第22話 選ぶ想いは紺碧の海を渡り 前編

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仏「はい。出来たわよ」

仏「ありがとう。」

 オルガは頼んでいたパンの入った紙袋をコーヒーカップの横に置いてから、私の前の席にドカッと座った。店内は私しか客はいないから暇なのだ。それはお天気事情によってもたらされている仕方のない事。今日は外気温が氷点下を下回っていた。予報では寒波の影響で明日まで氷点下0度を超えることはないとのこと。寒さに慣れているパリの人々も流石に無用な外出は控える。そんな中、私は朝早くから友人のパン屋まで朝食を食べに来ていた。と言ってもオルガ自身が店を経営しているわけじゃなく、ここはオルガの両親の経営する店で、店内にイートインの小さなテーブルが3つあるだけの小さなパン屋。パリにはこんなパン屋さんが無数にある。私のアパートからここまでくる約1キロの距離に3つは数える。 

 オルガが何かを言いたげに私を見つめている。私は読んでいた本をパタンと閉じた。

仏「何?」

仏「どうして、一緒に来ないのかなぁと思って。」オルガはパンの包みを軽くトントンと突く。

仏「どうして?を返すわ。パン屋に一緒に来なければならない決まりなんて、フランスにあったかしら?」

オルガは大げさに溜息をつく。

仏「私、言ったわよね、こっちに来る前に、絶対にやめときなって。」

仏「・・・。」

仏「これはりの、あなたの食べるパンじゃない。」

仏「ええ、そうよ。私はクロワッサンは好きじゃないもの。」

仏「そう、その好きじゃないクロワッサンを食べる男は今、何をしているの?」

仏「寝てるわ。」

仏「誰と?」

仏「・・・。」

仏「りののポーカーフェイスは、答えよ。」

 私はテーブルのコーヒーカップを手に取り口にする。熱くて飲めなかったのが、ちょうどいい温度になっている。

 オルガの小言は続く。

仏「傷付く前にあの家を出なさい。住む家が見つかるまでうちに来てもいいわ。」

仏「やめてよ。そんなお節介。」

仏「あいつの所にだけは行くなって、私は反対したのに。」

仏「ええ、お節介なアドバイスありがとう。」

仏「りの!自分でもわかっているんでしょう。」

仏「そうよ、わかっている、私はすべて納得でパリに来たのよ!」

仏「違う、そうじゃない、あいつの人間的駄目さよ、私が言っているのは。」

仏「酷い言いぐさね、子供の頃からの友を。」

仏「だからよ。子供の頃から良く知るから、あいつは駄目だと言うのよ。」

仏「・・・・・」

 平行線はどこまで言っても交わらない。交わる事を望むのなら、私が折れなくちゃならない。

 そう、オルガは正しくまっすぐだ。それが分かっていても、私は折れる事をしたくない。

仏「帰るわ。」

仏「りの!」

 私はさっきまで読んでいた本と、好まないクロワッサンの入った紙袋を、トートバックに手荒く入れて立ち上がる。

仏「私は何度でも言うわよ!グレンは駄目。紳士になれないダメ男よ。」

 外は曇り空で、今にも雪がふりそうだった。降りそうで降らないのがパリの空。冷たくて重い雲が、押し迫る。

仏「酷いわ、オルガ・・・」つぶやいた私の言葉は白い雲となって、パリの空と同化した。「そんな事、わかっている。あえて指摘しなくてもいいじゃない、朝っぱらから。」

 一か月前、ずっとお世話になっていたフィンランドの先生の家を出て、フランスのパリに移住してきた。

 フィンランドの先生は、私が5歳の時にパパの転勤ではじめて海外生活をした時の担任の先生。

【英語は笑って話せる言葉なのよ。】

 まだ日本的発音しかできなくて、大人の話す難しい言葉が分からなかった頃にそう言って、私に英会話の根底を教えてくれた恩師だ。離婚して独り身の先生に子供は居なくて、だから私が7年前の17歳の時に、フィンランドで留学生活をしたいと言ったら、家に来なさいと迎え入れてくれた。

 日本であたる高校から大学院生までの6年間を、フィンランドの首都ヘルシンキで学んだ。博士号も取得し、卒業後はそのまま学んだ大学で教授の手伝いをしていた。先生の家でお世話になるのは、学生の間だけと当初から決めていたのだけど、教授の手伝いが何かと忙しくタイミングを逃し、ずるずると1年近くも家を出ることが出来なかった。また、私が一人暮らしをすることに、柴崎家の凱さんが難色を示し、説得に時間がかかったのも原因。フィンランドでの留学は、常翔学園高等部が支援して叶ったものであるから、一応のお伺いを立てたのが間違いだった。卒業後も、まだ支援すると言って引き下がらない柴崎家の過剰な加護を、私はいい加減に断ち切りたいのに、華選の称号をも柴崎家の後押しで授与した私は、それを許してもらえない。

 日本に帰って常翔学園の教師をしないかという凱さんの提案を断り、半ば、逃げるようにフランスへの移住を強行した。

フランスに来て1か月が経つ。

 華族会から華選の称号維持費として潤沢なお金が毎月振り込まれていて、働かなくても生活できるけれど、そのお金を使うと収支報告を毎月送らなければならないので、とても面倒で使いたくなかった。だから、大学のころから続けている翻訳の仕事を増やしてやることで、生活費は十分に作る事が出来ていた。

 凱さんは「そんなに頑なに考えないでお金使いなよ、使途不明金があっても何も言わないよ。」と言うけれど、そもそも華族会からお金を貰っている事が嫌なのだ。

 華選上籍の話がきたとき、私の家は貧乏で、少しでもママの負担が減るならと承諾した称号授与だったけれど、今となっては、その称号は通帳の残高が増えていく重荷でしかない。称号の返還は出来ないらしい。前例がないと突っぱねられている。

 今やママは再婚して一般家庭より高水準な生活をしていて、弟の大輝ももう7歳になる。が、あれ以来、ママとは絶縁状態が続いていて、奇しくも、間を取り持って大輝の成長を写真や動画で送ってくるのは、村西先生だった。

私は、被害者ぶって逃げたのだ。狭く小さな日本から。

胸の痣がピリピリと痛んだ。時々あるその感覚は、どれほど遠く逃げても逃れられない、あの人との繋がり。











 ヨーロッパ諸国の政治、経済、文化に絶大なる影響力を持つフランスは、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域及び領土からなる単一主権国家である。2万年前の旧石器時代から始まる長い歴史を持ち、その歴史ある街は、積み重ねた時間が人の手業を超える。

 素直にこの国は美しいと感じる。

 長閑に点在していた家の間隔が次第に狭まりはじめ、車はパリ市街の端にようやく入り、走行音が変化した。呼びつけたハイヤーは この国で作られた車ではなかった。ドイツの車だからサスペンションが硬い。

露「車は、やはりその国で生産されたものを選ぶべきだな。」

 つぶやいた言葉は、この国の言葉ではない。運転手が理解できなかった私の言葉に、不審の目をバックミラー越しに寄越した。

 隣でタブレットに集中していたクレメンティが、私のつぶやきに反応する。

露「何かおっしゃいましたか?」

英「いや、単なるつぶやきだ。」言語を変えた。今の状況では特に意図はない。

 会話の中で意図的に言語を変える。変えた言語にはその言語で答えるというのが、我々のルールだ。

 私は10の主要言語、(英語、日本語、中国、ロシア、オランダ、ポルトガル、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア)と、小国の多言語を合わせると20を超える言語を、子供の頃から会得している。だが、私の秘書であるクレメンティは英語とロシア語、ポルトガル語の3か国語の取得だけにとどまり、その言語ルールは必然的に3か国語だけのローテーションとなる。

英「全く駄目ですね。・・・全てアクセス不能で弾かれます。」

英「まぁ、そうなるだろうな。」

 続けて情報収集に専念するクレメンティから顔を背け、車窓の風景に目を戻した。

 厚い雲に空が覆われた濃淡のない風景は、絵画のようだった。

ポ「ゴーギャンのヴオージラールの町ってところか・・・」

ポ「何ですか?」

英「私に気をかけずに、続けろ。」

 ルールに忠実なクレメンティは、肩をすくませて首を傾げた後、タブレットの操作に専念する。

 私は再び、ゴーギャンのヴオージラールの町に似た景色へと視線を送った。

ヴオージラールの町と名付けられた作品は、厚い雲を印象派のタッチで筆描いた、ゴーギャンのまだ若いときの作品である。ゴーギャンは良くわかっていた。この国の街は晴れ空が似合わない事を。

歴史的に重厚な国は、青い空である必要がない。

そして、歴史を大切にしている国は、街その物が芸術的に美しい。










 オリガの店から戻り、アパートの玄関の扉を開けると、いつもは昼近くまで寝ているグレンと珍しく、トイレから出て来て

た所ではち合わせた。

仏「おはよう、早いわね。」

仏「んぁ、ミレーヌが仕事だって。」

仏「そう・・・。」

仏「リノ、パンがないんだ。」欠伸をしながら言葉を発するグレン。

仏「買って来たわ。」

仏「ありがとう、リノ愛してる。」

 そう言って私を抱き寄せキスをする。唇に、頬に。首筋に続きそうなグレンを押してからだを離す。

仏「コーヒーを入れるわ。」

仏「あぁ、お腹が空いたよ。」

 グレン・ユーグ。お母さんがフランス人でお父さんが日本人のハーフ。だけど両親は離婚して日本人のお父さんとはもう連絡を取っていない。お母さんのマリーおばさんも、グレンとは一緒に住んでいなくて、ここから50キロ離れた別の街で暮らしている。二人は私のように絶縁状態じゃない。私とも仲良くしてもらっていて、フランスに来て、すぐにあいさつに行った。

 小さなキッチンで、ポットに水を入れる。自分の分を含めて二人分の湯を沸かす。

 グレンとは8年前に、一度フラられて音信不通になりもした。再び連絡を取ったのは2年前、私からだ。大学の研究の為にフランスのルーブル美術館を訪れる事になった際、ふと古傷を呼び起こした。グレンはどうしているだろうか?と。フランスの人気女優と同棲に近い生活をしながら、更なる人気俳優を目指して、子供のころの仲間から離れていったグレン。フェイスラインでグレンを探すと、すぐに見つかった。女優とはとっくの昔に別れていて、一人俳優活動をしているようだったが、一世を風靡した学園ドラマ直後、単発のドラマを2つほどやっただけで、その後のバイオグラフィは更新されていなかった。私はダメもとでグレンに連絡を取った。8年前のフラられた直後は、私からのアクセスは拒否されてしまっていたから、また拒否られるだろうと思っていたが、懸念は取り越し苦労で、グレンは私からの連絡に応じた。8年前にフッた事など無かったかのように、グレンはとても自然にとても甘く私に愛を囁いた。そして私はまたグレンの愛に溺れ、フィンランドとフランスの遠距離恋愛が始まる。大学を卒業後、先生の家を出たかったのは、グレンと一緒に住みたかったのもあった。

 それがやっと叶ったのだ。オリガが警告する紳士になれなかったダメ男と烙印されるグレンであっても、私はそれで良いと思ってここにいる。今はそうでも、この先、グレンは心入れ替えてダメ男じゃなくなるかもしれない。そんな兆しはまだ全く無いけれど。

 グレンには私を含めて何人もの恋人がいる。セックスフレンドも、それは貞操観の薄いフランス人ならではの事で珍しくはない。オルガが駄目だと言うのは、別の事だ。

 グレンが口にしたミレーヌと言う人物は、グレンが今一番に仲の良い恋人だ。私とルームシェアするアパートに昨日泊まりに来ていた。そのミレーヌは、私がパンを買いに出ている間に仕事に出かけたらしい。

仏「ねぇ、昨日、どうだったの?」カウンター向うで、ソファに寝転がりテレビを見はじめたグレンに聞こえるように、少し大きな声を出して聞いた。

仏「ん?」

昨日はテレビドラマのオーディションのある日だった。夕刻には審査の結果が分かるはずが、グレンは夜遅くにミレーヌと一緒に酔っぱらった状態で帰って来た。ミレーヌは芸能事務所の事務員でもある。帰宅するなり部屋へ籠った二人に、オーディションはどうだった?と聞けなかった。

仏「オーディションの手ごたえは?」

仏「ぁぁ、行かなかった。」

仏「えっ?」

仏「ふぁ~、よく考えたらさぁ~故人の生涯ドキュメントドラマなんて、僕に合った役じゃないんだよぉ~。」

 グレンは欠伸をしながら、こちらに向くことなく答える。

仏「哲学者の役なんて、地味なイメージが染みついてしまったら、もう役者人生終わりだよね。」

(また・・・。)

 グレンは言い訳をしてオーディションに行かない。そうやって仕事をしない時期が長くなっていく。

 フィンランドとの遠距離恋愛だった時から、そんな言い訳を何度聞いただろうか。初めの頃は、多くあるオーディションの中から自分に合うものを選んでいるのだと思って、素直に応援していた。こうも続くと、それは選んでいるのではなく、ただの行かない言い訳なのだとわかる。

仏「もっとさぁ、僕は、こうトレンディで」

 もうグレンの声をシャットアウトした。コーヒー作りに集中する。といってもインスタントでお湯を注ぐだけなのだけど。グレンは砂糖ミルクなし。私は砂糖とミルク入りの甘いコーヒーが好み。パン皿を食器棚から出す。トートバッグに入ったままだったオルガの店のパンを取り出して皿に乗せた。焼きたてのクロワッサンが6個、お人よしにもミレーヌの分も買って来ていた。余ってしまうだろ

うクロワッサン。昼食に、好きじゃないクロワッサンを私は食べなくてはいけない。










 私は多数の民族のDNAが混じる。ロシア人とイギリスの間に生まれた子が、中国人に犯されてできた子が私だ。ロシア人だという祖母も生粋のロシア人ではなくベラルーシの血も混じると聞いていた。

 家はイギリスでは名門のシュバルツ侯爵家の派生、マークイス・サム・シュバルツ家である。

 私の真の名は、アレクセイ・李・シュバルツ。今はその名を封印して、レニー・コート・グランド・SATAKEと名乗っている。

 レニー・ライン・カンパニー・アジア大陸統括本部の代表に就任したのは、約2年前。長き世界戦略の思考では、もっと後に就任するつもりであった。だが、李秀卿の突然の退座宣言により、予想外に次期が早まった。李家は、どこまでも私のすべてを阻害する。この血に泡立つ憎き存在だ。

 李家一族は、私を消そうと躍起なった。特に李家本家筋の李剥は、香港マフィア黒龍会との関わりも深く率いている。私を殺すか、私をレニー・ライン・カンパニーアジア大陸統括本部の座から引きずり落とすかに心血を注ぐ。その執念はある意味美しい。一途にその目的に向かう憎悪、その憎悪の美しさが私にも流れていると思えば、僅かに救われるが。李剥は、私の甥である事を本人は知らない。

英「朝早く申し訳ありません・・・・はい、その事ですが、本日予定していた会談ですが、とても残念ですが、延期にしていただきます。・・・・・いいえ、そのような事ではありません。昨日の視察は、とても有意義であったとミスターグランド佐竹も喜悦しています。ええ・・・はい。」

 昨日、視察し会談したフランス支部のマネージャと連絡が取れたようだ。クレメンティは、ごく丁重に、口調をごく優雅にゆっくりと、こちらの緊急性を悟られないように注意をはらい、話している。そのクレメンティに電話を代われと身振りで知らせた。

英「今、ミスターグランド佐竹と代わります。少々お待ちください。」

 クレメンティは、携帯電話の受話口を取り出したハンカチでひと拭きしてこちらに寄越す。この丁寧さがクレメンティを評価する要素だ。その丁寧さに反して、使っているのは塗装も剥げかかった時代遅れな二つ折れの携帯電話である。スマートフォンに変えない理由は、新たな機種を使いこなすまでが面倒であり、ビジネスにおいて電子的に必要な事はタブレットで十分とのこと。彼には彼なりの基準があるようだ。

英「レニー・コート・グランド・佐竹です。昨日はご足労をかけました。」

英「いえ、とんでもない。私どももアジア統括代表にお越しいただき、お会い出来ました事は大変有意義な事であります。本日の会談も楽しみでありましたものを、延期とは、何か・・・私どもが粗相を致しましたでしょうか?」

 立場は私の方が当然上だ。いくらヨーロッパ大陸がレニー・ラインの世界統括本部のある地であり、アジア大陸が最後の制覇地で臆するとは言ってもだ。

 レニーの大陸支部制における代表は、7大陸の世界で7人だけである。フランスのゼネラルマネージャーが、こちらからの突然の会談のキャンセルに慌てるのも無理はない。

英「昨日は、とても有意義な時間でした。続く本日の昼食会も大変楽しみでありましたものを、実に不本意ですが、先に送りましょう。」

 こちらの都合である事は口にしない。

英「そ、そうですか・・・」落胆するフランスのゼネラルマネージャー、おそらく、フランスの三ツ星レストランにでも予約していた事だろう。あえて、無言で時間をおいた。耐えかねたゼネラルマネージャーが先の言葉を促す。

英「あの・・・もしよろしければ延期される理由をお教えくださいませんか。」

英「ええ、それも先の楽しみにしましょう。」

英「あ、はぁ・・・。」

 上手な切り返しが出てこない。このため息交じりの相槌がゼネラルマネージャーの力量、ただ運任せに成り任かされたフランス国の代表で、それ以上の地位には上がれないだろう。

英「互いの更なる高みとなって会える事を楽しみに願いましょう。では失礼。」

 通話の停止ボタンを押し、時代遅れな携帯電話をクレメンティに返す。

英「二流だな。」

英「そう言うと思いました。」











 お湯が沸くのに少々時間がかかる。このアパートのガスコンロは火力が弱い。といっても、他のアパートの火力なんて知らないけれど、フランス全土がこのようなのかもしれない。お腹のすいたグレンの為に先にパンを運んだ。

仏「グレン、コーヒーは、もうちょっと待って。」

仏「リノ、何だか、日本が大変みたいだよ。」

仏「何?」

仏「見て。」

 指さし促された方へ顔を向けると、テレビのニュース番組では、素人がハンディカメラで撮ったような画像の悪い映像が流れていた。 黒いヘルメットを被った黒い服の人が、髪の長い人を足元に膝間つかせていて、何か長い物を突き付けている。

 私は今、眼鏡をかけていないから、良く見えなかった。それをしてよく見えるようになるとは医学的には証明されていない、目を細めて見た。

【歴史ある神皇家の事だ。全て開示するにはその莫大な量は無理と考慮する。よって我々が求めるものは、太平洋戦争より後から今日にいたるまでの物をインターネット上に公開せよ。ソースはどこでも構わない。神皇、これは脅しではない。要求に応じなければ、ここに居る人質を射殺する。我々は猶予や、譲歩交渉には応じない。神皇家の祖歴開示だけを望み、開示に到らなければ、ここに居る人質を射殺していく。】

変な電子音の日本語だった。プライバシー保護の為に音声を変えているのだろう。滑稽で笑えるが、内容は笑えないほど過激な内容だった。

仏「何、これ?いたずら動画?」

仏「今、入って来た映像ってアナウンサーは言ってたけどなぁ。あれって銃だよね。」

仏「そう?良く見えなかったわ、眼鏡かけないと。」

 その映像は終わって、姿勢よくデスクに座るアナウンサーが真顔でニュースを続ける。

【軍によるクーデターが発生しているとの情報もあり、フランス政府は引き続き日本の情勢を注視していく構えです。では、次のニュースです。】

仏「クーデター!?」

 グレンと顔を見合わせた。

 日本が?嘘だ。日本に軍は存在しない。日本は軍隊という組織はなく自衛隊と言う組織がそれにあたる。しかしその自衛隊は名のとおり、自国の防衛のみに力を保持し、侵略的戦力を持たず。他国への侵略や攻撃は法で禁じられている。自衛隊が活動するのは災害時の救援救護ばかりで、政権を奪うようなクーデターが起きるイメージなどない。

 グレンが「他にもやってないかなぁ。」とチャンネルを変えた。全チャンネルを見ても、ニュース番組はあるものの、日本の事は話題にしていなかった。

仏「ネットで探してみよう!」

 興味を持ったグレンは、テレビとは反対の壁際のテーブルに置いてあるパソコン机に向かう。フィンランドとの遠距離だった時に、私が買ってあげたノートパソコンだ。元々持っていたパソコンが古く、私との通信には困難だと言ったグレン。でも新しいパソコンを買ってあげた所で、私とのやり取りが増えることはなかった。

仏「何かの間違いよ。日本がクーデターなんて、ありえないわ。」

仏「そう、でも、フランス政府はって言ってたから、信頼性はあるんじゃない?」

 鼻歌でも出て来そうに、上機嫌でパソコンを立ち上げるグレン。

仏「違うわ、ニュース自体が間違っている可能性よ。」

仏「さっきのはFNNTだったよ。FNNTが間違ったニュースを流すわけないじゃん。」 FNNTはフランスの国営テレビで、確かに信頼性は他局よりある。

 お湯が沸く高音に急かされて、私はカウンターへ回りながら考える。 

 FNNTのニュースだとしても、クーデターはありえない。それはFNNTよりも信頼性のある私の確信。日本人は、クーデターを起こす強硬な国民性を持ち合わせていない。いつだって、周囲との調和を気にして不協を嫌う。狭い土地に肩を寄せ、狭い精神概念の中で、より秀でる者を許さない。だから、私は日本が嫌いだった。

 カップにお湯を注ぐ。インスタントでもコーヒーのいい香りが漂う。色違いのカップを持って、ソファへ戻った。

仏「コーヒー入ったわよ。」

仏「リノ!見て!あったよ!日本のニュース!」

稀に朝早く起きてきたグレンと、ゆっくりブレックファーストを楽しみたいのに、奇妙なニュースがそれをさせてくれない。マウスをカリカリと忙しく指を動かしているグレン。

仏「お腹減ってたんじゃないの?」クロワッサンは1個も減っていない。

仏「レベル4だって!」

仏「えっ?」

 ゲームの経験値じゃない。その単語は、欧州では馴染みの非常時における世界共通基準のランク。国家が非常事態の時に国内外に向けて出す宣言。現在ヨーロッパ各地ではデモやテロが頻繁に起きている。危機の情勢が各国によって、また国民性によって認識が異なっては、越境時に方々で混乱が起きる、その危機状況をランクづけして、国家もしくは個々の対処自衛を目的に作られたのが、世界共通情勢レベル。作られた当初は欧州国だけだったものが世界で採用されて、後に国連が手入れ修正をして世界共通になった。フランスでは自国と周辺国の情勢レベルを天気予報並に、ニュースで報道される。レベル0が平常時で、数字が上がるごとに危険度は増していく。

(レベル4となると、確か・・・)

仏「違う!現在はレベル7だっ!レベル4は現地時間で13時20分に出されたものだ。今は、レベル7だって!すげぇ。」

 私はグレンのそばに駆け寄った。

グレンがスゲェと感嘆の声を上げるのも無理はない、レベルは7危機中の危機、数字はたしか8までだったはず、8は国外の退去命令で、ほぼあり得ない状態だ。そのありえない状態の一歩手前、ヨーロッパ各地でも、そこまでのレベル数字を聞いたことがない。

パソコン画面をのぞくと、グレンは「日本、クーデター」でネット検索をしていて、それで絞り込まれた文字ニュースを閲覧していた。

仏「えーと、13時35分にレベル7が日本政府より出されて、現在日本への渡航は全面的に禁止されています。だって・・」

(たった15分でレベルを7に引き上げた?一体何が起きているの?それとも、これはネット特有のガセネタ?)

仏「ちょっと貸して!」

グレンの手からマウスを奪い、ニュースをスクロールして戻す。フランス語で書かれたニュースしかない。情報も渡航の際は注意とだけあって、詳細がない。グレンのパソコンはフランスのネット会社との契約で、フランス語主流の設定になっていて、多国語の情報に制限がかかっている。世界全部の、日本の情報を閲覧したいのなら、設定をワールドに変えなくてはいけない。このパソコンをワールド設定に変えるより、ワールド設定にしてある自分のパソコンを立ち上げた方が早い。私は自室に駆け戻って、フィンランドから持参していた自分のノートパソコンの電源を入れた。







 クレメンティがうーんと唸り、お手上げの仕草で顔を向けてくる。

英「電話も、ずっとかけているのですが、誰も繋がりません。」そう言って、片耳にはめていたイヤホンを引っこ抜いた。

 日本にレベル7の非常事態が発令されたとの情報が入った時から、私はその状態を予測していた。クレメンティも内心は同じだっただろう。しかし、諦めて何もしない訳にはいかない。情報は先手必勝の最強札だ。

英「仕方ない、だからこれから大使館に向かっているのだ。」

英「このタブレット自体、今一つなんです。大使館でPCを借ります。」

英「大使館も、この状況に、貸せるPCなどないだろう。」

英「んー。ですが、日本人は優しいですから。」

その個人的評価にはノーコメントだ。私の日本人に対する評価は、複雑な独自論がある。それをここで、クレメンティに披露し諭すのは無意味だ。クレメンティとの会話は短く終わる。またクレメンティは溜息をつきながらも、タブレットを操作し始める。

日本が突然、レベル7の国家非常宣言厳戒態勢を敷いた。その一報が入ったのは、今朝の5時30分。我々は、フランスの北西部に位置する大西洋を臨む湾岸都市、ル・アーブルのホテルに滞在中であった。1週間ほど前より、欧州から中東、アジアを順に周る視察兼ビジネスを敢行していた。レニー・ライン・カンパニー世界統括本部のあるオランダから始まり、昨日は、レニー・フランスのゼネラルマネージャーとの会談の為に、フランスのル・アーブルを訪問し終えて、現地に一泊していた。レニー・フランスが用意したホテルの最高階スウィートの部屋でクレメンティはまだ寝ていて、私だけがレセプションルームの応接セットで届いたルームサービスのコーヒーを片手に、毎日タブレットに配信される世界各国の主要新聞を読んでいた時だった。携帯が鳴った。香港の、私が就任するレニー・ライン・アジア統括本部の情報部から、日本がレベル4の国家非常宣言厳戒態勢を敷いたと、理由は判らず事実だけの報告だった。

 私はクレメンティを起こし、早急に、情報の正誤、詳細を調べるように指示を出したが。クレメンティが身支度を終えた約5分後、レベル7まで引き上がったとの連絡がまた入る。

 レベル4の発令が現地時間の14時20分、レベル7の引き上げが14時35分。15分の間に急速に状況が悪化してレベルを引き上げた事は推測できたが、何が原因でのレベル7発令かは依然わからずに、時間が経つにつれて電話もネットも繋がらなくなり、その状況は日本の周辺諸国にまでに広がった。

 今日は、昨日に続いて昼までフランスマネージャとのビジネス会談をし、正午過ぎの便でドハイへ行く予定をしていた。フランスの片田舎町に居ては、日本の異変に対する情報収集もままならないと、ビジネス会談をキャンセルし、我々はハイヤーをホテルのコンシェルジュに用意させ、ル・アーブルの地から急ぎフランスの日本大使館へと移動している最中である。

 世界の各国の大使館には、レニーの職員が滞在している。これは公表していない事実である。世界の陸、海、空を網羅するレニーならではの、独自防衛戦略と言っていい。各国の大使館にレニーの職員を置くことで、各国の情報の仲介を担い連携を図るのは、もっともらしい建前で、実際の所は、国家レベルのビジネスを得る為の政府との癒着だ。

 私も10年ほど、日本のロシア大使館の職員として滞在していた。最中、一つ大きなプロジェクトを成功させている。ロシアから北方領土を中継して日本へ、ロシアの資源ガスを地下パイプラインで結ぶプロジェクトは、数年前にその工事を終えて稼動している。それまで、日本のエネルギー資源は中東の石油に頼りぱなしだった。それゆえに中東の情勢に左右されやすく、おまけに運搬にコストがかかり過ぎていた。それがロシアからパイプを引くことにより、安定したガスを安く受けられる。私が日本政府にそのようなプレゼンをした。パイプライン建設プロジェクトは、莫大な建設費を必要とし、その費用もガス原価に組み込むとなると、今までよりもはるかに高くなる。だが、建設は新たな雇用を生み出す。雇用は賃金を生み出し、賃金は消費を促す。消費は税を促し、よっては国家予算の増幅につながる。その国政特需を含めてのコストを提示したプレゼンに日本政府は乗った。当時、日本政府は津波による原発事故もあった事から、新エネルギーの模索に追われていた。その事がプロジェクトの早期決行につながった。

 ル・アーブルからパリまでは車で2時間半はかかる。ハイヤーに金を握らせて法定速度を超えて急がせている、この走り方だと2時間は切れるだろう。腕時計で現時刻を確認する。

(あと一時間ほどかかるか・・・)

 足を組みなおしたのをクレメンティにちらりと一瞥される。

 どうやら私はイラついているようだ。車の肘掛けに置いた自分の指が、ずっとトントンとリズムをうっているのに気が付く。それを止める為に肘着いた手に顎を乗せた。

 それでも、手の指は自分の頬をトントンと打ち始める。











 PCの立ち上がる時間にイラついた。

(早く、早く、)手はマウスの左クリックのボタンを連打、そんな事をしても一秒足りとも早くはならないとわかっていても、やってしまう。側に置いてあった眼鏡をかけて、ちゃんと座り直して、やっと、パソコンが使えるようになった。

 言語指定画面で日本語を設定。検索画面で【ニュース 国家非常事態厳戒レベル7】と打ち込む。画面が全部白くなった後、出て来たのは【表示できません】の文字。もう一度検索画面に戻り、同じ単語を打ち込みエンター。

また、【表示できません】文字。

「うそ・・・。」

【日本、渡航】と打ち直した。それでも【表示できません。】の文字。

「どうして?」

仏「リノ~、どう?」グレンがコーヒーを片手に私の部屋に入ってくる。

仏「だめ、日本のネットにアクセスできない。英語で検索してみる。」

 英語で同じように検索してみた。すると、グレンのパソコンで読んだ程度の内容ばかりが出てくる。

 グレンはコーヒーをマウスパットの奥に置き、顔を擦り寄せてきて、パソコンを覗く。

仏「違うのよ、もっと詳しい情報が欲しいのよ。」

 英語で【日本、クーデター】と打ち直した。キーボードの打ちこみが手荒になる。それでも欲しいニュースは見当たらない。カリカリとマウスのホイールを回す。

仏「リノ、落ち着いて。」と囁き私の頬にキスをするグレン。

 鎮静剤の注射のように、グレンの声が私の苛立ちを治める。

(そう、何故、私はこんなにもイラついているのだろう。私はあの国から逃げて来た人間だ。あの国がどうなろうと・・・)

 また新たな情報が入れば、テレビでやるだろう。

 そう思い直しスタート画面に戻った時、最新のニュース画像に目が止った。さっき、テレビで見た覚えのある静止映像だ。クリックすると、【日本のレベル7宣言、これはクーデターか?】とのタイトル。

仏「さっきのテレビの奴かな?」

 グレンは増々興味深々で、私に顔を寄せてくる。

 全画面に伸ばして動画再生をした。テレビで見た黒いヘルメットの上半身のアップから始まる。声はやっぱり変な電子音。これでは、この人が男か女かわからない。だけど見た目の体格と、こんな事をするのは男に決まっていると思い込む。

『我々ハ、神皇ノ神格ト華族階級制度ニ否定ヲ表明スル者。我々ハ京宮御所ノ神政殿ヲ占拠シタ。多額ノ国家予算ヲ使イ、意味モナイ宴ニ酔イしれテイル華族達ノアリザマヲ見ヨ。』

画面が切り替わった。どこかの広いフロアで、煌びやかなドレスを纏った人たちが社交ダンスを踊っている。その光景に、すぐ華族会だと思いつく。私は一度、華族会のパーティに出席したことがある。自分の華選上籍祝いを兼ねたお披露目パーティだった。

 遠くからフロア全体を写していた画面が、次第に中央へとスクロールアップされていく。シルバーの燕尾服の男性と、水色のロングドレスを着た女性が踊っている。その水色のドレスを着た女性が、ターンをしてこちらに顔を向けた。

「あっ!」胸がドキリと熱くなる。

すぐに画面が切り替わり、黒いヘルメットの男に戻る。

『我々ノ要求ハタダ一ツ・・・』

 慌てて動画を戻す。

(見間違いだろうか?)

仏「どうした?」

 戻し過ぎて、進めて、女性がターンし始めたところで、スロー再生にする。

 綺麗にアップされた髪。徐々にこちらを向く顔、ストップ。

「麗香・・・」

仏「誰?知り合い?」

 グレンは忘れている。私はグレンに麗香を友達だと紹介した。でも忘れて当然、あれはまだ中学生の時で、二人は数回会っただけ。

 麗香がいるって事は、これはやっぱり華族会主催のパーティだと断言して良い。動画を進めた。

『歴史在ル神皇家ノ事ダ。全テ開示スルニハ、ソノ莫大ナ量ハ無理ト考慮スル。ヨッテ我々ガ求メルモノハ、太平洋戦争ヨリ後カラ今日マデノ物。開示ハ、インターネット上ノ、ソースハドコデモ構ワナイ公開シロ。コレハ脅シデハナイ。要求ニ応ジナケレバ、ココニ居ル人質ヲ射スル。我々ハ猶予ヤ譲歩交渉ニ応ジナイ。神皇家ノ祖歴開示ダケヲ望ミ、開示公開ニ到ラナケレバ、ココニ居ル人質ヲ順番二射殺シテイク。』

 驚きのあまり絶句した。

仏「リノ、何て言っている?変な声だし、難しい日本語ばかりでわからないよ。」

グレンの通訳要求に答えず、続きを視聴する。

『ココに居ル華族ハ54名、聖殿外ニ14人、合計68名。一人ノ命ガ30分ノ価値ダ。開示公開ガ行ワレテイナケレバ人質ヲ30分オキニ射殺スル。最後ニ新皇ノ命ダ。』

 足元に項垂れる男の人に当てていた黒い物は、グレンが言うように銃だ。それを急に斜めに向けた黒づくめの犯人。パンと音がして、画面がスライドした。スライドした画面には、ドレスを着た人と燕尾服を着た人が大勢、並べられて座らされている。

周りには黒づくめでヘルメットの犯人達が銃を向けて囲っている。

(華族の人達があんなに沢山・・・)

 水色の服を探す。水色の服の人は画面上3人、どれが麗香かはわからない。

『我々ハ世ノ代弁者、 神皇ノ神格と華族階級制度ニ否定ヲ表明スル者、変革ニハ、犠牲ガ伴ウモノ。我々は、神皇の神格と華族階級制度に否定を表明する者。』

 そこで、動画は終わる。

仏「これって、人質事件?」

 人質事件・・・犯人は何かを要求していた。それに応じなければ、30分置きに射殺していくと・・・。

(麗香が人質に?嘘でしょう。)

「そんな・・・。」












 大使館も対応に追われているのだろう、電話は話し中のコールが続いていた。

 ホテルを出る前にフランスの大使館駐在のレニー職員に、そちらへ向かうとの電話を入れた際、大使館側は日本がレベル4の国家非常事態宣言を出した事は知っていたが、7に上げた事は知らなかった。情報収集能力としては我がアジア統括本部の情報部の方が上だったが、大使館という立場で得られる物は、遅くても無視できない重要のあるものが時にある。

 私はアジア各国の大使館に駐在するレニーの職員に、日本国に対する情報のみならず、自国の異変及び入ってくる情報に注視し連絡をせよと通達した。

 世界各国にある大使館に駐在させているレニーの職員は、大陸支部がそれぞれで人選し雇い置く。フランス国にある日本大使館は日本がアジアの管轄であるから、アジア統括本部の所属職員である。私は、アジア管轄の大使館に多くの職員を配置している。これは7大陸中一番多く、最小人数しか配置していない中東に比べて5倍以上になる。人を置く大使館を増やせば、それなりの人件費と管理費がかかるが、削減できない必要経費だと考えている。

英「グランド様、大使館員の既読証明が80国そろいました。」

 時計を見る。私の所にレベル7の状況が入ってから2時間あまりが過ぎている。まぁまぁの早期の揃いだ。

英「残り4国はどこだ。」

英「日本、中国、北朝鮮、韓国です。」

 中国は私が直接話をしたから数に入れなくていい。当事国である日本も。北朝鮮と韓国の二国が、私が出した通達を読んでいない。 少々難儀な2国が残る。

 日本のレベル7宣言は、災害ではないのは早期に確認している。では、またどこかで原発事故が起きたのかと考えた。日本国は2度も事故を起こしたなど世界に公表できず、しかし、放射能汚染から市民を守らなければならないために、レベル7を出して人の移動を停止させた。4から7に上げたのは、事故が起きた初見では、さほどの被害ではなかった。しかし、15分後、2次的事故が起こり、最悪の事態となって止む終えず・・・か?


