・。」

 意味する事を理解できない柴崎凱斗は、眉間に皺をよせ首を傾げる。

「お前は、自分で言っていたではないか、『俺も、力を使われていたのか?』と。」

柴崎凱斗ははっとして、眼を見開く。

「とっくに気づいていると思っていたが・・・意外にも阿呆であったか。」

「あほ・・いや、でも・・・」

「我は神の子神皇家の血を引く者ぞ、ただ民に翻弄される命運は持たず。貴様のその思想は烏滸がましい。」

きっぱりと宣じた我の言葉に、柴崎凱斗は驚き、そしてあふれそうになった感情を必死で押さえ、隠し俯いた。

 そして、「ありがとうございます。」と、丸椅子から腰を外し、はじめて我に皇前交手片座姿をした。




 医師も驚く速さで回復をした我は、2週間で肩の固定具も取れ、痛みもなく完治した。退院後、柴崎凱斗は日本か別の国で、もっと現代的な生活の場を用意すると提案してきたが、我はどれも拒否をした。

「本当にいいのか?」

「しつこい。」

 苦悶の表情でため息を吐く柴崎凱斗を残して車外に出る。すると、扉のない門扉の柱からファンリンが顔をのぞかせた。

中「お兄ちゃん!」

 駆けてきて飛びつくように我にしがみつくファンリン。

中「あぁお兄ちゃん。帰ってきてくれたぁ。」と泣く。

中「ファンリン。」

 家を出て、一度もファンリンの事を思い出さなかったのに、こうして縋りつき泣くファンリンがとても愛おしい。頭を撫でてやると、破顔した笑顔を向けてくる。

中「お帰り、お兄ちゃん。」

中「ただいま。」

 ヤン・ツゥイイは、結局一度も病院には訪れなかった。

 ファンリンに手を引かれ、敷地内に入る。畑で農作業をするヤン・ツゥイイの姿が見えた。

中「ファンリン、久々にファンリンの入れるお茶が飲みたいな。用意してくれるか?」

中「うん!」と元気の良い返事をしながらも我の手を放そうとしない。

中「大丈夫だよ。何所にも行かないから。」

中「うん・・・」

中「師匠とお話しをしているから、お茶の用意が出来たら呼びに来てくれる?」

中「うん。」

 ファンリンはやっと我の体から離れ、家へと戻っていく。

「さて、あの狷介固陋をどう説得するか・・・。」と柴崎凱斗も並び畑の方に目をやる。

 我は、再びヤン・ツゥイイの家で居候させてもらう事を望んだ。まだ入院中にその交渉を柴崎凱斗に頼んでいた。ヤン・ツゥイイは、居候に関しては了解したが、これまでの態度を変えるつもりはなく、どんなに柴崎凱斗が頼み込んでも武術を教えるとは言わなかったらしい。

「口出しするな。」

「えっ?」

「お前は荷物を運んでいろ。」

 我は畑へと歩み、ヤン・ツゥイイの背後に立つ。ヤン・ツゥイイは、我の接近を無視して、何かの苗木に添え木を立てていた。

中「勝手な事をして申し訳ありませんでした。」

我は頭を下げる。やっぱり無視される。

中「再びお世話になります事を感謝いたします。」

 白い蝶が我らの間を優雅に横切っていく。それが大根の花にとまり、羽根を休ませるまで待ったが、やはりヤン・ツゥイイの口が開く事はなかった。我は諦めて踵を返す。

中「誰が来ても教えない。そのような貧弱な体をしている内は。」

 振り返ると、ヤン・ツゥイイは手を休めることなく、言葉を発したのが幻だったかのように、農作業を続けている。

中「お茶入れたよ~」

 縁側から手を振って呼ぶファンリン。

 我を追い越し建屋へと歩み行くヤン・ツゥイイの歩みに音はない。

中「訓示、ありがとうございます。」

 一礼をして我は師匠の後を追った。























 香港の海沿いに聳え立つガラス張り高層ビルは、周囲のどのビルよりも存在感強く、天を貫くように聳え立っていた。腕でまぶしさを防ぎながら、そのビルの頂を見上げる。夏空に浮かぶ雲が、太陽が照り付けるガラスにくっきりと映し出していた。一人のビジネスマンが、ビルの正面玄関へと足早に入って行く。

 世界企業―――レニー・ライン・カンパニー・アジア大陸統括本部―――

 思っていたほど、出入りの人間が少ない。もっと、ひっきりなしに自動扉は開けられ、多数のビジネスマンが出入りしていると想像していた。我はビルの裏側へと足を向けた。裏には、タワー型の駐車場が隣接してあり、警備員の駐在する窓口がある。窓口とは反対の歩道に来客者の車両を誘導する警備員が暇そうに立っていた。

 我は、その暇そうにしている警備員へと歩み寄り、真正面に立つ。不審な表情をしたが、警戒心は今一つ足りない。我はすかさず覆っていた前髪を上げ、左目の力を使った。

中「心髄を開き、我の言辞に従え。」

 僅かに痙攣をしたが、すぐに脱力した警備員。

中「我をビルの中へ入れろ。」

中「はい。」

 警備員の後につき、関係者出入口のある方へ向かう。窓口にいる別の警備員が「どうした?」と聞いてくるので、力で従わせた警備員に「トイレに忘れ物をしたゲストだ、同行して取りに行く。」と言わせた。

