第23話 選ぶ想いは紺碧の海を渡り 後編

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 一夜かけて船をくまなく歩き、警備を兼ねて、船内の配置図や様相を体感に取り入れた。不審な物や人物は見当たらなかった。その報告を頭目にすると、我が乗船してきた事に安心したのか、昼の乗船歓迎パーティの場で食事を取ると言いだした。その昼のパーティは、3等船室客層の乗船を歓迎してサービスされているもので、オーナーが立ち会う事は設定されていない。まして共に食事する必要もない。それを必要とするのは、今宵開催されるプレミアム階層の客を歓迎する本パーティの方だ。

 命を狙われている可能性があると言うのに、わざわざ下級階層の人ごみに行くなど無謀な事だと反対したが、聞き入られなかった。逆にあぶりだせるのではないかと言う。「お前を含めて。」とまた意地悪く言われる。

(信頼を、改めて試されているのだ。)

 りのとの関係性と我の素性を、黙っているのも限界だ。李剥のこともある。日本からの捜査も間近だと柴崎凱斗から報告を受けていた。捜査に来た人間が、テロの真相を頭目にどこまで話すかわからない。すべてを語れば、我の素性は明白になる。捜査の人間から知られるよりは、自分から言う方が良いだろう。頭目が我の存在を信じられるかどうかは別として。

 フロアは、中央の長いテーブルに大皿に乗せた食べ物が並び、人が家畜動物のように群がっていた。パーティと言っても、下階層にあるレストランフロアにて、ビュッフェスタイルに自由に飲み食いしてくださいと言う程度のもの。これまで頭目が出席してきた数々のパーティの趣とは程遠く、参加者の服装もカジュアルだった。

 頭目がワイングラスを手に、我の前を横切る。

「なかなかの賑わいではないか。」

並ぶ飲食は無料とあって、客は増える一方だ。

「今からでも遅くありません。食事は部屋でなさってください。」

「珍しく弱気だな棄皇、それもミスりのと奇遇の影響か?」

 意地悪い笑みを向けてくる頭目は、時としてこのように、子供のような表情を見せる。

「この人混みでは、守りきれません。」

 こうも人が多ければ、左眼の力が追いつかない。中国語圏の人間ばかりではないのだ。

 左目に覆いかぶさっている髪を左手でかき上げ、周囲を見渡す。何度かき上げてもさらりと流れ落ちて来る直毛の髪が、この時ばかりは鬱陶しい。こんな事で意識も手も取られてしまっていては、万が一の危険に即時対応ができない。ただでさえ右手は、昨日の火傷で包帯をしているために、感覚鈍く不愉快だった

(無様だが、髪を括るか・・・)

麺を食する時に使うヘアゴムを袖から取り出しかけた時、クレメンティを伴ってフロアに表れたりのの姿をみつける。

「ちっ」思わず出た舌打ちに、頭目が興味津々な顔を向けてくる。「失礼しました。」一礼をして頭目より離れた。

 まだ暴走の危惧がある。りのの前で左目を全開にしておくのはやめておく方が無難だろう。髪をかき上げていた手を下ろした。

 左目が全開で使えないとなると、逆に頭目より離れて全体を見渡した方がいい。ボディガードの役目はできないが、頭目も護身術を会得しているし警戒もしているだろう。こういう場で一番怖いのは、毒を盛られる事だ。毒を盛った暗殺者は、必ず遠くからそのターゲットを観察している。その殺意ある様子は独特だ。左目が使えなくても、その異様な様子はわかるという物。

我は、居るか居ないか定かでない暗殺者の警戒に、神経を注ぐ。











 ビュッフェスタイルのレストランのパーティ。ジャカルタから乗船して来た3等客室の客を歓迎する物で、レストランフロアの椅子は片付けられて、テーブルを中央に長く並べている為、普段より広く見えた。インドネシア、マレーシアの料理がメインで並べられ、タイやインド、ベトナムの料理も少し含まれていた。

 客の人種も、料理の種類と同比率で居て、飛び交う言語も様々だったが、発声の性質上、中国語が際立って良く聞こえてきて騒がしい。

英「あぁ、言葉がわからないわ。異国に来たよう。」

英「私もです。」クレメンティと顔を見合わせ、肩を竦めて笑った。

 私達より先に部屋を出たミスターグランドの姿を見つけて寄る。そばにいた棄皇が、磁石の反発のように離れて行った。中国の民族衣装のような黒い服に、手の包帯が白く目立っていた。

(私のせい?)

 私が落としたトレイに手を出したから、ポットの熱湯がかかり手の甲を火傷した。

(知らないわ。そんなの。勝手な事をするから悪いのよ。)

 棄皇はレストランの入り口付近で立ち止ると、踵を返してあたりを見渡し始める。

 共鳴し流れてきた記憶で、ミスターグランドのボディーガードのような事をしていると知った。もう、4年もミスターグランドのそばにいる棄皇が羨ましくて憎い。

私と棄皇との関係を、ミスターグランドは何も聞いてはこない。棄皇から聞いて知っているのだろうか?その話題をこちらからする事など出来なかった。話せない、思い出したくない、話しても誰も理解できない私達の過去。

英「やっとご到着のお姫様。ご機嫌よう。」と私の手を取り甲にキスをするミスターグランド。

英「もう!茶化さないで、お姫様の洋装は脱いで来たわ。」

 くすくすと笑うミスターグランド、何時になく陽気だ。手にはもうあと一口で空くワイングランを持っていた。既にほろ酔い加減だ。

パーティと聞いて、私は気負ってわざわざドレスに着替えた。それを見たミスターグランドは笑い、下層階級の歓迎パーティは誰もドレスアップしていない、普段着でよいと言われた。慌てて着替え直している間にミスターグランドは部屋を出てしまい、待ってくれていたクレメンティと共に遅れて来たのだった。

露「重要客人はここには居ない、気楽に楽しむといい、クレメンティも。」

露「ええ、そうするわ。」

 あまり食欲は無かったけれど、ここに来て何も口にしない訳にはいかない。ミスターのように昼間からワインなんてもってのほか、

クレメンティが飲み物を聞いてくるので、オレンジジュースを頼んだ。

 アジアンテイストの食べ物を物色していると、船長がミスターの側に来て頭を下げる。

英「グランド様、ご挨拶されますか?」

英「そうだな、ここに来て、一言もなしで立ち去るわけにもいかない。」

英「ええ、あちらにマイクをご用意しております。時間的にも良いころ合いかと。」

英「わかった。では済まそうか。」

 船長に促されて、ミスターグランドは手にしていたワイングラスを、手近に居たウェイターに渡し、船首方向へと歩む。入り口付近で、ただ突っ立っていただけの棄皇が、追うようにミスターグランドのそばへと移動した。

 レプリカのヴィーナス誕生の大きな絵画のかけられた壁の前に、スタンドマイクが設けられている。その前に立ったミスターグランドは、レストランフロアをゆっくりと微笑み見わたす。決して急がず時と場を掴む。この間の取り方が、ミスターグランドの独特の優雅さ。そして邪魔しない美声で会場にいる人間を引き付ける。何度見ても、この瞬間を見惚れる。

そして、世界公用語の英語に続いて航路上の国に属する言語の、今はインドネシア国水域なのでインドネシア語をすかさず話すという、2カ国語同時スピーチは、ミスターグランド独自の成せる技は、震えるほど心ときめく瞬間だ。もう、ミスターグランドが話せる言語が何ヵ国なのか?など数えるのも馬鹿馬鹿しい。

英「皆さま、お食事中の所、失礼致します。私はこの客船のオーナー、レニー・コート・グランド佐竹と申します。

この度は、ご乗船くださいまして誠にありがとうございます。世界中の、海を航行する数ある客船の中から、このアジアを周航するパール号を選び頂いたことに、僭越ながら皆様にお礼申し上げたく、時間を頂きます事、お許しください。

この船は、世界の流通企業であるレニー・ライン・カンパニーが所有するエメラルド号、ダイヤモンド号に次いで3番目に作られました。名前の通りパールのように白い色が上品な船体が特徴の船であります。アジアを約1か月かけて周航致します。皆様と時を同じく過ごせる船旅になります事に感謝と航海の安全を祈り、祝杯を挙げたく存じます。お手元にグラスをお持ち下さい。」

フロアの隅々に配置されたウェイトレスが、ミスターの掛け声と共に、一斉に動く。あふれんばかりのグラスを載せたトレイを持ちキビキビと客にシャンパンを配っていく。

これは一種の演出だった。ミスターグランドの言葉で、従業員が動く。その支配力をさりげなく見せ、そして施されるシャンパンは惜しみなく一流品。客は、その施しを受けられる特権に満足する。

フロア内のすべての客が、食べかけの皿やグラスを近くのテーブルに置いて、シャンパングラスを手にする。

私とクレメンティの所にも、もう顔なじみとなったウエイトレスが、ニッコリと笑ってシャンパングラスを持ってくる。

露「ミスターグランドの手腕が見られるこの瞬間が、私、好きなの。」

露「私もです。それに勉強にもなります。」

露「そうね、クレメンティもあのように人を引き付けて、ミスターグランドの後を引き継いでアジア代表の座に就けるように鍛錬しないとね。」

露「私は代表の座なんて無理ですよ。グランド様の下で仕える今の身で、もう十分です。」

露「欲が無いのね、クレメンティは。」

 そんな風に言ったものの、正直、クレメンティが代表の座に就く姿がまるっきり想像できない。それは仕事が出来ないとか実務的なことではなく、その人が持つオーラのようもの。ミスターグランドには、人々を憧憬し視線を向けさせる力がある。そして、制覇する皇気のようなものも。こうして沢山の人の中を見渡すとよくわかる。どうしても、ミスターグランドに目がいくのは、恋心で惑っているわけではない。

輝くミスターグランドと対のような、漆黒際立つ棄皇にも目が行く。

冷たく刺すような雰囲気を身に纏う存在。人々は畏怖し視線を外し、萎縮し頭を下げる。そして、支配する皇気。

流れてきた棄皇の記憶の中にも、その情景はあった。怒りに人の頭を踏みつけた棄皇、歩む足元には、ひれ伏せる人々が列を成す。

私の視線に気づいた棄皇が、こちらに顔をむけてくるのを慌てて逸らし、逃げるようにクレメンティの後ろへと立ち位置を変えた。

英「どうしました?」首を傾げるクレメンティ。

英「・・ライトの光が、まぶしいの。」

 適当に嘘つき、船尾方向へと体向けると、上層階に興味を示して探索しに来ていた可愛いお婆さんが、すぐ近くにいるのを見つける。私はそのお婆さんに歩み寄った。ここでの私はオーナー側の人間、お客に気を掛けて声をかけるのは、当たり前のビジネス。

英「昨日は失礼しました。」

おばさんは、私の声かけに聞こえなかったのか、ずっとミスターグランドの方を見ている。よっぽど、オーナーに興味があるのか、ずっとミスターグランドを見続けているお婆さん。

 昨日、追い返したような感じになったけれど、中にお通しして、部屋を見せてあげればよかったのかもしれないと反省した。少しの見学なら、ミスターグランドも許可してくれたのではないか?お婆さんもいい旅の思い出になったはずだ。

英「お婆様、今日は。」今度は、お婆さんの腕を触れて声をかけた。

お婆さんは驚き、こちらを一瞬睨むように見上げた。だけどすぐに私だとわかったみたいで、顔の皺を濃くして笑う。

英「あぁ、昨日の・・・オーナーのお嬢ちゃん。」

 昨日より年齢が低く見積もられているようだ。訂正するのも、この流れではもう無理。

英「ぇぇ・・・どうですか、船の旅は?」

 私の質問は、ミスターグランドの声にかき消される。

英「皆々様に、グラスがいきわたりましたでしょうか。」

 ミスターグランドは、また素敵な微笑みでフロア全体を見渡す。

英「お嬢ちゃんは幸運だねぇ。」

英「幸運ですか?」

英「ぁぁ、あんな立派な親の元に生まれて・・・何不自由ない暮らしだろう。」

 ミスターグランドの娘だとしたら、なんて誇らしい父親だろうか、想像するに幸せ過ぎる。

中「飢えも知らず・・・寒さの震えも知らす・・・」

 お婆さんは急に中国語で呟き始めた。

中「そして最大の幸運は、親の死に様に出会えること。」

 何を言っているかは全くわからない。中国語を取得しないといけないな、と自分に課題を突き付ける。

英「では祝杯を、」と、ミスターグランドは、そばで待っていたウェイトレスから、自分もシャンパンのグラスを取り、目線の位置に掲げる。

英「おば様、一緒に乾杯しましょう。」

英「この優美なパール号で過ごす、良き旅の、時と出合いに、乾杯!」

 高らかなミスターグランドの掛け声が響き、満場一致した乾杯の掛け声に続いて、カチンとグラスの鳴る音がフロアに響く。一様に口をグラスにつける静寂を、叫びが切り裂いた。

中「頭目!それは駄目だ!」

 何かを叫び、険しい顔をこちらに向けると同時に、駆けて出した棄皇。

 フロアの人々を押し分け、こちらに向かってくる。黒い衣装を身に纏った棄皇が、昔、隣のお爺さんに読んでもらったロシア神話の本に出てくるチェルノボーグを思い出して、その鬼気迫る様子に私は慄いた。

「何なの?」そう呟いた瞬間、後ろに強く引き寄せられて、よろめく。その不安定の私の身体を、誰かががっしりと拘束する。

中「来るな!止まれ。」

 フロアの人々が悲鳴を上げて、私を残して円状に下がっていく。

英「わかっているな。動くなよ。」

 言われなくても、動くのは無理な状態だ。左腕は背中にねじりあげられるように押し付けられ、首にはナイフ。

 私は完全に人質だ。そして私を捕える犯人は・・・

英「お、婆さん・・・」

 お婆さんは、お婆さんの姿ではなかった。曲がった腰は伸びて頭上から声を発する。しわがれていた声は、男性の声に変わっていた。

英「バレたら仕方ない。娘を人質に、この船から降ろさせてもらう。」

 棄皇が再び動こうとした気配に、私を拘束している男は、ぐっと首に当てたナイフを押し引いた。首に熱い痛みが走り、首筋から胸元に血が流れていくのを感じる。

英「動くなよ!今すぐ救命ボートを出せ。」

 棄皇の怒りがみるみる上がっていく。唇をかみしめ、握った拳は震えて節白い。

英「早くしろ!娘の命が惜しくないのか!」と男は私ごと出口方向へと引き連れて行く。

 棄皇の左手がゆっくり顔の位置まで上がる。

英「駄目・・・あの人を怒らせては。駄目よ・・・。」

英「あぁ?」

 覆いかぶさる髪を、かき分けて左目を露わにする。

「やめて、棄皇・・・」

開いた左目が赤く染まる。

 引っ張られて、引き寄せられる。

 合わさる鼓動、

 同じ律動

 苦しく、心地いい。

 抗いたくて、浸りたい。

 しびれるように

 頭に入り込む棄皇の意識。

「いや・・・。」

 赤く染まった眼の残像を脳に残し、私の意識は沈んだ。










 意識が遠のいたりのは、男の腕からすり落ちるようにバランスを崩した。男がこちらへの警戒を緩めた一瞬のスキをついて、我は距離を縮め、りのの首に当てられたナイフを持つ男の手を掴み、親指の付け根を力の限り握る。男は呻き、手からナイフを落とす。我は床を蹴って飛びながら、りのの体を伏せさせ、男の腹に頭から体当たりをする。感触から、男は鍛えられた腹筋を持ち、ただの毒盛りじゃないのを知る。男は、仰向けには転がらずに、床に手を付けて踏みとどまった。我も床に手を付けてバランスをとり、男のこめかみへと蹴り入れた。男は、腕でガードをする。体をひねり、もう一本の足を上から後頭部に叩き込んだ。男は呻き床にうつ伏さる。直ぐに起き上がろうとした男の顎を蹴り上げると、仰向けに吹っ飛び床に尻をつけた。その腹に膝を落とし込んで、左腕で肩を押さえながら、腰から出したナイフを男の首へと差し向ける。

英「ストップ!そこまで。」

頭目が叫ぶ。

英「皆様、驚かせて申し訳ございません。これはショーでごさいます。この船内で、このような凶悪事件が起こりましても、船内には彼の様な屈強の私服警備員が24時間体制で巡回して警備しております。」

 安堵と驚愕の混じったざわめきが、フロア内に充満する。

英「どうぞ、皆様、安心して船の旅をお楽しみください。我々パール号の従業員一同は、皆様の貴重な時間を十二分に楽しんで頂けるように、身心を注ぎます。」

 頭目のスピーチの合間に、中国語での左目の力を男に注ぎ淹れた。しかし、東南アジア地域は、中国語を言語にしている者でも多様な言語が入る為に、真髄に力がかかりにくい。この男も我の力に全意識を屈することはないながらも、辛うじて暴れはできない程度には抑え込む事ができた。

英「どうぞ、このパフォーマンスを演じてくれた彼らに大きな拍手を。」

 頭目も人が悪い。

 我は男に立てと命じて頭を下げさせ、我も下げる。りのも、クレメンティに支えられて、よろめきながら立ち上がり。同じく演じて頭を下げる。

 拍手喝采の中、我らは、レストランフロアから出ていく事になる。










 いつ、どうやって入れられたかわからないが、棄皇が止めた私のグラスには、無色無臭の化学系毒が入れられていた。私の為に用意されていたトレイのグラスのシャンパンにだけ毒が入っていて、幸いに、客に行き渡らなかった。

 棄皇は、その冷たい表情をまっすぐ私に向けて、不満の意見を無言で伝えてくる。だから反対したのだと。

「で、あの男は?」

「船底の貨物室、動物用檻に入れました。」

「生きているのか?」

「はい、今の所は。ご要望であればすぐに殺りますが。男の背景と、仲間の存在を吐かせてからの方がよろしいかと。」

「男の事はお前に任せる。好きにしろ。」

「はい。」

 軽く一礼した棄皇の姿を、私は奇妙な想いで眺める。

今回もまた命を救われた。そして汚れ仕事を嫌がらず受けこなすこの冷淡さ、隠された素性と予知力に近い力を持つ青年。警戒しなくてはいけないのは、暗殺者ではなく目の前にいるこの者であるはずだが、しかし、不思議とこの青年を手放す事が出来なくなっている。これまで築いてきた実績が、この青年の長きに渡る戦略だったとして、この先、それを覆して私の地位を奪う事になったとしても、それを愉しみにしている自分がいる。

 甘いコーヒーが飲みたくなった。クレメンティはまだ戻らない。

中「その服は今後、目立つぞ。パフォーマーとして注目を浴びた英雄だ。」

中「人が悪いです。頭目。」

中「ああでもしないと、お前は集客の中で殺っていただろう。」

中「・・・。」 

 怒りに任せて、後の取り繕いが構築できない所が、まだ若い。

中「久々だな。お前の最高潮の怒り。それもミスりのの影響か?」

 棄皇は、私の視線を避けるよう顔を窓の方へ背けた。

 クレメンティのID番号のコールがして扉が開く。二人が医務室から戻って来たようだ。

 出迎える為に私はデスクの肘掛け椅子から立ち上がると、棄皇も後からついてくる。

 あてがえた自身の部屋に入っていくミスりの、疲れた様子で彼女はベッドに腰掛け、クレメンティが隣に座り寄り添う。

英「傷の具合は?」

英「結構、大きく・・・縫えば止血も治りも早いですが、傷跡が残るだろうと・・・見える所ですし、止血だけにして、しばらくはあまり動かさないようにと。」

英「そうか。」

 ショックを受けているのか、虚ろに微動しないミスりの。私もベッドに腰かけ、ミスりのの頭を撫でた。

英「ミスりの。済まなかった。危険な目に合わせてしまった。」

英「ミスター・・・」

 ミスりのの首には包帯じゃなく大きな肌色の絆創膏が貼られていた。その中心はもう黒く血が滲み染まっている。

英「包帯は、どうしても嫌だと・・・」

クレメンティが察して答える。

縋るように黒く潤うミスりのの眼が訴える「なぜ?」の疑問に、私は小さな顔 に手を添える事でしか答えられない。

髪をかき分けてそっと頬を触れると、ミスりのは顔を傾けて、私の手に預けてくる。

英「私の責任だ、女性にこんな傷を負わせてしまった。」

 ミスりのは、しっとりと首を振り、答える。

英「私は大丈夫。平気よ。ミスターグランド。」

 それが強がりである事ぐらいわかる。ナイフを首に突き付けられて切られたのだ。恐ろしかっただろう。痛かったはずだ。

英「傷は、子供の頃から沢山作って来たわ。だから慣れているの。」

英「私に気遣う言葉など、探さなくてよい。」

英「本当よ、ミスター。痛みも私は感じにくいの。」

 傷を慣れている。痛みも感じにくいほど平気。まるで子供の強がり自慢のようだ。そんなミスりのを、この上なく愛おしく感じる。これが父性と言うものだろう。私が子供を作っていたら、持ちあわせた愛情。

英「だけど空腹は平気じゃないわ。ショーが長引いて昼食を食べ損ねたわ。」

(流石だ、ミスりの。こんな時でも会話術は冴えている。)

英「わかった。ここに用意させよう。クレメンティ喉をあまり動かさずに食べられる食事を、料理長に言って作らせろ。」

英「はい。」

 私は立ち上がり、ミスりのに、しばらくゆっくりと休むように言い、部屋を出た。

 棄皇は、私についてはせず、ミスりのの部屋からは出てこなかった。









 しばらく休むようにと宣告された。それは失業宣告と同じ。

(私がパーティでお客様の相手をしないで、何をするっていうの?)

 どうして、こんな事になったのか?あのお婆さんは、なぜ突然男に、じゃなくて、あの男は何故お婆さんの姿に化けていたのか?

 そして、何故私は、急に人質になってしまったのか?

 私が何か粗相をしたのだろうか?エレベーター前でぶつかったから怒って?

 オーナー室を見せてあげなかったから?

「りののせいではない。」

突然の応答に、まだ居た棄皇の存在にビクついた。

「守り切れなかった。悪かった。」

 棄皇の口から謝罪の言葉がでるなんて、はじめてだ。

 棄皇は、私と視線を合わさず入り口に隅に横向いて立ったまま、こちらを見ようとしない。

「あなたから謝罪の言葉が出るなんて・・・ミスターグランドの真似?」

 私の皮肉に応じず、しばらくの間をおいて口を開く。

 この間合いの取り方もミスターグランドの真似?

「りの、船を降りろ。」

「船を降りる?どうして?」

「わかっただろう。ミスターグランドのそばが危険である事を。」

「危険?」

「怖くてここには居られないとでも言って、船を降りたいとミスターに懇願しろ。直ぐにヘリを用意してくれる。」

(なぜ私が船を降りなくてはいけないの?)

 おまけに、意地でも私の方を見ようとしないその態度に、イラつく。

「今なら、まだ大丈夫だ。」

「何が?」

「お前の知識欲は危険だ。今ならまだ大丈夫だ。」

「何それ?どうして知識欲が危険なの?」

 答えない棄皇。明確に説明できないのは、ただ私が邪魔なだけ、ミスターグランドを独り占めしたいのだ。

「そうじゃない。りの、我はりのの為を、」

「私の為?嘘でしょう。そんな言葉があなたにあったなんて。」

「りの、ちゃんと聞け!」

「聞いてるわっ。」

「ミスターグランドは、関わってはいけない人間なんだ。」

「そう言うあなたは、どうなの?」

「我の事はいい。」

「そんな勝手が通ると思って?私が駄目であなたは良い?子供の我儘ね。」

「そういう事を議論しているのではない。」

「じゃ、何なのよ?」

「あの人は大義の為なら何でもする。口封じに容赦なく人を消す事などたやすく。」

「それは、あなたでしょう。」

「なに?」

「流れて来た記憶で私は見た。あなたはナタリーを海に突き落とした!」

「・・・.。」

「どうして!何故、ナタリーをっ!」興奮して大声をだしたら、喉の傷に熱く痛みが走った。

「すべて・・・頭目の意志であり、頭目を守る為だ。」

「・・・変わったわね。あなたは誰かの為に動くような人じゃなかった。まして自身の行動に言い訳などしない。常に自身の存在と行動が唯一無二の尊厳に満ちていたものを。」

 互いにそれ以上の言葉なく、ただ、鈍く微かに聞こえてくる波風の音が時の流れを紡ぐ。

 棄皇が口を開く。

「もう一度・・・我にお前を殺させるな。」

「!」

「だから、今すぐ船を降りろ、りの。」

「・・・・出て行って。」

「りの!」

「出て行って!ノックもなしに、心に踏み込むなんて、ミスターグランドはしないわ。」

 棄皇は、険しい表情を一瞬だけこちらに向けて、すぐに顔をそらし、静かに出て行く。

 その姿も、昔には無かった事。

(落胆させないでよ、棄皇。その神威的な存在が、私は、怖くて好きだったのに。)










 老婆に扮装した男は、やはり雇われの暗殺者だった。男を拷問してから左目の力を使い、暗殺の仲介人の名前を吐かせたが、その仲介人の背後の組織までは知らず。その先は、調べても明確な情報に行きつくかは期待できない。依頼相手も経路を辿られるようなヘマなどしていない。しかし、今回、頭目の暗殺を防いだのは、まさしく危機一髪で、肝を冷やした。りのが老婆に話しかけていなければ、我は老婆を見逃していただろう。

 頭目を暗殺しようとした男は、まず老婆の姿で乗船しチェックインを済ませ、「連れはトイレに行っている」とフロントで世間話をし、連れを迎えに行くような演技までしてトイレに行き、次は老人の姿で扮装してチェックインをした。老夫婦のパスポートが身元照会できなかった事も、アジアの中華人管理局のよくある入力手続き遅れであると思い込ませる男の手口であり、中々に心理を突いた策だ。そして暗殺後は、老人、老婆、素の姿の3種の姿で逃げることができ、男の腰を曲げて歩く姿は、誰も変装だと見破ることはできない程、化粧も演技も制度が高く、手の込んだ手口に興味を覚える。が、頭目を殺そうとし、りのを傷つけた罪に容赦はしない。

 捕まえた男を、客船の最下層にある貨物室の動物用の檻に入れた。4月になったとは言え、夜は冷え込む冷たい船底の貨物室の、昼も夜も明かりのない闇の中、飲まず食わずで何日間、精神が持つか、男が絶望の末に神から悪魔に祈り替えする頃、我に慈悲が少しでも残っていれば助けてやってもいい。

 李剥の死が、黒龍会内部の派閥に影響が出てきている。今回の暗殺が、その流れであるならば、警戒はさらに強めなければならず、そうなれば、りのが邪魔だ。今回のように軽傷で済めばいいが、重篤な危機に巻き込まれることもしかり、頭目の成す数々の悪事を、りのが知ってしまい、りのもその行為に手を染める事も危惧する。

(今ならまだ間に合う。)

 時刻は0時を超え、船内の照明は夜間状態に切り替わり、人々の喧騒も落ち着き、船体に当たる波の音が際立ち始める。

 オーナー室に戻ると、レセプションルームにはクレメンティだけが居て、頭目は居なかった。ビジネス上の付き合い以外は部屋飲みを好む頭目だが、レセプションルームルームに居ては、りのが休まらないだろうと気遣い、外へ飲みに出たと、クレメンティから聞く。

 暗殺者以外の身元不明者2人の客も情報部の調べで危険ではないとわかったが、危険人物がすべて身元不明者であるとは限らず、完全に安全とは言い切れないのだが、頭目は自身の運を過信している節がある。確かに、過信できる以上の運を頭目は持っているが、その運を試すような事はやめて欲しい。

 クレメンティに教えられた5階のラウンジへと向かう。上層階にあるラウンジは、さほどの集客はなく閑散としていた。夕刻から同じく上層階層の乗船歓迎パーティが行われ、飲食は十分に振舞われたからだろう。

 頭目は、カウンターの一番奥の席に片肘に頬を支え、ブランデーのグラスを手に揺らしていた。氷がグラスに当たる音に耳を傾けている。

(どんな時も人を魅了する気配を持っている人だ。)

そばに寄った我の存在に気づいた頭目は、片肘を外すとスツールから降り右隣のスツールに移動した。これは同席を許された合図。我は一礼をして、それまで頭目が座っていた壁際のスツールに腰かけた。バーテンダーが、その一連の動作に不思議そうな顔をする。年上の人間が、わざわざ席を立ち、後から来た若輩に奥の座席を譲ることなど普通はない。 これは、覆っている左目の視界の悪さを配慮した頭目と我の間での、暗黙の決まりである。

頭目には、交通事故の顔面の損傷復元整形により、左目は光に弱く弱視でもあるため、髪で覆うことでサングラスの役目を果たしていると言い繕っていた。

「ここに白酒はないみたいだ。」

棚に並べられた酒瓶を眺めてつぶやいた頭目の言葉は、日本語で話しても大丈夫だという合図が含まれている。

カウンター内でグラスを磨いているバーテンダーはアジア人だが、どこの言語圏の者かは判別がつかなかった。英語で「同じものを。」と酒を頼むと、バーテンダーは理解して早速作りはじめる。

他人に聞かれたくない内容は、場所により最小利用言語を使いわける決まりである。

「やはり、本元の雇い主までは知りませんでした。男が吐いた仲介人の洗いざらしを情報部に依頼していますが、うまく黒龍会へと繋がれば、それを急所に一気に畳かけ好機となるのですが・・・。」

「そうそう、うまくはいくまい。腐っても黒龍会だ。」

「李剥の死んだ今こそ。」

頭目は揺らしていたグラスを止めて、我に顔を向けて微笑する。これが、りのも魅了する大人の色気だ。

「若気の逸りは、腐った果実を拾い、手を汚す。」

 意味が解らず、黙っていると頭目はしっかり間を待たせた後、話を続ける

「腐った果実などほおっておけ、それよりも李剥に抑えられていた孫莫の動向を注視しろ。」

「李剥と対等していた朴派の動向ではなく?」

「朴派など注視せずとも情報は入ってくる。腐った果実を拾うは若気の浅はかさが我々にとって不都合になっては面倒だ。」

「わかりました。」

 我の前に頭目と同じブランデーのロック割りが運ばれた。

「頂戴いたします」

 頭目は我と同じにグラスを口にして、テーブルに置いたが、いくらも減ってはいなかった。一気に飲み干して空にした我のグラスを見、苦笑する頭目。

「相変わらずの飲みっぷりだな。」英「マスター、ボトルを置いてやってくれ。」

「いえ、それは遠慮します。」バーテンダーがボトルに手を伸ばしかけたのを断り、座り直し姿勢を正した。「お話があります。」

頭目は珍しいものを見るように、首を傾げ我の顔を覗き込む。

「りのを、船から降ろしてください。」

 我を見つめたまま微笑み微動しない頭目。

「りのを開放してください。」

「ミスりのが、そう望んでいるのか?」

「りのは、ここにいるべき者ではありません。」

「面白い物言いだな。それがお前の愛する形か、あるべき場に女を置く事で束縛する。」

 頭目はマスターにしぐさだけで葉巻を注文した。マスターに火をつけてもらい、吐いた煙に目を細めるその表情に、我は見惚れ、そして不安になってくる。間を操り、相手の心にじわりと焦りをしみこませるその手法をわかっていても、黙っていることが耐えられなくなってくる。

「頭目、りのを・・・。」

「私は女を束縛する趣味はないが、ナタリーを失った今、ミスりのは既に私のビジネスに戦略として重要素となりつつある。お前の私的感情で、手放すには惜しい。」

 こんなに短期間で、りのは頭目に認められた。その功績を無邪気に称賛し、りのを頭目のそばに置けば、確かにその人生は誰もが羨む輝かしいものになるだろう。だが、それは客観的な幸せに過ぎない。りのは真の幸せを得られず、我らはまた魂の無念を繰り返してしまう。

「りのの代わりはいくらでも、エンゲルスから女を呼べばよろしいではありませんか。」

「この先のビジネスは、アジアが中心となってくる。マルコス・エンゲルスの女は、確かに容姿、能力ともに一流であるが、アジアではそれが逆にトゲとなる。アジア人のコンプレックスを刺激してしまう。その上でもミスりののアジア人容姿は貴重だ。」

「無条件には願いません。りのの存在に代わるだけの情報と引き換えに。りのを開放してください。」

手にした葉巻を吸いかけて止めた頭目は、改めて我に向く。取引に応じる合図だと思った我は、その先を進める。

「私の素性と引き換えに。」

「お前の素性?」

「りのを開放してくださるのなら、私の素性をご自由に利用してくださってかまいません。」

頭目は、我の目をじっと見つめたまましばらく何も言わない。力を使えないもどかしさが、我の心に不安を宿す。耐えがたく息を吐いたのを見計らったように、頭目は笑い出した。

「お前に、ビジネスセンスはないようだな。」そういうと、また続いて笑う。

 何がおかしいのか我にはわからない。無益に人をそばに置かない頭目が、我の隠された素性に、先の可能性をかぎ分けたからこそ、この人は我をそばに置いた。素性を気にしなかったはずはない。だが、我の素性は、華族会と柴崎凱斗が徹底的に隠匿し、レニーの情報部ですらも掴めなかったはずだ。

「お前は取引という物がわかっていない。良いだろう、いい機会だ、教えてやろう。」

 手にしていた葉巻を灰皿に押し付けて火を消した頭目。

「交渉、取引というのは、特定の問題に対して話し合い掛け合うことをいう。この場合、ミスりのが私のビジネスパートナーという束縛からの解放をお前は指しているのだろうが、ミスりのに対する認識が、そもそも互いに違えている。私はミスりを拘束した覚えはないし、ミスりのも、その認識はない。ミスりのは、まだレニー・ライン・カンパニーの正規職員ではなく、私の客人扱いだ。私はミスりのに、船に乗れと強要はしていない。船を降りたいと願い出れば、いつでもそれを受け入れる。今でも。」

「頭目は先ほど、りのを手放すには惜しいと。」

「お前の私的感情に合わせて返答したまで、私に取引を持ち出したのはそのあとであろう。」

「・・・・」

「お前は、そもそもの交渉する問題の読み違いをした。問題の定義認識が互いに同じでないと交渉するに値せず、取引など成立しない。そして、その失敗によりお前は、大きな損失を被ることになる。」

「損失?」

「わからないか?お前は交渉において、その取引商品が情報である場合に、やってはいけないことをした。」そこで、わずかな間を取る頭目、「交渉前に、その商品そのものである情報を相手に与えてやるなどという。」

 我はわからない。

「一般的に自身の素性が価値ある人間など、そうそう居ない。それを取引商品にしてしまった時点で、そして取引商品が素性だと言ってしまったことで、お前は【私はただの人ではありません。私の一存は大きな物を動かすことのできる存在である】ことを私に明かしたも同然だ。」

 指摘され、恥る。頭目の言う通り、我にはビジネスセンスがない。

「私は、お前の失敗によって、ミスりのという優秀な人材を失わずに、棄皇という者が、価値ある人物という情報を手に入れた。」

まだ足掻いてみる。

「価値ある物との定義がついたまで、真の素性を頭目は知ってはいません。」

頭目は、ゆっくりとグラスを持ち上げると揺らして、二層になったブランデーと水を混ぜる。

氷が奏でる間を、頭目は優雅に操る。その反面、手の打ちようのなくなった我は、時の間を耐える。

「棄皇、お前は神皇家の者だな。」

「・・・・。」

「日本で価値ある人間と格付けするならば、華族階級以上の者が妥当。だが私は既に、華選である柴崎凱斗を通じて、華族の権威をこの手中に入れている。ミスりのもしかり、既に持っている価値は取引材料になりはしない。ならば、華族よりも上の存在でしか、取引材料になりえない。あの国で華族のその上となれば神皇家しかない。」

「くっ・・・」

「何故に国を捨て、私の元へ来たのかは、聞かないでおこう。また私と交渉したくなった時の手札として残しておくといい。」

 頭目は、混ぜていたブランデーのグラスを飲みはせず、静かにテーブルに置くと、スツールから立ち上がる。

英「今日はよく眠れそうだ。」

 頭目はそう言い残して店を後にする。

 完全に敗北。頭目と取引できると思った我が愚かだった。

 神力を持たずに、世界を手に入れようとする頭目には感服しかない。






 フー・ジンタオは、ずんぐりした体を重そうに立ち上がり、むくんだ手で握手を求めてきた。

英「あなたとこうして話ができて、とても有意義な時間でした。意見の相違はあれど、それがこの先のシンガポールの発展につながりましょう。」

英「こちらこそ、レニー・ライン・カンパニーは、これからアジアの発展なしには世界を羽ばたけません。その為には氏の尽力が必要不可欠であります。御多忙な時期に乗船していただき、かつ話ができたことは、私にとっても大きな成長となりました。ありがとうございます。」

英「次は、私がご招待しましょう。シンガポールへ是非お越しください。」

英「ええ、是非に。」

 握った手はじっとりして、私は不快感を顔に出さないよう装わなければならなかった。

 フー・ジンタオは、不細工な笑顔を作り、6階レストラン街にある喫茶店から出て行く。

 彼にはロイヤルスウィートを用意して招待していた。飲食はどこの店でもタダで利用できるように設定してあったのに、チェックイン時に自身から一般客室への変更を求めてきた。それは困ると、どうにか説得して、やっとグレードを落とした一等客室を利用してもらうことに落ち着いたのだが、私とのビジネス会食以外は、一般客室の安物で済ませ、頑なに我々の奢りを受けない。

露「食えない奴め・・・。」

 口をつけていなかった水の入ったコップを掴み、フー・ジンタオと握った手にかけた。テーブルクロスが水浸しになって床にも滴る。

 クレメンティが悲鳴に近い声を上げ、その声で周りの客から注目を浴びてしまう。

露「何をなさるんです!」

露「アルコール消毒をしたいぐらいだ。」

 ハンカチーフでこすり落とすように手を拭き、テーブルにたたきつけた。

露「周りの目を気にしてください。」

 ウェイトレスもかけつける。

露「知るか!何が有意義な時間だ!」

 クレメンティは周囲の客とウェイトレスに英語で謝る。

露「謝るな!この船のオーナーは私だ!」

 店にいる客人が注目するなか、私は出口へと歩む。クレメンティは溜息をつきながらつぶやいた。

露「そういう台詞は、周囲にわかるように英語で言ってくださいよ。」

 八つ当たりをしているのはわかっている。大人げなく感情をコントロールできないのは、握手した手が気持ち悪いからだけじゃない。フー・ジンタオをこちらに側に取り込める事が出来なかった。思い通りに事進まなく失敗するのは、もう何年振りか。

 オーナー室に戻り、デスクの椅子に座った。スクリーンセーバーの画面になっているパソコンがメールの着信を知らせていたが、開く気になれずに、ただその知らせの点滅を無意味に眺めた。そんな私をクレメンティが呆れ気味に、お口直しの紅茶でも淹れましょうかと気遣ってくる。

露「いや、いい。すまない。八つ当たりをして。」

露「かまいませんよ。それをされるのも私の仕事の一部ですから。」

(言うようになったな、クレメンティも。)

来たばかり頃は、若すぎる上に、なれない言葉使いに戸惑いを隠せなかった。今では私の苛立ち交じりのつぶやきを、適度にあしらうほどになった。

露「しかしフー・ジンタオもわからぬ男だ。大麻容認派のくせに、自身は一切その檻には踏み入れず。タバコすら吸わない。一体どういうことだ?」

露「まぁ、対外向けの思想でありましょうから、フー・ジンタオ氏の立場を考えれば、それは致し方ありませんよ。」

露「女もギャンブルもしない。酒も付き合い程度に嗜むだけ。酔うこともない。」

 船内にあるカジノのディーラーにはフー・ジンタオの顔写真を見せ覚えさせ、大負けさせるように仕組んでもいた。とても払えない借金を負わせて、我々に貸しを作る算段も。しかし、奴はカジノに足を踏み入れもしない。

露「奴は一体何が楽しみで生きているんだ。」

露「ゆくは、大統領を目指しているでしょうね。それが氏の人生の楽しみ、といったところでしょうか。」

露「つまらない人生だな。」

露「国のトップを目指すことがつまらない人生とは・・・。」首をすくめるクレメンティ。

露「乗船の招待を受け取った時点で、半ばこのビジネスは成功と踏んだ、甘かったか・・・チッ、せめてナタリーが居れば、色仕掛けのトラップでも仕掛け、脅すネタを得・・・」気配に振り返った。クレメンティも私の視線を追って振り向く。

いつからそこにいたのか、ミスりのはバルコニー前に設置された本棚と観葉植物の隙間に立っていた。

フー・ジンタオと昼食を兼ねての会談には、ミスりのをつれて行かなかった。パーティでの出来事がフー・ジンタオの耳に入ったかどうかわからないが、その被害者がミスりのであることと知られ、要らぬ嫌疑を与えしまいかねないと判断したからだ。ミスりのは、フー・ジンタオとの最後の会談であるから、ぜひとも同席させてほしいと懇願してきたが、傷の消毒をしてもらえと半ば強引に話を遮断し同席を許しはしなかった。フー・ジンタオは、ミスりのと会えないことを残念がった。その名残惜しさが、次の交渉材料になれば良いとも思考したのだが。

「ミスりの、傷の具合はどうだ?」

「・・・・大丈夫。」

「そうか、だが無理はするな。」

不服そうなミスりのは、その感情を無表情でぶつけてくる。気まずい時が刻んだ。

「ミスりの・・・紅茶を淹れてくれるかな。」

 ミスりのは黙ってうなづき、持っていた本を棚に戻してからキッチンに向かった。

ポ「聞かれたかな。」

ポ「おそらく・・・」

ポ「はぁ~。」

私は息を大きく吐いた。クレメンティが苦笑する。

ポ「だから忠告したじゃありませんか。板挟みに困ると。」

ポ「おかしい。なぜ、この私が女の扱いに困らなくてはいけない。」

ポ「間違ったんじゃないですか?ミスりのの扱いに。」

 睨み窘めると、クレメンティは逃げるように真辺りのの後を追って、キッチンに姿を隠した。

(おかしい、最近クレメンティに言われっぱなしだ。クレメンティの扱いも間違ってきているのか?)

 革張りの椅子に深く背中を預けた。そして、真辺りのが淹れる紅茶が不味いのを思い出し、自分の浅はかさを呪った。

「おかしい・・・私自身の扱いも間違ってきているのか?」










 首の傷を負ってから、ミスターグランドは私にゆっくり休めと言いながら、遠ざけようとしているような気がする。

 明日の朝、船はフィリピンのマカオに到着し、下船してしまうフー・ジンタオとの最後の昼食会も、医務室に予約を取ってあるからそちらに行くようにと言われ、船医に聞けば予約などのシステムはない。

 ディナーもジャカルタから乗船してきたVIP客との会席の場に、私は呼ばれなかった。一人のディナーは流石に寂しかろうと、クレメンティを付き添いにしてくれたが、ミスターグランドは棄皇を連れて会席に行ってしまう。

 棄皇が乗船して来てから、思うように事が運ばない。

何故あの人は、私の嫌がらせばかりするのか?