日本大使館の数は世界に195か国、このうち、我がレニー・ライン・カンパニー・アジアの職員が駐在しているのは84カ国で、アジア大陸7カ国の中で一番多い。それは私が長く日本に住んでいた事にも影響しているが、元々に日本人がアジアの中で忠実性において一番信頼がある事にもよる。私が世界に配置したレニーの大使館職員は300人を超える。

その84の日本大使館のレニー職員あてに、この日本のレベル7による国家非常事態宣言に関して、知り得た情報はすべて他国、または他人に他言しない旨も付随して通達していた。通達のメールには既読証明の返信添付ファイルをつけてある。メールを開封した時点で、自動に送り主に通知する機能である。未着、開封していないなど、誤魔化しはできない。開封しただけで読んでいないなどの低レベルな言い訳は言語道断だ。中には、その通達が守れない人間もいるだろうが、それはそれで、この私に意にそぐわない人間のあぶり出しになる。このような特異な緊急時にこそ、部下の真価が判明する。

そして、私の真価も。











 もう一度初めから再生しようと、止まった動画の再生ボタンをクリックすると、エラー表示が出た。何度クリックしてもエラーの表示、サイト自体の再読み込みをするもエラーがかかり、履歴内に残っていたアドレスでのダイレクトアクセスも宛先不明で弾かれて、削除されてしまった。

英「どうして・・・」

 そうこうしているうちに、多数あったはずの同動画や関連ニュースも次々にネット上から無くなっていく。誰かが意図的にそうしているように。

英「どうして、こんな事ってありえない・・・」

 そう呟いた私を、私が否定する。

(ありえる。)

 不都合を意図的に隠す事、それは華族会がずっとやって来たことだ。

 思い出す。私がフィンランドで暮らす事になった時に、凱さんに教授された事。

『何か困ったことがあったら大使館へ連絡、もしくは訪れるといいよ。世界には196カ国に日本の大使館があるからね。そこで、これを見せれば優先的に対応してくれる。華選の称号パスはそういった時に有利に働くんだ。称号を棄却したい気持ちはわかるけれど、これは持っていて不利にならない。特に海外では、お守り代りに持っていて欲しいな。』

仏「困ったことがあったら連絡、してみる!」

仏「あぁ、そうした方がいいよ。家族に何もなければいいね。」

仏「違うわ。大使館に連絡するの。」

仏「大使館?僕はもう、お父さんとは連絡不通だよ。」

 グレンと会話が微妙にズレる。グレンのお父さんはかつてフランスの大使館職員だった。だけどもうずっと前に離婚してお父さんは日本に帰国している。

 キッチンに戻って、オルガの店に行った時のトートバッグから携帯を取り出す。こっち、フランスに来て新しくしたスマートフォン。ネット検索で大使館と検索して、電話番号表示の場所をクリックするだけで繋がる。しかし繋がらない・・・・何回繰り返しても、繋がる気配がなかった。

「どうしてよ!」

仏「リノ、どうしたのさ、らしくない。」

 テーブルの上のクロワッサンを頬張りながら、くぐもった声色で言うグレン。

(そう、グレンの言う通り、今の私は私らしくない。)

 あの国を逃げて来た。忘れようとして勉学に打ち込んだ。忘れたから、失語症で話せなくなった日本語も今では話せるようになった。

 それなのに、何故、私はあの国の事を知ろうと必死になっているのだろう。

 苦しい事ばかりだった日本を思い出して、息苦しくなる。

仏「リノ、大丈夫?」

仏「大丈夫、大丈夫よ。」胸を掴んでいた。詰まる息を吐きだし、自分に言い聞かせる。

突然、あの人の声が頭に響く。

【人の希心・・・神の祈心・・・・魂の真髄を開き、神威を受け入れよ。】

それは、苦しくて、気持ちいい。

抗いたくて、浸りたい。

感応。

仏「リノ!」

 気づけば、私は床に手をつき、しゃがんでいた。

仏「リノ、ベッドで休もう。」

仏「大丈夫。ただの立ちくらみ・・・」

 グレンが私の身体を抱き立たせ、自室に連れていってくれる。

 引っ越しの荷物が、まだ開封されずに積みあがったままの部屋。部屋の片づけは少しずつやっているつもりだけれど、中々進まないでいた。緊急的に必要でない物は段ボールに入ったままで、この方が部屋は、綺麗に保てるような気がすると思いはじめていた。ベッド下に押し込んでいた白いスーツケースに目が行く。それは機内手荷物用の小ぶりなスーツケースで、無くなって困る物がすべてそこに入ったままだった。

 肩に置かれていたグレンの手を外し、スーツケースに歩み寄る。

仏「リノ!何してるんだ。」

仏「行くわ。」

仏「どこへ?」

仏「何かあったら大使館へ、あそこならきっと何かあったのか教えてくれるわ。」

仏「具合がわるいんじゃないのか?」

仏「大丈夫。」

 スーツケースを引っ張り出し開けて、移住手続きの書類の下に目的の物を見つける。華選称号証のパスケース。黒い革張りで華族会の紋が型押しされている。そしてパスポートを掴み立ち上がった。ふと、デスクに積みあがった本の間に点滅している光があるのに気づく。一ヵ月前まで使っていた古い方のスマートフォンだ。日本に居た頃に初めて携帯電話を買ってもらい、フィンランドでもずっと使っていたスマートフォン。翻訳の仕事関係で、まだたまに古い方の番号やアドレスで連絡を取って来る人もいて、中々解約はできないでいた。そのスマートフォンを本の間から引っ張り出し、画面を表にひるがえす。

「ひっ!」

 驚きのあまり、悲鳴の声が裏返った。


【13:56華族会本部、高松信也氏、柴崎信夫氏により、緊急招集が発令されました。この発令連絡を受け取った方は所属の華族会事務所又は、近くの華族会事務所に糾合してください。華選の方は個別召集まで、即時対応の準備待機とします】

 

  これは華族会の緊急招集令!

『これが、非常時における緊急招集令の発令画面ね。これは華族会本部から華選を含む全華族会員に自動連絡が行くようになっている。華選のりのちゃんにも、もしもの時は、今、登録したこの携帯に連絡が行くようになる。これは、電源が落ちていても電池がある限り受信して、このように通知画面が出るようになっている。通話中やその他のアプリは起動中でも切られて、この通知画面が優先される。マナーモードでも容赦なく音が鳴るのが、ちょっと困りものだけど、でも緊急招集令が発動される時って、本当に緊急事態だからね。何を置いても最優先だから。』

 まだ学生だった私に、凱さんは丁寧に、華選の心構えを教えてくれた。

『まぁ、でもりのちゃんはまだ学生だから、有事に召集させるような事はないから、安心して。』とも言っていた凱さん。

 しかし、私はもう学生じゃない、24歳になった。

仏「どうしたのさ、リノ?」手にした古いスマートフォンを覗いたグレンは、読めない漢字にお手上げの仕草をする。

 華選は、その能力を神皇に認められて与えられる称号。国の優先的保護を受ける代わりに、いざという時には、その力を国の為に施さなければならない。

「行かなくては・・・」

 大使館へ、そして日本に・・・

 あの人が呼んでいる。










 我々を迎えるパリにある日本大使館の職員は、溝端陽介という名の、私と年齢の変わらない日本人だった。彼は、宿直の人間から朝早くに連絡を受けて早朝出勤し、それからひっきりなしにかかってくる電話対応に追われていたという。

 入ってくる情報がほぼ皆無なのに対し、フランス政府をはじめ、各機関や団体、さらには日本との取引のある企業からの問い合わせの電話が大半を占めていた。私達が到着する少し前から、その電話も少なくなり、いまやっと一息入れられると苦笑した。

 問い合わせの電話が少なくなったのは、大使館が何もわからないのならお手上げだと諦めたか、それとも独自路線で情報を得ようと改めたかだろう。

「ル・アーブルからこちらへ、早かったですね。」

「運転手には車の性能を最大限に出すようにと頼んだのでね。」

「どうぞ、お口に合うかどうかわかりませんが。」

 職員はまだ対応に忙しいのだろう、溝端自身が茶器のトレイを手にして部屋に入って来て、テーブルに置いた。

「ミスター溝端、英語は話せますね。彼は日本語が得意ではないので英語で。」

英「これは、失礼しました。」

 溝端氏は深々と腰を折って詫びたのを、クレメンティが慌てて止める。クレメンティは、このお辞儀文化が苦手だといつも言う。

英「気になさらずに、不勉強なだけですから。」

 二人のやり取りを無視して、出されたコーヒーに口をつける。ル・アーブルのホテルで頼んたモーニングコーヒーは緊急一報のおかげで、半分も飲まずだった。不味くもなく特別美味しいくもないコーヒーが喉を通った途端に、喉は水分を要求していたと自覚する。

英「で、フランス政府はレベル7の日本に対し、どのような処置をとると?」

 もう、互いの情報の整合は終わっていた。というより、するほどの情報が入っていない事は、溝端に出迎えられた時の「電話をいただいた時より新たな情報は入って来ていません。」の言葉がすべてだった。

 それよりも、次に私達が知りたいのは、世界各国の対応だ。各国の政府の対応によっては、我々は重大な損失を受けることになる。それを回避するためにも、各国政府の情報は時差なく取得し対策を練らなければならない。

英「フランス当局に問い合わせてはいるのですが、当局も日本の状況収集には難航しているようで、逆に何か知らないかと聞かれたぐらいです。」

英「どこも、同じですね。」とクレメンティもコーヒーに口をつけた。

英「詳細が分からない内は静観するしかない状況だな。」

英「クーデターとの噂も入ってきましたが、日本に限っては、それは考えられません。」

英「日本の軍は、軍ではなく自国防衛の為の軍、自衛隊というものでしたね。」とクレメンティ。

英「はい、クーデターとは支配政力の武力による政権略取を指します。自衛隊でなくても一団体が政権を奪う事もありますが、過去、世界で起きたクーデターの大半は軍による武力行使です。」

英「そのクーデターという情報はどこから?」

英「ここの若い職員が、何かそれらしい動画を見つけたとかで騒いでいたのですが、その動画を私が確認しようとした時にはエラーがかかり、どこを探してもなく。今や日本国のネット自体も繋がらない状態です。」

英「クレメンティ、お前はその動画を見たか?」

英「いえ、見ていません。見つけていたらお教えしています。」

英「日本は、クーデターよりも災害の方が可能性として大いにある国だ。また地震でも起きたか?」と言いながら、それは一報が入った時点で確認している。さかのぼって24時間前まで日本国内および周辺海域で地震は起きておらず津波の情報もない。

英「私もそれを一番に心配し調べたのですが、地震の情報はありませんでした。地震なら近隣国でも計測できますから、情報網が遮断されても日本に地震や火山噴火があってもわかりますよね。」

英「そうだ。」

英「地震の要因ではない原発事故が起こった可能性は?」とクレメンティ。

英「そうですね・・・しかし、国家非常事態厳戒が出た直前は、日本や周辺アジアの通信はまだ繋がっていましたから、そういった事故なら、それらしい情報が出てくると思います。」

 人の口に戸は立てられない、とはよく言った物だ。何か起これば、それなりのワードが浮上してくる。今回の場合は災害や大規模事故などのキーワードは出ず、クーデターの単語が真っ先に出たようだが、それも今は無くなっている。いや、消されたと言った方がいいか。不自然に停止された通信環境、誰かが意図してやっている感じがある。

 思考の方向を変えよう。例えば、私がレベル7を出す側だとして。

 何かの緊急事態が国内で起る。レベル7を出さなければならない事態、その何らかの動画、政府にとって不都合な動画があり、それが世界に流れ出れば、その後の対応と信頼回復に時間を要する。さらには、その何らかの動画自体が、国の弱点となりうるものだったとしたら、通信を遮断する方法を真っ先に取る。世界への言い訳は後からいくらでも作れる。

英「グランド様?」

 私が黙った為に、クレメンティが不審に顔を覗く。

英「その、動画の詳細を詳しく教えてくれないか?」

英「動画の詳細ですか・・・・、私は途中からしか見ていないので、では、それを見つけた職員をここに呼びましょう。」

 そう言って溝端は部屋を出ていった。しばらくの後、溝端が部屋に連れて来たのは、若いフランス人だった。その若者が片言の英語で話した詳細に、奇妙な単語を聞く。

英「そのソレキというのは?」

 若者に聞いたつもりだったが、溝端が答える。

英「漢字は、祖国の祖に歴史の歴でソレキと言います。」

 溝端が自分の名刺を出し、裏面に「祖歴」の漢字を書いて寄越す。

英「日本の由緒ある家では、その家の歴史を書物に残していく習慣があります。歴史の古い一族ほど、その祖歴は分厚く、それは一族のルーツとも言うべきものになります。祖歴は、その家業の生業、技法も記されている事が多く、大切に扱われ、例えば競合他社がある家などは、子の命よりも大事な物として、一族以外には見せない秘本となっています。」

英「子の命よりも大事な物ですか?」クレメンティが顔を顰める。

英「それほどの家は、まぁ稀です。一般家庭では祖歴がない家の方が多いですからね。」

英「その祖歴の開示要求を、その動画内の犯人はしていた。」

英「はい、僕も何のことかわからなくて、今の話でよく分かりました。」と若者。

英「その説明でいくと、神皇家の祖歴は日本の歴史そのもの。」

英「はい、日本の神皇家は、世界で一番古い王室としてギネスにも載っておりますから。」と溝端は自分の事のように誇る。

英「1000年続いているとかだったかな。」

英「1700年ですね。西暦300年の卑弥呼の時代からですから。」

 クレメンティが感嘆の声を上げてから、語る。

英「しかし、日本の歴史を開示しろなんて、それも沢山の人質を殺してまで知って何になるんでしょうね。歴史なんて教科書に載っているでしょうに。」

 その疑問に同調したのは、フランス人若者だけだった。溝端は視線があった私から目を背け、表情を硬くした。その僅かな奇妙さに、これは、良い情報を得たと確信する。

 日本人は臆病な人種だ。過去の所業の過ちに謝罪し変革する勇気もない。蓋をし、ひたすら時が許すのを待つ。忍耐に美徳を見出すのは、自尊心の崩壊を防ぐためのマインドコントロールに過ぎない。長く日本に駐在していた私だから、そんな日本人特有の隠したがる気質を理解できる。

 犯人側が要求している「祖歴」は価値がある。きっとそれは国を揺るがす程の情報だ。

 柴崎凱斗に連絡が取れない事がもどかしい。彼ならこの事態をすべて把握しているだろうに。

 そして、今、私の手足として良い動きをしてくれる、もう一人の日本人にも、同じく連絡はとれなくなっていた。












 グレンの叫び声を背に、私は家を飛びだした。フランスの大使館がどこにあるかなんて知らないけれど、タクシーを拾って「日本大使館へ」と言えば向かってくれるだろうと、勝手な思考で移動手段をタクシーと決め込み、大通りまで走った。

しかし、大通りに出て走っている車を見ても、タクシーは中々走っておらず、見つけたとしても空車じゃなかったりした。そのまま、パリの中心街への方角へと走りながら、見つけるたびにタクシーに手を振った。 5台のタクシーを見送り、6台目でやっと空車のタクシーを捕まえ乗り込む。早口で「日本大使館へ急いで」と頼むと運転手は日本の大使館なんて場所は知らないよ。住所は?なんて悠長に聞いてくる。「私もわからない」と言うと、運転手は大袈裟に驚いた顔をしてから、ナビゲーションにジャパン大使館と入力し、案内開始の実行ボタンを押した。

仏「お願い、急いで。」

 運転歴の浅そうな若い運転手は、ウインクして言う。

仏「お嬢さん、この車はね、紳士の車さ。規則を守るという、ね。」

(ああ・・・このタクシーに出会った私の不運を嘆くわ。)

 ゆっくりと、丁寧にタクシーは走り出す。それはもう、とても紳士的に。











 話を終えて、若者と溝畑は一旦部屋を出ていった。その後の進展を事務所に聞きに行ったのだ。

私はクレメンティにロシア語で話す。

露「パソコンを借りるんじゃなかったのか?」

露「あの状態です。グランド様の言う通り、パソコンはすべて使われてしまっています。それを奪うなんて事は出来ません。」

 この応接室に案内される際、1階の事務所内を通り奥の扉から上階へ上がって来ていた。その時、事務所内の様子を見て取れていた。

事務所は一息つける状態になったとは言え、まだ電話は鳴っていたし、パソコンの前では、眉間に皺を寄せた職員がうーんと唸っていた。

露「この後、どうします?フライトまでには時間があります。ずっとここで待機させていただきますか?」

 時計を見るとちょうど9時だった。もう昼ぐらいに感じるほど、今日は1日が長く感じる。眠りの少ない私にしては長い1日など当たり前で、1日の途中で時間の長短を感じるなんて、久々の感覚だった。

露「ここに長居をしても仕方がない、情報の早期取得は確かに重要だが、こうも手に入りにくいとなると、手幅を広げた方がよさそうだ。確か、フランスのロシア大使館には彼が居たな。」

露「ユーリ・シモノフ氏ですね」

 ユーリ・シモノフは私の旧友であるが、クレメンティは一度しか会ってない。1年ほど前に彼の大使就任祝いの席で紹介した時のみ。  一度、握手した人間の名前と顔は忘れない特技を持つクレメンティを、その特技があってこそ私は彼をそばに置いている。

露「あまり期待はできないが、ロシアが何か掴んでいないか、それとロシア当局の対応も知っておくに損はない。」

露「アポイントを取ります。」

 頷きで返事をし、冷めたコーヒーを飲み干した。

 ユーリ・シモノフとのアポイントはすぐに取れ、突然ではあるが、私とフランスで会える事に大歓迎である様子を告げられる。

 そして、こちらも期待せずに、また柴崎凱斗達に電話をかけてみたが、やっぱり繋がらず、そうこうしている内に、溝場が部屋に戻って来て、やっぱり何も情報は入ってないと落胆の表情で告げられる。コーヒーを入れなおすという溝端の好意を断り、何か掴めたら連絡をくれるようにと念を押し、私達は大使館を出る事にする。

 このビルにはエレベーターがない。古い建物が現存するパリではよくあることだった。手の込んだ細工の手すりは長きにわたり歴史と共に人が掴んで仕上がった艶がある。そんな芸術的建造物を、階段を登り降りするだけで観覧できるというのに、踊り場の壁に、私の眉間を険しくさせる物があった。来る時には気づかなかったのは、二人の体で死角になっていたのだろう。どこかの子供が書いた絵が壁にテープで張られていた。

 台無しだ。仮にこの子供が将来絵描きとなり出世をしたとしても・・・ないな。こんなセンスのかけらもない絵が将来の有望になる可能性など。

 すれ違いざまに剥がしたい気持ちをぐっと抑える。そんな私の我慢を悟ったクレメンティが声を殺して笑う。

英「どうされました?」

英「いや・・・これが・・」

英「あぁ、それは日本人学校の生徒が、裏に植えられている桜を描いてプレゼントしてくれた物です。とてもよく描けていまして、一年中花見ができます。」と笑う溝端。

(ふざけたことを・・・桜はすぐに散るからこそ美しい。)

英「それは・・・とても微笑ましい。」

 私も良い大人になったもんだ。昔なら、容赦なく破り捨てていた。

 必死に笑いを耐えているクレメンティの脇腹を肘で突いた。

英「時季がもう少し後なら、その満開の桜もお見せ出来たでしょうに。」と言う溝端が、階下フロアにつながる木製のドアを開けて私達を待つ。階段の最下段に足をつけた時、扉向うから女性の声高い叫びか聞こえて来た。











 駆けこんだ大使館のあるビルの入り口で、警備員に止められたけれど、昔培った杵柄、ショートドリブルの要領で警備員の脇を通過した。フロアの奥にカウンターがあり、男性が大使館職員と話をしていた。その二人の間を割って、手に握りしめていたパスポートと華選称号証のパスケースを叩きつけるように置き、叫んだ。

仏「今、日本はどうなっているの!私は日本に行かなくてはならない。何かあったら大使館へそう言われて来た。」

二人は驚いて私から2歩ほど後退く。客側の男性が私の事を「お嬢ちゃん」と呼んだ。

仏「私は24歳の大人よ。これを見て!」

仏「それは失礼、ミス。」

仏「私の名前は真辺りの、急いでいるの、友人が人質になって、私は日本へ行かなくてはならない。」

仏「落ち着いてください。ミスりの。日本がレベル7の非常事態厳戒を出したことに関しては、まだ調査中なんです。デマの可能性がある。」

仏「デマじゃないわ!」私は彼の続く言葉を遮り、古い方のスマートフォンをトートバッグから取り出し、突き付けた。

仏「華族会の緊急招集令よ!これは日本が危機的状況になった時しか発令されない。これが発令されたって事は、レベル7の非常事態が本物だと言う証拠よ!」

 大使館職員は、私の突き付けた携帯を覗き込んで、頭を傾げ困った顔をする。

仏「あなたじゃ駄目だわ!全権大使を呼んで!」

仏「全権大使は今、多忙で、アポイントをとれていない方は」

仏「いいから!これを持って全権大使の所に行くのよ!それを見せれば慌ててここに来るわ!頭を下げてね!」

 フィンランドの日本大使館も日本人が館内のトップだった。移住の手続きで大使館に訪れた時、年下である凱さんと私にずっと敬語で頭も下げっぱなしだった。だからここフランス国の全権大使も日本人だったら、この称号証パスと、この召集令を見れば理解できるはず。私が、ここの全権大使よりも優遇される立場にある事を。

 大使館職員は、私の突き出した3点の貴重品を手に、渋々奥の事務所へと入っていった。

 私に話し相手を取られた形になってしまった隣に立つ男性は、館内の警備員と並んでお手上げの仕草をする。

 私が男だったら、きっと羽交い絞めにされて追い出されていただろう。その点は女で良かったと思う。

 待つ時間がもどかしい。

 早く・・・

 早くして。怖い・・・

 あの人が怒っている。

 とても、とても強い怒り。

これほどの怒りは、そう、あの時以来。

仏「おっと・・・どうしました?大丈夫ですか?」

 よろめいていた。隣の男性が、私の体を支えて倒れてるのを防いでくれていた。

仏「ご、ごめんなさい。」声が震えていた。

 遠く離れていても、私はあの人の怒りがわかる。

 繋がった魂は、切れる事がない。

仏「ミスリノマナベ、友人はきっと大丈夫ですよ。」

 いい迷惑なはずの私を励ます男性。その言葉が社交辞令だったとしても、今の私にはありがたい。

仏「ええ、本当に・・・ごめんなさい、私必死で。順番を取ってしまいました。」

仏「構いません。私は大丈夫、待ちますよ。」

仏「ありがとう」

 事務所の奥から先程の職員と一緒に眼鏡をかけた丸顔で小太りの日本人が姿を見せた。

(この人が全権大使。良かった、これで何とかなる。)

そう思った私の考えを、この小野寺と言う名の全権大使はあっさりと裏切る。

「真辺りのさん。確かに、あなた様は華選であられる。」

「そうよ、私は華選で、その召集令の通り、私は日本のこの有事に対応しなければならない立場にあるの、私は情報が知りたい、日本で何があったの!」

「わかりません。」

「どうして!何故、教えてくれないの!」

「本当にわからないのです。私どもも日本のレベル7の対応が何ゆえの発令であるかわからず、困っているのです。各局からその問い合わせが今もひっきりなしに来ていて。」

「じゃ私、日本に行くわ。手続きをお願い。」

小野寺全権大使は、渋い顔をして溜息をついた。

「それも出来ません。日本行きの飛行機および船舶はすべて欠航して、レベル7は出入国の厳禁の」

「知ってるわよ!そんな事ぐらい!空港に行っても無駄足を踏むだけ、だからこうして大使館に直行して来ているんじゃない!」

「真辺さん、落ち着いてください。」

「落ち着いてなんかいられない!その男性に聞かなかったの!友人が巻き込まれているのよ!あの人質事件に。」

「真辺さん、滅多な事を言わないでください。それはまだ確定した情報ではありません。」

慌てる小野寺全権大使。

「お願い、何とかして、私は日本に行きたいの。」

「真辺さん・・・」そう呟いて私の華選称号証のパスケースを開き、黙り込んだ小野寺全権大使、何かの策を探していると期待した。

「真辺さん、あなたは華選であられます。」

「そうよ、何度も言ってるじゃない。」

「この称号証も、まぎれもなく本物。」

(今更何?私が偽造のパスを使う犯罪者だったとでも思っていたの?)

「だからこそ、あなたを日本には行かせられません。」

「どうして!」

「母国日本が有事の危機である場合、華族、華選の方の身の安全は一般市民よりも優先して守られる。それが称号をお持ちの方々の人的価値。神皇様の次にそれは優先される事を、我々日本国政府の管理官は、階級制度の仕組みの基礎として教えられます。」

「何よ。」

「真辺りの様、華選であられるあなたを、だからこそ、今、危険であろう日本に帰国させるわけにはいかないのです。それをすれば、私は日本国政府、内閣府より叱られます。」

(私が、華選であるがゆえに、行きたいところへ行けないっていうの?)

「真辺様、この召集令にも記されているように、待機なさっていてください。」

(じゃ・・何の為の華選?自由に世界を行き来したいから、華選の称号を授与に承諾したのに。)

「もう・・・いいわ。」

「部屋を一つご用意いたします。何か情報が入り次第、お知らせいたしますのでそこで待機を。航路が再開され、日本国の許可が得られましたら優先して」

仏「もう何も頼まない。」

(大使館が何もしてくれないのなら、自分で何とかするしかない。)

 踵を返して駆け、重い扉を押し開けた。

 車の騒音と共に、吹きすさぶ風が髪を巻き上げる。

 冷たい空気が肺を刺した。

 その刺激に強くなった胸の痛みに、息が止まった。

 あの人の笑い声が頭に響く。

 怖い、震えるほどに怖い。

 怒りに満ちて、この身に浸透してくる。

 苦しい・・・

 視界が暗く狭くなっていく。











「知ってるわよ!そんな事ぐらい!空港に行っても無駄足を踏むだけ、だからこうして大使館に直行して来ているんじゃない!」

 そう言って大使館職員たちを困らせているレディがいた。いや子供か?見ればカウンターに詰め寄る足は必死につま先立ちだ。服装も紺色のダッフルコートに黒タイツにショートブーツ。鞄は布製のトートバッグ。日本人学生のように見えた。

 留学先でこのトラブルに会い、困って大使館に駆け付けたのだろう。だが、学生にしては言葉使いが少々乱暴に横柄だ。溝端もあっけに取られて、我々を誘導するのを忘れ立ち止まる。

「落ち着いてなんかいられない!その男性に聞かなかったの!友人が巻き込まれているのよ!あの人質事件に。」

「真辺さん、滅多な事言わないでください。それはまだ確定した情報ではありません。」

 慌てる小野寺全権大使、ここに着いた時、軽く挨拶だけはしていた。

「お願い、何とかして、私は日本に行きたいの。」

「真辺さん・・・。」

(マナベ・・・どこかで聞いたことのある名だ。)

「真辺さん、あなたは華選であられます。」

(華選!あの子供のような女が、柴崎凱斗と同じ称号を持つのか。)素直に驚く。

「そうよ、何度も言ってるじゃない。」

「この称号証も、まぎれもなく本物。」

 溝端が思い出して、我々をフロアの端へと誘導しようとするのを静止して、成り行きに注視する。

「だからこそ、あなたを日本には行かせられません。」

「どうして!」

「日本国が有事の危機である場合、華族、華選の方の身の安全は一般市民よりも優先して守られる。それが称号をお持ちの方々の人的価値。神皇様の次にそれは優先される事を、我々日本国政府の管理官は、階級制度の仕組みの基礎として教えられています。」

「何よ。」

「真辺りの様、華選であられるあなたを、だからこそ、今、危険であろう日本に帰国させるわけにはいかないのです。それをすれば、私はきっと政府内閣府より叱られます。」

彼女のフルネームを何度も耳にして、やっと思い出す。

(真辺りの、そうだ、柴崎凱斗と私が取引をした子だ。)

 柴崎家が経営する日本の名門私立学校の生徒。私の裏の顔を知り、私が殺せと使い捨ての部下に命じた子だ。

 あの頃より確かに大人になった横顔だが、身長はあまり伸びなかったのか・・・その大人びた顔と身長がアンバラスで妙だ。

英「か、可愛い」

英「えっ?」不本意にも溝端と同じ驚きの反応をしてしまった。

 振り向けば、クレメンティは緩んだ顔で目を輝かせている。クレメンティの悪い趣味が出た。

 小動物をこよなく愛してやまないクレメンティは、子供の頃からハムスターに始まり、リス、モモンガ、ハリネズミ、ピグミー何とかというミニ猿も飼っていたと、多数の小動物に囲まれて笑う写真を見せられたことがある。

 今、私とクレメンティは、定置に居住できない立場にある為、それらのペットを飼う事が出来ないでいるが、クレメンティは暇を見つけては小動物の動画を見ている。現在、彼が持っているタブレットの待ち受け画面は、モモンガが木に移り飛ぶ瞬間の写真だ。

英「小動物のよう・・・」

英「それ以上は語るな。」

 全権大使と真辺りのとのやり取りは続く。

「真辺様、この召集令にも記されているように、待機なさっていてください。」

「もう・・・いいわ。」

「部屋を一つご用意いたします。何か情報が入り次第、お知らせいたしますのでそこで待機を。航路が再開され、日本国から許可が得られましたら優先して」

仏「もう何も頼まない。」真辺りのは、険しい顔をして踵を返す。

(あのような激しい子であったか?)

 以前はもっと、人形のように表情のない子だったと、思い出す記憶と比較する。私の殺せと命じた言葉に、顔の細胞一つ動かさなかった子に、私は不思議な罪悪感を抱いた。一流品の為に二流品の犠牲は必要だ。人であってもそれは同じ、一流品を阻害する邪魔者は消してこそ、この世は美しく描かれる。まぎれもなく邪魔な二流品だった真辺りの、私の秘密を知ったがゆえに、容赦なく消えてもらう事にしたのだが、その決断に罪悪感を抱かせたのは、先にも後にも真辺りのだけだ。

その迷いが、真辺りのを助けるに至ったわけではなかったが、柴崎凱斗たちの手によって命拾いし、今また私と出会うのは何の因果か?

全権大使が名を叫び呼び止めるも、真辺りのは重い扉を全身を使って開けて出て行こうとする。大使は手にしていた彼女のパスポートと黒いパスケースと携帯電話を掲げて、手遅れながらに「お忘れです」と叫んだが、真辺りのは聞こえていないようで外へ出て行ってしまった。追いかけようとする全権大使を私は止め、彼の手からその3つの物を奪った。

「全権大使、彼女は私の知り合いだ。これは私が手渡そう。偶然の再会に声をかけるきっかけになる。」

露「クレメンティ!」

露「はいっ。」

露「彼女を捕まえろ。」

露「えっ?いや、でも私は、確かに可愛いとはいいましたが、でもそんな・・・捕まえるなんて。」

何か勘違いしているクレメンティを睨んだ。

露「早くしろ、見失うぞ。」

露「は、はい!」クレメンティが走って追いかける。

「佐竹様、ですが、そのそれは・・」

私が取りあげた3点の物は、世界を移動する者にとっては重要な物、それを他人に預けるわけにはいかないと、全権大使は躊躇する。

「私の身元はレニー・ライン・カンパニーが保証する。これを。」

滅多に出さない自分の名刺を一枚、スーツの内ポケットの財布から取り出し彼に手渡した。

 レニー・ライン・カンパニーの大陸支部代表しか使う事の出来ない、左上にレインボーのラメ型押しされた企業マークがつく名刺だ。

 唖然とする全権大使を置いて、私も追いかけ、ビルから外へ出る。










 あの人の怒りが、私の胸を締め付ける

 お願い、止めて。許して

【・・・許さぬ・・・】

 その赤い眼が怒りに満ちて、この身に浸透してくる。

【人・・・は、・・に卑しく。】

【・・神威は、無慈悲に単純だ。】

 ええ、そう、神威は無慈悲に単純。

【死して、滅べ。】

 死は、あの人と私の、長く永い願い。

 死して滅ぶ、私達の宿命。

英「危ない!」

 パーンとクラクションを鳴らして走り去っていく車を、私は何故か道路にお尻をついて見ていた。

英「大丈夫ですか?」

 死んでない・・・許された?

英「えーと、もしかして英語がわからないのかな。どうしよう、僕は日本語を話せないしな。」

 見上げれば、ゲルマン系金髪の白人さんが、私の腕を掴んでいる。

英「えっ、わわわっ怪我したんですね。今、救急車呼びます。」と携帯電話取り出して、レスキューにかけようとする金髪の白人さん。

英「違います。どこも怪我なんて・・・」

 どうして、そうなるのかわからず、慌てて立ち上がった。

英「で、でも・・・どこか痛いから泣いているのでしょう?」

英「えっ?」瞬きした目から涙がこぼれ落ちた。

 泣いている、悔しくて。

 悔しくて?

 死ねなかった事が?

 違う。

 許した事が。

 何を許された?