 難なく、世界企業レニー・ラインカンパニー・アジア大陸統括本部のビル内に、入ることが出来た。

 世界に運べない物はないと、それが社会に反する物や人であろうとも、顧客のプライバシーを厳守し、いかなる国や機関の介入を許さず、物を運ぶ事を生業に、財力、勢力をも上げ世界トップの企業ととなったレニー・ライン・カンパニー。その大陸支部統括本部ともなれば、セキュリテイは強固だろうと思っていたが、拍子抜けだ。警備員と裏廊下を歩み、荷物用の大きなエレベーターを使って、最上階へと向かった。

 最上階で止まったエレベーターから降りると、鉄製の扉があるだけのフロアがあり、ドアノブに手をかけてもやっぱり開かない。警備員に開けろと命じる。

 カードキーと錠を使って開けて中へ入ると、絨毯敷きの廊下に繋がっていた。フロアの形状と廊下の窓の位置から、北側の奥まった位置だと把握する。

 警備員に命じて、副社長の部屋へ案内させる。

 レニー・グランド・佐竹副社長が、社内にいるのか、部屋にいるのかどうかは知らない。世界規模でビジネスをしている副社長が社内に、いや、国内にいる事の方が少ないだろうと推測するが、我は間違いなく出会えると確信していた。

 警備員が廊下中央の木製のドアの前で立ち止まる。警備員に扉を開けさせ、我は堂々と中へ足を踏み入れた。

 中に人が居る気配を瞬時に悟る。

 神意は我の意思を導く。







 突然、ドアは開かれた。ノックもなければ、受付からの来客の告知もない。

 私とクレメンティは会話を止め、手にしていた書類から顔をあげて開かれたドアへと向ける。

 制服姿の警備員が不躾な態度でドアを開け、立っていた。

 クレメンティと顔を見合わせ、驚きの不審を確認し合う。

 レニー・ライン・カンパニーのビルの警備員は、全フロアを周回して警備にあたっているが、役職個室までは立ち入る事は禁じられている。それをすれば即刻首である、が、まだ就業時間である今は、前室にいる秘書の者が、まずもって入ろうとした警備員を咎めるはずだ。それがない異常事態に、クレメンティと私は同時にデスクの椅子から立ち上がった。警備員の背後から黒づくめの男が一人、入れ替わるように姿を現す。

英「ヒノモト ショウタ!」

 クレメンティが驚きの声を上げたが、私はその名に覚えがなかった。

英「誰だ?」

英「カイトシバサキが連れてきた青年ですよ。5年前に。」 

 そう言われてすぐに思い出した。約5年前、柴崎凱斗が私の側に置いてほしいと頼んできた青年は、日本語しかできないまだ子供の様相をしていた。私は子供の面倒など、冗談にもほどがあると突っぱね、運を試す為に、本気で銃で狙い撃ちした。

 運よく命拾いしたその青年が、今、私のビジネスルームに立つ。

 随分と印象が変わった。真っ直ぐ私を見据える片目には、精悍さが宿っている。

「なんだ、5年前の仕返しでもしに来たのか?」ジョークを交えた私の問いに、

「・・・。」答えない青年の表情は変わらず、まっすぐ私を見つめてくる。

 その異様な間に耐え切れなくなったクレメンティが動いた。それに反応するように、青年は跳ねるように床を蹴った。

 一瞬の出来事だった。私もクレメンティも、青年がどう立ちまわってそうなったのかわからない。瞬き後の景色は、クレメンティは床に仰向けに倒れ、青年はクレメンティの首を腕で押さえ、拳銃を額に突き付けていた。

 その拳銃は、私が護身用としてクレメンティに預けていたもので、クレメンティは懐に入れていたはずだった。

「クレメンティ!」

 私の叫びに青年は、クレメンティから離れ立ち上がる。

 そして私にまっすぐ拳銃を向けた。内ポケットから自身の拳銃を取り出すタイミングを逃した。

(まさか、この場で死ぬ運命となるか?)

 そう思った時、青年ヒノモトショウタは、:拳銃から弾倉を抜いて床に落とした。

中「死ななかったこの運。そして話せる言語と、それを超える武術。」

 とても流暢な中国語だった。世界で一番難しいと言われる中国語を、約5年で仕上げた成果は優秀だ。

中「これでもまだ、レベルの低い冗談だと認めないか?」

(私に死の覚悟をさせて、認めろとは見事だ。)

中「認めよう、その野心。」

 これよりこの青年の世界が変わる。

 30年前の私が、父と母と姉様を殺して世界を変えたように、

 青年は私を殺して、世界を変える。

中「日野本翔太、私の側で一流の世界を見よ。」

中「その名は棄てた。」

 青年は私の前まで歩み寄り、デスクに拳銃を置いた。

中「我が名は、棄皇。」



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