あなたは、私、私はあなた。魂を分けた一つの人格。

だったら、

私の想いを誰よりもわかってくれているはずなのに・・・

潮風の合間に波音を探す。遠くに霞んだ光の残光が、見えそうで見えない景色にもどかしさが募る。方角からしてフィリピンのダバオの街の光だ。今日は湿度が高い。はっきりしない視界に加えて、伸びた髪が頬にまとわりつき、不愉快だった。

「何とかしなければ。」

 昼からずっとそれを考えていた。

立ち聞いてしまったミスターグランドの言葉、

『せめてナタリーが居れば・・・』

その言葉で、フー・ジンタオとの交渉は上手く事運ばなかったのだと理解する。

『せめてナタリーが居れば・・・』

私が追い出してしまったナタリーを、棄皇が殺した。

一つの魂を分けた私たち。

ナタリーの事を邪険にした私の感情を、あの人が受けて殺してしまった。その重罪に心痛めなければならないのに、私はどうしたらナタリーを超えられるかと、亡き人に嫉妬している。

不快感しか得られないデッキを散歩するのを止めて、船内に入った。E-8娯楽層エリアの最下層、左へFまで行けばカジノがある。その階層付近は、日本でいうパブやキャバクラのような店もあり。流石に呼び込みはないけれど、派手でピンク色強い看板が並ぶ。豪華客船といっても、客室はリーズナブル層が大半を占めているし、富裕層の客は普段、陸地では世間の目を気にして、なかなかそういったピンク店には入れないから、船内のそれらの店は大盛況と聞いた。わざわざこれ目的で来るという話も。海の上は、航海地域の法が適用されるが、捕まらなければ、どこの地域の法にも適用されない無法地帯でもある。

部屋に戻る気になれなかった。ミスターに傷の具合を日本語で聞かれたのがまだよかった。英語だったら、きっと私は感情任せに責めていた。ナタリーのように、なぜ私をビジネスの場に連れて行ってくれないのかと。

 ふと、直線の廊下の先に見覚えのある背中を見つけた。

どんぐりのような体型をしたフー・ジンタオ氏は、大衆酒場へと入っていた。私は駆け出し追いかけた。

(そうだ、私は私でフー・ジンタオ氏を接待すればいいのだ。)

『せめてナタリーが居れば、色仕掛けのトラップでも仕掛けられたら、脅すネタを得・・・』

 ナタリーをしていた事を私がすれば、ナタリーを超える存在に私はなれる。そうなれば、私はミスターグランドの重要パートナーとして認められるはず。私にナタリーのような色気がなくても、知識の話術がある。話術をうまく使えば、いくらでもそのシチュエーションは作れる。その後は、やることは同じだわ。私も、同じ女なのだから。

英「フー様、よかった、最後の夜にお会いできて。」

英「ミスりの!体調を崩されたと聞きました。大丈夫ですか。」

英「ええ、少し船酔いしただけですわ。それよりも昼の会食をご一緒できなくて、とても残念に思っておりましたの。ここに入られる姿を見つけて、私、ぜひ、この間の続きのお話をしたくて、追いかけてしまいましたわ。あっ、ごめんなさい。ご迷惑だったかしら。」

英「いえ、とんでもない。私もお会いできてうれしいです。」

英「お隣、座ってもよろしくて?」

英「どうぞ、どうぞ、お座りください。」

英「お飲み物は頼まれました?」

英「いや、まだです。」

英「フー様は、ワインは赤がお好きだったかしら。」

英「ええ。」

英「ワインの赤を好む方は、その心、火のように情熱的で温かい。白を好む人はその心、水のように秩序的で冷静。」

英「ほう、それは誰の格言ですかな。」

英「私の、ですわ。」

英「はははは、それは、それは、数多くの男性とお付き合いしてきた実体験に基づくということですかな。」

英「お話のお付きあいは、数多い経験はあれど、私を満足させてくれる知識者は、少ないですわね。たけど、フー様はこうして追いかけてしまうほどに、私をきっと満足させてくれます。」

英「それは、かなりのプレッシャーですな。」

英「ええ、今夜で最後ですもの。私を満足させてくれるまで、お付き合いしてくださいますわよね。」

英「これは困りましたな。骨の髄まで知識を吸い取られそうです。」

英「まずはワインで乾杯しましょうか。」

 私は通りかかったウェイトレスに赤のワインを頼んだ。










 大型の動物用の檻に入れられている男は、我を見上げて無言で睨む。上部の格子に両手を結束バントで縛っているので、尻と膝は床につかない、かつ、立ちもできないという中途半端な姿勢で、すべての負荷が縛られた手首にかかっている。手は青くうっ血していた。口には手拭いをかまして、叫びもできない。普通の人間なら狂い始める頃、なのにこの男は、飲まず食わず暗闇の空間に丸一日居て狂わず耐えた。そしてまだ逃げるスキを狙っている。 

 どんな理由が男にあろうとも、頭目を毒殺しようとし、りのを傷つけた罪に、死の恐怖を極限に与えてからこの手で殺し、海に捨てようと思っていたが、算段が変わった。今しがた頭目より、フー・ジンタオ氏が下船した後、事故、または事件の加害者になるように仕掛けろと指示された。単純に当たり屋を使い交通事故の加害者に仕立てるのは簡単だが、フー・ジンタオ氏は身辺の警戒を重々していて、自身では絶対に車を運転しない周到ぶり、下手な仕立ては出来ない。いくら裏から手を回せる世界のレニーとはいえ、露骨な手は無謀すぎる。この男を仕掛け役として使う事に決めた。うまくすれば、こいつを雇った本元が、フー・ジンタオ氏とのいざこざで、しっぽを出してくるかもしれぬ。

しかし、頭目が何故にフー・ジンタオ氏に執心するのか、我は全く理解できない。シンガポールの野党国会議員の中堅どころであるが、政界、裏社会に力を持つわけでもなく、将来的にもその方面へ力をつける見込みがあるとは思えなかった。シンガポール国内では誠実一点張り、周到無欠の男であるがゆえに、出世には程遠い。

頭目も周到無欠の言葉を当てはめられるが、二人はそれが防御か、攻撃か、に主力を置いて対極に位置している。フー・ジンタオ氏は防御において周到無欠な男だ。防御ばかりに身を固めて、なかなか台頭できずにいる。反面、頭目はあらゆる事に関して先手必勝の攻撃に周到無欠の才がある。先の先を見越しての戦略は、時にそれが何故必要であるか、仕える側はわからないほどの遠い未来だ。今回のフー・ジンタオ氏との接触も、その先を見据えての事だろう。長い年月を経てフー・ジンタオ氏を手札に使う時が、今はまだ我には予想できずにいる。

 動物用の檻に繋がれている男は、我を睨みつけたまま、重心を左から右へと変えた。我は格子越しに向き合いしゃがんだ。

中「我が憎いか?」

 男から強い憎しみと怒りが立ち上る。その強い感情が我の左目に秘める血を渦巻き、誘発する。

中「お前は・・・日本人か。」

 我のつぶやきに目を見開いて驚いた男は、増々憎しみの感情をむき出し、それに引きずられるように、我の左目の力は発動する。

中「名は?」

中「謝 飛龍。」

中「年は?」

中「29歳。」

中「どうして日本人でありながら、日本を憎む?」

謝 飛龍は、憎しみを胸に溜めながら、自分の生い立ちを話し始める。時々怒りと憎しみの感情を爆発させたが、感情任せに話の脈絡が乱れる事がなかった。

(頭も悪くはない。老婆に扮装する技能も加えて、なかなかの精神力、こいつは使えるかもしれない。)

 左目の力で従わせるのは一時なら簡単にできるが、そんな使い捨ての駒にするには惜しい。

語り終えた飛龍は、自分が何故に語っているのか戸惑いながらも、新たに悔しさを怒りと憎しみに混ぜ、かみ砕くように、歯ぎしりをして俯いた。

手首を縛っていた結束バンドをナイフで切って解放してやる。飛龍はすぐさま手首を振り、末端まで血をめぐらせ、口に噛ましていた手ぬぐいを掴み払った。

 鍵を開けてやるために檻に近づくと、飛龍は姿勢を低くし構える。

中「ほぉう。武術の心得もあるか。尚更、手抜きは出来ぬな。」

 不審に警戒を強める飛龍。無駄に喚かないのもいい。鍵を開けてやっても、不意に跳びかかって来る事はなく、我の真意を計りかねた様子で凝視している。

中「出ろ。」

 まだ鞘に納めず持っていたナイフを、檻の扉の前に置いてやる。

中「そのナイフはハンデだ。飲まず食わずで鈍っているであろう。」

 落ちたナイフにも視線を動かざす、険しい表情で我を見据える飛龍。

「我は日本人だ。この身は、あの国の神髄。憎いであろう。」

 我の言葉を受け止めた飛龍は、再燃する感情をぶつけるように、唸った。我はそれを受け止めながら、檻から距離をとる。

 憎しみを踏み固めるようにして、檻から這い出て来る飛龍。まっすぐ我を睨みながらナイフを拾った。

 我は上着を脱ぎ棄て、円を描くように右足を後ろへ回して、左側に重心を移しながら上半身の力を抜い、手は重力に任せてだらりと下がる。師匠が編み出した戦う前の究極な構えだ。リラックスしながら、攻めの重心と足の位置を最適な状態で維持できる。闘気がなく、一見、戦いを放棄したのかと見えるこの姿勢からの動きは、普通の構えとは格段に瞬発力が違う。柴崎凱斗は、その構えは捨て身で危険だと言うが、先取必勝と言う言葉があるように、殺し合いの場では作法も型も必要なく、それを排除した究極の姿勢がこの構えだった。師匠は戦場でこのスタイルを確立したと、柴崎凱斗から聞いた。師匠は究極に寡黙な人だった。武術の教えを口から説明を受けたことがない。見て受けて覚えろという教え方だった。

 最初から全力で立ち向かう。それで飛龍が死んでしまったとしたら、それまで。

 飛龍は左手にナイフを持ち換え、叫びを合図に飛ぶように向かってくる。

 生まれ育った中国で、日本人の血が流れる飛龍は、残留孤児二世、対戦国の忘れ子として忌み嫌い迫害された。追われるように日本に帰還すれば、日本語の話せない飛龍は中国人として疎外される。どちらの国からも嫌悪される飛龍が、生きる為に裏社会に足を入れたのは必然だ。だがその裏社会のからも、飛龍は疎外されて捨て駒にされた。読み取った飛龍の過去には、数々の裏切られた繰り返しの悔しさ、怒りと憎しみが魂にこびりついていた。

「そうだ、吐き出せ!その身の内にある憎き血を!」

 顔をめがけて振り払ってきたナイフの刃をぎりぎりでよける。飛龍もカンフーの手習いがある。我がナイフを避ける事は予測の範囲の陽動だ。だから利き手ではない方でナイフを持ち替えた。腹の急所をめがけて来る右掌底を、左腕で阻止。すぐさま来る左足の蹴りは、乱れた重心から繰り出された為、威力が足りない。左手で払いのける。低い地から拳を立て続けに打ち込んだら、飛龍はナイフを落として止めてくる。足の突きを腹に入れると、その足を掴んで持ち上げようとするから、そのまま腹に押し入れ、足場にして飛ぶ反動で右の踵を頭に入れた。飛龍は我の足を離し床に手をつく。我も態勢を崩し、腰が床に着く寸前で手を床についた。姿勢を整える間もなく、飛龍が低い位置の頭で突進してくる。避けも受けもできず、積まれた荷物まで吹っ飛ばされた。木製のコンテナの梁で背中を打ち一瞬、息が出来なくなる。飛龍の髪を掴み、引っ張る。血走った目。食いしばった歯。

「もっと怒れ、もっと憎め、思考が無くなるまで、出し尽くせ。」

顔めがけて拳が来るのを伏せて腕で受け止めてから、股間を蹴り上げた。飛龍が体をこわばらせて唸っている間に、我はすり抜け側に立つ。

「殺り合いの場で急所を開けるなど、お前が習った武術は大したものではないなっ」

言い終わらないうちに、脇腹を蹴り上げた。吹っ飛んで転がった飛龍の腹に膝を撃ち込みながら、顔に拳を入れる。4発立て続けに入れた拳を飛龍は腕でガードし、体を丸めた。

我は飛龍から飛び退がる。効き目がないのはわかっていた。飛龍の方が身長も骨格も大きい。飛龍から打ち込まれる拳の方が重い。

今ので飛龍も分かったはずだ。自分の方が腕力は勝っていると。だが、スピードは我の方が早い。

威力はなくても、先手必勝で暇を与えず打ち続ければ、確実に打撃は体に蓄積されていく。

ガードを外しかける飛龍に回し蹴りを入れる。








英「でも、フー様、大麻を公然に容認してしまうと、大麻中毒者が侵すあらゆる犯罪に対しても容認してしまうことになりませんか?」

英「犯罪は、大麻中毒者だけが侵すものではないのですよ、ミスりの。健常者であっても、人は犯罪を起こします。確かに大麻によって人は健常ではなくなり、大麻がきっかけで、あるいは大麻を手に入れる為に、犯罪に手を染める。その割合は健常者が犯罪を起こしてしまう割合から見れば高いでしょう。だからこそ、政府がきっちりその製造、販売、流通に至るまでの管理を行う必要があると私は考えるのです。フィリピンのマカオは、カジノ設立当初、犯罪率の増加が懸念されて多数の反対意見が生じました。ですが、前もってカジノがもたらすリスクを把握し、法の整備と警備体制の強化を布石したのです。今は、マカオ市街地の犯罪率は、スラム街のあるトンド市街地より15パーセント以上も低い。」

英「日本のことわざに罪を憎んで人を憎まずってあります。フー様のそれは罪を憎んで大麻を憎まずですわね。」

英「ハハハ、そうですね。大麻は医療において欠かせない薬材です。東南アジアの気候は大麻の栽培に向いています。大麻は経済先進に遅れをとっている我々東南アジア諸国の天からの恵みなのです。その恵みを先進国に統制される前に、隣国に産業として先行される前に、インドネシアが先陣を切って管理統制する。いや、しなければいけないのです。国の発展のため、低層人民の為に、過疎地域の・・・」

フー・ジンタオ氏の熱弁は続く、

 ナタリーなら、きっと最初からこんなお堅い話はしないで、流し目に足を組みなおしただけで男を落としていた。試しに足を組みなおしてみた。乱れたワンピースの裾をわざと直さない。それでも、インドネシア愛に熱弁ふるうフー・ジンタオ氏は、ちらりとも私の下半身に興味を見せない。このままじゃ中々色気話に移れない。

所詮は無理なことだったのだろうか?高度な知識が色気を超える事は。

フー・ジンタオ氏が熱弁の末に乾いた口を、ワインで潤した。私はワインセラーからボトルを取り出し布巾で水滴をぬぐう。これはクレメンティがやっていたのを見て覚えた。ラベルを手で隠さないように上にして持ち直し・・・それからコルク栓を開けて、固っ!開かない。

(もう!さっきのボーイ、なんて馬鹿力で閉めていくのよ。)

英「私が開けましょう。」

 フー・ジンタオ氏が苦笑して私からボトルを取り上げた。なんて無様。

英「ごめんなさい。ゲストの方にこんな事をさせてしまって。」

英「なんてことはありません。」フー・ジンタオ氏は、空になった自分のグラスに並々と注いだ。

氏に少しでも華を持たせる為に、私は半分以上残っている自分のグラスを一気に飲み干し空けた。次いで私のグラスにワインを注いでくれるのを待って、言葉を発する。

英「もう一度、乾杯しましょう、フー様。フー様が愛するインドネシアの発展のために。」

英「愛するとは、これまた情緒的な表現ですな。これまで話してきた私の話に似つかわしくない。」

英「そんなことはありませんわ。フー様はインドネシアを愛していらっしゃる。嫉妬するほどに、そうでなければ、ここまで深い思想は語られませんわ。私にはわかります。」

英「ミスりの、あなたのような理解者が議会に、いやせめて側近、配下に居れば、私はもっと楽に理想思念を叶えられましょうに。」

 フー・ジンタオ氏は左右に頭を振り、ため息交じりにうつむいた。

英「ご苦労されていらっしゃるようですわね。」

英「あ、申し訳ない。あなたに愚痴を聞かせるなど。」この人は、その風貌に似つかわしくないほどに口から出る言葉は紳士的だ。ミスターグランドは、そんなフー・ジンタオ氏を、無骨に無様すぎて失笑すらも出ない偽紳士だと言う。

英「フー様、私の知識欲は愚痴もおいしく頂けるのですのよ。」

英「参りましたな。」

英「フー様の愛がもたらすインドネシアの未来発展の為に。」

私がワイングラスを掲げ促すと、氏はそのごつごつした手で、グラスを手にした。並々と注いだワインがこぼれそうに揺れる。

英「乾杯。」

そっと小さくワインがこぼれないようグラスを合わせて音を奏でる。

フー・ジンタオ氏は満悦の面持ちで、ワインを口にする。

(酔わさなければ。私の話術とアルコール成分が氏の意識を朦朧の海へと漂ようまで。)

飲みながら氏の様子をうかがう。氏より先に飲むのをやめるわけにはいかない。氏もまた、私に目線を離さないでワインを飲み干す。

ワインの量は違えども、空になったグラスをフー・ジンタオ氏と同時にテーブルに置いた。一気飲みは苦しい。それを悟られないように笑顔でごまかして息を吐いた。

英「ミスりのに祝福されたインドネシアは光栄ですな。」

英「フー様の深い思想を聞ける今宵の私も光栄ですわ。」

英「ミスりのは、乗せるのがうまい。」

 次こそは、私がワインを注がないと、と再度ボトルに手にしようとしたら、ハーブの音色が流れるように奏でると同時に、照明がわずかに暗くなった。12時の合図。この酒場は午前2時まで開いているので店のクローズ合図ではない。その音と照明の変化は、外の様子がわかりにくい船内においての、客だけじゃなく従業員に向けての簡易時報だった。

英「おや、もうこんな時間ですか。長い話につき合わせてしまいました。」

英「長いなんて思いませんでしたわ。」

 実際には2時間近くも話していたことになる。

英「今宵はこれぐらいに。」

 フー・ジンタオ氏がイスから立ち上がる。

(このまま帰したら、ただのおしゃべりだけに終わる。)

英「フー様っ」

 帰ろうとする氏の腕を掴もうと立ち上がった私の足は、力なくふわりと揺れた。

英「大丈夫ですか!ミスりの。」

 私は氏の胸を支え杖代わりに転倒を免れた。氏の安物のスーツの素材が頬にチクチクと痛い。

(そうか、この手がある。)

英「フー様、私、もっとフー様のお話を聞きたいわ。」

英「ですが、ミスりの、もう夜も遅い。シンデレラも夜は12時までですよ。」

英「私はシンデレラほど世間知らずの娘ではありませんわ。」

 上目で氏を見上げると、さっき一気飲みしたワインが逆流しそうになった。

英「困りましたな。」

英「フー様は、私がお嫌いですか?」

 こみあげてくるワインを無理やり押し込めば、今度は涙腺からワインが染み出てくるようだった。完全に体内は飽和状態。

英「嫌いだなんて、ミスりの、あなたほど知的に思想同調する女性はいません。」

英「フー様、今夜が最後の夜ですのよ。」

英「・・・・。」氏が眉間に皺を寄せて、口を噤む。

英「私は、まだまだ満ち足りないですわ。」

 話すたびに行われる蠕動運動によって、飽和状態の胃が反発してワインを押し出そうとする。こんなところで吐いたら、せっかくのチャンスも台無し。耐えるのよ。

英「フー様は、シンガポールの国と低層人民を満足させるだけの、お人なのかしら。」

英「いや・・・それは。」

英「私一個人を満足させないまま、お別れだなんて、フー様はそれで」うっ、ダメ。咄嗟にえづいた口元を隠すように、氏の胸に顔をうずめた。氏は私の預けた重心を交わすように後ろへ腰を引いたが、私の力の入らない足は踏ん張りがきかない。氏がそのまま、私を拒絶するなら、私はそのまま倒れただろうけれど。流石にフー・ジンタオ氏はそれをしなかった。

英「ミスりの、飲みすぎたようですね。飲ませた私の責任です。」

英「いやですわ。フー様、まるで子供扱い。」

英「部屋までお送りしましょう。」

 そんな・・・私はナタリーを超えられない。











 息つく隙を与えず飛龍の体に拳を打ち、蹴り込んだ。飛龍は体の痛みを怒り、憎しみ、恨み、悔しさに変えて反撃してくる。そして、体の痛みが限界を超えると、それらの感情も思考も「無」になった。残ったものは魂に染みつく哀しみだけ。「無」で向かってくる飛龍の動きが読めず、顎に拳が入った。視界が歪みよろめいた。そこに飛龍の蹴りが入り吹っ飛ばされ、仰向けになった所に、飛び掛かってくる飛龍を両足で蹴り、その反動でバク転、着地の威力を使って飛龍に体当たりをし、貨物の壁まで押した。背中を打ち、唸り声を上げた飛龍。腰を折った所に、首の後ろを握った両の手の拳を叩き入れた。間を置かず膝で腹を蹴り上げる。飛龍はその場に崩れて四つん這いになり、カハッと胃の中の物を吐いたが、丸一日食べさせていないので、沢山のものは出てこなかった。腹を抑え、体全体を隆起してやっと息をしている飛龍。

 我もまた、肩を動かさないと肺に酸素を送れない状態だ。それでも足りない。飛龍の魂にしみつく哀しみを浄化させるには。

 左目の視界が霞みはじめた。目に神と邪の両方の力を宿し、誰よりも最強の力があると言うのに、弱るのは必ず視力からだった。

 霞んだ視界の中、ゆっくりと揺れ立ち上がる飛龍。ふらついた体を、足を後ろに回すことでバランスを取り、伸びきらないままに腕はだらりと重力に任せて降ろされたその姿、それは、我の、いや師匠のと同じ。死闘の中、戦場で完成された最強の構えだ。飛龍は誰に教えられることもなく、自身でその構えに到達した。

 我も同じ最強の構えをする。息を静かに吐き、吸い込めば、霞は晴れ、左目の視界が戻った。

 突進したのは同時。飛龍は拳で我のこめかみを、こちらは蹴りでこめかみを打ち、同時に防御し、吹っ飛んだ。動物の檻に体をぶつけて崩れる飛龍。我も床に尻をついて倒れる。

 あえぐ呼吸の中、立ち上がる。また霞む視界、今度は両眼だ。意識してゆっくり深く呼吸を整えている間に、動物の檻を掴んで、やっと立ち上った飛龍。振り返り我を探すと、ゾンビのように右に左に揺れながら歩んでくる。飛龍もまた、腫れた瞼で視界が悪くなっているようだ。

 互いの息遣いが船底を這うようにこだまする。

 やっとの事で飛龍が我の間合いに入り、対峙した。

「もう、いいだろう。飛龍。」

 いつの間にか、煌めいたナイフが首にあった。

 肌身が怖気立つと同時に、払いと蹴りが無意識に出ていた。

 吹っ飛んでいくナイフと飛龍。

 視界が直前で戻っていなかったら、危なかった。

 動かない飛龍、蹴り入れたところは、みぞおち、飛龍は防御の力も残っていなかった。感触から死んだかもしれないと危惧するが、力なく倒れている飛龍の首の頸動脈を触れると、脈のあるのが確認できた。ほっと息を吐き、手に違和感を覚える。見ると手の甲から側面にかけて切れて血が滴り落ちていた。

「お前の勝ちだ。」

 これより飛龍の世界は変わる。我がりのを刺して世界を変えたように。

中「起きろ、飛龍。」

 唸りを上げて重い瞼を開けた飛龍、しかし、体はもう動けないようで、わずかに頭を動かしただけだった。

 我は膝をついて飛龍の髪を鷲つかみ、目を見据えた。

中「飛龍、お前の行き場のなかった憎しみ、怒り、悲しみは我が受け取った。今のお前はまっさらな魂、その魂で我を見、感じろ。」

 飛龍の黒目が我の左目をとらえ、瞳孔が開く。

【我の言辞を、そのまっさらな魂に染み入れよ。】

 飛龍の体が震えだす。

「飛龍、わかるな、お前の魂の祖がどこであるか。お前が欲した祖国、それはここ、我だ。」

 魂で我の存在を理解した飛龍は、床に頭をつけてひれ伏す。

「頭を上げよ、飛龍。お前に任務を与える。」

 我は神の力で飛龍の魂の神髄を開き、魂を支配する。











 フー・ジンタオ氏は、私を胸から引き離すと、ボーイを呼んで会計を済ませてしまった。

英「行きましょう。歩けますかな。」

英「えぇ・・・」溜息は熱を帯びて熱い。

 店を出ると、通路も薄暗く照明が落とされて少しだけひんやりとした。通路の空調は店内よりも低く設定されていて、それが熱を帯びた肌に心地よい。大きく胸いっぱいに空気を吸い込むと、こみ上げてきていたワインはおとなしく胃の下部へと落ちていった。胸がすっきりとすると、今度は急に眠気が襲ってきた。身体がふらふらして、なぜか肩が壁によく当たる。

英「大丈夫ですか?」

 フー・ジンタオ氏が歩みを止めて振り返る。心配げにしかめた顔が、完全に迷惑だと言っていた。その証拠に、ふらついて壁に手をついてしまった私に、手を差し伸べようともしない。ミスターグランドの言った偽紳士の意味が分かった。真の紳士なら、手を差し伸べて、このふらつく身体を抱き支えてくれる。

英「フー様の言う通り、飲みすぎてしまったようですわ。手を貸していただけます?」

 氏は、私のお願いに辺りを見渡してから、やっと手を差し伸べてきた。氏は落胆していることだろう。知的に思想同調できる女性と称賛したのに、ただ酒におぼれて饒舌になっただけの女だった、と。だから嫌なのだ、ただの酔っ払い女に手を差し伸べることが、だから、私が腕を絡めると、一つ咳をした。

 私にナタリーのような豊満な胸があれば、絡めた腕にあたる胸の厚みだけで男は落ちるはずなのに。フー・ジンタオ氏の腕と私の間には床の模様が見えるほどに隙間が空いている。エレベーターホールへと歩む足取りはぎこちなく、色気の気配すらない。

 エレベーター前に到着すると、ボタンを押さなくても扉がちょうど開いた。エレベーターの中から長身の外国人カップルが肩を寄せ合い、キスをしながら出てきた。氏と私はそのカップルの熱愛ぶりを目で追ってから、誰も居なくなったエレベーターに乗り込んだ。

 ミスターグランドの言葉が脳裏に復元される。

『チッ、せめてナタリーが居れば、色仕掛けのトラップでも仕掛け、脅すネタを得・・・』

 私はナタリーになれなかった。

 飽和状態の涙腺から、涙は溢れてしまった。それを見た氏がまた顔をしかめる。

英「ミスりの・・・」

英「ごめんなさい。フー様、私・・・」

 氏は階層ボタンを押そうとした指を止めて、丸めた。

英「ミスりの、私は小心者です。誰かに見られることを警戒して、あなたと腕を組むことにも躊躇してしまいました。ですが、そう、最後の夜をもっと特別の夜にと、あなたが望むのであれば、私は・・・」

英「ずるいですわ。フー様、ええ、かまいませんわ。」

 そうか・・・女の涙は最強の武器。そんなフレーズがあった。

 フー・ジンタオ氏は、ポケットからハンカチを取り出し私に差し出す。偽紳士は拭いてくれないで、一等船室の階層のボタンを押した。











 鉛のような重い体を引きずるようにして、やっと船底からの階段を上がり、12階層客室の廊下へ繋がる鉄の扉を開けた。飛び込んできた照明に、我の両目は刺されたような激痛が生じた。閉じた瞼の皮膚は痙攣して眼球は熱を持っていた。左目はまだ赤く、黒目に戻れていない。鉄の扉に背を預け、しばらくその場から動けなくなった。目をつぶったまま前髪を念入りに左目にかぶせた。

 日差しの強い昼間ならサングラスも仕方なしに使用することもあるが、もとより視力の低い我の両目は、サングラスの視界では見えづらく不便であるのと、自身でもわかりすぎるぐらい似合わなかった。そんな理由で、伸ばした前髪をサングラスの代わりにしていたのだが、これが皇家の神儀の為に髪を伸ばしている双燕と似てしまう

 徐々に薄く瞼を開けて照明の強さに慣らす。霞んだ世界、揺れる輪郭、12ーFと書かれているはずの船内の位置情報も、ぼやけて汚れ程度にしか判別できない。眼がしらを指で押しマッサージするが、そんなのは気休めにしかならない。氷嚢で冷やせば黒目に戻るのが若干早くなるが、それも一時しのぎに過ぎないのはわかっていた。左目の赤き力を支配するのは我の魂が持つ力、神力であり、高ぶった神力がおさまらない限り、黒目には戻らない。

 今、我は、筋肉は疲労して限界であるのに、神力のせいで神経が痛いほど高まっている状態だ。

 船内にハーブの音色が短く鳴ると同時に辺りが薄暗くなった。12時の刻を知らせる合図。眼に負担のかからない照度になったとほっとすると同時に、もう12時なのかと少しばかり驚く。予想以上に飛龍の魂の洗浄に長くかかった。

 鉄の扉から背を離し、Eエリアにあるエスカレーターまで重い足を動かした。2・3等船室のある階層から娯楽エリアより上へはエスカレーターでは上がれない構造になっている。それより上へ行きたければ娯楽エリア7階から階の中央Dエリアに位置する中央クリスタルエレベーターか、その周囲を取り囲むように螺旋する周遊階段を登らなければならない。部屋に戻る前に7階フロアにある大衆酒場で氷をもらうことにする。頭目やクレメンティにはこの左目の力に影響はなくても、赤目を見られるのはなるべく避けたい。もう何度か赤くなった目を見られてしまっていて、事故のせいで、充血しやすいと言い繕っていて、絶対的に秘密にしておくことではないが、これ以上、不審さを与え探られたくない。それよりも、りのに影響が及ぶ事を避けたかった。

 大衆酒場は、7階エレベーターを降りた廊下の左手10メートルほど先に入り口がある。人の気配がして何気に右手、中央エレベーターのある方へ顔を向けた。長い廊下の先でレモンイエローの服を着た女が壁に手をついて立ち止まっているのを、ぼんやりとした視界で認識する。そばに連れの男だろう、スーツ姿の男もいて、二人とも黒髪である事からアジア人カップルだと認識する。豪華客船という特別な空間に酔いしれ、酒を飲み過ぎたカップルが徘徊する時間帯だ。

大衆酒場へ入り、中国系の従業員のいるカウンターへと向かった。氷の入った水をジョッキで2杯とビニール袋を1枚くれと中国語で頼む。変わったオーダーに不審に首をかしげる従業員に、余計な詮索はしないように術をかける。術で従った従業員はすぐに我の前にジョッキ2つを置いた。一杯を一気に飲み干す。よく冷えている。熱を帯びた左の眼球や脳が冷やされていくのがよくわかる。次いで置かれたビニール袋に2杯目のジョッキの中身を入れて口を結んだ。簡易氷嚢の出来上がり。奥にいる別の従業員が我の行動を見て露骨に不審がったが無視して、会計のカードリーダーにレニーラインのIDカードを差し込んだ。廊下を歩きながら手作り氷嚢で目を冷やす。熱を持った眼球にひんやりときもちいい。高ぶっていた意識も落ち着き始めて、揺れてぼやけていた視界は徐々に鮮明になっていく。中央の巨大クリスタルエレベーターの照明も深夜照明の照度を落とした色合いになっていた。2機のうち左のエレベーターは4階で止まっている。ボタンを押すと6階にいた右側のエレベーターがすぐさま降りてくる。乗り込みオーナー室のある最上階1階のボタンを押す。ステンレス製のボタンパネルを鏡代わりに自分の目の赤さを確認した。白目が幾分か戻りつつあるが斑で、赤一色に染まっている時より見た目が悪かった。念入りに前髪で隠す。

フロアナンバー1のオーナー室だけがある階層。エレベーターを降りると半円状のスペースの端に階段があり、階下へ大きく螺旋している。エレベーター機の脇から、6階ロビーまでの吹き抜けの階下を望むことが出来る。今時間は、照明の効果で雲上にいるような感じになっていた。正面にガラス製のアールヌーボー調の花が彫られているエントランスの扉があり、ゆったりとした間隔で色淡く変化していく。頭目はこの船の売りである中央の巨大クリスタルエレベーターから周辺のこのオーナー階までの内装のデザインを、大衆的で軽薄だと嫌っていた。照明や映像で装飾する近代的な趣向を嫌う頭目は、この船が作られた時、自分が代表であったら、こんな陳腐な様相にはさせなかったと悔しがり、そのうち改装してやると言っている。

 その頭目が嫌悪する扉の脇にあるカードリーダー機にIDカードを差し込む。ピッと短く音がしてすぐさま戻ってくるカードに続いて、スライドして開く自動扉。中に入るとすぐに木製のドアがあり、その前にもオーナー室内に設置されているオペーレーションパネルと繋がるIDリーダー機があり、再度カードを差し込まないと扉は開かない構造だ。IDナンバーと名前の呼称、お帰りなさいませと英語で部屋中のスピーカーから流れ、ガチャリと解錠される。押し開いて左右に個室がある廊下内へ、目を冷やしていた手作り氷嚢を、スーツのポケットに入れて隠した。

 レセプションルームは廊下よりは明るいが、メイン照明は消されていてムードあるシーリングライトのみになっていた。頭目は甲板向きに置かれているソファでブランデーのグラスに氷を入れているところだった。クレメンティの姿はない。もう日付も変わった時刻、仕事を終えて自室で休んでいるのだろう。

「失礼します。」

 頭目は振り向きもせずアイストングを上げて合図をよこした。

「何もなければもういいぞ。」

「はい。」

 一礼をして下がろうと思ったとき、りのがそこに居ないことに違和感を抱く。ケガをした一昨日も、りのは聞き分けなく一杯だけ頭目の晩酌に付き合っていた。これまでの船旅でりのは、頭目との晩酌を日課の楽しみの一つにしていた。それらの情景は、再会時に魂の共鳴を起こした時に脳裏に入ってきて知っていた。

「あの、頭目。」

「なんだ?」ブランーをグラスに注ぎ入れながら返事をする頭目。

「りのは?」

「部屋だろう。」

「今日は大人しく、言うことを聞いたのですね。」

 ブランデーボトルを持ったまま頭目は動きを止め、我の方に振り向いた。

「そういえば、ディナーの後から見てないような気がするな。」

「ディナーの後から?」

 今日のディナーはインドのIT実業家との晩餐だった。明日、フィリピンで下船する為、相手から誘われた会食だった。りのとクレメンティを連れた頭目が、会食を終えてここオーナー室に戻るまでを、我は警護していた。部屋内の安全と異変がないのを確認してから、飛龍を監禁している船底貨物室へと向かったのだった。

「あぁそうだ、夜風に当たってくると出て行った。戻ってきているだろう?私は気が付かなかったが。」

 頭目はブランデーの瓶に蓋をしてグラスを持ち上げた。揺れたグラスに氷があたり、耳心地のいい音が鳴る。

 りのは、常に頭目の力になりたいと必死に模索している。我が船を降りろと言ったことで、自分がここで必要とされる確たるものを探して。

「初めて抱いた女は、心残りに心配か?」頭目は口の端を上げてにやける。

「いえ・・・。」

「私に遠慮することなく、また抱いてやれ。女として扱わない私の態度に不満があるようだからな。」

 頭目の冷やかしを伏せてそらした。頭目はそれをくつくつと喉を鳴らして笑う。

「失礼します。」

 再び鳴るグラスと氷の奏でる音を背後に、レセプションルームを出て、廊下の右手の個室が頭目の使う個室、その向いがりのの部屋で、りのの隣の部屋を我が使わせてもらっている。りのの部屋の前で様子を窺うが、部屋に居る気配が感じられない。気密性の高い船の構造、部屋に人が居るか居ないかなど、そうそう簡単に感じられるわけでもないが、久々に共鳴した元は一つだった魂は、常に片割れを求めてりのとの距離を感じとれるはずと思うのは、我の傲慢的感情か?

 りのの部屋の呼鈴ブザーを押す。しばらく待ったが扉が開く気配はない。寝ているのか?それは考えにくい。りのは我と同じに人より眠りが短く浅い。

 子供じゃない、この船の中、どこに行こうが自由だ。身元不明の人間はいなくなった今、必要以上に警戒することもなくなった。そもそも命を狙われているのはりのではなく、頭目だ。

 だが、なぜかじわじわと内なる心に、広がる異様な疼きを感じた。

 ふと、りのと頭目がディナーへと出かけた光景がよみがえる。りのはレモンイエローのワンピースを纏い、首の傷を隠すために頭目からプレゼントされたという花柄のスカーフを首に巻いていた。

 7階で見かけたあのカップルの女も同じ色の服を着ていた。

(まさか・・・)

 我は駆け、オーナー室を出た。











 フー・ジンタオ氏が使用している一等船室は、オーナー部屋のレセプションルームの半分ぐらいの広さで、置かれた調度品がバロック調の豪華なものだったから一見オーナー部屋より豪華に見えた。フー・ジンタオ氏は、「自分は下層の2等船室でよいと言ったのだけど、レニー・コート・グランド氏が是非にといわれるから仕方なく、この部屋で承諾したのだが私を招きいれることになった今となれば、ここでよかった。」と苦笑した。

英「さて、話の続きはなんでしたかな。」

 部屋の真ん中で立ち尽くしていた私を、ベッドとは反対側の壁にある応接セットへと招きながら氏は言う。すぐそばにクイーンベッドあるというのに、この場に及んで、まだ躊躇する様子。

英「嫌ですわ。フー様、この場に及んでまたお話から?」

英「こんなシチュエーションに私は慣れていませんからね。」

英「私もですわよ。」

英「ミスりの、はじめは、そうお見受けしていました。ですが先ほどよりあなたは、とても大胆に・・・。」

英「ええ、自分でもとても驚いていますわ。きっと、それはフー様が魅力的だから。」

 口から出まかせ、調子のよい言葉がどんどん出てくる。だけど所詮は、知識だけが頭に満載されているだけのにわか娼婦。それ以上に大胆に迫るタイミングを逃した。フー氏は私の言葉に照れてコホンと咳払いをした後、備え付けのワインセラーから、一つ瓶を取り出した。もっと酔わないとこの先に進めないらしい。焦っても仕方ない、夜は長い、氏も同意しているのだから、何もしないでさよならはないだろう、きっと。

 私は食器棚より一つだけワイングラスを取り出し、中央にある丸いスタンドテーブルに置いた。テーブルの中央にはバロック調の部屋に合わせて濃い赤のバラを主体にアレンジした花が花瓶に活けられていた。

英「フー様、こちらで、とてもきれいな花を愛でながらワインを頂くのもいいですわよ。」

 ソファに座ろうとしている氏をベッドに近いこちらに促した。ソファに腰を落ち着かせて、また話が長くなりかねない。それに座ると私が寝てしまいそうだった。

 一つしかないグラスを見て、食器棚へと取りに行こうとする氏の腕を捕まえて止める。

英「フー様、これでよろしいのですのよ。一つの空間で一つグラスに入ったワインを分かち合う。素敵じゃありません?」

 ない胸に腕を引き寄せて上目遣いでフー氏を見つめた。

(これで、どうよ!精一杯の私の色気よ。)











 D6エリア、フロント受付の隣にある警備室に飛びこむ。力まかせに開けた音にびっくりした警備員達が、イスから飛び上がり、

中「何んだ!」と叫ぶ。

 我はIDカードを見せて、オーナーからの命令でモニターのチェックを頼まれていると嘘をついた。我の持つIDカードは幹部クラスの権限を持つ情報部の物である。我のカードを見た警備員は我の容姿に似つかわしくない権限であることに、戸惑いと不審をあらわにしながらも、モニター前の椅子を譲った。

英「E7エリア、エスカレーター付近の廊下、12時ごろの映像を出せ。」

 警備員はテーブルに埋め込まれたキーボードを中腰でカチャカチャと操作してから脇にそれた。我はモニターに注視する。廊下をまっすぐ映している画面下の大衆酒場の入り口からスーツの男が出てくる。次いでレモンイエローのワンピースを着た女も出てくる。勝手にキーボードを操作して一時停止で二人の姿を拡大して確認。やはり、廊下で見かけたレモンイエローの服の女は、りのだった。そして男はフー・ジンタオ氏。自身の視力の悪さが悔やまれる。

 監視カメラに映る二人は、奥の中央エレベーターへと乗り込んだ。エレベーターは上昇し4階で止まった。

英「追って4階Cエリア廊下の監視映像を出せ。」

 今度は、隣のモニター前に座っていた男が、自身の前にあるキーボードをカチャカチャと打ちモニター操作を完了する。

りのとフー・ジンタオ氏は一等船室のBエリアにある部屋の扉の前で立ち止まった。402の部屋番号を確認して我は叫ぶ。

英「部屋のマスターキーを貸せ!」

 マスターキーとは、この船内のどこの扉でも開く万能のカードキー。緊急時用として、この警備室に一つ、船長室に一つの合計二つが保管されている。それを貸せと言う我に対し、警備員は当然に驚き躊躇する。

英「オーナーの命令だ。早くしろ、我のID階級を確認したであろう。」

 3人の警備員は顔見合わせて、うなづき合ってから、やっとのことで、壁に設置されたキーボックスに保管されているマスターキーを取り出した。我は奪うようにそれを手にして警備室を飛び出し駆け出す。

 色仕掛けでターゲットの弱みを握る、ハニートラップ。りのはハニートラップが得意だったナタリー・ポートマンの代わりをしようとしている。頭目の為に、自身の身の置き場を作るために。

(馬鹿な真似を。)

 幸いな事にオーナー室からここまで降りてくるときに使ったエレベーターは、動くことなく待機していて、乗り込み4階へのボタンを叩き押した。











 フー・ジンタオ氏は、私が注いだワインをゆっくりと口に含ませた。私は氏との距離を密着させた。氏は戸惑いの色を隠せず、喉仏を動かして口に含めていたワインを胃に流しいれる。

 私は氏の持っているワイングラスを取り上げて見つめたまま口に含ませ、グラスをテーブルに置く時も、見つめる目は離さなかった。両手を氏の首の後ろへまわす。氏はこの場に及んでも私の腰に手を回さない。手を首からゆっくり氏の頬に移動させた。これは昔見たフランス映画のシーン。私は背伸びをして高さを合わせて唇を押し付けた。氏は一瞬ひるんだが、私は強引に口の中のワインを氏への口の中へ移しいれた。もう言葉はいらない。やっとフー・ジンタオ氏の情欲が理性を超える。氏は私の背中に手をまわし、ワンピースのファスナーを探す。私は滑るように氏の胸に指を這わせて、ワイシャツのボタンを一つ外す。下げられたファスナーの背中が解放されて、シルク混のレモンイエローのワンピースは、はらりと床に落ちた。











 マスターキーが認証する1秒、いやコンマ1秒がもどかしい。認証と同時に引き開けて飛びこんだ。

 驚愕に振り返るフー・ジンタオ氏と下着姿のりの。

 その密着さに憤怒した。










 突然、客室扉のキーロックが電子音と共に開いて、ズカズカと入ってくる棄皇。

 彼のことを知らないフー・ジンタオ氏が狼狽えて母国語で叫ぶ。

中「なんだ貴様!どうして入ってこれる!?」

 氏の訴えを無視し、棄皇は胸倉をつかんだ。棄皇の顔はこれ以上ないぐらい怒りに満ちて、髪の隙間から見える左目はもう赤く染まっている。

「やめて!何をするの!」

 止めに入った私の腕を、棄皇はひねり上げてベッドへと引き飛ばす。

「殴り蹴りたいところだが、頭目の手前だ、容赦してやる。」

中「何をする!この手を放せ!」

「やめて!」

 私は急いで立ち上がろうとするも、良品のベッドのスプリングがそれを阻む。

中「我の言辞に魂の真髄を開き、神威を受け入れよ。」

(中国語で祝詞!?)

 中国語のフレーズであるのに、音程は昔よく聞いた日本古来の物だった。

 魂が引き寄せられる体内がうずく感覚に、身もだえた。

中「部屋を出ていけ、今宵の真辺りのとの記憶は忘却し、明日の下船に向けて船内を散策していたと記憶せよ。」

 術をかけられたフー・ジンタオ氏は力なく「はい」と答えると404一等客室から出て行く。











英「フー様!」

 出ていく氏を追いかけようとするりのの肩をつかんで止める。

 りのは最上級の怒りで我を睨む。赤いままの左目が、りのの視線をとらえないように我は横を向きながら、前髪をかぶせた。

英「何てことしてくれたのよ!」

怒りの静まらないりのは、自分が日本語を話していない事に気が付かない。

英「あと少しだったのに!」

「りの、服を着ろ。」

「あと少しで、フー氏の弱みを作れたのよ!」

「お前がそんなことする必要はない。」

「どうして邪魔するの!」

 りのは、下着の肩ひもがずり落ちるほど身振り大きく憤慨する。レモンイエローのワンピースが床に輪になっているのを我は拾った。

「頭目はすでに、別の手段を指示している。」

英「そんなことはどうでもいいのよ。」日「私がやらなくちゃいけない事だったのよ」英「ナタリーがやっていた事を私が、彼女ができて私にできないことはない。」日「ミスターグランドが認めてくれるには。」

 英語と日本語が混ざり、言いたいことの文脈も滅茶苦茶だ。言いやすい言語を感情のままに使うとそうなる、りのが最高に怒っている時の特徴だ。

「りの、服を着ろ。」

 拾ったワンピースを差し向けた我の手を、りのは怒り任せに叩き払う。音なく床に落ちるレモンイエローのワンピース。

 もう一度拾おうとしたのを、りのは怒りを込めてハイヒールでワンピースを踏みつけた。

「そんなに私が邪魔?」

「邪魔とかの問題ではない。」

「いいえ、あなたは私が邪魔なのよ。私がミスターグランドの領域を奪い、私に仕事を奪われることを恐れて、だから私を追い出そうとするんだわ。」

 どう説明しようとりのは納得しない。りのの怒りはもう言葉で説得できる段階ではなくなっている。我のフー・ジンタオ氏への怒りがりのへと同調してしまったようだ。

「りの、我より離れろ。」

 これ以上の影響を防ぐために、りのの肩を押して離れ、更に横を向き両目を閉じた。











 私と、決して視線を合わさない棄皇は、ワンピースを踏みつけて詰め寄った私を、まるで汚物でも扱うように顔を背け、そして私を押し離した。そんな棄皇の態度に腹が立つ。

「命令ばかり、服を着ろ!離れろ!船を降りろ!そんなに私に言う事を聞かせたければ、その赤い目の力を使えばいいでしょう!」

 棄皇はため息を吐いた。その馬鹿にしたような態度が余計に腹が立つ。

「こっち向きなさいよ!さぁ、その目で私を支配しなさいよ!」

 棄皇がその力を使いたくない理由は知っている。使う相手の意思をねじ伏せて使うと、一時的には意のままに操れても、意思は反発を起こして戻ろうとする。その反動の力は、掛けた術の力よりも超える。だから私は7年前、この手でナイフを突き刺した。

「やめろ、りの。」

「また命令。ちゃんと私の目を見て言いなさい!そうしたら嫌でも従うわ。」

 その赤い眼の力で私に船を降りろと命令すれば、私は従い船を降りる。しかし、術の効力が切れた時、私は戻ってくる。どんな手段を使ってでもミスターグランドの所に。赤い力を使わせても、使わせなくても、私はミスターのそばを離れない。私は棄皇の思い通りにはならない。

「さぁ、こっちを向いて、神威の力で私を見て!」











 りのは聞く耳を持たない。我の怒りがりのに伝わり、りのの中で怒りは増幅され、また我に戻ってくる。どんなに抑え込もうとしてもその怒りはまた、りのに伝わろうとする。これが我とりのとの魂の繋がりだ。一つの魂を分けてこの世に生まれ、違えた性で接合により鼓動を合わせた精神の系譜。

 反復する怒りの増幅が力を暴走させる前に、どうにかりのの怒りを鎮めなければいけない。

しかし、りのは我の顔を無理やり向けさせる。仕方なく、我は左目の力を開放する。

「フー・ジンタオとの今宵の記憶を忘却し、服を着て部屋へ戻れ。そして朝までぐっすり眠れ。」

 りのは痙攣したように身体を震わせると、「はい」と小さく返事をして、ゆっくりとした動作でワンピースを拾う。

 使い過ぎの左目がズキリと痛んだ。霞み揺らぐ視界の中で、りのはワンピースのファスナーを器用に後ろ手で上げ、ゆっくりと玄関へと歩んでいく。

 誰も居ない部屋から出ていくように、りのはこちらに一瞥することなくドアを閉めた。

 りのから受け取った怒りの感情が、我の中で彷徨い拳に溜まる。

「くそっ・・・」

 スタンドテーブルに拳を叩き入れた。床に転げ落ちた花瓶から流れ出た水が、絨毯を色濃く染めていく。

 何故、わからない?我らの宿命を。

 何故、伝わらない?この思いを。

 古から続く魂の悔恨を、繰り返さない為には、

 真に満ちた人生を遂げなければならないというのに。











 刺さるような日差しの中で目が覚めた。寝る前にカーテンを閉めずに寝てしまったらしい。部屋の中は、隅々まで太陽光できらめいていた。そんな部屋の明るさに反して、起こした身体は気怠く重い。ベッド脇の床にレモンイエローのワンピースと白いハイヒールが脱ぎっぱなしで落ちていた。

「昨日・・・」

 思い出しかけた何かは、すぐに靄の中に沈んでいった。

 ドレッサーに映る顔は、今すぐにもホラー映画に出られそうな有様。髪はボサボサ、斑に取れたファンデーションにマスカラとアイライナーがパンダのように眼のふちを黒くしていた。吐く息からかすかにワインの香り。

(飲みすぎて、化粧も落とさずに寝てしまった?)