英「ごめんなさい。大丈夫です。どこも怪我をしていません。」と腕で涙を拭いた。

英「あぁ、良かった。怪我がなくて。」

見知らぬ金髪白人さんはあふれんばかりの優しい笑顔で、落ちていた私のトートバッグを拾って手渡してくれる。

英「クレメンティ!」

 大使館から警備員と黒髪の男性が出て来て、こちらに向かってくる。

(まずい。)

何もしていないけど、焦る私。引き止められるのは嫌だ。

英「ごめんなさい、私、急ぐので。」

英「待ってください。あなたを捕まえるようにと。」と金髪白人さんは再び私の腕を掴んだ。

 紳士だと思ったこの白人さんも、大使館からの刺客だったか。

英「放してくださいっ」

 腕を振りほどいて逃げようとしたが、長身で手のリーチの長い金髪白人さんは易々と私のコートの襟首を掴み、私は尻餅をつき尾骶骨をしこたま打つ。

英「きゃっ!」

英「あっ、ごめんなさいっ。」

英「何をしてるんだ。」

 大使館から出てきた黒髪の男性に追い付かれる。

英「逃げようとするものですから。大丈夫ですか?申し訳ありません。お怪我は?」

 捕まえようとしている割には、紳士的に手を差し伸べてくる金髪白人さん。そのチグハクさに私はムッとした。

英「本当の紳士なら、私を自由にするのが最上よ。」

 私は差し伸べられた手を取らずに自力で立った。

英「あははは。それはごもっとも。」と笑う黒髪の男性。

一瞥の睨みをして、私は先を急いだ。

露「待ちなさい、日本語よりロシア語が得意なお嬢さん。」

(ロシア語、こんな場所で?)振り返る。

露「9年ぶりかな?」

露「えっ?お知り合いだったんですか?」

一度消失した記憶がよみがえる。

露「あ、あなたは・・・私を殺そうとした・・・。」

露「えっ?」金髪白人さんが驚く。

露「あぁ、初見は特異的であったな。」と微笑む黒髪の男性。

その魅力的な微笑を完全に思い出した。過去に、この人は「殺せ」といった時も、とても素敵な微笑みで、私は見とれた。

露「また、私を殺そうとして、だから捕まえるのね。」

露「ええっ!そうだったんですか!?」と、どうしてだか、金髪白人さんの方が慌てて「だめですよ。こんなかわいい子を。」と庇うように立ちふさがる。

露「するわけないだろう。」

 私を過去に殺そうとした黒髪の男性は、白人さんの肩を掴んで退かせる。

露「たまたまだ、そこの大使館に私もいた。日本に行きたいと随分と喚いていたが。」

露「友人が巻き込まれているの。監禁されて人質に・・・私は華選だから、行かなくは。」

露「レベル7の非常事態厳戒体制が出ている今は、空港も封鎖されている為、自家用ジェットですらも日本へは行けまい。今すぐ日本へ向かう事は出来ないが、私なら、大使館よりもより多くの情報をいち早く手に入れられる。私も日本が今、何が起きているのか調べていてね。」

 そこで言葉を一旦切り、更に素敵な笑みを私に向けた。

露「私にはその調べられる術がある。私と一緒に来るかね?」

 声も魅惑的だったことを思い出した。あの時もずっとその声を聞いていたいと思った。

 黙ってしまった私が、警戒していると思ったのか、

露「殺し損ねたお詫びと、クレメンティの粗相の詫びをさせてもらえないか。」と手の平を差し出してくる。

 私は躊躇することなく、その手に右手を重ねた。

露「じゃ、その詫びを遠慮なく受け取るわ。」

 私を微笑んで殺そうとした男性は、優雅に私の甲にキスをする。

露「クレメンティ、車を。」

露「はい。」

露「名前を教えて、私を殺そうとしたおじ様。」

露「・・・レニー・コート・グランド・佐竹だ。」









 待たせていたハイヤーに乗る時、真辺りのは尻を痛がってハイヤーに座れなかった。二度も尻を強打させてしまったクレメンティは責任を感じて病院に連れていくと言い、彼女は行かないと言い合う事、数分。終いにはクレメンティは、膝に座らせるなど言いだしたのを全力で止めて、二人は電車を使う事になった。

 ロシア大使館へは私だけが行き、クレメンティと真辺りのは、国際空港そばのレニー・ラインホテルへと向かい待ち合わせる。

 レニー・ライン・カンパニーはホテル業も運営する。ホテルは概ね空港のそばに建っており、我々幹部だけが使用する部屋の階層が存在する。その幹部だけが使用できる部屋は、世界各国いつでも利用できるようになっていて、私とクレメンティは、この便利なシステムのおかげで定住する家を持たずに就労できている。アジア本国の香港に滞在している時も、私とクレメンティはホテルを住居としていた。

 1年ぶりに会う旧友は、まぁまぁにフランス語が上達していた。クレメンティが居ないおかげで気兼ねない口調で話せたのは、真辺りのを拾った副産物と言える。だが、ロシア大使館でも日本の情報は何もつかめていなかった。当然だが、日本の大使館ほどの情報もない上に、日本大使館ほど慌てた様子も見られなかった。何か情報を掴めたら、もしくはロシア側の方針が決まれば教えてくれと頼み、昼食を一緒にというユーリ・シモノフの誘いを断ってレニー・ラインホテルへ向かった。

 このホテルは国際空港開港と同時に開業した為、まだ50年の歴史ほどであるが、パリの街並に合わせ、19世紀中頃のオスマニアン建築様式で建てられている。入り口は自動扉ではなくて、ドアマンが手動で開けて愛想のいい挨拶を送ってくる。フロントには寄らず脇の少し奥まった所の高層階専用エレベーターを利用する。乗り込み、閉まった扉の内側の鏡に映る自分の顔を眺める。黒い髪に白髪が混じるようになった。

「おじ様か・・・。」

 26歳差、真辺りのから見れば、お爺さんと言われなかっただけマシと言う物か?

 24歳の時、今の私を作った分岐点があった。あれから26年経ち、やっと手に入れたのはアジアだけ。この先、私の寿命が尽きるまでに手に入れる事が出来るだろうか?世界を、この手に。

 10階のエントランスにはこのフロア専用のコンシェルジュが居て、エレベーターから出ると立ち上がり頭を下げてくる。

仏「お待ちしておりました。レニー・コート・グランド佐竹様。」

仏「突然すまなかったな。」

仏「いえ、ご利用いただきありがとうございます。」

 握手を交わして、部屋まで案内される。と言っても一番通路側に近い部屋だった。

仏「13時のドバイ行きのおひとり様の追加手続きも済んでおります。」

仏「ありがとう。」

 部屋のコールボタンを押してコンシェルジュは元のテーブルへと戻って行く。

 クレメンティが内側からドアを開けて迎え出る。こうしてみると、やはりまだ39歳というのは若く、金髪の髪に張りも艶もある。

英「真辺りのは?」

英「それが、ここに来てからずっとパソコンに向かって・・・ベッドで休むようにと言ったんですが、聞かずに。」

 クレメンティの背後を除くと、デスクに常設されているパソコンに向かい、立って作業をしている。尻を突き出した中腰の姿が面白い。

英「まだ痛むのか?」

英「いえ、本人は痛くないと言うのですが・・・あのような姿ですから、きっとまだ痛いのだと思って、医師を呼んだのですが・・・」

 先程のやり取りからして、どんな展開になったか想像がつく。

英「あぁ~、僕はなんてことしてしまったんだぁ~。か弱き女の子に。」頭を抱えるクレメンティ。「尾骶骨が折れていたらどうすれば、そこからばい菌が入って死んでしまったりしたら。僕は、殺人者だ。」

英「人間は、そう簡単には死なん。」

 クレメンティを押しのけてデスクへと進む。眼鏡をかけた真辺りのが振り向いた。

露「ずっと調べていたのか?」

露「ええ。」

露「収穫は?」

露「全く無し。レベル7って検索しただけで、こんな画面で弾かれちゃうようになったわ。」

 パソコンの画面を私が見れるようにクルリと回す。その画面には、世界主要言語で書かれた注意文があった。

【現在日本エリアのインターネット回線は諸事情により使われません】

露「どこのネット通信会社もか?」

露「ええ、すべて同じ。」

 真辺りのは、慣れた手つきでキーボードをかちゃかちゃと鳴らして最後にエンターを押した。

露「さっきのはレニーライン社の、これはエクスポート社の画面。全く同じ。」

 真辺りのが言うように、使うネット通信会社を変えても、全く同じ画面が表示された。となると、これは、完全に国が統制を強いている証拠だ。

露「クレメンティ、電話は?」

露「先ほど、香港本部と連絡が取れました。ですが香港も我々と同じ状態で、何が起きているのかはわからないそうです。話している途中で回線が切れてしまいまして、再度、かけなおしましたら、また連絡がつかない状態になりまして。」

露「まだ電話通信網も不安定ということか。」

露「はい。」

 この状態が続けば、我らアジアの業績が落ちるだろう。せっかく右肩上がりで順調であるものを。

 そうなれば、やはり即効性の対策として、中東とのパイプを強めておく必要がある。ロシアとのガスパイプラインの協定を結んだ事で中東は、一時期アジアに対して警告の圧力をかけた。石油の値を下げる代わりに輸送量の追加購入をかけてきた。中東のそのやり口は、昔から繰り返され見込まれた手口だ。使いきれない石油量の購入を迫られる日本の対応策を提示したのも私だ。どこまでも我々アジアに対して強気でいる中東に頭を下げるのは癪だが、実際に世界で有無を言わせられるは、やはり中東の石油輸送で儲ける業績だ。この日本の異常時に、ドバイを訪れるタイミングであるのは、何とも幸運であると言える。

露「ミスりの、」私の呼びかけに再び顔を向ける真辺りの。「これから我々は元よりドバイへ向かう予定でいる。情報はフライト中でも収集はできる。一緒に来るか?」

露「どこへでも、情報が得られるのなら、それに、ドバイならここより日本へ近くなる。」

露「ああ、ではフライト手続きの為、先ほど大使館から預かったIDとパスポートは、引き続き私が預かっておく。」

 真辺りのは、そこで初めて自分が大事な物を大使館に置き忘れて来た事を気づいた風で、「あっ」と声を上げた。











 私を殺そうとしたレニー・コート・グランド・佐竹は、「世界のレニー」と通称される陸、海、空の輸送物流業とホテル業、それに今は情報システムも手掛ける世界企業の、アジア大陸を統括する代表だと、その秘書であるクレメンティ、ラビン・ロマノフ氏から聞く。

 クレメンティさんは、痛めた私のお尻を心配して医者まで呼んだ。悪い人ではないのはよくわかる。言葉は丁寧だし、紳士な対応は藤木を思い出させるほどで、だからこそ、藤木と慎一を合わせたようで少々暑苦しい。

 ドバイ行きの飛行機は、当然にレニー・エアラインで、驚いた事に、良く考えれば当たり前なのだけど、座席がファーストクラスだった。

 私の席は突然に追加されたから、二人の席より後方の離れた場所だったのを、クレメンティさんが、「座席を代わってグランド様の隣へどうぞ。」と言ってくれたけれど、もう十分と言って断った。

 座席に座る直前までお尻の心配をされ、毛布やら、クッションやら、どこで準備したのか、鎮痛剤まで用意して気遣うクレメンティさん。もう、痛みは無くなって大丈夫だと言っても、聞く耳持たずで過剰に気遣うのは、どうしたらいいものか。

 着陸直後のシートベルト着用のサインが消えると、早速クレメンティさんがこちらに来る気配が見えたので、毛布を頭から被って寝たふりをした。隙間から様子を見ると、クレメンティさんは、ミスターグランドに呼ばれ、座席の側に膝づきしゃがんだ。そしてパソコンを見ながら何か話し合いを始めた。

 何か情報が入ったのだろうか?駆け寄り聞きたい衝動を抑える。別の、ビジネス上の話し合いなのかもしれない場合、とても失礼だ。それに、日本の事でわかった事があれば、教えてくれるはず。そう約束してくれた。

ミスターグランドは、ハーフなのかとクレメンティさんに聞いたのだけれど、クレメンティさんは知らないと言う。名前からして日本人のDNAは入っているのだろうけれど、日本人離れした彫り深さと鼻筋は、ゲルマン系もしくはスラブ系のDNAが入っているだろう。微笑みと声がとても魅力的、そして知性が言葉にあふれている。言語も日本語、ロシア語、英語を話す。多数の言語を話せる人は、それだけで興味をそそられる。もしかしたら、他にも話せる言語があるのかもしれない。世界を飛び回っているのだから。

 そんな事を考えていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。起きた時には機内は暗く照明が落とされていた。窓の外を見れば、すっかり夜で何も見えなかった。座席の前に「客室乗務員をお呼びください」の札が掛けられていた。何だろうと、ボタンを押すと、ご丁寧に客室常務員さんは、眠っている間に配られた機内食を用意しても良いかと聞いてくる。

 そう言われるとお腹の空きに気づく。お願いしてから座席に備え付けられているパネルで時間を確認すると、もうあと一時間ぐらいでドバイに着く時間だった。4時間ぐらい眠っていた事になる。

(そんなに疲れていたのだろうか?もう、あの人を感じない。そういえば、グレンに何も言わずに、こんなところまで来る事になってしまった。)

 グレンは、私が、日本に行きたがっていた事を知っているだろうけれど、まさか、それがドバイ経由になっているとは知る由もない。 飛行機を降りたらグレンに電話をしなければとの誓いは、私の知識を超える機内食の豪華さに驚いて、すっかり忘れてしまった。

英「は、初めて見たわ、ファーストクラスの食事って・・・機内食ではなくてコース料理じゃない、これ。」

英「ええ、どうぞ、お召し上がりください。」

と最上の笑顔でくれる客室乗務員。

英「ありがとう、全部食べられるかしら・・・」











 フライト直後に、日本がレベル7の国家非常事態宣言を解除し、レベル0に戻したとの連絡が入った。日本時間で、21時00分の事で、即時、空路海路の封鎖も解除されたが、空に到っては空港使用時間の関係上、その日の空路は完全に欠航となり、翌日からの受け入れとなっている。解除に伴い、日本国政府は世界に向けて、ネット上でわび状の文面を載せていた。

内容は、レベル7を出した簡単な経緯と謝罪、解決にあたり尽力を求めた関係各所への謝礼、今後の対応と信頼回復に向けての姿勢が書かれてあった。

私とクレメンティはドバイ行きの飛行機の中でそれらの情報を知り、引き続き情報収集に精を尽くした。解除宣言があったおかげか、徐々に電話回線が繋がりやすくなり、香港の本社とも簡単に連絡が取れるようになった。が、ネットは依然駄目だった。日本以外の回線は繋がるようにはなっていたから、レニーの情報システム事業部が、外部から日本のシステムの侵入を試みている。

 ドバイ国際空港そばの、レニー・ラインホテル・ドバイに着く。桁外れの総工費を使い建てられたこの高層ホテルは、65階建てで、その52階~60階の8フロアがレニー幹部専用のフロアだった。ご丁寧に一フロア1大陸の単純計算で作られたのであろうが、8大陸すべての幹部が揃いフロアを埋め尽くす機会などない。これも中東の贅沢極まりない見栄というものかと失笑する。

 すっかり夜になり、窓の向こうは何もないビューイング、これが香港だったら100万ドルの夜景が美しいが、ここは夜よりも昼間のビューイングが売りで、地階に薄くモヤのかかったような街路灯の並びが見えるだけ。鏡のように反射した自分の姿と部屋の内装を見ながらの電話は、何の情緒もない。

中「そのレベル7の宣言は、京宮御所で李剥が起こした人質監禁事件に対応する物で、全国でデモによる暴動もあり、特殊部隊の出動による空域開口の為に出されたものです。」

中「それにしては、レベル7は行き過ぎの感はあるが、日本では、これが事実上、初めてのテロ事件となれば、それは致し方ないか。」

中「まだ、政府はテロ事件と断定したわけではありません。ですが、レベル7を出してしまった以上、テロと断定した方が、世界向けには道理が通りますし、そのあたりの事は、柴崎凱斗の方が今後の事も含めて詳しいでしょう。柴崎凱斗からの連絡は、そちらにいっていませんか?」

中「まだだ。」

中「そうですか、後始末に忙しいのかもしれません。なんせ、京宮に侵入する為に、ヘリを一機墜落させて乗り込んでいますから。」

中「ヘリを墜落させた?」

中「はい、柴崎凱斗は華族会が創設した自衛隊の特殊部隊の隊長ですから。」

中「あいつ・・・ほんと色んなカードを隠しもっているな。」

中「やはり、ご存知なかったですか?」

中「柴崎凱斗は、そのテロの現場にいたのだな?」

中「はい。」

中「で、お前も李剥の足取りを追って、その現場に居合わせたと。」

中「はい。」

中「李剥は殺した。」

中「はい。確実に。ご安心ください。」

中「今、どこに要る?」

中「今は、香港に向かう船の中です。日本時間21時30分舞鶴出港のタンカー船に乗り込んで日本を出ました。香港に着くのは本日正午前になります。」

中「わかった。」

中「日本政府から李剥の身元調査の為、おそらくレニー・ライン・カンパニー・アジアにも捜査が入ります。」

中「ふむ。」

中「柴崎凱斗は、レニーとの関係性をわからない様にできないかと筋書に悩んでいましたが、こうも盛大にやられては、手を加えますと矛盾が生じ、取り繕う筋書きに苦難するでしょう。」

中「致し方ないな。」

中「口封じに李剥を殺せた事が幸いですが、捜査拒否は難しいと思います。」

中「捜査協力は惜しみのない姿勢をとりつつ、李剥の犯罪性は無関係と通すしかないな。」

中「はい。」

中「だが、その捜査協力の姿勢も微妙な手加減が難しい。レニーは一国家に屈しないが世界的モットーだからな。」

中「申し訳ございません。これまで李剥の行方を掴めなかった私の失態です。」

中「気にするな、この先は私の仕事だ。李剥の死は、黒龍会との勢力図を変える私のカードとなりえよう。」

中「はい。」

中「ご苦労であった。また連絡をする。」

中「失礼します。」

 電話を切りつつ振り返ると、クレメンティだけではなく、真辺りのも私の方を注視し、続く言葉を待っている。

英「レベル7のおおよその原因がわかった。クレメンティ、ここに食事を運ばせろ。」

英「はいっ。」

英「食事をしながらする話題にしては、少々品がないが・・・時間的にもこれ以降になるとロクなサービスが受けられなくなる。」

英「私は、ついさっき機内食を食べたばかりだから、特に必要ないわ。」

英「よく寝ていたな。」

恥ずかしそうに目を伏せる真辺りのは、最初の子供のように見えた印象とは違って、大人びた表情を見せた。

アジア人は幼顔系統によって若く見えるゆえに、大人と子供の両面を垣間見せる年頃なのだろう。次にどんな表情を見せるか、若干の興味を引く。

英「食事中も続いて入ってくるだろう。情報の精査をしつつ説明をしていこう。」

 真辺りのは表情を輝かせた、子供のように。












 日本のレベル7の国家非常事態宣言を出した原因は、京宮御所で起きた人質監禁事件に対応するものだった。

 事件の起きた場所は京都、北山の麓にある京宮御所。そこでは神皇の子、双燕新皇の降臨祭という儀式が行われていた。儀式には華族の者達が多数参列しており、武装した犯人グループにより、その華族の多数が囚われた。

 犯人の要求は、神皇家の持つ祖歴を公開せよと言うもの。それは、私がフランスでみつけた動画の語っていた事と同じだったため、あれは流出した本物の映像だったという事になる。しかし今は、その動画をいくら探しても見つからない。

 犯人は祖歴を公開しなければ、30分置きに人質を射殺していくと脅して、実際にそれは行われた。

英「犠牲者は7人だそうだ。」

 そう淡々と話すミスターグランドの落ち着きが、その事実を絵空事のように思わせた。知りたかった真実が極まりない惨劇であるはずなのに、余りにもさらっと語るので残酷さがなく実感もない。

英「その犠牲者の中に柴崎麗香はいない。」

 ほっと胸を撫でおろす。

英「事件に巻き込まれ、人質として監禁されていたのは確かだが、救助されているはずだと。」

英「はずって!?確かな情報じゃないの?誰からの報告?」

 ミスターグランドは無言で私を見つめる。無言の威圧、人生の巧者ならではと片付けるには、あまりにも、この間の取り方は独特だった。私ははっと、自分がおこがましいことを悟る。

英「ご、ごめんなさい。」

英「誰からは答えられないが、情報はどこよりも早く、信頼のある事は保証しよう。」

英「ええ、信じます。麗香が無事だった、それさえわかれば。」

英「直ぐにもっと詳細な情報は入ってくる。引き続き柴崎麗香の状態も聞いておこう。」

英「ええ。お願いします。」

英「しかし、犠牲者が7人って、そこまでの犠牲者を出す前に、どうにかならなかったのですかね。」とクレメンティさんが至極最もな疑問を口にする。

英「30分置きという短いスパンだったから致し方あるまいが、それは今後、世界から非難を浴びるであろうな。」

英「どんな要求にしろ、テロに屈さないと言うのが世界共通の認識であったとしても、どうして日本政府は、犯人の要求を聞き入れなかったのでしょうか。ソレキって歴史の文献みたいなもの、そんな物を命の犠牲にしてまで守るほどの事でもないでしょうに。」

英「どうだろうな。ミスりのは祖歴を知っているか?」

英「ええ、もちろん。」

英「テロリストが祖歴を要求した事について、どう思う?」

英「うーん。確かに祖歴を大事にしている家にとっては、価値あるものだわ。祖歴が情報と同じになっている家もあるから、それを欲しいと思う他者が居てもおかしくはないけれど、人を殺してまでと言うのは、ちょっと理解しがたい。」

英「神皇家の祖歴は特別な物か?」

英「・・・。」

 私はすぐには答えられない。

 卑弥呼の時代から続く神皇家の祖歴は、きっとこの国の成り立ち、歴史そのものが書かれてあるだろう。特別なものである。教科書には載らない歴史が、華族会の祖歴概略にすらも記されていた。神皇家の祖歴となれば、華族会の物以上の事が書かれているだろう。華選の称号を授与された時に、その教科書に載らない歴史は、他言してはならないと、強く言われていた。

英「わからないわ。神皇家の祖歴が特別と定義できるほどに、私は神皇家の祖歴の内容を知らないもの。」

英「それはテロリストも同じかな?」

英「さあ、どうかしら。テロリストの気持ちも、私はわからないわ。」

英「それもそうだな。」

 うまく、話を逸らすことが出来た。しかし、話しながら気づいたことがある。人質を取ってまで物を要求するのは、何か得があってこそ。祖歴が価値あるとわかっていなければ、それを要求はしない。それにテロリストは、祖歴を持ってこい、じゃなく開示を要求した。祖歴の情報をテロリスト達だけが得ることなく、大多数が得て、テロリストが得する事ってなんだろう。

英「ミスりの、何か、思いついた事でも?」

英「いいえ、何も。」慌てて否定した。

 二人は食事を終えていた。クレメンティさんが、紅茶を入れ始める。食事を遠慮した私には、紅茶とクッキーを用意してくれていた。それもお腹いっぱいで食べることが出来なかった。冷めた紅茶をクレメンティさんは入れなおしてくれる。ミスターグランドも、食後の紅茶を飲んで一息入れると、改めて私の方に向き直る。

英「さて、明日からだが、ミスりの、こんな所にまでついてきてもらったが、その友人の安否も確認が取れた。人質監禁事件も収束し、エアラインも明日から通常通りの運航開始となる。今日の分の欠航が明日に繰り越されて、日本の空港はどこも混乱が続くだろうが、ここ、ドバイからの日本行のフライトチケットを用意できなくもない。」

 そこでミスターグランドは言葉を止めて、微笑する。その微笑に私はまた、見惚れる。

英「それでも、まだ、日本に行きたいかね。」

 意味を捕えきれなかった。

 私は日本に行きたかったのか?ただ知りたかっただけなのか?

 麗香が無事だと知れば、日本に行く理由が私の中で消えて、あれだけ、行かなければと思っていた気持ちも、今はあまりない。

英「私は・・・」

それ以上の言葉の続かない私を見かねたのか、ミスターグランドは一つの提案をしてくる。

英「パスポートの渡航履歴によると、ここドバイは初めてのようだ。」

英「ええ。」

 ヨーロッパより東にはまだ足を運べていなかった。中東はトルコをはじめアルメニアとこのアラブ首長国連邦のドバイも、いずれは訪れてみたい国の候補地だった。

英「我々は、このドバイには5日の滞在を予定している。急ぐ気にならないのなら共に滞在しても構わない。」

 その提案に心が躍った。思いのほか旅ができる事に加えて、私はミスターグランドともっと話がしてみたいと思っていた。

英「じゃ、そうさせていただくわ。ここドバイは訪れたかった都市の一つだから。」

英「良かろう。」

英「クレメンティ、この部屋のカードキーを用意してやれ。」

英「はい。」

英「それと、これで買い物をするといい。いくら冬季と言えども、そのセーターでは暑すぎる。」

そう言って1枚のクレジットカードをテーブルの上に置く。

英「クレジットカードなら私も持っているわ。大丈夫よ。」

英「ランクは?」

 クレジットカードにはランクがある。限度額によって分けられていて、それは世界共通である。ブルーから始まって、シルバー、ゴールドと上昇し、プラチナが最高である。

英「青だけど。」

 華族会の口座用のクレジットカードはゴールドだけど、そっちは使いたくなかった。後の収支報告書が面倒。

英「それは使えない。これを持って行きなさい。」

英「カードが使えない?テロの影響がドバイに?」

 何故か二人が笑った。

英「いいから、これも詫びの一つだと思って、素直に受け取るのも、賢い女の条件だ。」

 そこまで言われたら、頑なに断れない。

英「では、使わせてもらうわ。」

 世界のレニーの大陸代表だもの、女の服の一つや二つ、どうってことないぐらいにお金持ちだろう。

 クレジットカードを手に取ると、虹色に光った。

英「わぁ、とても綺麗ねこのカード、虹色は私の大好きなカラーよ。」

 二人が、また笑う。

 私はまだそのクレジットカードのとんでもない価値を知らなかった。














 日本でテロが発生してちょうど24時間が経った日本時間の正午、アラブ首長国連邦ドバイは朝の7時。日本が世界に向けて会見を開くと知り、その会見のライブ映像を見る為にホテル室内で、その会見が始まるのを待っていた。

 レニーの幹部だけが使えるホテルの客室は、世界のどこでもレイアウトは同じである。下手に世界各々、別の様相をするのは不合理かつ不便だと見出した結果が、趣のないインテリアとなる。違うのは壁に掛けられた絵画やベッドルームのリネンデザインが違い、それぞれのお国柄で趣を出している程度だ。そうした全世界共通レイアウトの客室で、デスクからテレビ画面を注視すれば、否が応でもテレビ前のソファに座った真辺りのが視界に入ってくる。

 真辺りのは、男性用のカッターシャツを腕まくりをして着ている。見幅も肩幅も会わずに覗く胸元が、艶めかしいと言いたいところだが、どう見ても、子供がお父さんの物を借りて着ているとしか見えない姿に、笑いをこらえなければならなかった。まだ店が開かず、買い物に行けていない。着替えとしてクレメンティのシャツを借りて着ていた。ビジネスの場に女がいる事は珍しくもないが、子供は今までにない。真辺りのには失礼だが、そういいたくなる小ささだ。

 日本の会見は時間通り、1秒の遅れもなく始まった。

 初めに閑成神皇のビデオメッセージが流れ、犠牲者の冥福を祈る黙とうが始まり、今回の凶事が神皇家に深く関係した事件であった事、その為のレベル7の国家非常事態宣言に到った責任が、神皇家にもあるとして、閑成神皇は全世界に向けて深々と謝罪をした。

 神皇は、関係各位の協力で事件は早期解決に到り、国内で起きていたデモも収束し、国内は元の安全を取り戻していると強く断言した。今後は世界に向けて信頼回復と犯罪防止策を強めるとし、自身も尽力する意向であると宣言して、日本政府、内閣総理大臣に画面を渡した。

 そして内閣総理大臣はまず、昨日の京宮御所で起きた人質監禁事件をテロと断言し、テロの解明調査本部を立ち上げた、と告げてから本題に入った。だが、それは私が柴崎凱斗から報告を受けている物より簡素なものだった。事の真相も事件発生時から政府の対応を時系列に延べただけで、犯人に関しても、日本国籍ではない者も含まれた国際テログループである可能性もあり、現在調査中であると言った。

当然、記者からの厳しい追及をされる事になったが、公表できる情報がまだ何もないのだろう、詳細は調査中であり、わからないとのコメントが繰り返し続く。

英「歯切れが悪いですね。新しい情報もないですし。」

 真辺りのの横に座っているクレメンティが、私へと振り返る。

英「致し方ない。まだ政府側は情報の精査が出来ていないのだろう。」

 我々は事件の当事者だった柴崎凱斗とのパイプがあるから、事情を知る事が出来た。おそらく政府より密な情報だ。だが現場にいた二人からの報告を受けても、決定的にわからない事が2つあった。

 なぜ、李剥は、テロを起したのか?

 なぜ、取引材料が祖歴だったのか?

 柴崎凱斗からの報告で、テロ犯の中に一人だけ日本人がいた。その日本人本人が、自分がテログループのリーダーだと言っている。その男は以前から華族制度に反対する公安のマークリストにも載っている者であったという。現在この男は逮捕され取り調べを受けているが、しかしながら、全国の集会でばらまかれたモデルガンやテロリスト達の人員、ヘリや装備品などから見て、この日本人が用立てしたとは思えず、事実上のリーダーは李剥であり、日本人犯はただのお飾りだったと推測できる。その日本人犯と李剥がどこでどう繋がりテロを起す事になったのかは、今後その日本人犯の供述から判明していくだろうと。というのが柴崎凱斗の見解である。

 柴崎凱斗とは、4時間前の夜中の3時にやっと電話で話す事が出来た。向うは朝の8時で、昨晩遅くに自身の携帯の電池が切れ、充電する暇もなく、後始末に追われていたという。

 柴崎凱斗―――

 脅威の記憶能力を持つ。見た文字は一瞬で覚え忘れる事がない。頭の中には、数百冊の本、数千部の新聞、数えきれない枚数の書類が記憶にあるという。どうしてだが、米軍の特殊部隊に入隊していたこともあり、中には国家機密級の書類もあるらしい。その経歴は、私の補佐として使えるものであったが、それよりも魅力だったのは、華族と繋がっていることである。世界のレニーは裏社会の流通をも網羅する。アジアだけがそれを網羅できていない。表の流通が戦後にやっと制覇したばかりだ。

 中国と香港の裏社会を牛耳っているのは、依然、表の流通網の創業者だった李家だ。私はまだ李家をつぶせていない。

 そして日本は、ヤクザという裏社会構造がある。日本は銃社会ではなく、紛争による武器の大量密輸も見込まれない。大麻や覚せい剤などの薬市場もさほど大きくない。ヤクザとの繋がりを得る、もしくは裏社会そのものを乗っ取っても、さほどの旨みは無い。しかし、裏社会を握っておくことは重要な切り札だ。中国のように裏社会の乗っ取りに時間をかければ、こちらが疲弊する。何かないかと考えていた時に出会ったのが柴崎凱斗だった。柴崎凱斗の経歴を調べると「華選」の称号を持っている。

日本には華族と言う階級がある事は、随分昔から知っていた。しかし、それは欧州を真似たお飾り的な物だと思っていた。一部の上流階級が至福を肥やすだけの特権ごっこ。しかし柴崎凱斗の特殊な能力に対して華族会が「華選」と言う階級を与えていると知り、もしやこれは、と感が働いた。調べれば面白い華族の在り方。ヤクザよりも有効な裏の支配力がある。そして何より神皇家のバックアップが最強だ。これは手に入れなければならない。そうして仕掛けたのだが、華族の力は思った以上に強靭だった。この私が陥れられるほどに。その華族が今、李剥の起こしたテロによって、世間の注目を浴びてしまった。これから、華族の使い方には慎重にならざるえない。やっと手に入れた切り札であるのに。


 真辺りのーーー柴崎凱斗と同じく華選の称号を持つ娘。

 柴崎凱斗を見つけるきっかけとなった小娘が、再び私の前に現れた。感が働く、手放してはならない。おそらくこの娘はキーになる。


 会見は、今後、事件の詳細は、テロ事件解明調査本部が行うと告げて、半ば強引に終わった。

英「結局、詳細は調査中で葬られそうな感じですね。」

 クレメンティが飲んでいたコーヒーカップを手に立ち上がり、私のコーヒーカップの中身を確認しにくる。片づけに協力すべく、カップの底に残っていたコーヒーを飲み干してから渡した。

英「その方が互いに好都合だが。」つぶやいた私の言葉に、真辺りのが振り向く。何かを考察するような無感情の表情。

 9年前の夜を思い出した。置かれた立場に怯えることもなく、命乞いもしないで、ただ淡々と盗品売買の実態を見つけた経緯を語る小娘の似つかわしくない冷静さが、ギリシャ神話のテミスを想像させた。

 そうだ思い出した。私に罪悪感を起こさせたのは、テミスを想像したからだ。

テミスは裁きの女神、事象を並べ真実を解き明かし、無慈悲に善と悪を裁き下す。

束の間の視線を外した真辺りのは、手にしていたコーヒーカップを飲み干し、クレメンティを追ってキッチンへと向かう。クレメンティを見上げるその姿は、やはり子供だ。親子にしか見えない。

 コロコロと様子を変化させる小娘か・・・面白い。












 ミスターグランドが言う、互いとは誰と誰の事だろう?教えてくれた情報以外の詳しい事を知っているふうだ。

だけど、語られない事を追及するのは危険だと、私は体感して知っている。語れない事を持つのも危険。というよりも精神的労力が必要だ。余剰の情報に耳を傾けない方がいい。残っていたコーヒーを飲み干して立ち上がった。

 この部屋には小さなキッチンがある。食事以外に飲むお茶は、自分達で淹れる。ホテルでビジネスをしているから、外部の人間を部屋に入れたくないとのこと。外部の人間と言う事は、私も当てはまるのだけど、クレメンティさんは、私はゲストだから良いと言った。

 滞在のホテルは、入ってすぐにクロークルームがあり、廊下の左右に3つの個室がある。一番広い部屋をミスターグランドが使っていて、小さい方の(と言っても、私には落ち着かないぐらいに広い)部屋をクレメンティさんが使っていて、空いているもう一つの部屋を使っていいと鍵を渡されていた。その廊下の先にレセプションルームがある。応接セットとテレビ、大きなデスクと小さ目のデスクがL字で配置されていて、広い社長室のようになっている。ホテルと言うより広いマンションのようだ。一泊いくらするのか、とても怖くて聞けない。昨日のクレジットカードの流れでいくと、宿泊料を請求される事はないとは思うから、安心して甘える。これらの待遇は、8年前の殺されかけたお詫びだと納得しよう。

英「クレメンティさん、」

英「はい、何でしょう。」

 腰をかがめて視線を合わせて来るクレメンティさん。日本でこれをやられたら激怒しているが、海外だと何故か怒りもおこらない。クレメンティさんの長身は190cmぐらいであるから、その動作も致し方ない。

英「タブレットを借りていいかしら?どこを観光するか調べたいの。」

英「ええ、かまいませんよ。」

英「私も、ご一緒出来たらいいんですがねぇ。」

ドバイに滞在できるのは5日。その後ミスターグランド達は、また別の国へと移動する。そんな世界を回るビジネスが羨ましい。私の趣味の一つは旅行で、パスポートの出国入国スタンプを集めている。だけど、中々増えない。時間とお金がなかったからだ。ビジネスで世界を回れたら、何て最高の職業だろう。

 思いがけないドバイを観光できるチャンスに、私は心弾ませてクレメンティさんにタブレットを借りた。

英「ずっと休んでいませんねぇ。いつからだろう、もう記憶もないなぁ~。」とオーバーアクションの仕草でミスターグランドに顔を向けるクレメンティさん。デスクでファイルを手に書類をめくっていたミスターグランドは、一瞥しただけで何も言わない。

英「あぁ、とても心配です。ミスりのだけで送り出すの。そう、こんなか弱き女性を一人で、もし強盗にでも襲われたら。」

 大げさな物言いに、ミスターグランドは大きなため息をつき、何かを言いかけた時、部屋の壁に掛けられている小さなモニターがピーと電子音を出して、スピーカーから音声が流れる。

【指紋認証の確認が取れました。レニーラインID認証番号、0820140706458,ナタリー・ポートマン様、お帰りなさい。】

 モニターに、女性の顔写真付きのIDが表示されて、すぐに消えた。ガチャリと玄関の扉が解錠される。流石は世界のレニーのホテルである。部屋のセキュリティや空調などの管理、ルームサービスなどがその小さなモニターでできるようになっている。

 何故かクレメンティさんが、小さく「オーマイガー」とつぶやいた。

露「はぁい。グランド、ご機嫌いかが。」

 鼻歌交じりに部屋に入って来た女性は、170センチはある大女だった。なのに、5センチ以上の赤いパンプスを履いている。もうそれだけで、私の嫌いな女の条件ドはまり。その女はボディラインぴったりの花柄のワンピースを着ていて、膝上、腰丈と言った方がいいかもしれない、とにかく短くて脇にスリットが入っている服で、尻をフリながら歩いて、デスクを回り込んだ。

露「クレメンティ、おはよう。ちゃんと起きてる?」とクレメンティさんを押しのけて、ミスターグランドの膝の上に片尻を乗せた。

言葉を失う私。

露「あぁ、ナタリー、早いじゃないか。」

露「ええ、だって早くグランドに会いたかったんですもの。」

とミスターグランドの首に腕を回して、キス。

クレメンティさんがわざとらしい咳をする。振り向いた大女と目があった。

露「誰?あのチビ・・・」

 怒りの沸点を超える。

露「クレメンティの子供?」

 然りの測定器は、大爆発を起こした。











 不機嫌のままタクシーに乗り込んできたクレメンティは、行き先を言わずに鼻息荒く、ビジネスバッグを私との境に置いた。仕方なく私が、レニー・ライン・カンパニー中東大陸支部の本社へと告げる。

英「まだまだ、若いな。」

 クレメンティは私に一瞥してから、視線を外す。

英「私の元にくるときお前は、プライベートタイムはなくて良いからそばに置いてくれと言ったのではなかったか?」

英「ええ、言いました。言いましたよ。私は、休みがない事に怒っているのでありません。」

英「いつから休みがないか、記憶がないと言ってたではないか。」

英「ええ、それも言いました。記憶がない程休みが無くても私は平気なのです。」

 クレメンティが私の元に来たのは30歳、私が41歳で、そう、真辺りのを殺し損ねた数か月後の、今から8年前だ。

 ある伝手で、クレメンティの面倒を見てほしいと以前から言われていた。仕事柄、世界を周る事が多く、家も持つ事なども難しい。それでも良いならと言ってあった。レニー・コート・総王が死んで、総王の次男、李秀卿がアジアの代表の座に着き、その副代表に私が就任した3か月後のタイミングでクレメンティを呼んだ。

 レニーの大陸支部の代表が全員、家を持たず世界を周る生活を送っているというわけではない。世界を周るのは確かに多いだろうが、ちゃんと家を持ち妻子を持っている代表ばかり。それでは普通の代表で終わる。普通の成功者の称賛など私には要らない。私が求めているのはそれ以上の物だ。世界を手に入れる為には、人生の時間は余りにも少ない。

 私の所に来たクレメンティは、「プライベートタイムは要りません。私を雇用してください。」と言った。

 だからと言って本当に、この8年間で休みを与えていなかったわけじゃない。香港の本社に居る時は、他にもスタッフが居るので、クレメンティには優先して休ませているし、妻子を持つチャンスがあるなら私は反対しないと言ってある。私の人生観をクレメンティに強要するつもりはない。だがクレメンティは、私の望むビジネススケールに、きっちり合わせてついてきていた。今では、クレメンティが居ないと不便な事が多くなってきているほどだ。この8年間で、私に不満をぶつけてきたのは、これが初めてだ。

英「私が怒っているのは、ミスりのに、ナタリーをつけた事です!」

英「同じではないか。結局、お前は、自分の浅はかな思惑がはずれたから怒っているのであろう。」

英「違います。グランド様はわかっていない。」

英「何がだ。」

英「女の怖さをです。」

英「は?」

英「ほら、わかっていらっしゃらない。絶対に後で困りますよ。」

(私が女ごときに、何を困ると言うのだ。) 

 こういう熱い所が、まだまだ青いと思わせる由縁だ。

英「板挟みになって困っても、私は助けませんからね。」

 子供のように不貞腐れた顔を背けるクレメンティ。

(私の知らない所で、女に痛い目に遭ったな、きっと。)











英「これなんかどう?とーても可愛いじゃない。まるで今からピアノの発表会に行くみたい。」

 大女は私を子供服の店に連れて来て、ショーウィンドに飾っているピンク色のふわふわのドレスを指差して言った。

英「私はピアノを弾けない。」

英「うそ、ピアノも弾けないんじゃ、どうやって男を口説くのよ。」

(ピアノは男を口説く道具なのか?大女の定義がおかしい。)

英「あぁ、ごめんね、間違ってたわ、男を口説く必要がなかったわね、そうそう、あなたに必要なのは成長かしら?あはははは。」

 わざとらしい高笑いが、店員やその他の客の注目を誘い、クスクスと笑われる。

英「もう、嫌だわ。あんたと居ると、まるで私がママみたいじゃないのよ。」

(黙れ、大女!)

 ミスターグランドは、私の買い物の付き人を、この大女に指示した。

 クレメンティさんと大女は、抗議の異議申し立てをしたのだけど、ミスターグランドは問答無用で却下した。

『クレメンティを、ビジネスから外すことはできない、これから中東の本部で重要会議がある』とばっさり。

 この大女が唯一フリーである事が、最適最悪な条件として揃ってしまった。

 私も、英語が通じるドバイなら、買い物は一人で大丈夫と必死に断ったのだけど、どうやら今日の晩、その中東との食事会に、私も参加してほしいとのことで、その時に着る服の見立てを、この大女にしてもらえというのだ。

 その食事会の参加にしても、私を含む3人は反対の意見を立てたのだけど、ミスターグランドは、『テロ後の日本に対する中東の思惑を、ミスりのを飾りにして聞き出したい。』との主旨を語った。

英「この店に、あなたに合うサイズの服あるかしら?」

無視して、子供服専門店を離れる。

英「ちょっと、待ちなさいよ!」

英「待つ理由がない。」

英「可愛くないわね、あんた。子供は子供らしく素直に大人の言う事を聞くものよ。」

 ミスターグランドにお世話になっていなければ、絶対ぶん殴っている。

英「私はね、頼まれているのよ。今日のパーティ用のドレスを見立てるのに。」

英「パーティ?食事会だと。」

英「違うわよ、ただの食事会だったら、ドレスコードなんて無いわ。私、この日に合わせて仕事を間に合わせて来たのよ。」

英「あなたが仕事?何の仕事?」

英「それは言えないわ、企業プライバシーよ。」

(絶対嘘だ。こんな派手な女がレニー・ライン・カンパニーの社員だなんてありえない。絶対に愛人だ。愛人を仕事場に連れ込んでいるんだ。素敵と絶賛したミスターグランド株が暴落。ミスターグランドはただのエロ親父だった。)

英「わたしだってね、嫌なのよ、子供の買い物の付き添いなんて仕事!」

英「ここまで案内してくれてありがとう、後は一人で大丈夫だから。」踵をかえした。

英「待ちなさいって言ってるでしょ!」

 大女は私の腕を掴んで引き止める。

英「あのね、今日のパーティは失敗できないのよ。あなたわからないでしょう。どのレベルのドレスを用意すればいいか。」

英「えっ、嘘・・・そんな格式ばったパーティなの?」

 ほら見なさいとばかりに、私を見下す大女。

(あぁ・・・どうして、こんなことになるの~。) 











 クレメンティが紅茶を入れる為に立ち上がった。

英「遅いですね。二人。」

英「意気投合して、お茶でもしてるんだろう。」

英「それは絶対にないです。」

 妙な力説をするクレメンティ。

(何故その鋭さをビジネスに使わない? )

 もうすぐ3時になる。女の買い物が長いのは、もう十分すぎるほど経験している。だから女にはカードを渡して好きにしろと言ってある。私もクレメンティの年頃には、女とショッピングに付き合う時間も楽しんでいたが、それが年齢と共に億劫になってきたのだ。 女のする話はいつの時代も、いつの場も、同じ話題の繰り返しで、飽きがきた。女のレベルが下がってきているというのも確実にある。

それは女に限った話じゃないが、世の中の利便性が上がるほど、人は反比例のように鈍化する。

 ナタリーの前の女、クリスティン・ウェリントンは良かった。ナタリー程の派手な美顔ではなかったが、知性があり、慎ましいい奥ゆかしさも備えていて、だが時に大胆に女の色気を発する絶妙さを持っていた。だか、残念な事に私の元を去らなくてはいけなくなった。最高の賛辞を彼女に残したいからこそ、私はクリスティンを手放した。

 クリスティンのあとに私の元に来たのがナタリー・ポートマンだ。

 彼女らはモスクワにあるマルコス・エンゲルス学校の卒業生である。その学校はロシア有数の高い学力を保持する、日本で言う中高一貫校だ。そこを卒業した者はモスクワにある大学へ進み、政治家や、官僚へ、はたまた世界企業へと就くエリートコースの登竜門である。だが、そのエリート学校の裏で密かに行われているのが、スパイ養成だ。マルコス・エンゲルス学校の生徒の中から、スパイの素質があるものを密かに選抜し、養成していくというもの。

 その選抜者は、本人のみしか知らない。自分がスパイの素質があると知らされ、やる意思を固めた者だけが、個々に指導される。そうして養成されたスパイが世に放たれていく。

 世界の要人の周りには、その学校で育ったスパイが、側にいる事を知らずに職務している者がざらにいる。だが、私はその学校のスパイ養成機関の数少ない理事会員でもあるため、仕事上で必要な女は、自動的にそこから送り込まれてくるようになっている。

英「クレメンティ、真辺りのの身辺調査は?」

英「あ、はい。ほぼ集まりました。ただ、その華選項目の言語取得能力っていう物の学説データーが探れないらしく、それ待ちです。」

 クレメンティの、デスクかソフアかどちらでお茶を飲むかという目配せに、手でデスクへと指示する。

英「華選項目の選定には、大学の研究チームの証明データーを元に華族会の承認を得るとか言ってたな、柴崎凱斗が。」

英「はい、だから日本の常翔大学のデーターベースを漁っているのですが、無いらしくて。」

英「まぁいい、そんな専門データーはまずは要らない。現時点で集まった物を出せ。」

英「はい。」

 クレメンティは紅茶と一緒に、いつも使っているタブレットを持ってきて、目的の画面を出す。

英「びっくりしますよ。あの世界の1、2位を争っているフィンランドヘルシンキ大学で博士号も取っているんですから。」

英「あぁ、幼少の頃フィンランドで過ごしていたというのは、以前の調査であった。思い出した。」

真辺りのの生涯データー。

  1996年11月5日生まれ、AB型RH+

   国籍日本 神奈川県彩都市、

   最終学歴フィンランドヘルシンキ大学 文学部 行動文化学 博士課程修了

               教育学部 教養心理学 博士課終了

英「2つ同時?それもたった4年でか。」

英「ええ、とんでもないカリキュラムですよ。取得単位の時間割も取りました。見てください。」

 クレメンティは、タブレットの画面に手を伸ばしてきてべージを送る。

英「朝から晩までびっしり、これを4年間毎日休みなく。最後の1年は比較的空きの時間はありますが。」

 見れば、朝の9時から夜の9時半までのコマを隙間なく、授業を入れている。

英「ある意味、夜の9時半まで授業があるフィンランドの大学カリキュラムがすごいといえる。」

英「国家戦略として学力向上を上げているフィンランドですからね、夜間も社会人の為にって、今では当たり前みたいですよ。」

 フィンランドに行く前は常翔学園の特待生であった。それを2013年の9月より留学生として渡欧。

 私が殺せと命じた時、ここまで優秀だとは知らなかった。日本語よりロシア語の方が得意だと言った子供は、父の仕事でフィンランドのキルギスという町で4年半住んでいて、キルギスはロシアとの国境の町で、町ではフィンランド語よりロシア語が主流だったからロシア語を話せるようになったと話した。ただの帰国子女だと、惜しくもなく口封じの為に殺せと命じたのだったが、見立ては大きく違っていた。この学歴は十分に一流だ。だが・・・

英「惜しいな。」

英「何がです?」

英「体が未発達だ。」

英「グランド様はやっぱりわかっていない、今は、あーいうのが魅力なんです。」

英「それは世の中のすべてじゃない、お前だけ。」

英「そうでもないですよ、世界的にミニマム化は好まれる傾向にあります。」

英「それはビジネス形態の趣向だ。」

英「個人的趣向がビジネス形態の趣向に作用させる。いつもグランド様が言っている事と同じですよ。」

【国が民を動かしているんじゃない、民が国を動かす。民より強い世界戦力はない】

 いつも私が言う言葉を、趣旨を変えて私に論じるなど、クレメンティも成長した。だが

英「論点がすり替わってきている。」

英「じゃ、戻します。ミスりののあの容姿から、誰がこれだけの学力を持っていると想像できます?誰も想像しえないギャップこそが良いのです。」

英「まぁ、確かに。日本人には珍しくロシア語が使えるし、英語も流暢だ。」

 1か月前にフィンランドからフランスに移住してきている。という事はフランス語も生活に支障のない範囲で話せるという事か?だが、フランスは英語だけでも過ごせる国だ、フィンランドもしかり。英語が堪能なら、まず問題なく、その2つの国で住むことは可能だ。だからこその留学だろう。何にせよロシア語が出来るというのは、ポイントが高い。特に私の連れとなるなら必須だ。

英「でしょう。このまま私達のそばで働いてもらいましょうよ。」

英「お前は怒っていたんじゃないのか?ナタリーとミスりのを合せた事に。」

英「それはそれ、これはビジネスパートナーの事を言っているのです。」

英「ナタリーもビジネスパートナーだが。」

英「ええ、グランド様の特別の。」

 クレメンティはナタリーの事が嫌いだ。まぁ、小さきものを愛する彼にとっては、ナタリーは好きになる要素が一ミリもないから致し方ないが。だが、あのような未発達娘の、どこに魅力を感じて性欲を満足させられるというのか?

英「クレメンティ、私はお前が心配だ。」

英「何がです?」

英「個人的趣味の是正など求めないが、どこの国でも子供に手を出したら罪人って事だけは言っておく。」

英「ミスりのは24歳ですよ。あぁ見えて。」

【指紋認証の確認が取れました。レニー・ライン認証番号、0820140706458,ナタリー・ポートマン様、お帰りなさい。】

 電子機器が二人の帰宅を告げる。クレメンティが騒がしくなったクロークルームへと迎えに行く。まずはナタリーが疲れたと言って入ってきた。そして荷物運搬カートを押したベルボーイが入ってくる。遅くなって当然だ。ベルボーイの背の高さまであるカートいっぱいの紙袋や箱が積みこまれていた。最後にミスりのも疲れた様子で入ってくると、ベルボーイに自身の個室まで運ぶように指示して、そのまま部屋に入り込んでしまった。

露「遅かったな。」

露「ええ、あの子のサイズの服ってなかなか無いのよ。子供服じゃ嫌だって。駄々こねるし。」

 ベルボーイが空になったカートを押して、真辺りのの部屋から出て行く。空いたままのドアから、怒りの表情をした真辺りのが、こちらに一瞥をして強く扉を閉めた。怒りの表し方が、また子供っぽい。

露「ほら、言ったでしょう、ナタリーと意気投合なんてしませんって。」

露「クレメンティ、お前はどっちなんだ。」

露「意気投合なんかするもんですか!もう2度とやらないわよ、こんな仕事っ。」

(十分、意気投合しているではないか、二人共、怒りの感情が。)











 誰もが二人を振り返り見ていく。右肩から腰まで煌びやかな刺繍が、身体のラインに合わせ誂えた黒のワンショルダードレスの、大きく開いたスリッドから見える長くきれいな足。昼の花柄のワンピースとはまた違った大人の気品が溢れている。

 悔しいけれど、言いたくないけれど、綺麗だ。誰もが振り向く、振り向きたくなるのは当然。対外的、対内的にも彼女は、自身を知り尽くしてドレスアップしている。そして、それに負けない出で立ちでいるミスターグランド。身長は高くない。8センチピンヒールを履いたナタリーの方がヒールの分だけ高い。なのに、そのマイナス点をカバー超えする優美なエスコートが目を引く。何か特別の事をしている訳じゃない。ただナタリーに腕を貸し、扉の前ではナタリーを先に行かせる。段差ではテンポを女性に合わせる。誰もがやっている普通の紳士のエスコートなのに、ミスターグランドの振る舞いは、気品という言葉では表しきれない何かがあった。

 悔しいけれど、見たくないけれど、二人に見とれていたら、ドレスの先を踏んでこけそうになった。

英「おっと、大丈夫ですか?ミスりの。」

英「ごめんなさい、ありがとう。」

英「いいえ。」クレメンティさんがとびっきりの笑顔でエスコートしてくれる。

 ナタリーが罵しりたくなるのも当然で、私の身長にあったイブニングドレスは簡単には見つからなかった。いくつもの店を探し回り、何着も試着して、どれも不格好に裾が引きずっていたり、胸のカップとウエストのボリュームが足りなかったり、本来ならセミオーターで調整をしていくのだけど時間がない。ミニスカートは駄目となるとお手上げだった。

 もう行かないって言ったら、ナタリーは、『これは上司からの命令、仕事なのよ。』と言って、変に律儀に譲らない。

 そうして長い時間をかけて探し、ナタリーが苦肉の顔ながらもオッケーって言ったのが、このドレスだった。

英「クレメンティさん。私、行きたくないわ。」

英「どうしてですか?」

英「私はあんな風に歩けない。無様だわ。」

 私のドレスは胸元がシックなパープルから裾へ白に変わっていくオーガンジーのフレアタイプのドレス、本来ならアームダウンしたショルダーが特徴なのだけど、引きずる裾を上げる為に、それを首後ろへ引っ張り、リボンの様にして結んで、すそ上げに成功させた苦肉の策のドレス。それでも歩き方を注意しないと今の様に踏んづけてしまう。

 肩を出して、谷間をちらりと見せるぐらいがこのドレスを最大限に生かすデザインなのに、これを作ったデザイナーは今の私の着こなしに怒るだろう。

英「そんな事ありませんよ。ミスりのは、とてもかわいいです。」

英「ほら、綺麗じゃなくて、かわいいでしょう。それは子供が喜ぶ言葉よ。」

英「ええ、そうですね、綺麗はミスりのには当てはまりません。でも言って欲しいですか?あなに似合わない言葉を。」

英「うーん・・・」

英「綺麗ばかりが好まれるわけじゃありません。【かわいい】は日本の文化ではありませんでしたか?」

英「ええ、だけど、私は嫌いなの、その日本が。」

英「そうですか・・・だけどミスりの、あなたは可愛い。私は心からそう思います。私はあなたに会えた奇跡を神に感謝します。」

 私の手を取り甲にキスをするクレメンティさん。もうこれ以上の駄々は駄目だと自分に言い聞かせる。

英「クレメンティさん、私・・・」

英「ミスりの、あなたはグランド様の客人です、クレメンティと呼び捨てください。今夜は私が責任をもってエスコートします。」

英「ありがとう、クレメンティ。」

英「どういたしまして、さぁ参りましょう。」











 イスラム建築の集大成、色とりどりに緻密で繊細なアラベスク模様が施されたドーム型の天井から降り注ぐ光は、ここを訪れる人のステータスを数段階アップさせる。黄金の使い方が半端ないが、ここが世界有数の石油産出国でレニー・ライン・カンパニーの大陸支部中売り上げ一位の実績を50年続けている中東なら、当然の施しだ。目に入る物すべてが、贅沢で美しい。

 今日はレニー・ライン・カンパニー・中東の代表、レニー・サルマンの就任パーティである。オランダの世界統括本部の承認が降りたのは1か月前、世界にそれを公表してからの、今日の日取りとなった。就任のパーティは、それぞれが個人的にやるもので、全大陸支部が代表の座に就任する際に必ず行うものではない。それは大陸支部の趣旨や個人の思考により、行う、行わない色々だ。

 私は、こういうのはただ自己満足でしかないと思っている。身内を招いて盛大にパーティを開催したところで、何も得る物はない。

 私が1年前に代表の座に就いた時には、パーティなど開かなかった。6つの大陸支部に挨拶状を送って終わりだった。前任者はわずか2年を務めての交代だった事もあり、無駄な誇示は逆効果と考えたのもある。他大陸からみれば、私の代表就任は【棚から牡丹餅】的な様相に見えただろう。期間は予想外に早まったが、すべて、何年も前から策略した結果だ。まだ世界戦略半ば、私のアジア大陸代表の就任は足掛かりだ。

英「7つの大陸支部代表は、初代着任者の名前を代々受け継いでいきます。ですから、前任者も同じ名前なのです。」

英「じゃ、レニー・サルマンが名前ではなくて、名称みたいなもの?」

英「そうです、そのあとに続くのが、その方の個人の実名。」

英「あの方は、アヴドゥーラさんというのね。」

英「そうです。」

英「日本の氏名と同じね」

英「そうですね、日本人も後ろが個名ですね。」

 クレメンティが真辺りのに、わが社の歴史ある仕組みを説明している。真辺りのの学力を知った後では、些細な仕草が知的な動作に見えてくる。

英「海賊時代から続くレニー・ラインが、世界のどこに行っても、名前を言えばどこの大陸支部の人間かをわかるようにしたのが始まりだと聞きます。レニー・ライン・カンパニーの創業地でもある世界統括本部はオランダにあり、統括するヨーロッパは、レニー・ラインの名前を継いでいきます。今の世界統括総代表はレニー・ライン・ジョバンニです。」

英「他の大陸の名前は?」

英「北アメリカはレニー・ローガン。南アメリカはレニー・ジョゼ。オーストラリアはレニー・ルーク。アフリカがレニー・マンデラ。そしてアジアがレニー・コート。」

英「グランド・佐竹さんは、和名の佐竹が氏で名がグランドね。」

英「私のは、少し違っていてね。グランドも佐竹も氏だ。」と二人の話に加わり補足した。

英「どうして?名は?」

 私を見上げる顔に貪欲さがうかがえる。なるほど、この娘は、知識への好奇心が強い。

英「アジアの仕組みは、他大陸より少々複雑でね、和名を残しておいた方が、何かと都合が良いと考えてね。」

英「へぇ。」

 真辺りのは頷きの後、次の好奇心を探して周囲へ顔を走らせる。何かを見つけ指差し質問する仕草が子供のようだ。クレメンティが屈んで耳を傾けるのが、更に彼女の子供さを強調した。

(不思議な娘だ。子供と大人の両面を持つのは、武器になるやもしれない。)

 私は真辺りのの経歴を、頭の中で反芻する。

 父母共に日本人、光菱商事に勤める父、芹沢栄治の海外赴任により、彼女が5歳と8か月の時にフィンランドのロシアとの国境町キルギスに移住。その時に英語とロシア語を習得。フィンランドの国政による国際教育法により、学校教育現場では英語を公用語としていた為、フィンランド語は話せず文法理解だけとなる。5年後、またも父親の海外赴任によりフランスへと移住、フランス語を習得。2年後に日本に帰国、東京在住時、彼女の11歳の誕生日の翌日、父、芹沢栄治が通勤時間帯の電車車両に飛込み自殺。うつ病を発症していたとの調べ。鉄道会社は、故芹沢栄治に三億二千万円の損害賠償金を請求。芹沢栄治の名義財産は、損害賠償金にあてられ、遺族の妻、芹沢さつきは負債遺産放棄の為に離婚、娘と共に旧姓真辺性となる。その2年後、14歳の時に常翔学園にて私と出会い、盗品の美術品を見られ、取引の会話を聞かれてしまった為に、殺せと部下に命じたが、愚鈍な部下は失敗。柴崎凱斗により真辺りのは一命をとりとめる。日本の階級制度の一環である華選の称号を16歳にして取得、制度のシステムにて両親の戸籍から外れる。その後、母真辺さつきは再婚し村西姓となり、真辺姓は彼女一人となる。

 中々の波乱の人生であり、父親の自殺後、精神病も患っていた。その患いが成長の阻害になったと考えられる。

阿蘭陀「ミスター・コート・グランド・佐竹、1年ぶりだな。」

 呼ばれた声に私は、ワザとゆっくりと振り向いた。この美しき空間を、その濁声と風貌で汚す主は、レニー・ライン・カンパニー世界統括本部の幹部、ヘンドリック・ローレンツだ。主だった功績など無いくせに、前任幹部に諂い幹部にのし上がってきた男。今では人事承認の評議権を持っている為に、大陸支部の各代表よりも大きい態度をとる。まぁ、この者に限らず、オランダの世界統括本部の人間は誰しもが傲慢で、レニー内は、オランダ至上主義が蔓延っており、オランダ語が主言語であった。

阿蘭陀「ご無沙汰しております。ヘンドリック・ローレンツさん。」

阿蘭陀「どうかね、アジアの状態は。」

阿蘭陀「ええ、まぁ、何とか。」

阿蘭陀「良かったよ。大連の血筋をやっと代表から退く事が出来て。よくやってくれたよ、君は。」

 腹の底で失笑した。大連の血筋はまだ残っている。アジアにおいて、大連ほど根強く血濃いものはない。

阿蘭陀「君には大いに期待している。一掃したアジアの今後をな。」

阿蘭陀「はい、ありがとうごさいます。」

英「おっとこれは失礼、レディ。」

 ヘンドリックはナタリーににやけた顔を向けた。女の手を握りたいだけで、言語を変えるエロさが醜い。

英「ナタリー・ポートマンです。コート・グランド・佐竹の秘書です。お見知りおきを。」

英「お美しい、ミスナタリー。」

英「ありがとうございます。ヘンドリック・ローレンツさん。」優雅に色気を出すナタリー。

阿蘭陀「羨ましい限りだな、グランド。」嫌らしい顔を寄せてくるので、息を止めて一歩下がった。

阿蘭陀「ヘンドリックさんほどではありません。耳にしますよ。氏の奥様はお綺麗だと。」

阿蘭陀「誰がそんな事を、ははは、私の妻など・・・うん?この子は?」

 ヘンドリック氏が真辺りのの存在に気づき、見下ろす。

阿蘭陀「私のゲストです。知人の子で、社会勉強にと同行させています。」

 適当な口実を並べた。ごもっともらしい単語を並べておけば、対して興味も持たれず、状況に流す事が出来る。

阿蘭陀「ほう、勤勉な子だな。日本人だね。」

 オランダ語が分からない真辺りのは先ほどから、我々の会話を面喰う様子で見比べていた。

阿蘭陀「お褒め頂いて恐縮です。ミスターヘンドリック。」

(えっ!?)

阿蘭陀「ほお、オランダ語を話せるのかね。」

阿蘭陀「はい。少しだけ、発音が変かもしれませんが。」

阿蘭陀「いやいや、十分流暢だ。」

 ヘンドリックの褒めはお世辞でもなく、真辺りののオランダ語は、普通に流暢だった。クレメンティもナタリーも驚愕に目を見張っている。

阿蘭陀「ありがとうごさいます。自信がつきます。」

阿蘭陀「わが社を選んだのは、とても思考が高い。どこの学校かな?」

阿蘭陀「フィンランドのヘルシンキ大学です。博士課程を取るのに、困っていまして、グランド氏の元でビジネスのありかたを学んで、それでレポートを書こうと思いまして。」

阿蘭陀「大学生なのか!?あぁ、これは失礼した。アジア人は若く見えるんでね。」

阿蘭陀「ええ、良く驚かれます。」

阿蘭陀「そう、なるほど。経済学の博士とは、それは、それは大変だ。」

阿蘭陀「ええ、教授が厳しくて、中々、取れません。」

阿蘭陀「君の様な勤勉さであったら、すぐに取れるだろう。就職はぜひ、レニー・ライン・カンパニーへ。」

阿蘭陀「あら、内定を頂いたと思っていいのかしら。」

阿蘭陀「あははは。いいとも、いいとも、私は人事権をもっているからね。」

阿蘭陀「それは心強いですわ。励みになります。」

阿蘭陀「あぁ、励みたまえ。」そこで別の幹部に呼ばれて会話が中断する。「すまない、お嬢さん、私は行かねばならない。」

阿蘭陀「はい、お会い出来た奇跡を、未来の糧にいたします。」と大人びた微笑でヘンドリックに握手を求める真辺りの。

 無邪気な学生であった口調を一変して、大人の魅惑を含む雰囲気を出す。彼女も意図してやっている訳ではなさそうだ。ヘンドリック氏もわずかに驚いて、握手の手をためらう。

阿蘭陀「あ、ああ。」

阿蘭陀「また、お話できる日を望んでおります。」

阿蘭陀「グランド・佐竹君も、またの日を。」

 調子の狂った別れの挨拶をして、我々から去っていくヘンドリック氏と、私もまた、歯切れの悪い返事をして見送った。

そして、このような妙な空気を作った真辺りのへと、私は視線を向けた。











 ほっと胸をなでおろした。久しぶりのオランダ語は、思いのほかちゃんと話せた。しかも流暢だと褒められたのは素直にうれしい。

 持っていたグラスのシャンパンを飲み干した。

(あーこれも美味しい。良かった、来て。)

 このパーティ会場は、色々な言語が飛び交う。耳が刺激されて、高揚する。

英「ミスりの・・・」

英「はい。」

 呼ばれて振り向けば、ミスターグランドの表情が険しい。クレメンティもナタリーまで。

英「君は・・・」

 はっと我に返る。出過ぎた真似だった。

英「ご、ごめんなさい。その、ミスターの話に合わせたつもりだったの、駄目だったかしら。本当の事を言ったらここから追い出されちゃうかもと思って、年齢詐称をするつもりはなくて。日本人って若く見られがちだし、特に私は、身長がこんなだから、学生で通した方が信じられやすいと思って。」

英「ふ・・・あはははは。」

英「えっ?」

英「いや、いい。そうだ、よくやった。」

英「な、何なのよグランド・・」とナタリーは私に睨みの表情を残し、肩を竦める。

 

英「氏は信じていた。」

英「ええ、帰ったらレポート書かなくちゃ」

英「あぁ、そうしてくれ。私が博士課程の認可を出そう。」

英「よろしくお願いします。教授。」

 どうやらナタリーはオランダ語が分からないらしい。私達のジョークがわからないナタリーとクレメンティは、きょとんとしていた。

 かつて、私を殺そうとしたミスターグランド・佐竹は、驚いたことに、声をかけられる度の違った言語に、すべて応対して話した。そのどの言語も普通に流暢だった。私の中で下がったエロ親父評価は撤回してV字回復する。そして、悔しいかな、やっぱり二人は目を引く存在だった。皆がミスターグランドの所に来ては挨拶をして、見栄えの良いナタリーに鼻を伸ばしていく。

一通りの挨拶が終わった時、私はフロアの片隅で休憩しながらクレメンティに語り掛けた。

英「ねぇ、クレメンティ、」

英「はい、何でしょうミスりの。」

英「ミスターグランドは、一体何か国語を話せるの?」

英「あぁ、えーと・・何か国になりますかね、数えたことがありません。数えてみましょうか。」

英「まずは、英語でしょう。」

英「はい、」

英「日本語とロシア語、フランス語を話すのは知っているわ。」

英「ええ。」クレメンティは指を折って数えていく。

英「そしてオランダ語とポルトガル語。」

英「はい、あと、フランス語も出来ます。これで6カ国。」

英「そうなの?あーじゃフランス語で話せばよかったわ。私ロシア語よりフランス語の方が好きなの。」

英「おや、ミスりのもフランス語を話せるのですか、ミスりのもグランド様と負けないぐらい数多くの言葉を習得していますね。」

英「私は、そうね、それが私の特技。で、他は?ミスターグランドの話せる言葉。」

英「他はドイツ語に、スペイン語に、イタリア語に中国語・・ですね。」

英「そんなに!?それも中国語まで。」

英「ええ、ヨーロッパ諸国の言語はすべて会得していると聞いています、実際に話されているのを拝見した事はありませんが、本当に尊敬するばかりです。どれも普通に流暢ですからね。」

(凄い!)ヨーロッパ諸国をすべてとなると15は超える。クレメンティが尊敬するのも無理ない。

英「ちなみにクレメンティは?」

英「私は、英語とロシア語と、ポルトガル語の3つだけです。」

英「それでも凄いわ。」

英「いえいえ、現在、中国語の勉強中です。ですが、中国語は難しい。」

英「ええ、私も中国語だけは中々だわ。聞き取れても発音が難しいの。」

英「ええ、その通りです。」

英「ミスりのは、フランス語を合わせて、5カ国語ですか?」

英「ええ、あとドイツ語が少し。」

英「6カ国!グランド様に匹敵するではありませんか。」

英「そうかしら。私も数えた事がなかったわ。」

私のは、勉強しなくても、ただ、その国に1か月も滞在していれば、自然と話せるようになってくる。それが私の特技、華選の称号の認証項目である。

私の夢は、世界を周り、全世界の人と話す事、世界各国で友達を作る事。

胸が高鳴った。

(私は今、その夢の中に立っているではないか!)

レニー・ライン・カンパニーという世界流通企業の中枢で、ミスターグラントの側に居られれば、その夢はごく簡単に叶う。

ごく簡単に・・・その言葉が、私の胸の高鳴りを萎めていった。

(逃げてきた私が、簡単に夢など叶えていいのだろうか?)