 思い出せない。記憶がなくなるほど酔っぱらってしまった、と単純に納得できない霞が頭の中に漂っていた。

英「この感じ・・・嫌だわ。」

 失くした記憶を埋める重い靄。

 重い身体を無理やり動かし、殺人的にまぶしい窓を開けに行く。外に風は無く、水分を含んだ空気がねっとりと体にまとわりついた。

 吸い込む空気すらも私を憂鬱にさせる。船は既にフィリピンの港に入港し、停泊していた。通関手続き待ちだろう。

 ベランダで深呼吸するのはあきらめて、窓を閉めた。素直にシャワーを浴びた方がよさそう。

 時刻は6:16

 シャワーを浴びると、体の気怠さは幾分取れたけれど、頭の中の霞は取れなかった。

 一般客は9時より下船できる。VIP客の見送りの為に、私もフロントにて立ち会わなければならない。白いブラウスに黒のタイトスカートをクローゼットから取り出して着用した。

 ベッド下に脱ぎ捨てられたワンピースと着替えた下着をまとめて洗濯袋に入れる。エントランスの端にあるボックスに入れおくとキャビンスチュワートが回収してちゃんとクリーンな状態にして返してくれる。部屋の清掃は、プライバシーの関係上こちらから指示した時だけとなっているが、ミスターグランドは二日に一度、朝食の時間帯にさせている。今日はその二日に一度の日だってことを思い出し、部屋に散らばる物をかき集めた。だけど、この集めた物達を、いつもどうしていいかわからない。だから、いつもスーツケースに押し込んでカギを閉める。

英「部屋なんか掃除しなくてもいいのに。」

そう、掃除してほしいのは、この頭の中、この重苦しい霞を掃除機で吸い取ってほしい。そうすれば見えなかったものが見えるはず。



VIP客の見送りの後、オーナー室に戻る途中のエレベーター内で、ミスターグランドは、この後の行動を聞いてくる。

 ミスターグランドとクレメンティは、レニーのフィリピン支社への訪問や、フィリピン当局、その他企業の訪問が予定されていて、当然のことながら私を連れ行くことはできないという。フィリピン島を観光するなら、市街のホテルを用意すると言われたけれど、私は断った。

英「船の留守番をしておくわ。読みたい本も溜まってきているし。」

 そう言うと、エレベーター操作ボタンの前に陣取っている棄皇と、ステンレス製のパネル越しに目があった。

(絶対に船を降りるもんですか!あなたの思う通りになんかならない。)

英「そうか、ではゆっくり療養するといい。」

英「寂しい思いをさせてしまいますね、ミスりの。あぁ、私に休みがあれば、セブ島の美しいビーチでリゾートを満喫できるものを。」と大げさに嘆くクレメンティ。

英「リゾートなど、この船と何ら変わりないだろう。」

英「変わりますよ。空気が違います。圧迫のない解放された空気。」

英「わかった。クレメンティ、この船のビジネスが終わったら、休暇をやろう。どこへでも好きなところへ行くがいい。」

英「いえ、そんな、私はそんな意味で言ったわけではなくて・・・。」

 そんな和んだ空間を壊す存在の棄皇、到着したエレベーターの扉が開くと、SPのように周囲を見渡し、あるはずのない危険がない事を確認してから、私たちをエレベーターから降ろす。確かに数日前、私は危険な目にあったけれど、そんなに度々あるものではないだろうに。棄皇はオーナー室のカードキーを自分のIDカードで開けると、足早と部屋の奥へと入って行き、室内の隅々を、特に人影になりそうなソファの裏、キッチンへの壁裏、バルコニー、カーテンの裏などチェックすると、一足遅れて入室したミスターグランドに一礼をして、「異常ありません。」と告げた。

 ミスターグランドは胸のポケットから自身のIDカードを棄皇に渡し、部屋の中央にあるデスクの椅子に向かう。クレメンティも同じように棄皇にIDカード渡す一連の動作に、ぎこちなさは全くない。私だけが、彼にキーを渡すのをためらう。

「必要ないわ、安全チェックなんて。」

 そう言っても引っ込めない棄皇の手は、逆に早く出せと念押しで突きつけられる。

「私、ここの従業員を信じているもの。」

 部屋の清掃後の安全チェック、棄皇が乗船してきてから必ず行われている。最初、何のためにカードキーを渡せと言っているのか意味がわからず、ミスターグランドに言われるがまま渡した。棄皇が私の部屋へと入室し、クローゼットまで開けるのを見て叫んだのだった。

「まぁ、そういうな、彼の仕事だ。」

 私たちのやり取りを微笑しながら口を挟むミスター。

 私はあきらめて、スカートのポケットに入れてあったカードキーを取り出し、手のひらに叩き置いた。

 それがスイッチかのように電子メロディーが鳴る。耳馴染みになったショパンの「別れの曲」は、ミスターグランドのスマートフォンの着信音。ミスターグランドはスーツの内ポケットから取り出し画面を確認してから、中国語で返事をした。

 私はデスクの前にあるソファに座り、そこに置きっぱなしになっているピンクのタブレットを手に取る。朝のニュースチェックは終えているけれど、暇つぶしに新たなニュースが入っていないかを見る。

 世界では、中々真相の明かされない日本のテロ事件には執着はしていないで、2年後に行われるアメリカの大統領選挙の動向に注目している。ヨーロッパではユーロ脱退の意向を表明したイギリスの情勢や、その動向をけん制するドイツの動きなどの話題、変わらず紛争の絶えないアフリカの情勢など、世界はめまぐるしく忙しい。一カ月以上たっても、対外的に真相を明らかにしない日本は、外交的にも規模が小さい。

中「死んだ?どうして?________そんなこと、信じられん。自殺?_______いや、知らない。辞めたのは半月、いやもう一か月になるーーーーーあぁ彼女とは仕事上の意見の違いで、言い争いをして辞めたのは事実だが、自殺するほど悩んでいた感じはなかったが、彼女は公私を完璧に分けて、仕事に私的な悩みを持ち込むことはなかった。」

 中国語は拗音が耳障りに響く言語である、だけどミスターが話す中国語にはその耳障りさがない。中国語すらも、子守歌のように心地が良い。見とれていた私の視線に気づいたミスターグランドは、椅子から立ち上がり部屋の奥、ベランダの方へと向かった。ミスターグランドは、長引くような電話の時は、私やクレメンティを気遣い、よくこうしてデスクを離れる。下の者にもさりげなく気配りする気質は、人として本当に尊敬する。クレメンティがパソコンの手を止めて、険しい顔で固まっていた。仕事上で何かトラブルがあったのだろうか?中国語を勉強中のクレメンティは、ミスターの携帯電話のやり取りを少し理解できているようだった。

中「・・・・・ああ、かまわない。当局がフィリピン支社に来ると言うなら、時間を作ろう。事情聴取に協力すると伝えてくれ。________ああ、ふむ__________いや、日本の警察は2週間後で構わないと、横浜に到着した時にと連絡が来ていたが・・・早めたい?__________あぁ、ふむ、別にかまわないが、わかった。台湾滞在時のスケジュールを調整して連絡をする。」

 ミスターは電話を終えるとクレメンティを呼んだ。二人は、ポルトガル語で話し始めた。ビジネス上の私に聞かれたくないトラブルがあったのかもしれない。

 個人部屋のチェックを終えた棄皇が、レセプションルームに戻ってくると、ミスターグランドは棄皇も呼びつける。棄皇は私にカードキーを投げてよこし、二人の方へと向かった。

 疎外感、私だけが仲間外れ。そう、私だけがまだゲストキー。棄皇は私よりも先にミスターグランドと仕事をしている。

 私に邪魔するなと言う道理を見せつけられた。

 私はタブレットとキーを持って立ち上がった。ベッドメイキングで整った部屋へと引き籠る。





















6  



 新年度、年度初め、エイプリールフールなどという言葉が当てはまる4月1日は、朝から快晴の心地よい一日だった。今年の桜は開花が早く既に散ってしまった木には、瑞々しい新緑が芽吹いている。木漏れ日さわやかな柴崎家の屋敷に帰宅したのは3時半を少し回っていた。

 亮は、麗香と共に朝早くから、常翔学園小学部の就任式に出席し、やっと終えて帰ってきた。麗香は本日付けでやっと常翔学園小学部の理事長に就任した。テロに巻き込まれてまだ間も経たない上に、それまで学園の仕事を全くしていなかった麗香を、理事として就任させる事に一族は反対したが、麗香本人の強い希望に全員が折れるしかなかった。凱さんの抜けた後に就任できる人間は、一族の中では、麗香しかいないからである。

 テレビのある、一般家庭で言えばリビングの部屋に入るなり、その豪華なソファにダイブするように麗香は座った。スカートが捲れ上がるのもおかまいなしで大きなため息をつく。亮は咎めたくなるのをぐっと我慢して、視線を外した。

「お疲れさまでした。」

「ほんと、疲れたわ。」

「お茶をお入れします。」

「ええ、お願い。」

 挨拶に次ぐ挨拶、立場は上でも自分達よりもずっと年配者達との会話に、言葉を選びに気遣った。昔から人の上に立つことが多かった麗香でも、今日のは、学生の頃の甘さはない社会の風当りそのものだった。さすがに疲労して、足を投げ出したくなる気持ちもわかる。

 文香会長も亮達と同じに朝、小学部の就任式に立ち合って、最後に大学にも挨拶に伺うと言って亮達とは別行動を取った為、まだ戻ってきていない。中等部の理事長である麗香の父、信夫理事長も中等部の就任式の後、午後から日本サッカー連盟の理事会就任式があり、当然こちらも帰宅は遅い。

 厨房に顔を出すと、住み込みのお手伝いの林さんが、少々緊張した面持ちで「お疲れ様です。」と声をかけてくれた。まだ学生だった頃からずっと世話になっている林さんは、亮を息子のように感じてくれていたのだけど、執事のようにスーツ姿でこの屋敷を出入りするようになってからは、心の内に戸惑いが読み取れていた。親しげに話しこむこともあれば、想い改まって敬語で接するなど、日に時に態度が変わってしまうのがお茶目だった。

 今日は、林さんにとっても気持ちの引き締まる年度初めなのだろう。

「お昼前にラジットの新田えり様が、ケーキを届けて下さいました。就任のお祝いだそうです。」

 時々えりりんが茶菓子を差し入れてくれる。それは新作スウィーツの試作であることがほとんどだったけれど、今日はそうじゃなく、麗香の為にわざわざ作ってくれたようだ。えりりんが持ってきたケーキ箱を開けると、生クリームの装飾美しい苺のショートケーキが姿を表す。季節的にも苺は旬物だ。

「では、紅茶はショートケーキの味を邪魔しないダージリンにしましょうか。」

 目を輝かせた林さんが茶器のセットを手早く用意していく。女性は何歳になっても、こういった甘くかわいい物に心浮かれるようだ。

 奥で包丁を研いでいた住み込みの調理人、源田さんがこちらに顔を向けずに言葉を投げかけてきた。

「わしの持ち分も腹を空かせとけよ。夕飯も祝い膳なんだからな。」

「もう!源さん、言葉使いが失礼でしょう!」

「いいですよ。林さんも肩書など気になさらず、気遣いなく。」

「でも・・・。」

「麗香お嬢様が仕事に慣れ落ち着いたら、家に戻ります。もうしばらく申し訳ございませんがご辛抱ください。」

「ごめんなさい、そんなつもりではなくて。」

「ふん!早くお嬢様にケーキ持っていけ。」包丁であっちいけと振り払われ、その動作をまた林さんに怒られる源田さん。そんな二人のやり取りを背に厨房から出る。和食の達人の源田さんが腕を振るう今宵の祝い膳が楽しみだ。

 ケーキと紅茶のセットを乗せたワゴンを部屋に運び入れると、麗香はルームシューズまで脱いで、ソファのひじ掛けに足をのせている。お屋敷のお嬢様とは思えない姿に、流石に指摘しようとしたら、先に「遅いわよ。」と悪態つかれてしまった。完全にタイミングを逃して、若干の不満だけが亮の胸に残る。

「申し訳ござまいません。ラジットのえり様から就任祝いのケーキが届いておりまして、用意に手間取りました。」

「えりから?気が利くじゃない。」

 ケーキの入った銀製のフードカバーを取ると麗香がわぁと声を上げる。見慣れているはずのショートケーキに、感嘆の声を上げるのが不思議だ。この赤と白の単調な物体のどこに女性の目を輝かせる魔力があるのか?

 切り分ける大きさに、「もう少し大きく」と要望する麗香に、源さんからの忠告を言うと、麗香は、えーっと頬を膨らませた。

 そこへ部屋がノックされる。「はい。」と返事とすると、林さんが扉を開けて要件を話す。

「あの、お嬢様と藤木様に、バイク便にて荷物が届きました。」

「バイク便?」

「はい、親展の速達書類だそうで、ご本人様のサインでしか渡せないとかで。私では、代理受け取りはだめだと。」

「二人共に?」

「荷物は一つですが、宛名は麗香お嬢様と藤木様宛で、お二人のどちらかで良いそうですけれど、顔写真入りの証明書で確認の上で渡すと言ってまして。」

 亮は麗香と顔を見合わせた。厳重扱いの荷物が届く心当たりがない。麗香の就任祝いが、どこかから届いたと言う可能性はあるが、しかし代理受け取りが駄目で、顔写真入りの証明書の提示を求められる祝いなど、クレジットカードが送られてくるより厳重だ。

「どこからの荷物ですか?」

「すみません、聞きそびれました。とにかく宛名本人様をお願いしますと言われて。」

 困った林さんは「どうしましょう。」とつぶやく。

「わかりました。私が受け取りに行きます。」

 林さんに紅茶の用意を任せて、亮は急ぎ屋敷を出て門へと向かった。通用口の門を開けると、黄色がベースで黒いラインの入った派手な色のバイクと、そのバイクと同じ派手なライダースーツを着たバイク便の男が、カーゴボックスに片肘を置き、待ちくたびれたように立っていた。出てきた亮の姿を視認すると、慌てて姿勢を正し日焼けた顔で作り笑い。

「レニー・ライン・バイクエクスプレスです。あなたが藤木亮さん?」

 世界のレニー・ライン・カンパニーはバイク便も手掛けている。

「そうです。」

「免許証か、パスポート、もしくは顔写真入りの身分証明書のご提示をお願いします。」

 亮はスーツの内ポケットから財布を取り出し、中から運転免許証を出した。見た目同年代と思われるバイク便の男は、亮の運転免許証を受け取ることなく、亮の顔と名前を確認してから、胸に差し込んでいたボールペンと依頼状が挟んである小さなバインダを突き出し「ここにサインを。」と言う。

 サインをする前に亮はどこからの荷物かを聞く。

「東京の台場からです。レニー・ライン・アジア・ジャパン支部本社からの配達依頼です。」

(レニー・ラインの本社?)

 心当たりの可能性は、凱さんしかいなかったが。

「差出人は?」

「えーと、ステオウ?・・・中国名かな?ちょっと、どう読むのかわからないですね。」

 とにかく荷物を受け取った。A4サイズのレターパック。差出人を確認して、驚いた。

【棄皇】

「嘘・・・」

 何かの間違いか?それともいたずらか?

 今日はエイプリールフールだ。










ショートケーキを考えた人は、最高にセンスのある人だと思う。流動的に装飾される白い生クリームは白無垢の絹ようにしなやかに、赤い苺は、花嫁の唇を色づける紅の品格。

えりが作ってくれたショートケーキを一欠片、口に入れる。スポンジと生クリームの甘さに、苺の甘酸っぱさが絶妙。疲れも一気に吹っ飛んだ。

(あー幸せ。えりも腕を上げたわね。)

 林さんが紅茶をテーブルにおいてくれた時、バックの中で携帯電話の着信音が籠もって鳴った。

「もう、誰?私の至福の時を邪魔するのは。」

 林さんが苦笑して、向かいのソファに置いてあったバックを取ってくれる。携帯電話を取り出し確認すると凱兄さんからだった。タイミングの悪さは天下一品で、どこかで監視しているのかと思うほど。どうせ、就任おめでとうとかの電話だろう。親しき中にも礼儀なしで、ぶっきら棒で電話に出る。凱兄さんも凱兄さんで挨拶もなしに開口一番、叫ぶ。

「麗香!りのちゃんが見つかった!」

「本当!どこにいるの、りのは。」

「船の上。」

「船の上?」

 船と聞いて、昔今野の実家がやっているリゾート島にキャンプに行ったときに乗った、漁船のような貧祖な船を麗香は想像した。

「そう、りのちゃんは船に乗っていたんだよ。だからどんなに探しても見つからなかったんだ。まさか船に乗ったなんて思いつかなかったからね、乗船リストにまで検索かけていなかった。」

 世界規模で行方不明のりのの捜索を、凱兄さんに頼んでいた。結局、凱兄さんは黒川君に頼んで世界の出入国管理局へハッキングして探したのだけれど、りのは見つからなかった。りのはフランスから出ていない、もしくは鉄道か車を使って出国しているかだと思われ、その足取りを探すのは中々難しく、時間がかかると言われていた。

「船って・・・」

「レニー・ライン・カンパニーが所有する客船、アジア周遊のパール号だ。」

 麗香はそのパール号の存在を知っている。世界でトップクラスといわれる豪華客船の姿を、テレビで見て知っていた。

 林さんが、残りのケーキが乗ったワゴンを引いて部屋を出ていく。

「どうして、そんな船なんかに?」

「それが・・・そのパール号には、ある人物が乗っていてね。」

「ある人物って?」

「それが・・・その~。」

 歯切れ悪く口籠もる凱兄さん。

「何よ、はっきり言って!」

「レニー・コート・グランド佐竹だ。」

「誰よ、それ。」

「覚えていないかなぁ。ほら、麗香たちが中等部2年の時、夜の学園で・・・」

「夜の学園で?」

「うん、りのちゃんが学園祭のあと美術室で殴られて。」

「あっ!りのを屋上から落とそうとしたあの大男!?」

「違う、違う、そっちじゃなくて、校長室にいた。」

 常翔学園が盗品売買の会場に使われていた、その悪事の黒幕。

「凱兄さん、あの男の名前、教えてくれなかったじゃない、知る必要のない事だと。」

「あぁ、そうだったかな。」

「うちの学園を悪事に使った黒幕が何なのよ。」

「まぁ、あれはもう解決済みで、その後に色々と取引をして、今ではすっかり持ちつ持たれつの関係というか・・。」

「はぁ?何言ってるのよ。」

「まぁとにかく、そのレニー・コート・グランド・佐竹と、りのちゃんは一緒なんだ。」

「どうしてっ!あの悪事の黒幕は、りのを殺そうとしたやつなのよ。」

「それが・・・。」

「まさかりの、また悪事を発見して、それでまた見つかって、黒幕に監禁されてるとか?」

「違う、違う、そんなんじゃなくて。りのちゃんと、レニー・グランド・佐竹は、フランスの大使館で偶然会ったそうなんだ。あのテロが起きた日、りのちゃんは華族会からの緊急招集令を見て、フランスの大使館へ向かった。たまたまビジネスで訪仏していたレニー・グランド・佐竹も、日本の情報を得ようと大使館を訪れていて、そこでりのちゃんが大使館で、日本に帰国したいと喚いていた所をレニー・グランド・佐竹が、情報はいち早く手に入るから一緒に来るかと提案して、それで。」

「りの、日本に帰ってこようとしてくれたのね。」

 目がしらが熱くなった。りのは日本に失望して出て行ったと、もう日本なんて思い出したくもない、帰りたくない、そんな気持ちになっていて、そうさせてしまったのは、自分達、華族である柴崎家の責任だと麗香は思っていた。

「麗香、大丈夫?」

 最後は涙声になってしまった麗香を凱兄さんが心配してくれる。

「うん、大丈夫。今も船に?」

「そう。」

「で、えりの結婚の話、言ってくれた?」

「それはまだ。」

 麗香はうなだれる。凱兄さんは賢いくせに、こういうところに爪が甘い。

「直接まだ話は出来ていないんだ。電話を変わってくれと言ったんだけど、嫌だと。」

「えー。」

「嫌われてるからね、僕は、りのちゃんに。」

(あぁ、納得・・・)










 大きなステンドグラスがはめ込まれた重いドアを引いて屋敷の中に入ると、ちょうどワゴンを押して厨房へと運ぶ林さんが、「すみません。大丈夫でしたか?」と声をかけてきた。普段なら「大丈夫です、お手を煩わせてしまいました。」ぐらい言葉をかけて寛容にほほ笑み返すところなのだけど、あまりにも動揺が過ぎて、林さんに顔を向けることもできなかった。亮は上がり間口に立ち尽くしたまま、宛名の「棄皇」の文字から目が離せないでいた。

(なぜ、あいつが?何を送ってきた?まさか、訴訟の書類とか!?亮が京宮に向かわせ危険な目に合わせた罪を訴えるとか・・・)

 そう考えると鼓動が早くなり、逸る気持ちを抑えきれなくて、レターパックの封を開けた。

 出てきたのは3通の白い小さな封筒。それぞれに楷書で、柴崎麗香様、藤木亮様、新田慎一様とある。

「新田宛てのも?」

 大きさや封筒の色からして、訴訟の書類ではなさそうな事にほっとするが、逆に、じゃぁこれは何なのだと不審さが増す。まして新田のもあるとなると、増々?だ。

 亮は自分の名前が入った封筒を裏返し、のりで厳重に封をされた場所を、無理やり手で開けた。出てきたのは、少し厚みのある横長のカード。

【レニーラインアジアンシップ パール号 乗船チケット】

「なんだ、これ。」

 説明を記載した書簡は何も入っていない。乗船チケットが入っているだけ。

 レニー・ラインのパール号と言えば、世界でも有数な豪華客船で、レニー・ライン・カンパニーは、このアジアを周航するパール号と、ヨーロッパを周航するエメラルド号、アメリカ大陸を周航するダイヤモンド号があり、この3つをトランジェットすれば世界一周の旅ができる。時間と金に余裕がある富豪達に大人気の豪華旅行プランだ。

 そんな豪華客船の乗船チケットを、なぜ棄皇が送ってきたのか?

 やっぱりエイプリールフールの悪いネタにしか思えなかった。チケットのどこかに嘘のロゴ、例えば、レニー・ラインがレニー・ライオンとか、アジアンシップが、アジノヒラキとかになっていないか?くまなく確認したが、そんな陳腐なジョークはどこにもなく、世界周知のLマークは、偽造防止の透かしラメが施されている。

 乗船が台湾で、横浜で下船の7日間のチケットだった。さらによく見て驚いた。

「一等スウィート船室!?」

(まじかよ。)

 一等スウィートは、確か一泊50万円以上はしたはず。それが7日間、大雑把計算で一人350万円。大きさからして、麗香も新田も同じものが中に入っているのは間違いない。

(一体何の目的があって、棄皇は、こんな高価なチケットを送り付けて来たんだ?)

 新手の詐欺?











「えりが結婚するって伝えて貰えばよかったじゃない。そしたら流石に電話口に出たわよ。」

「うーん。そうだね。でもそう言うの、僕から言っていいの?」

「あぁ、まぁ、そうねぇ・・・携帯は?新しい携帯の番号を教えてもらった?」

「あぁ、忘れてた。」

「ええ!?」

「教えてくれないよ。絶対、僕、嫌われてるから。」

「そういう問題じゃないでしょう!華選同志の連絡義務があるでしょう!」

「うーん。それもねぇ。今回の騒動で、どうなるかわからないから。」

「どうなるかわからないって・・・」

 世間では華族階級の改正が叫ばれている。確かに、制度をなくしてしまえという意見が多い。でもそうすると、テロリストたちの思うつぼ。

 変な間が開いて、部屋のドアも開いた。珍しくノックもせずに入ってくる藤木。麗香は、携帯電話を口元から放し叫んだ。

「りのの、居場所がわかったわよ!凱兄さんから!」

 麗香の叫びに藤木は顔を上げると、驚愕に眉を寄せた。

「その電話、代わって!」

 駆けつけ、麗香の手から携帯電話を乱暴に奪う藤木は、自身が持っていた白い封筒を麗香に押し付けて来る。

「な、何?」

「藤木です。」

『あぁ、藤木君お疲れ様、今日の就任式はどうだった?文香さん喜んでいただろう』

 スピーカー機能ボタンに触れてしまったようだ、会話は麗香にも聞こえて、藤木はその機能を消さずに会話を続ける。

「凱さん、そんなことより、キオウからレニーの豪華客船パール号の乗船チケットが送られてきたんです。これはいったいどういう事なんです?」

「パール号の乗船チケット!?」と叫んだ麗香に、藤木は封筒を指さし、「開けて」と口の形だけで伝えて来る。

『パール号の乗船チケット!?』

「そうです。4月4日、台湾出航の4月12日横浜着。」

 麗香は渡された3つの封筒を見る。一つは亮宛で、既に手でちぎって開けられている。残り二つが麗香宛と新田宛だった。麗香も手でちぎって開ける。麗香宛の封筒もレニー・ライン・アジアンシップ パール号の乗船チケットだった。

『それ、りのちゃんが乗っている船だ。』

「えっ!りのちゃん!?」

『さっき麗香にも話したんだけどね。りのちゃん、そのパール号に乗っていたんだよ。あのテロが起きた翌日にドバイから。』

 藤木は眉間と目尻の皺を濃くして、耳に挟みながら、麗香の手から新田の名前が記されているもう一つの封筒を奪い、手で強引に開けた。几帳面な藤木がハサミもナイフも使わずに封筒を開けるなど、そして、何より他人の親書封筒を、勝手に開ける無作法にも驚くけれど、その逸る気持ちは理解できた。

「ずっと?」

『そう。盲点だったよ。まさか船だなんて思ってもいなかったから。』

「どうして船なんかに?」

『それもさっき麗香に話したんだけどね。あのテロが起きた日、りのちゃんは華族会からの緊急招集令を見て、フランスの大使館へ向い、そこで、レニー・グランド・佐竹と偶然に出会って、アジア周航ビジネスに一緒に行動することになったと、あーレニー・グランド・佐竹って知ってる?世界の、』

「昨年、レニー・ライン・アジア大陸支部の代表に就任したレニー・コート・グランド佐竹ですね。」

『おお、さすが、経済学部出身の藤木君、麗香はそれ誰だって知らないし、おまけに悪人だってののしるし・・』

(レニー・ライン・アジアの大陸支部代表ですって、あの悪人が!?)

「あの時の人ですよね。常翔学園を勝手に盗品売買のオークション会場にして、それを知ってしまったりのちゃんを。」

(そうよ、あの悪人、ニコニコしながら、とんでもなく悪い事していたんだから。)

『うーん。あれはもう、解決していることなんだけど、レニー・グランド・佐竹は覚えていたんだ。だから、一緒に来るかと誘って。』

「りのちゃん、大丈夫なんですか。」

『まぁ、ゲストとして扱われている間は・・』

「なんです?ゲストじゃなくなったら、大丈夫じゃないってことですか?」

『いや、ならない。ならない。ゲストだからりのちゃんは。』

 藤木は眉間の濃くし、私と目が合うと深く息を吐いてから、会話を続けた。

「新田宛ての封筒も開けましたが、やっぱり同じ、パール号の乗船チケットです。チケットだけで、手紙のような物は何も、送り主のところに【棄皇】と名があるだけで、でもどうしてキオウは、そのりのちゃんが乗っている船のチケットを、俺らに送ってくるのですか?」

『それは・・・どこまで話していいのか独断できない。聞いてからまた連絡するよ。』

「わかりました。」

 携帯電話を返してくる藤木は、もう一度、深く吐いた。

「これを送ってきたキオウって・・・」

 麗香は改めて白い封筒を裏返して、送り主を確認した。左隅に「棄皇」と楷書で記されている。

 棄てる皇と書いてキオウ・・・

「弥神君の事ね。」藤木は、無言で小さく頭を振り肯定する。

「どうして弥神君が?」

「それは、まだわからない。」

「もしかして、二人はこの船に一緒に乗って?」

 藤木の顔が、また険しく眉間と目じりの皺が濃くなった。

「・・・わからない。」

 また、何かが起こる。そんな予感は決して言葉にできない。してはいけない。

 言葉は発した言葉通りの力を持つと言われているから。








「話さなくて本当によかったのか?」

「いいの。」

「心配していたぞ。」

「お世話様だわ。」

「まさか、誰にも連絡してなかったとはね。」

「携帯の電池がなくなったの、番号は覚えてないもの、取りようがないわ。」

「言ってくれれば、アダプターぐらい用意したものを。」

「いいの、私と繋がる人は、もういらないから。」

 ミスターグランドは苦笑して、それ以上何も言わず、紅茶の入ったカップを手に取り、口にした。凱さんからミスターグランドに電話があり、私がここに居る事がばれた。柴崎家の支援をやっと止められて、フランスに移住したことを機に、凱さんとはもう連絡を断とうと思っていたのに。よりによって、ミスターグランドと一緒に居る時にバレるなんて・・嫌がらせだわ。棄皇が知らせたに違いない。

 その棄皇は、ミスターグランドと一緒にフィリピンで下船してから、一度も戻って来ない。棄皇の居ない船は快適だった。読みたい本を存分に読み、気の向くまま船内を散歩して、船の従業員とおしゃべり。フィリピン停泊の3日間は、優雅に過ぎ、あと5分で出航する時間となった。次の寄港先は台湾。そして、その次は終着港の横浜だ。

「ミスターグランド、お願い。」

「なんだね。」

(ずっと、あなたの側に居させて。)

 そう言いたかったのに、扉のセキュリティーが認証する音に邪魔される。

 そして、棄皇が部屋に現れた。

中「遅くなりました。」

中「乗り遅れるかと、心配したぞ。」

中「すみません、いろいろと手間取りました。」

中「で、進捗は?」

中「はい、今週中には。」

中「わかった。ご苦労であった。」

 ミスターに頭を下げた後、こちらに顔を向けた棄皇を、私は睨んだ。

「勝手なことしないで。」

「何のことだ。」

「とぼけないでよ、私がここに居る事を凱さんに言ったでしょう!」

「言ってない。」

「この中で知らせるとしたら、あなたしかいないのよ!嘘つくなんてくだらなすぎるわ!」

「そうだ。くだらない。誰かのせいにしたいのなら、それで構わない。」

 棄皇は頭を動かさず、視線だけを私から外した。

「過去にどんな恋情事があったのが知らないが、そう喧騒しなさんな。」と笑うミスター。

「どこまでミスターに言ったの!」

(嘘でしょう。私たちの関係を言うなんて。)

 ミスターは楽しそうな微笑みをして紅茶を飲む。

 顔が火照るほどに腹が立ち、堪らず、私は棄皇に向かって手を挙げた。

「最低!」

 横っ面を叩こうとした私の手を、ノールックで掴まれ阻止される。

「女に殴らせるほど、我は寛容じゃない。」

「ふはははは、羨ましい若さだな。」

 掴まれた手を、振りほどくしか抵抗できない自分の非力さが憎い。















 桜の木に茶色い花弁が目立ち始めた4月1日の夜遅く、慎一は柴崎邸に呼ばれた。一年以上ぶりに顔を合わせる凱さんと会い、藤木と柴崎から、慎一宛にも送られてきたパール号の乗船チケットの意味と、りの現状を知らされた。そして、チケットを送ってきた弥神の現状をも知ることに。弥神皇生は、約3年前よりレニー・ライン・カンパニーの情報部所属のレニー・グランド・佐竹専属の諜報員として、今、りのと一緒に豪華客船パール号に乗船している。

 過去に、りのを殺そうとした人間が二人、共にりのの側にいて、りのは船を降りないと言っている。その理解しがたい状況に、慎一の眉間は、もう元には戻らないと思うほどに険しく皺が寄った。

 それから4日後、慎一たちは、弥神から送られてきたチケットを持って、台湾高雄国際空港に降り立つ。空港という場所柄、英語主流で対応している職員が多いが、中国鈍りがきつく、英語に馴染んだ慎一でもヒアリングに苦労しながらの出国手続きをする。パール号が停泊している高雄港へは、台湾高雄国際空港から車で30分ほどの距離。

「いいか、絶対に弥神と呼ぶなよ。」

「わかったって。」

「麗香も。」

「ええ、わかってる。」

 預けた荷物が出てくのを待っている間、藤木は真剣な顔で慎一たちに念を押す。

「悪いね~。色々と気を遣わせちゃうね。」と、その要求を最初に言いだした張本人は、至極締まりのない緩い顔。 そんな凱さんに、藤木はため息を吐きながら首を振る。

 弥神の素性はずっと隠されていた。しかし、テロ事件で双燕新皇の顔が頻繁にテレビに映された事で、レニー・グランド・佐竹は、自分の部下が神皇家の者だと気づいたらしいが、弥神本人と凱さんは、まだその素性を肯定はしておらず、できる事ならまだうやむやのままにしておきたいとのこと。レニー・ライン・アジアの情報部は、黒川君と同じVID脳を持つハッカーを数人抱えているので、弥神と言う名から、沢山の事を探られたくないとの、凱さんからの願いだった。

(だったら弥神は何故、自身の素性がバレるリスクを高めるような行為、慎一たちを船に招待したのだ?) との疑問は、弥神と凱さんの間で、立場や考えに食い違いが起きていて困っていると、凱さんは嘆く。

 中々出てこないスーツケースを、凱さんと柴崎がコンテナゲートの出口へと見に行った。慎一は、二人が近くに居ないこのタイミングを見計らって藤木に聞く。

「なぁ、藤木、お前が何故、棄皇の素性隠しにそう、躍起になるんだ?」

 藤木は、弥神の過去7年間を含む現状を知っても驚きもせず、逆に凱さんの願いに積極的に厳守する姿勢を見せた。それが慎一には不思議に思えた。

「当たり前だろう。棄皇の素性を守ることは、日本を守ることと同じ。」

「大げさな。大体、素性が知れて困るような事をしたのはあいつだ。勝手なことをして勝手に国を出て行った奴を、何故俺たちが必至で守らなきゃならない?納得できないよ。」

「納得できなくても、あいつは神皇家の者。俺は日本国民としての責務をはたしているだけだ。」

「その国民を蔑ろにしたのはあいつだ。」

 藤木は目じりの皺を濃くして目を細めると、嫌そうに慎一から視線を外した。

「やめろよ。過去の憎しみを現状に持ち込んでどうする。二人が過去にした事と現状は無関係、逆に知れてりのちゃんが困るような事になりかねない。別で考えろよ。」

 弥神が、りのの事を案じて船から降ろしたい考えであると聞いても、それを無邪気にそうですかと信じて、協力しますとは慎一は言えない。過去の事は別でなんて考えられるはずもない。

 弥神はりのを刺した。その現場に遭遇した慎一は、弥神が罪に問われる事のない神皇家の継嗣であると知っても、納得などできない。運よくりのは死ななかったが、血まみれの包丁を持った弥神は、完全なる殺人未遂犯だ。

 今も尚、思い出せば震えがくるあの光景。

何故あの時、自分は弥神に仕返しをしなかったのか。当時よりも、時が経つほどにその後悔は大きくなっている。弥神の顔を殴る事すらもできなかった当時の自分を、繰り返し悔やみ貶してきた。藤木のように、あれはあれ、これはこれなど、淡泊に意識の壁を作ることなどできない。

蘇る憎しみに、食いしばる口から音が漏れた。そんな慎一を、目を細めて読み取っていた藤木は、深くため息を吐いた。そしてつぶやくように話し始める。

「俺は、最近になって7年前のあれは、棄皇が刺したんじゃないかもしれないと思い始めた。」

「はぁ!?何言ってんだ。」

 思わず声を荒げてしまった慎一に畳みかけるように話を続ける藤木。

「その場面を見たわけじゃない。」

「俺は見た。」

「刺した所を見たのか?」

「奴は、血まみれの包丁持って、りのが倒れている前で突っ立っていたんだっ。」

「血まみれの包丁持って、立っていただけ。」

「だけって、お前っ。」

「刺した瞬間を誰も見ていない。」

「そ、そうだけど。だけど奴が刺さずに誰が刺したっていうんだよ。事故だとでもいうのかっ、あの状況で。」

「・・・・」藤木は慎一から視線を外して、口を固く結んだ。

 柴崎家の手伝いをするようになって、人には言えない事を沢山知ったかもしれない。弥神を保護する華族側の思考に染まって擁護する気持ちが生まれた。そんな藤木の気持ちの移り変わりを含んで気持ちを譲渡しても、これはあんまりだ。

「なんだよ、それ・・・」見損なった。の言葉は喉元で抑え込んだ。

 視線をはずしたまま何も言わない藤木に愛想をつかして、慎一も荷物の様子を見に行くことにする。

「お前は、知らないんだよ、あいつの孤独を・・・」

(孤独?)

 だからって、りのを刺していい理由なんかない。












 繰り返される、乗船してくる客のお出迎え。それも、もうこの台湾を終えれば残すところ横浜での出迎えで終わり、その次の最終港の香港では全客が下船し、この船は半月かけて整備と清掃を施してから、またアジアを周航する旅に出る。

棄皇は、私を次の横浜で降ろしたがっているけれど、絶対に降りない。私はミスターグランドと一緒に香港まで行く。香港にはレニー・ライン・カンパニー・アジアの大陸本部がある。そこで正式にミスターの秘書として入れてもらうよう、打診をするわ。

航路日程が残り少ないこともあって、乗船してくるvipは少なくなった。それでも台湾随一の機械メーカーの社長や経済連の会長、台湾の経済を牛耳るトップ人達が、ミスターグランドの招待で乗船してきた。毎度のごとく、私はミスターグランドの知人の経済学を学ぶ学生で、卒業論文のレポートの為に随行している設定で、紹介されたvipと握手を交わす。

停泊する度にアジア人の比率が多くなってくる中、長身のクレメンティと同じぐらいのラテン系の男性が、周囲の乗客の頭ひとつを飛び越えて、ミスターに手を振った。

ポ「やー、グランド!この日を待っていたよ!」

 ミスターグランドは苦笑して、首を振る。

ポ「私は、あまり待ち望んでなかったがね。」

 その男性は大股で小さいアジア人をかき分け、ミスターの手を掴んで肩を叩く。やたらとフレンドリーだ。

ポ「何を言ってるんだよ。アジア代表に就任してから初に会うんだぜ。」

 ラテン系特有のテンションも声も高く、顔の彫が深くて、ひげも濃い。

ポ「やー、クレメンティも久しぶりだ。」

ポ「お久しぶりです、ネルソン・アデミール・フランシスカ・ドス・エレナ・パトリシオさん。」クレメンティが丁寧に頭を下げるのにも、フレンドリーだ。

ポ「やめてくれよ、長いフルネームは。」

ポ「これが私の特技でして。」

ポ「だったな、このやり取り何回目だ。あはははは。」

 頭上で繰り広げられる挨拶の応酬、このままだと私の存在すらも飛び越えられてしまう。

英「ミスターグランド、この方は?」

英「こいつは、覚える必要もないぞ。」

英「なんだ、お前は冷たいな・・・・お前、子供いたのか?」

英「知人の子だ。学業レポートの為に同行している。」

英「はじめまして、り」

 そのポルトガル語を話すラテン人は突然、私を覆いかぶさるようにハグをしてくる。

英「おお、そうか、それは大歓迎だ。」

英「お前の船ではないだろうに。図々しい。」

英「ネルソンだ。よろしく、小さなお嬢さん。」そう言って片膝をつき、私の手の甲にキスをする。

 禁句の「小さい」を言われたが、その紳士的な振る舞いが、怒りを帳消しにした。

英「真辺りのです。後ほど、ゆっくりお話しをさせてください。」

英「もちろんだとも!」

英「やめておけ、こいつからは何も得るものはない。」

英「何を言ってるのだ。今日は、お前に就任祝いを持ってきたんだぞ。」

英「少しは声のトーンを落とせ、迷惑だ。」

ポ「今日はな・・・」

 ポルトガル語に戻したネルソンさんはミスターの肩を組んで、何やらこそこそとロビー奥の隅へと移動した。

 それまで、船の入り口近くで周囲に顔を巡らせていた棄皇も移動して、飾り階段の段差の上に上って、また再び周囲を見渡した。暗殺事件後から、しばらく着ていなかった中国の民族衣装をまた着ている。黒くて広い袖のカンフー映画に出てきそうなその姿は、ぱっと見は日本人じゃない。見渡していた棄皇と目が合いそうになって慌てて背けた。

英「ねぇ、クレメンティ、ネルソンさんは何をしている人?ミスターととても親しげだわ。」

英「ネルソン・アデミールさんは、ミスターグランドのご学友だとお聞きしています。ネルソンさんは美術商人でいらっしゃいまして。アジア大陸支部に飾ってある何点かの絵画は、ネルソンさんから購入したものです。」

英「そうなんだ。じゃ、ネルソンさんとお話をするには、もっと美術の知識を入れないとだめってことね。」

英「それはあまり必要ないかと、女性との会話に、ビジネスは入れない方ですから。」

英「そうなの?」

英「はい、あの調子ですからね。ミスりのの相槌も追い付かないほどに会話は進みますよ。」

英「それは楽しそうだわ。」

 フランクなミスターグランドを見るのも初めてで、本当に楽しみに思えた。

英「おや、カイトじゃないですか。」

 クレメンティのその言葉に振り返った。

 少し考えればそれは予測できた事、この船に私が乗っているのを知られてしまったから、様子を見に来たに違いない。

 しかし、その凱さんの後ろから、一緒にタラップを登って船に入ってくる3人の事は、予測していなかった。

英「どうして・・・」

 目が合った。慎一と、藤木、そして麗香と。

(そんな、3人を連れてくるなんて。)

英「久しぶり、カイト・シバサキ、乗船してくるとは知らなかった。」

 クレメンティが、凱さんに出向いて握手をする。

英「急だったんでね。クレメンティ、日本の事では、色々と世話になった。」

 凱さんはクレメンティとの挨拶を終えると、私に顔を落とす。

英「りのちゃん、良かった、元気そうで。」

英「凱さん、どうして。」

英「これはね、僕じゃなくて・・・」そう言って顔を向けた先を追えば、棄皇が立っている。

「りの・・・」

 慎一の声、藤木の視線、麗香の吐息に、私は耐えられず、背を向けて階段へと駆け出した。二段駆け上った手すり越しに棄皇を睨みつけた。棄皇は澄ましたまま、私を見ようともせず、言葉を発する。

「素直に迎えの手を取れ。」

「卑怯者!」

 何もかもが卑怯、私の顔を見ないのも、自分ではできない事を慎一たちに託したのも。

(ひどい、私の楽しみをつぶそうとするなんて。)











 佐々木さんが見せてくれた雑誌の写真より伸びた髪を揺らして、慎一達から逃げるように駆けていくりの。その後ろ姿を、慎一はただ見つめるしかできなかった。

 約7年ぶりに見るりのは、記憶よりも写真よりもずっと大人の雰囲気で、白いブラウスに黒いタイトスカートは、ここのフロント業をしている様だった。昔、散々嫌がっていたハイヒールも履きこなしていて、躓くことなく階段を駆けていく。そんなりのの姿を、冷たい視線で追って戻した弥神と目があった。

(何故、りのを刺した。何故、りのと一緒にいる。何故、俺たちを呼んだ。)

 それらの疑問を突きつけるように、慎一は弥神を睨んだ。弥神は再燃した慎一の怒りを片目でとらえ、わずかに目を細めてからゆっくりと視線を外す。変わらない傲慢な態度が、慎一の怒りを再沸騰させる。

(神皇家の継嗣だから、ただそれだけで許されたあいつを、俺は決して許さない。)

英「あれ?もしかして、アイルランドノッティンガムACの新田慎一さんじゃないですか?」

 凱さんと握手を交わした金髪の外国人が、慎一を視認し、握手の手を差し出してくる。

英「はい。」

英「こんなところで有名なサッカー選手にお会いできるとは、感激です。あれ?カイの知り合い?もしかして、ミスりのとも?」

英「そう、その有名なサッカー選手、新田慎一君は、りのちゃんと子供の頃からの友達でね、共に常翔学園の生徒だったんだよ。」

英「おぉ、そうでしたか。」

「皆に紹介しておこう、レニー・グランド・佐竹の秘書をしているクレメンティだ。」

 肝心のレニー・グランド・佐竹は見当たらない。

英「クレメンティ・ラビン・ロマノフです。ようこそパール号へお越しくださいました。」

 慎一より数センチは高いクレメンティという人は、背筋を伸ばし礼儀正しく挨拶をする。好印象だが、レニー・グランド・佐竹の秘書をしていると聞けば、好印象の動作は悪事を隠すための演技かと訝しむ。

英「新田慎一です。」

 改めて、握手を交わす。その好印象の微笑は、とても演技とは思えず自然だった。

英「同じく友達の、藤木亮君。」

英「藤木亮です。」

英「そして、僕の従妹の麗香、も、りのちゃんと友達でね。」

英「柴崎麗香です。」

英「お名前は、存じていました。テロ当時、ミスりのがとても心配しておりました。大変な目に合われましたね。お身体は大丈夫ですか?」

 クレメンティさんは、柴崎の握手の手を両手で包み込み、慎一達に向けた微笑よりずっと優しい笑顔を向けた。とても、りのを殺せと命じる人間の秘書をやっているとは思えない。いや、この笑顔に騙されてはいけないのかもしれない。レニー・グランド・佐竹もまた、あの夜のあの時、ずっと笑っていた。

英「えぇ、大丈夫です。」

英「どうぞ、このパール号でゆっくり、お体を癒してくださいませ。」

 豪奢な調度品がきらめくパール号、対応する従業員も一流で紳士、そんな中でりのは一か月以上を過ごしてきた。

どう見繕っても、場違い感満載の慎一。だから、りのは慎一から背を向けて逃げて行った。

世界が認めるサッカー選手にまだなっていない自分は、りのと会う資格などない

『新田慎一、その名が世界を駆ける事を願っている』と6年前にりのから渡された栄治おじさんの形見のキーホルダーを、慎一はポケットにいつも忍ばせている。

 慎一はそれを、そっと握りしめた。











 乗船手続きを済ませ、中央のエレベーターへと向かう。凱兄さんがフロントでベルマンを断った。凱兄さんがレニー・ライン・カンパニーのロゴが付いたカードをフロントで提示し、自分が案内するから大丈夫だと言ったために、新田と藤木は重いスーツケースを自力で運ぶ羽目になり、文句を言った麗香のは凱兄さんが運ぶ。凱兄さんは賢いくせに、こういう所は気が利かなくて爪が甘い。

 二基並んだエレベーター前は待合スペースのようになっていて、円形のスツールが点在している。天を仰げば吹き抜けに大きな透明のエレベーターが上下するのが見える。レニー・ラインが所有する3船共通して眼玉となっているスケルトン様式のエレベーターは、ライトアップされて、上昇、下降の動きに合わせて色が変化する。まる遊園地のアトラクションのように派手だ。

入り口付近に立っていたら、スカートの中が見えちゃうんじゃないかしらと不安になりながら麗香は乗った。

「この船は通常の階層概念と違うからね、気をつけてよ。」と凱兄さんは、階層ボタンの上に書かれた簡易図を指さす。「最上階が1だからね。上から数えていく。最下層が12階で、さっきのフロント階が6階、君たちの部屋は4階だから。」

 すぐにエレベーターは止まり、乗り込んだ側とは反対側の面も扉になっていて、そちらが開いた。出るとまっすぐ通路が船尾方向へと抜けている。吸い込まれるように、そちらへ向かおうとすると凱兄さんにこっちだと呼び止められる。Uターンするようにエレベーターを回り込むと、吹き抜けで乗船手続をした6階のフロント階まで見下ろせる。フロント階の横にあった、りのが駆け上がって行った階段は5階で左右に分かれて、その階層から上へエレベーターを囲みながら上階へ、見上げて階層を数えれば、1階までぐるりと上っていけるようになっている。

「麗香、落ちないように気を付けてよ。」

 乗り出すようにして階下を見下ろしていた麗香を、凱兄さんはまるで子供に注意するように笑う。

「凱さんは麗香と相部屋ですか?」

 藤木が、すまし顔で恐ろしい事を言う。

「あー、そうだね。それでもよかったね。」

「うそ、そんなの絶対嫌よ。」

 凱兄さんに運ばせている自分のスーツケースと部屋のカードキーを奪った。

「凱兄さんと同じ部屋なら、私、帰るわ。」

「そこまで嫌がらなくても・・・麗香がおむつしていた頃から知ってる兄弟みたいなもんなのに。」

「やめて!」

 睨んでも効き目なくへらへらしている凱兄さん。

「僕はオーナー部屋に居候するよ。部屋は埋まっているけれど、大きなソファがいくつもあるからね。寝る場所には困らない。」

「オーナー部屋?」

 新田が聞き返す。

「部屋で説明しようかと思っていたけれど、ちょうどいいや、あそこの船内図で説明しようか。」

 凱兄さんが指さした所は、ちょうどぐるりと回っている階段の上がり間口の壁、4-DLと書かれた下に船内の平面図がある。エレベーター内に書かれたのよりずっと詳しい。

「さっきも言った通り、最上階が1階ね。船は6ブロックに分かれていて船頭からAからFまで。」

「だから、ここは4-Dなんですね。」

 藤木が口を挟む

「そう、これは、ここは4階層のDエリアってことを示している。要所の壁に、このナンバリングがされているから、迷ったらこれを見るといいよ。そしてDの横のアルファベットは、船の左側、右側を表しているからね。はい、じゃぁLは左右どっち?」