 主催者が手配した送迎の車、リムジンが静かにドバイの夜街を走る。

 真辺りのは疲れたのか、はたまた酒は強くないのか、車が走り始めてすぐに、欠伸を一つすると、うとうととし始め、クレメンティが頭を寄せるように抱くと、そのまま眠りに落ちた。

露「ありえないわ、レディが欠伸して、眠るなんて!」

真辺りのに出し抜かれた感のあるナタリーは、この上ない不機嫌で貶す。

露「まぁ、まだ子供だ。大目に見ようではないか。」

露「24でしょう!何が子供よ!立派な大人じゃないのよ!」

露「昼間と違う認識だが?」

露「知らなかったもの。この小娘が24だなんて、それに何なのよ、オランダ語も話せるですって!どこから来たのよこの子。」

 ナタリーの認識が無茶苦茶だ。ナタリーは自分より出来る女が嫌いだから無理もない。そのプライドの高さが、彼女を作ってきたと言っていい。だから、マルコス・エンゲルス学校の成績優秀者となりスパイ養成にも選ばれたのだ。

 ヘンドリック氏とオランダ語での挨拶をした後、次々と彼女に話しかける者が現れた。おそらくヘンドリック氏がお節介にも、日本人の学生が来ていると吹聴したのだろう、珍しがって彼女に声をかけ、そして彼女もまた、それに臆することなく堂々と対応した。真辺りのは6カ国語を話せると、クレメンティから誇ったように告げられた時、真辺りのの生涯データーにあった華選の認定項目の欄に言語取得能力とあった事を思い出した。中々に興味をそそられる。更に、彼女の話術にも感心を抱いた。話す内容は多岐に渡り、学力を裏切らない知性がある。容姿とのギャップに皆が驚き、何よりも、相手の知識を引き出す上手さが、真辺りのにはあった。知らない知識を知った時の輝く目は、相手の自尊心を駆り出させる。それをとても自然に会話の中に織り交ぜ、相手の自尊心を上げ満足させ、なおかつ自身の欲望をも満たす。話術の才とでも言おうか、色気はないが、それで相手を口説き落とせるスキルが、真辺りのにはあった。

露「グランド様の古いお知り合いの様ですよ。」

(言わなくてもいい事を・・・)

露「どういう事よ!」

 つり上がった眼で私を問い詰めるナタリー。

露「まだ日本の大使館にいた頃に、見知っただけだ。」

 意味深なジェスチャーをするクレメンティを見たナタリーが、更に私を睨む。

露「大使館って、ずっと昔でしょ。あの子まだ本当に子供だったじゃなんじゃない?」

露「あぁ、子供だった。まだジュニアハイスクールの1年生だったな。」

露「ジュニア一年って!見損なったわ。グランド。あなたにそんな趣味が?」

露「クレメンティと一緒にするな。ミスりのは、柴崎凱斗の学園の生徒だ。その関係で見知っただけだ。」

露「そういえば、カイは今どうしているの?最近会ってないわ。」

露「日本で忙しくしている。しばらくはこれないだろう。」

露「そうなの?残念だわ。」

 日本で起きたテロは、パーティの場でも話題になった。すべての質問に調査中ですと私は答えて、クレメンティはもちろんの事、真辺りのにも、何も言うなと事前に念を押していた。彼女はそれを堅実に守り、よくわからない学生を演じきっていた。その演技も称賛する。口の軽いスパイなどありえない。演技の下手なスパイもだ。わからないと口で言っておきながら、表情でバレる事が素人ではよくある。それが、彼女には見る限りなかった。

 真辺りのは、最高の女スパイに成りえる。そう確信した。











 時計を見ると8時を少し過ぎていた。窓からまぶしいぐらいの光が差し込んでいて、日の出から今の時間まで起きなかった自分に驚く。昨日お酒を飲んだからだろう。いつもは眠りが浅く夜明けと同時に目が覚めるのに。

 脱ぎ捨てたドレスが床に渦巻いている。他にも、昨日買い物をしたままの紙袋や箱がそのまま置かれていて、新しく開けた化粧品の空き箱もドレッサーの上に放置のままの酷いありさま。これを3日後には片付けて、スーツケースに詰めないといけないと思うとぞっとする。私は昔から片付けが苦手だ。部屋はいつも本や物であふれていく。

「スーツケース、もう1個、要るかも・・・。」

 昨日のパーティは楽しかった。参加して良かったと思う。ナタリーが拘ったドレスコードの意味もよくわかった。誰もスーツなんて着ていなくて、女性は皆イブニングドレスだった。男性はモーニングの白タイ正装。男女共に身に着けている宝石の大きさに目を奪われた。車列はリムジンばかりだったし。それに何といってもパーティ会場のホテルの豪華さの凄いこと。ドバイには、こことは別にもう一つレニー・ライン経営のホテルがあり、ここより離れた海沿いの地にある。その名もレニー・ライン・ドバイリゾートホテルはとても広くて、トイレでフロアを出た後、クレメンティの所に戻れなくなったほど。イスラム建築の細密なデザインに織り込む黄金がまぶしく、見る物すべてが夢のような世界。こうして朝を迎えると本当に夢だったのでは?と信じられないほど。しかし、渦巻くドレスの脱ぎ捨てが、現実だと教えてくれる。何かと喧嘩腰になってしまうナタリーだけど、ナタリーが買い物に同行してくれなかったら、それらは経験できなかった事だ。素直に感謝しなくては、と思い、着替えて居室に出ると、ナタリーだけが居なかった。昨晩は、一緒に帰って来て、彼女はミスターグランドの部屋に入っていった。ミスターグランドも、クレメンティに二言三言の仕事の話をした後、追って部屋へ。愛人だから当然だけど、がっかりした。素晴らしかったパーティの感想を話したかった。名残惜しさが募ったまま、私も部屋に入り眠ってしまった。

英「おはようございます。ミスりの。」

 朝の一時間は使い物にならない低血圧のクレメンティが、ハキハキと挨拶をするという事は、クレメンティは起きてから一時間以上の時間が経っている。ミスターグランドと共にビジネスモードだ。

英「おはようごいます、ミスターグラント、クレメンティ。」

英「おはよう。」

 タブレットを手にミスターグランドは、こちらを見ずに声だけで挨拶を交わした。

英「よく眠れましたか?ミスりの。」

英「ええ、とても。」

 クレメンティは立ち上がり、食事はどうしますかと聞いてくる。二人は、下の喫茶で済ませたという。昨日、ここに食事を運ばせたのは、情報収集の為にパソコンと電話の前から離れられなかったからで、普段は階下のレストランで済ませていると聞く。

 だから、私も喫茶店に行くと言って、クレメンティのコーヒーを断った。

英「ナタリーは?」

 クレメンティに向けた質問だったが、知らない風で首を横に振り、代わりにミスターグランドが答えてくれた。

英「ナタリーは食事の後、仕事で出かけたが、何か用か?」

(もう、仕事へ・・結構ちゃんとしてるんだ。)

英「別に用ってほどじゃないの。帰って来てからでいいわ。」

 そうして食事に行こうとしたら、呼び止められた。

英「ミスりの、今日の予定はどうなっている?」

英「予定?何も決まっていないわ。」

英「昼から、私に付き合って欲しいのだが。」

英「ビジネス?」

英「まぁ、そうだな。」

英「服は?スーツを着た方がいいのかしら。」

英「いや、普通でいい。」

英「OK。」

 昼からの時間を拘束されてしまったから、ドバイ観光は出来ない。といっても昨日のお酒が身体に残っていて気怠く、どこかに行く気にならない。午前中はホテル内でゆっくりと過ごす事に決めた。クレメンティが私に気遣ってビジネスの手を止めるので、なるべくレセプションルームには行かず、喫茶店で新聞を読んだりして過ごした。











露「本当に行かないのか?」

露「はい。」

 パソコンから眼を離さず即答するクレメンティ。

露「私の所に来て一度も会っていないのではないか?」

露「それ以前より会っていません。」

露「だったら、いい機会ではないか。」

露「いいえ、もう今更でしょう。」

露「立派な姿を見せてあげればいいものを。」

露「グランド様からそのような、慈悲深い言葉が出るとは珍しいですね。」

 パソコンからやっと手も視線も外したクレメンティが、少々うがった顔を向けてくる。

露「・・・・」

露「すみません。言い過ぎました。」視線を外して俯く。「私が行けば、あのお方は心休まらない。」

露「そんな事はない。彼女は立場も心も強い女性だ。だからこそ、お前を私に頼むと言って来たのだ。」

露「ええ、分かっています。あの方の心は優大です。だからこそ、私などに気をかける時間など少しもあって欲しくはない。そう、とても感謝しているからこそ、です。」

露「・・・そうか。」

露「すみません、グランド様にも気を使って頂き。」

露「いや、悪かった。彼女にはそのように伝えておこう。」

露「その言葉も、煩わしいでしょう。」

 私の視線から逃げるように、パソコンの画面に戻し、カチャカチャと打ち始めるクレメンティ。

 午後からドバイ郊外にあるネイサン・メイヤー・ロスチャイルド家の屋敷に訪問する予定でいた。

 19世紀から20世紀にかけて、ヨーロッパ金融界で君臨した創設者ロスチャイルドの5人の子供のうちの3男系列にあたる。

 ロスチャイルド家は、アメリカのドルの通貨発行権をもっている権力者一族、その一族の三男系統の屋敷がここドバイにある。

 クレメンティは前当主アンソニー・ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの嫡子である。だが自らロスチャイルド家の嫡子を放棄したクレメンティの立場は複雑で、屋敷に足が向かないのも理解できる。

 前当主アンソニー・ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが六十路、気まぐれに立ち寄ったバーでビアノ弾きをしていたクレメンティの母を一目ぼれし、金に物を言わせ愛人にした才に出来た子が、クレメンティだ。クレメンティの母親はクレメンティを身籠ると、アンソニーの元から姿を消した。世界規模で莫大な権力を持つロスチャイルド家の相続問題に混乱きたす元凶になると危惧したからだ。

 クレメンティ自身、その身の上、血筋を知らずに母親と二人、ポルトガルで育つ。しかし、彼が22歳の時、母親は乳がんで他界。その2年後、アンソニー・ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドもまた、肺がんにより余命宣告を受け、かつての愛人であるクレメンティの母親の所在を探すよう弁護士に命じた。すでに死亡していた愛人が、自分の子を産んでいた事を知ると、クレメンティを嫡子として迎える事にしたが、実子や一族からの猛反対を受ける。だがアンソニー・ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは強引に嫡子の手続きを済ませ、ドバイのロスチャイルド家にクレメンティを迎え入れ、3ヶ月もしない内に死亡する。5分の一とは言え、小国の国家予算並みの遺産を手に入れたクレメンティは、その直後よりひどい嫌がらせを受けた。時にそれは命の危険が及ぶこともあり、見かねたエドワード・ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの妻、イザベル婦人がクレメンティを匿った。

 イザベル婦人は、イギリスの侯爵家の爵位を持つ貴族の娘である。貴族の娘との結婚は、金融界の成り上がりと言われるネイサン・メイヤー・ロスチャイルド家の格を上げた為、イザベル婦人の一族での存在は、長兄の妻と言う立場と相まって強い。クレメンティはイザベルの庇護の元、ロスチャイルド家の資産管理の仕事をしていたが、イザベル婦人とのあらぬ噂を立てられて、自ら遺産を一族に返還し、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド家の嫡子放棄の手続きもして、私の所に来る事になった。今から約13年前の事である。

 私の所に来た当初、クレメンティはビジネスのいろはも知らない青年であった。











 午後一時にホテルのエントランスへと言われて、約束通りに下へ行ってみると、クレメンティのそばに派手な黄色いスポーツカーが停車していた。車に詳しくない私でも知っている羽馬のマークがついた車高の低い車で、クレメンティはにこやかに扉を開けて待っている。

 これからビジネスだというのに明らかに場違いな車と、近くに居ないミスターグランドの姿に、私は首を傾げ聞いた。

英「どういうこと?」

英「何がですか?」とクレメンティの相槌に答えるように、車のエンジンがかかる。車内を覗くと、ミスターグランドが運転席に座り計器を触っていた。

英「え?ビジネスじゃぁ?」

英「そうだ、ビジネスに遅刻は許されない。早く乗れ。」

 促されて、慌てて低い車に身体を入れたらドアの縁で頭を打った。

 二人に苦笑される。

英「では、行ってらっしゃいませ。夫人によろしくお伝えください。」

英「あぁ、留守を頼む。」

英「畏まりました。」

 クレメンティが姿勢よくお辞儀をすると、車は高いエンジン音を発して走る。

英「ミスター。」

英「何だ。」

英「この車はレンタカー?」

英「いや、私個人のだ。私は、家は所有しない主義だが、車だけは世界の主要都市に何台か所有し置いてある。この車はそのうちの一台だ。」

英「個人の・・・そう。」

英「何だ?」

英「いいえ何も、とても素敵な車。」

英「ミスりの、昨日で君のポーカーフェイスを見切った。正直に言いなさい。」

英「似合わないわ。そのスーツと車が。」

英「ははは、分かっている。少しでも動かしておかないと車は機嫌を損ねる。女の様にね。」

英「ナタリーみたい。」

英「ははは、そうだな。ナタリーは確かに、このフェラーリの気質に似ているな。」

英「プライドが高い。」声が重なって笑った。

英「もしかして、クレメンティは、私があなたに同行するから留守番になっちゃったの?」

 この車は二人乗り、後ろにエンジンがあるらしく、後方からの高い音がちょっとうるさい。

英「いいや、元より私一人の予定だ。」

英「そう、良かった。」

英「ミスりのは、気にしすぎだな、もっと女の特権に堂々とすればいいものを。」

英「堂々と・・・しても背は伸びないの。」

英「あははは」

英「だから、小さいのを特権に人の隙間に居る方が楽なのよ。」

英「もったいないな。語学と知性があるのに。」

英「そうね、子供の頃は、世界中だけじゃなく宇宙人とも友達になるというのが私の夢だった。」

英「過去形なのは?」

英「・・・・叶えられない沢山の理由があり過ぎる。」

英「理由は、ただの言い訳だ。踏み出さない自分を納得させる為の。」

英「そう・・確かにそう。」

 思い込みで済ますには、重すぎる私の過去。慎一に託して逃げておきながら、自分だけが先に夢を叶えては、あんまりだ。

英「でも・・・。」

英「昨晩のミスりのは、その夢を叶う術を持ち合わせていた。」

英「そうだわ、お礼を言ってなかった。ありがとう。私をパーティに誘ってくれて。」

英「礼など必要ない。言ったであろう。女の特権に堂々としていろと。」

英「パーティに参加するのは女の特権?」

英「そうだ。優美な女のな。」

英「優美の言葉に程遠い姿だったわ、私。」

英「優れた知性は、容姿を超えた美を醸し出す。」

英「それ、喜んでいいのかしら?」

英「もちろん。」

英「何だか複雑。」

 ミスターグランドは素敵な微笑をし、運転に集中する。

 海沿いの道に出た。海の青と空の青に白い雲が浮かぶ。椰子の木が海風に靡く。この地に似合った建物が視界の後方を飛んでいく。  確かに、この黄色い車はドバイの道にとても良く似合う。窓を開けてもいいというので開けると、潮風を含んだ暖かい風が顔をうつ。湿度がなく、からっとした気候が気持ちいい。ミスターも運転席の窓を開けて、しばらく無言のドライブが続く。車はミッション車だった。シフトレバーを動かしているのが珍しくて、ミスターグランドの手元と横顔ばかりを眺めた。

 海岸線にクルーザーやヨットが並び始める。流石はドバイ、あれら全てが個人所有だと、旅行ガイドの知識で得ていた。カラフルな色合いは見ているだけで陽気にさせる。

 何分かぶりにミスターグランドが声を発する。

英「ミスりの。」

英「はい。」

英「3日後、我々は船に乗る。」

英「船?」

英「レニー・ライン・カンパニーアジアが所有する豪華客船パール号、アジアを周航する船だ。」

英「世界の三大豪華客船の一つね。レニー・ライン・カンパニーが持つ3つの豪華客船を乗り継ぎすれば、世界一周豪華客船の旅ができる。」

英「よく知っているな。」

英「昔、その豪華客船が横浜に来たって、ニュースをやっていたのを見たの。でも船で移動だなんて、えらく優雅ね。」

聞けば、その船もホテルと同様のレニー幹部だけが使えるエグゼクティブルームがあって、仕事ができる環境は整っている。通信システムの向上により、アジアに居なくても、十分に仕事はできるのだという。そして、世界に誇る豪華客船に世界の要人を招待してのビジネスは、新たな接待方法として有効かつ好評だという。

英「3日後の夕刻、パール号はドバイを出港し、約1か月をかけて東南アジア諸国を周り、日本の横浜を経由して香港が最終着港だ。」

英「横浜・・・。」

 もうすっかり、自分が何の目的でここに居る事になったかを忘れていた。

 日本の危機に友人を心配して、情報と日本に行く手段を手に入れる為に、私はミスターグランドについて来たのだった。だけど、その必要性が薄れた今、横浜と聞いて、また、日本から逃げたい心情が復活している。

英「長く、そして重要なビジネスだ。ミスりのはどうする?」

英「どうする?って・・・。」

英「クレメンティが、君と船に乗る事を切に願って居てね。」

クレメンティがと言われ、がっかりする自分。

(ミスターグランドは願っていないのだろうか・・・。)

赤の信号で車はゆっくり止まってから私へと顔を向け、眉の動きだけで答えを促された。こういう間の取り方が絶妙だ。人を色んな意味でドキリとさせられる。

英「ミスターグランドは?」

 そう、小さくつぶやいた声は、海鳥の泣き声で消されたようだ。ミスターグランドは海鳥に視線を送り、変わった青信号を視認して、シフトレバーを動かし車を走らせた。

 この誘いは紛れもなくチャンスだ。なのに、私は何故か、イエスと即答できなかった。

これ以上一緒に過ごせば、私は確実にミスターグランドを好きになり、離れたくなくなる。

 夢を叶える大チャンスを、掴むことに躊躇する。躊躇の理由をずくに頭の中で並べられるほど沢山ある。

 言い訳だ。

 掴むのも、掴まないのも、言い訳が要る。3日後の先、自分はどの言い訳を選択し、どこへ向かえばいいか?を迷う

英「ごめんなさい、すぐに答えられない、考えさせて。」

 ドバイの風景は考え事をするには不向きだった。何も考えられずに陽気な景色と乾いた風を受けて、車は海沿いの道から交差点を一つ曲がった。左右に大きな屋敷ばかりが目に付きはじめる。そして、一際長く続く白壁の、やっと切れ目となる大きな門の前で、車は停まった。ミスターは携帯電話で誰かと話すと、その大きな門が自動で開いた。ミスターは再び車を動かし、その門の中へと入っていく。自然公園のような広い庭園が広がり、まるで小人になったような気分にさせられる中を車はゆっくり走る。

椰子の木や南国の花々が綺麗な庭園を抜けて開けて見えたのは、自分の視界限界を超えて横に長い、絵に描いたような宮殿だった。その宮殿内の噴水をぐるりと半周したエントランスホール前で、車は止る。

英「ここは?博物館?」

英「個人宅だ。」

英「えっ・・・。」

 私が唖然としていると、ミスターが車の扉を開けてくれ、エスコートされるがままに車外に出た、柱の太さや大理石の艶やかさなどの金細工の豪華さに圧倒される。昨日のレニー・ライン・ドバイリゾートホテルよりもずっと豪華だった。

英「ミ、ミスター、ぐ、グランド、わ、私、こんな恰好で来て、駄目だわ。着替えに出直さないと。」裏返る声。

英「構わないと私が言ったのだ、気にするな。」

英「で、でも・・・これは、場違いだわ。あまりにも・・・帰るわ。」

英「女の特権に堂々としろ、何度も言わせるな。」

 後ずさりした私の腕を、捕まえられて引っ張られる。

英「何のビジネスなの~。」

 宮殿のような個人宅をビジネス目的で訪問するには、私の格好はあまりにもカジュアルすぎた。サブリナパンツにストライプのノースリーブのシャツ、襟がついているだけマシと言うにはあまりにもお粗末だ。

 ミスターグランドは、嫌がる私の手を引いて進み、勝手にドアを開けて入った。内部も予想を裏切らない豪華さで、私がすっぽりと入るぐらいの大きな壺が、豪華な装飾をした螺旋階段の脇に置いてあって、大きな観葉植物の下にはそれだけの為に敷かれたペルシャ絨毯がある。

 私達が使っているホテルのスイート全体が入るぐらいの面積が、ただの玄関フロアだなんて、もう泣きそうなぐらいに私の知識を超えていた。出迎えが誰も居ない。ミスターグランドは慣れた風で、声もかけず玄関を突っ切り奥へと入っていく。

随分遠くの奥から扉が開く音が反響した。

英「よく来たわね。」

 近くまで来たその人は、ふくよかで、白髪が金髪に混じる婦人だった。

英「ご無沙汰しています。ミセス、イザベラ・ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド。」

英「元気そうね。」

 二人がハグをして挨拶を交わす。

英「はい、クレメンティがよろしくと。」

 クレメンティが出かけによろしくと言っていたご婦人は、外見からも内面からも品の良さがにじみ出ていた。そして、ロスチャイルドと言う名に覚えがあったが、記憶を探しあてる間もなく、婦人の視線が私に向く。

英「あの子も来ればわかったのに・・・・あら可愛らしいお嬢さん。」

 ミスターが何も言わない、自分で挨拶をしろという事だろう。

英「真辺りのと申します。初めまして。」

英「イザベラよ。日本人ね。」

英「はい。今ミスターグランドの下で研修を」

 会話の途中でミスターグランドが割って入った。

英「ミセス、エドワード氏はいつもの所ですか?」

英「ええ、そうよ。カルロスも一緒に待っているわ。」

英「わかりました。」

 そういうと、さっさと奥へと歩いていく。

英「えっ、あ、ちょっと私まだ・・・」

 ミスターは歩くのを止めずに振り返りつつ叫んだ。

露「ミセスイザベラ、彼女はロシア語が堪能です。会話相手にどうぞ。」

露「あら、あなたロシア語も話せるの?珍しいわね。日本人で。」

露「あ、は、はい。」

「当然日本語も話せるのよね。」

 驚いた事に、ご婦人は、片言だけど日本語も話せた。

「は、はい」

「懐かしいわ。日本語もロシア語も。女の子も。何年ぶりかしら。」

 ミセスイザベラは、私をギュッと抱きしめた。






















【レベル7の国家非常事態厳戒体勢を布き、国内外に混乱を招いた日本国でしたが、一日が経ち、全国の国際線空港のフライト便が通常の運航に戻った事を期に政府は、国家の安全を強調した宣言をし、今回のテロ事件の真相開明と静定を速やかに対応する事を、世界にアピールしました。これに伴い、神皇家の閑成神皇は、京宮で起きた事件に巻き込まれ失った尊い命の冥福と国民の安寧を、精魂を込めて尽くすとおっしゃいました。また国民の総意に国家の変革が求められるのであれば、審理承認は速やかに対応するとも話され、これにより事実上、華族制度の法改正の承認を得た見込みとなると、宮内庁及び各所は見識を広げております。これに対して藤木官房長官は閑成神皇様のお言葉に対して、華族制度の法改正が神皇様の心意ではなく、あくまでも国民の総意を受けられてのお話であり、今すぐ改正というのは事実上難しく、明治維新以降、長きにわたり続いていた制度の変革には、年密な時間と議論が必要だと慎重な姿勢を見せました。またテロの・・・・】






 クレメンティが私の為に、コンパクトなタブレットを買ってきてくれていた。これでドバイを観光できるだろうと。何処で見つけて来たのか、ピンク色の外装のタブレットである。その色の選択理由が「可愛いミスりのにぴったり。」と屈託ない笑顔で言われると怒る気も失せる。待ち受け画面が何故か、リスが森の中でどんぐりを食べている画像だった。

 もう、日本の情報を集めるのも無意味になった。閑成神皇の安全宣言以来、特に目新しい情報は出てこない。日本のワイドショーでは犯人グループの特定に躍起になっていたけれど、どれも憶測にすぎず、政府や警察の会見も調査中と言って進展した話が出てこない。

 テロ以降、華族制度を批判した番組が、7人もの犠牲者を出している被害者に対しての配慮が足りないと、視聴者から非難を浴びた。それ以来テレビ各局は、華族制度に対して、あまり強い姿勢を出せないでいるようだった。

 華族制度が無くなれば、私の華選の称号も消滅する。それは願ったりかなったりで今更どうなろうとも良い。不思議な事に、あれだけ華選だから日本に戻らなくてはと息まいていた感情が、今は全く無い。麗香が無事だったという報告を得たからだろう。私にも友を想う気持ちがまだあったのだと、複雑な気持ちになる。

 日本に帰る必要が無くなると、増々、ミスターグランドのそばに居たい気持ちが強くなる。なのに、どうしてだか、ミスターグランドの誘いに素直にOKを出すことが出来なかった。

 ミスターの気持ちが知りたかった。

 クレメンティが願っているから仕方なく誘ってくれたのか?

 ミスター自身も、私が付いていく事に賛成でいるのか?

 軽い息を吐いて、タブレットを座っているソフアの横に置いた。時計は午前9時半を少し回った所、ホテルのレセプションルームにはナタリーと私の二人だけだった。ミスターグランドとクレメンティは朝食後すぐに、ビジネスの為に外出している。今日は夕刻まで帰ってこない。私のドバイ観光に付き添いたかったクレメンティは、心残りに私に気遣う言葉をかけて出かけた。

 ナタリーは、いつもミスターグランドが座っている大きい方のデスクに座り、常設されているPCを使って仕事をしている。キーボードを叩く音だけが部屋に響いて、寂しさと緊張感が漂う。

 昨日は夕方までロスチャイルド家に居た、ミスターはその時間まで私をイザベラ婦人に預けたまま姿を見せなかった。ホテルに戻ってきたのは7時に近い時間帯で、ナタリーは、その私達よりも遅い8時頃に帰って来た。帰って来た時、別人のようなナタリーの姿に目を見張った。ナタリーは髪をシニヨンにアップして眼鏡をかけ、白の開襟のシャツにグレイのタイトスーツ着用し、黒のビジネスバッグと茶色の封筒を持っていた。颯爽と歩く姿は、どこからどう見ても出来る女秘書の様相だった。悔しいけれど、ミスターグランドがそばに置く女性なのだから、本当に仕事のできる女性なのだろう。ナタリーは、ミスターグランドの座るデスクに、茶封筒を置き『すべて、滞りなく。』と一言。声までもが完璧に、キャリアウーマンをしていた。そして、ロシア語に変えて『集めた砂が、温まったわ。』と言うと、ミスターグランドの寝室へ入って行った。聞き間違いをしたのか、言葉の意味が理解できなかった。ミスターグランドはナタリーが持ってきた封筒をデスクの引き出しに仕舞い、鍵までかけてから立つとナタリーを追って寝室に入っていた。残されたクレメンティは恥じらい交じりの苦笑を私に向けて、「勤務終了です。」と言って部屋の片づけを始めた。

 足を組みなおしたナタリー、昨日程きっちり髪の毛を固めてはいないけれど、今日は長い髪を邪魔にならない様に後ろで軽くまとめて、長袖のシャツを軽く腕まくりして黒のタイトスカートをはいている。キーボードの手を止め、肘着いた手に顎を乗せ、画面を見ながら考え事をする。そんな何気ない仕草でも色気がある。

(その色気が私にもあったらなら・・・)と思わずにはいられない。私も真似して足を組みなおしてみた。バランスを崩して、ソフアに倒れ込む。

(情けない。足も組めないなんて。)

 身体を起すとナタリーと目が合った。軽蔑交じりの冷たい表情で一瞥すると、直ぐにまたパソコンを叩き始める。昨日からナタリーは、私が話しかけてもそっけない返事をするだけで、態度が冷たい。チビだと貶しながらも買い物に付き合ってくれていた時の方が、まだ良かったかもしれない。

 部屋に居ても仕方がないので、とりあえず外に出る事にする。何処に行くかはまだ決まっていないが何とかなるだろう。

英「出かけます。」

英「はい。」やっぱり、顔を上げずにそっけない返事をするナタリー。

 唯一のフランスからの持ち物の肩掛けトートバックにタブレットを入れて、廊下に出る。エレベーターホールのカウンターに居るコンシェルジュが、丁寧すぎるほどに頭を下げた挨拶をして送られる。エレベーターに乗り降下してから、コンシェルジュにどこが観光するのにいいか聞けばよかったと気づくも、今一つ観光する気になれなかった。一人旅に躊躇しているのではなく、観光よりも刺激的な事を知ってしまったからだ。

 ふと、グレンに連絡をするのを忘れている事に気づく。携帯は電池が切れて、充電ケーブルがないからそのままにしていた。充電して電話一本かけるだけの事が、とても億劫に感じられた。

(心配しているだろうか?いや、するとすれば、お金の心配だろう。)

 泣きつく相手は私以外にもいるし、少しばかり困らしたい。もしかしたら、これをきっかけに、もっと私へと意識を向けてくれるかもしれない。そんな淡い期待も混じる。

 一階ロビーに出ると、多様な人種で活気づいていた。これからリゾートに行く風な白人家族、これから商談に行く風なビジネススーツの黒人、新婚旅行のようなペアルックの日本人。待ち合わせている中国人団体のグループは、とてもハイテンションでうるさい。チェックアウトの対応で忙しいホテルマン。コンシェルジュは外国人老夫婦の対応で電話をしている。

 そんなロビーの喧騒を横目に、私は外へと出る。ドアマンが、タクシーですか?と聞いてくる。タクシー任せに市中を回るのもいいけれど、ナタリーと買い物途中で見たモノレールに乗ってみたい。こここからタクシーで近くのモノレール駅まで送ってもらおうと考えていると、自分の名前を呼ぶ声に気づき振り向く。

英「ミスりの!」

英「ミセスイザベラ!?」

 イザベラ婦人は20メートルほど先で停車している車のそばで、こちらに大きく手を振っている。ヒラヒラの服を優雅に揺らしながら、こちらに歩んでくるので、私は急いで駆けつけた。

英「おはようございます。」

英「おはよう、ミスりの。良かったわ、すれ違いにならなくて。」

英「え?」

英「クレメンティから電話があったの。ミスりのが一人で可哀想だから一緒に観光してあげてほしいってね。」

英「クレメンティが?」

英「そう、あの子、あなたが好きなのね。私に連絡を寄越すなんて。」

英「あの子って・・・。」

英「クレメンティは、年の離れた義理の弟なの。」

 驚いたが納得もできた。クレメンティの丁寧さがイザベラ婦人に似ていたからだ。

 昨日、屋敷からの帰りの車の中で、今日訪問したのは、かの有名なロスチャイルド家の邸宅と教えられていた。ロスチャイルド家と言えば、アメリカのドル紙幣通貨発行権をもっている金融業界の権力者だ。その権力者とビジネス関係にあるミスターグランドも凄いが、加えてクレメンティの生い立ちも凄い。

英「あなたのおかげよ。十数年ぶりに声を聴けたわ。」

英「え?」

英「立ち話もなんだから、行きましょうか。クレメンティの直々の頼み、大役を果たさないとね。さぁ、乗って。」

婦人に促されて運転手つきの大きな車に乗る。

英「ごめんなさいね、小さな車で。これから案内する所には道幅が狭い場所があるから、リムジンだと不便なのよ。我慢してね。」

 苦笑。これで小さい車となると、夫人の中では日本の軽自動車はどういうカテゴリーだろうか?

英「ミセスイザベラとドバイ観光できるなんて、とてもうれしいです。」

英「そう言ってくれて、私もうれしいわ、ミスりの。」

 そう言ってイザベラ婦人は、ふくよかな体を寄せてギュッと私を抱きしめた。とても柔らかくていい匂いがする。私は昨日で婦人の事が大好きになっていた。商談が終わったミスターグランドが、私達の部屋に迎えに来た時に、心残りがあったぐらいだ。また婦人と一緒に居られる今日は、素晴らしい日になるのは確実で、何て幸せな一日なるだろうかと心が躍る。

 車は静かにとても乗り心地よく出発する。

英「クレメンティはね、亡き義父の愛人の子でね。主人とは30歳も離れた弟なの。」

英「30・・・。」

英「私の子供よりも年下よ。」と肩を竦めるイザベラ婦人は、クレメンティの生い立ちを話してくれた。

 大金持ちの当主に愛人がいるなんて事は珍しい話でもなかったが、子供が要るとなると話はややこしくなる。クレメンティの存在が明らかになったのは約17年前、クレメンティはまだ22だったという。クレメンティの母、前当主の愛人だった人は、それより2年前に乳がんで亡くなっていて、独り身だったクレメンティをドバイの屋敷に呼び寄せ、一緒に暮らし始めたのだが、クレメンティの嫡子を認めない一族から理不尽な扱いを受けた。匿ったイザベラ婦人は、あらぬ噂を立てられたという。ロスチャイルド家ほどの規模になると、家庭の事情が世界のスキャンダルとなる。耐えかねたクレメンティは、ロスチャイルド家の嫡子を放棄し、相続した遺産も返還し、ロスチャイルド家を出る事になったという。そうして、クレメンティは婦人の伝手でミスターグランドの元で働く事になった。ロスチャイルド家を出てから13年、クレメンティはイザベラ婦人と全く連絡を取っていなかった。

英「ロスチャイルド家での私の立場なんて、考慮しなくてもいいのに。」

英「クレメンティは優しいですから。」

英「ええ、本当に。あなたのおかげよ、元気にしている事は聞いていたのだけどね、やっぱり実際にちゃんと声を聴きたいじゃない。」

 昨日、お帰りなさいと出迎えてくれたクレメンティからは、そんな過去があったなんて微塵も見受けられなかった。

 『とても素敵な婦人にお会いしたの、とても楽しかった。』と報告した私に、『それは良かったですね。』といつも通りに微笑んでいた。

英「あなたは、あの二人にとって、キーになる存在になるのかもしれないわね。」

英「あの二人って?」

 イザベラ婦人は、それには答えず微笑んだだけだった。私もそれ以上の詮索はせず、暖かな微笑みに見とれた。

 婦人の車は、ドバイの重要観光地を回る。聖地の宗教建造物、史跡と文化理解センター、砂漠、公園、夕方には圧巻の景色が見られる高層タワーで食事をした。どこの施設に行っても、イザベラ婦人はVIP待遇で、その施設の長が挨拶をしに来る。ロスチャイルド家ともなると当然なのだろうけれど、その権力に嫌味のないイザベラ婦人の振る舞いがとても素敵だった。私は増々婦人が大好きなる。

 素晴らしい夜景を見ながらのコース料理、そして、イザベラ婦人との会話はもっとおいしい。知識の豊富さ、話すリズムが心地よい。いつまでも会話をしていたくなる。しかし、楽しい時間はあっという間に終焉を迎え、名残惜しい気持ちが膨らむ。婦人も同じ思いになったのか、デザートも食べ終わる時になって、突飛な提案をしてくる。

英「そうだわ、家に泊まりにいらっしゃいよ。」

英「家って、あの宮殿ですよね。」

英「そうよ、それがいいわ。まだ、あとまる1日はドバイに居るのでしょう。」

英「え、ええ。」

英「明日の夕刻にホテルに帰ればいいのだから、ね。」

英「でも・・・泊まるには、服などが・・・」

英「そんなの買えばいいわ、この下のショッピングセンターで・・・いいえ、待って、そうだわ、クレメンティに持ってこさせればいいのよ!」

英「えっ!」

英「それがいいわ。そうしたら、私は十数年ぶりにあの子と会える事が出来るわ。」

英「いや、でも婦人、それは・・・。」

英「名案よ!あなたは、あの子達のキーだけじゃなくて、私のキーになる存在でもあるのよ。」

 もう目を輝かせて、口元で手を合わせている婦人。

 衣類は全部、買った物ばかりとは言え、あの部屋に誰かが入るなんてありえない。そんな私の狼狽を、イザベラ婦人は気にとめずに早速電話をかけ始めた。












 ナタリーがキーボードを打つ手を止め、自身の肩を揉み首を回す。今日一日、事務仕事を頼んでいた。肩が凝るのも無理はない。時間は21時になろうとしていた。真辺りのはまだ帰らない。思った通りにイザベラに気に入られて、今日も遅くまで食事と会話を楽しんで帰ってくるだろう。私とクレメンティは朝から外出していたが、18時からビジネスを兼ねた会食の予定があり、5時にはホテルに戻って来ていた。留守番をしていたナタリーを同行させ、その会食も終えて一時間は経つ。

英「ナタリー、今日は終わりにしよう。」

英「ええ。」

英「クレメンティも。」

 ナタリーはデスクの周りの片づけを終えると、伸びをしながら、結んでいた髪を振り解き、私の個室に向かう。どんな時も一つ一つの動作が艶やかだ。トップクラスの美しさ、真辺りのには、天地が逆さになってもこの色気は出せないだろう。

英「クレメンティ、お疲れ様、グランド、先にシャワー使うわよ。」

英「あぁ、私もすぐに行く。」

 ナタリーはベッドの営みもトップクラス。だからあらゆる要人に近づき、SEXで満足させて、その報酬に情報を得てくる。

ナタリーが個室に入った時、私の携帯が鳴った。

英「はい。」

英「私よ、イザベラ。」

英「ご機嫌が良いみたいですね。」

英「ええ、とても。ありがとう、ミスりのを私の所に連れてきてくれて。」

英「気に入ると思いました。喜んで頂けて何よりです。」

英「そのミスりのを、明日まで束縛していいかしら。」

 私の予想以上にミセスイザベラは、ミスりのを気に入ったようだ。

英「かまいませんよ、ミスりのが同意するなら。」

英「もちろん。ミスりのも望んでいるの。それでね、クレメンティに代わってくれるかしら。」

英「クレメンティですか?」

英「ええ、あの子と13年ぶり会う理由を、ミスりのが作ってくれたのよ。」

英「はぁ・・・。」

(ミスりのが、クレメンティとミセスイザベラを13年ぶり逢う理由を作った?)

 何のことかわからないが、二人が会う事は良い事だ。

英「クレメンティ、ミセスイザベラが代わってくれと。」

英「私に、ですか?」

 まだ書類の整理をしていたクレメンティが、首を傾げながら私の携帯を受け取る。

クレメンティは、ミセスイザベラに自身の携帯番号を教えていない。今朝、真辺りのがドバイ観光するのを、ミセスイザベラに頼む事を思いついたのはいいのだが、連絡手段に困り、私からミセスイザベラに頼んでほしいと言って来た。私はその頼みを聞き入れず、突っぱねた。いい機会に、クレメンティ自身から電話をすればいいと思ったからだ。クレメンティは苦悶したが、結局、私の携帯を使ってミセスイザベラへ電話をした。あくまでも、自身から連絡をしたという証拠は残したくないらしい。

英「・・・・それは、いくらなんでも。ちょっと待ってください!あーぁぁ。」

 渋い表情で、携帯電話を返してくるクレメンティ。

英「どうした?」

英「それが・・・ミスりのをロスチャイルド家に泊めるから、服と下着を持って来てほしいと。」

英「くくく、ミセスイザベラも中々の策士だ。」

英「買えばいいじゃないですかと申し上げたんですが・・・小さいサイズを探すのに苦労すると言われて。」

英「あははは、それは納得の理由だ。ナタリーも同じ事で激怒していた。」

英「女性の部屋に入るなんて。」

英「ミスりのも了解してのことだろう。だったら問題はないではないか。」

 メール着信のコールが鳴る。イザベラからの、持って来てほしい物のリストだ。

英「ほら、荷物の依頼書だ。」

 渡した携帯の画面を見て、クレメンティは溜息を吐いて肩を落とす。

英「いい機会だ。久しぶりに逢って来い。」

英「全くいい機会じゃありません。」と、ほとほと困った顔を横に振るクレメンティ。

英「お前も泊って来ればいい。」

英「それはしません。絶対に。」

 私の冗談を睨みで返しながら、真辺りのの部屋へと入っていくクレメンティは、直後、奇声をあげた。

英「ひやっ!これは凄い。」

(嬉しいのか、嫌なのか、どっちなんだあいつは?)














 緊張した面持ちで車から降りたクレメンティを、イザベラ婦人が大きく包み込むようにハグをすると、固かったクレメンティの表情は、照れ雑じりの綻んだ表情になった。しかしクレメンティは、婦人のお茶の誘いを頑なに断って、私の荷物をだけを届けるだけして帰ってしまった。イザベラ婦人はクレメンティの後ろ姿を、哀愁を込めて長く見送っていた。

 夜、私は婦人の部屋の大きなクーインベッドで一緒に寝た。というより、夜通しで話をしていた。話しは尽きない。世界情勢から、ハリウッドスターのスキャンダルまで、宇宙空間の話から、ちっぽけな蟻の話まで。婦人から教えられたり、私が教えたり、私達の親密度は、母親のように友達のように、コロコロと代わった。

 夜更かしのお喋りが朝の起床を遅くして、起きた時には9時を過ぎていた。婦人は別の部屋で本を読んでいて、私が起きるのを待ってくれていた。その部屋は、本がたくさんある部屋で、アラビア語と英語の本が半々である、ちょっとした小さな図書館並の蔵書数だった。

 朝食を抜きにして、昼食を早めに、宮中晩さん会のようなコース料理を頂いた。その昼食は、婦人の長男の子、孫にあたる人も同席したけれど、彼はすぐに外へ仕事に出かけなければならないと言って、食事を取ったあと出ていった。宮殿には直系長男の家族も住んでいるけれど、皆がそれぞれに忙しく、滅多に全員が揃うことはないという。

 イザベラ婦人は、仕事関係も引退して宮殿を守るような存在である事から、毎日暇していると笑った。

 昼、夫人がジャムの作り方を教えてくれるという。私は料理は全くの苦手だと言うと、夫人は簡単だから大丈夫と言う。

 (簡単とかの問題じゃないのだけど・・・好意は受けなくちゃ。)

覚えて損はない。これで私の料理の腕が劇的にアップしたら、もう、婦人さまさまだ。

露「昨晩、紅茶に入れたジャムはね、私の手作りなのよ。」

露「そうだったんですか。とてもおいしかった。甘くて。」

 ロシアでは紅茶にジャムを入れて飲む習慣があると教えてくれた。イザベラ婦人は、まだ子供だった頃、ロシアにも日本にも住んだ事があると聞く。イザベラ婦人は、ロシアとイギリスのハーフだが、婦人の祖母がベラルーシの人で沢山の人種が混じり、イザベラ婦人の子供はアラブ人の血も入る。ここまで多種だと、何処の国人というカテゴリーは無意味である。

露「苺のヘタを取って。」

露「はい。」

露「ロシアではそれぞれの家庭の味の特徴があるわ。私の家では、最後の隠し味がポイントだったわね、上手じゃないヘタを取るの。」と笑われる。

ただ苺のヘタを取るだけなのに、何故か婦人との出来が違う。こういう小さい作業は苦手だ。よく慎一に不器用だと笑われた事を思い出す。

露「苺に砂糖をまぶして、一時間ぐらい置くの。待っている間にお茶にしましょうか。」

 ロシアン紅茶のジャムを作っている間に、ロシアン紅茶を飲む。何とも粋な趣。婦人が紅茶を入れてくれて、私達は厨房にあるスツールに座る。

露「ふふふ、あの子もそうやって、ずっと苺に砂糖が溶けていくのを眺めていたわ。」

露「クレメンティですか?」

露「いいえ、クレメンティとの初対面は、あの子が24の頃よ。厨房で一緒にジャムを作るような歳じゃないわ。」

露「えーと、じゃぁ誰ですか?」

 イザベラ婦人は、しばらくの間、黙って私の顔を見つめる。

露「アレクセイよ。」

露「アレクセイ?」

 婦人はゆっくりと紅茶を口に含み、カップに目線を落とした。

露「通り名に父の名前を使っているわ、いえ、あの子にとっては祖父。」

 この2日の間で見た事のない表情をする婦人に、心意のわからない言葉に口をはさむ事は出来ずに、待った。

露「私の父は、グランド・エール・シュバルツ。」

露「グランド・・・」

露「レニー・ライン・カンパニーは、代々初代の代表の名を継いでいくのを知っている?」

露「ええ、聞きました。だからアジアは、レニー・コート・その先が自身の名前で。ミスターグランドは、だからグランドが自身の名前で。」

露「彼は私の甥、私の妹の子よ。」

露「甥?でも、婦人とミスターグランドは・・・」

婦人がとても若作りをしているのか?それとも、実はミスターグランドが見かけより年を取っているのか?

甥と叔母の関係には見えなかった。

露「アレクセイ、あなた方の前ではレニー・コート・グランド佐竹と名乗っている彼は、私の妹が12の時に産んだ子よ。」

露「12っ!」まだ子供って、驚きの言葉を手に口を塞いで止めた。

露「そう・・・・あの子は、レニーの世界戦略の過ちで、生まれて来た子供なの。」

露「イザベラ婦人・・・。」

露「これはトップシークレット。クレメンティも知らない。アレクセイが知ったら怒るわ。」

露「怒る・・・そうでしょうね。だけど私、もう聞いてしまったわ、止められない。」

露「ごめんなさい。そう、よくわかる、あなたの知識欲がそうであるの。でもだから、いいえ、これは私の言い訳ね。あなたなら、知った知識をいい加減にしない。そう思ったの。」

露「・・・・。」

露「あなたは、きっとあの子のキーになる。アレクセイが私の所にあなたを寄越したのは、そういう事だと・・・いいえ、これは私の希望ね。」首を横に振る婦人。

露「ミセスイザベラ、あなたが私に聞いてほしかった。それ以上の理由が要りますか?」

 婦人は、はっと顔を上げて私を見る。

露「私の知識欲は止められない。私が婦人の出会いがキーとなるのでしょう、だったら私はただ聞くだけ。」

露「ミスりの・・・。」

 ミセスイザベラは、涙を一つ流した。そして話し始める。

 ミスターグランド佐竹の、壮大な生い立ちを。












露「外出する。後は頼んだ。」

露「あ、はい。えーと、どこへ?」

露「息抜きだ。ナタリーが帰ってくる頃には戻る。お前もゆっくりしろ。」

露「はい。お気をつけて。」

 まだ、クレメンティは気づかない。私が毎年同じ日に同時間帯に息抜きと称して、一人の時間を作っている事を。私が休暇も含めて息抜きの時間を作る事は稀だが、たまに世界中置いてある車を走らせているので、今回もそうだと思い、だから「気をつけて」の言葉をかけてきた。まぁ、それも兼ねてはいるが。

 部屋を出て、レニー・ライン・ホテルの地下へとエレベーターで直行する。真辺りのに似合わないと言われた黄色いフェラーリに乗り込む。エンジンをかけると、背中から高音のエンジンノイズが覆いかぶさるように私を包み込む。エンジンを何度か吹かせ、暖気をしながら音を聞いた。機嫌は良さそうだ。
























露「私達の家は、イギリスの侯爵の爵位を持つシュバルツ家。19世紀初頭からヨーロッパ各地との外交商家として国に貢献したとしてイギリス国王より爵位を頂いた貴族だった。」

(過去形という事は、今はもう違うのか?)その疑問を口にせず、イザベラ婦人の話の続きを待った。

露「オランダのレニー・ライン・カンパニーと手を組み、流通網の世界制圧を目指したのもその頃からだったと聞くわ。残すアジアに進出し完全制圧を目指したのは、私の曾祖父の時代。順調に世界を制圧してきたレニー・ライン・カンパニーだったけれど、アジアだけは難航したの。アジアでは、すでに中国の大連流通という会社が流通網を確立していた。そこにレニーが入り込むのは難しかった。だけど、レニーはどうしてもアジアの流通基盤が欲しい。父はあらゆる手を使い、大連流通を窮地に立たせ、取引の場を作るのに成功した。だけど、長くアジアを支配していた大連流通にも意地がある。すんなりとレニーの傘下に入る事に抵抗を示した。大連流通を取り仕切る一族、李家の総代である李 叙連は、レニー・ライン・カンパニーの傘下に入りアジアの流通網をレニーに譲渡する代わりに、組織の運用と代表の座は李家が執り行う事を、条件に突き付けた。しかし、レニーの世界統括本部は当然それを許さない。レニー・ライン・カンパニーは完全なる世界制覇を目指していたから。父は板挟みに苦しんだ。大連との取引は、この先2度目はない。一度見せた戦略は2度と使えない。これを逃せば、大連はレニー・ライン・カンパニーの攻防に警戒し、絶対に流通網取られまいと躍起になる。この機で、必ず大連の流通網をレニーは手に入れなければならなかった。そうしたギリギリの交渉が続いて、大連の李家は、アジアの代表の座を諦める替わりに、シュバルツ家の誰かを李家に預けろという譲与案を出して来たの。

露「誰かを預けろって?」

露「言ってみれば、人質みたいなものね。大連だって必死だわ。一から開拓し築き上げたアジア流通網を、大きな世界組織がやって来て、流通網を明け渡せと脅して来る。李家一族はいい様に使われて、そのうちレニーの傘下からも追い出されるのは目に見えている。だからイギリス貴族のシュバルツ家と李家との縁組の話を出して来た。ゆくは、李 叙連の次男、秀卿と結婚させる娘を預けろとね。李家は、イギリス貴族のシュバルツ家と親族関係になれば、無下にレニー・ライン・カンパニーの傘下から追い出させられないだろうと考えたのね。当然に父は、その申し出を突っぱねた。しかし、娘を一人預けるだけでアジアの流通網は手に入り、自分が代表の座に就くことができる。レニー・ライン・カンパニーの念願である流通網の世界完全制覇を、自分の功績によって成し得る。父は、一度振り払った李家の提案を受け入れる事にした。後に、李家をレニー・ライン・カンパニーの傘下から追い出し、娘はすぐに取り戻せると考えて。」

イザベラ婦人は、そこで息を吐き、紅茶で喉を潤した。

露「その李家に行ったのが、ミセスイザベラの妹さん?」

露「ええ、何故、私じゃなく妹だったのかはわからないわ。妹は2つ年下だった。とてもかわいい妹、色が白くて、とてもきれいな顔をしていたわ。」









 ドバイ中心街にあるショッピングセンターに立ち寄る。ショッピングセンター内は騒がしかった。中国人の姿が目立つ。そういえば中国は今、祝日の4連休だと思い出した。

 あの品のない中国人の血が、私にも入っていると思うと、この血を絞り出したくなるほどに忌々しい。

(何故、私が・・・)そう思わずにはいられない。

 しかし、その禍々しい血が入っているからこそ、ここまで成しられた、のも事実であろう。

 センター入り口にある大きな花屋にて、大きな白い百合の花束を頼んだ。

 白くて美しい百合の花は、アリーナ姉さまの美しさそのもの。優美に麗しい。

 花束が出来上がるまで、店頭の花々を眺めた。花は枯れるから美しい。束の間の美しさに誰もが心奪われる。世界も同じ、衰退繁栄を繰り返す情勢の束の間の美を、掴む者が世界の成功者となる。

 よそ見をして歩いていた子供が私にぶつかる。そばかすが目立つ白人の女児は、驚いて声を出せないでいた。ベビーカーを押した女児の親が駆け足で駆け寄り謝罪を受ける。促された女児もはにかんだ謝罪をして、親子共々立ち去っていく。

 女児の後ろ姿を見追い、感慨にふける。アリーナ姉さまが李家に囚われたのが、あれぐらいの歳だ。まだあれほど幼い子供だった。そんな幼き子に手をかけた李 叙連が憎い。この手で殺れなかった事が悔やまれる。

英「お待たせしました。」

 花束が出来た。白くて優美な百合の花束。











露「だけど、父のその考えは甘かった。簡単ではなかった。出来るはずがなかったのよ。」

露「どうして?」

露「レニー・ライン・カンパニーの傘下になり、父が代表に就任したといっても、流通現場は大連の人間が大多数、レニー側は父とその周辺の幹部だけ、名ばかりのレニー・ライン・カンパニーの世界制覇だった。組織内はレニー・ライン派と大連流通派で別れ、軋轢を生み、売上や流通量は年々落ちていく。世界統括本部から指摘も入る。父は必死に頑張った。だけど、何をしても上手くいかなかった。5年後、世界統括本部から父の更迭の辞令が来て、次のアジア代表に大連流通の人間が就く事を承諾した。」

露「李家に預けられた妹さんは?」

露「戻って来たわ。その身に子供を宿して。」

 驚きのあまり息が止まった。

露「はじめは、結婚させようとしていた李秀卿との間に出来た子供だと思っていた。だけど違ったの、アレクセイの父は、取引相手の李叙連。」

露「ええっ!?」

露「あんなに明るくて可愛いかった妹は、李家から戻って来た時、感情を失っていたわ。ただずっと微笑んでいた。そうすることが自身を騙して、自身を保つ手段だったのね。」

 耐えられなくなった感情を隠す為に、私は顔を手のひらで覆った。

露「こんな話、やっぱりするんじゃなかったわね。」

露「いいえ。感情が追いつかないだけ。」

露「ごめんなさい。もう、終わりにしましょう。この話は。」

露「いいえ、ミセスイザベラ、中途半端は嫌だわ。私はちゃんとキーになる。その為に聞かなければならない。」

露「ミスりの、その決意、ありがとう。」

 二人で、カップの紅茶を飲み乾した。婦人がさらに紅茶を注いで、話は再開する。

露「父の更迭の後、私達一家は、母方の一族がいるロシアへ移住した。だけど、妹が李家の子供を宿しているのを隠したかった両親は、ロシアで産む事に懸念した。」

露「どうして?」

露「私達に容姿が似ていればいい。だけど、中国人の容姿が強く出てしまったら目立つわ。隠し通すのは無理。」

露「どうして、隠さなければならなかったのですか?」

露「世間体というのが大きな理由だと私は思っていた。だけど、父は違う考えがあったのかもしれない。」

 伏せた顔を横に振るイザベラ婦人。息を吐いてから話を続ける。

露「父が望んだのかは知らないけれど、レニーの日本支部に就任するのをきっかけに、私たちは日本に移住した。アレクセイは日本で生まれたの。」

露「それで和名を使っているのね。」

露「ええ、アレクセイには日本人との間に出来た異母兄弟だと言って育ててきたの。やっぱり、黒髪の黒目で生まれてきたから。」

 ミセスイザベラは金髪でグリーンの目をしている。ミスターグランドが、見る時々によって、日本人離れした顔つきに見えるのは、遺伝子にあらゆる人種が混じっているからだと納得した。

露「それで、ミセスイザベラも日本語を。」

露「ええ、私は5年間だけ日本に、大学はイギリスで過ごしたの。妹とアレクセイを置いて行くのは心配だったけど、シュバルツ家の事を考えると学力と知識は必要だと、だから大学で経済学を学んだわ。」

 だから、婦人はとても豊富な知識がある。

露「だけど、それも必要がなかった。私は父の勧めで、このロスチャイルド家に嫁ぐことになったから。」

露「それじゃ、ミセスイザベラも政略結婚?」

露「そう。妹が父の政略の犠牲になった分、私も父の助けにならないといけないと思ったから、素直に応じた。でも逢ってみたら、とても良い人だったの。」

露「愛する事が出来たんですね。」

露「ええ、幸いにね、妹の分まで幸せを取ってしまったわ。」

露「妹さんは、今どこに?」

露「死んだわ。28歳で、両親も。」

露「ご両親も?理由を聞いていいかしら?」

露「私がイギリスに行っている間、父は、アジアの座に返り咲く事を模索して、もう一度、妹を李家に差し出したの。私は反対したわ、だけど妹は行くと言った。妹は、普通には戻れない事を悟っていた。だったら、父の為に李家側の人間になってしまった方が楽だと言ったの。妹はアレクセイの前では笑っていても、自分がずっと意に反したSEXを強要させられていた事に精神を病んで悩んでいたから。再び李家で過ごすようになって6年後、日本から拠点を変えたロシアの家に、妹は戻って来たらしいの。」

露「らしいって?」

露「私は知らなかったの、妹が病気で帰国しているなんて、その時にはもうロスチャイルド家に嫁いでいたから。両親が死んだことも後から知ったの。弁護士が遺産相続の話をしにロスチャイルド家に居る私の所に来て初めて。アレクセイがね、イザベラ姉さんの幸せを邪魔してはいけないと。」

露「ご両親も死んだって・・・理由は?」

露「アレクセイの話では、病気になって帰って来た妹の将来を案じ、責任を感じて、父が一家心中を図ったと。アレクセイは止めようとしたけれど、止められなかったと、私に謝って・・・。」

露「そんな・・・じゃ、ミスターは、父親が自殺するところを見てしまったって事?」

露「おそらく・・・警察の取り調べや遺体確認やら、すべてあの子が一人でやって、葬式も建墓もすべて。私が知ったのはシュバルツ家の侯爵位を返還し、シュバルツ家を滅家させてしまっていた後だった。」

露「どうして、家を滅家にまで?」

露「アレクセイは、自分は家や爵位を継ぐ資格のない人間だと。」













 ドバイ市中を抜けて、首都アブダビへと車を走らせた。広がる砂漠に人間が敷いたアスファルトの道路が砂埃を舞って続く。

 アクセルを踏み込む。エンジンが高音の喜びを発する。膣に攻め入れた女の喘ぎのように。

 アブダビの中心街には入らず郊外の道を走り、人工的に作られた公園の脇道に入る。樹々枝葉が光を遮る、それだけで体感は下がり、肌はすがすがしい。

 アーチ型の白い門の手前で車を止め、降りた。中まで車を入れられるのだが、その為には門を中から開けて貰わないといけない。それは面倒なので、歩道側の常開している通用門から徒歩で中に入ることにする。

 白壁に赤瓦の尖った屋根に十字のモニュメントの建物が正面にある。小さく質素な教会だった。特に隠しているわけでもないから遠くまで来ることもないのだが、リゾート地の大きい教会に行くと、結婚式をやっている場に出くわす事があるので、それを避けて選んでいるだけだった。首都アブダビから外れたこの小さな教会なら、日曜でもない午後なら結婚式もなく静かだろうと予測して、朝決めた場所だった。静かな教会ならどこでもいい。どの国でも、ただ一年に一度の今日のこの日である、という事を大切にしているだけ。

 樹のささくれが目立ち始めた扉、皆が触る取手だけ艶やかに黒ずんでいた。押して入る。

 祭壇奥の壁に、十字のモニュメントだけが掲げてあるシンプルさが、プロテスタントの教会である事を意味している。

 私は特別の宗教を持たない。外交商家であったシュバルツ家が代々無宗教感であった。まだイギリスに本拠地をおいていた随分昔には、人並みに信仰していた時期もあったようだが、宗教観念にとらわれていては商売に支障をきたすという概念のもと、信仰心を棄てたと聞く。シュバルツ家は根っからの商家だったのだ。 

 適当に選んだ教会内で、内装や調度品が、歴史的価値のある逸品に会う事があるが、今日は、そのようなことはなかった。並ぶ長椅子を抜けて祭壇の前で足を止めた。持っていた百合の花束を祭壇に置く。祈る作法など不用だ。人並みに知識として知ってはいるが、ここで厳格にしようなどと思っていない。

 置いた百合の花にアリーナ姉さまの面影を映して見つめる。百合の花を一つ抜き取り、茎を手で折る。首が折れたように項垂れた百合の花を、床に落とした。

 今でもこの手と脳裏に残る、アリーナ姉さまの細く白い首の感触。姉さまのやつれた頬に流れる一筋の涙。

 そして、褒められた言葉。

『アレクセイ、とても上手よ。』

アリーナ・グランド・シュバルツ、姉さまはとても美しい人だった。私は、姉さまの弟である事を誇りに、アリーナ姉さまの微笑みに裏切らないよう常に努力していた。家族の中で私だけが黒髪の黒目である理由が、周囲に落胆を与えないように。

さ外交商家であったシュバルツ家の英才教育は語学中心で、特にヨーロッパの主要言語は抜かりなく教育された。家では英語とオランダ語が標準で使われていて、ロシア語は母から、日本語は住んでいた環境で、ポルトガル、ドイツ、スペイン、イタリア語は家庭教師から、そして中国語はアリーナ姉さまに教えてもらえた。

上手く発音できると、「とても上手ね、アレクセイ。」と美しく微笑むアリーナ姉さまの顔が褒美だった。そうして会得した私の言語は、今や27になる。

 父の過ちで、私が姉さまたちと異母兄弟である事など、些細な事だと思えるほど、私は二人の姉に愛されて幸せだと感じていた。

 なのに・・・。私が10歳のある時、アリーナ姉さまは突然、お別れよと私の頬にキスをして出ていった。両親に理由を聞いても、わからない言い訳を繰り返す。アリーナ姉さまが家を出ることになったのは、家の為、いや父の為だと知る由もなく、寂しくなった屋敷で私はより一層勉学に励みアリーナ姉さまの帰りを待った。イザベラ姉さまは、それ以前より、イギリスの大学に進学して家を出ていた。

 アリーナ姉さまが家を出て2年後、私はロシア、モスクワの全寮制の学校に入れられた。12歳だった。私はその学校でも アリーナ姉さまの微笑みに裏切らないよう努力をし、主席の成績を維持していた。

16になる歳の春、アリーナ姉つまが帰って来たとの知らせで、私は会うためにイギリスに拠点を戻していた両親の家に帰宅する。アリーナ姉さまとの再会を心躍らせて帰った私が見た物は、衝撃に耐えがい姉さまの姿だった。目は落ち込み、頬はやせこけ、髪は艶を失い手入れされずにボサボサ、白い皮膚は掻きむしった爪痕が無数に、声はしわがれて、あの美しい顔、姿はどこにもない。アリーナ姉さまは麻薬中毒に陥っていた。

 私は、父と母を問い詰めた。そこで初めて、6年前、アリーナ姉さまはレニー・ライン・カンパニーのアジアの利権をめぐる取引として、李家の内縁になっていた事を知る。

部屋の片隅で、フローリングの木目を指辿るアリーナ姉さまは、歌を歌っていた。私の知らない中国語の歌。

そう、何故か、アリーナ姉さまだけが中国語を話せた。シュバルツ家の英才教育の一環であるなら、なぜイザベラ姉さまは中国語が話せないのか?と、それを疑問に思うべきだったのだ。まだ幸せだった時に。いや、幸せなどなかった。アリーナ姉さまの微笑は、偽りの微笑だったのだ。

アリーナ姉さまが、やつれた頬に窪んだ目で私を見上げ、怯える。

中『ひっ、旦那様、ごめんなさい。今すぐ、準備を。』

アリーナ姉さまは、私の足元まで這いずり近寄り、私にすがるようにズボンのホックを外しにかかる。

中『姉さま!何をして。』

驚いた私が後ろに退くと、アリーナ姉様はバランスを崩して床に手をついた。そして、自分の着ているブラウスのボタンを外していく。

中『アリーナ姉さま!やめて!』

私がその手を止めようと掴むと、気が狂ったように、床に頭をつけて謝る。

中『ごめんなさい、旦那様。』

中『姉さま、しっかりして、僕だよ、アレクセイだよ。』

何を言っても、髪を振り乱して泣きじゃくり、私の手を振りほどこうと暴れる姉さま。

ロシア語で言い直して、やっと動きを止めた。

露『アレク・・・セイ・・・』

露『そうだよ、しっかりして、アリーナ姉さま。』

虚ろな目が私を捕える。そして、悲痛な微笑み。

露『アレクセイ・・・・私の子・・・あなたの黒い眼は、旦那様と同じ・・・』

一瞬で真実を理解した。家族の中で自分だけ色の違う異質を。

すぐさま、両親に問い詰めた。語られた私の出生の秘密は、あまりにも重く苦しい。そして憎んだ。

父は言い訳をした。『仕方がなかったのだ。』と。

母も父を庇う。『こんなになって帰ってくるなんて、思わなかったのよ。』

許せなかった、美しくないアリーナ姉さまが。

私はその晩、寝ているアリーナ姉さまの白い首に手をかけた。細い首は両手で握るには余るほど。力を入れるとアリーナ姉さまは目を覚まして、私を見た。

露『アレク・・・セイ・・・』

囁き声は昔のままの美しい音色だと思ったのは、私の想いの果てか?首を絞めているのだから,声など発せられるはずがない。

露『とても・・・上手・・・・よ。』

上気した顔がほんのり血の気を帯び、微笑んだ顔が美しい死の瞬間だった。

そう、アリーナ姉さまは、いつの時も美しくなければならない。

 私は、とても上手に、美しく、アリーナ姉さまを殺せた。そして、いつもの通りに褒めてくれたのだ。

 殺したその足で、両親の寝ている寝室に向かった。特に物音を立てない様になどする必要もなかった。私のする事は、当然の制裁だからだ。扉を開けた音で目を覚ましたのは母だった。

露『どうしたの?アレクセイ。』

 その言葉を無視して、ベッド脇にあるチェストの引き出しを開ける。そこに防犯の為の銃が入っている事は、ずっと以前から知っていた。父も目を覚ます。弾はちゃんと5発が装填済み。

露『何しているアレクセイ!』

 身体を起して父にすがる母をまず撃った。弾は顔面にあたり、母は身体を退け反り倒れる。

母の血が父の顔に吹き付けられ、父が絶叫する。

露『何を!お前はっ!』

露『許さない。あなた達が姉さまを醜くした。美しいアリーナ姉さまを。』

露『アレクセイ、言っただろう、仕方がなかったんだと。その銃を放しなさいアレクセイ。』

容赦なく父に拳銃を向けて撃った。父のシルクの寝間着がみるみる赤く染まる。

露『ア、レク・・・・』

露『汚い声で呼ぶな。』

 父は前かがみにベッドからずり落ちた。まだ醜く喘ぐ息に、私の怒りは収まらない。父のこめかみに銃を当て、撃つ。髪が反動で振り切り、頭がガクリと煽り、だらしない舌が口から出る。汚らしい、醜い、こいつらの血も、私の中に含まれていると思うと吐きそうだった。

 廊下から、駆け付ける足音が聞こえた。シュバルツ家に仕えている弁護士兼父の補佐でもあるヨハンが、銃声を聞きつけたのだ。自分もすぐに頭を撃って死のうと思ったが、瞬時に考えを変えた。

 触りたくなかったが、父の利き手を持ち上げて、銃を父の右手に握らせた。父が自分でこめかみを撃ったと見える自然な形で腕を床に垂らし、ベッドサイドにある水差しを倒して、床に転がしておいた。ちょうどいいタイミングでヨハンが、父の名を呼びながら部屋をノックする。

私は叫ぶ、父の名を、ヨハンの名を、扉を開けて飛び込んでくるヨハン。私は涙ながらにヨハンにすがる。

露『ヨハン!父さんが、父さんが・・・・母さんを撃って・・・・自分も。僕は止めようとしたんだけど、銃を取り上げようとしている内に、腹に、そして、父さんは自分で頭を・・・・・助けて、ヨハン、早く救急車をっ。』

 我ながら名演技だった。アリーナ姉さまは更に、とても上手だと褒めてくれただろう。

 ヨハンは私の証言を信じて、駆け付けた警察官にもそのように説明した。警察も事業の失墜に心病んだシュバルツ家の当主が、心神耗弱した娘の将来を案じ、首を絞めて絞殺、その後、自身の過ちに悔やみ、妻と心中を図り自殺。と処理された。

 シュバルツ家の当主としての権限が私に移行される。莫大な遺産と、世界各地にある土地や屋敷、そして侯爵の爵位も私に継がれる。だが私は、シュバルツ家の名のつくものすべてを売り払い、爵位も返還した。ヨハンをはじめ、屋敷やシュバルツ家に仕えていた者へ多額の金を支払い解雇した。ロスチャイルド家に嫁いだイザベラ姉さまには嘘をついた。イザベラ姉さままで、汚らわしい父の醜態を背負うことはないと考えて。

 余りある金だけが残った。それを資金に、方々に人脈と権力を育て、私はやっとここまで成した。あの醜態な父が手に入れられなかった。レニー・ライン・カンパニー・アジア大陸支部代表の座を。しかし、まだまだ先がある。私はさらに世界へと手にいれる。

露「アリーナ姉さま・・・いやアリーナ母さま。」

 憎き李家の人間達を殺していく事は、簡単に可能だ。だけどそれでは意味がない。李家の脈絡は、アジア航路を一から築き上げた、流通のビジネスに根付いている。李家がアリーナ姉さまにした事は許しがたい物であったが、アジア航路の流通システムは世界のレニーが欲するだけの価値はあった。それを実質、現場で運営するのは、李家親派の面々だ。李家一族を根絶させても、李家の親派が後を継いでいくだけ。それでは根絶とは言えない。アジア大陸の根本から李家を一掃するだけの力が要る。それを手に入れるには、アジアを利用し礎としなければならないのは、奇しくも最善の策だ。

露「見ていてください。私の手に入れる世界を。」













 ミスターグランドと、ミセスイザベラが持つ重い歴史を、胸にしっかりと鎮めた。

 語り終えたイザベラ婦人は、すっきりした表情になって息を吐いた。ずっと、吐き出したかったのだろう。秘密を共有することによって、私たちはより親密に親子以上の友人となって、ジャム作りを楽しんだ。作るジャムは、妹さんへの弔い。妹さんもこの苺ジャムが好きで、母とアレクセイも含めて4人で作ったとも聞く。出来たジャムを瓶に詰めて手に持った時、「今日が妹と両親の命日なの。」と言って微笑んだイザベラ婦人の表情が、ミスターグランドとよく似ていた。

 夕食後、ジャムを土産に、今度は大きなリムジンでホテルまで送ってもらった。

別れ際、イザベラ婦人はまたも名残り惜しく、私を長く抱きしめた。

英「また、いらっしゃい。いつでもあなたを歓迎するわ。」

英「はい。」

リムジンから降りた私を、ベルボーイが丁重に誘導する。手荷物はタブレットを入れたデイバッグだけ。ジャムの瓶も入っている。クレメンティが届けてくれた着替えの服は、洗って預かっておくと言う。イザベラ婦人は、私がいつ来てもいいように、私の部屋を作り、クローゼット内をそのサイズの服で満杯にしておくと言った。困った歓迎だけど、イザベラ婦人の楽しみを作ったのは、良いことだと得心した。預ける荷物がなく、手持ち無沙汰的のベルボーイが、使っているエレベーターとは違う方へ行くので、呼び止め、あっちの53階だとゲストキーをバッグから出し見せると、驚きの顔をして謝って来た。その騒ぎに、フロントからも人が出て来て、エレベーター内のボタンまで押してくれる。