 とまるで小学生にでも教えているように、無駄にニコニコ顔をする凱兄さん。麗香たちはうなだれ、ため息を吐いた。

「もう、馬鹿にしないで、左よ。」

「正解っ!」

 空気を読めない凱兄さんの講義は続く。

「進行方向、つまり船頭に向かって左側がL右がR。じゃ中央は?」

「センターのC。」

 新田が面倒くさそうに答える。

「ブー、不正解。」

 待ってました感満載の、嬉しそうな顔をする凱兄さん。

「正解はミドルのM。客船はヨーロッパ発祥の乗り物だからね、イギリス英語に基づくんだね。」

「で、凱兄さんは最上階のオーナー部屋で寝泊まりするって?」

「そう。この1階層は、BCエリアのここにしかない。」

 凱兄さんは12層に描かれた船内図の上部を丸く囲み指さす。船は上に行くほどエリアが狭くなり、1階層は凱兄さんが指さしたBCエリアしかない。

「ここはこの船の所有者しか利用できないオーナー室と呼ばれているところでね。ここはビジネスができるレセプションルームに個室が4つ備わっている。」

「オーナーって・・・。」

「この船は、レニー・ライン・カンパニー・アジア大陸支部が持つ船。だからオーナーは大陸支部代表のレニー・コート・グランド・佐竹氏。そしてりのちゃんもそこに居る。」

「あいつ、弥神もか?」吐き捨てるようにつぶやく新田に、

「ちゃんと守れよ。」藤木が注意する。

「そう、棄皇も、佐竹とさっき紹介したクレメンティの4人で部屋は満室だけどね。この図を見てもわかるだろう。1フロアの大きさを。約1.5フロアを占有して作られたオーナー部屋だよ。僕一人レセプションルームのソファを独占しても問題ないぐらい広い。これまた寝心地のいいソファなんだ。」

「凱兄さん。そのソファで寝たことあるの?」

「うん、あるよ。あれ?言ってなかった?」と首を傾げる凱兄さん。「僕、この船に一か月間、監禁されたから。」

「監禁!?いつ?」

「凱さん、不安を冗長する言葉は控えてください。」と藤木。

「あぁ、ごめん、ごめん。部屋に行こうか、部屋にはもっと詳しいマップや施設が書かれたブックがあるからね。」

藤木の制止で麗香の質問は破棄され、部屋へと促される。











 クレメンティは、柴崎凱斗が乗船してきたことによって生じた問題点を話しながら、レセプションルームの壁に設置されたコントロールパネルで照明をつけ、BGMをつけた。外から帰って来た時のクレメンティの手順だ。部屋の環境設定を終えると、中央に置かれたデスクのパソコンの電源を入れ、頭目の為に椅子を引き、そして自分のデスクに着く。

 そして我もまた、部屋に不審者がいないか、侵入した形跡がないかを確認するために、窓を見回る。清掃を入れた日は、個々の部屋まで見回るのだが、その日ではない今日は、簡単に済ます。

英「バスルームだけ借りたいと言うのですが、棄皇の部屋がツインですから、相部屋にすればと提案したのですが、ソファで寝るのが好きだと申されまして。」

英「ははは、好きにさせてやれ。」

英「ですが、ベッドが空いているのに・・・」とクレメンティは我の方へと意見を促すようにと顔を向けてくる。我は無視をして、代わりに頭目が答える。

英「奴は奴なりの心情があるのだろう。いや、身上か? なぁ、棄皇。」

 茶化すような笑いで、我の反応に探りを入れてきている。あえて返事をしなかった。

 りのが部屋から出てきて、レセプションルームに現れた。

英「あ、あの・・・ごめんなさい。やるべきことを放棄してしまって。」

英「謝る必要はない。ミスりの、君はゲストだ。どうしようと自由。」

 頭目は優雅にデスクに座る。

英「船を降りるのも、留まるのも。」

英「ミスター!」

 船を降りたくないりのは焦り、頭目は言語を変えた。

「いつかのように、お友達が迎えに来てくれたようだな。」

「私は、頼んでないわ。この人が勝手に。」

 頭目が座るデスクを挟んで、敵対するように我に睨んでくるりの。

「ゲストをいつまでも拘束させておくのは失礼かと。」

「黙って!」りのが怒る。

「それも、そうだ。」

「ミスター!お願いします。私を船から降ろさないで、なんでもするわ。」

「りのには帰る場所があります。」

「ないわ!帰る場所なんてない!」

 頭目は微笑して、我とりのを見比べただけで、何も言わない。

りのが続けて何かを言いかけた時、レセプションルームに入室の認証番号を告げる声が響く。

【お帰りなさい、シバサキ・カイト様】

 柴崎凱斗が、新田ら3人を部屋へと案内し終えたようだ。頭目とクレメティを含めて我ら4人が揃うのは1年ぶりになる。

レセプションルームに入って来た柴崎凱斗は、頭目に軽く頭を下げてから、りのの顔をのぞいた。

「りのちゃん、久しぶり。」

 りのは、そっぽを向いて何も答えない。それを頭目が笑う。

「柴崎凱斗、部屋を使わないのは、ミスりのにプレッシャーを与える戦略か?」

「えっ?いや、そういうわけじゃ・・・」

「ミスりの、君が船から降りなければ柴崎凱斗は、ベッドを使うことができずソファで寝ることになる。」

「知らないわ、そんなの。私はゲストなんでしょう。ゲストを無下に船から降ろすなんて不躾をするの?」

「それも、そうだ。そんな失礼は、私のセオリーに反する。」

「りのは、頭目が側に置いてきた女性らに及びません。」

 頭目が呼び寄せるマルコス・エンゲルス学校からの女は、容姿端麗の才女ばかりだ、りのの足元にも及ばず、背も高い。

「そんなことはないわ。ミスターは、私の知識、語学を評価してくれている。褒めてくれたわ。ねぇ、そうでしょう。ミスターグランド。」

 頭目はそれには答えず、微笑んだまま。

「頭目は常に一流の女性をそばに置かれる。知識・語学だけのりのでは役不足。」

「私の知識と語学は、ナタリーを超えたのよ。ナタリー・ポートマンが持ち合わせなかった知識とナタリー・ポートマンよりも沢山の言語を話せる私は、ロスチャイルド家の婦人、ミセスイザベラも認めたのよ。」

「では、なぜナタリー・ポートマンが去った後、ゲストのままでいる?」

「それは・・・」

 答えを求めるように、りのは頭目へと視線を移す。

 頭目は一呼吸すると、テーブルに肘を乗せて手を組み、十分に間をおいた。

「ゲストのままにしていた事に意図はないが、一か月前、フランスの日本大使館でミスりのに声をかけたのは、確固たる意図があっての事。」

 言葉を切り見上げた頭目は、柴崎凱斗へと視線を止める。

「わかっているな。柴崎凱斗。」

 柴崎凱斗は、渋い顔をして、ゆっくりとうなずく。

ポ「ミスりのは、女としては役不足だが、お前に対する切り札になりうる。」

 頭目はまた言語を変えた。それまで日本語がわからずに話に加わってこなかったクレメンティが驚愕に顔を上げた。

ボ「と算段したのだが、まさか、棄皇にまでも効果ある札となるとはな。」

 顔をほころばせて、ついには声に出して笑った頭目。

 りのは、わからない言葉で交わされる状況に戸惑い、顔をしかめる。

ポ「棄皇は、ミスりのを船から降ろす為に、利用価値ある自身の素性を明かす事を提示した。」

 分からない言語の中に我の名をかろうじて聞き分ける。おそらく、我が取引した事を言っているのだろう。

ポ「さぁ、柴崎凱斗、お前はどうする?」

ポ「これまで、受け取っていなかった報酬を受け取り、正式にレニー・ライン・カンパニー・アジア支部代表、レニー・コート・グランド・佐竹様の臣下として身を置く事を約束します。」

「よかろう。」頭目は椅子から立ち上がり、言語を戻した。「ミスりの、社会勉強は終わりだ。次の横浜で降りるか、それとも私と香港まで来るか。決定権は君にある。」

「もちろん、香港まで。」

 即答するりのをさえぎり、威圧する頭目。

「よく思慮して決めることだ。私は裏切りに容赦しない。」

 笑みを消し去った頭目の表情に、りのは驚愕して目を見張る。











 開けていた窓から、風と共にバンドの演奏が聞こえて来くる。船の振動がさっきよりも大きくなった。待機運転から本格的な運転に切り替わったのだろう。港や甲板からのざわつきも大きくなった気がする。

 一人で寝るには大きすぎるクイーンのダブルベッドから腰を浮かして、風で揺れる窓へと麗香は移動した。

 弥神君から送られてきた乗船チケットの部屋は、一等船室のダブルの部屋。屋敷の部屋によく似たヨーロッパ調のインテリアだけど、壁に飾られた絵画や、ベッドスローの模様が品よくアジアンテイストが織り込まれている。そしてベッドの反対側の壁に設置されたドレッサーに置かれた花瓶に大きな牡丹の花が活けられていて、より一層にアジアンテイストを強調していた。

 天上のスピーカーから女性の声で英語のアナウンスが流れ、続いて中国語が続く。おそらく同じ案内だろう。聞き取れない英単語もあったが、もうすぐ出港する旨の知らせであるのを理解した。ベランダの桟を跨ぐ。痛いほどのまぶしさ。湿気の含む風は心地いいとは言えないけれど、出港日和だ。そんな言葉あるのかどうかはわからないけれど。

「暑いな。」

 麗香に続いてベランダに出て来た藤木は、そうって言ってまぶしそうに空を仰いだ。

「上着、脱いだら?」

「あぁ。」

 と返事をしたものの、きっちり結んでいたネクタイを少し緩めただけで、脱ごうとはしない。

 藤木と新田は、自身の部屋に荷物を運び終えると、麗香の部屋に集まってきていた。

 新田はロビーでりのと会ってから、口数が少ない。ソファに座って出港のアナウンスにも無反応に、置かれていた船の設備案内のファイルをめくって熟読している。客室のスピーカーから男の人のアナウンスが聞こえてきた。ちゃんと意識を集中しないと、何を言っているかは理解できない。麗香の英語力はその程度、今やイングランドのサッカーチームに入団して移住した新田の方が、今や英語力は上だ。

 英語に続いてまたもや中国語でアナウンスされたのは、機長の挨拶だった。いよいよ出港。バンドの演奏がひときわ大きくなった。

 そして、銅鑼が鳴る。汽笛が人々の喧騒をかき消すぐらいに響き渡った。

「やっと、出港だな。」

 藤木が腕時計を確認する。

 待ちくたびれた感は麗香も同じ。この港に着いたのが昼の一時だった。出港は3時。

「りの、雰囲気、変わっていたわね。」

 佐々木さんから見せてもらった写真も、昔の記憶より大人っぽくなったと感じたけれど、今日のりのは、それよりもずっと大人感がアップして輝いていた。化粧もしっかりしていて、黒いタイトスカートから覗く足は、キラキラと光る花柄のラメが入っていた。

「昔は、ヒールを履くのも嫌がっていたのに。」

 麗香のつぶやきに、藤木は相槌もしないでただ海を眺めている。

 ゆっくり船が動き出した。麗香の部屋は海側だから、港の様子はここからじゃわからない。音だけが回り込んで聞こえてくる。藤木達の部屋は、4-L-10のツインの部屋で接岸面だから、彼らの部屋だったら港の様子が見られたのだが。誰かの見送りがあるわけでもないので、今更移動する気にはならなかった。

「豪華客船なんて、もっと年を取ってから乗るものと思ってたわ。」

「俺も。」藤木はベランダの柵をひじ掛けにして向く。

 藤木には仕事以外の時は、主従関係をなくして敬語は使わないように約束させてある。この、りのを迎えに行く旅は、柴崎家とは関係のない事なので、藤木は普段より言葉使いも態度もラフに、昔に戻ったようだった。

「豪華客船なんて、コストパホーマンスとしては最低の移動手段だ。」

「ここの乗客はコストなんて関係ない人達ばかりよ。移動手段とは考えないでしょ。」

 船内ですれ違う他の乗船客は、年配者が多いように見られた。

「そう、目的は移動ではなく空間。国や国境を越えた特別な空間と俗世からかけ離れた時間。時間と空間を贅沢に使う優雅さを買っている。」

「優雅な世界一周の旅かぁ。どっちかというと、老後の楽しみに取っておきたかったわ。」

 藤木が、ふっと笑う。久しぶりに見たその顔にドキリとした。

「老後って、常翔学園の理事職は定年ないだろう。」

 麗香は胸の熱さを悟られないために、藤木の向けられた顔から逃げるように、遠くの海へと顔の向きを変えた。

「60歳になったら、さっさと子供に職を明け渡して引退するわ。そして、優雅に世界一周の旅をするの。」

「実現しなそうだな。」

「どうしてよ。」

「お前が早々に理事職を明け渡すとは思えない。」

「何よ。」

 その時、レセプションルームからインターフォンの鳴る音が聞こえる。よくあるピンポンじゃなくて、ビーっという耳障りな音は、壁に掛けられた部屋の照明などを操作できるタッチパネル式のコントローラの最新鋭さから取り残された感じがする。レセプションルームに残っていた新田が、重い腰を上げて、そのコントローラに映し出されている人物を確認しに行った。

「凱さん。」

 麗香達に報告した新田は、扉を開けに行く。藤木と共に部屋に戻り、窓を閉めた。

「みんな揃ってたんだね、手間が省けたよ。りのちゃんが、麗香と会うって。」

「私だけ?」

 凱兄さんは困り顔でうなづく。

「二人は、嫌だと。」

 新田が深い息を吐いた。

「そうなるだろうと思ってました。」

「説得したんだけどね。」

「柴崎に会うってだけでも、譲歩した方なんじゃないですか?」

 新田のそっけない言い方が、りのを説得できなかった凱兄さんを責めているように聞こえた。

「うん。まぁ。」

 首の後ろをかく凱兄さん。

「じゃ、私だけ、りのの部屋に行けばいいの?」

「いや、今からここに連れてくるから、二人は・・・。」

「わかりました。」

 新田はさっさと部屋を出て行こうとする。藤木は目を細めてため息を吐いた。

「私から報告していいのかしら、えりの結婚のこと。」

「言わなきゃ、何も始まらない。」と藤木。

「僕は何も話してないからね。」凱兄さん。

 二人の視線が、託したと語っていた。

 りのを、悪人から離して船から降ろす、その説得をする為に麗香達4人はここまで来た。

 台湾の高雄港を出港した船は、7日後に日本の横浜港に到着する。

 国や国境を越えた特別な空間と、俗世からかけ離れた時間をかけて、りのを説得する一週間の豪華な船旅。











 一等船室のある4階に降りて来た。麗香に用意された部屋は、一等船室のダブルの部屋で、ついこの間までフー・ジンタオ氏が使っていた部屋だ。その部屋の扉の前で凱さんは歩みを止めて振り返る。呼び出しのボタンを押す前に、私の様子を確認した。もしここでやっぱり嫌だと言ったら、凱さんはあきらめてくれるのだろうか?そんなことは絶対にない。駄々をこねても、またしつこく説得されるだけ。その時間は不愉快に無駄に長くなるだろう。もう皆、乗船してしまっているのだ。どんなに嫌厭しても横浜に着くまでの7日間は、誰も船を降りられない。

(こんなことで動揺していてはだめなのよ。)

 ポストナタリーとして認めてもらうには、どんな事にも冷静に対処しなければいけない。分の悪い交渉も、こちらの姿勢さえ崩さなければ、どれほどの妥協をしても、いずれ勝ち得られる。ミスターのビジネス姿勢から学んだ事だ。

 だから私は、麗香だけとなら会うと妥協した。麗香なら、この華やいだ世界に身を置く事の価値をわかってくれる。船を降りたくない私の気持ちを理解して、味方に付いてくれるはず。

 私の覚悟の頷きを視認してから、凱さんは呼鈴を押した。すぐに扉は開き、麗香が姿を表す。

 麗香に変わってドアを押さえ、通りを開ける凱さんと、入室を促すように奥へと下がった麗香が振り返る。窓からの光が逆行になり、麗香の表情を隠した。

 強い覚悟をしたのにも関わらず、私の足は躊躇し止まった。麗香と凱さんがいる空間が、沢山の過去を思い出し、喉の詰りを覚える。

(こんなことで動揺していてはだめなのよ。)

 もう一度、自分に言い聞かせる。しかし、喉に手をやった手が震えていた。

(こんなんじゃだめ。ナタリーは何時だって毅然としていた。ミスターに別れを言う時も、死ぬ間際も。)

「りのちゃん?」

 唾を飲み込むみ、自分に言い聞かせる。

(大丈夫、私は話せる。)

 部屋の中へ一歩踏み出した。ゆっくりと息を吐きながら通路を歩み、部屋の中央で待つ麗香との、数メートルの距離を十分に時間をかけ、深呼吸をして麗香と対峙する。

「りの・・・。」懐かしい麗香の声が届く。

 赤毛気味のウェーブがかかった髪。黒くて丸い潤った瞳。艶やかな張りのある唇。変わらず華やかに気品あふれた姿。だけど、全体的に痩せた感じだ。

 そうだ、とても心配した。テロリストに拘束されて、痛かっただろう。目の前で残虐に殺されていく恐怖は悲痛だったろう。その痩せた姿が麗香の体験した恐怖を物語っている。

 私はテロ当初だけしか心配しなかった。その後は自分の事しか考えなかった。そして今も、自分の事しか考えていない。

「麗香・・・」その先、謝らなければいけないのに、唾に阻まれて声が出ない。

「りの・・・」もう一度、私の名をつぶやく麗香の声に、目頭が熱くなる。

(ちゃんと言わなくちゃ。)

「ごめんね。」

「ごめんね。」

 涙を我慢したその声は、麗香も同じで、重なった。

 にっこり笑った麗香の瞳から一筋の涙。無事な麗香がそこに居る。

「麗香っ」私は麗香に抱きついた。

「りのっ」

 ふわっと香る甘い匂いも変わらない。温かい体温も。包まれる厚みだけが変わった。

「ごめんね。麗香。」

「ごめんね。りの。」

 私たちは何度もその言葉を繰り返した。











 後方でカタンと音がして振り向くと、柴崎凱斗が頭を低くして枠にぶつけないようにしてデッキへと入ってきた。

オーナー室のロフトを上がると、天空まで見渡せるガラス窓があり、外に出られるようになっている。この場所が、客船の中で一番高い位置にあり、船の進行位全景が見える特等席だ。

湿気を含んだ風は少々荒れ気味で、重そうな雲が所々に発生している。船体に打ち付ける波も荒いが、巨体な船体に影響するような揺れは無い。

「来なくて良いと言ったものを。」

我の苦言に柴崎凱斗は喉を唸らせて、首の後ろを掻きながら横に並んだ。

新田らに船のチケットを送った事を知った柴崎凱斗は、当然のことながら意図を聞きに我に電話を寄こしてきた。我は、頭目と取引を持ち掛けたことを含め、りのの現状を説明し、新田らにりのを説得させて船から降ろす算段であることを話した。早々にりのの事を柴崎凱斗に相談しなかったのは、柴崎凱斗が固持してきた頭目との一線を、りのの為に簡単に切るだろうと思えたからだ。

「やはり頭目は、お前を取引に?」

「あぁ・・。」

「りのの為に、華族を見捨てるか。」

「華族の威厳はあのテロにより弱まってしまった。今はまだ犠牲者に同情して華族制度に反する世上は収まっているが、そのうち必ず再燃する。その再燃した世上はテロ前の時より強まり、一気に制度改革は進められる。それを予測して華族会の中でも、称号の返還を申し出る家が出て来た。怖いんだろうよ、華族であることで敵視されることが。同情されている今の内に称号を返還しておいた方が内外的にも印象良く、言い訳も立つ。そんな内からも外からも揺らいでいる華族制度は、近いうち必ず崩壊する。俺がどう頑張ったところで、どうにもならない。なら、華族と繋がっているという俺の価値がまだあるうちに、身売りした方が賢明だろ?」

「残念ながら、お前の価値は下がらないな。逆に上がる。」

「え?」

「テロにより、皇華隊の実績が認められた。違うか?」

「あぁ、まぁ。」

「あの国の安全神話が壊れた今、神皇家専任の皇華隊の必然が華族会のみならず、政府内にも認識されたはずだ。」

柴崎凱斗は険しく口を結ぶ。

「華選は、哀れみに神巫族の血筋に与えた階級とは違う。能力に応じて作られた階級だ。華族が崩壊しても、華選だけは残る。」

「うーん・・・。」

「華選の階級を作った柴崎家の前当主、柴崎総一郎は先見に優れていたようだな。」

柴崎凱斗が、驚き苦悶するような微妙な顔を向けてきた。

「柴崎総一郎は、華族制度が長続きしないと読めていたのであろう。古臭い神巫族の血筋で構成された華族では、神皇家及び国は守れないと。血筋に拘らず、真に優れた能力のある者が高位を得て、神皇家と国を守れるように。」

「参ったな。」苦い薬でも飲んだような顔をして、空を仰ぐ柴崎凱斗。

「政府は、華族は無くしたいが神皇家のお守りは面倒、が本音だ。華選を残して神皇家のお守をさせておく。これが一番、利発な落としどころだ。頭目がそこまで見越しているかどうかはわからないが、先見の明は柴崎総一郎以上だ。」

 我と柴崎凱斗はおもむろに振り向き、窓越しに頭目の後ろ姿を眺めた。頭目は今、携帯電話で誰かと話をしている。

「お前を臣下に就けるということは、神皇家を含めたあの国をバックにつけると同じことだ。りのと引き換えるにしては、大きすぎやしないか?」

「誇大評価だ。そこまでの力は俺にはないよ。」

「算定相違はあっても良いのだ。誇大評価を含めたお前に利用価値があるのだから。」

 柴崎凱斗は、口を歪ませ、まだ納得のいかない意見を続ける。

「棄皇は過少評価しすぎ、素性を引き換えに取引をするなんて。」

「頭目が我の素性を利用するとしたら、窓口は鷹取家になる。我は何も困りはせぬ。」

「代々神皇側仕えの鷹取家、神皇皇宮宰司を見捨てるか?」

「先に見捨てたのはあいつ。まだ役目があることに感謝するべきだな。」

 唸りと同時に船が波を乗り上げて大きく揺れた。風が舞い上がる。

 互いに、少々重いため息を吐いた。

「少し曇って来たな。」

 厚みのある雲の太陽を隠す時間が長くなり、奇妙な薄暗さが船を包んでいた。

「棄皇、これを。」

 柴崎凱斗が、ジャケットのポケットから取り出し我に差し出したのはUSBメモリー。

「完成したテロの報告書がそこに入っている。鷹取家との交渉に使えるだろうから。」

 我がそれを受け取ると、柴崎凱斗は安堵に顔を綻ばせた。これを我が持っているという安心が欲しいのだろう。柴崎凱斗の自己満足を壊さないために、我はUSBを懐に仕舞うふりをした。

 柴崎凱斗は、また扉に頭をぶつけないように低くして室内へと戻ってく。

 我は、握っていた手を開きUSBメモリーを見つめた。

 2年前、我を暗殺しようとしている者を探る為、我は李剥に術をかけ、わざと逃がした。李剥はその半年後に華族を憎む日本人、林昭と香港で出会い、李剥にかけた術は、林の憎しみに当てられ変容し、神皇家と華族の称号を持つ者へ憎しみへと対象を変えて、大きなテロを起こす計画を立てた。

 華族に対して異を問う事インターネット上に流していたのは林昭で、こちらはテロ計画の実行前から別で行われていたものと調べがついている。李剥と手を組む段階になっても続けて利用され、華族制度反対の風潮は急激に大きく広がった。

 テロ計画を進めるにあたり、李剥と林昭は、神皇家から預かりの光玉を奉る精華神社の倉庫に盗みに入った。精華神社には京宮御所の見取り図や、降臨祭の神儀概要の文献の複製が保管されていて、それらを盗む目的だった。その時に出会ってしまったのが、墓参りに来ていた柴崎親子。李剥らは母親の柴崎文香を解き飛ばし転倒させて逃げている。転倒した柴崎文香は救急車で運ばれ、一時意識不明の重体となった。その夜、李剥らは何を盗んだのか判別させないために倉庫を放火。これにより、精華神社の娘、守都彩音が文献を持ち出そうと中に飛び込み火傷を負った。

 降臨祭の祝賀パーティの最中に、京宮御所の天窓からの侵入計画を立てた李剥らは、使用するヘリの解体部品を、テロの実行日2週間前より舞鶴港経由で沖500㌔に位置する雌島に運び入れ、組み立てを行っている。そのヘリの形影を海上自衛隊の巡回船が視認していた。雌島は李剥の資金で林の知人から林名義で買い取っていた事が判明している。同時に李剥は、香港で大量の武器とモデルガンを調達。この大量の武器と人材を日本に密輸、密入国する経過で、周恩来による横流しが発覚、一年前に周恩来は李剥らに殺され、東京湾にて身元不明の死体として収容されている。周恩来による密輸、密入国関連の詳細書類は公安が所持。

 テロの実行日、日本国にて各地でデモが行われ、京宮御所襲撃の最中に一般市民にモデルガンを配布し、国中を混乱にした。これは警察の到着と交渉時間を確保する目的であったと、林昭が証言している。祖歴の公開にこだわったのは林である。林は以前、華族である千寿家当主の千寿義光の運転手をしていた。林の取り調べから、11年前に関東で起きた連続幼児殺害事件の本当の犯人は千寿義光の息子、光廣であると証言。この事件は再捜査検討事案として、申請中である。

 李剥と共に林昭も、テロを起こすに至るまで、深く長い事象があった。

 李剥は、皇華特殊任務部隊、隊長柴崎凱斗により新皇防衛の緊急対応において射殺されている為、各方面の供述照合はできないと報告書は締め括られている。


 日本国内初のテロと断言された史上最悪事件、「京宮御所降臨祭襲撃立てこもり事件」の全貌である報告書のデーターが入ったUSBメモリーを、我は海へ向かって投げた。小さな黒い物体はすぐに波の渦中の色に溶け込んでわからなくなり、音もなく消えていく。

「我に交渉物など要らぬ。我が生きている。それが最強の取引材料だ。」













「でね、明日の夜に開催される、ウェルカムパーティーに絶対に参加してって。そこでわかるわって、ミスター・グランド・佐竹が、どんなに素晴らしい男性かって。りの、目をときめかせて言うのよ。あんなに喜々としたりの、初めて見るわ。」

 話の一区切りをつけた柴崎は、息を吐いてから紅茶の入ったカップを持ち上げて口にした。

 柴崎自身の部屋で、りのとの再会をした二人は、約二時間、離れていた時を埋めるように互いに話し続けたという。もちろん、えりが結婚する話を柴崎はした。だけどりのは「ごめん。」と即答。そして日本への帰国は考えていないと言ったという。

 柴崎は当然に説得をした。だけどりのは、現状の素晴らしさ、特にレニー・グランド・佐竹に対する称賛と崇拝に近い憧れと、だから側に居たいという気持ちを熱く語って、帰国は出来ないと言った。

 りのがVIP 客とのディナーの約束があると、柴崎の部屋を出て行った後、柴崎は疲れた足取りで慎一たちの部屋を訪れ、内容を話す前にお茶が飲みたいという要望に応えて、6階Bエリアにある軽食も取れる喫茶店のような店に慎一達来ていた。

「普通に聞いていると、まるで、好きになった男の誉れ話をしているみたいだな。」と藤木がつぶやく。

「私もそう思ったわ。確実にりのはミスター・グランド・佐竹に恋をしているわ。」

「佐竹って、あの夜に見た時には40ぐらいに見えたけど。」

りのが行方不明になって、学園の校舎に閉じ込められたかもって皆で探したあの夜、不審に明かりのある校長室に飛び込んだ慎一たちに驚きもせず、凱さんと異国の言葉で話し、堂々と部屋を出て行った男。後で、りのを自殺に見せかけて屋上から落とせと部下に命じていたとわかった冷酷な男は、父さんより少し若いぐらいと慎一は見立てていた。あれから9年が経って、どう見積もっても50近いはずだ。慎一たちはまだ、ミスター・グランド・佐竹に会えていない。

「レニー・ライン・カンパニーアジアのホームページによると、昨年代表に就いたレニー・コート・グランド・佐竹氏は、1970年生まれの日本国籍とある。」

 藤木は事前に色々と調べていたんだろう。資料も見ずにそれを言った。

「ちょうど50歳か。」

「名前からして、ハーフ?」

「レニー・ライン・カンパニーの代表になる人は、それまでの経歴と本名を世間に公開しない傾向にある。」

「本名を公開しないって、どういうこと?」

「レニー・ライン・カンパニーって世界でも類を見ない特殊な企業でさ、経済学部の題材としてもよく出て来る。レニーという会社は、元を辿れば、15世紀後半の大航海時代にまでさかのぼれる。」

「大航海時代!?」

「あぁ老舗中の老舗。って言葉も陳腐なほどに時代を超えて、世界を網羅してきた企業。独自のルールが多様に存在して、その一つに、大陸支部の代表は、名前を受け継いでいくのが通例なんだ。」

 柴崎と同じ紅茶を頼んだ藤木は、両手で持ち上げて品よく口にした。

「名前を受け継ぐってどういうこと?」

「ファーストネームのレニー・コートは、代替わりしてもレニー・コートを名乗るルール。名乗る名前は大陸支部によって決まっていて,ヨーロッパはレニー・ラインそのまま、アメリカはレニー・ローガンだったかな。後は・・・覚えてない。気になるならネット検索してみろ。すぐに出て来る。誰が代表についてもアジアなら、レニー・コートの名前になる為に改名して、それに乗じてそれまでの経歴や素性は抹消して別人になりやすく、そうすることが通例。グランド・佐竹ってのも、本名じゃないだろう。」

「世界企業のトップが偽名って、そんな企業であっていいの?」

「いいんだ。それがレニー・ライン・カンパニーという企業、裏では世界征服企業とも揶揄されている。」

「やっぱり、悪人だわ、世界征服をたくらむ悪の組織のボス。あぁ、どうしてりのはそんな男を慕うの。」

「危険な香りがする男ほど、女は惹かれるんじゃないのか。」

「程があるわ、自分の年齢の倍よ。」

「明日、そのウェルカムパーティーに参加すれば、その悪の組織のボスに会えるのか?」

「えぇ、私に紹介するって、りのは言ってたわ。」

「直にりのちゃんを返してくださいって頼むのか?」

 藤木は目を細めて慎一に問う。

「わからない。自分がどう行動をするのか、予想もつかない。」

 そう、あれはもう9年も前の出来事、あの夜が、あれだけが特異な日だったわけじゃない。慎一たちはりのを巡って、特異な目に数多く経験してきた。その都度、驚き、悩み、心配して、悔しくて、怒り、泣いた。あまりにも沢山の事が起き過ぎて、正直、9年前のことは霞はじめているのも事実。レニー・コート・グランド・佐竹は、直接りのを殺そうとした人間ではない。屋上から落とせと命令した男で、それも後から聞いただけに、実際にりのを刺した弥神より、実感がない。

「明日、午後からまた、りのと会うの。パーティに出るドレスを選んであげるっていわれたわ。」

「へぇ~。昔の逆パターンだな。」

「えぇ。船内には美容院もエステもあるから、一緒にドレスアップの準備をしようって。」

「よかったな。すっかり昔のように戻って。」

「えぇ。7日もあるから、ゆっくり、りのを説得するわ。」

 りのが自分を避けている以上、説得は柴崎に任せるしかない。というか、りのを日本に帰国させることが本当に良い事なのかも、まだ測りかねている慎一だった。

 凱さん経由で弥神がそう望んでいるから、は、本当にりのの事を思っての事なのか?

 弥神はまた、りのに何かを企んでいるのではないか?

 そう思えて仕方がない。船のチケットを送って来た弥神は、乗船時、慎一たちを冷たい視線で一瞥しただけで、近寄っても来なかった。

「あっ、あんた達、タキシード持ってきてないでしょ。それほど厳しくはないけれど、みんな準礼装並みにしてるって。」

「タキシードなんて、そもそもに自前で持ってるわけがないアイテムだ。」

「ブラックタイは、まぁ必須かなと新田にもそう言ったんだが、そうか、やはりここでは通用しないか。」と藤木。

「えぇ、私もカクテルドレスは持ってきてるけど・・・やっぱりすごいわね、準礼服が当たり前って、だから買いに行こうってなったのだけどね。」

「俺らも明日、買いに行くか。」

 慎一は返答せず、カップにまだ半分ほど残っていたコーヒーを一気に飲み干した。

(悪の組織のボスに会うのに、何故正装しなくちゃいけないんだ?)

 店に中国人団体客が入ってきて騒々しくなった。周りを見渡せば、夕食を取っている客も出始めている。

「このまま、夕飯を食べてしまうか。」

 自分には、この平民的な大衆食堂の味が口に合う。タキシードを着て口にする物の味は、きっと味以外の見栄が盛り付けられていて、酔いしれているだけだ。

 慎一は通りかかったウェイターにメニューを頼んだ。














 パーティ会場は5階のAエリア、上客室専用の会場だった。入り口では乗船ロビーで見かけた年配の支配人と船長までもが姿勢よく笑顔で出迎えてくれる。

 会場に入ると、部屋の三方の半分を占めるガラス張りの窓があり、今は夜で漆黒の闇しか見えないけれど、船からこぼれる明かりが、外に出られるデッキの白い柵と床の大理石模様を浮き上がらせていた。昼間であれば、地平線がきれいに見えるはず。

 フロアの真ん中にグランドピアノが置いてあり、その周囲で弦管楽団が生演奏している。華族会とは全く違う演出の雰囲気に、麗香は感嘆する。肌の色、髪の色、目の色の違う人たちが着飾り、飛び交う言葉の多様さが、華やかを通り越して煌びやかだった。パーティというものに慣れているはずの麗香でも、圧倒されてしまうのだから、新田は、驚愕に固まっていた。一緒に付いてきてくれていた凱兄さんは、知り合いを見つけたと言って早々に私たちから離れて行ってしまっている。そして藤木は、近くに居たウェイターにワインの銘柄を聞いている。肝が据わっているというか、博識は身を守るというか、なんでも適度にこなす男だと改めて麗香は感心する。そうして見つめていたのを感じ取ったかのように振り向いた藤木の手には、二つの白ワインの入ったグラスを持っていた。そのうちの一つを麗香に手渡してくれるのかと思いきや。

「クリコのローズラベル、あるって。持ってきてくれるように頼んだから。」

「そ。そう、ありがとう。」

 クリコのローズラベルは私の好きな銘柄のシャンパン。抜かりない藤木は、固まっている新田にグラスを手渡した。

「それは?」

「マコン・ヴィラージュと言う銘柄だそうだ。俺も始めてだ。先に頂くよ。」

「どうぞ。」

 藤木は香りを嗜んだ後、口に含ませて十分に舌にくぐらせてから、喉に通した。

「へぇー、これはおいしい。どんな食べ物にも合う選択なんだろうな、飲みやすいから柴崎もいけると思うよ。もらってこようか?」

「そうね、せっかくだものね。」

「っていうかさぁ。食べ物にありつこうぜ。空腹で飲むと悪酔いする。」と新田が催促をするから、楽団の周りを取り囲むように点在する丸テーブルへと視線を移す。当然、テーブルの上には絢爛豪華な花と食材があふれ。さっきまで固まっていた新田は開き直ったのか、空腹に耐えきれなくなったのか、足早に近いテーブルに歩み行く。麗香はあきれて藤木と顔を見合わせて笑った。

「では参りましょうか。」

 そういって藤木は、右で持っていたワイングラスを左に持ち替えてエスコート用に肘を開けた。

 これはプライベートなエスコートだと麗香は自身に言い聞かせた。

 仕事と屋敷以外では敬語禁止、お嬢様扱いもしないでと、桜の散り始めたあの日、屋敷を出ていく藤木を止める為に麗香は契約をし、そういう取り決めをした。藤木を雇い、無理に主従させている麗香に、エスコートするきめ細やかな藤木の対応に、麗香は悲しくも自分の身勝手さに落ち込んで、素直に腕を組むことができなかった。

「悪い、戸惑わせてしまったな。」

 藤木は細めた眼を伏せて腕を元に戻した。

「ごめんなさい。私・・・」

「クリコを貰ってくるから、新田の所へ。」

 藤木はウェイター達が出入りしている方へと行ってしまった。

 自分の存在が藤木を傷つけている。わかっていても手放さない麗香のこれは、もう恋というには擦れすぎている。

 それしか手段がなかった。主従関係で引き留めなければ、藤木は麗香のそばには居なかっただろうし、二度と会う事すらしなかっただろう。どんな関係でも、そばに居て欲しいかった唯一の手段だったと、麗香は何度も納得したのだが・・・後悔は納得と同じだけ麗香の胸に募った。

 追い付き覗いた新田の皿は、既にサラダとローストビーフが盛られていて、口にも頬張っている。

「うまいぞ、このローストビーフ。もうちょっと厚切りにしてくれたら文句なしなんだけどな。」

「あんたね、ここに来た第一の目的、忘れてるでしょう。」

「腹が減っては、戦はできぬ、だ。」

「ったく、タキシードが台無しだわ。」

「このタキシード代に見合う分ぐらいは食ってやる。」

「いやだ、品のない。」

 会場内を見渡した。オーナー側の人間としてVIP客を出迎えて接待しなければならないと言っていたから、りのは私たちより先に来ているはずだ。

 中央のピアノの向こう側に、昨日、搭乗ロビーで挨拶をしてくれたクレメンティさんの姿をみつけた。長身の金髪だからよく目立つ。クレメンティさんは首を90度以上折ってりのを見下げ、りのは天を見上げるようにしていて、まるで親子のよう。りのはこれまで、巡った土地にちなんだドレスを着ていると言っていた。インドなら、サリーのようなドレス。今日は台湾だから、チャイナ風の黒いロングドレスを着ていた。左の太ももから大きくスリッドの入る細身のデザインは、シックに大人っぽく、それでいてかわいらしさもある。

「りの、居たわよ。」

 新田に向かって言った言葉が、合図のように、りのは周囲を見渡して麗香を見つけ、手を振ってくる。手を振り返すと、クレメンティさんもにこやかに頭を下げて来た。

「お待たせ。」

 藤木が、薄ピンクの気泡はじけるグラスを持ってくる。

「ありがとう。りの、あそこに。」

「あぁ。」

「とても楽しそうだわ。」

 学園では見たことのない笑顔の輝き。船を降りたくない、それは当然の意思である笑顔をしていた。

 新田の小腹が満たされて、ようやく手にしたシャンパンを飲み始めた時、悪の組織の一団が私たちの方へ移動してくる。ボスはレニー・コート・グランド・佐竹。長いから佐竹氏と略す。麗香達は緊張に身構えた。その反対に、悪の一団らは余裕の笑顔。こんな時に凱兄さんは行ったきりで、どこにいるのかわからない。

 りのが紹介を始めた。

「レニー・ライン・アジア大陸支部代表のレニー・コート・グランド・佐竹。この船のオーナーよ。」

「はじめましてではないね。二度目にお目にかかる。あの頃よりずっと綺麗になられた。柴崎麗香さん。」

「初めまして、じゃなくて。えっと・・・」

 緊張で混乱。あの夜の記憶なんて曖昧、校長室で会った男がどんな顔していたかなんて思い出せなくても、会えば、あぁ、そうこんな顔していたと思い出せると思っていた。だけど今紹介された男が、あの時の非道な男だと、麗香は何一つ思い出せず、重なりもしない。

「お招き頂き、ありがとうございます。」

 握手だと思って差し出された手を合わせると、佐竹氏は驚くことに腰を低くし、麗香の手の甲にキスをした。

「ミスりのがとても心配していた。無事で何より。」

「ご、ご心配おかけしました。」

 それだけを言うのが精いっぱい。顔は熱くなるし胸はドキドキ。この扱いは、藤木以上だ。

「柴崎凱斗とミスりのは、私のビジネスに多大なる貢献をしてくれている。二人を輩出した常翔学園の増々のご健勝を心より願いましょう。」

「あ、ありがとうございます。」

 見てわかる上質の燕尾服に飲み込まれないその存在、佐竹氏から目が離せなくなった。年季の入った目と口元の皺、黒髪にいい具合にメッシュな白髪も品よくオーラが放つ。りのが魅了して船を降りたくないって言うのを理解できた。一言で表すならダンディ。

佐竹氏が更なる上質の微笑みで、預けていた麗香の手を両の手で包み込んでくれるまで、麗香は茫然と見惚れた。そして佐竹氏は、上品に手を放し、隣、藤木へと移る。

 りのが麗香に寄り添い耳打ちをする。「ね、素敵でしょう。」と。

「ようこそパール号へ、藤木亮さん。あなたのお父様、藤木守官房長官とは、外務大臣の頃より大変、世話になっている。ご子息とも握手を交せられる縁は、貴重なる物となりましょう。」

「いえ、こちらこそ、世界のレニー・ライン・カンパニー、アジア大陸支部の代表のお方とお会いできるなんて、経済学を学んできた者としては、光栄の極みです。」

 その言葉は建前ではなく、藤木は自分から両の手でしっかりと佐竹氏と握手する。

「経済学を・・・誰かさんと一緒だな。」と可笑しそうにりのの方へ顔を向けた。

「もう社会勉強は終わったのではなくて?」

「あぁ、そうであった。失礼、内輪の話を。」

「この機会に、世界を統制した企業成果などをお聞かせ頂けたら。」

「私でよければ喜んで。横浜までに時間を作ろう。」

「ありがとうございます。」

 そばに立つクレメンティさんは日本語がわからないらしい。りのがクレメンティさんに英語通訳をしている。理解したクレメンティさんも、破顔して亮にうなづく。

 そして最後、新田と向かい合って、最上級の微笑みを佐竹氏は投げかける。

「活躍は耳にする。サッカー日本代表にも選ばれる、アイルランド、ノッティンガムACの新田慎一さん。」

 佐竹氏は、少しオーバーアクションで握手の手を出した。大企業のトップに上り詰める人でも、有名人に会うときの浮足立った感じは、一般人のそれと同じだと思うと、親しみがわいて増々魅力的。

「いや、もう移籍したかな?フランスのマルセイズに。」

 詳しい。フランスのマルセイズへの移籍はまだ公表していない。ちょうど三月でノッティンガムACとは契約が切れたばかりで、マルセイズとの契約開始前の調整をしている段階である。報道関係にはまだ内密にしている段階だけど、どこかからか洩れるのはよくある話。あっそうかと麗香は思い出す。昨日、麗香がりのに話したので聞いたのだろう。

「増々の活躍を期待して、これを機に我々レニー・ライン・カンパニー・アジアがスポンサーとして新田慎一選手のバックアップをさせていただくというのは、どうだろうか。」

「レニー・ライン・カンパニーのスポンサー!?」

 思わず感嘆の声を上げ、藤木と驚愕に顔を見合わせた。

「新田慎一選手の俊足が、レニー・ラインの物を運ぶスピード感にぴったり合う。世界に挑む果敢な姿は、アジアのCMイメージとして起用するのにもふさわしい。」

凄い話が舞い込んできた。りのを迎えに来て、世界のレニーから、個人スポンサーの話が得られるなんて。

「ぜひ、わが社と共に世界へ。」そう言って、佐竹氏は、新田の前に握手の手を出す。

しかし、新田はその手を握ることなく、自身の手をタキシードのポケットに仕舞った。

誰もが驚愕に、固まる。

「俺はまだ、あの夜の、あんたのした事を許せていない。」

「あの夜?」佐竹氏も驚いた顔を隠し切れない。

「何、言ってるの!」叫んだのは、りの。

「りのに直接手を出していないとはいえ、命令したのはあんた。俺らはあの夜、屋上から落ちるりのを、寸前で止めた。もう一歩遅かったら、りのは落下して死んでいた。」

「やめて、あれはもう、過去の事よ。」

「ふふふ、その目は、9年前と変わらず熱い。」組まれることのなかった佐竹氏の手は、笑いと共に大きく振られた。

「ミスターごめんなさい。私が代わりに謝るわ、この人の無礼を。」

「いや、無礼なのは私だ。」

「違う、違うわ。」慌てて佐竹氏に縋りつくりの。

そんな中でポケットに手を入れたまま、佐竹氏をまっすぐに睨む新田。

そうだった。新田はりのの事になると、誰よりも強く、大胆に自分を捨てる。

「これは失礼。過去と今、重ねて詫びよう。」そう言って、紳士の振舞いで腰を曲げる。

「ミスターグランド、こんな人に頭を下げることないわ、やめて、もったいない。」

「俺は、謝罪が欲しいんじゃない。どんなに頭を下げられても、あの夜の記憶は消えないし、あんたに対する警戒も解けない。それだけだ。」

「それは、賢明なことだ。」

どんなに新田が無礼なことをしても、佐竹氏の顔から笑みは消えず、余裕に満ちていた。

「私の握手を拒んだ人間は、多くは無いが、居る。その者たちがどうなったか、教えよう。」

きっと佐竹氏は怒っている。しかし笑みは消えず、麗香、藤木、そしてまた新田へとゆっくり、十分に視線を合わせて間を取ってから、口を開いた。

「皆、出世している。私よりも。」ミスターは、にやりと口の端を上げた。「新田慎一、君はビジネスの場に身を置いても成功する。私が論証しよう。」そういうと、佐竹氏は麗香達に背を向けて去っていた。

りのは新田に、これ以上ない強い睨みを放ち、追いかけて、佐竹氏の腕を取る。

会話の後半を、りのの通訳が受けられなかったクレメンティさんが、意味のない微笑のお辞儀をしてから二人の後を追った。

彼らが十分に離れて行ってから麗香は、藤木と共に大きな息を吐いた。






 全長600メートル以上ある船の、6つに分かれたブロック一つ分を使った上客室専用のホールには、世界のセレブ達が集う。国際色豊かに、女は煌びやかなドレスを身に纏い笑い、男はスマートに女をエスコートして酒を交わす。それらを世話するウェイターやボーイも多種豊富。そして多様な言語を使い分けて立ち回る。日本だけのそれしか知らない亮達は、久々に知らない世界を目の当たりにし、戸惑い打ちのめされ、よろめきそうになっていた。どんな場でもピカ一に優越に解き放つ麗香の気品も、ここじゃ霞んで、麗香自身も慣れているはずの振る舞いが出来ずにいる。博識と言われた自分も、百聞は一見に如かずとはよく言ったもので、ただある知識だけじゃ、この世界のトップ級の場では通用しない。自信のなさを悟られないようするので精一杯だった。

 そんな中、意外にも新田が堂々としていた。昔と違って英語が話せるようになったことが、この場に飲み込まれない自信につながっていて、更に、りのちゃんが絡む事による捨て身の振る舞いが、メンタルを強くさせていた。

 フロアの中央に置かれたグランドピアノの前で、レニー・グランド・佐竹氏が、スタンドマイクの前に立った。それだけで、フロアの人々は静かになった。芸能人に近いオーラがある。

英「皆さまお寛ぎの所、邪魔をしてしまい申し訳ありません。私、この船のオーナーとして僭越ながらご挨拶差し上げたく思います。しばらくの間、耳障りでありますでしょうけど、お付き合いくださいませ。」

 英語に続いて、中国語を話すレニー・グランド・佐竹氏。自身で二国語同時スピーチをするという、神業。

「りのが言ってたわ、『ぜひ、ミスターのスピーチを見て』って、ミスターグランド佐竹は、15以上の国の言語を話すそうよ。」

 盛られた話だとしても、15はすごい。だからこそ50の若さでアジア代表に就任した経緯か。レニー・ライン・カンパニーのような老舗企業ほどトップ就任年齢は高い。実際、レニー・ライン・カンパニーの他大陸の代表は60を超えた者たちばかりだったはず。昨年の人事発表の時、経済界では、就任した代表が日本国籍の人間であった事を含めて、その若さも大いに話題になった。

「りのの羨望の理由がわかるわ。」

 りのちゃんだけじゃなく、麗香も、キスされた右手を大事そうに包んで、羨望の眼差しを向けている事に気づかない。

 一瞬で女を虜にするレニー・グランド・佐竹氏。亮は若干の嫉妬を胸に抱いた。

英「私は約一か月前にドバイより乗船し、この船と共にアジアを周航するビジネスを展開してまいりました。当初よりご一緒させていただいていますお客様にとっては、私のこの拙いスピーチも、もう、うんざりの事でしょうが・・・」

 りのちゃんが、ミスターグランドのスピーチを『聞いて』ではなく、『見て』という単語を選んだ意味が分かった。ミスター・グランド・佐竹氏のスピーチは、ただ言葉を発しているのではなく、身振り、這わす視線の動き、間の取り方、声の音程もがショーを見ているようだった。その挨拶は、ジョークも交えて型嵌りじゃない。とても自然でいてかつ、レニー・ライン・カンパニー、アジアのトップとしての威厳は保たれていた。そして操る言葉の内容は、この船のオーナーとしてもてなし、柔和に客の高揚を煽る。

英「残す所、5日後の横浜の着港を経て、最終港香港へ間近となってまいりました。このウェルカムパーティも最後でございます。「残す所」や、「最後」という言葉は、寂しさを伴う惜しい気持ちを表す言葉でございますが、皆さまには、逆に捉えていただきたい。それは、波打つ上を、長きに航海してきた成功の証であるからです。大航海時代より、わがレニー・ラインという会社は、世界網羅するために幾多の厳しい困難に立ち向かってきました。嵐の中を航行して数多くの船乗りが犠牲になって来たことでしょう。もちろん、現代では嵐による転覆なんて皆無に等しく、この客船においても、航行の安全は船長をはじめ、クルー全員にとっては当たり前かつ、最優先事項の慣行であります。その慣行の下、残り少なくなってまいりました周航日数は、数が減るごとに積み重なる成功と言えましょう。私は、その慣行に怠ることなく続けて頂いたクルーに感謝を述べたいと思います。パール号船長、アンソニー・ギルバート。」

レニー・グラント・佐竹氏は、大きく手を振り上げて、片隅に居た船長へと客の視線を誘導する。予定になかったのか、突然振られた船長は驚き、慌てて帽子と衣服を正す。その動きが会場の笑いを誘う。

英「クルーの代表としてアンソニー・ギルバート船長に感謝を受けていただきます。皆様、感謝の大きな拍手を。」

 会場に大きな拍手が沸き起こる。

英「花束でも用意しておけば良かったものを、愚策に申し訳ない、ありません。」

再び笑いが起きる。船長が、手を振って遠慮する姿にも、笑いが重ね続く。

英「まだ残りの航行があります。皆さまの大きな拍手に気を良くして、気抜かりされてはいけません。花束は最終港香港までお預けです。」

 船長が帽子を脱いで、禿げあがった額に手をやって嘆く。それがまたまた笑いを誘う。

「偽善だな。」新田がつぶやく。「あの振りかざす手で、りのを落とせと指図したんだ。」

「確かに、事実はそうよ。だけど、りのが言うようにあれはもう9年も前の事、それにあの時、あの人は校長室からただ出て行っただけ。私は今日、会っても思い出せなかった。あの時の校長室から出て行った人がこの人だって。私はあの屋上で落とそうとしていたあの大男の方がよく憶えていて、あいつの方が悪人認定バッチリだわ。」

「俺も、昨日も言ったけど、経済学部だった俺としては、世界制覇企業のレニー・ライン・カンパニーは、羨望の的だ。そんな企業のアジア大陸のトップが、レニー・コート・グランド・佐竹氏であることは、同じ日本国籍を持つ者として誇り高いよ。うろ覚えになりつつある過去の出来ごとなんて、打ち消すぐらいに。」

「あいつは学園を盗品売買の会場として無断使用していたような奴だぞ。それでもあいつを、無警戒に称賛するのか?柴崎。」

「うーん。私その現場を見てないし、盗品売買が世間に知られてしまったわけじゃない。学園が何か損益を被ったわけじゃない。わたしの中では無被害だから、警戒も何も・・・。」

「俺は、逆に、お前の色あせない警戒が驚きだ。」

「あの夜の事を忘れろって言うのか?」

「忘れろなんて言ってない。レニー・コート・グランド・佐竹氏の今が、あの夜の記憶を超えるんだ。」

「そう、りのもきっとそうだわ。こんなのを間近で見て来たのなら、自分を殺せと命令した過去なんて色あせていくのよ。」

 新田は亮を疎ましい睨みで一瞥して、そっぽを向いた。

中「どうぞ、皆さま残り少なくなった時間と航海は成功の証として、存分にお楽しみくださいませ。」

 そう締めくくったレニー・コート・グランド・佐竹は、華麗に腰を折って頭を下げた。

拍手が会場を埋め尽くす。照明がゆっくりと暗く落ちていき、一度、真っ暗闇になってから、今度は徐々に明るくなる。だけど元の照明の色合いと強さが違った。少しオレンジ色のムードある色合いで、フロアの中央を丸くピアノを浮き上がらせていた。スピーチの最中には居なかったピアニストと管弦楽団が戻ってきて、静かに演奏をし始める。部屋の周囲を取り囲むように点在している食べつくされたテーブルは照らされず、亮達の周辺は暗いまま、外のデッキの白い柵と芝の緑が幻想的に浮かび上がっていて、これらすべてをレニー・コート・グランド・佐竹氏の指図だとしたら、新田の抵抗なんてネズミのパンチくらいに効き目なしだ。氏が年配の婦人の手を取りピアノ周りでチークダンス始めた。続いてりのちゃんも、その夫人の相方であろう恰幅のいい年配の男性を相手に踊り始めた。

昔はあんなに嫌がっていたダンス。高いヒールを履いた足は、ふらつかずしっかりしている。場数を踏んできたのだろう、上手くなっていた。そして、とても楽しそうだ。

客たちが手を取り合いパートナーとチーク踊る。楽団の奏でる曲は誰もが知っている馴染みの曲、今宵のパーティは高揚に満ちた最高の時の積み重ね。ふと見れば、凱さんまでもが、ブロンド美人の手をとり踊る輪内に入っていた。

亮の背後に居た麗香の驚きの息遣いが聞こえた。

(身内をほったらかして、目的も忘れているな完全に。)

「凱さん、完全にナンパ目的だな、ここに来たの。」と亮は飽きれぼやいた。

「・・・ち、違う・・・違」

「えっ?」

 振り返り見た麗香は、異様な形相をしていた。

「柴崎?」

 麗香は目を見開き、発する声は引き付けを起こしたように詰まって、口元にあてた手は小刻みに震えている。その震えを自身でも驚いて、止めようと手を合わせるがうまく行かない。そんな麗香の異変に新田も気づく。

「柴崎?」

「わ、わかっているの、こ、ここは・・・」麗香の喉が大きく上下する。「ここは、ち、がう・・・でも・・・この曲は、あの時の・・・新皇様と踊った・・・」

 これはPTSDの発作!

 麗香を支えようとした亮に、麗香は声にならない悲鳴を上げて後ろへと下がる。

「ひぃ・・・あいつらが、殺しに・・・」

「麗香・・・」

「りのと同じだ。りのは喪服の黒い服を見て、栄治おじさんの葬式を思い出して発作を起こしたことがある。柴崎のこれも、」

テロリスト達は黒づくめだった。今着ている自分達も黒いタキシード。

「目をつぶれ。」

 麗香は、苦しそうに目をつぶった。押しつぶされた涙腺から涙がこぼれ落ちる。

「部屋に戻ろう。大丈夫、そのまま目をつぶったままで、俺が誘導するから。」

 麗香がうんうんとうなづく。

「肩を触るよ。大丈夫、ここは安全だ。」

 大丈夫と言い続けるしかない。視界を遮った麗香は、もう亮を怯えはしなかったけれど、息遣いはまだ苦しそうだ。

「フロアの外へ行くよ。歩けるか?」

 新田がついて来ようとした。

「お前は、ここに残れ、りのちゃんの姿を最後まで見続けろ。握手を拒んだお前だけが、ブレずにいれる。それがりのちゃんを変えるかもしれない。」

パーティ半ばで亮達全員が帰ったとなれば、まるで窮鼠猫を噛んだだけになる。レニー・グランド・佐竹氏の握手を拒むような、大胆な無礼をやってしまったのなら、その無礼は無駄にしない方がいい。

 新田は渋い顔をしながらも、素直に従った。

 会場に出るまでに、ボーイにどうされましたと聞かれた。「飲みすぎたみたいだ。」と適当にあしらう。出口で扉を開けるドアマンにも同じことを聞かれた。不憫に苦笑されたが不審な注視はされず、「お大事に。」の言葉をもらう。薄暗い部屋から出ると廊下の明るさが目にまぶしい。

 BエリアとCエリアの間に5階から上の階層だけを行き来できる小さいエレベーターがある。中央の大きいクリスタルエレベーターを使用せずに、上客室利用者がショッピング階を行きしやすくするエレベーターだ。部屋に帰るにはそれを利用するのが早い。

「大丈夫」と言い続けて、やっとそのエレベーター前にたどり着く。ボタンを押すと、このフロアに来た客が利用したまま動いてなかったのか、扉がすぐに開いた。

「エレベーターに乗るよ。」

 音楽のない廊下に出たのが良かったのか、息づかいが落ち着いてきた麗香は、「うん。」と小さく答えた。

 乗り込み、4階のボタンを押すために向きを変えた。そこに立っていた存在に亮は驚く。

「棄皇! 」

「えっ?」

 亮の驚愕に麗香が顔を上げてしまう。

 あの時と同じ黒いチャイナ風の民族衣装を着た棄皇を見て、麗香は悲鳴を上げた。

「棄皇、その服で麗香に近づいたら駄目だ。麗香はテロでPTSDを」

 亮の言葉を無視して、棄皇はエレベーターに乗り込んでくる。

「いや、来ないで!」

 麗香は取り乱して後退さる。

「術を使う、離れていろ。」

 棄皇は乱暴に麗香をエレベーターの壁に押し付けた。

「何するんだ、やめろっ」

「邪魔だ。外へ出ていろ!」

 棄皇に後ろ蹴りに吹っ飛ばされた。亮は無様にエレベーターの外で尻もちをつく。

「痛っ・・・っ」

 痛みに声が出なくなる、蹴り入れられた腹じゃなくて、頭を貫く痛み。

 脳に響く棄皇の呪唄。歯を食いしばり、片目を開けるのが精いっぱいだった。

 エレベーターの奥で、棄皇は麗香の顎を持ち、額を合わせている。麗香の眼球が小刻みに震えて、涙が流れた。

 エレベーターの扉が閉まっても、唄は聞えてくる。直接、脳に。

(やめてくれ。これ以上は、

 頭が割れる・・・・)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・

「おいっ!」

(俺は、何をして・・・・)

「藤木!」

(エレベーターの前・・・中から誰かが亮を呼んでいる?)

「役立たずのクズ!」

(そうだ!棄皇が麗香を。)

 慌てて立ち上がり、エレベーターのボタンを叩き押し、扉が開いた。中では、 崩れ落ちそうな麗香を、棄皇は脇から背に腕をまわして支えていた。

「ったく、うすノロがっ。」

 睨む棄皇が左目を抑えて振り返る。その瞬間、またキィーンと頭に痛みが走った。棄皇は舌打ちをして亮から背向ける。

「さっさと受け取れ。」

「あ、あぁ・・・」

 痛みを我慢して棄皇の腕から麗香を受け取る。麗香はぐったりと、その目は半眼に虚ろだ。乱れた髪が顔にかかる。

「テロで負った恐怖を消した。今宵のような発作はもう起きない。」

(麗香の為に?)

「こっちを向くな、左目はまだ赤い、影響を及ぼす。」

 大きく息を吐いた棄皇の息づかいには、疲労感がにじみ出ていた。

「眠らせてやれ、朝になれば今夜の発作による恐怖も消えている。」

 バンっと壁を叩く音、棄皇が階ボタンを押してくれたのだろう、続いてエレベーターの扉が閉まる。一階分の上昇はすぐに終わり、 扉が開いた。

 棄皇が麗香のPTSDを治してくれた・・・。

 僅かに身震う、棄皇のその力。











(あの柴崎がPTSDに苦しむなんて・・・。)

 どんな時も気丈で強いのが柴崎だと思っていた。慎一は、柴崎が経験したテロの現場が、いかに悲惨だったかを改めて痛感する。

 柴崎の足取りはおぼつかなく、それを藤木が支えて出口へと向かう。

 柴崎家の手伝いを辞めるとか言っていた藤木も、柴崎があんな調子だから心配で、辞める事が出来なかったんだろうと思い至る。

 二人がやっとのことでフロアから出ていく。

 りのを見続けろって言われても、嫌がっている相手を追っかけるのは、まるでストーカーのようで気が進まない。それでも、藤木に言われた通りに、りのの姿を探して見渡すと、薄暗いフロアの壁際を妙に早く移動する人物に目がいく。

 弥神!

 フロアに居ていた事に、慎一は全く気が付かなかった。

 その弥神が、足早にフロアから出ていく。まるで藤木達を追っているように見えた。あいつの行動は、不安を掻き立てる。やっぱり自分もと、出口へ行きかけた時、呼び止められて振り向く。

英「アイルランドノッティンガムACの新田慎一さん。」

「えっ、あっ、はい。じゃなくて、イエス」単純な受け答えでも、突然だと英語はすぐに出てこない。

英「オーケーオーケー、私はネルソン・アデミール、よろしく。」

 と、いきなり慎一の手を掴み、握手を強要する褐色の肌の色をした長身の外国人。眉毛や頬から顎にかけての無精ひげに目が行く。いつまでも握手の手を放さず、さらには慎一の肩を組むようにして、彫の深い顔を近づけてきた。

英「いやー、君の活躍は素晴らしい。何と言っても稲妻のようなドリブルは最高だね。」

英「ありがとうございます。」

英「私は君のファンでね。」

英「あ、ありがとうございます。」

 面倒な相手に捕まってしまった。手と組まれた肩を放してくれない。

英「私だけじゃなく君のファンは世界中にいる。」

英「ぇぇ・・・」

英「そして、この船にも。」

英「はぁ・・・」

英「で、君のサインをオークションに出品したいんだが。」

英「オークション?ですか?」

(サインの要求を通りこして売りたいとは・・)

英「そ、私は美術品商人でね、この船で美術品のオークションをひらくのだよ。」

(・・怪しい。)

 美術品商人と聞いて、あってないような価値の美術品を無理やり売りつけるイメージしかない慎一は、見た目が堅実であっても、そのフレーズを聞いただけで、いかがわしい人物に見えてくる。さらに佐竹が盗品売買をしていた過去と相まって、声かけてきた外国人が、佐竹の回し者で、ここでも盗品を売りつける算段なのだと思い込む。

(関わらない方がいいに決まっている。どうにか逃げないと。)

英「僕のサインは美術品ではありませんが。」

英「あはは、それは日本的ジョークかね。当たり前の事をいう。」

英「いや・・・えーと。」

英「君のサインはチャリティ形式にしようと思ってね。子供向けのオークションに使いたい。」

英「子供向け?」

(おいおい、子供から金を巻き上げるのかよ。タダで渡している物を。)

英「子供達は君のサインが欲しくて自分のお小遣いを使う。その子供たちの大事なお金は難民孤児の教育資金に使われるんだよ。素晴らしいと思わないか、幼き頃から、チャリティを通じて奉仕の心を養う。」

英「え、えぇ・・・」

(らしく慈善事業に聞こえるが・・・。)

英「もちろん、協力してくれるよね。」

 とてもノーとは言えない。

 (こうなったらそのオークションに参加して、盗品売買の現場を暴いてやる。絶対にあいつ佐竹も絡んでいるだろうだろうから。)




「で、どうやって、盗品だと見抜くんだよ。お前、美術品に詳しかったっけ?」藤木がカップの中のコーヒーの香りを嗜みながら言う。

「えーと、それは・・・,調べればきっと・・・」

「ネット検索でもする?」

 柴崎が冷やかし顔で言う。一晩たち、すっかりPTSDの発作は治まったようだ。

「そうだな、藤木タブレット持ってきていただろ、貸してくれ。」

「あほ。」

「あははは。」柴崎が大笑いする。

「なんだよ~。」

「盗品の見極め方も掲載されているといいな。その見つけたサイトに。」

 藤木までもが、笑い始めた。

 朝食としては遅い10時近くになって、レストラン街にモーニングを食べに来ていた。柴崎の目覚めが遅かったのに加えて、夕べ化粧も落とさず寝たというので、風呂に入ったのまで待たされたからだ。

「りのは見抜いただろ。」

「あれは、世界中で話題になっていた盗品だったからだろ。」

「ニュースになっていたものね。」

「稀なケースだよ。だいたいな、ちょっと考えろよ。こんな公な所で盗品を売買するか?秘密裏にしたいからこそ、9年前の夜、学園を使ったんだろ。」

「んー、だからこそ、灯台下暗しを狙って。」

「あほ。」

「あははは。もうやめてよ。可笑しくて食事が進まないじゃない。」

「じゃ何か?ここの泊り客も、盗品売買に関与する奴らってことか?」

「関与はしてなくても盗品だと知らずに買ってしまうって事があるかもしれないだろ。」

「まぁな、だけど、それをしたらパール号の信頼はガタ落ちだな。」

「この船のオーナーはあいつ佐竹だぞ、元々信頼なんてないじゃないか。」

 藤木は大きなため息をつき、語り始めた。

「このパール号は、レニー・ライン・カンパニー・アジア大陸支部の海運事業が所有、運営している観光業だ。レニー・コート・グランド・佐竹は、グループのトップだからオーナーという事で、しかも一年前に大陸支部代表に就任したばかり、パール号はそれ以前から周航している船。信頼は、それよりも前からずっと継がれている。歴史ある信頼を、そんなんでぶち壊すとは思えないな。」

「それは、藤木の考えだ。佐竹はそうじゃないだろ。現に」

「新田、俺たちは何しにここに来た?りのちゃんを迎えに来たんだ。オークションの正当性を探りに来たわけじゃない。」

「ほんと、そうよ。」

「だけど・・・」

 慎一の納得しきれないつぶやきに、二度目のため息を吐く藤木。

「お前が、りのちゃんを説得するにあたり、レニー・コート・グランド・佐竹氏を、どうしても罪人に仕立てたい気持ちはわからなくもないが、それをする危険性を十分に思慮するんだな。」

「あいつが俺達を殺そうとしようとしてくるってのか?ほらやっぱり。」

「俺達の危険じゃない、りのちゃんだ。仮にレニー・コート・グランド・佐竹氏が、何らかの犯罪行為をしていたとして、それを暴くという事は、一か月あまり共にしてきたりのちゃんも、同じ容疑がかけられるってことだ。」

「あっ・・・。」

「たくぅ、考えなしで突っ走るなよ。」

 慎一の意気込みは、あっけなく消沈させられる。













 台湾から乗船して、丸二日が経とうとする昼、航海域は高気圧に恵まれ、気温は上昇し、少し動くだけで、汗ばむような初夏の暑さとなった。

 昨晩のウェルカムパーティーでPTSDの発作を起こした麗香は、棄皇の術のおかげで、昨晩の発作の事は覚えていなくて、すっかり元に、いやそれ以上に元気なっていた。今はりのちゃんと船の後方、スライダーのある屋外プールに遊びに出かけている。

 レニー・コート・グランド・佐竹氏の握手を拒んでりのちゃんを怒らせた新田と違って亮は、好意の姿勢で佐竹氏と挨拶をしたから、りのちゃんと会って話もできるんじゃないかと、麗香にプールを誘われたけれど、遠慮した。

 小学部の校長らには海外視察だと嘘ついてきていたので、合間に書類の確認やら、色々と学園から連絡が来ていた。麗香は就任したばかりで、何もわからないから必然的に亮がその対応処理をして、麗香には事後報告となる。

 そうした作業も今日の分は終えていて、豪華客船の優雅な生活に、既に時間を持て余していた。新田はトレーニングジムに通いつめで体力トレーニングに邁進。亮は宛てもなく船内をぶらついて、たばこが吸える酒場を見つける。世界的にも喫煙場は極地に追いやられている昨今、船も同じで全艦内禁煙で、喫煙はデッキの限られたスペースで、しかも子供が立ち入らないように柵が設けられている。まるで飼われた動物状態だった。店内でタバコが吸えるってのは中々いい場所を見つけたと、躊躇なく入る。

 海賊船の酒場をイメージして作られた店内、黒いバンダナに無精ひげの海賊になりきれていない中国人店員に、たばこが吸いたいと英語とジェスチャーで伝えると、店内奥ヘと案内さて、丸くガラスがはめられた木製の扉の向こう外のデッキにまで連れていかれる。やっぱり外で動物の檻なのかと、がっかりしたのだけれど、隣の店と完全に隔離されていて、デッキの外なら自由にたばこが吸えるというレイアウトだった。傷だらけの古い丸テーブルに外へと向けられた2脚の椅子、ドクロのついたブリキの灰皿が置かれた席に着き、メニュー開いて、海賊にちなんでラム酒を頼もうかとも思ったが、まだ昼間、何もすることがないとはいえ、酒におぼれるわけにもいかず、とりあえずビールを頼んで、さっそくたばこに火をつけた。他の客の喜声で顔を向けると、年配の夫婦が海鳥に餌付けをしていた。数匹の海鳥が、夫婦の手から餌をつまんでは離れて下降、姿を隠したかと思うと、また現れるをしている。どれぐらいの海鳥が集まってきているのか興味を抱き、座ったばかりの椅子から立ちあがって木柵へと向かう。パール号はその名の通り白い船体が特徴の船で柵も白いので、海賊船のイメージを作る為に、船自体の白い鉄柵より手前に、木柵を作り添えていた。二重構造になった柵の向こうを見るには、少々身を乗り出さなければならない。持っていたたばこを口にくわえて、両手で柵を掴んで体を乗り出し覗き見た。下の階のデッキでも餌付けをしていて、数人の腕が柵かはみ出しているのが見えた。海鳥は、20か30匹は居るだろうか?主に下の階の餌付けを目当てに飛んでいて、時々、隣テーブルの老夫婦にも飛んでくる様子だ。

 頼んだビールを運んできた海賊店員が、「テーブルに置いておくよ。」と軽快な声をかけてまた店内へと戻っていく。

 海も空も果てしなく青い。吐煙すらも消してしまうほどに。

 タバコがウマいと初めて感じる。これ程の贅沢があるだろうか、時間を持て余し、タバコをうまいと感じる。

 目的を忘却しているのは自分か?

正直、りのちゃんを船から降ろす必要性が見出せないでいた。あんなに楽しそうにしていて、憧れのレニー・コート・グランド・佐竹氏のそばで働く価値を見つけたりのちゃんを、懐旧になりつつある佐竹への懸念だけで、連れ戻していいのか?と思う。

 自分達のしようとしている事は、自己救済ではないか?

 7年前に、どうして?何故?俺たちは何もできないんだ?と悩んで取り残された想いを清算するための、自己救済。

それは、エゴイズムだ。

 短くなったたばこを、柵の手すりに押し付けて火を消した。防火塗装はばっちりで焦げ目もつかない。指ではじいて海に投げ捨てる。その行為もエゴ。この世はエゴが絡み合って成り立っている。そう割り切れれば、りのちゃんを船から降ろすことに罪悪感を覚えなくて済むが・・・。

 踵を返して振り返った亮は、不意打ちに驚かされて不覚にも叫んでしまった。

「脅かすなよ!」

 横柄に亮の席に座る棄皇。

「お前が勝手に驚いているのだ。」と冷たく言い放つ。

「いやまぁ、そうだけど、いつからそこに居たんだよ。」気配も何もなかった。

 棄皇は亮の言葉を無視して、デッキに出て来たなりきり海賊店員に手を上げる。

中「こっちだ。」馴染みとなった黒いチャイナ風の衣装、テロの時より生地が薄い素材になったのか、上げた手の動作にシャララと肘まではだけた。

 店員が赤い陶器のボトルと猪口を置いていく。書かれた文字が中国語だ。

 亮の注文したビールを脇に移動させ、立ったままの亮に一瞥をする棄皇。

「頭が高い。」

(こんな所で跪けって事なのか?)と驚愕した亮に、棄皇は鼻で笑った。

「冗談だ。」と隣の椅子を足で蹴ってテーブルから引いた。

 横柄な態度の悪さは相変わらずだ。

「ビールよりも旨い酒を教えてやろうと思ってな。」

赤いボトルの栓を開ける棄皇。仕方なく亮が椅子に座っている間に、二つの猪口に注いだ棄皇は、すぐに白酒を煽った。

「旨い・・・数ある白酒の中でもこれが一番だ。」

 そう言って空になった猪口にまた注いで煽る。飲みっぷりがいいのは、リニアの時と同じで、亮はまた見惚れる。

 飲まないのかとでも言うように顔を向けられて、亮も猪口を手に取り煽ぐ。

「きっつう・・・」咽た。

 ボトルを見れば、アルコール度数52と書かれてある。

「アハハハ、やっぱりお前は弱い、酒も。」

 そう笑って棄皇は3杯目を煽る。

「注ぐのが面倒だ、お前が飲まないならこのままいくぞ。」

 そう言って白酒の陶器ボトルを掲げる。

「どうぞ・・」

(そういえば、神は、無類の酒好きだ。)

 神話に出てくる神々は、常に酒を飲み、民はお神酒を捧げて神々のご機嫌を取る。白酒の瓶をそのまま煽る棄皇の様相は、そんな日本神話に出てくる神々のようだ。

(やはり、こいつは神の子、神皇家の継嗣。)

「柴崎麗香の流れた子は、お前の子か?」

「なっ!」

 突然の詰問にまた咽せそうになった。

「なんだ、違うのか・・・。」

「なんだ、って、何だよ。」

「昨晩、PTSDの恐怖を取り除いた時、悲痛に嘆く罪責も読めた。取り除く恐怖とは別物だったからな。流石に誰が父親かまで読み取るに至れなかった。あの時の言辞は必要なく、古からの念に素直に従い、交合済んだ後だったのかと思ったのだが?」

「交合って・・・」

「セックスの事だ。」

「意味を聞いたんじゃねぇ!」

 思わず突っ込んでしまい、焦ったが、棄皇は気にする風でもなく、また徳利を煽る。

「棄皇・・・お願いだ。麗香のその罪責も消してくれないか?」

「お前のその庇護はエゴだ。たばこの吸い殻を海に捨てたのと同じ。」

「何?」

「灰皿まで戻るのが面倒、だから手すりで火を消し海に捨てた。柴崎麗香の傷ついた心を繕う面倒さを、お前は放棄したいのだ。」

「そんなこと、俺は麗香の事を思って。」

「あぁそれも言い訳のエゴ、本当にそれをすれば、柴崎麗香は人ではあらぬ者になる。」

「どういうことだよ。人ではあらぬって。」

「お前は、柴崎麗香を、子を失っても平然といられる冷徹無感の女にさせたいのか?」

(あっ・・・)

「PTSDの恐怖を消したのは、生活に支障なく暮らせる為の、最低限の処置だ。」

 浅はかな亮の想いよりも、思慮深い棄皇に意外性を感じたが、素直に、その指摘に反省した。

「ありがとう。麗香の代わりに礼を言うよ。」

 棄皇は鼻を鳴らし、酒を煽る。

「・・・あのテロには、我にも罪責がある・・・」つぶやいた言葉は、ちょうど海鳥の鳴き声と被ってよく聞き取れなかった。

「柴崎麗香には、ちゃんと役に立ってもらわなければ困るからな。」の言葉は良く聞き取れた。

 やっぱりエゴ満載の棄皇に意外性はなく、亮は飽きれてため息を吐き、ビールジョッキを手にして飲んだ。ぬるくなって、おいしくない。

 棄皇は、海賊成りきれない店員を呼びつけ、白酒の陶器のボトルを返しながら中国語で話す。中国語はわからないが、仕草でもう一本頼んでいるのは間違いない。棄皇の手元に二本目の白酒が届いて、亮の手元にあるぬるくなったビールが半分に減って、やっと、亮はその疑問を口にした。

「なぁ棄皇、何故、俺たちを呼んだ?」

 棄皇は亮に顔を向けたが、答えない。

「お前は、俺たちに頼らなくても、なんでもできるじゃないか。りのちゃんを船から降ろす事もたやすくできるだろう。」

 海の方に顔を向けた棄皇。サラサラの髪が風になびく。

「術を使えば簡単に。」

二本目の白酒も直飲みで煽る棄皇。そのまま何も答えないのかと思ったら、白酒のボトルをテーブルに置いて、椅子に深く背をもたれ、口を開いた。

「そう、簡単だ。お前らを呼ばずしても下船させるだけなら。りのをただ、下船させればいいのではない。りのが心意に納得して、船を降りなければいけないのだ。術任せに無理やり心意を曲げれば、その術が解かれた時、反発が起こる。」

「反発?」

「無理に曲げた物質には元に戻る性質があるだろう、それと同じ、無理にりのを佐竹から離れさせて下船させれば、術が解かれた瞬間から、りのは佐竹の所へ戻ろうとする。どんな手を使ってでも、その反発は、曲げられる心意に違いがあればあるほど強く起こる。特にりのは、他の者よりその反発が強く出る。」

「どうして、りのちゃんだけ強く?」

「りのは我、我はりのだからだ。」

 リニアに乗っていた時に聞いた、そのフレーズ。

二人は太古の昔、同じ人であって、狂いそうになった精神を分裂させて保ったと聞いた。その分裂したまま生まれ変わったのが、りのちゃんと棄皇。その話はにわかに信じられないが、棄皇の持つ力に基づき、性質から考えれば、嘘を言っていると断言できなかった。

 海鳥がまた餌を求めて上昇して来て、亮がタバコを押し付けた手すりに止まった。海鳥が鳴き、羽根をついばむ様子を眺めた。

「だけど・・・あんなに楽しそうなりのちゃんを見たら、無理に船から降ろすのは酷だと思う。」

「だから、無理やりではだめなのだ。」

「慕う心をどうやってあきらめさせるって言うんだよ。」

「お前じゃない。新田だ。それができるのは。」

(わかっている、自分はいつだってサポート役だ。)

「緋連の生まれ変わりである新田は、りのを慕い抜く。」

「そもそも・・・俺には佐竹氏がそれほど危険だとは思えない。」

「新田の、りのを慕う魂さえあればいい。」

(答えになっていない。)

「じゃ、何故、俺にまで乗船チケットを送った。」

「おまけだ。」

(むかつく。)

 隠さず、その怒りを表情に出して向けた。

「新田だけに送ったところで信用しないだろ。お前達3人に送ったからこそ、お前らは疑念を持ち、台湾にまで来た。横浜で待っていてもよかったものを。」

 まあ、そうだ。その意見も誰かしら出た。棄皇からという事で警戒し、思惑を外すという考えで行かない選択もあった。だけど自分達3人は、どんな思惑、危険があっても、りのちゃんというキーワードには、絶対に無視できない。それが亮達のエゴだ。

「佐竹代表は一流のエゴイストだ。大義の為なら冷徹非道に何でもしてきた人だ。」

「それを知っていて何故、お前や凱さんは、レニー・コート・グランド・佐竹氏の側に就いているんだ?りのちゃんはダメで、自分たちは良いは、りのちゃんも納得しないだろう?」

「そうだ。だから我の説得にりのは聞き耳もたずだ。」棄皇は白酒のボトルを口に持って行ったが、空だったのか中を覗き込んでは、残念そうにテーブルに置いた。

「我と柴崎凱斗もまた、りのと同じに代表に魅了されているのだろう。代表が我らを容赦なく消す事ができるとわかっていても。」

 そう言って、遠くの海をまぶしそうに眼を細めた棄皇。レニー・コート・グランド・佐竹氏が、神の子である棄皇までも魅了する羨望の存在であることが肯定された。

「お前も気をつけるんだな。」

「えっ?」

「魅了される前に、りのを連れて下船しろ。」そう言いながら、椅子から立ち上がった。50%超えの強い酒を二本も空けても足取りしっかりと扉へと歩む。呆れて、ため息交じりに視線を落とすと、棄皇が座っていた椅子にハンカチがあるのに気が付いた。

「おいっ、忘れもの!」

 わし掴んで気づく、見覚えのある柄、そして刺繍、R・Kは亮のイニシャル。

テロの時に棄皇の腕に巻いたハンカチだった。血の染みなくちゃんと洗って、皺ひとつなくきれいにアイロンがけされ折りたたまれている。

(もしかして、これを返したくて?)

棄皇はすでに店から出て行って姿はない。

「そんな律儀だったか?お前?」

 ふと、これをアイロンがけしている棄皇を想像し、吹き出しそうになる。

(まさかな、寮で洗濯機の使い方もわからなかった奴だ。するわけがない。)

クリーニングに出したんだろう。

(それにしてもこんなの、「棄て」てもよかったのに・・・)

 その単語を出した自分に嫌気がさした。残っていたビールを煽り、飲み干す。

 最低に不味い。













 乗船して2日目、7階のEエリアにあるトルコ料理のお店がとてもおいしいと、りのから聞いた情報を二人に言うと、じゃディナーはそこにと、あっさり決まった。船内には、フランス料理やイタリア料理店は当たり前のことながら、アジアを周航する船ということで、アジア各国の専門店があった。小さい店ではネパール料理店というのもあって、ここに居れば、現地に行かなくてもアジアの国々の料理が味わえる。

 世界三大料理の内のトルコ料理を、麗香は訪れたこともなければ食べたこともなかったのは、藤木も新田も同じで、出てくる料理に一喜一憂して美味しく頂いた。おすすめのコース料理がデザートになったころ、店内でトルコ民謡による楽器演奏パフォーマンスが始まり、麗香たちはわざと長くそれを鑑賞した。部屋に帰っても何もすることがない。テレビは衛星で日本の番組を見ることができるけれど、全チャンネルを見れるわけじゃなく数が少ない。それに、せっかく豪華客船に乗船しているのに客室でテレビ視聴も趣なく勿体ない気持ちもある。

 その演奏が終わって、店内の客が一斉に帰り支度をしてウェイターに支払いを求めたので、藤木がサインした伝票とクレジットカードがなかなか返って来ない。

「それとなくね、昔の思い出話も出しつつ、新田たちもプールに誘おうよって言ったりしたんだけどねぇ。」

「ダメか・・・」

「えぇ、新田の名前を出すと黙っちゃうのよ。」

「はぁ、このままじゃ、何も進まないな。」

 今日は夏のような天候となり、船尾にあるプールに行こうとなって、りのと二人で遊んだ。その時の様子を二人に話す。今の所、麗香だけがりのと話せる唯一の手段だったけれど、麗香だけではりのを説得できない。説得とならずとも、昔みたいに3人で過ごすことが出来ればと思い、麗香は頻繁に二人の話を出すのだけど、りのは、特に新田の名前を出す黙ってしまって視線を逸らす。

「明日も会うのか?」

「ええ、明日は操舵室とかエンジンルームとかを案内してくれるって。」

「操舵室に?」

「うん、特別に許可をもらったからって、船長と仲良しなんですって。」

「へぇー、いいなぁ。」藤木が羨ましがる。

「もちろん、二人にも見せたいわって言ったわよ。船長には私の分しか許可取ってないって、言われたわ。」

「そうか。」落胆する藤木。

 やっとウェイターが来て、藤木のクレジットカードが戻って来た。藤木は確認することなく領収書とクレジットカードをジャケットの内ポケットにしまい立ち上がった。麗香達はトルコ料理店を出る。時計は9時53分を表示していた。部屋に戻る時間を少しでも遅くしたい気持ちの表れか、いつもは大股で歩くのが早い新田までもが、至極ゆっくりと歩いていた。

 日本に居る時と同じ時間が流れているというのに、どうして船での生活はやたら時間が経つのが遅いのだろう。1エリア100メートルあるはずの距離は、時間つぶしにもならい。

 中央のクリスタルエレベーターの手前で、麗香はりのとの会話を思い出し、二人に提案する。

「ね、ちょっと寄り道して行かない?」

 二人が振り返る。

「いいよ、どうせ暇だし。」

「夜のプールがとってもきれいなんですって。」

「そういや、パンフレットにも載ってたな。」と新田。

「じゃ、Uターンして船尾へ。」と藤木。

「違うの。スライダーのあるプールじゃなくて、3階のEエリアの真ん中にもプールがあるらしいの、そこの夜間のライトアップがすごくきれいで、りののお気に入りの場所らしいわ。」

「3階にあるってことは、スウィート専用なんじゃないのか?」

「ううん、一等客室でも利用できるの。私たち昼間はスライダーの方に直行しちゃったから、そっちのプールには行けなかったのよね。」

「夜も泳げるのか?」

「ええ、スライダーの方も夜10時までやってるわよ。でも流石に夜は寒いから、今は誰も泳いでないわよ、きっと。」

 昼間は夏並みに蒸し暑かった気温も、日が落ちると肌寒く、麗香はワンピースの上にジャケットを羽織っている。新田も朝からTシャツ一枚だったのが、今は長袖のシャツを重ね着していた。藤木は、流石にネクタイはしていないが、基本カッターシャツにジャケットという組み合わせを崩してはいない。

「その3階のプールね、プールサイドでお酒も飲めるらしいの。」

「へぇー珍しいな。」

「どっちかっていうと、泳ぐよりも夜景とお酒を楽しむ人が多いんですって。」

「じゃ、夜景を見ながら一杯と嗜むか。」

 藤木が飲む仕草をして私たちは、また歩み進める。

 全部で12の階層のあるうち、6・7・8階はレストランやブティック、劇場、カジノなどの娯楽施設が集中してあり。その階を境に5階から上は総じてプレミアム階層と区別される。そのため、娯楽施設より下の宿泊客はプレミアム階層に入れないようになっていた。全階層に停まるエレベーターは、中央のクリスタルエレベーター以外にはなく。そのクリスタルエレベーターを出たホールと客室エリアの境にはセキュリティロックのついた扉があって、プレミアム階層の部屋のカードキーがないと客室へは入れない仕組みになっている。

 今、麗香達は7階EエリアからDエリアに向かって歩いている。お酒が飲める夜景のきれいなプールへと行くには、全階層に停まる中央クリステルエレベーターを利用し、ホールにあるセキュリティドアをカードキーで開けなければならない。

 2機あるクリスタルエレベーターは、全階層の客が使用するのでいつも混み気味で、人数オーバーで見送る事も多々あり、そうなると次に乗り込めるまで結構な時間を待つ。時間を持て余している麗香達は、そうした待つ時間はありがたく、乗り込んだエレベーター内で10時の時報を聞いた。

 3階Dの端、デッキの扉を開けて外に出ると、そこは、日本では見たことのない世界が広がっていた。麗香はおもわず感嘆の声をあげる。まるで写真集の中に入ったよう。南国のリゾート風で、プールは浅瀬のビーチを思わせる。流石に砂はないけれど砂浜を模した色素材の床で、どういう施工になっているのか、本物のヤシの木がその床から生えている。そして最も釘づけになったのが、その海を思わせるプールの水面は、オーロラのように虹が波打っていた。

「りのがお気に入りって言ったの、わかるわ。」

「あぁ。」

 虹のプール。いいえ、あれは虹の海。あそこで泳げば、虹の中に入ったような感覚になるだろう。

りのが大好きだった「願いのために」という絵本の世界がここには広がっていて、船を降りたくない理由がここにもあると思った。

弧状の海岸線のようなプールサイドに、点々とテーブルとデッキチェアが置かれている。やはりプレミアム階層の客に人気の場所なのだろう、空いている椅子はなかった。花壇のヘリに座っているカップルもいるから、テーブルと椅子がなくてもお酒は飲めそうだ。

虹色の光がまどろむ幻想郷の奥へと、麗香達はゆっくり歩みはじめた。

そして聞こえてきた喜々とはしゃいだ声に、三人は同時に足を止めた。

仏「あははは、それからどうなったの?」

仏「それから、私は逃げた。もう一目散に後ろ振り返らず、ところが橋まで来た時、前からも追手が来てね、挟まれてしまった。絶体絶命のピンチ。」

仏「それから?」

仏「逃げ道は?」

仏「川しかないわ。」

仏「私は絵を持っているんだよ。」

仏「あぁ・・絵が濡れてしまうわ。じゃ、空?仲間が助けに来てくれたの?」

仏「そんな都合よく仲間は現れないね。私は単独で行動していたし。」

 りのが虹色の水面へと向けられたデッキチェアに座り、褐色の肌の男の人と話をしていた。褐色の肌の男は徐にグラスを手に取りワインを飲み干して、続いてりのが飲む、その見つめ合う距離がとても親しげだった。

仏「私は、絵をこうして頭に掲げて川へダイブ。」

仏「ああ、そうね!絵をずっと頭に掲げていたら絵は濡れないわ!」

仏「あははは、そうすると私は泳げないね。」

仏「あ~、そうね。じゃぁどうしたの?」

「何のお話しているのかしら、とても楽しそうね、りの。」

「あれがネルソン・アデミール。」

「あれが?」

「疑惑の?」

「もういいよ。」

 藤木と目を見合わせて苦笑した。

「あらゆる言語が飛び交うこの世界は、りのが才能を十分に発揮できる、天職の場所なんだわ。」

あんなにも輝いた目をしたりのの記憶を、麗香は持っていない。麗香がりのと出会った時には、りのは酷いいじめに合いその心が壊れてしまっていた。

「自身の能力を十分に発揮できている時ほど、充実した日々はないよな。」

「りの、夢を見つけたのね。」

 夢がないと嘆いたりの。そのりの手を繋いで輪にした中等3年の夏。今判明する、あの輪がりのに何ももたらさなかった事を。自分達は稚拙だった。りのは常に日本に失望し、世界に救いを求めていた。りのは、私たちの繋がりなど要らなかったのだ。なのに、私たちはまた、稚拙に繋ぎ留めをやろうとしている。

「夢を求める事が、幸せにあらず。」

 突然の背後から声に、麗香は短い悲鳴を上げた。

いつから居たのか、弥神君が麗香達のすぐ後ろに立っていた。

「やっ・・」

 麗香は呼び方を間違えそうになって、慌てて口を塞ぎ、言い直す。

「き、棄皇・・様。」

 言いなれない名前に戸惑うと、「呼び捨てでいい。」と断言されてしまった。

「その現れ方、やめろよ。」

 つぶやいた藤木に、弥神君は睨みつける。

「夢を求める事が幸せにあらずって、どういうことですか?」

「人の夢と書いて儚いという。」

 その漢字を頭の中で描いて、あぁ、なるほどと感心する。

「りのが今経験しているのは、束の間の儚い幻想。儚い幻想に幸せなどない。」

「お前がりのの何かを語るな!」

 麗香を押しのけて弥神君に食って掛かる新田。

「お前が奪ったんだろ!7年前に、りのの夢をっ」

「夢などこの世にあらず。」

「ふざけんなっ」

「夢を求めるのは現実からの逃避。」

「りのを刺した現実から逃げたのはお前だ!俺はお前をっ」

 新田が弥神君の胸倉をつかむ。 

 こんなところで暴力沙汰になったら、マルセイズとの契約がダメになるどころか、大きなスキャンダルになり選手生命は断たれる。それに、それよりも、その殴る相手、神皇家の継嗣に掴みかかるのは、許されることじゃない。

「やめろっ!」

 麗香の思考より早く、藤木が新田の振り上げた右の拳を、肩ごと抑え込んで止める。

「暴力はだめよ。」

 麗華も弥神君の胸倉を掴む新田の腕に縋りつき、抑えた。

「新田、本当にやめろよ。」

 胸倉をつかまれている弥神君は、神皇家の風格か、顔色一つ変えないで堂々と新田を見上げている。

「7年前の後悔は、りのを船から降ろせた報酬にくれてやる。」

「何をっ!」

 新田の怒りが収まらない。降ろした拳をまた振り上げようとしたのを、藤木と共にまた力を入れて抑え込む。

「やめろってっ。」

 弥神君が掴まれている新田の手を握った。すると新田は喘ぎ声を発して胸倉から放した。それほど強く握ったようには見えなかったけれど、新田は下手な演技をしているのかと思うほど痛がった。そんな新田を押しのけ、弥神君はりの方へと向った。

「りのと話をしろ。場を作ってやる。」

「あいつ、何を・・・。」













 弥神に掴まれた手がしびれたように痛い。

(あいつ、何をした?そして何をするんだ?)

 止める間もなく、弥神はりのとネルソンさんの座るデッキチェアへ向い、背後に立ち声をかけた。

 それまで楽しそうだったりのは、弥神の出現に瞬時に表情を険しくした。

中「ネルソン様、お楽しみ中、申し訳ございません。」

中「おお、君は、グランドの諜報員の・・・。」

中「棄皇です。お久しぶりです。」

中「そうそう、棄皇だ。君も乗っていたのか、この船に。」

中「はい、ジャカルタから乗船しております。ご挨拶が遅れて申し訳ございません。」

 流暢に中国語を話す弥神に慎一は驚いた。ネルソンさんにも。

(中国語を話す美術品商人・・・怪しさマックスだ。)

「あいつ、中国語を。」

「棄皇は、あれからずっと中国で、凱さんの知り合いの武道家の所に住みこんで修行をしていたんだ。中国語と武術が認められてレニー・コート・グランド・佐竹氏に就いたと。」

(だからあんな服を?)