 権力の威力を改めて実感する。だから、ミスターグランドの祖父は、その地位を欲しがった。娘を李家に差し出してでも。

 53階のフロアのコンシェルジュは勤務時間を終えたのか、居なかった。もう9時近い時間だった。

カードキーを差し込み、扉を開けると、飛び込んできたのはナタリーの金切り声。

英「どうして!何故!あんなガキが行けて、私は駄目なのよ!グランド、どう言う事が説明して!」

英「説明も何もない、ただミセス好みだと思っただけだ。」

英「じゃ、私はミセスの好みじゃないって言うの?」

 進み、レセプションルームの入り口でミスターグランドと目が合った。

英「やめておけ、ナタリー。」

 ミスターグランドの視線の先で、私を視認したナタリーは、睨を向けてからロシア語に言葉を変えた。

露「こんなドチビが認められて、何故私は認められない?私はもう5年もあなたと共にいるのに、どうして、ロスチャイルド家に同行させてくれないの!」

 どうやらナタリーは、私がロスチャイルド家に行った事を怒っているようだ。そして、どうした訳か、ナタリーはまだロスチャイルド家に同行させてもらった事がないらしい。何故、私がいとも簡単にロスチャイルド家への訪問を認められたのかは判らないが、ナタリーの不満は理解できる。ロスチャイルド家と親密になるという事は、アメリカとドル紙幣の流通で賄っている国の経済権を握っていると同じ事。そう考えると、私は、とんでもない人に好かれたと、改めて驚く。ロスチャイルド家の宮殿の一室をも、用意してもらえたなんて、ナタリーには絶対に言えない。

露「やめなさい、ナタリー。」

 ため息交じりのミスターグランドの面倒そうな仕草が、ナタリーの怒りを増長させる。

露「ミセスイザベラも見損なったわ、こんなガキを好むなんて、ちっともビジネス的じゃない。もう老いくれて孫の面倒を見ている気分なんだわ。」

 私への貶しは我慢できるけど、イザベラ婦人の悪口は許せず口を挟んだ。

露「ナタリー、私を貶すのは、いくらでも構わない。だけど、ミセスイザベラの悪口は許さない。」

 振り向いたナタリーは、驚愕に目を剥き、怒りに顔を真っ赤にしていく。

露「あんたっロシア語までっ!」

露「ええ、話せるわ、わからないと思って散々馬鹿にしていたでしょう。今まで、あなたが罵ったロシア語の全部を、私はわかっていた。」

露「ナタリー、それが理由だ。ミスりのは、見かけ以上の才女だ。」

 ミスターグランドの答えに、ナタリーは顔を歪ませ首を横に振った。

露「私は、あなたのような色気がない代わりに、語学と知識は豊富にある。あなたがその美貌を日々磨くように、私はこの頭に知識を入れて磨いてきた。それをミセスイザベラは好んでくれたのよ。ミセス、イザベラ・ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドに気に入られたいなら、多岐にわたる知識を貪欲に求めて、日本語も話すことね。」

 きっとナタリーのプライドをぶっ叩いた。顔色を変えたナタリーは、私に歩み寄る。

露「あんた、誰に向かってそんな事を言って!」

 利き腕を振り上げたナタリー。殴られると思い、目をつむった。しかし、来るはずの衝撃は来ない。目をあけると、クレメンティが振り上げたナタリーの手を掴んで止めている。

露「クレメンティ、放しなさいっ!」

露「おやめください。ミスナタリー・ポートマン、殴っても互いに傷付くだけです。」

 ミスターグランドは変わらない表情で、ナタリーを宥めようとも、取り繕う気もない。ナタリーはそんなミスターグランドの心意を探るように、しばらく食い入るように見ていたけれど、変わらず黙ったままのミスターの態度に、納得したのか、大きくため息を吐いた。

露「わかったわ・・・私はこんな子供と一緒だなんて無理。」

そういうと、ナタリーは個室へと入ったが、すぐに出て来てミスターグランドの前に、レニー・ライン・カンパニーのIDカードを叩き置いた。

露「さようなら、レニー・コート・グランド・佐竹。」

 小さなブランド物のバッグだけを手に、ナタリーは部屋を出ていく。すれ違うナタリーは私の方を一切見ずに颯爽と。

 私はナタリーのプライド壊すキーとなった。










 電話の相手が、今どんな場所で通話をしているか知らないが、漆黒の闇に溶け込み、誰もそこに人が居て話をしていると気づかない状況である事は想像できた。私の下で仕事をするようになって4年、人を寄せ付けない冷酷さを持ち、実行できる彼の行動力を、私は信頼していた。

中「おそらく、こういった事態に、日ごろから用意していた。そういった事は周到にプロだ。」

中「では兆候があれば・・・本当によろしいのですか?」

中「あぁ、かまわない。」

中「畏まりました。」

 私は、私の配下で働きたいと願う彼の心意を、未だ測りかねている。最初の足がかり的に私の所に来たのだろうが、すぐに自分の力はその世界で通用する事を悟ったはずだ。もっと深く裏世界で暗躍して行くだろうと予測した私を、いい意味で裏切り、未だに私の下で精を尽くすのは、私の想像を超えた将来ビジョンがあるのか無いのか、わからない。

 通話の終えた携帯電話とブランデーの入ったグラスとを交換する。カチャリと扉の開く音に顔を向けると、真辺りのが寝室から姿を現した。私の話し声が気に障り、出て来たのだろうか?話の内容は知られていないはずだ。真辺りのの取得言語に、中国語はないと聞いていた。

 真辺りのは、ゆっくりとした動きで扉を閉めて、間接照明だけになっているレセプションルームを見渡すと、私が応接セットのソフアに座っている事に遅く驚き、動きを止めた。

露「眠れないのか?」

露「ええ・・・ミスターも?」

露「あぁ・・私は、眠りは必要ないほど浅い。」

露「私もよ、ずっと寝ない十日を過ごした時期もあるわ。」

粋な冗談だ。これが真辺りのの会話術。

 シルク素材のナイトウェア姿の真辺りのは、手に紙袋を持っていた。

露「それは?」

 私の視線を確認した真辺りのは、紙袋に目を落として答える。

露「ミセスイザベラと一緒に作った苺ジャムよ。」

露「あぁ、ミセスイザベラの手作りジャムは、私も頂いたことがある。とても美味しい、ロシア式のティータイムでね。」

 子供のころ、よく母と姉さま達4人でジャムを作った。最後にワインを入れるのがシュバルツ家のジャムの特性。淡い記憶が思い起こされる。

露「ええ、教えてもらったわ、ロシア式ティーを、今から入れようと思って。ミスターグランドもいかが?」

露「頂けるなら、ここに貰おうか。」

 持っていたグラスを掲げた。

露「ブランデーに入れても、美味しい。ミスりのも試してみるか?」

露「それを飲めば眠れるかしら?」

露「あぁ、ミセスイザベラのジャムは万能の薬にもなる。」

露「じゃ、紅茶はやめて、ブランデーにしてみるわ。」

 キッチンから、ブランデー用のコップとジャム用のティースプーンを持って来た真辺りのは、私の隣に座る。真辺りのの分のブランデーを作ってやり、自分のグラスにも足し入れてから手作りのジャムを一さじブランデーに入れてかき混ぜる。出来たコップを真辺りのの前に置き、英語でどうぞと言っても、私の様子をじっと見ているだけで、手を出そうとしない。私が口をつけてから、やっと真辺りのは、グラスに手を伸ばし、警戒するように口をつけた。まるで毒でも警戒しているかの様で笑えた。まだ私が殺そうとした過去に怯えているのか?

英「美味しい。」

 当然だとも、シュバルツ家のジャムは天下一品。イザベラ姉さまが作ったのなら尚更の事。

 直ぐに、真辺りのの頬がほんのりと赤くなった。酒は強くない、レニー・サルマンの就任パーティでも、シャンパンとワインだけで帰りの車で寝てしまう程だ。この未発達の体では無理もない。

英「ミスりの、嫌な思いをさせてしまったな。」

英「ナタリーの事?」

英「あぁ、ナタリーに変わって謝ろう。」

英「私は大丈夫、それ以上の価値ある出会いを貰ったから。」

英「ミセスイザベラとの関係は、一財産の価値があるな。」

英「ええ、婦人だけじゃないわ。」

 グラスを口にしながら、真辺りのが続ける言葉を待った。

仏「ミスターグランド、あなたとの出会いも・・・」

 卓越な会話術の中に人を引きつける間合いが、ナタリーには無かった。真辺りのは、この若さでそれを会得している。そして言語を変えていく我々のルールも、馴染んでいる。

仏「私との出会いが価値あるもの、か・・・。」

仏「えぇ、そう。あなたは私のキーになるわ。」

 真辺りのは、ブランデーをもう一口含み、じっくりと時間をかけて味わってから口を開いた。

仏「私を、船に乗せてください。」

 私が代表に就任して、初のパール号を使ったビジネスは、アジア諸国の主要要人を船に招き接待する。ナタリーが辞めた今、女性の存在が不可欠として、後任に真辺りのは適切だ。思いのほか、ナタリー以上の成果が得られるかもしれない。

仏「あぁ、明日からの毎夜、眠れない夜に、ジャム入りブランデーとミスりのとの話が、楽しみとなるかな。」

仏「ええ、沢山あるわよ。ジャムも話も。ご期待ください。」

 照明に照らされたジャムは、ルビーの様に美しくきらめいていた。









『京都御所で起きましたテロ事件から1か月が経ちました。テロ事件の真相はまだ依然完全に公表はされてはおらず、世間は公表を求める声は高まりつつあります。8人の被害者全員が華族の称号を持つ、帝都にあります華族会本部は、事件の真相については、現在まだ調査中であり、しかるべき時を考慮し、しかるべき手続きと対応を処遇して公表するとコメントしております。

また、内閣府も華族制度の在り方について協議検討を始める意志を固め、時期をはからい、神皇家との懇談の場を作りたい旨を神皇家に伝えたと、報告しました。」







 私達の船旅は、それはもう夢のような世界、と言う表現は簡素で不適切だ。これは現実であり、ビジネスとして、確実に物にしていくのだから。 

 ミスターグランドは、世界の要人を次々と豪華客船に招いては接待をして、ビジネス結束の握手を交わしていく。私はその側で、要人達の会話に彩を添える。持っている知識に新たに得た知識を加える。まるでジャムのように、煮詰めて風味を添え整え、ミスターグランドのビジネスという土台に添えられる。

 私はその土台に必要な人間だと思えたし、ミスターグランドも・・・言葉で言われて事は無いけれど、常にビジネスの場において、そばに居られる事象が、認められていると感じた。クレメンティも常に優しく、私の世話を焼いてくれる。

 眠れない夜に交わす会話が、ミスターグランドとの距離を縮め、憧れを越して私は、確実に好きになっていた。

英「今日は、えらく、フー・ジンタオと長く話しこんでいたな。」

英「ええ、フー・ジンタオの話は、とても面白いの。」

英「ほぉ、私との会話では、さして面白くもない話ばかりだったが。」

英「ええ、ミスターグランドとは真逆の思考を持っているもの。」

英「何について?」

英「全て、彼は大麻容認派だし、社会の格差是正に力を入れている。」

英「知っている、互いに。だから彼は共営に躊躇しているのだ。」

英「ええ、だから色々と聞かれたわ。あなたの事を。」

英「不都合な」

英「事は何も言わないわ。」言葉を被せた。

(私はまだ信頼されていないのだろうか?)

英「あなたが、フー・ジンタオと真に疎通をかわせないのなら、それをやるのが私の役割でしょう?」

ミスターグランドは、私をじっと見つめてふと笑い、持っていたブランデーのコップをテーブルに置くと、その手を私の頬に滑り込ませる。

英「ミスりの・・・」

 頬から首筋へ髪をかき分けて後ろへ流される。

英「ミスターグランド・・・」

 見つめる。

ミスターは自身の肩に私の頭を引き寄せる。そしてゆっくりと優しく頭を撫でられる。まるで子供をあやし褒めるように。

 ドバイを出てから約1か月、眠れない夜の時間を、語りつくす事もあれば、ただ身をよせて時の息遣いを感じるだけの過ごしもある。

 だけど、それ以上にならない私達の関係・・・私は、いつでも越えていいと思っているのに。













 ナタリーが辞めてしまったことで、事務的な仕事のすべてがクレメンティへと負った。ナタリーの事を嫌悪し、真辺りのとの船旅を望み叶い喜んだものの、忙しさの余り、真辺りのとの時間を取る事が出来ず、ジレンマに陥っているクレメンティ。

 船の巡航とビジネスは、順調に運んでいる。真辺りのが、ナタリーの色物代わりには成らないが、ビジネスのサポートとしては大役を果たしている。今思えば、アジアでのナタリーの容姿は派手過きて、嫌厭されてしまっていたかもしれず、真辺りのの存在は成り行き上であるが、とても良い結果となった。

 眠りの浅い者同士、私と真辺りのは、奇妙な親密さを増していったが、親子に近いパートナーの域を超えない。

(いつか女として、魅せられる時がくるのだろうか?)

 ティーポッドの中の茶葉が、ゆっくりと沈むのを見ながら、わずかでもくだらない思想に陥った自分に苦笑する。いつもなら、クレメンティが入れる紅茶を、私が入れる事になった。茶葉の沈むゆるりさが思考を惑わす。

(滅多なことをするもんじゃないな。)

 茶を入れたカップを、トレーに乗せてデスクへと向かう。

忙しさのあまり、クレメンティの眉間にはしわが寄っている。マウスを動かすクレメンティの右サイドに紅茶の入ったカップを置いた。クレメンティはパソコンの画面から目を放さず、頭を下げる。

英「すみません。」

英「一度、パソコンから手を離せ。一秒でも惜しいのはわかるが、休息を粗末にすると効率が悪くなる。」

英「そう、ですね。」

 クレメンティは手を大きく上に伸ばしてから、紅茶を手に取る。

英「頂きます。」

 クレメンティは紅茶を半分ほど飲んでから、ほっと息をつき、私に顔を向けた。

英「次の女性を雇わないのですか?」

 エンゲルスからの派遣を止めていた。また、真辺りのと衝突しては困る。

英「お前は、どっちなんだ。二人の女を置くのに反対だったではないか。」

英「私は、ナタリーに反対でした。結果、私の危惧した通りになったでしょう。」と何やら得意げな表情をするクレメンティ。

英「まさかお前に、女の事で諫められるとはな。」

英「ミスりののお気持ちを、わかっておられるのでしょう?」

英「私に子供を抱けと?」

英「ミスりのは24歳、立派な大人です。」

 私は黙って首をふる。

英「彼女はナタリーの代わりになれないのだろうかと、悩んでおられます。」

英「代わりになる必要もないだろうに。」

英「ええ、それは私も申し上げました。」

英「違うものを持ち合わせているからこそ、ナタリーを追い出した。本人も自覚してそう言っていたではないか。」

英「状況が変わりました。ミスりのは、グランド様の事が好きなのです。」

英「好きだからセックスがしたいは、子供の思考だ。」

 クレメンティは憤慨して私を睨む。

英「ミスりのは大人です。ナタリーよりもずっと物事を知り、あなたの事を慕い、だから悩んでいる。ナタリーよりもずっと、節度ある大人な思考でもって。あなたもそれを認めたから、船に乗せたのではないのですか。」

英「あぁ、だから、単純に情欲へと走る気持ちに、失望する。」

英「グランド様・・・」

英「しかし、まぁ、それが若さというもの、情欲に身もだえする夜を超えてこそ、女の魅力は磨かれる。磨いてやれ、お前が。私に遠慮することはない。」

英「グランド様!」

 クレメンティは顔を真っ赤にして怒る。

英「ミスりのは、あなたを好きでいるのですよ!」

英「ミスりのを、お前が好きなのだろう?」

英「わ、私は・・・」

英「心配するな。磨かれたとて、お前の物を取ったりはしない。」

 その後、クレメンティは、終日一言たりとも口を利かなかった。それこそ子供のような態度だ。大人だと言っている内はまだ子供なのだと早く気づいてもらいたい。











 女がホテルの部屋から出て来る。普段の派手さはなく黒のスーツを着ていることで、今日がその日であると確信した。

女はわかりやすい。シチュエーションに拘るからだ。どんな時にも何をするにも、他人の目を気にする。標的の女の場合は、特に服装にそれが出る傾向だ。

 女がタクシーを拾う。それを確認して、バイクのエンジンをかけ走り出す。女のタクシーを抜いて先回りして、検証済みの場所へと向かう。その検証が万が一の確率で外れる可能性もあるが、今回に限ってはまずないだろう。この一週間、女の使っている携帯電話、ホテルの電話、ノートパソコンを情報部のハッカーが侵入して情報を得ていた。だが、女もそれなりのプロだ。盗聴の警戒、我らの存在を知っていて、あえての演技をしている可能性を考慮しなくてはならなかった。

 現に1週間前、パーティドレスを着た彼女に騙されたのだ。確実に男と接触すると思っていた。だがその日、その場所に男がいるのにも関わらず、彼女と男は一瞬たりとも接触することはなかった。その後の通信にも、目立って異変はなく、どうやって男と約束をしたのか、わからずじまいだったが、とにかく相手はサマド・ビン・ラファエルしか考えられなかった。というより、サマド・ビン・ラファエルが相手であるから、女を殺さなくてはならないのだ。

 携帯の呼び出し振動に気づき、バイクを道路の脇に停める。レニーの情報部、担当諜報員からだ。

中「サマド・ビン・ラファエル、滞在中のホテルをチェックアウト。」

 別の場所で会う算段か。

中「電波追跡システムのマップを、こちらの携帯に送信してくれ。」

中「了解。」 

 レニーのワールドマップを携帯に表示した。すぐに赤い星型が画面に現れる。これがサマド・ビン・ラファエルの現在の居場所だ。女に入れ知恵されていたのか、早い段階で男の携帯電話のGPSは切られていた。だが、そんな事をしても無駄だ、携帯電話を使っている以上、その電波は携帯電話携帯電話会社の基地局に送信されているのだ。レニーの情報部を甘く見てはいけない。VIDブレインを3人を確保して世界の情報システムを網羅している、携帯電話会社のセキュリティを突破して情報を盗むなど簡単な事。

 赤い星型の移動速度が急に上がる、タクシーに乗ったようだ。しばらくその星型の移動方向に注視する。クアラルンプール市内を抜けて南へと向かっている。それだけを確認して再度バイクを走らせた。

 明かり煌く高層ビル群、渋滞する道路をバイクで駆け抜ける。風が顔から髪をさらって靡いていく。

 ヘルメットなど要らない。警察の取り締まりなど、無効にする手段はいくらでもある。

 事故の心配もない。事故にあっても死に到ることはない。時が来るまで死に難い、それが宿命。

 直ぐに、赤い星型まで追いつき、サマド・ビン・ラファエルが乗っているタクシーを見つけた。速度を落とし尾行。黄色いタクシーは、郊外のビジネスホテルに着いた。バイクを降りて、男がフロントでチェックインの手続きを済ませるのを外から監視する。男は部屋の鍵を手にエレベーターに向かう。周囲を警戒している動作、到着したエレベーターに誰も乗らないと確認して乗りこむ。お粗末すぎるほどの周到ぶりだ。素人なら仕方がない。ホテル内に入り、エレベーターの階層表示を確認する。男が11階で止ったのを確認して、時計を見る。7時になろうとする時間。女の位置から、市内の渋滞を考えて、7時30分、いや、彼女のプロ意識から考えて、30分などキリの良い時間は避けると予測して20分が待ち合わせ時間と当たりをつける。

 携帯の着信バイブレーションの呼び出しに出る。

中「サマド・ビン・ラファエル、マレーシア、サリ・ぺテリングのタマンホテルにチェックイン。」

中「了解、サマド・ビン・ラファエルの監視報告の解除。引き続きの対象者の追跡マップの転送を。」

中「了解。」

 携帯の星型が赤から青に変わり、先ほど通って来たクアラルンプールの市内にある一流ホテルにそのマークは留まっている。一瞬、かわされたかとヒヤリとしたが、青の星型はしばらくの後、動き出した。鉄道のある方向へと向かっている。

なるほど、尾行を警戒して鉄道を使うか。という事は、男との約束の時間は7時45分から8時の間。少しの猶予ができた。なら、それなりの工作をしておくことする。後の処理が楽になる。

 踵を返してホテルから出て、バイクで来た道を戻す。道中にレンタカー屋があった。そこへ向かった。













 長く船に乗っていると、必然的に船の従業員と仲良くなる。船長はもちろん、航海士や機関士、シェフにハウスキーパーまで、私が、この船のオーナー室を出入りしている事は周知となり、会えば必ず挨拶を欠かさない彼らたち。時に、過剰なサービスも受ける程になった。

(彼らには、私の立場をどう位置づけているのだろうか?)

 オーナー室に戻る前に、少し外の空気を吸いたくて甲板へ上がった。夜の海は、闇が広がるばかりで何も見えないのだろうと思いきや、今日は満月で思いのほか明るい。海面に月の光が揺らめいて幻想的だった。どこからともなく、音楽が聞こえてきて、いい具合に波と風のセッションとなっていた。

英「素敵、良い時間帯を見つけたかも。」

 今は夕食の時間帯で、甲板に人はまばらだった。あと一時間もすれば、酒を片手に酔っ払いの客が増えてくる。

英「危ないですよ、そう身を乗り出しては。」振り向かなくてもわかるほどに馴染みの人となった、パール号の船長の声。

英「大丈夫よ、私の身長では、この柵を超える重心が、これより上にないもの。」

英「自虐ジョークの中にも、学問的要素を入れてくる所は流石ですね。」

英「自虐は余計よ、船長。」

英「これは失礼しました。りの様。」

 拭きあがる風に煽られた髪を抑えた。こんな突風でも船長の帽子は飛ばない。何か秘密があるのだろうかと聞く前に、船長が私に質問をしてくる。

英「このような時間にお一人とは珍しいですね、どうされました?気分でもお悪いですか?」

英「いいえ、気分はとてもいいわ。」

英「お食事は?」

英「今日はフー・ジンタオ氏と昼食に長く時間を使って豪華だったから、夕食は要らないの。」

英「そうでしたか。」

英「船長は、今何をして?」

英「私は見回りです。」

英「船長こそ、こんな時間に、見回り?」

英「はい、夕食時のこの時間が、ねらい目なんですよ。」

英「ねらい目?」

英「はい、人のいない時間こそ、船内の異常を見つけやすい。防犯的にもね。」

英「へぇ~、また一つ、船の知識が増えたわ。」

英「これは船の知識ではございませんよ、私のルーティン的な物ですから。」

英「船長のルーティンは、きっと世界の常識だわ。」

英「お褒め頂けて光栄です。」そう言って、船長は仰々しく腰を折って頭を下げる。

英「大袈裟ね。」

英「りの様、あなた様はこのパール号のオーナー、ミスターグランド佐竹様のゲストでありますから。」

英「あっ、それ、聞こうと思っていたの。」

英「はい?」

英「船長は、私の事をどう見るの?」

英「質問の意味がわかりかねます。どう見るとは?」

英「えっとね、だから、ほら、ミスターグランドの秘書に見えるのかしら、それとも愛人とか?」

船長は首をかしげてから真面目な表情で答える。

英「愛人には見えませんね。」

(やっぱり、そこは無理があるのか。)

英「グランド様の秘書は、クレメンティ様でいらっしゃいますし、私は、グランド様より、知人のお嬢様であると、りの様をご紹介されました。それ以外の解釈が必要でありましょうか?」

 そうだった。ここは一流の場、船長を含むスタッフも一流、ゴシップ的な詮索をする無粋なスタッフなどいない。それがパール号で働く人のプライドだ。

(あぁ、私はなんて無粋な質問をしてしまったのだろう。)

英「りの様?どうされました?」

英「ううん、何でもないの、今の会話、忘れて。それから、ごめんなさい、私、一人の時間が欲しいの。」

英「これは、失礼しました。」

 深々と船長が頭を下げて、「ごゆるりとお時間をお過ごしください」と言い、去っていく。

 ミスターグランドのゲストとしてこの船に乗った。その事実に堂々としていればいい。そう、言い聞かせているのに、どうしても自信が持てない。ナタリーに啖呵を切っておきながら、事実、知識を披露ししゃべる事しかしていないのが、次第に不安と不満が募ってきた。ナタリーとは違う趣向が、私の認められた存在であるとわかっていても、ミスターグランドを好きになって行くほど、ナタリーと同じように愛されたいと思う。












 女がやっと到着する、時刻は7時48分、男との約束は7時50分だったという事だ。優秀なスパイはぴったりと時間を合わせてくる。その時間が女の命の終わりになる事に、惜しむ感情はない。

女は建物に入る前に、周囲をぐるりと見回して尾行のチェックを一瞬で済ませた。そうとわかっていなければ、ただ周囲の景色を見渡しただけの仕草にしか見えない。ここはドアマンももいない二流のビジネスホテルだ。女は自身でガラス扉を開け、中に入ってくる。 もうこのホテルに2日以上は滞在している客のように、フロントの人間に顔を向けることなく颯爽と歩き、エレベーターのボタンを押した。2台の内の、5階で止っていた近い方のエレベーターが下に降りてくる。女は待っている間、扉に使われている金属を鏡代わりにして、自身の髪と着衣の乱れのチェックを行った。これから雇い主となりうる者と逢う為、乱れなく化粧も完璧で、本人も満足の様子だ。しかし、やっとホテルに着いた安堵感か、エレベーターホールの隅に置いてある観葉植物の影に、命を狙っている者がいることに気づかない。影に潜む事は容易の技。女が来る10分前にこの位置に経ち気配を消して、およそ10数人の誰もが気づかずに通り過ぎて行った。女がスパイ養成学校でそれなりの訓練を受けていたとしても、気づくことはない。

 エレベーターの扉が開く、女が入り込み扉内側のボタンを押した。扉が閉まりきる寸前でエレベーター内に滑り入った。この場に及んで検証が外れる可能性もないが、念のため女が押したボタンを確認する。11階のボタンが点灯していた。

女が目を向いた驚きの悲鳴を上げる。

露「ひっ!あんたっ!」

 すかさず女のみぞおちに掌底を入れる。女はエレベーターの壁に背中をぶつけて、そのまま力なく崩れる、気を失った女の体を受け止めながら、動き出したエレベーターの間近の階のボタンを押すと、うまく2階で止まる事が出来た。

 扉開いた2階のフロアには、誰も居ない。女を担いで左の非常階段の方へと歩く。階段の踊り場でレニーの情報部、担当諜報員に携帯で呼び出した。機械音声で認証番号の読み上げを求められる。

英「2012LCGS1105。」

英「声帯確認、認証出来ました、どうぞ。」

英「マレーシア、サリ・ぺテリングのタマンホテルのセキュリティカメラに録画されたデーターの消去を、当時刻18時45分から先20時00分まで。」

英「了解しました。」

 話し終えた携帯電話を袖に仕舞う時に、女が肩からずり落ちそうになり、慌てて体制を立て直す。

「ちっ、大女、重ぇよ。」

 頭目と何があったかは知らない。命運を狂わせたのは女の欲深さだ。頭目は女に、現在まで十分な金を与えていたはす。去りし時にも、この女はレニーのIDカードは返還したが、クレジットカードは返還しなかった。退職金代わりとして十分すぎるほどの限度額を使えたままに設定していたクレジットカードだが、この女はそれだけじゃ満足できずに、頭目がやろうとしているビジネスの宿敵相手に、身を寄せようとした。頭目の女として得た情報を売って。

 この女は、頭目を甘く見くびっていた。頭目はただ野心が強い成り上がりのビジネスマンではない。自身の野心の為なら、冷酷に人を消す事などたやすく殺る。その為の資金も人脈も持ち合わせているのが頭目なのだ。

 地下の駐車場へとその階段で降りる。幸いにも誰にも会わない。会ったとしても、いかようにも出来る手段はいくつもある。階段のすぐそばに、レンタカー屋で借りた日本製の小型車を用意していた。ここマレーシアだけじゃなくアジア諸国で量産されて大衆に人気の車種だ。借りた時に見せたID名義は偽造だが、レンタカー会社がその情報をコンピューターに登録した直後には、女名義で借りたように、情報部に依頼して改ざんさせてある。そうして、この女がレンタカーを借り、埠頭まで行き、事故または自殺という形で溺れ死ぬという演出が仕上がる。

 気を失っている大女を後部座席に投げ入れた。苦し気な唸りをあげたが目を覚まさない。この間に、薬を打っておくことにする。右の袖から、密封袋に入れた覚醒剤のキッドを取り出した。指紋の付着を防止するために、ビニール製の手袋を取り出し装着する。女は右利きであるから、密封容器から出した覚醒剤の注射器を女の手に握らせて、女自身の左腕に打つ。

「トリップしながら死ねる事を感謝しろ。」

 使い終わった注射器と、まだ粉末上の残りの覚醒剤をキッドのケースに仕舞うと、それを女のバッグに入れる。

 後部座席の扉を閉めて運転席に座る。エンジンをかけて、地下階の駐車場から出た。

「さて、死のドライブへと行こうか。ナタリー・ポートマン。」














 波音をBGMにおよそ1時間を、揺らめく月明かりを眺めていた。腕時計をしていないので、はっきりした時間は判らないが、甲板には、酒を片手に、風当たりを楽しむカップル達が出てきていた。絶好のムーンビューの場所をカップルに明け渡そうと歩き出すと、途端に、それまでは感じなかった寒さに、ぶるっと身震いがでた。ノースリープのワンピースでは流石に夜は冷える。自分の腕と肩が冷たくなっていた。

 船内に入り、正面上部の壁に記された記号を確認して、EとFの間だったことにため息をついた。部屋に戻るには、2ブロック先へと歩かなくてはならない。全長360メートルあるパール号は、その長さを6分割にして、船頭のAからFまでを住所代わりに位置表示している。階層は12。この階層は上から表示されて、陸地とは違って下に行くほど数字が大きくなるので、初めは混乱するけれど、一等船室とか、二等とか船室のグレードをイメージすればわかりやすい。上に行くほど数が少なく、グレードは上で豪華だと言う事。

 オーナー室のある場所は、船の中央より前側にあるBCエリアの一番上。最上階の1階層は、このオーナー室のBCエリアしかなくよって1の数字は船の所有者専用数字となる。そして次2階層から下4階層まではBCDEエリア、その下5階層から下12階層までがA~Fまでの、山形を形成する船内となっている。

 この船は、大型のショッピングモール付きの郊型マンションが海に浮いているような物で、映画館あり、プールあり、テニスコートあり、もちろんレストランやショッピングセンター、カジノもある。

 エリア表示のおかげで迷う事はないけれど、どこに行くにも縦に長い船内を行き来しなくてはならないのが、少々疲れる事だった。

 私は図書室からの帰りだった。図書室と言ってもある本はすべて売り物。カードキーをカウンターで提示すれば、貸し出しも行う。そして長期滞在者は、店員に頼めば、本や漫画を次の寄港で取り寄せ可能だった。この船に乗り込んで真っ先に見つけたお気に入りの場所で、当然店員とはすぐに顔なじみとなり、暇を見つけて入り浸り知識を取り入れていた。

 昨日、マレーシアを出港したパール号は、次の寄港先インドネシアのジャカルタへと向かっている。ドバイで乗船してから、4つの国に寄港した。それぞれの港から乗船してくるミスターグランドのビジネスゲストとの商談を上手く成功させるには、沢山の話題と深い知識が必要だった。大体はゲストの故郷の話題から始めるのが定番となっていたが、それは誰もが出来る当たり前の会話術で、相手も長くビジネスをしていると、そんなのはおざなりの会話となり、うんざり気味だ。その先に進む会話の内容をいかに充実した物にするかが勝負だった。その為には、相手の個人情報は前もって調べておくのは当たり前で、ミスターグランドやクレメンティも商談の前には必ず、それらの情報を一読してから行っていた。

 オーナー室に戻るには、スウィート客室内の廊下を縦断し、中央ロビーまで出る方法が一番の近道なのだけど、自分の部屋ではない客室階層を必要なしに進入しない。そうした注意を受けてはいないけれど、ミスターグランドもクレメンティも、遠回りでも客室階層を縦断せず、レストラン・娯楽階層まで行き、中央ロビーのエレベーターや階段を利用していたので、そんな配慮が身についてしまっていた。それがオーナーとしての客に対する配慮なのだろう。それに倣い、一旦レストラン・娯楽階層の6階層まで降りて、中央ロビーまで向かう。何もかも大きいが自慢のパール号だけれど、陸地の建造物のようには行かず、天井高の窮屈感は否めないが、ここ玄関ロビーだけは違った。まず乗船して目に付くのが4階層までの吹き抜けの天井とその高さを誇張するライトアップされた透明のエレベーターの存在。そのロビーをぐるりと周り包むように設置された木製の螺旋の階段が一流品だと、ミスターグランドは言う。この船の調度品の中で一番、技術も時間も金銭もかけてあると聞くが、皆、エレベーターの派手さの方に目が行き、楽ができるのも当然で階段の利用客は少ない。

 フロントに職員が数名いて、私の姿を見つけた支配人がロビーカウンターから、わざわざ出て来た。

英「こんばんは、ミスりの。」

英「こんばんわ。」

英「ミスりの、コック長から返答を賜わりました。明日の2時頃からなら、どうぞお使いくださいと。材料も揃っておりますとの事です。」

英「本当!ありがとう支配人。」

英「いいえ、お安い御用です。」

 イザベラ婦人と作ったジャムが無くなってしまったので、数日前に支配人に調理場を使いたいと願い出ていた。支配人はコック長に使える時間帯を聞いて手配をすると言ってくれていて、その回答だった。

英「手伝いが必要であれば、デザート担当の者を一人つけますとの事ですが。」

英「いいえ、それはいいわ。私一人で大丈夫。」

英「そうですか。では、そのように。」

 ミスターグランドの為に、シュバルツ家特性のジャムを一人で作る。上手くできるか不安だけど、大丈夫、イザベラ婦人はとても教え上手だった。苺の下手を取るのをとても上手だと褒めてくれたわ。













 後部座席から女を引きずり出し、肩に担いで埠頭のギリギリまで運ぶ。女の曲がる背中を、首筋から腰にかけて脊髄を指辿る。12番目と13番目に脊髄の間を、腰から抜いたナイフの柄で力強く叩きいれた。女はその衝撃で目を覚ましのけ反る。足は直立不動し、棒立ちになる。何かの拍子に肘をぶつけた時の、電気が走ったような痺れが起きる、あれの腰版だ。女は今、腰から下の脚が痺れている状態だ。何が起こったのかわからない表情で見る女。覚醒剤がどこまで効いているのかわからないが、悲鳴を上げないところ見ると、それなりに薬の効き目はあるのだろう。薬は、やったことが無いから、その効用度はわからない。興味本位で手を出しかけた事はある。だが、頭目がそれらを毛嫌いしているのを知っていたから、やれば解雇は間違いない。この体に、その手の薬物が効き目あるのか試したい気もするが、今の地位を捨ててまでやる必要のない事だった。

英「ど、どう・・なって?」

英「それは動かない体の質問か?それとも、この状況への質問か?」

英「・・・お、お願い・・・・」

 口をパクパクして先の言葉を話せないようだ。こんな状況でも確かに女の顔は綺麗だ。頭目は、一等の美女好みだ。

英「何でも、する・・わ。」そう言って、首に回っていた右腕が頬より前に戻って来た。爪の形まで計算つくされた完璧な美しさ。その美しい指が頬から喉へとゆっくり這う。

英「ミスターグランドとは、好みが違う。」

 頸動脈にまで這ってきた指を左手で掴み上げ、女を立たせるのに支えていた右腕を外す。女はおもちゃのヤジロベイのように硬直した足を軸に、繋いだ手だけで辛うじて立った状態になった。

 女スパイの護身術の一つ、頸動脈を爪で切る技を警戒していた通りに、殺ろうとしてきた女は、覚せい剤が効いていて動きは鈍かった。

英「あ、あなたは・・・・」

 女の目から涙が粒となって流れる。涙すらも一流に計算つくされているのか、そのしずくは光り輝いて宝石のようだ。

英「何者?」

掴んでいた手を放した。女がゆっくりと後ろへ倒れる。

海面に倒れ込んだナタリー・ポートマンは、その綺麗な顔の表情のまま、黒い海へと沈んで行った。

手は動くはずだった。だけど無駄な悪あがきをしない。その美しい沈み方は、絶賛するに値する。

「綺麗な死に様に、答えてやる、我は、神の子だ。」




















 エレベーターは、既に1階で待機している状態だったが、通り過ぎて非常階段へと向かう。金属音の混じる自分の足音と息遣いが狭い非常階段内に反響する。降りる駅の5駅手前で降りて、ここまでジョギングしてからの階段上り。流石に5階あたりからきつくなる。ペースに遅れが出ないように必死に食らいつく。息を止めてしまいがちなのを意識して肺に酸素を送り、登りきった。6階の踊り場で、大きく深呼吸しながら足踏み。どっと汗が噴き出すが、舞い上がるビル風が、その汗を冷やして気持ちいい。

 非常口の扉の一番近くにある部屋が、藤木が高校の頃から住んでいるマンションだった。慎一は今、藤木の部屋に居候している。というより、藤木はこの部屋に帰ってこない事が多くて、ここ1か月ほどは慎一のウィークリーマンション化していた。

 藤木が男と一緒に居るのが嫌で帰ってこないのではなく、帰ってこれないほど多忙だった。華族会が巻き込まれたテロ以降、柴崎家は、事件の後処理に加えて、新学期を迎える常翔学園の本来の仕事が合わさり、仕えていた藤木にしわ寄せが来た形だ。藤木は今、柴崎家の屋敷で寝泊まりして対応している。ここには時々衣服を取りに来る程度で、慎一に好きに使っていいと合いカギを渡されていた。

 背負っていたリュックのポケットから鍵を取り出し玄関の扉を開けると、タバコの臭いが僅かにする。こうして外から入って来た時が良くわかる。藤木はタバコを吸っている事を。しかし、慎一は藤木の喫煙姿を見たことがなかった。喫煙の話題にもなったこともなく、この部屋にその痕跡もない。知られたくない事なのかもしれないと思うと面と向かって「タバコ吸っているのか?」と、聞くタイミングも逃していた。タバコを吸って罰せられる年でもない。それは個人の自由だし、慎一がとやかく言う筋合いでもない。部屋を借りている身であり、話題にすれば、臭いと文句を言ったようになるのが嫌で言えなかった。

 匂いに困っているわけじゃない。だけど・・・

(やっぱり藤木は、言ってくれないんだ。)と思う。

 何年たっても成長しない想い。慎一だけが頼りぱなしの親友であっていいのだろうかと思う。明確な答えを見つけられないループする悩問を、今日も振り払い、バスルームで着ている物を脱いだ。洗濯機に入れる。リュックに詰め込んでいた汗汚れのトレーニングウェアも洗濯機に入れようとして、汚れ物の下敷きになっていた携帯電話が鳴っているのに気づく。画面を見るとえりからだった。

「はい。」

「もう、やっと繋がった!慎にい、何やってんのよ!」

「何やってるって、トレーニングで。」

「どうでもいいわっ!そんなのっ、あたし、ずっと掛けてたんだからねっ!」

(聞いといて、どうでもいいって・・・)

「今日、何の日かわかっているでしょうね。」

「何の日って。そんな大げさに。」

「大袈裟に言わなくちゃ、慎にぃすっぽかすでしょうがっ!前科ありなんだから。」

「前科って言葉わりぃな、前の時は、」

「だから、こうして朝早くから何度も電話かけているって言うのに、一向に電話に出ないしさ。メールも見ていないでしょう。」

 相手の言葉を待たずに言いたいこと言うのは、新田家の女の特徴だ。

「あぁ、だからトレーニングだったから携帯なんて、」

「だからっどうでもいいって!ったく、だからトレーニング馬鹿は嫌なんだよ。」

 母さんも大概に家族の話を聞かない人だけど、えりのは更に上を行く。妹だからこそ、行く末を案じる。

(よくこんな妹と付き合っているよな、6つも年下だと、あんな我儘でも可愛く思えるんだろうか?)