 中国語を話す弥神は、日本人だと見る人の方が少ないんのではないかと思うほど、その姿が馴染んでいた。

中「いいさ、事情は知っている、それも彼の策だ。」

中「頭目が、6階Bの17シレーヌでお待ちです。」

中「あぁ、そうか・・・そうだった。」

 ネルソンさんは立ち上がると言語を変えた。英語なら何を言っているか慎一はわかる。

英「ミスりの、申し訳ない、グランドと明日の打ち合わせがあったんだ。」

英「それなら私も。」

中「ネルソン様、ミスりのにも約束がごさいます。どうぞお構いなく。」

 弥神が、二人の視線を慎一達へと誘導させた。りのはこちらを視認すると、増々眉間に皺を寄せて険しくする。

英「おや、これは申し訳ない。つい長く話し込んでしまった。」

英「ちがうわ。ネルソン様、約束など。」

英「ミスりの、続きは明日に。明日も素敵な夜を楽しみにしているよ。」

 そう言ってネルソンさんはりのの頬にキスをし、こちらに歩んでくる。そして慎一とのすれ違いに肩をポンと叩いた。

英「明日、よろしく頼むよ。」とネルソンさんは豪快な笑いを残して、出口へと去っていく。

 りのは、慎一達から背を向けて、慎一達のいる方向とは反対へ向かおうとする。しかし弥神が手首を掴んで止めた。

「放して!勝手なことしないで。」

 掴まれた手を振り払おうとしたりの。だけど離れず、弥神はその手を肩ごとにひねりあげた。りのは体を折って悲鳴を上げる。

「痛い、や、やめてっ、放してっ。」

「やめろっ、何をするんだっ。」

 慎一はダッシュで駆け付け、止めさせようと肩に手をかけた寸前、ばっとりのから手を放した弥神。そしてお手上げの仕草をして、にやりと笑う。

「お前・・・」

(俺を誘導させるために!?)

「役目を果たせ。」

 弥神は、慎一に耳打ちをしてからその場を離れていく。

 憎い。りのを平然と傷つけるあいつが、だけど、もっと憎いのは自分自身。憎いあいつを一度だって殴れていない。

 りのは肩と手首をさすって、まだ痛がっていた。

「大丈夫か?」

 りのは、慎一の言葉を払い落とすように、さすっていた手を止めた。そして、慎一の視線から逃れるようにテーブルへと向きを変え、残っていたワイングラスを手に取り一息に飲み干した。小さく息を吐いた後、ガラス製のワインクーラーからボトルを取り出す。細い指先はワンピースの桜色と同じデザインのネイルが施されていた。それに見惚れる。

風になびく髪、虹色にライトアップされたプールから反射して照らされた白い頬、ワイングラスに注がれる音、全てが、りのを彩り演出するスポットのよう。

「りの・・・」

 意味なく、ただ名前だけをつぶやいた。そのあとに自分が、何を話し始めるのか自身でもわからないまま。

「こんなところで油を売っていて、いいのかしら?」

「えっ?」

 予想外に、りのから質問されて瞬時に応答ができない。

「移籍で忙しいのではなくて?」

「いや・・・今は、俺自身は何も、スポンサーとかの調整がややこしいだけで、それもサッカー連盟や柴崎理事長達がやってくれているから。」

 そう答えた慎一に、見向きもせず風で揺れたヤシの木の葉を仰いだりのは、靡いた髪を耳に掛けた。ドロップ型のイヤリングがきらりと光った。

 しばらく話さない時の間。波と風の音の合間に、船内からこぼれ流れてくる音楽に意識を向けようとしている自分に、そんな事をしている場合ではないと言い聞かせる。

「えりが・・・結婚するんだ。」

 他に気の利いた話題もなく、切り札の話題を出した。

「・・・聞きました。」

 その言葉がよそよそしく敬語である事に違和感を覚えながらも、先を続ける。

「結婚式には、絶対にりのに出席してほしいとえりが・・・、りのが帰ってくる事、ずっと待っていたんだ。えりは、俺よりもりのの出席を望んでいてさ。慎にぃなんてどうでもいいだとさ。」

 この話題しかない慎一は、それ以上の話を続けられない。テーブルに置かれたワインボトルは、もう7割ぐらいまで減っていた。

「・・・・。」りの

 りのは、ゆっくりとワイングラスを手に取り、仰ぎ飲み干す。空になったワイングラスを目の高さに上げて見つめるりの。その仕草にどんな意味があるのか、わからない。

 耳に光るイヤリング、肩に掛かるウェーブのかかった髪、軽く頬を彩るチーク。見るからに柔らかい無防備な素材のワンピース。不安定そうな白いピンヒール。何もかもが慎一の記憶にはない大人になったりのの姿。離れていた時期の長さを感じた。

 また、無の時間が進む。

「りの・・・みんなが、りのが帰ってくるのを待っている。」

 カツンと音を立ててグラスをテーブルに置いたりのは振り返る。瞼に塗られた水色のアイシャドー、きれいに整えられた眉、きっちり縁どられた唇、完璧な美を尽くされたその顔で、りのは慎一を真直ぐ見つめて歩み寄る。

「それは、誰かしら?」

「えっ?」

 見惚れて聞いてなかったわけじゃない、誰と聞かれる意味が分からなかった。

 すでに至近距離まで近づいているりのは、更にもう一歩踏み込み、慎一を見上げる。

「私は、ミスりの。」

「りの?」

「ミスりのよ。」

 その微笑みは、創られた完璧の美。

「私はミスりの、ミスター・グランド・佐竹のビジネスパートナー。」

 おもむろにりのは手をあげ、慎一の首の後ろへとまわした。その動作で、ワンピースの胸元が大きく開き、チューブトップの下着が丸見えになる。慎一は慌てて顔をそらした。そらした慎一の顔をりのは両手で頬を挟んで戻す。

「新田慎一様、何がお望み?レニー・ライン・アジアのスポンサーを断ってまで。」

「俺は・・・りのを・・」

「あなた達が待っているりのは、もう、どこにもいない。」

 この完璧に創られた美を強調した目の前の女性は、確かに慎一の記憶にあるりのではない。

「私はミスりのよ。」

 そう囁き、慎一の顔を自身に寄せる。赤すぎる唇が迫って、慎一のと合わさる寸前、ワインの匂いが漂った。

咄嗟に突き放していた。よろめいたりのはテーブルにぶつかり、残り少なくなったワインボトルが倒れ、ワイングラスと共に床へと落ちて転がる。強化グラスだったのか、グラスは割れなかった。けれど、ワインボトルはコルク栓が外れて、赤い液体が流れ出る。

「ご、ごめんっ。」

 プールサイドを巡回しているウェイターが音を聞きつけて、駆けつけてくる。

英「丈夫ですか?お怪我はございませんか?」

英「すみません。」

 慎一は落ちたグラスとボトルを拾うウェイターに謝った。

英「お召し物は汚れませんでしたか?」

英「ええ、大丈夫。」りのが答える。

英「今すぐ、ふき取りますので。」

 ウェイターはワイヤレスマイクを使い他の店員を呼んだ。こういうことは日常茶飯事なのだろう、すぐにモップを持った別の店員が現れて手際よくこぼれたワインをふき取っていく。

 りのはウェイターに新たなワインとグラスを注文し、椅子に座った。

「私はミスりの。なんでもするわ。ミスターの為なら、あそこで裸で泳げと言われても、喜んでするわ。」とまっすぐプールへと指さす。

「どうして・・・どうして、そこまであいつ、佐竹の言いなりになるんだ。」

「好きだからよ。」

 りのは即答して、足を組んだ。

「・・・グレンは?」

 そう、グレンの事を思い出した。りのと連絡が取れないと困って慎一に連絡して来たグレン。

「・・・・。」

「グレンも心配している。りのと連絡が取れないと俺の所にまで電話をしてきた。フランスでグレンと一緒に住んでいたんじゃなかったのか?大好きなグレンと。」

「誰かしら?」

 どこまでも『ミスりの』を演じ続けるりのに、慎一の言葉は届かない。昔からそうだった、りのは慎一の助言ごときで動くはずがないのだ。それは船に乗る前からわかっていた事だ。それでも、こんな所まで来たのは、周りが理想として期待する「りのを一途に想い寄せる新田慎一」像になろうとしていた為ではないのか?。

 新しいワインボトルを盆に乗せたウェイターが、クーラーごと替えて置き、ご丁寧に慎一の分のグラスまで用意した。

「乾杯しましょうか。妹様のご結婚とマルセイズの移籍を祝して。」

 日本語がわかるのか、そう言ったりのに、にっこりと微笑んだウェイターが姿勢よくワインを注ぐ。

 座らない慎一に、どうぞと促すウェイターに背を向けた。












 そして一人になった。

 いつか読んだ小説のフレーズ。

 テーブルには二つのグラスに注がれたワイン。飲む相手のいないグラスが一人を強調する。自身の前に置かれたワインを一気に飲み干した。飲み過ぎて、もう、胃の中は苦しいぐらいに飲み物を欲していない。酔いの要求だけに、無理やり口に入れるワインの味などわかるはずもなかった。

 ポタリとワンピースの膝の所に水滴が落ちてシミが広がった。

もう一つ、そして、二つ・・・数が増えるシミを手でぬぐう。

(どうして・・・)

「その涙が、りの、お前の心意だ。」

「涙なんか・・・」

(泣いてなんかいないわ。泣く理由がないもの。)

「嘘をついた自身に傷ついている。」

「私は嘘なんてっ。」

「それでも新田は、限りなくお前を許す。」

 胸が熱く苦しくなった。

「何度、同じことを繰り返すのだ。」

「それをさせたのは誰よっ。」

 振り返り睨んだつもりだったけれど、留まっていた涙で視界が歪んでよく見えなかった。

「心意に素直になれ。それが最善の選択。」

 棄皇はくるりと背を向けて、音もなく暗闇に溶け込んでいく。

 また一人になる。

 眼を深く瞑り、目の中にあった涙を出し切った。

 何が最善の選択?

 それは、あなたにとっての最善の選択。

 私のじゃない。

 私はあなたの魂のスペア。

 求めているのは私の幸せじゃない、

 自身の幸せ。












中「ご心配には及びません、私に任せていただければ、あなた様は今までと変わりなく・・・ええ、はい。もちろんです。それが私とあなた様の縁というものでございましょう。ご安心を。・・・・ええ、では、失礼します。」

 頭目が長く時間のかかった電話を切ってから、舌打ちをした。

「同じことを何度もっ。」

 我は黙って頭を下げた。

「ったく二流の愚鈍が。社会主義政党のホープでなければ、付き合いに値しないものを。」

 フー・ジンタオ氏を陥れる計画は、うまく事運んでいる。だが、頭目は機嫌が悪い。誰しも、何もかもが癪に障る相手というものがいるものだ。それが頭目にとってフー・ジンタオ氏であった。そこまでしてフー・ジンタオ氏を取り込まなければならないビジネスが、どのようなものであるか、我はわからないし、知らされていない。知る必要がない。我と頭目の関係は、それこそが信頼の成り立ち。

「被害者の押さえは完璧か?」

「はい。大丈夫です。」

「今、勝手に弁護人を立てられて騒がれては元も子もないからな。」

「しっかり、首輪をつけて手綱いでありますので、ご安心を。」

「ふむ。どうやったのかは聞かないでおこう。これまでと同様。」

 頭目はロッキングチェアから立ち上がる。 レセプションルームの奥端、本棚の前で我と頭目はクレメンティを外して話をしていた。クレメンティもこういう状況には慣れて、我らが密談をすることに問わない。クレメンティと頭目もまた、我のわからない言語で話す逆パターンもあるからだ。

頭目が、レセプションルームの中央にあるデスクへと戻っていくのを、我も追う。そこへ、りのが自室から出てきて顔を出した。

クレメンティが一番に挨拶をする。

英「おはようございます、ミスりの・・・どうしたのですかっ!」

 クレメンティが悲鳴に近い叫びをあげて、りのに駆け寄った。

 りのの顔色が悪い。顔面蒼白で、立っているのが辛そうにレセプションルームの壁に手をついていた。

「どうした?ミスりの。」

英「なんでも・・・夕べ・・・お酒を、飲みすぎただけ。」

 頭目が目を細めた。りのは、頭目の言語に合わせるというルールに、ミスったことを気づいていない。

英「遅くなって・・・ごめんなさい。今日の会食、トンプソン夫妻との、」

「必要ない。部屋で休んでいろ。」

英「大丈夫よ。私・・・。」そう言うりのの声はかすれて、声を出すたびに肩を動かして息を吐く。

英「ミスりの、無理なさらずに。」擁護するクレメンティ。

英「大丈夫。私、トンプソン夫妻との会食、楽しみにして。」

英「ミスりの、私に恥をかかせるな。」

英「えっ?」頭目の真に怒った声に、りのは驚く。

英「二日酔いの女を連れて歩く無様な事ができるか。」

英「グランド様、そこまで言わなくても・・・。」

英「言ったはずだ、裏切りに容赦しないと。ミスりの、今のその姿は価値を裏切る行為だ。」

 りのは、唇を噛んで震わせる。

英「グランド様の言葉など気になさらずに、さぁ部屋で休みましょう。」

 優しい言葉でりのを宥めるクレメンティ、とは反対に頭目は、冷ややかな表情でデスクの書類を手にした。

英「ごめんなさい・・・。」りのはその場に崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。

英「ミスりのっ!」

英「医務室に行け!」

 頭目は苛立ちを露わに叫ぶ。

 クレメンティが苦言を言いかけたがやめて、しゃがみ込んでいるりのを労り、抱えるようにして部屋から出て行く。

 昨晩、りのが部屋に戻ったのは12時を超えていた。プールの閉鎖時間である11時半まで、ずっと飲み続け、ウェイターに促されて足取り重く出た後、2階のデッキでずっと海を見ていた。薄手のワンピース姿でいれば体調を悪くするのも当たり前だ。

「行ってもいいぞ。心配であろう、昔の女を。」

「いいえ。自業自得です。私も頭目と同じ思いに、容赦などできません。」

「ふっ、厳しいな。」

(頭目ほどではありません。)の言葉は言わずに飲み込んだ。

夢うつつでは、頭目の女として成りえはしない。頭目の厳しさを痛感しただろう。これで、船を降りる気になればいいが。










 昨日の夏のような天気と打って変わって、今日は朝から雲がどんよりと立ち込めて、外は不愉快な湿気に纏われていた。そのせいで、船外に出る客が少なく、船内がいつもより混み合っている感じがした。

ロビー前のソファーは、空きがなく埋まっている。麗香たちが来た20分前にはまだ数席空いていたが、すぐに埋まってしまい、空きのないロビーの様子に、落胆の様子で立ち去っていく客たちも出始めていた。

前に座っていた客が忘れて行ったのか、わざと置いていったのか、中国語の新聞がテーブルに置かれていた。向かいに座る藤木がそれを手に取り、広げて見始めた。

「わかるの?中国語。」。

「いいや、まったく。所々にわかる漢字を見つけて眺めているだけ。」

なんとなくほっとする麗香。これで、わかるなんて言われたら、いつどこで勉強したのって、追及したくなってしまう。それをする自分が嫌だった。嫌ならしなければいいだけの事が、何故か藤木に対しては出来ない。麗香の知らない事が藤木にあることが、たまらなく我慢できないのだ。

「遅いわ、りの。」

「時間を間違ったんじゃないのか?」

「そんなことないわ。2時って言われたもの。」

 待ち合わせの2時を20分も過ぎていた。今日はお昼に大事なお客と会食があるから余裕をもって2時に待ち合わせしようと、りのに言われていた。その会食が長引いているのかもしれない。

 昨晩、弥神君が新田に与えたチャンスは、二人きっりにしてやれと言う弥神君の計らいで、麗香達は様子を見守る事が出来なかった。新田は昨日の事を話題にもしない。それが、りのとの関係に進展がなかったものと麗香は捉え、追及もしていない。その新田は今、美術商のネルソンさんと、オークションの準備があると、麗香達とは別行動をしている。

 意味なくため息を吐いたら、後ろから声をかけられた。

英「柴崎麗香様、遅れても申し訳ございません。」

振り返ったら、クレメンティさんが姿勢よく立っている。

英「藤木亮様も、ご一緒で、申し訳ございません。」

 クレメンティさんは腰を折って謝る。何を謝られているのだろうか?聞きたいのだけど、英会話は咄嗟には出てこない。

英「どうしたのですか?」英会話の得意な藤木が聞く。

英「ミスりのは体調を悪くして、ここには来られません。」

英「操舵室を案内する約束であることを聞きましたので、私が代わりを務めさせていただきます。」

英「彼女の容態は、大丈夫なのですか?」

英「夕べ遅くまで外で飲まれていたようで、飲みすぎに加えて風邪を引いたようで。ご心配には及びません。今、医務室で休まれています。」

「りのちゃんの代わりに、クレメンティさんが操舵室を案内してくれるって。」

「私、そこまでして操舵室を案内されなくても、それよりも、りのが心配だわ、看病してあげたいわ。」

 藤木が頷いて、クレメンティさんに通訳をする。

英「わかりました。ミスりのもきっと喜ぶでしょう。ご案内します。」

 麗香たちはソファから立ち上がった。医務室はロビーと同じ6階の船頭のAブロックにある。

 赤い十字の描かれた観音開きの白いドアの片方だけを開けて、クレメンティさんは「どうぞ」とエスコートしてくれる。

 ただの飲みすぎなら部屋で休むはず。風邪もひいて、医務室に来ているって余程のこと、昨日の新田との話で何かあったと麗香は勘繰る。

 入った医務室の中も白く、要所に黄緑色のラインで縁どられていた。入り口のすぐそばにカウンターがあって、反対側に長椅子のある配置、スモークガラスの衝立の向こうが診察室なっているようだ。

 クレメンティさんが、カウンター内にいる看護服を着た女性に身振り手振りで説明している。私たちの訪問を許可してくれるように頼んでくれている様子。看護師さんは一旦衝立の向こうに姿を消すと、すぐに戻ってきて、オーケーと微笑んだ。

英「どうぞ、こちらです。」クレメンティさんが、私たちを衝立の向こうへと促す。

「許可されたってことは、症状は軽いってことだ。」私の不安をかき消すように、藤木がささやく。

「そうね。」

 藤木に背中を押されて、奥へ歩んだ。やっぱり、すぐの所に診察室、小さな引き出しに囲まれたデスクの反対側は横になって診察する診療台。白髪交じりで皺とシミだらけの年配の医師が椅子に座っていて、にこやかに頷いた。診療室は手前と奥とカーテンで仕切られるようになっているけれど、今は全開で奥まで見える。奥の壁に英語で手術室と書かれていた。ここで手術もできるんだと驚く。診療室を素通りして進むと、対面で4つの内一つのカーテンが閉められている部屋の前で、クレメンティさんは立ち止まった。どうやら完全なる個室というものはないらしい。出入口がカーテンなのは、何かあった時にすぐに避難する為だと推測する。開いている部屋の中を覗くと、左右の壁にベッドが置かれていて中央でもカーテンで仕切られるようになっている。学校の保健室の豪華版って感じ。

英「ミスりの、失礼しますよ。」

英「ええ・・・」りののささやき声。クレメンティさんがカーテンを開けると、りのは少し体を起こした。

「りの!いいわ、そのまま寝ていて。」

「ごめんね。麗香。」

 気怠い声が辛そうだった。顔色も悪い。麗香は早速側に寄り、りのの手を握った。手から伝わる体温が熱い。麗華の記憶では、りのも藤木と同じで冷たい手をしていた。額と頬を触ると、やっぱり熱かった。そしてまた手を握って祈る。

 実感はないが、自分のこの手は、人を癒す力があるという。卑弥呼由来の神巫族、触覚の力が。

「大丈夫、私が側についているから寝ていて。」

「麗香・・・ありがとう。」そう言って少し潤ませた目を閉じた。

英「クレメンティさん、彼女は何時から体調を悪く?」背後で藤木が小声でクレメンティさんに聞いている。

英「朝、起きてこられた時にはもう辛そうにしていまして、ミスター・グランドが部屋で休めと言ったのですが、ミスりのは大丈夫と言った直後に蹲れまして、医務室に運びました。朝からずっと点滴の処置をして、眠っておられました。目覚めたのが先ほどで、それから操舵室の見学の事を聞きましたので、申し訳ございません。遅れてしまいまして。」

英「いえ、遅れたことを責めているのではありません。彼女の状態を聞きたかっただけです。」

英「医師は、点滴して今日1日安静にしていれば治ると、ご安心を。」

 どうせ、半分ぐらいしか二人の会話はわからないので、麗香は祈りに集中する。

 藤木がそっと、麗香の肩に手を添えて顔を寄せた。

「俺が居ては、りのちゃんも安静できないだろうから、出るよ。」

「あ、うん。」

「頼むな。」

「ええ。」

英「クレメンティさん、外へ。そして、お願いがあります。よろしいですか?」

英「はい。なんでしょう。」

 二人が出ていくと、りのは、ゆっくりと目を開けてか弱い息を吐いた。

「麗香、ごめんね。」

「もういいの、謝らなくて。」

「うん。違うの・・・私・・・」りのは喉を詰まらせる。

「りの、今は眠って。私が側についているから。」

 りのは頷いて、目を瞑る。麗香も目を瞑り、早く治るように念を込めた。












 りのちゃんの体調悪化は、新田の事が影響しているのだろうか?

 昨晩、亮達は棄皇の二人っきりにしてやれとの言葉に従い、二人の話し合いを見届けることなく部屋に戻った。新田が部屋に戻って来たのは、それから30分後、亮の「どうだった?」の質問を、新田は無視して風呂に直行した後、ベッドに潜りこんだ。本心を読み取らなくても、そうした様子で、説得はうまく行かなかったと分かる状態だった。だから、それ以上の事は追及しなかった。

 医務室から出て、亮はクレメンティさんに申し出る。

英「あの、もし時間が空いているようなら、レニー・コート・グランド・佐竹氏との会談の機会を設けて頂けたらと。」

英「そうでしたね。ええ、もちろん喜んで。ちょうど、これからの時間があいていますから、聞いてみます。」 

 クレメンティさんは内ポケットからスマホを取り出し、コールする。そのスマホの裏面に何かのステッカーが貼ってある事に気づいた。よく見ると、ハムスターの写真のステッカーで、何故にハムスター?と理解に苦しむ。

英「ミスターグランドは、是非オーナー室へお越しくださいと。」

 亮は内心でガッツポーズをする。こんな機会は望んでも叶う事などない。いくら、亮の父親が外務大臣時代に懇親であったとして、そのコネから打診したとしても、世界企業レニーの大陸支部代表ほどの人が、時間を作れるはずがない。今日のこの機会は、りのちゃんと棄皇がもたらしてくれた奇跡のチャンスと言えた。

 レニー・グランド・佐竹氏がどんな話をするのか、はもちろん、オーナー室がどれほどの物かも興味がある。

英「すみません。無理を言って。」

英「いえ、大歓迎ですよ。ご案内します。」

 客船の最上階フロア、二重にセキュリテイを強化されたドアを通り入ったオーナー室は、ロフト式になっており、天井が高くベランダに出られる大きな窓が2面にあり、とても明るかった。今日はあいにくの天気だが、晴れていれば解放感に満ちていただろう。

 中央に置かれた重役クラスの大きなデスクから、レニー・グランド・佐竹氏は満面の笑みで立ち上がり、亮の訪問をオーバーアクションで歓迎してくれた。

「お忙しいところ、申し訳ございません。」

「この船で周航するビジネスも終点に近づき、忙しさもピークを越えた。もう新たな商談相手もいなくなって、余暇をどうしようかと思っていたところだったよ。」英「クレメンティ、お茶を用意してくれ。」

英「かしこまりました。」

 クレメンティさんは心地よい笑顔で、船の芯柱なのだろう丸くて大きな柱を回り込んで、仕切り壁の奥へと姿を消した。その仕切り壁には、日本製の大きな液晶テレビが駆けられて、その横には、亮たちの部屋にもある部屋の設備コントロールパネルがある。部屋の随所に鉢植えの観葉植物と、商談ができるような応接セットが置かれていても、窮屈に感じられないぐらいにオーナー室は広かった。凱さんが寝心地が良いといった長いソファーもある。

 そうして部屋の様子を窺っていると、レニー・コート・グランド・佐竹氏が上へ行こうかと、階段の方へと誘導してくれる。

「実は、上へあがるのは初めてでね。」と片目をつぶって笑う氏。

 それが嘘だとしても、臆する相手への配慮する姿勢が、自分の倍の年齢であってもりのちゃんが好意を寄せてしまうのも納得できる。

 氏の後に続いて階段に足をかけた時、ロフトの真下、本棚の脇に置かれた観葉植物が揺れて、それ自体が動いたような錯覚がして驚いた。

中「船内を巡回してまいります。何かございましたらお呼びください。」

中「わかった。」

 棄皇だった。

(ったく、人を驚かせる現れ方するの、やめろっつうの。)

 棄皇はレニー・グランド・佐竹氏に姿勢よく頭を下げると、足音もなく部屋から出ていく。

「柴崎凱斗、ミスりのや棄皇、新田選手や君も、常翔学園は逸材の宝庫だな。」

「いえ、私は逸材に入りません。」

「そうかな?稀なる私の余暇と、会談の機会をタイミング良く掴み取れるのは、才能と言っていい。凡人はそのタイミングを掴み取れないから凡人なのだ。」

 運の良さを一過性の幸運にするのではなく、掴み取る才能として相手の自尊心を上げる。亮の褒めどころがなく絞り出した文言だったとしても、相手を気分よくさせる話術には勉強になる。さすがは世界のレニーの大陸支部代表になる人だ。

 階段を上りきった所にリゾート風の籐で作られた椅子があり、進められて氏と共に座る。

「今、君は常翔学園の経営に携わっていると聞いたが。」

「はい。」

「世襲せずに、まずは常翔学園の経営に関わる事を考えたのは君自身?それとも父守氏の進言かな?」

「え?」

「教育機関に身を置いたという経歴は、有権者にとっては信頼の選択肢となるね。」

 政治家への道から逃げて、常翔学園の経営に携わる事が、そんな風に捉えられるのだと驚く。

「私は・・・そんなことを考えて常翔学園の経営に携わっているではなく・・・。」

 もっと軽率、もっと不純な理由。だから言えなくて口ごもった。そんな亮の態度を見てレニー・コート・グランド・佐竹氏はすぐに話題を変えた。

「失礼、私の話を聞きに来たのだったね。さて、何から話せばいいのかな?」

「沢山あり過ぎて、何から聞いたらスムーズなのか困惑します。」

「ははは、まぁ、まずは茶でも頂こうか。」

 茶器を乗せたトレイを持って階段を登って来たクレメンティさんに視線を這わせる佐竹氏。相手の感情、周りの状況を察知し、タイミングよく話に織り込む手法も流石だ。

 紅茶のセットが並べられる。それと一緒にジャムの入った小さなガラスの器も置かれた。

 クレメンティさんは手馴れた手つきで二つのカップに紅茶入れていく。

 氏は自身のカップにティースプーン一杯オレンジのジャムを入れてかき混ぜた。

「ロシアンティーだ。ご存知かな?」

 その紅茶はとても甘そうで、麗香が好みそうだと思った。ジャムの種類を変えたら色々なフルーティな味を楽しむことができるだろう。

「ええ、知識だけは。甘い物は苦手で、飲んだ事はありませんが。」

「そうか、じゃブランデーは?」

「嗜む程度には。」

 佐竹氏は階段を降りて行こうとしていたクレメンティさんを呼び振り向かせ、ジェスチャーだけで指図をする。クレメンティさんも心得ているようで、要件を聞きもせずにこやかに頷き降りていく。

「ロシアと深いゆかりがおありのようですね。ロシア大使館にいらっしゃいましたし。」

「祖母方がロシアの商家でね。深いも何も、こう見えて、私にはロシア人の血が入っている。残念な事にアジアの血が色濃く出てしまったけれど、4つの人種のハイブリッドでね。」

 年相応に皺も頭に白髪が混じっているが、こんな風に年を取りたいと思うほどにダンディだ。雑誌のモデルにもなれそうだ。

「15か国の言語を話せるとお聞きしました。やはり世界を相手にビジネスをするには、それが当たり前のスキルという事ですか?」

「そうだね。ないよりはある方が断然いいスキルだが、自身で必要だと会得したものではなくてね。」

「と言いますと?」

「家の昔からの方針でね。世界と商売するには言語が必須と、他の学問を差し置いてでもヨーロッパ中の言語を幼き頃から教え込まれるような家だった。」

「ヨーロッパ中ですか、そうすると15では済まない言語数ですね。」

「そうだね、ちゃんと数えたことはないがね。」

 亮の驚きのリアクションを佐竹氏は軽く笑った。その表情や仕草が外国的だった。

 クレメンティさんがもう一度階段を登ってきて、テーブルにブランデーのボトルとアイスクーラーとタンブラーを置いていく。

 直ぐに氏はブランデーの瓶を手に取り、自身のジャム入りの紅茶に注ぎ入れ、亮のカップにも入れた。佐竹氏が上品にティーカップを口に運ぶのを見てから亮もブランデー入りの紅茶を飲んだ。

(おいしい。これはいける。癖になりそうだ。)

「レニー・ライン・カンパニーは、世界でも稀な企業です。国家権力や法的介入に一切屈せず、顧客のプライバシーを守りぬく信念はとても素晴らしいと思います。ですがその独自の信念は時に、犯罪に加担する事と同じだと非難されますが、それについてはどうお考えですか?」

「その質問はよくされる。銃殺犯罪に対して、銃の製造メーカーが責任に問われないのと同じで、我々レニーが武器を運ぼうが、犯罪人を運ぼうが問われることはない。創業当初より、そして未来永劫に変わらない企業理念を、世界統一姿勢として貫く事こそが、レニーの在り方である。と私はいつも答えているが、そんな対外的な事を君は聞きたいのではないのだろう。」と最上の微笑みを亮に向ける。

「はい。」

「個人の考えと企業理念が違う者が、代表の座に据えることなどあってはならない。よってそれ以上の答えはないのだが、少し異色な思考を付け加えるとするなら、世界のレニーに一般的な定義を当てはめ、議論すること自体がナンセンスである。と私は思う。」

「ナンセンスですか。」

「経済学部出身の君はよく知っているだろう?レニーは大航海時代から始まった企業だ。」

「はい。」

「世界で一番古く長く続くレニーは、物や人を運び国と国をつなぎ歴史を作って来た。もはや、それは一企業の生業と称するレベルではない。一般的な定義など当てはめること自体がもう、無理なのだ。」

「ごもっともです。」

 早くに紅茶はなくなり、そのままブランデーを交わす形になると、氏はこちらから問う隙もなく饒舌になり、手振りも交えて上機嫌になっていく。話は、ビジネスや経済だけにとどまらず、政治、世界情勢など、新田の話から始まってサッカー界、スポーツ界に及び、多種多様な話に、亮は時を忘れて堪能した。

 窓からの日差しが傾き、作る影がレニー・コート・グランド・佐竹氏の顔をより陰影深く作りはじめた。ソファに深く座りなおし、片方のひじ掛けに態勢を任せた氏が、まっすぐ亮を見つめる。

「君は、ビジネスにおいて、一番、大切な事は何だと思うね?」

「一番大切な事ですか・・・人間関係、上司と部下の関係もそうですが、まずもって人との出会いがなければ商売は始まりません。」

 亮はありきたりに模範解答を口にした。佐竹氏は待ってましたとばかりに目を細めて笑うと、十分に間をおいて語り始める。

「それは二流の考え方だ。確かにそれも大事だ。だが、それ以上に大事なものがある。」

 手にしていたタンブラーを軽く振って小さくなった氷をグラスに当てて音を鳴らす。氏は間合いにこれを繰り返していた。早い段階から亮は、レニー・グランド・佐竹氏の洒落た癖だと気づいていた。

「情報だ。」

「情報・・・。」

「そう、いつ如何なる時においても情報を多く持つ者が有利、それはビジネスにおいてだけじゃなく、相手と勝負するスポーツ、選挙においても言える事だ。」

 亮は無言で頷いた。

「レニー程大きくなると、人との出会いなど大事にしなくても、相手から寄ってくる。今日の君のようにね。その寄ってくる者を選別するにおいても情報が重要だ。」

「情報を選別する能力も大切になってきますね。」

「そうだな。それはあって当然の能力といえよう。それを培わずしてビジネスの世界を渡り成功を望む者がいるとしたら、無謀にも愚かすぎて話にならない。」

 レニー・グランド・佐竹氏は、煽り空にしたタンブラーをテーブル置く、新たに注ごうとしない氏の様子で、名残り惜しいけれど、会談は終わりだと亮は覚った。

「今日はありがとうございました。とても貴重な話を聞かせて頂き、それこそ私にとっては一番大事な情報となりました。」

「こんなのは大した情報ではないな。今日の記念にとっておきの情報を君にあげよう。」

腰を浮かしかけた亮を、佐竹氏はその強い目力だけで亮を再び鎮座させる。

「5年前、日本で国民ナンバー制度が施行された。あれを推進したのは私でね。」

「本当ですか?」

 国民一人一人に異なる13桁の番号を割り当て、所得、年金、納税など様々な個人情報が個人の番号で集約される制度。利便性が上がる半面、個人情報の流出が危惧されるため、施行前は国会で紛糾した法だ。

「システムの構築、セキュリティ対策などを含めて企画立案をし、稼働させ、そして今システム管理をしているのはレニー・ライン・アジアの情報部だ。」

「知りませんでした。管理は国独自だと・・・」

「もちろん、どこが請け負っているかはトップシークレット。」

 何故、こんな話をレニー・グランド・佐竹氏はするのか?亮が藤木官房長官の息子であっても、暴露していい話じゃない。そんな不審を心中で思い首を傾げる。

「個人番号制度の整備は、アジア各国で同じくして制度化を進め、一年前にやっと、アジアすべての国が整った。」

(まじか!アジアすべての国のシステム管理をレニーが一手に!?)

 レニー・グランド・佐竹氏は、完全に亮の思考を見透かし、目を細めて口の端だけで笑う。

「私が今、アジア周航ビジネスを遂行し、アジア各国の要人を招いて接待しているのは、その次の段階に移る為。」

「次の段階?」

「もうパスポートなど要らなくなる。出入国手続きなど個人ナンバーカードを機械に通すだけで済む、長い列に並ぶ必要もなければ、税関手続きに時間を要することもない。ゆくは銀行やクレジットとの共用運用で、世界通貨の相互システムとしても可能となる。便利だと思わないか?」

(便利って話じゃない、これは・・・)

 亮は腹の底が冷えて震えるような感覚に陥った。

「この話は、クレメンティも知らない。私が今アジア各国の要人を接待しているのは、代表就任の挨拶の一環だと思っている。」

 レニー・グランド・佐竹氏は、驚愕に言葉が出ない亮から一時たりとも目を離さずに微笑んだ。

「今日は、貴重な談話の場となった。時価総額ランキング85位のフジ製薬株式会社の株式10%を有し、次期総理と名高い藤木守氏の長兄である藤木亮君。」

 氏は立ち上がり、つられて立ち上がった亮に握手を求めてくる。

「俺は、政界には・・・」握られた手を見つめながら、自分の事を「俺」と言ってしまったと、どうでもよい事に後悔する。

「さっきの話が具体的に進むのはまだ先、それまでこの話が漏れたとしたら・・・」言葉も握られた手も放し、ポケットに手を入れたレニー・グランド・佐竹氏は冷笑する。

 これは、立場を利用した人質だ。あえて情報を亮に与え、その情報が洩れれば責任を負わせて、親父との交渉を有利に運ばせる。情報が洩れなくても、会談をした中で、そのことを話題にした事実は、少なからず手札になるだろう。隙なく完璧なビジネス戦略。

(この人は、ビジネスの天才だ。)

「長い時間済まなかったね。父上によろしくお伝えください。どうぞ。」とレニー・グランド・佐竹氏は亮を階下へと促す。

 下りる階段の後ろに居る存在が大きすぎて恐ろしい。確実にアジア制し、世界征服を企む組織のボス。麗香の冗談めかした言葉が笑えなくなったことを実感する。階段を降り切ったところで、ピーと電子音がなり、長い数字の提唱に続いて

英「お帰りなさいませ柴崎凱斗様」とスピーカーからの声が部屋に響いた。

 直ぐに、いつもの癖、首の後ろを掻きながら凱さんがレセプションルームに姿を現す。

「いやー参りました。」

「すっかりお前の存在を忘れていたよ。」と氏が笑う。

 亮も同じ。ウエルカムパーティーからこっち、見かけていない。

「もう、スーザン・ロバート氏が乗船しているなら言ってくださいよ。」

「客のプライバシーを守るのはレニーの固い理念だ。」

「もう~都合のいい時だけ~。」

 渋い顔でつぶやいて頭を掻いた凱さんは、やっと亮が居ることに気づいて首をかしげる。

その仕草をしたいのはこっち。

(今までどこで何をしていたんだ?)

「勉強熱心に、ビジネスの現状を教授しに来てくれたのだ。」

「そう、それは、良いはぁ~〇☓△□」大あくびをして何を言っているかわからない。

 どこまでもだらしない凱さんの姿に、こっちが恥ずかしくなる。

「ははは、スーザン・ロバート氏は、相変わらずしつこかったようだな。」

英「コーヒーでも入れましょうか?」クレメンティさんが苦笑して椅子から立ち上がる。

英「あぁ、いいよ。自分で淹れる。ありがとう。」そう言って、凱さんはもう一度あくびをしながら、船柱の後ろへと回り込んでいく。

「スーザン・ロバート氏、アメリカの不動産王のご隠居さんだ、9年前、彼をこの船に招待した時に、スーザン・ロバート氏に気に入られて、当時もずっと彼を捕まえて離さなかった。ちなみに、スーザン・ロバート氏はゲイだ。」

「・・・・。」

「こっちの世界では有名な情報だよ。」と今度は本当に可笑しそうに笑うレニー・グランド・佐竹氏。

 亮は飽きれて何も言えない。











 エレベーターから降りると、子供たちの甲高い声がフロアに響いた。

 6階中央エレベーターの裏側のオープンスペースにて、イベントスタッフが毎日、何かしらの催しを企画して行われている。

 台湾から横浜まで7日の航行の折り返しとなった今日から三日間は、ネルソンさんのオークションがメインで開催される。オークション初日の昼間は、子供相手のオークションの開催だと知らされていた。夏休みでもないから、乗船している子供達は主に就学前の5歳ぐらいまでの子供達が多い。その子供達を一心に引き付けてオークションの司会進行を盛り上げているのは、まるでアメリカのショーパブのコメディアン風の派手な衣装を身に着けたネルソンさん自身。

英「さぁー次は、アフリカの種族の戦士がつけるお面だよ。これをつければ強い戦士になる事、間違いなし!これはアフリカの子供たちが作ったお面だよ。これも当然、国際子供救済支援団体の推奨マーク付き、これを購入する事でアフリカの子供たちが学校に通えたり、きれいな水が飲めたりできる。これを購入する君は真のヒーローだ!始まりは5ドルから、スタート!」

 子供達が一斉に手を挙げて、各々の値段を叫んでいく。ネルソンさんは身振り手振り、声も大きく可笑しく値段のカウントをしていく。子供達が、ネルソンさんの説明を理解して手を挙げているとは思えなかった。付き添いの親たちも、子供たちが値段を釣り上げるのを止めようとしない。

英「あのお面、どう見ても工業製品に見えるわ。」

英「いいんですよ。これも一つの社会勉強。親御さん達もどこまでが嘘か本当かわかっています。」

英「なんだか、がっかりだわ。」

英「ネルソン氏、国際子供救済支援団体の支援人として登録されておられますよ。」

英「前言撤回。」

 クレメンティが声を潜めて笑う。

 香港の終港間近となり、仕事の忙しさもピークを越えて幾分余暇が出来るようになったクレメンティが、落ちこんでいる私を気遣って、オークションを見に行きましょうと誘ってくれた。応じる前にミスターグランドへと顔を向けると、私たちの会話は耳に入らなかったのか、珍しくビジネス書類ではなくロシア語の哲学書を読んでいて、振り向きもしなかった。

 ミスターグランドは、昨日から私に冷たい。―――いいえ、無様な失態をした昨日からじゃなくて、そう、社会勉強は終わりと告げられた時から、線引きして私との対応を変えていた。それに気が付かなかった私が馬鹿だった。ミスターが失望するのは当たり前だ。

 どう見ても現地で土産物として買えそうなお面は、52ドル50セントで落札された。落札した男の子は、破顔した表情をして走ってステージ上へと駆けあがり、お金と引き換えたお面をさっそく顔につけて、客席に向いて強そうなポーズをする。

 ここに居る子供達は、52ドル50セントのお金なんて一週間のお小遣いにも満たないのだろう。クレメンティの言う通り、社会勉強として考えたら安い授業料だ。ただ思う、支援をしたいと思いがあるなら、52ドル50セントの一部が支援に回る遠回りではなくて、そっくりそのまま52ドル50セントのお金を現地の人に渡せばいいのにと思う。

英「さぁ、次は最後、とっておきの物を用意したからね。」

 ネルソンさんが後方から台座を押して前に出す。台座はえんじ色の布が被せてあり、仰々しく商品を見せないようにして価値を上げている。ネルソンさん自身で効果音を口ずさみ、ジャーンと布を引き払った。現れたのは一つのサッカーボール。

英「これはなーんだ。」

 子供達が「サッカーボール!」と口々に叫ぶ。

英「国際子供救済支援団体推奨のサッカーボールがあるなんて知らなかったわ。」

 私のつぶやきに噴き出して笑いをこらえるクレメンティ。

英「なんなの?」

英「今にわかりますよ。」クレメンティはお腹を押さえるほどに笑いを堪える。

英「そう、これはサッカーボール!でも、ただのサッカーボールじゃありません!国際子供救済支援団体の推奨マーク付き?ノンノンそうではありません。登場してもらいましょう!アイルランドノッティンガムACの日本人ストライカー新田慎一選手!」

英「えっ!?」

 後ろのパーテーションから戸惑いながら現れた慎一に、一部の子供たちが歓声を上げ、手を振る。慎一はその子たちに笑顔で手を振り返した。

英「最後のオークション品は、アイルランドノッティンガムACの新田選手が、今ここでサインをするサッカーボール、おまけに写真撮影の権利です。」

英「ウエルカムパーティーの時に交渉したらしいですよ。」

英「そ、そう。」

英「流石ネルソン氏、目の付け所が上手いです。」

英「そうかしら?日本人サッカー選手なんて、皆、知ってるの?」

 慎一に手を振っているのは一部の男の子たちだけで、他の男の子や女の子はしらけている。

 私の質問にクレメンティは答えず、身振りでステージの方へと注視を促した。

 ネルソンさんは慎一と握手を交わし、慎一のサッカー経歴を話し始める。大人たちがやっと興味を示し始めた。そしてネルソンさんは声を落として更なる注目をさせる。

英「ここだけの話、新田選手はですね、移籍が決まっております。それがどこかと申し上げますと、フランスのマルセイズです。」

 客席からオーとどよめきが発せられる。フランスのマルセイズはヨーロッパでは有名なトップチームだ。

英「これはまだ公表されていない情報、この情報と共にこのサッカーボールが最後のオークションにふさわしい品であることがお判り頂けるでしょう?この先、確実にこのサインボールを持つ者は羨ましがられる。」

 慎一はネルソンさんの大げさなコメントを困ったように止めようとしているが、テンションの上がったネルソンさんは慎一のそれを無視し、オークションはスタートした。

英「それが何かを知らなくても、これから価値が上がるかもしれないという情報があれば、食いつく奴はいる、ネルソンさんのお言葉です。」

英「彼が、フランスのマルセイズで、その価値を裏切らない成績を出せればいいけれど。」

英「大丈夫です。その時は、私があのボールを買い取りますよ。落札価格の倍の値段で。」クレメンティはにっこりと微笑んだ。

 クレメンティは優しい。私を庇う気遣いが優しすぎて、余計に辛く落ち込みそうになるほど。

 慎一のサインボールと写真撮影権は、付き添いの親たちが子供をあおり、どんどん値が上がっていく。そして350ドルで落札したのは、カールした金髪の髪がとてもチャーミングな男の子だった。

 男の子は跳ねるようにステージに上がると慎一とハイタッチをする。後から男の子の父母もステージに上がってきて、慎一と握手を交わした。

英「これにてキッズオークションは終わります。落札頂きました金額の一部は国際子供救済支援団体を通じてアフリカの恵まれない子供たちの支援として使われます。皆様の温かいお気持ち、ありがとうございました。」

 最後は真面目に〆て頭を下げたネルソンさんに、客の大人たちは椅子から立ち上がり大きな拍手を送る。

 慎一もネルソンさんに拍手を送ってから客席へと見渡し、目が合いそうになって私は慌てて顔をそらした。

英「行きましょう。」

 クレメンティを促してオープンスペースから離れた。目的なく歩き、EとFエリア間にあるエスカレーターで甲板へと上がった。そのまま船尾方向へ、180度視界の広がるオープンデッキで足を止めた。

 昨日と違い、今日は朝から爽快に晴れている。空の青さがまぶしい。船が作る白い軌跡が海色のキャンパスに泡の線を描く。大きく息を吸い込んだ。

英「いい気持ち。」

英「寒くありませんか?」

英「大丈夫よ。」

 過剰に心配するその気遣いが、昔の慎一を思い出して、いい加減にうんざりしてきた。こんなに清々しい感想に同調してくれないなんて。でもそれは仕方がないのかも。棄皇との再会で気絶から始まって、強盗に首を切られるなど、心配させてしまう事が立て続けに起きたのだから。そういえば、あの犯人は一体何者?どうしてあんな事になってしまったのか、理由を聞かされていない。

英「ねぇ、クレメンティ」

英「はい、なんでしょう」

英「私を人質にして逃げようとしたあの人は、一体何をしたの?」

英「えっ?」それまで穏やかな表情だったクレメンティの顔が一変した。

英「私、どうして、あの状況になったのか知らされてないわ。」

英「どうしてって・・・。」戸惑い動揺して、口ごもるクレメンティ。

英「ミスターは、あの時、自身の責任だと言っていたわ。心当たりがあるって事よね。」

英「私は詳しい事を存じません。そういうことはすべてキオウの役目で。」

 クレメンティは嘘が下手だ。不自然に私から視線をそらして、眉間に皺を寄せる。

英「この首の傷がミスターを守った故なのだとしたら、私は役に立つことが出来て嬉しいわ。」

英「嬉しいだなんて、そんなっ、怖くはないのですか?」

英「切られることなんて怖くはないわ。怖いのは、何も知らされない事。無関心に必要とされない事。今、ミスターグランドは私に無関心だわ。」

英「そんなことは・・・」

英「それぐらいわかるわ。失望させてしまったもの。」

英「ミスりの・・・。」

 クレメンティはきれいなブルーの瞳をしている。亡くなったクレメンティのお母さんはとてもきれいな人だっただろう。

私は、クレメンティの瞳と同じ色の海へと顔をむけた。

こんなにも空は晴れてるのに、晴れない話は残念だ。こんなにも頭の中は曇っているのに、麗香に癒された体は晴れやかで健やかだ。

英「私ね、日本で上手く生活できなかったの。いじめ、父の自殺、精神障害、ずっと死にたいと願って生きて来た。そんな私の側で彼はサッカー選手になると夢に向かって走り続けていた。私は彼に劣等感を持ったまま日本から逃げたの。」

 大きな波が船体に当たったのか、ザバーンと一際に波の音が大きくなった。少し強い風も吹きあがって髪が乱れた。

英「ミスターとクレメンティが誘ってくれた世界をめぐるこの生活で、私は彼を超えられる夢を見つけたと思ったわ。だけど私はわからなくなった。ミスターへの憧れを胸に抱いて努力し続けるべきなのか、ナタリーのように綺麗に船を降りるべきなのか。」

(わからないのは知識が不足しているからだ。)

英「ねぇ、クレメンティ。」

英「はい。なんでしょう。」

英「凱さんとミスターグランドは何を話していたの?ポルトガル語で。クレメンティはわかったでしょう。」

英「私は・・・それまでの、日本語で話されていた内容を知りませんから。」クレメンティは私から視線をそらす。

英「知らないまま、決められないわ。お願いクレメンティ、内容なんてわからなくてもいい、聞いたままの会話を私に教えて。」と言いながら、本当に私はそれを知りたいのかもわからなかった。ただ、残した翻訳を埋めているだけで、それを知ってもきっと、私は決められないだろう。

英「ミスターグランドがミスりのに判らない言語を使ったのは、意味あっての事。それを無意味にすることは私にはできません。」

英「クレメンティも、私を船から降ろしたいのね。」

英「そんなことはありません!私はずっとミスりのと一緒に香港まで行く事を望んでいます。」

英「じゃ、教えて。私には知る権利があるはずよ。何故私は首を切られなくちゃならなかったの?ミスターグランドが私に手を差し伸べた意図は何?ナタリーは何故死ななくちゃならなかったの?」

英「ミスりの・・・」

 驚いて戸惑いの様子を見せた事で、やっぱり、クレメンティはナタリーが死んだ事を知っていると判断。

英「怖いのは、何も知らされず、必要とされない事。」

 クレメンティが眉間に皺を寄せて、私を見つめる。

 私から視線をそらした。

 クレメンティの瞳と同じ色の海。

 こんなにも空は晴れているのに、晴れない胸。こんなにも海は広いのに、狭い私の心。

 きっかけを見失い、ずっと変わらない景色を見続ける。何分経ったかわからない。やっと足が動いたのは船の汽笛が短く鳴ったから。

英「ミスりの!私と結婚してください。」

 足止めするには十分のインパクト。クレメンティへと振り返る。

英「何を言って?」

英「結婚してくださいと言いました。」

 真剣な表情のクレメンティ、冗談ではないのは十分わかる。

英「私、今までそんな風にクレメンティと接してきていないわ。」

英「ええ、分かっています。私が、その怖さから守ります。」

英「え?」

英「私がロスチャイルドの血を引いている事はご存知ですね。」

英「ええ。」

英「グランド様が、こんな無能の私をそばに置かれるのは、私がロスチャイルドの血を引いているからです。それが私の存在意義です。私と結婚すればミスりの、あなたはナタリーを超えた存在としてグランド様の側にずっと居ることができます。」

英「ダメよ。そんな結婚ありえないわ。」

英「ミスりの、私も夢だったのです。」

英「夢?」

英「はい。」クレメンティは優しい顔でにっこりと笑う。「私は結婚など諦めていました。一定の場所に留まらないこんな仕事をしていてはパートナーを悲しませるだけ、結婚は不向きだと。それに、多くの女性は、私がロスチャイルド家と深い繋がりがあると知ると、それに期待するのです。でもミスりの、あなたは違います。あなたは世界をめぐる仕事に目を向け、私の血筋には無関心にグランド様に憧れを抱く。私はそんなあなたが、とても愛おしい。」

英「クレメンティ・・・でも私は・・・。」クレメンティを愛せない。ミスターグランドの側に居る限り完全には。

英「ミスりの、複雑に考える必要はありません。単純に、私を利用してください。」

 クレメンティは、この清々しい青空に最適な笑顔を私にくれる。

英「利用だなんて、そんな・・・」

(どうして、こんな事になる?私はただ、慎一のように夢を掴みたいだけなのに。)











 船内では珍しい、木製の扉を押し開け入った。船にある店の入り口は扉がないのがほとんどで、閉店になれば格子のシャッターで防犯するのみに対して、ここだけは営業時間中でも、入り口の扉はきっちり閉められている。案内役の店員もいないので、もちろん扉の開閉は自分でしなければならない。後ろ手で閉めた店内は、より一層の静かで独特の匂いがある。ここは図書室と言われる本屋だった。

 船内の案内によると、ここにある本は貸出可能な売り物らしい。陸地にある図書館と同じく、カードキーを提示すれば一人一冊、店外に持ち出すことができ、部屋でゆっくり読むことができる。そして買い取りもできる。

 学校の教室二つ分ぐらいの広さに、亮の胸の高さまでの低い棚が並ぶ。天井は広く開いているのであまり圧迫感がない。棚には洋書が並び、絵本や雑誌類が多く、木製の落ち着いた店内に対して、棚の中は派手な絵や文字が品なくギラギラしているのが目立つ。置かれた本の言語はやはり英語が多く、次に中国語、日本語、韓国語の本まである。

 貸出カウンター兼レジにいる細身で眼鏡をかけた老店員は、頭を下げただけで、「いらっしゃいませ」の言葉もない。ここは静かさをサービスしている空間なのだ。

 部屋内を見渡してから奥へと進む。棚の切れ間にスツールが置かれていて、老人が座って写真集を眺めている。いや旅行雑誌か、次の寄港地である日本の観光地を調べているのかもしれない。

 棚の向きが変わり、本の種類も変わる。落ち着いた背表紙になり目にも優しくなった一番奥の壁際に、スツールに腰掛けるりのちゃんの姿を見つける。膝に見開いた分厚い本を見つめて、近づいた亮に気づかない。相変わらずの集中力に懐かしさを覚え苦笑した。

 今日は涼しげなレース地の白いブラウスにスカイブルーのサブリナパンツを履いているりのちゃん。首に巻いた花柄のストールがアクセントに華やかだ。本当にきれいになった。離れていた分、その印象が強く目を見張る。

 ふと、気づく。いつまでもめくられない本のページ。りのちゃんは本を読んでいない。正面に立った亮に、随分遅れてりのちゃんは顔を上げた。最上級に優しく微笑んだつもりだったけれど、亮自身の服装に緊張感を与えかねないなと、今更ながらに後悔する。

 黒色の服しか持ってきていなかった。テロからまだ49日も経っていない。近しい人がテロの犠牲者となったわけではないけれど、あの現場で人の死を目の当たりにし、色ある服など着る気持ちになれなかった。

「クレメティさんに、ここだと聞いてね。」

 一瞬だけ顰めた表情で俯いたりのちゃんは、軽く息を吐いて顔を上げた。あきらめの覚悟、次は亮の番、それをりのちゃんは理解して素直に応じる。広げていた分厚い本をパタンと閉じて立ち上がった。

「出るわ。」

 すぐそばの棚に本を戻して、本棚を迂回して行く。戻された本の題名を見て亮は苦笑した。【アダムとイブ理論、原罪の進化】また難しい本を読んでる。

 カウンターの老店員とりのちゃんは、互いに手を挙げて合図をする、その親密さがこの船での生活の長さを表していた。りのちゃんはきっと、どこの店よりもまず一番に、この店を訪れたに違いない。

 扉を開けると、背後の図書室内の静けさが際立った。店内も回廊も同じ温度に設定されているばずが、喧騒の音が加わるだけで1・2度気温が高くなった気がする。

 行先はりのちゃんに任せ、黙って後ろをついていく。図書室はF―7の中ほどにあり、これより向こうは従業員オンリーと書かれた扉があって、ショッピングエリアの最端だった。Eエリアに入ると珈琲の香りが漂い、次第に濃くなる。コンビニのような売店と薬などが売っている雑貨店を抜け、りのちゃんはその珈琲の香りの原点である店の前で立ち止まり、確認するように振り返る。

「いいよ、どこでも。」

 りのちゃんは、その珈琲店の奥へと入っていった。店の入り口に陣取る珈琲豆の入ったショーケースと大きな焙煎の機械が、客の入りを拒んでいるようで、一見、豆の販売だけの店かと思うほど客席数は少ない。調理スペースの関係からか、店内は入り組んだ形で窓がなく薄暗く、そんな店構えだからか珈琲タイムには良い時間だというのに、客は誰一人と居なかった。せっかくの解放感溢れる船旅だ、誰もこんな暗い場所で珈琲を飲みたくはないのだろう。珈琲を飲める場所なんて他に、もっと良いシチュエーションの場所がいくらでもある。

 壁際のテーブルに向い合せで座る。店の広さに似合わない太った男(おそらく店主だろう、他に店員が居る気配がない)が、奥から出て来て、カードリーダーのついた小型のタブレットをテーブルに置いた。タブレットにはメニューが表示されていて注文と同時にカード決済する前払い方式だ。

「何にする?っても・・・」恐ろしくメニューの種類がない。珈琲店だから当たり前といえるのだが、陸地の喫茶店みたくケーキなどもなければ軽食もない。辛うじてトーストが朝のみとなっていて、奥にある調理場は一体何の部屋かと覗きたくなるほど。自慢の珈琲はショーケース内の全種類の豆なのだろう、20種類の項目が選択可能だが、ホットのみだった。

アイスコーヒーが飲みたかったが、仕方がない。豆も選ぶのが面倒なので、ブレンドコーヒーの項目を押す。すぐさまりのちゃんから「同じ物を。」と返答があり、プラスボタンで数字を2にして決済ボタンを押す。カードを内ポケットの財布から取り出し、リーダーにスライドさせて、画面にサインをする。店員がタブレットをもってキッチンへと向かうのを止めた。この様子だと、きっと珈琲しか出てこないだろう。

英「彼女にミルクと砂糖を、多めに貰えますか?」

 それすらも別料金かと仕舞いかけたカードを見せると、店主は手を振って要らない意思表示をした。

「覚えていたんだ。」

「もちろん。女性の好みは忘れないよ。」

「いつまでも同じじゃないかもしれないと思わなくて?」

「あっそうなの?ごめん。」

 りのちゃんは、くすっと笑った。奥からガリガリと豆の挽く音が会話を遮る。

 音が収まるのを待って、亮は切り出した。

「クレメンティさんから聞いたよ。」

 りのちゃんは口の形を歪ませ、首をすぼめる。

「いい人だね。クレメンティさん、優しくて紳士だ。」

「ええ。」

 クレメンティさんが亮の一等船室に来た時、部屋には亮一人だけだった。新田は麗香の強引な誘いで映画を見に部屋を出たばかり、上映は1年ほど前に公開された比較的最新のハリウッド映画だが、恋愛物語だったから、亮は学園の仕事で会長からの電話待ちがあると嘘をついて断った。残念がるも麗香は仕事と言われたら無理強いはしない。嫌がる新田の腕を捕まえて強引に部屋から出て行った二人のあと、亮は何をするでもなく一人の時間を15分ほど満喫していたら、呼び出しブザーが鳴ったのだった。

 昨日から、元気のないりのちゃんを心配したクレメンティさんは、自分の行動によって余計に混乱させてしまったかもしれないと、プロポーズした経緯をすべて亮に話してくれた。

「申し分のないプロポーズだね。」

「ええ。」

 クレメンティさんがあのロスチャイルド家の血筋を引くと知って、驚いた亮。ロスチャイルド家と言えば、アメリカの通貨ドルの発行権を持つ、金融業で世界を牛耳る桁違いの世界一の財閥。しかし、クレメンティさんは正室の子ではなく、相続権も放棄していると言っていたけど、クレメンティさんの存在自体が意味を持つのは確かだ。おそらく、それを見込んでいるからこそ、レニー・コート・グランド・佐竹氏は、クレメンティさんを側近として置いている。それを知った亮は、氏の深すぎる思惑にまたもや震えた。

「だからこそ・・・私は、それには答えられない。」

 珈琲の香りがより一層強まる。

 クレメンティさんは自分の心情などに気にせず、存分に利用してくれれば良いと、深く考えすぎるりのちゃんの気質を心配していた。 だからこそ自分は守りたい。守るべき為に出会ったのだとも言っていた。

「だよね。クレメンティさんの優しさは、佐竹氏を好きでいるりのちゃんにとって酷だよね。」

「どうして、こんなことに・・・どうして、皆、私をほっといてくれないの?」

「それは・・・皆、りのちゃんの事が好きだから。」

 りのちゃんは迷惑そうに顔をしかめた。

「でもきっと、それ以上に、」自分の事が好きなんだと言おうとした言葉を、店主が運んできた珈琲が邪魔をした。

 湯気の立つ珈琲を、直ぐには飲む気になれなかった。

 りのちゃんは深く息を吐いてから、置かれたシュガーの小瓶を自身に引き寄せた。香り立つ珈琲に注がれる砂糖はスプーン二杯。ミルクも珈琲が褐色の色になるまで入れられる。変わっていなかった甘々の珈琲に亮は微笑んだ。

その甘々の珈琲をそっと飲んで上目遣いに亮を見るりのちゃん。話の続きの要求だ。

「クレメンティさんも、俺たちも同じなんだよ、きっと。」

「同じ?」

「俺達だけじゃなく、皆・・・」

 亮もカップを口にもっていく。湿らす程度にしか口にいれず、香りだけを嗜んだ。

「エゴなんだ。誰かを好きなる事も、守りたいと思う事も。」

「エゴ?」

「俺たちがりのちゃんを迎えに来たことも、全てエゴ。俺たちは7年前、心身ともに傷ついたりのちゃんを助けられなかった。」

「あれは、私が、」

 りのちゃんの先の言葉を手で制する。今言いたいのは7年前の責任が、誰にあるかじゃない。

「そう、俺たちは、りのちゃんと棄皇の、二人の間に何があったかを知らない。」

 りのちゃんは、口を結んで視線を外す。

「別に知らされなかった事を責めているんじゃないよ。知らされない、知ってはいけない事があるのは、もう十分に俺たちは理解しているからね。今も昔も。それを抜きにして、俺たちは、単純にりのちゃんを助けられなかった事を悔やんでいるんだ。」

「藤木たちが悔やむ事は何もないわ。あれは私が・・・。」

「そう、悔やむ事は何もない。それもわかっているんだよ。あの時、俺たちは麗香も新田も、あれ以上の事は何もできなかった。事の起こりの前も後も。」

「・・・・」

 俯いたりのちゃんは、膝に置いた拳をギュッと握った。

「ごめんね、思い出させてしまった。」

 俯いたまま首を振るりのちゃん。

「それでも俺たちは、後悔せずにはいられなかった。どうして、何故、俺たちは何もできなかったのか?何を見落としたのか?を繰り返し自問して。悔やむことのない事に勝手に後悔した。」

 亮はまたカップに手を伸ばし、今度はちゃんと味を嗜んだ。

「俺たちは、後悔する事で、りのちゃんの友達で居続けたかったんだ。」

 カップをソーサーに戻した後、無性にたばこが吸いたくなった。

「人の思いは、全てエゴイズム。俺達が勝手に後悔をすることも、りのちゃんと友達で居続けたいと思うのも、りのちゃんがレニー・コート・グランド・佐竹氏を好きになる事も、クレメンティさんがりのちゃんと結婚したいと思う事も、相手を思う以上に自己愛の上の利己主義だと思わない?」

「ええ、そして私は・・・皆以上にエゴイズムだわ。」

「そうだね。世界はエゴで成り立っている。」

 店の入り口でチンチンとベルが鳴る。奥に引っ込んでいた店主が、亮達のテーブルを揺らして通り過ぎていく。知り合いだったらしく、店主は注文をとる気配なく珈琲のショーケースに肘を置いて、話しを始めた。

 亮もりのちゃんも、それから黙って珈琲を嗜んだ。様子から、りのちゃんの気持ちに迷いが生じていると想像する。船を降りないときっぱり答えが出ているなら、亮と話しをする事などしないはずだ。それは亮達にとっては良い兆候だと言える。だが難しい局面でもある。下手をすれば、きっぱり船を降りないという決断に踏み切ってしまう恐れがある。

珈琲があと一飲みで無くなる頃に、亮は切り出した。

「俺たちは、これもエゴだけれど、とても心配してるんだ。」

 りのちゃんは微かに首を横にふる。

「レニー・コート・グランド・佐竹氏は計り知れない。遠い記憶になりつつも、一度はりのちゃんを殺せと命じた人だからね。」

「昔の事よ。」

「あの棄皇が、俺達を船に呼び寄せるってのも、普通じゃない。」

「あの人は、私の為に降ろしたいんじゃないわ。自分の為。自分に都合が悪いから。」

 棄皇をあの人と呼ぶ関係が、まるで夫婦のように聞こえた。

 魂を分けた関係と言った棄皇の言葉を思い出す。あの時亮は、りのちゃんへの思いが強すぎる棄皇の一方的な感情だと思っていた。だけど違う、対等だ。神を対等にできるのは、やはり魂を分けた関係だからか。

 視線を外したりのちゃんは、高ぶりそうな気持ちを落ち着かせるかのように、甘々の珈琲の入ったカップを勢いつけて飲む。カップは空になってしまった。

「あの凱さんが、りのちゃんが佐竹氏と一緒にいるとわかってから、一度も大丈夫と言わなかった。」

「・・・・」

「クレメンティさんのプロポーズは、好きです、愛していますじゃなくて、守りますだった。」

 りのちゃんは首に巻いていたスカーフを触る。亮はりのちゃんから視線を外さず辛抱強く待った。

 やがてりのちゃんは深く息を吐き、意を決したように口を開く。

「クレメンティがプロポーズしてくれたおかげで、私はミスターグランドの側に居づらくなったわ。とても難しいけれど・・・私は・・・。」

 溢れて来た涙をこらえて喉を詰まらすりのちゃんに、亮はズボンのポケットからハンカチを取り出して差し出す。その行為がりのちゃんの涙を誘ったようで、留まっていた涙が一気に流れ落ちた。りのちゃんはハンカチを受け取って、両目に押すように涙をぬぐう。

「本気だったんだね。」

「・・・わからない、でも・・・もう終わりにしなくてはいけないと思うと。」

 店の前でおしゃべりしていた店主が戻ってくる。泣いているりのちゃんを見て立ち止まり、どうしたんだいと言う無言のジェスチャーを亮にするので、亮は英語で「泣かせてあげてくれ。」と言った。

 店主は亮の肩をポンと叩くと、拳を自身の胸を叩く。がんばれか応援しているなどの意味なのだろう。店主は熱い視線を亮に残して奥へと引っ込んだ。

 やがて、気持ちの落ち着いたりのちゃんが、「もう大丈夫、ごめん」と鼻声でつぶやく。

「じゃ、二日後、一緒に船を降りられるんだね。」

「・・・・ごめんなさい。」

「りのちゃん?」

 りのちゃんは亮の視線を外すと、もう一度「ごめんなさい。」とつぶやく。

 人の思いは単純ではない。AがダメならBにすればいいだろと、求める側は即答を望む。しかし、選ぶ側には捨てる物の未練を断ち切ることは難しい。どうにかÀにならないかとか、Aを残したBではダメかと足掻く。亮はそれらをよく理解していたはずのに、りのちゃんに即断を求めてしまった。自分が意外にも焦っていることを知る。

 りのちゃんが、また「ごめんなさい」つぶやいて席を立つ。もう亮の方を見てくれない。

 店主の同情の視線に送られて亮も立ち上がる。

「一人で、大丈夫よ。」

 一人にしてほしいと要望した仕草だった。りのちゃんは、この店に入る前よりも暗い顔で去っていく。

(失敗した。りのちゃんの説得に。)

「だからお前ではダメなのだ。」

 耳元のささやきに振り向けば、直ぐそばに棄皇のにやついた顔。

「・・・・。」

「・・・・。」

 もう三度目。予想外だが驚くほどじゃない。無反応で黙っていれば「ちッ」と舌打ちして睨まれる。

「お前なぁ~。」

 亮のつぶやきに表情変えた棄皇が吐き捨てる。

「思い上がるな。おまけが。」

「なっ!」

「言ったはずだ、新田の慕う魂が必要だと。」

(そうだけど、そんな言い方をしなくても。)

「だが、褒めてやる。」

「はぁ?」

「とりあえずは、頭目への想いは諦めたようだからな。」

 人ごみに紛れていくりのちゃんの後ろ姿を、目を細めて見つめる棄皇、その表情が驚いたことに優しかった。

(古に縛られて、りのちゃんと離れられないのは棄皇も同じか。棄皇は新田以上に、りのちゃんを・・・)

 振り向きざま被さっていた髪をかき上げ、左目が露わになる。赤く染まる眼。

「ぐぁ!」

 頭を締め付ける痛みが意識を支配する。

「余計な詮索は無用。」

 神の声が脳に響く。



英「・・・そう落ち込むなよ。もう一杯飲んでいくか?俺のエスプレッソ珈琲は失恋によく効くんだ。」

(あれ?)

 太った店主が亮の背中をさすっている。

 りのちゃんと話を終えて、りのちゃんを見送って・・・この頭に残る痛み・・・棄皇?

 店主が亮をもう一度店に戻そうと背中を押す。

英「大丈夫です。すみません。」

英「遠慮するなよ。奢りさ。」

 どうやら、別れ話に失恋したと思われているらしい。

英「本当に大丈夫だから。ありがとうございます。」

英「そうかい?まぁ元気出せ。いつでもおいしいスエプレッソ淹れてやるからよ。」

 そう言って背中を叩く店主の心遣いに苦笑する。

 失恋じゃない。失憶だ。この感覚は、棄皇にまた術をかけられたに違いない。

 残痛を消したくて頭を振った。けれど、すっきりしない。

(あぁ、エスプレッソ珈琲、断るんじゃなかった。)











「恥ずかしいったらありゃしない。ほんと最低。」

「無理に連れて行ったの誰だよ。」

「私よっ。でも最低限のマナーってもんがあるでしょう。」

「あの環境で眠らない方がマナー違反だ。」

「何ですって!」

「二人共、それぐらいにして。」

 怒りマックスの柴崎を椅子に座らせる藤木。

「私はね、寝た事を怒ってんじゃないのよ。イビキをかいた事に怒ってんの!」

「無意識下の事まで知るかよ。」

「ほんと、最低っ。あんたね、そんなんじゃ。」

「はい、これ飲んで落ち着こう、柴崎。新田はミルクいるか?」

「要らない。っていうか、紅茶自体が要らない。」

 昼飯を食べた後、柴崎が見たかった映画が上映するからと、無理やり付き合わされた。

 数年前に日本でも公開されたハリウッド映画、アカデミー監督賞を受賞した話題作らしいが、恋愛ものは、お墨付きの作品であっても興味はなし。柴崎の誘いに、慎一はトレーニングに行くからと一度は断ったものの、一人では行けないと、強引に付き添いさせられた。開始15分で寝てしまった慎一は、どうやらイビキを掻いていたらしい。その不躾に柴崎はカンカンに怒っている。

「せっかく淹れてくれたのを要らないって、最低よ!」

 怒りマックスの柴崎は、今、慎一が何をしても気に入らない。慎一はため息を吐いて無視をし、着ていたシャツを脱ぎ捨てる。

「トレーニングか?」

「あぁ、誰かに付き合っていたら鈍っちまう。」

「なんですって!」

 藤木が柴崎を制する。慎一は履いていたジーパンを脱ぎながら、クローゼットまで移動する。

「レディの前なんだから気を配りなさいよ。」

「レディってのは、もっと慎まやかなイメージだけどな。」

「はぁ!」柴崎が目を吊り上げて睨む。

「もう、やめろって。」藤木が間に立ち困っている。

 やめたいのはやまやまだけど、イライラは抑えられなかった。

「レディ扱いしてほしかったら、男の部屋に、わが物顔で入り浸んな。」

「誰に向かってっ!」

 柴崎がテーブルを揺らして立ち上がった時、ベッド上に置いていた携帯が鳴る。怒り任せに出ると、耳につんざくような金切り声が刺さる。

「慎にぃっ!いい加減にしてっ、何通送ったら気が付くわけっ?何のための携帯よ。身に携帯するから、携帯っていうんでしょうが!」

(あー、こっちもかよ。ったく、なんだって女どもは、こう、ヒステリックにしか話ができないんだよ。)

「聞こえてるから、もうちょっと声小さくして。」

「はぁ、気づかない人が何言ってるのよ。」えりが一段と声を大きくする。

 仕方なく携帯を耳から離した。

「あーわかったから。」

「わかってないっ。」

「はいはい、で何?」

「ほらっわかってないっ。あたしのメール読んでないでしょう。」

(読んでるわけがない。今まで映画館に居て電源を落としていたんだから。)

「さっきまで使えない場所に居たんだ。」

「もうっ!ちゃんと読んでよっ、あたし忙しいんだからっ。」

 だったら、わさわざ電話かけてくんなよ、って言葉はこらえた。

「読んでおけば良いんだな。」

「何、そのつッけんどうな言い方、あたしの事うざいって思ってんでしょ。最低っ。」

(今日、何度目だ?最低って言葉で攻撃されるの。女って、なんでも最低で男を貶すのは一体なんなんだ?)

 思わず柴崎の方に顔を向けてしまった。まだ怒りの残った柴崎と目が合う。

「かわいい妹が心配して忙しい中、かけているって言うのに。」

 もう、こうなったら止まらない、下手な突込みはやめた方がいい。

「りのりのはどう?帰ってくるって?あたしの結婚式に来てくれるって?」

「あー、えーと。」

  忘れてくれと言われたなんて、絶対に言えない。

「何、そのくぐもった返事、まさかっ、まだりのりのと話もできていないとかじゃないでしょうね。」

「いや、したけど・・・えーと。まぁ。」

「もう、今まで何してたのよ。あと二日しかないんだよ。豪華客船に乗れて、浮かれて目的を忘れてるんじゃない?」

「忘れてはないけど・・・。」

「しっかりしてよねっ慎にぃ!あたしの結婚式ができるかできないかは、慎にぃにかかっているんだからねっ。」

(りの抜きでも結婚式はできるはずだが・・・)えりの、りのを実の姉同様に慕う気持ちはわかるが、結婚式に拘る気持ちがわからない。

「わかったよ。」

 切り上げようとしても、えりは話を続ける。忙しいんじゃなかったのよと心の中だけで突っ込む。

「それから、ちゃんと渡してよ。」

「何を?」

「りのりのへのプレゼント。」

「プレゼント?」

「やっぱりまだ気づいてなかったか、だからメール送ったんだよ。スーツケースのサイドポケットに入れたからって。」

「はぁ?」

「この間ね、昔の写真とか探してたらね、見つけたんだ。」

 慎一は玄関脇の方のクローゼットまで携帯を耳にしたまま移動する。 柴崎が「なんて格好で、ウロウロしてるのよ。」と罵る。慎一は上半身裸のパンツだけの格好で、えりからの電話を受けていた。柴崎との付き合いは10年になる。クラスメートから友達、仲間、親友を経て、マネージャになり、今で口うるさい姉的になりつつある。下着姿なんてなんともない。写真集の撮影で全裸まで見られているのだ。今更何言ってんだって、言い返したかったけど、えりと柴崎の二人を相手にするほど、慎一は器用じゃない。

「自分のかと思たんだけど、名前見てびっくりしたよ、芹沢りのって書いてあるんだもん。」

(芹沢りの?えりは一体何の話をしてるんだろう)

「紛れちゃったんだね。あった?」

「ちょっと待て・・・。」

 慎一はスーツケースを広間に持ってきた。サイドポケットに手を入れる。確かに何かが入っている。取り出すと、えりの店で使われている菓子用のクリーム色の包装紙に包まれた何か、大きさも厚みもノートぐらいの包みで、十字にやっぱりえりの店で使っているゴールドのリボンが結ばれている。そのリボンと一緒にカードが斜めに貼られていて、えりの丸っこい字でメッセージが書かれていた。

【りのりのへ、帰ってきてね。待ってるから。えりより】

「何が入っているんだ?」

「メールに書いてある通り、夢がいっぱい詰まっているんだよ。懐かしい夢が。」

(懐かしい夢?)

 えりを呼ぶ声が電話の向こうから聞こえてくる。携帯を口から離してやり取りする会話がくぐもって聞こえ、そして急に声はクリアになった。

「慎にぃ、じゃー、頼んだよ。ちゃんと渡してね。」と一方的に切られる。

「えりちゃんからか?」

 スーツケースを覗き込むように立つ藤木。

「あぁ。」

「それは?」

「プレゼントだとよ、りのに。いつの間に?」

「あっ、そういやぁ。マンションの鍵を貸してくれって、来たな。」

「はぁ?」

「お前に言うの、忘れてたよ。」

 ため息を吐く。

 柴崎が興味深々でりのへのプレゼントを手にする。

「えりからりのへ?何かしら?っていうかこれ、店の包装紙じゃない。プレゼントならもっとちゃんとしたの用意しなさいよっ

ったく、あんたら兄妹は・・・。」

(もう何も言うまい。忘れてたよ。女に逆らうなは親父から受け継いだ教訓。)

「それ、りのに渡してくれよ。」

 スーツケースを仕舞いながら誰へともなしに言った。

「俺?」

「あぁ、どっちでもいいよ。」

 藤木はまだりのと話をしていないはずだ。りのと話す順番なんてなくてもいいのだけど、なんとなく順番に、りのを説得する形になった。それに、やっぱり最後の砦は藤木が、みたいなところがある。

「俺は無理。」

「はぁ?」

「えりちゃん、わざわざ、鍵を貸してくれって屋敷に来たんだぜ。りのちゃんに渡したいだけなら俺や麗香にプレゼントを渡すだけでよかったはずだ。俺達も行くって知ってんだから。それをわざわざマンションまで行って、兄のスーツケースに仕舞った。お前からりのちゃんに渡してほしいって事なんだよ。」

 えりが、そんな深い意味を込めているとは思えなかった。

 柴崎からえりのプレゼントを突き返された。

「でも俺・・・。」

「リベンジしなさい。最後にりのを説得できるのは、やっぱり新田、あんたしかいないんだから。」

「・・・・。」











 クレメンティが深くため息をついた。それは昼前ごろから次第に多くなり、今やキーボードを叩くスピードも遅くなっている。もうアジア周航のビジネスも終わりに近づき、クレメンティがする仕事は減り、朝、頼んだ書類作成も緊急性はないとはいえ、いつもの倍以上の時間をかけられては、流石に苦言しなければならない。

露「クレメンティ、私に何か隠し事をしているだろう。」

露「えっ!・・・いや、別に・・・」

 クレメンティは明け透けに慌てる。嘘が下手だ。だからクレメンティには裏の事に参加させないでいる。

 私が黙っているとクレメンティは観念したように、また深くため息をついた。

露「隠していたわけではありません。タイミングを見計らっていたというか、まだ決まったわけではなく。返答待ちの状態なので。」

露「何だ?」

 クレメンティはまた溜息をついてから弱弱しくすみませんと謝る。そして、まだ仕事途中であるはずのノートパソコンをパタンと閉じてから、私へと姿勢を正した。

露「グランド様、私は、ミスりのにプロポーズを致しました。」

 正直、予想外だった。咄嗟に言葉が出ないほどに。だが私は微塵にもそれを表面に出さなかった。

露「ほう。」

露「申し訳ござません。グランド様のお連れに。ですが、安心してください。私は、そのような気持ちでプロポーズしたのではなく、ミスりのもそれを望んではいません。ミスりのはグランド様を憧れ愛しておられ、」

クレメンティのまくしたてを私は言語を変えて制した。

英「クレメンティ、私は反対などしていない。」

英「ええ、わかっています。だから・・・その・・・このままの関係を保ちたく・・・」

 人は沈黙に耐えられない。特に相手が自分より力ある者の前であれば。黙っていれば、相手から沈黙を破る。

英「私は、ミスりのを守りたく。」

英「守りたい?」

英「ええ・・・。」

 クレメンティは私の視線を外して、口に溜まった唾を飲み込む。その狼狽え方で私は悟った。ナタリーが殺された事をクレメンティは知っている。私がそれを指示したのを知っているのだ。

英「好きではなく、守りたい・・・・まるで小動物を匿うみたいだな。」

 クレメンティは顔をあげて、力強く言う。

英「ええ、そうです。彼女は弱く小さき者、私は彼女を、守れる存在になりたいのです。」

 当たり障りのない仕事ぶり、唯一、人の名前と顔を正確に覚えておくことができる能力は、私にとって特に必至のスキルではない。容姿、性格、能力すべてに当たり障りがないクレメンティを側に置く理由は、本人も言う通り、金融業界世界トップの財閥ロスチャイルド家の血筋であること。相続権は放棄している故に、直接ロスチャイルド家に力及ぶことはないが、その緩い影響力のなさが、私にはちょうど良い手札なのだ。クレメンティ自身も、ロスチャイルド家での自身の立ち位置を間違うと、大変な目に合う事は十分に懲りて、現状に行き着いた。私を盾に当たり障りなく生きていく事が平和で幸せなのだと。そんなクレメンティが、今強い目をして、守りたいと私に対峙する。笑いがこみ上げて来た。

英「ふはははは。何とも・・・・ミスりのは、棄皇、柴崎凱斗のみならず、クレメンティ、お前までに影響を及ぼすとはな。」

英「・・・・。」

英「私は良いカードを拾ったみたいだ。」

英「グランド様・・・。」

英「ミスりのは、さしずめトランプのジョーカー。どのカードにも影響し、どのカードの代わりにもなる。」

 クレメンティが渋い顔をする。その時、部屋にアナウンスが流れる。

【ゲスト様お帰りなさいませ。】

 ミスりのが戻って来たようだ。

 クレメンティはそわそわと、閉じたパソコンを開けて、冷静を装う。ほどなくしてミスりのがレセプションルームに現れる。

英「戻りました。」

英「ミスりの、茶にするが、いかがかな?」

英「ごめんなさい。飲んできたばかりなの。」

 ミスりのの言葉に被るように、また部屋にアナウンスが流れる。

【キオウ様お帰りなさいませ】

 ミスりのの顔が曇る。年齢から考えて、ミスりのも初めて肉体的関係を持った男だろう。その二人は良い別れとはならなかったようだ。そんなシチュエーションも、酒のあてにもならない程に拙く若い。

 足音無く、レセプションルームに現れた棄皇をミスりのは、あからさまに遠回りに避けて、部屋に戻ろうとするのを私は止めた。

英「今夜、会食を設ける。ミスりのの友人3人をもてなそう。」

英「えっ。」ミスりのは戸惑う。

英「クレメンティ、華楼の個室を8名で予約を取れ。」

英「は、はい。8名?ですか?」

英「そうだ。柴崎凱斗、そして、」

「棄皇、お前も列席しろ」

 ロフトの下、書棚と観葉植物の脇の、この部屋で一番暗く死角になる位置にある、元は花瓶置きだった小さなデスクが、定位置となった場所で、手帳サイズのパソコンを立ち上げようとしていた棄皇が、手を止めて振り返る。

「私も、ですか?」

「そうだ。」

「いえ、私は遠慮いたします。」

「命令だ。」

 顔色一つ変えず、冷酷に人を殺す棄皇の頬がわずかに動いた。

英「とても愉快なディナーになりそうだな。」

 面白い。ミスりのというジョーカーを、誰が手にいれるのか?

 ジョーカーはどのカードに代わるのだろうか?

 私はこみ上げてくる笑いを抑えることなく出した。











「新田、こっち向いて。」

 中央クリスタルエレベーターから外を見ていた新田は、めんどくさそうに麗華の方に向いた。新田のシルバーのネクタイとチーフの仕上がりを手直しした。藤木と違って、礼服に着なれていない新田は、ネクタイの結びやチーフの入れ方が微妙に雑。本当はタキシードを着てほしかったのに、招待状に明記がないと言って、新田は聞く耳持たなかった。日本から持って来たブラックスーツに青いカラーシャツを選択した新田に、麗香は「何故そのコーディネートなのよ!」と怒りかけたのを藤木が止めた。新田なりの抵抗らしい。あまり喧々に言うと拗ねて行かないと言い出しかねないので、麗香は仕方なく口を噤んだ。

「本当に、パーティの時みたいな無礼はやめてよ。」

「ぁぁ・・・」

「ちゃんと挨拶して、トゲのある言い方なんてしないのよ。」

「・・・・」

「その無言もやめて、ちゃんと会話する。」

「わかったって。」

 憮然とした返事をする新田。

 横浜まであと一日半あまりとなった夕暮れ。船は沖縄沖の、日本の排他的水域に入っていた。麗香達は、ミスター・グランド・佐竹氏から、ディナーの招待を受けた。立派な招待状をもってクレメンティさんが部屋に来てくれた時、新田はトレーニングに行った後だった。ジムのランニングマシーン上でそのことを聞いた新田は、予想通りに行かないと即答したのを、りのにプレゼントを渡すチャンスだと言って、行くように説得した。

 会食の店がある7階に到着し、エレベーターの扉が開くと新田は、麗香がまだチーフの形を整えているのを振り払うようにさっさと出ていく。左手をズボンのポケットに入れた脇に、えりから頼まれたプレゼントを挟んでいる新田の後姿に、麗香は藤木と共に顔を見合わせてため息を吐いた。

「不安で仕方ないわ。」

「まぁ、とりあえずは、半分ミッションクリアらしいから。」

「何?どういう意味?」

 その質問の答えには肩を竦め、エレベーターの扉を閉まらないように押さえて、出るようにエスコートする藤木。こちらはちゃんと黒いタキシードを着ている。麗香がカクテルドレスを着ているので、つり合いを合わせてくれたのだろう。エレベーターから出ると私の前に出て腕の隙間を作り、微笑んだ。麗香はドキリと胸が熱くなる。日本では、笑顔のないエスコートだ。仕事だから、麗香が雇うと言ったから。あと二日で、藤木はまた冷たい顔に戻る。

 無駄だとわかりながらも、麗香は熱くなった胸の内のときめきを悟られないよう、平然を装い、藤木の腕に通した。

 招待された店は、 Eエリアの華楼という中国宮廷料理専門店。店の前でクレメンティさんに迎えられる。

英「お待ちしておりました。」

英「ご招待いただきありがとうございます。」

 タキシードに赤いクロスタイ、こんな崩し方があるのかと感心する。「格式ばったものじゃない」を表し、かつ失礼にならない絶妙さで、金髪のクレメンティさんにとても似合っていた。クレメンティさんが先立ち、店内へと案内される。

 帝国領華ホテルにもある中華料理店とさほど変わらない店の雰囲気、入り口から中央にかけては大衆的に四角いテーブルが10席ほど並び、周囲の壁際と窓際に衝立と観葉植物で仕切られた半個室がある。そこの一角に私たちは誘導されるのかと思いきや、クレメンティさんは早々に左に曲がり、一段高くなった扇型のステージ、二胡や楊琴が置いてある場所を迂回する形で奥へと進む。一瞬厨房との間仕切り?と思う衝立の向こうへと案内された先には引き戸があり、中は広い個室になっていた。衝立と引き戸を開け放しステージの向きを変えれば個室だけの為にステージを鑑賞できる仕組みだ。

 8人席の円卓がある部屋には、まだ誰も到着していない。部屋の三面の壁に大きな絵が飾られてあった。真正面に青い龍の絵、右には赤い孔雀の絵、左にはやたらとしっぽの長い亀のような生き物。いずれも中国風な様相の場所で良く見る絵柄だけど、いわれや名前などを麗香は知らない。

 クレメンティさんは麗香達を円卓の左回りで奥へと誘導し、青い龍の絵の前の席に新田を指定した。

 レディファーストが当たり前の世界で、上座を麗香ではなく新田をわざわざ指定する。その意味に気づいて、藤木と緊張の顔を見合わせた。藤木は無言で頷いて理解を示す。わかっていないのは新田のみ。ずっと不機嫌にネクタイを緩めようとしている。

「ダメよ。」

「苦しいんだよ。こんなんじゃ飯が食えない。」

「食べる余裕なんてないわよ。」

「はぁ?飯食いに来て、食べる余裕ないってなんだよ。」

「もう、わかってないわね。あんたがその席に指定された意味!」

 日本語のわからないクレメンティさんは、麗香達が揃わない招待者に不満があると勘違いしたのか、謝ってくる。慌てて「そうじゃない。」と弁明するも、新田はお構いなしに不満の言葉を続ける。

「ここが、何だっていうんだよ。」

「もう、説明してやってよ。」藤木に任す。

「この部屋の上座であるその席に、レディファーストをすっ飛ばして、わざわざお前を、」

 藤木の説明は間に合わずに、告げられた。

英「ミスターグランドと、ミスりのが到着しました。」

 現れた二人に、麗香は見惚れる。

(なんて、素敵な。)

 ミスターグランドはグレイのタキシードにゴールドのアスコットタイがとても映えて。襟につけられたラペルピンにはダイヤがきらめいていた。そして、伏し目がちにミスターグランドの腕に添われて、入って来たりのは、上品な白いシルクのボートネックデザインのカクテルドレス。ウェーブの掛かった髪をかけた耳にはパールが優しい光を放っていて、まるでバージンロードを歩く新婦とその父のようだ。

りのを入り口すぐの左側に座らせるとミスターグランドは、私達の方を一瞥して微笑んだ。

「急に呼び立てて済まなかったね。」

 新田が黙っているので、藤木が慌てて答える。

「このような席を設けて頂き、ありがとうございます。」

「明日では何かと忙しいだろうと思ってね。」

 明日が台湾→日本の航行最後の夜、きっとミスターグランド自身が、横浜で下船するビップ客の対応で忙しいのだろう。

 りのは、無表情にテーブルの中央を見つめている。円卓の中央には黄金の置物が据えられていた。これについては、麗香は知っている。ビールのラベルにもなっている架空の動物。麒麟。

 ミスターグランドが新田の正面に座った。まだ座らずに部屋の入口に立つクレメンティさんは、凱兄さんの到着を待っているのだろう。凱兄さんは、ウエルカムパーティー以降、全く見かけない。麗香達をほったらかしでどこにいるのやら。会食の時間にはまだ5分ほどあるけれど、これで遅れてくるなんて事があったら柴崎家の恥じだ。そんな思いで落ち着かないでいたら、ミスターグランドと目が合った。更なる微笑みを返され、麗香は慌てて姿勢を正して微笑を返す。

英「お待たせしました。二人が到着されました。」

(二人?そういえばテーブルのセッティングは8人、空いた席に凱兄さんとクレメンティさんが座って・・・あと誰?)

「遅くなりました。」

 遅刻はしなかったが、凱兄さんの服装に、麗香は声にならない悲鳴を上げた。

濃紺のチェック柄に黒いシャツと白いスラックスに蝶ネクタイ。いつもの癖で首の後ろを掻きながら入ってくる凱兄さんに「コメディアンみたいだな。」とミスターグランドが笑う。

「ロバート氏の見立てですよ。これじゃないと部屋から出さないと言われて。」

「ははは、それなら納得だ。良いセンスだな。」

「やめてくださいよ・・・。」 

 クレメンティさんは、凱兄さんを藤木の隣へと指示し、藤木が露骨に嫌な顔をする。クレメンティさん自身は、私とりのの間に座る。 いつの間にか、ミスターグランドの左隣に黒い中国の民族衣装を着た弥神君が座っていた。入って来た事に麗香は全く気が付かなくて、驚く。

 麗香はメンバーを見渡して思う。これは、りのを巡る争奪戦。新田は、早くも弥神君の登場に、嫌悪丸出しで威嚇。そうした中、それぞれの前に紹興酒の入った杯が置かれていく。

英「クレメンティ、会話は日本語が中心となる。つまらないと思うが汲み取れ。」

英「大丈夫です。私に遠慮なくどうぞ。」とクレメンティさんは全員に笑顔を振りまく。すかさず、りのがクレメンティさんに身体を寄せ、

英「大丈夫よ。私が通訳するわ。」と言う。

 前菜の皿も運ばれて、部屋の扉が閉じられた。合わさった扉には白い虎の絵が描かれている。

「では始めようか。」

 全員が杯を持ち上げる。

「それぞれの数奇な出会いに、乾杯!」

「乾杯。」と相槌を打ったのは、私と凱兄さんと藤木だけで、新田は仏頂面を崩さない。

(大丈夫かしら・・・。)











 頭目はこの会食を楽しんでいた。常に話の中心で、柴崎凱斗が盛り上げ、柴崎麗香と藤木が相槌を打つ。りのはクレメンティへの通訳で忙しい。そして新田は、我や頭目に対する憎しみを食べる事へと専念し、辛うじて抑えていた。

 豪華な食事は滞りなく運ばれて、胃も会話も満たされ、会も終わりになろうかという頃、それまで話に一切加わろうとしなかった新田に向けて、頭目は話を振った。

「フランス料理に劣る中国料理は、口に合わなかったかな?」

「いえ、料理は、とてもおいしく頂きました。」

 つっけんどうな新田の言い様に、柴崎麗香が慌てて注意する。

「ちょっと、失礼よ。」

「何がだよ、何も失礼な事は言ってない。俺は、料理は、おいしいと。」

「そう、何も失礼なことは言っていない。君が「表し」たいのは、不快感だ。そして、その感情は正しい。」

 頭目は笑みを崩さず新田を見据える。新田は睨みで応戦。

「言葉遊びというものがある。日本だけではない、どの国にもある遊びだが、日本のは、他国のものより面白くかつ、粋だ。」

 頭目が急に話題を変えた事に、新田ら三人は戸惑いを隠せない。

 我や柴崎凱斗は、よくある頭目の話術である事を知っている。一見、脈絡なく話が飛んだと思われる話題も、先で必ず繋がり効いてくる。

「春夏冬と書いて秋がない事から、『商い』を意味するのは、とてもポピュラーで、君たちも知っているだろう。」

 柴崎麗香が新田の無礼を詫びるように、より一層に相槌を大きくし愛想を振舞う。

「君たちへのディナーの招待状に、私は「お持てなし」をさせて頂きたいと書いた。」

 そこで頭目は、より一層の柔和な笑みをし、間をあけた。独特の間の取り方は、時に相手に安心を与え、時に不安を与え、時に焦りを与える。新田には、より一層の不快を与えたようだ。戸惑い険しくなる新田の表情。

「表、なし、そう、すなわち、裏だ。」

 りのの通訳が止まった。それを見て頭目は、可笑しさをこらえきれないように、悪ふざけに指摘する。

英「訳すのが難しいなら、私が日英同時会話を行おうか?」

英「いえ・・・」

英「どうぞ、私にかまうことなく会話を進めてください。」とクレメンティ。

英「そうはいかない。クレメンティ、お前はこの「裏あり」の会食に参加する権利を得た。ミスりのにプロポーズをした者として。」

 知らなかった新田と柴崎麗香が驚愕する。遅れて柴崎凱斗も。

「さて、この部屋には中国の霊獣がいる。」

 また頭目が話の筋を変えた。新田は動揺して、さっきまでの強気は、どこへやら状態だ。

「この中でどれが一番強いか?どうかな?」

 頭目は新田に手を向け、答えを求める。

 完全に頭目のペースに飲まれ、戸惑いながら答える新田。

「・・・龍。」

「それは青龍という。東を司る霊獣だ。」頭目は四方を順に指さし、和名でそれぞれの呼称を告げる。「南を司る朱雀、西を司る白虎、北を司る玄武。残念ながら君の答えは、ハズレだ。」

「・・・・。」

「藤木君はどうかな?」

 部屋を見渡し、少し考えて藤木は答える。

「玄武ですか?」

「理由は?」

「玄武は最古の霊獣と言われていたと記憶します。地図上の方位や、我々の生活の中で北を上に示すのは、北が上位であるという思考から。」

「うむ。中々の説得力だが、不正解。」

「麗香さんは?」

「えっ!えっと~。この赤い孔雀ですか?」

「麗香さんのように、美しい羽根を持つ霊獣、朱雀。」

 朱雀と同じ赤いドレスに身を包んだ柴崎麗香が、頬を赤らめて謙遜に俯く。

「残念ながら、それも不正解。」

 頭目は、りのに顔を向けて何も言わずに、答えを求める。

「残りは白虎しかないわ、白虎は戦の神、もしくは殺伐の神とされる。この中で強いのは白虎。」

 りのの代わりに柴崎凱斗がクレメンティに通訳をする。

「さすがは、知識の欲神ミスりの、良く知っている。だが、それも不正解。」

「どうして?どれでもないなんて。」

 知識欲に火が付いたりのは、食らいつく。

「私はこの中で、と言った。この四つの中で、ではなく。」

 そうだ、この部屋の中にはもう一つ、霊獣が居る、最強の。

 頭目は部屋の中央、テーブルの真ん中をゆっくり指さした。

「中央を司る霊獣、麒麟。」

 我と頭目以外の全員がはっとする。

「さて・・・申し訳ないが、私は失礼するよ。船長との庶務があってね。」

 頭目が腕時計を見て立ち上がる。りのも続こうとするのを頭目は制した。

「ミスりの、皆、君の為に東西南北から集まってくれたのだ。ゆっくり、『表なし』の話をするがいい。」

 そう言い残し、頭目が部屋を出ていき、部屋は静まる。

 四方から霊獣がにらみ合う部屋、中央に、黄金に輝く麒麟がある。

「麒麟は、霊獣の中で最強。四方の霊獣の力を打ち消す力を持つとも云われ、また四つの力の集約により、現れるとも云われる。」

 奇しくも、霊獣と同じ色の衣に身を包んだ者が、それぞれの宿る宮に座る。

 頭目が、そこまで見計らって座席の配置をしたのなら、なんて神業だ。

「そう、頭目は、麒麟だ。」

静まり返った者々、我の言葉とそれまでの頭目の言葉を反芻し、意味を掘り下げ、裏を返し、自身に当てはめる。りのを含め皆が思考におぼれ、頭目の神業に打ちのめされていた。

 通訳が止まって、困ったクレメンティが、自分が居ては話ができないと考察して、出て行こうとする。りのが追ってクレメンティの腕に縋ったのを、クレメンティは受け止めながら遮る。

英「ミスりの、皆さんとお話をしてください。」

英「クレメンティ!」

英「私の想いは伝えました。」

 クレメンティはかがみこむように抱擁し、りのの頬にキスをしてささやく。

英「遠慮なさらず。あなたの思うまま進む道をお選びください。」

 日本人にはないクレメンティの抱擁ぶりが、りのの心をかき乱した。

 クレメンティを追って柴崎凱斗も出ていく。プロポーズの心意を確かめるためだろう。頭目を慕う者として似た位置に居る二人は、仲が良い。今宵は二人で飲み明かすだろう。

 いつまでも立ち尽くしているりのに、柴崎麗香が席を立ち近寄った。

「大丈夫?」

「・・・ええ。」

「私の部屋に来ない?」

 触の力を持つ柴崎麗香が、りのの腕と背中をさする。

(そうだ、その手でりのに触れて、掻き乱れた心を癒せ。それが柴崎麗香の役割。)

「昔みたいに、一緒にベッドで・・・」

 癒しの心地よさを懐かしむりのは、少し迷ってから首を縦にふる。

部屋から出て行こうとするりのを、新田が立ち上がって呼び止めた。

「りの、これを・・・」差し出されたクリーム色の紙包み。

「えりから・・・渡してくれって頼まれた。」

「えりちゃん・・・から?」

 これは竹取物語だ。

美しいかぐや姫を見初めた5人の貴公たち。姫を手に入れる為にあらゆる手法、手段を用いて姫の機嫌をとる。だが、姫はどの貴公にも靡くことはなかった。姫は貴公達が諦めるように到底成し遂げられない難題を与える。貴公たちは意気込んでその難題に挑んだ。ある者は無残にも大怪我を負い、ある者は難題に全財産をつぎ込んで偽りの答品を作る。嘘は姫に通用せず、難題を誰も成しえることなどできなかった。月を眺めて帰りたいと願うかぐや姫。

何故、そうまでして月へ帰りたいと願ったか?

それは、月に恋い焦がれた相手が居たからではないか?

作者不明の竹取物語は、日本の最古の物語である。さて、現代版の竹取物語は?

りのを手に入れようと貢物を捧げる御仁達。りのは誰にも靡くことなく月へと帰れるのだろうか?

麒麟に例え最強を知らしめた頭目は、その字がある通り、物語の作り手なのかもしれない。

「貰ってあげて、えり、今まで何も云わず、聞かずに、ただ、りのが帰ってくる事を信じていたから。」

 りのは、こみ上げてくる想いをぐっと我慢して、それを受け取った。

「えりちゃん・・・」

「えり、何を包んだのかしら?部屋で開けてみせて。」

 我と目が合った柴崎麗香が、わずかに頭をさげてから、りのを連れて出ていく。

新田も続いて出ていこうとする背に、我は言葉を投げかけた。

「貢物でりのは靡かぬ。もっと力づくでりのを引き寄せろ。」

「お前、いい加減にしろよ。力づくだとか。」

 怒りを再燃させる新田。

(その熱をりのに向ければいい物を・・・)

 お節介にも藤木が間に入り止めようと立ち上がる。

「りのは感じるはずだ。」

「お前のそれは暴力だろ!いや、傷害だ。」

 我に掴みかかってくる新田を藤木が止める。

「魂が覚えている。古に護られたぬくもりを。」

「訳の分かんない事を言ってんじゃねぇ。」

「やめろ新田。」

 藤木に羽交い絞めに止められ、歯ぎしりにその怒りを抑え込む。

我とりのは、分けた同魂表裏一体。新田がりのを想えば想うほど、我に対する憎しみは増えるようだ。

「お前は神の子だったんじゃなかったのか?だから俺は7年前、唇をかみしめ黙った。なのに、何だよ!そうだな、お前の言う通り、麒麟は最強だな。神の子神皇家の人間を下で働かすのだからな。」

「新田!」

 新田の挑発に我は動じず、無言でやり過ごす。

「その落ちた身分を、わきまえて言え。」そう棄てセリフをはいて、新田は部屋を出て行った。

「くだらない事に拘る、馬鹿が。」











「何か飲む?飲みなおすならルームサービス頼むわよ。」

 えりが書いたメッセージカードを撫ぜながら、りのが首を横にふる。

 りのを姉と慕うえりが、迎えに来た方が良かったかもしれない。

 天真爛漫なえり。言いたいことを直球で言うくせに、人の関係や諸事を汲み取り、自身の立ち位置を的確に見極める。

「ね、開けてよ。私も楽しみだわ。」

「うん。」

 麗香は座り心地の良いソファーに浅く座り直し、向かいに座るりのへと体を乗り出した。

リボンを外すりのの手がわずかに震えている。時間をかけて丁寧に開けられた包みから出てきたのは・・・

「何これ・・・お絵描き帳?」

 幼稚園で使うお絵かき帳。入っていたのはそれだけで、えりからのメッセージなどは入っていない。お絵描き帳の中に書き綴っているのかも知れないけれど、どうしてこんなものをプレゼントとして新田に託したのか、麗香はわからない。

突然、りのは嗚咽をもらし泣き始めた。

「ちょっ・・・りの!どうしたの。」

とめどなく涙があふれ、そのお絵かき帳にポタポタと落ちる。

「これ・・・私の。」

「え?」

 涙を手でぬぐおうとするから、身近にあったティッシュを持ってきて渡した。しかし拭いても拭いても、りのの目から落ちた涙がお絵描き帳の『ひまわりぐみ せりざわ りの』と書かれた表紙に水玉を作る。

「私の・・・夢が詰まった・・・お絵描き帳。」

 りのは、お絵描き帳を胸に抱きしめた。











 亮は部屋を出るタイミングを逃し、所在なく、壁に飾られた霊獣の絵を順に眺める。

 霊獣たちに囲まれ選択を迫られる状況は、どんな心境だろうか?麗香なら手に取るようにわかり、対処のしようもあるのだか、りのちゃんに対しては難しく、そうはいかない。そして、ここにもう一人、読み取れずに、対処のしようがない奴がいる。こいつに関しては、対処の必要もないだろうが、何故だろう、昔ほど忌み嫌えなくなった。逆に気になる。遺伝子に染みついた信仰心だろうか?それとも、テロという危機を共にした、ストックホルム症候群的なものだろうか?

 棄皇は静かに、まだ紹興酒を飲み続けている。

「なぁ棄皇。」

 亮の呼びかけに、少しの反応もせず、麗香達が飲まなかった紹興酒の瓶を引き寄せている。相変わらずの豪酒ぶりだ。半ば呆れ気味のため息を吐きながら、呟いた。

「お前が横浜で降りたら、りのちゃんも降りるんじゃないのか?」

 棄皇は飲みかけた紹興酒の猪口を止めて、驚愕の表情で亮を睨み見据える。

「何故だ。」

「何故って、いや・・・その・・。」

 また棄皇の機嫌を損ねたかもしれず、そしてまた頭を割れるほどに能力を使われてしまうかもしれないと、亮は怯えた。

「何もしない。理由を言え。」

(その圧力が怖いのだけど。)

 亮は軽く深呼吸をしてから話し始める。

「ずっと、窮屈な日本を出たいと願っていたりのちゃんだ。それが、その・・怒らないでくれよ。」

 棄皇は頷く。

「お前に刺された事で、日本を出ていける理由になった。そして帰らなくて良い理由になったはずだ。だから、りのちゃんは日本語を取り戻しても日本に帰ってくる事はしなかった。それなのに、あのテロによる華族会から緊急招集令を見て、りのちゃんはどうにかして帰国しなければと、フランスの日本大使館に飛び込んだ。それがレニー・コート・グランド・佐竹氏との出会いとなるのだけども・・・有事だったとはいえ、あれだけ嫌っていた日本に帰国しようとしたりのちゃんの行動が、俺はとても不思議に思ったんだ。」

「華選としての使命感があった。」

「かもしれない。けれど、その使命感もとても違和感だよ。りのちゃんは、華族会からの研究費も驚くほど使っていなくて、返還したいと言ったこともあると聞くし、それに、お前とのあの事件では、りのちゃんは華族会の思惑に被害を被った側だ。」

 棄皇は眉間に皺を深めた。

「それぐらい華族会、日本との関わりを遠ざけていたりのちゃんが、日本で大変な事が起こっているからと、フランスからすぐさま帰国しようとしたと聞いて、どうにもりのちゃんの行動とは俺は思えなくて、引っかっていたんだ。」

「柴崎麗香を心配していた。」

「うん、麗香を心配して、確かにそれは大きな理由になるけれど、帰国して自分が何とか出来る状況じゃない事はわかったはずだ。緊急招集令にも華選は待機とされていたんだから。それでも帰国しようとしたのは、もうりのちゃんの意思じゃないのかもしれないと思った。」

「りのの、意思じゃない?」

「魂を分かつ者とお前は言った。りのは我であり、我はりのであると。」

 棄皇が椅子を倒して立ち上がった。

(ヤバイっ来る。)

 亮は後退って青龍を背につけた。

「何もしないって言ったろ。俺は、おまけなりに考えたんだ。」

 7年前、棄皇が日本を出て行ったと同じくして、りのちゃんも日本を出て行った。

 権威随一の誰にも媚びることのない皇族気質を持つ棄皇が、レニー・コート・グランド・佐竹氏を慕う事も、亮は違和感があった。 棄皇が言うように、魂を分かつ者同士、何かしら互いに影響し合っているとしたら、それらの違和感は解消される。

「言え、その先を。」

「あのテロがあった日、お前は七年ぶりに日本に帰国した。お前が帰国したから、りのちゃんも帰国したくなったんじゃないのか?」

棄皇の目は大きく見開かれる。

「我が・・・帰国したから・・・。」そう呟いて、棄皇は首をゆっくりと横に振る。

「どうして、わからないんだよ。」

「どうして・・」











『貢物でりのは靡かぬ。もっと力づくでりのを引き寄せろ。』

 行き場のない怒りを処理しきれずに、慎一は鉄柵の柱に拳を打ちこむ。

 鉄柵の柱は鈍い音を立てただけで、巨大客船は微塵も震わずに波と風を受けて、走る。

 こんな事をしても拳が腫れるだけ。わかっている。だけど、胸の痛みを感じるぐらいなら、拳が痛い方がマシだった。

『りのは感じるはずだ。』

 分かった風なことを言うな。

 拳の血が目に入った。

「くそっ。」

『魂が覚えている。』

 覚えているもんか、もう、りのは忘れてしまったんだ。

『古に護られたぬくもりを』

 迷子になった恐怖を、手を繋いでなくした道のりも。

『新田慎一、その名が世界を駆けて届くのを楽しみにしている。』

 約束も。

『人の夢と書いて儚いという』

 あいつの言う通り、儚いほど価値のない俺の夢だよ。

(笑えよ。くそ野郎!)










「我が・・・帰国したから・・・。」

「どうして、わからないんだよ。」

「どうして・・・我は、」

(こんな単純なことに気づかなかった?)

 りのと再会した時の共鳴があまりにひどくて、りのにはなるべく近づかない様にして、眼も逸らしていた。

 それが仇となり、気づけなかった?

 何も、こいつらを呼び寄せる事など、しなくてよかったというのか?

 我が、日本に帰国すればいいだけの事だったのか?

 そうすれば、りのは、我の意思に共鳴し、引きずられるように帰国しようと思う。

 単純、とても。

『神威は無慈悲に単純。』

 だから、神威が及ぶあの国には、我は帰れない。

 だから、りのも帰れない。

 それが真意。

「日本に帰って来いよ。りのちゃんの為に。」

「我は帰れない。」

「鷹取家の事か?それなら華族会が一致して、凱さんが抑え込んだから、もう命を狙われることはないよ。」

「そうじゃない。」

「え?」

「そんな問題ではない。」

「何の問題だよ。」

「この身が、神の子である限り、我は帰れない。」

「継嗣の問題か?そんなのまだ先だろう、とりあえず帰国してみろよ。」

「違う!許されないのだ!」

「あぁ!?」

「神意が許してくれない。」

「シンイ?」

【送受の力を持ちえて、神皇と成す。】

 この身に神の血がある限り、我は求める、足りない片方の力を、だから・・・

「我は・・・」

 双燕を殺そうとした。

 どちらかが死ねば、その力は集約されて、神皇と成せる。古人はよく考えたものだ。だから生れてくる双子は、赤子の内のまだ民の祝福の無い死にやすい時期に一人、天に返せよとした。

『神威は無慈悲に単純。』

「・・・生きてはならない。」

「そんなのおかしいだろっ!」藤木が突然叫ぶ。「生きてはならないなんてっ」

「我の真の名は還命だ。意味を知っておろう。」

「だから何だよ!」

「神皇は単一継嗣、過誤の命は認めない。それが神の意思だ。」

「そんなことあるか!じゃ、何故、お前は生きてんだっ。」

(何だ?こいつは、何故こんなに怒っているのだ?)

「神の意思が及ばなかったから、お前は天に還されず、今まで生きてんじゃないのか?」

「神の意思が及ばなかった?何故?」

「知るかよっ、お前の方が良く知ってんだろっ。」

「あぁ、そうだ。我の方が良く知っている。だから我は、生きてはいけない。」

「いい加減にしろよっ。」

 バシッと頬に痛みが走る。藤木は唇を噛んで我を睨む。

「無礼な。」

「こういうのだけ、権威ぶるなっ。」

「なっ・・。」

「お前は権威主義に皆を強いてきた。それがどんなに理不尽で非道でも、それがお前の存在理由であるから、俺らは跪いてきたんだ。

それが何だよ。帰れないとか、生きてはいけないとか、お前らしくないっ。」

「何故、お前が怒る?」

「情けないからだっ。」

「情けない?」

「あぁ、薄弱な言い訳をする皇なんて、情けない。そんな皇に跪く民は、もっと情けない。そして、そんなお前にした俺たちは、もっと、もっと、情けない。」

「それは心意だ。」

「黙れっ、シンイ、シンイって、何だよっ。」

 神威、心意、真意、回り繋ぐ。

「心意は、慈悲深く、複雑。」

「やめろよ・・・」藤木が泣いている。「引きずられるだろ・・・。」

(えっ?)

「皇家の継嗣が、泣くんじゃねぇ。」

 頬を触れてみる。濡れた指先が照明に照らされて光っている。

「帰れなくて泣くなんて、迷子の子供みたいじゃないか。」

 迷子・・・






『おうちどこぉ』

『こっちこっち』

『あー待ってよぉ・・・どこ?どこ行っちゃったの』

『ここだよ。』

『怖いよ、見えないの。』

『じゃ手をつなごう。ね、大丈夫。怖くないよ』

『うん・・・』

『お歌うたったら、もっと怖くないよ」』

『つぅぎゃざー、ツギャザー ツモローつぎゃ~ざー。』

『ツモロー、ツモローだよ。』

『いいの。一緒に帰るんだから。ね、キオウ』








「お絵描き帳?」

 飲みかけたホットコーヒーを途中で止めて、麗香へと顔を向ける藤木。

「そう、りのの子供の頃のね。」

 麗香は最後の一口、とろとろのスクランブルエッグを口に頬張った。舌でとろけるバターたっぷりの食感は屋敷では得られないものだ。源さんに頼めば作ってくれる。だけど、和食職人の源さんは、塩コショウの代わりに御出汁を入れちゃう。洋館風情の屋敷ではあるが、柴崎家は和食が中心の食事だった。住み込みの料理人、源さんが和食の達人だから仕方がないのだけど、たまには洋食も食べたくなる。だから外食の時は、洋食系を選択するのが多くなる麗香だった。

 船で朝食が提供される店は限られていて、日本食、洋食、東南アジアの三種類のテイスト。乗船してから、麗香達は一通り食したが、朝からスパイシーな東南アジア系は口には合わなかった。結果、屋敷では食べられないバターたっぷりの洋食を好んで食する麗香に毎朝付き合っている藤木は飽きたのか、「運動不足で腹も減らない。」と言って、今日は珈琲だけにしている。

「りのね、そのお絵描き帳を胸に抱きしめて泣いたわ。私の夢が詰まったお絵描き帳だって。」

 りのを部屋に呼び入れて、一晩一緒に部屋で過ごし、りのは朝8時ごろオーナー室へと帰っていった。その後、麗香は身支度をして藤木達の部屋へ訪れたが、もうすでに新田はトレーニングルームに行ったと、部屋には藤木だけだった。

「りのちゃんのお絵描き帳を、何故えりちゃんが?」

「さっき、えりに電話して聞いたわ。」

ピンクグレープフルーツとパインが多めの少し酸味のある搾りたてのミックスフルーツジュースが、病みつきになっていた。それを飲み干してから答える。

「披露宴の演出で使う写真を探していたら、出て来たんですって。ほら、りの、新田家と兄妹みたいに育てられていたでしょう。りののおさがりが、えりにいったりして、互いの持ち物がまぎれるなんてよくあったらしいわ。」

 フランスで結婚式を挙げたいというえりの願いは、やはり店の経営上、早々に計画案から消えた。えりも絶対的に叶えたかったわけじゃなく、話の盛り上がりでそんな話になっただけで、店を長期に閉めるわけにはいかない事は十分にわかっていて、、えりはすぐに国内での結婚式という形に切り替えて準備し始めた。

「ふーん。でも良く捨てられずに残っていたな。」

「ええ、えりも懐かしかったって。それで、りのにも思い出してもらおうって考えたらしいわ。」

「えりちゃんも、中々粋なことをする。」

「じれったいのは私達以上でしょうよ。えりは乗船できなかったんですもの。」

「行きたいって、凱さんに懇願してたな。」

えりは、りのに直に説得すると意気込んだものの、パスポートの期限が切れていて、流石にどうしようもなく諦めた。

「中は?見たのか?」

「ええ、見させてもらったわよ。」

「どんなんだった?」

「ニコちゃんマークばっかりだったわ。」

「ニコちゃんかぁ、懐かしいな。」目じりを下げて懐かしむ藤木。

 お絵描き帳の中は、大小さまざまなニコちゃんマークがいっぱい描かれていて、怒ったものや困ったような顔もあってかわいらしかった。

「時々ね、車とか飛行機とかが、逆さまの向きで出てくるの。」

「それって。」

「ええ、想像できるでしょう。二人が頭をつき合わせて描いていた状況が。」

新田とりの、赤ん坊の頃から一緒くたに育てられたという。時にお互いの家がどっちだかわからないぐらいに自然に行き来をして。

 そんな二人が、一つのお絵描き帳に頭をつき合わせて描く。時にクレヨンを取り合ったりして。一人っ子の麗華には経験のないシチュエーション。そういう話を聞くと羨ましいなと思う。

「えり、ナイススマッシュだわ。」

りのは昨日、そのお絵描き帳を胸に抱きしめて眠った。お化粧して大人っぽくなっても、寝顔は昔のままだった。りのがえりを妹のようにかわいくて仕方がないというのに対し、麗香もりのはかわいい妹のようだった。

「他には?」

「えっ?」回想に浸っていた麗華を引き戻す藤木。藤木はなんだが難しい表情でいる。

「他にはどんな絵が描かれていた?」

「えー他って言われても。動物とか・・・ひらがなの練習もしてたわよ。それがねとってもかわいいのよ。『あ』とか逆向きで回っていたりね。秀才のりのも普通の子供だったんだなって。」

もうこれ以上、麗香たちがすることは何もない。横浜で降りるか降りないかは、りのの自由意思であり、麗香達は一緒に降りて日本に帰ってきて欲しいけれど、強く言えない。

「あぁ、あと一日かぁ、何しようかなぁ。」

 明後日の正午には横浜港に着く。時に暇を持て余し気味の豪華客船の旅だったが、終わると思うと惜しい。

「せいぜい、残りの時間を悔いなく過ごしてくださいよ。お嬢様。」

「えっ?」突然のお嬢様呼ばわりに驚く。

「帰ったら、理事の仕事、余すことなくきっちりやっていただきます。」藤木は怖いぐらい真顔でそう宣言する。

「えー!」

「当然です。就任僅か3日で長期休暇を取っているんです。」

「校長には視察って言ってるじゃない。」

「バレバレです。バレていなくても8日も視察なんて、迷惑極まりない。これだから一族経営はと言われないためにも、一日も早く仕事を覚えて、独り立ちしていただかないと。」

 何も言えない。留守を頼んできた洋子おば様は、表面ではいいわよと言ってくれていたけれど、きっと心の中では我儘娘と思っているに違いない。

「8日分休みを返上して、遅れを取り戻してもらいます。」

「えー、ちょっと、それじゃ私、過労死するわ。」

「過労死の域に達しません。」

(鬼!)麗香は頬を膨らませ、心の中でそう叫ぶ。

 麗香達は、あと一日で主従関係に戻る。














 日本列島は高気圧に恵まれて、全国的に少し汗ばむくらいに晴れていた。船内にあるテレビは日本の電波を拾って、週末は絶好の行楽日和と、お天気お姉さんはにこやかに話す。海風が心地よく、雲は流れて、光まぶしい。

 デッキに出ると、その歌声が聞こえて来た。

 ミュージカル、アニーのトゥモロー。赤毛のくるくるパーマのかつらをかぶって、そばかすメイクに赤いワンピースを着たスタッフが籐の籠を手にして歌っている。いつもフロントにいる女性スタッフだ。ここの従業員は通常の業務の合間に、客を楽しませるイベント業務も請け負う。毎日どこかしらで、クイズラリーや宝さがし、芸を持つ人はパントマイムや似顔絵コーナーなどが催されて、とりわけ子供たちを退屈させないようにと工夫されている。

 よく通る声が心地よく響き渡る。声楽でもやっていたのかもしれない、歌い方がプロ並みだった。

 アニーを模したスタッフは、歌いながら、集まってくる子供たちに、手に持つ籠からキャンディを手渡していく。子供達は目をキラキラさせて、早速、袋をあけて食べる子や、大事そうにポケットにしまう子、母親に駆け戻り得意げに見せる子、様々に。


寂しくて ゆううつな日には

胸を張って歌うの オー

朝がくれば トゥモロー

涙のあとも 消えてゆくわ

トゥモロー トゥモロー

アイ ラヴャ トゥモロー

明日は幸せ   

 

 アニーの物語を私は知らない。ミュージカルには縁がなかった。

 明日は、という事は、今日は幸せじゃなかったって言う事?

 今日が幸せと歌えなかった人は、明日が来ても幸せと歌えないのじゃないだろうか?

そしてまた、明日、明日と、先送りされる。来る日も来る日も、明日こそはと、報われないスパイラル。希望を失うなってことなのだろうけれど、見通しの立たない毎日にぞっとする。

 歌が終わり、周囲から拍手が起こる。アニーは子供達に囲まれて写真撮影。

被写体にならないように、私は後ろを小走りで駆け抜けた。特に目的があって歩いているわけじゃなかった。横浜で降りなくても、最終の香港までは、さらに一日しかない。船での生活は残り少なく、船内を隅々まで見ておきたくてぶらついていただけだ。

滑り台のあるプールに来る。麗香が乗船してきてくれたから、泳ぐことができた。一人では利用したくてもできなかったから、麗香の乗船は、とてもありがたく楽しかった。

 麗香は、私を日本に連れ戻したがっている。強く帰って来てとは言わず、会話の中に、『昔のように、』が良く出てきた。ミスターグランドの魅力をわかってくれたし、私が決める事に、どんな決断をしようと友達であり続けたいと言ってくれた。その思いは同意で、私達は抱き合って約束した。

 藤木も無理強いしないスタンスだ。ミスターグランドの裏を知っても、その危険性を代替的にせず、心配をしているけれど、私の気持ちを尊重してくれた。

わからないのが、慎一だ。ミスターグランドと棄皇を嫌い、その割には、私にどうしろと言わない。いつもの事だ。えりちゃんや、皆が私の帰りを待っていると言い、慎一の主張がない。

『それでも新田は、限りなくお前を許す』

 じゃ、私がどんな決断をしようと、許されるって事だ。

 水しぶきをあげて喜々と遊ぶ子供たちを尻目に、階下へと降りた。階下にはスカッシュのコートやボルタリング、エアロビクスのなどの運動スペースの部屋があって、トレーニング施設となっている。仕切りの壁はすべてクリア素材で出来ていて奥まで見渡せる。ネルソンさんがランニングマシーンで汗をかいていた。私を見つけると、苦しそうに口をパクパクさせながら手を振ってくれた。私は手を振り返しながら、何を言っているのかわからないをジェスチャーで返す。ネルソンさんはランニングマシーンから降りようとはしなかったから、大した話じゃないのだろう。邪魔しちゃいけないと、その場から離れた。

 フットサルのコートでは、慎一が子供相手にサッカーをしていた。自分の半分の身長のない子もいて、男女様々な子供たちは一つのボールを追いかけて、とても楽しそうだった。

英「走らないのよ。」

英「だって、もう始まっちゃてるよ。」

 廊下を走って来た男の子は、手に持っていたボールを手前に転がすと蹴りながら走り出した。そのボールが私の所まで転がってくる。

英「こらっ!廊下でボールを蹴らないのよ。」

 体格のいい母親に怒られる男の子、私はボールを拾って男の子が近くまで来るのを待った。

 ふと、そのボールにマジックで書かれてあるのを見つけて、男の子の名前かと注視する。でも違った。それは、慎一のサインだった。

慎一のサインにはニコちゃんマークが添えられていた。

 幼き頃の記憶がよみがえる。

『何それ?』

『サインだよ。』

『サイン?』

『うん。ほらサッカー選手がボールにサインするでしょ。これ、僕のサイン。』

『ぐちゃぐちゃじゃん。』

『ぐちゃで良いんだよ。ぐちゃぐちゃって書いてるもん、みんな。 』

『変なの。』

『・・・・・』

『そうだ。ここにニコちゃん書いたら。』

『えーまたニコちゃん?』

『うん。ほら、良い感じ。』


英「お姉さん、それ返して。」

 オークションで慎一のサインボールを落札した男の子だ。

英「あぁ。ごめんね。」

 私からボールを奪うように取り返した男の子は、駆け足でフットサルの扉を開けて入っていく。

英「ハイっシン!」

英「ハイ、ジャック!」

 二人はハイタッチで挨拶を交わす。ジャックはきっと毎日ここに通っているのだろう。そして慎一も、毎日ここで子供たちの相手している。

 後から入っていく母親が慎一と二言三言話をして、中で待っていた別の子の母親と思しき人と出てくる。

英「ほんと助かるわ。」

英「ええ、日本人だから安心だものね。」

(保育所代わりか・・・)

 コートに視線を戻せば、子供達から顔上げた慎一とガラス越しに目が合った。


『それでも新田は、限りなくお前を許す』


 それが、怖いのだ。何かも私を許す慎一の捨て身が。

 そして、それを利用する私のしたたかさも。

 きっと、それさえも慎一は許すのだ。

 明日も、明後日も。


『ママ、パパ、慎ちゃん、えりちゃん、おばちゃん、コックさん。これがニコ~みんな一緒にぃ。つぅぎゃざー、ツギャザー にこちゃんつぎゃ~ざー。』

『なんだよ~、その歌。』

『それ、トゥモローよ。りの。別のCMとごっちゃになってるわよ。』

『ツモロー。ツモロー、ツモロー、ツモロー、ニコちゃんツギャーザー。』

『あはははは、おかしい。』

『うん、明日もぉ、ずっと、ニコちゃんと一緒。』

『ニコちゃんマークばっかじゃん。飽きたよ。』

『ほら、ぼくのもみて、車、』

『変なの、反対じゃん。空に車って変なの。』

『仕方ないだろ、こっちからしかかけないんだから。りのだって、このニコちゃん反対じゃん。』

『それはこっち向いてるんだよ。』

『黒、貸して。』

『あ~。』

『こうしてぇ。』

『あー、やめてよっ』

『ほらっサッカーボール!』

『むー、私のニコちゃんを~』

『あーこらこら、喧嘩しないのよ。』












 横浜港に着く。

 ロビーは手続きを済ませて下船しようとする人たちで溢れていた。亮達たちのように、ここが着港地でスーツケースを手に降りていく人や、寄港地として観光の為に降りていく人は荷物も少ない。どっちにしろ、乗船客のほとんどが待っていましたとばかりに船を降りる準備をしているので、6階ロビー前には余地がないほどの混雑さだった。

 亮達も荷物を持って部屋を出てきているが、急ぐことはない。時間ギリギリまで、りのちゃんが来るのを待つつもりだった。

 人々が一斉に叫び始めた。どうやらゲートが開くカウントダウン。毎回、着港地で行われているのだろう。ゼロで拍手が起きる。よく分からない一体感に亮は苦笑する。ここからゲートは見えないが、人が流れ始め、喧騒は一際大きくなり「ジャパーン」と謎の叫びも聞こえてくる。

 新田の元に一人の少年が走り寄ってきた。

英「元気でな。応援してるからな、ゴール決めろよ。」

英「ジャックもな。」

 少年の母親らしき人は、新田に挨拶してバグをする。

英「応援してるわ。ありがとう。」

英「ありがとう。」

 そんなやり取りが5組ぐらい続いた。

「人気者じゃない」

「暇つぶしに子供相手にフットサルやってたら、船のサービスだと本気で思われていた。」

「あはははは。でも良かったじゃない。ファンが増えて。」

「未来の選手になればいいけど。」

「女の子、かわいかったな。しがみついて降りないでなんて、お前も隅に置けないな。」

「明日には忘れてるさ。」

 そう言って空いたロビーのソファに座った新田は、りのちゃんの事は諦めていた。

 亮も麗香もソファに座る。

 継泊者でない下船は3時までに済ませなければならなかった。しかし、その3時になる5分前になってもりのちゃんはロビーに現れない。現れたのは凱さん。

「昼から部屋に閉じこもったきり。呼鈴押しても出てこないんだ。」

「そう・・・諦めるしかないのかしら?」麗香が落胆してつぶやく。

「特別に5時まで手続きを伸ばしてもらったよ。」

「本当?」

「うん。佐竹オーナーの配慮でね。」

 新田が「余計な事を。」とつぶやき不機嫌になる。

 そうして伸ばしてもらっても、りのちゃんはロビーに現れなかった。

 とっくに下船の手続きを済ませていた亮達は、できる限りゆっくりとゲートへと歩んだ。

(この船旅が何だったのか?)

 結果的に何も変わらなければ、その答えは出ない。

 乗船チケットを送って来た棄皇は、この結果をどう受け止めるのだろうか。

(シンイが及ばなかった?それともこれがシンイか?)

 その棄皇は、一昨日のディナーから姿を見ない。

船と港をつなぐ長い下りのスロープを歩みながら振り返り、後ろをついてくる凱さんを待って並ぶ。

「凱さん。」

「うん?何?」

「棄皇に忘れものを、渡しといてくれます?」

「忘れ物?」

「ええ、一昨日のディナーの席で、これを忘れて行ったんです。渡そうと思っていたのですが、結局会えずに。凱さんは、また会う機会がありますよね。」

「うん。わかった。渡しとくよ。」

 亮はスーツのポケットから出した物を、凱さんの手に渡した。












 何度も鳴っていた呼鈴が、諦めたように静かになった。

 5時まで私を待っていると部屋の向こうで凱さんは叫んでいたけれど、そんなことしても、私は横浜で降りる気持ちはない。私はこの国から逃げたのだ。今更、どんな言い訳をして、心に折り合いをつけて帰ればいいのか。ミスターグランドの側にいることが難しくなったけれど、香港に着いたら、別の立ち位置を確立できるかもしれない。とにかくこの日本に帰るという選択は私にはない。

 何故か、昨日からアニーのトゥモローのメロディが頭の中で奏でて離れなかった。

『ママ、パパ、慎ちゃん、えりちゃん、おばちゃん、コックさん。これがニコ~

みんな一緒にぃ。つぅぎゃざー、ツギャザー にこちゃんつぎゃ~ざー。』

『ツモロー。ツモロー、ツモロー、ツモロー、ニコちゃんツギャーザー』

 お絵描き帳がベッドから滑り落ちた。拾う気力もない。

 窓から入ってくる海風は、湿気を含み気持ち悪く、顔にへばりつく髪の毛がかゆい。

(だから、嫌なのだこの国は。)

 異端を嫌い、秀でる者は叩き潰す。

 ミスターグランドの言う通り、おもてなしは裏ありってこと。

 善のふりして見返りを裏に含ませる国。

 幾度も髪をかき上げても。戻される風。

 窓を閉める為に、私は身体を起こした。横浜駅周辺の高いホテル群が見える。街並みに懐かしいとも思わない。

 ここから電車で30分たらずの所に、母が住んでいる。致命的に傷ついた母は、私の帰りなど待ってはいない。

(だから、嫌なのだ。嫌な記憶しかないこの国は、私の胸を締め付ける。)

 窓を閉めた。ホッとする。室内の静寂が心地よい。

 拾ったお絵描き帳。

(ごめんね。えりちゃん。私はやっぱり帰れない。)

 気怠さが握力を無くし、お絵描き帳はバサッと足元にまた落ちた。

 開かれたページに目をやり、脳裏に幼き頃の記憶が思い描かれる。



 このお絵描き帳を持っている私は、順番が来るのをワクワクして待っていた。

『僕はサッカー選手になりたいです。』先生の後ろに隠れるようにして、小さい声で言った慎ちゃん。

 慎ちゃんの分まで大きい声で言おうと、私は意気込む。

「次、りのちゃんね。」と言われる間もなく、私は勢いよく立った。

 お絵描き帳を頭の上にかざして、皆に見せながら、

『私は大きなニコちゃんの家に住みたいです。』

『なんだよそれ~。』というひまわりぐみの皆の非難の声。

 私は大きな屋根の下に一杯描いた家族を一人ずつ説明する。

『ママとパパ、慎ちゃんとえりちゃん、おばさん、コックさん。そしてこれがニコで、みんなで大きな家で住むの。』


(それが私の夢?)

 拾ったお絵描き帳に書き綴られたえりちゃんからのメッセージ。

【りのりのへ  帰ってきてね。夢が待っているから。えりより。】

 (夢が待っている?うそよ、私の夢は、世界中の人と友達になる事。-----じゃなかった?)

『大きな家じゃないと、世界中のお友達を呼べないの。』

『あはは、そうね。じゃぁ、二人でいっぱいお金を稼いで大きなお家を建てないとね。』

『うん。』

 その絵は虹色の屋根のお家。

 帰れない想いがこみ上げてくる。

「帰れないの・・・。」

 帰れないのよ。











 もうわかる。双燕が受けた人々の願い祈りが。

 人の心意は、無限に卑しく、求める。

 大地に足をつければ、それはもっと強くなる。

『お前が横浜で降りたら、りのちゃんも降りるんじゃないのか?』

『日本に帰って来いよ。りのちゃんの為に。』

(りのの為に・・・抗えられるだろうか?神威に。)

 そっと、一歩だけ、祖国の大地に足を置いた。

 神皇の祈りが、双燕の祈りが、染み入ってくる。

 我の中の血潮が、足りない力を求め、彷徨い疼く。

 不完全なる力を補うように。

 不完全なる魂を求めるように。

「りの、帰れ。新田は限りなく許すから。」

 どこかで5時を告げる音楽が流れ聞こえてくる。

 我は、大きく息を吸い、拳に力を入れた。










 帰れないは、帰りたいの裏返し。

 帰らなければ、その夢は叶わない。

 静寂の中、カチッと時計の針が動く音。

 こみ上げてくる、想い。

 その思いが私を動かす。











 岸壁とスロープの境目の数段の手前で、柴崎が立ち止まった。

「まだ5時になってないわ。」

 振り返り、沈んだ顔で言う。

 あと一分、りのは来ない。

 船体を見上げた。船の最上階オーナー室が見える。ベランダに置かれた観葉植物の葉が揺れていた。

(この船旅はなんだったのか。)

 船の最上階にいて、霊獣の中で最強の力をもつ麒麟だという佐竹。その力を見せつけたいが為の船旅だった?

 りのを諦めろと。もう、お前には無理なのだと。

 もう、誰かの為の夢にしない。

 儚い夢を現実にする為の旅。

 港全体に馴染みの音楽が流れた。蛍の光、下校の時の音楽。時計を見なくてもそれが5時を告げる事を知る。

「降りよう。」

 慎一が促し階段を下り始める。何の感慨もなく慎一は日本の地へと足を踏み降ろした。

 藤木と凱さんが続いて、名残おしそうな柴崎へと振り返る。柴崎は深くため息ついて、とてもゆっくり階段を下り、下船した。

「さて、ここからどうやって帰るか。」

 往路は、凱さんと空港で待ち合わせだった。慎一達三人は屋敷からハイヤーを呼んで空港まで行ったのだけど。帰りは、りのが下船するかしないかで状況が変わると、陸路の手配は何もしてない。彩都市まで、電車で帰ってもさほど遠い距離ではない。

「凱兄さんは歩いてでも帰れるわね。ここからだと。」

「いや~歩きはちょっときついよ。一時間ぐらいはかかるよ。」

「タクシーで4人はスーツケースが入らないの。」

「僕もタクシーに乗せてね。」

 完全に歩けとばかりの柴崎の対応に、凱さんは苦笑してつぶやく。

「ハイヤーをうまく呼べたらいいけれど、それでも横浜駅まで行かないと不便だし、こんなところで車待ちも嫌だろう。お嬢様は。」

「いやよ。何もないじゃないここ。」

 大きな客船が着岸できる場所が限られているのだろう、国内線の寄港場所とは違って、外界寄りに離れていて周囲は何もない埠頭だった。

「じゃ、とりあえず、二人ずつに分かれて、」

 カンカンカンと響く足音。全員がその音に振り返った。

「りの!」

 息を切らしたりのは、その手にお絵描き帳だけを持っていて、立ち止まった。

「私・・・」

 荷物を持たないりの。何かを言いに来ただけだと慎一は察する、そのお絵描き帳を突き返しに来たのかもしれない。

「私・・・」

 りのは、視線を落とした。

『もっと力づくでりのを引き寄せろ』

 弥神の声がよみがえり、「そんなことできない」と自身の中で返答する慎一。

 しかし、今までそれをしなかったから、りのを引きめる事が出来なかった。

『りのは感じるはずだ。』

『魂が覚えている。古に護られたぬくもりを。』

「・・・・ごめんなさい」小さくつぶやくりの。

 やっぱり、見送りに来ただけだ。

 りのは堪らいがちに後ろへと顔を向ける。

『もっと力づくでりのを引き寄せろ』

(わかってるさ! 力が足りなかったと後悔するのは、もううんざりだ。)

「りのっ!」

 りのは慎一の声にびくついて顔を上げる。

「帰ろう。」手を伸ばした。

 慎一の手を見つめて僅かに首を横にふるりの。

『もっと力づくで!』

 弥神の声が再び頭に響く。

「誰でもない俺の為に、帰ってきてくれ。りの。」








「帰ろう。」

こみ上げてくる想い「帰りたい」が、「帰らなければ」と変わっている。

 何故?

 誰の為に?

 えりちゃんの為?

 私の為?

 慎一が出した手につられて私は左手を上げた。

 躊躇いは、ミスターグランドへの執着心?

 それとも描き違えた夢へのこだわり?

 慎一はそれでも許す、私を。

「誰でもない俺の為に、帰ってきてくれ、りの。」

 慎一の為・・・。

「誰よりも、ずっと願っていたんだ。帰ってくる事を、いつも。」

「慎一・・・。」の為に。

 私は帰りたい。

 無意識に手に伸ばせば、慎一はぎゅっと掴んで引っ張った。

 階段の幅にヒールの幅が合わなくて、踏み外した私を慎一は全身で受け止める。

(あぁ、懐かしい、この感覚。)

 こみ上げてくる想いは、安心。

(そうだ。私はこの安心を求めて、恐れ、認め、悲しんで、好んだ。)

 慎一は、握った私の手の平を広げて、地球儀のキーホルダーを置いた。

「お帰り、りの。」

「ただいま。」











 ミスりの真辺。とても良い切り札だった。

 手札を活かすも殺すも、私次第。

 私はミスりのと引き換えに、欲しい物を手に入れる。

 さて、出かけるとしようか、もっと大きく欲しい物を手に入れる為に。

 日本は私にとって、使い勝手の良い手札だ。

 湿った空気がベランダから部屋へと抜けていく。

英「クレメンティ、書類はできたか?」

 クレメンティの返事がない。見れば、ソファで頭を抱えている。

英「ミスりの・・もう一度、この手に抱きしめたかった、小リスのような愛らしき人よ・・」

英「お前はどっちなんだ、ミスりのを女として見ていたのか、小動物として見ていたのか。」

 クレメンティの女を愛する基準がわからない。











 我は深く祖国の空気を吸い込む。体内の細胞の一つ一つが、祖国の気を歓迎して活性化していく。身体を澄み渡らせていく神意は、導こうとする。双燕の許へ、そこに一つになるべき力があると。湧き起こる欲望に、ぐっと爪を立てて握りしめ、意識をりのへと切り替える。

 りのの安堵が伝わってきた。

(やっと新田の許に帰ったか。世話のかかる。)

「棄皇、何してるんだ?こんなところで。」

 声に振り向くと、柴崎凱斗が小ぶりのスーツケースを引いて歩み寄ってくる。

 ここは船の後尾、従業員用の出入口のスロープを降りたところ。

「お前こそ。」

「りのちゃんが、船を降りたんだよ。だから俺は戻らなくちゃならない。ミスター佐竹の正式な部下として。」

 頭目は、りのを切り札に、どれだけの見返りを得たのか?

りのの価値以上のものを手に入れた。そのビジネスセンスは神業。

「だけど引き返そうにも、通常のゲートは閉められているし、乗船チケットがないから。IDカードで従業員として入るしかなくて。」

「その下っ端のID、黒に昇格だな。」

「良いんだか、悪いんだか?」そう言って柴崎凱斗は首の後ろを掻いた。「あっ、そうだ。藤木君から忘れものを預かってたんだ。」

「忘れ物?」

「ディナーの時に忘れたみたいだね。藤木君が渡す機会がなかったからって、託されたよ。」

 柴崎凱斗が革ジャンのポケットから出してきたのは、我が藤木に返したハンカチだ。

(あいつ、まさか自分の物だった事を忘れて、我が忘れたと思っている?馬鹿だろ。)

 受け取ったハンカチはR・Fのイニシャルが刺繍された、間違いなく藤木のハンカチだ。

 ハンカチの間に挟まっていたらしく、それが地面に舞落ちた。拾ってみるとそれは藤木の名刺。

 我はレニーの情報部所属。知ろうと思えば電話一本、ものの数分で人の携帯番号やアドレスなど知るのはたやすい。名刺など必要ではない。

「馬鹿が、余計なおせっかいを・・・。」

 我のつぶやきに、柴崎凱斗は首をひねって様子を伺う中、我はその個人連絡先の書かれた名刺を、ハンカチと共に袖に仕舞った。











 ゴールデンウィークを返上して、引き継いだ理事の仕事に専念した麗香。今日の翔柴会理事会議が終われば、やっと明日は丸一日の休みが出来そうだった。だが、明日の休みをどう過ごすか思念する暇もなく、麗香は今、書類づくりに追われている。

土曜日の午後3時20分。

レニー・コート・グランド・佐竹氏に教えてもらったロシアンティを、麗香はやっぱり気に入り、今日は、オレンジのジャムをセレクトして作り、麗香理事長室の扉をノックし入室した。入ると麗香は誰かと携帯で話をしていた。口調で仕事関係ではないとすぐにわかる。

「どうして!何故そうなるのよ・・・・・何のために私、お父様を説得して連盟にごり押ししたと思ってるのよ。」

(あぁ言ってしまった、ごり押しと。)

電話の相手は新田である。麗香は電話を切ると、脱力してデスクに俯せた。

「ぁぁ~どうして、あの二人は・・・。」

 麗香のお膳立ては、うまく行かなかったようだ。

「りの、グレンの所に戻っちゃったらしいわ。せっかくりのを、新田の通訳兼マネジメントとして連盟に正式契約させたってのに。住むところも、二人一緒に住めるようにとシェアハウスを用意したのに。」

 それが嫌だったんじゃないか、って言葉は飲み込んだ。

 麗香のごり押しだったにしろ、りのちゃんが新田のフランス語通訳兼マネジメントを請け負ったことだけでも、大きな進展だと亮は思っている。それ以上のセッティングは余計なお節介だと亮は反対したが、麗香は聞く耳持たずに突っ走った結果、亮の予想通りに事上手くは運ばなかった。

 大きなため息をついて落胆する麗香。亮は紅茶の香りを愉しみながら、麗香の前にカップを置いた。

 りのちゃんの変化、それは棄皇の変化か?

 亮は知っている。認められない神皇家継嗣、棄皇の孤独を。

 だから、また付き合ってやるよ。 神酒の晩酌を。

 いつでも、連絡して来いよ。

 また泣きたくなったら、話を聞いてやるから。

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