「ちょっと!慎にぃ聞いてる?」

「あぁ・・・聞いてる。」

「いいや、聞いてなかったっ!ったく、いっつも慎にぃは、そうやって人の話を上の空で、だから約束もすっぽかすんだっ!」

「だから、前回はすっぽかしたんじゃなくて、急に連盟からの」

「言い訳無用!」

通話を切りたくなるのをぐっと我慢。それをやったら、もっと恐ろしい事になるのは必至で、言いたいことを言わせておいた方が賢明なのは、長年の経験の新田家の教訓だ。

「ったく、あたし忙しいのに。」

それはこっちが言いたい。今、自分は全裸だ。全裸で妹からの小言電話に耐えている状況って、とても不憫だ。

「はいはい、で、ご多忙の中くれた用件は?」

「何、その言い方!今日、何が何でも、雨が降っても、槍が降っても、車に引かれて死んでも、」

(おいおい、縁起でもない事を。)

「来てよ!店に!わかった?前みたいにすっぽかしたら、ただじゃおかないからねっ。」

 えりは慎一の返事を待たずして通話を切る。

大きくため息を吐いた。携帯電話のスタート画面にメール着信の表示がある。えりはメールも送っていると言っていたから、一応確認しとかないと後でまた「見てない」だとかうるさい。メールのアイコンをタッチすると、着信数58件とある。全部えりからだった。

恐る恐る一つ開く。

【今日は絶対来てよ!佑士さんが朝から慎にぃ達の為に仕込んでいるんだから!すっぽかしたらぶっ殺す!

時間は11時から、大事な日なんだからね、時間厳守で】

もう一つ開くと同じ文面、次も、その次も、という事は58件全部、再送している。

(どこが忙しいだよ。)

 大事な日というのも大袈裟で、この文面だと、まるでえりの大事な日みたいだ。

 今日は、慎一のフランス、マルセイズとの契約祝賀会を予定していた。祝賀会と言っても、昼のランチと喫茶が主流となったえりと佑士さんが主体となって切り盛りしている新田家経営の2店舗目で、メンバーは慎一と柴崎と藤木の3人だけで、佑士さんが考案した新作メニューの味見も兼ねているため、普段の昼飯より少し豪華にした身内の集まりから域を出ない程度の物だ。

 本当は一週間前に予定していたのだったが、連盟からの依頼で、都内のイベントに出なくてはいけなくなって、前日キャンセルした経緯をえりは怒っていたのだった。

 えりからのメールを全部選択して開封済みにする。その脅威の58件のメールの中に一つ、文字がすべて英文字なのがあった。どうやら、再送しすぎてバグったみたいだ。

「ったく・・・バグるほど送ってくるなよ。」

 呟きと共に携帯を洗面台に置き、シャワー室に入った。いつもより念入りに体を洗う。汗臭さなど残っていたら、また何を言われるか想像するに恐ろしい。そして、シャワー後に着る服に悩んだ。自分に服装のセンスがないのは自覚している。サッカー関連であるなら、柴崎に何を着て行けばいいか聞けるが、今それをすれば、馬鹿じゃないのって呆れられそうだ。柴崎も、えりと同様に電話は必要最低減に抑えたい相手である。

(実家が経営する店に行くのに、何故気遣わなければいけない?)と思いながら、ジーパンに手が行きそうになって止める。柴崎たちは、学園の仕事をしてから来るだろう、と言う事は、二人はスーツを着用している。

「堅苦しくて嫌だが、怒られるよりはマシか?」

 身支度を済ませ、歩いて店に行くことにする。藤木の家からは徒歩10分ほどの距離だ。約束の10分前に店の入り口に到着したら、後ろから来る赤い車にクラクションを鳴らされた。柴崎の赤いアルファロメオを藤木が運転していて追い抜き、店の敷地奥へと入っていく。こちらの2店舗目の店は、元々イギリス人が住んでいた洋館を改装してオープンした店で、道路と隔絶された門をくぐって庭の中に数台の車が止められるようになっている。慎一も続いて敷地内へと入ったが、今一つ、馴染み感がなかった。こちらの店は、家から離れていたから、オープン後に数回、昼飯を食べたぐらいで、記憶の薄い店だった。

 レンガ造りの洋館に赤いアルファロメオ。エンジンが切られ、スーツ姿の藤木が降りて来る。その情景が、まるで雑誌の写真のワンシーンかのようで、慎一は苦笑した。藤木は、慎一に顔向けることなく助手席に向かい、車のドアを開ける。エスコートされて出て来る柴崎は、何の柄かわからない派手な模様のスカート(ジャケットは無地の紺色)を着用した姿で降りて来て、慎一に手を振る。4月から常翔学園の小学部の理事長に就任する柴崎は、一時期心配された体の不調もなく、貫禄抜群。

「やっと、お祝い出来るわね。」

「あぁ、もう、朝からえりがうるさくて。」

「私の所にも、藤木の所にも来たわよ、えりからメール、絶対来てくださいって。」

「大量の迷惑メールか?」

「はっ?」怪訝に首を傾げられて、何でもないと誤魔化す。

「ところで、この派手な車で学園に通ってるのか?」

「そうよ、何か不都合でも?」

「いや、別に・・・」

 それでいいのか?と藤木の意見を窺うも、澄まして閉ざした口は開きそうになかった。

 以前は凱さんが小学部の理事長に就任していた。しかし理事長室に座っていたのは最初の数か月だけで行方をくらましてしまった後釜に、娘の柴崎が就任するのは至極当然のことだったが、理事長補佐などの経験を全くせず就任するのは、学校関係者を不安にさせると、翔柴会会長が直々に後ろ盾になり、会長秘書である藤木がそばでサポートすることになったと聞く。

「さっ、行きましょう、えりが待っているわ。」











 念のため、マレーシアで売られている新聞の中国語版を買い、隅々まで目を通し確認する。海岸にて女の死体が上がったような記事は何処にも載っていない。警察に捕まる事を危惧しているわけではない。事前に知る知らないでは、手の施しの手間が違うだけのことだった。何をするにおいても、手数が少ない方が良い。まして犯罪行為抹消という難事の裏工作をするには。

 レニー・ライン・カンパニーという会社は、そういう会社なのだ。大航海時代に海賊が世界を席巻した時代の者達が作った会社だ。

 世界中を網羅するのは物流だけではない。今やレニーは裏社会にもその力を注ぎ、世界制覇を目指す。

 柴崎凱斗は当初、こんな形で我が裏仕事をするようになるとは思っていなかった。否、今でも、人を抹消する仕事まで請け負っているとは思っていない。頭目の護衛をする上で致し方なく、人を殺してしまうに至ることがあるだけだと思っていて、そうなってしまった経緯すらも、勝手に自分の罪責にしている。そんな間違いの認識を正すのも面倒なので放置していた。柴崎凱斗は、罪責することで自分の生存理由としている節がある。

 マレーシアの中華街は、ちょうど昼時もあって騒然としていた。何処の国でも中華街は同じ雑踏とした雰囲気は変わらず、そんな雑踏な街に、我はいつしか安堵するようになっていた。ここでは人の底を見ることができる。人の底を知れば、それだけ人の操る力の幅も広がる。

 汚れた前掛けをつけた店員が、空になった昼食の麺椀を片付けていいかと中国語で聞いてくる。稼ぎ時の昼食時にゆっくりと新聞なぞ読んでいないで、次の客にさっさと席を明け渡せとの心意だろう。「良い」と中国語で答えてから、目を通し終わった新聞を畳み置き、残っていた紹興酒を飲み乾してからテーブルを立つ。店奥から、「またどうぞ」と軽快な声が飛んでくる。

 椀を下げた店員も、厨房の中に居た店主も、小太りの客も誰も、我が日本人とは思っていない。完全に中国語圏に馴染んだ我は、小さな島国の皇ではなく、アジアの皇と成りえるのだ。

 食べ物の匂いと活気ある呼び込みの声を浴びながら中華街の雑踏を歩く。袖の中で携帯のバイブ振動がし、取り出す。画面を見れば、着信は情報部からで、コール文字の背景が緊急を表す黄色になっていた。情報部からの呼び出しには、その緊急性や重要性が瞬時にわかるように赤、黄、青の背景で表示される。信号機と同じで赤が緊急性と重要性が高い。

中「はい。」

中「インドネシア、ジャカルタ入港のパール号の乗船顧客リスト内にて、身元照会不可の人物5名の乗船あり。」

中「5名も?」

中「はい。当日乗船券を購入し、先ほど乗船受付を済ませたばかりです。」

頭目が乗っているパール号は、今日インドネシアのジャカルタを出港の日程だった。

中「パール号の出港時間は?」

中「本日18:00です」

中「今からジャカルタへ飛ぶ。飛行機と乗船の手配を頼む。」

中「了解。」

中「あと代表にもその旨を伝え、最警戒をするようにと連絡を。」

中「了解。」

身元照会の出来ない者が5人、全員が暗殺者とは限らないが、逃げ道のない船に乗り込んで来るとは。

李家も李剥を失い、統制が効かなくなってきたか・・・。

ここマレーシアからインドネシアのジャカルタまで飛行機で2時間ほど、そこから港までの移動時間も含めて、早くて本日4時過ぎには乗船できそうだが・・・その5人の中に暗殺者がいた場合。出港間近が一番危ない。

 我が行くまで、頭目の身に何も起きない事を願う。

自分が、願っている事に笑えた。

誰に願うと言うのだ。

我が、神の子であると言うのに。











「いかがでしたでしょうか。お味は。」

 佑士さんが緊張した面持ちで、そう聞いてくる。

「とても美味しかったわ。」

 真っ先に答えたのは柴崎。続いて藤木が「美味しかったです。」と遠慮気味に答える。佑士さんの隣で立っている緊張の面持ちでいたえりも、柴崎の言葉でほっと胸をなでおろした。

 えりは自分の作る新作スゥイーツも柴崎に試食をしてもらっていて、アドバイスに絶対的な信頼を置いている。

製菓の専門学校を卒業し、両親の店のデザートをえりが担当するとなった当初、柴崎の厳しく遠慮のない指摘に、怒って泣いた経験がある。えりはしばらく柴崎に連絡を取らず、その指摘を無視して売り出した。すると、そのデザートだけ売り上げが伸びなかったという。それ以来えりは、柴崎の指摘は必ず修正するか、できなければ売り出すのを諦める。柴崎は慎一のプロデュースだけじゃなく、えりのプロデュースも事実上やっているという事になる。

 やっと緊張の取れたえりとは違って、佑士さんはまだ緊張した面持ちで慎一の方を見る。

「美味しかった、です・・・。」慎一もそう答えた。

 だけど佑士さんは、その言葉に眉をしかめた。

「慎一君、正直に言ってもらっていいかな。」

 遠慮した感想はバレていた。

「美味しくなかったの?」と柴崎。

「いや、美味しかった。美味しかったですよ。」

「何よ、慎にぃ。連呼すると反対に聞こえるじゃん。」

「違うよ、本当に美味しかった。ただ・・・」

「ただ?」

「多分、俺が、朝からトレーニングして来ているからなんだと思う。」

「遠回しに言わずにちゃんと言ってよ。」

「全体にうす味を意識して素材の味を壊さないのは、今の時代に求められる方向性だとわかるんだけど。コース全体に強弱がなくて満足感がいまいち得られないなぁと。」

「・・・・・。」

 気まずい沈黙になってしまった。

「ごめなさい、佑士さん、生意気言って。俺トレーニングで汗を出してきているから、塩分を求めているんだと思う。美味しくなかったわけじゃなくて。」

「いや、いいよ。慎一君のアドバイスは、的確だよ。」

「いや、そんな事は・・・。」

「やっぱり、男性客と女性客でソースの濃度を変えた方がいいんだ。」

「そんな手間をかけたら・・・」

「手間を省いて一人でも満足させられず帰らせたら、きっとこの店はそのうち客が来なくなる。僕には君のお父さんのようなゆるぎない腕の証がないからね。」

 父さんは、あれでも帝国領華ホテルのシェフとフランスで修業した実績がある。国内の大会で特別賞を取った実績もあって、グルメ雑誌や口コミの評価も高い。佑士さんは、父さんの下で修業を積んだだけの実績しかない。実績が無くても腕が良ければ、というのは優秀な理想だが、世間はそんなに優秀な公平性はない。

 この店があの有名な店の2店舗目だと、どんなに宣伝しても売り上げがそれほど伸びなかったのは、立地的な事もあるだろうけれど、

父さんじゃない人が作っているという事実が、客の気持ちの深層にある故の嫌厭だったのだろう。それは有名店に修業に入った調理人の超えなくてはならない課題なのかもしれない。

「ありがとう、慎一君。男性向けのソースを考えてみるよ。」

「女性向けはいいですよね。柴崎先輩。」

「ええ、私は体調も悪くないし、朝から汗もかいていないしね。とても美味しく頂けたわ。」

「ありがとうございます。」そう言って佑士さんは頭を下げた後、調理帽を取った。

えりもカフェエプロンを素早く取ると。改めて佑士さんとの距離を詰めるように立ちなおす。

「えっと、今日、先輩たちに集まってもらったのは、新メニーの試食もあるんですが、もう一つ大事な目的があります。」

「何よ、改まって。」

えりは、コホンと一つ咳払いをすると、佑士さんの腕を掴んだ。

「私達、結婚しまーす!」

「・・・・・」

えりの一人だけのハイテンションが、慎一達数人しか居ない店内に響く。今日は定休日である。

「ちょっと!どうして驚いてくれないんですか!」

「そうじゃないかと予測、簡単にできたわよ。それに料理を運んで来る時、あんた鼻歌出てたわよ。」

「うそっ!」慌てたえりの態度に、柴崎と藤木が笑う。

「嘘よ。あんた、先週、新田が連盟からの呼び出しで試食会が中止になった時の私との電話で、『何だがケチついちゃったなぁ』ってつぶやいたじゃない。」

「え?そんな事言いました?」

「言ったわよ、祝賀会を兼ねた試食会ごときの中止に。」

(おいおい、ごときって・・・)

「えらく沈んだ声だったし、昨日くれたメールにも、今日は大事な日ですって書いてあったわ。」

「新田の祝賀会ごときで『大事な日』なんて入力するえりちゃんじゃないのはわかっているし、佑士さんの年齢を考えると、もうそろそろ結婚かなと予測するのは簡単だよ。」と藤木まで、慎一のフランス、マルセイズとの契約を「ごとき」と言う。

「あぁあ、サプライズ報告にしようと思ってたのにぃ。」えりが嘆く。

「あははは、詰めが甘かったわね、えり。驚かないけど、おめでとう。」柴崎が拍手をする。

「おめでとう、えりりん。」続いて藤木も。

「ありがとうございます。柴崎先輩、藤木さん。」

「どうしたのよ、新田。祝福は?」と促され、

「あ、うん、おめでとう・・・えり。」遅れて祝福の言葉を贈る。

「何だか歯切れ悪いな。」と藤木。

「やだ、まさか、妹を取られたなんて、父親心情みたいなのが出てる?」

「出るかよ。」

「いいの、いいの、慎にいの祝福なんて要らないから。」

「あんた達、仲いいのか悪いのか、ほんとわからない兄妹よね。」

「慎にいの祝福より、欲しい祝福があるんだ、あたし。」

「何?」

「りのりのの祝福。」

慎一たちは、えりの言葉に固まった。













 大体決まった時間に口恋しくなり、時計を見てしまうのは、幼少期に染みついた習慣ゆえんか、時計は15時を少し回ったところだ。

そして、これまた、その習慣に馴染んだクレメンティが、時頃よろしく「お茶にしますか?」と聞いてくるはずが、今日はその文言は出なかった。

露「申し訳ありませんが、お茶はもう少し待ってあげてください。」

露「あげて、とは?」

露「今日はミスりのが紅茶をいれて下さいます。」

露「当番制にでもしたのか?」

露「違います。ミスりのが今、ジャムを作っているのです。」

露「ほぉ~。昼からずっと姿を見ないのはそれでか。」

露「はい。数日前にジャムを作りたいからキッチンを使わせてもらえないかと聞いて来られまして、支配人に頼めば何とかしてくれるでしょうと申しあげました。支配人が料理長に打診して、今日使わせてもらえる日になったようです。」

露「イザベラ夫人仕込みのジャム作りの腕が発揮されている訳だな。」

露「ええ、苺味だけじゃなく、オレンジも作ると言ってましたよ。」

露「それは楽しみだ。」

露「えぇ、少々時間がかかっているみたいですね。」

露「粗熱を取ってからじゃないと瓶に入れられないからな。」

露「詳しいですね。グランド様。」

露「好みの物の知識を入れておくのは、ミスりのじゃなくても常識だ。」

露「失礼しました。」苦笑しながら、パソコンに向かうクレメンティ。

会話はそれ以上続かず、クレメンティが私に顔を向けていない事を確認してから、デスクに置いたままだった携帯を手にし、情報部からの緊急メールを再度確認する。

【インドネシア、ジャカルタ入港のパール号の乗船顧客リスト内にて、身元照会不可の人物5名の乗船あり、貨客リストに黒星添付済み。要確認。リスト不審人物との接触に注意】

と英語で書かれた文章が数時間前に送られて来ていた。直ぐに顧客リストを確認し、船内の防犯カメラ画像をデスクのパソコンに中継させて見ているが、特に不審な点は今の所何もない。現在、5人の内の4等客室のツインの部屋を監視できるカメラの画像をみている。10分ほど前、この部屋の乗船客である老夫婦の内の女の方が部屋から出てきて、商業エリアへと向かった。乗船手続き上の書類は、夫婦共に78歳となっている通りに、腰の曲がった老婆だった事から、要警戒人物から外し、次の画面に切り替える。老夫婦の身元照会が取れないのは、パスポートがインドネシアの中華人管理局の、最近の発行の物だからだろう。パスポートの取得日が1週間前である。老夫婦らは、これが初の海外旅行であり、手続きの書類に不備があったかで、未だコンピューターに入力されていないのだろう。アジアの中華人管理局ではよくある事だった。情報部から新たな緊急メールが入る。クレメンティは普段使っているのと違う着信音の多さに、怪訝な顔を向けたが、質問はしてこなかった。空気の読めないクレメンティではない。雰囲気的に口出しはしない方がいいと感じ取っているのだろう。何かあれば、最終的にはクレメンティにも協力を仰がなければならず、適材適所で私からの説明がある事を理解している。

 情報部からの緊急メールを開くと、新たに一人の身元が判明した詳細の連絡だった。最下等級5等船室の客、ハリソン・クレイグ、腕まくりしていたシャツから見えたタトゥの柄で照会をしたところ、犯罪歴で身元が判明する。ハリソン・クレイグはアメリカのニュージャージー州のスラム出身で犯罪歴が多数あり、この船に乗るのも偽装パスポートで乗船しているゆえに、身元照会が不可となっていた。犯罪歴の多数ある男だが、中国の黒龍会とは全く接触がなく。乗船前2週間の行動にも、黒龍会との接触はおろか、中華街にも立ち寄っていない。削除しても良いだろうと情報部の見解だった。残すところあと二人の身元がまだ判明しない。どちらが暗殺者か?いや、暗殺者など紛れ込んでいないかもしれないが、だが、ドバイより乗船して、こんなに身元照会の出来ない人物が出たのは初めてだった。

 李剥の死の真実が黒龍会を巡り、南アジア諸国のど真ん中、中国に近づいて来たタイミングでの、身元照会不明者が増えたというのは、気を引き締めないといけない啓示であるのかもしれない。

 残り二人の内の一人は、サラリーマン風の、アタッシュケースを持った男で、銀縁のめがねをかけていた。もう一人はラフにハワイアンシャツにサングラスをかけた白人の男で、シャツから見える範囲の筋肉を見れば、かなり鍛えているのがわかる。

当然、荷物検査は乗船時、空港並にチェックしてあり、サラリーマン風の男のアタッシュケースも問題なくクリアしている。中身は宝石で、男はパール号が出した正規の販売許可証を持っていた。パール号の中で商売をするには、それなりの審査が必要で、個人販売ともなれば、更に厳しい審査をしての許可となる。セレブが乗る船内での販売で、信用のない者の販売を簡単に許可などしない。だからこそ、この許可証がプレミア価値となり、許可証を売買されるという事件も起きるほどであった。男の持っている販売許可証と男の身元は確実に一致して、偽造でもない事も確認できていた。男のパスポートも偽造ではなく本物なのに、このパスポートの記載されているIDナンバーでは何故か、男の身元照会ができないでエラー表示になると、レニーの情報部は困惑していた。新たな手法の偽造パスポートかもしれないと、情報部はエラーの原因追及に躍起になっているが、私は、単なる情報部のデーター照会ソフトのエラーなのではないかと思っている。しかし、この男が3時間前に乗船して来て部屋に入ったきり、一度も出てこないのが気になる。

 そして、もう一人のハワイアンシャツの男は、パスポートのIDがでたらめであり、手荷物も少なく、次の寄港先フィリピンのマニラで降りる事になっている。暗殺者に長居は禁物、滞在期間が短いのは最警戒人物に値する。乗船すぐにターゲットを殺し、出航までに死体が見つからなければ、悠々で下船できる。それを踏まえれば、出港まで一時間を切ったこの時間帯が、最も警戒しなければならない時間帯である。

 ハワイアンシャツの男は、3等客室を利用していた。3等客室は下層客室の中では上位、値段も4等55等の倍はする。男の身なりからして、3等の客室は贅沢な印象がある。男は1時間前に乗船し、自身の客室へ入った数分後には部屋を出て、甲板のベンチシートに座り、部屋から持ち出した2本の缶ビールを飲みながらスマートホォンを操作している姿が続いている。

 防犯カメラの映像を見続け、目が疲れて来た。ため息交じりに息を吐いたら、クレメンティが、茶を待ちくたびれていると勘違いして、「もう少し待ってあげてください。」と苦笑された。

露「クレメンティ。」

露「はい、何でしょう。」

露「棄皇が乗船してくる。」

 瞬時にクレメンティの顔が曇る。

露「何がありました?」

露「そう、険しくなるな。身元不明の客が二人ほどいるだけだ。」

露「先ほどからのメールは、それでしたか。」

露「あぁ、だけど棄皇の乗船は別件を含む。」

露「そうですか・・・。」

 安堵と怪訝を合わせた息を吐くクレメンティ。棄皇が乗船してくる事で警護の質は上がるが、棄皇が私のそばに居なければならない状況が、クレメンティは嫌なのだ。

露「別件とは何の用件で?」

露「テロの詳細を聞く為だ。」

露「テロの?」

露「彼は日本のテロ現場に居た当事者だ。」

露「本当ですか!?それ。」

 まだ、日本政府からの捜査依頼は来ていないが、求められれば受けなくてはならない。腐っても李家一族は、レニー・ライン・カンパニー・アジアの幹部だ。その捜査依頼が来た時の為にも、棄皇からの報告は必須だった。

露「どうして、また、テロ現場になんか・・・。」

露「わからないから、聞くのだ。」

 険しい顔のまま首を横に振るクレメンティ。彼はまだ、レニーの表面しか知らない。私がロシアの裏社会と繋がりを持っている事を知らず、私の命が度々狙われるのは、アジア統括本部の代表になり、対抗する李家の派閥が行き過ぎる妬みから所以だと思っている。それは確かに有り余る理由だが、それ以上の事をしての数々の理由を、クレメンティは知らない。












「ねぇ先輩、りのりのと連絡とって。あたし、りのりのにも報告したいの。」

「えり・・・それは、ごめんね、出来ないの。」柴崎が言葉を詰まらせる。

「先輩までどうして?さつきおばさんも出来ないって、柴崎家に頼んでって。」

「お前、さつきおばさんに聞いたのか!?」

「聞いたよ。」

「ばかっ!」

 慎一は思わず怒鳴ってしまった。

「なっ何よ。」

 慎一は苦悶に首を横に振る。

さつきおばさんとりのは絶縁状態だ。7年前の事件がきっかけで失語症になったりのは、海外でなら英語が話せると気づき、母親のさつきおばさんに相談もなしに留学の話を進めてしまった。それが大喧嘩の発端となり、心配のあまりさつきおばさんも、精神を患わせてしまった。りのはさつきおばさんと喧嘩したまま、フィンランドに行ってしまい、絶縁状態となった。7年が経ち、さつきおばさんの精神は良くなったものの、りのの話はご法度なのは変わりない。りのは、日本で使っていた携帯を解約し、フィンランドで新たな携帯を持ったと聞いたが、慎一たちはりのの新たな携帯番号やメールアドレス、住所等の一切を聞かなかった。聞けば連絡したくなる。慎一達が連絡する事で、りのが日本を思い出し、失語症の治療の妨げになるかもしれないと考えたからだ。そうして6年後、りのは大学を卒業してもフィンランドに残って仕事をする意向だと、凱さんから告げられた時、慎一は何も思うことなく納得できていた。

 りのには、それが一番であると。

「何よ!あたし知らないわ。ずっと知らないを通して来たのよ!7年前も。突然りのりのが何も言わずにフィンランドに行っちゃった。慎にぃ達が何かを隠している事ぐらいわかってた。でもあたし、素直に馬鹿を演じて、ずっと、ずっと聞かなかった!」えりが泣きはじめる。「いつか、ちゃんと話してくれることを、待ってたんだよ。馬鹿は馬鹿なりに考えて、我慢していたの・・・ずっと。」

 柴崎も目に涙を溜め、ナフキンで目を抑えた。

 藤木が立ち上がり、宮本さんに頭を下げた。

「すみません。宮本さん、ちょっと込み入った話をしますので、場を外してもらえませんか?結婚報告に手の込んだ料理まで提供していただいて申し訳ないのですが・・・」

 これ以上ない藤木の紳士な謝罪に、佑士さんはちょっと戸惑いながらも、素直に従った。

「えりりん、そう、よく辛抱してくれたね。ごめんね。今まで。」と、藤木はえりの頭を抱き寄せ、泣き止むまで頭を撫でる。

 えりを慎一の隣に座らせ、柴崎と共に感情が落ち着いたのを見計らい、藤木が言葉を発する。

「いいきっかけになるんじゃないかな。りのちゃんへ連絡をとるに、これ以上ない理由になると思う。」

「俺達はいいかもしれないけれど、りのがどう思うか。」と慎一。

「りのちゃんがどう思っているかなんて、わからないさ。それが当たり前だ。わからないからって遠慮していたら、俺たちはずっとこの先りのちゃんとは連絡とれないまま。逆に、えりちゃんの祝い事なのに、りのちゃんへ連絡を取らない方が非情だよ。」

 確かにそうだ。えりの結婚報告はこれ以上にない良いきっかけ。りのがえりの結婚式に来るかどうかは、りの自身が決める事で、その決断を慎一たちが受け入れるだけだ。

「ところで、結婚式はいつ?りのに連絡を取るにしても、そういった詳しい事も伝えないと、ただ結婚しますだけじゃ。」

「よくぞ聞いてくださいました!私達は、フランスで結婚式を挙げたいんです。」すっかり機嫌の良くなったえり、喜怒哀楽の回転率が速いのも、新田家の女の特徴。

「フランス!?」

「新婚旅行はフランスへってのは、決定してるんです。本場のフランス料理の修行も兼ねて。」

「修業を兼ねてって、何年、新婚旅行に行くつもりなのよ。」

「何年も行かないですよ。せいぜい2週間ぐらいかなぁって。慎にぃもフランスのチームに移籍するから、もう向うで式も挙げちゃえばいいんじゃないって話しになったんです。でもそうすると、店を何日も閉めなくちゃなんないから、お父さんは駄目だって。」

「そりゃそうだろう。」

「お母さんはすっごく乗り気だよ。たまにはいいんじゃないって。お母さんも新婚旅行以来、国内旅行すらも行ってないしって。」

「大変ね、家族経営は。」

「りのちゃんもフランスに移住するって言ってたから、日本に帰ってくるよりは、出席しやすいんじゃないか?」と藤木。

「それ本当!?なんだ藤木さん、りのりのと連絡とってるんじゃないですかぁ。」

「あー違うんだよ。聞いた話で。」

 およそ2か月前、佐々木さんが仕事の関係で偶然会う事になった話をえりにして、話は続く。

「へぇ~、りのりのフィンランドからフランスへ移住かぁ、さっすがぁ、じゃ佐々木さんに聞けば、りのりのと連絡は取れるよね。」

「多分な。」

「先輩、今すぐ佐々木さんに電話してぇ。早くりのりのに報告したいですぅ。」

「今!?」

「仕事中で、迷惑だろう。」と慎一は止める。

「えーそんなぁ。」えりが頬を膨らまし拗ねる。えりの我儘は大人になっても変わらない。そんなえりに加勢する藤木は相変わらず女に甘い。

「電話してやれよ。忙しかったら拒否するだろうし、事務仕事でもないんだから、その辺は融通聞くだろう。」

 柴崎は呆れ気味に佐々木さんに電話をした。藤木の言う通り、佐々木さんは仕事中だけど大丈夫と、すぐに担当者に聞くと言って電話を一旦切ったが、数分後の折り返して来た電話では、担当者もまだ連絡が取れなくて困っていた。それまで使っていた携帯番号とアドレスが繋がらなくなって、フランス国の物に変更したら、りのから連絡をすると言われていたらしく、連絡待ちの状態だという。当然移住先の住所もわからない。念のため、旧の番号、アドレスを教えてもらって、連絡してみたけれど、駄目だった。

「タイミングが悪かったかぁ。りのちゃんからその担当者へ連絡が入るのを待つしかないかな。」

「え~。」えりが残念そうに机にうつ伏す。「りのりのと連絡取れなかったら、話が前に進まない~。」

「凱さんが知ってるだろう。」と慎一。

「凱兄さん、ねぇ・・・」と柴崎は眉間に皺を寄せる。

「何だよ?」

「今、とんでもなく忙しいんだ。あの人。」と藤木。

「いや、まぁ、知ってるけど・・・ちょっと連絡先教えてもらうだけ・・だろ?」

 二人は渋い表情で顔を合わせてから、こそこそと口を手で隠してまで内緒話をしてから、藤木が向き直った。何か、妙な雰囲気の二人。

「今から、一回だけ連絡をとるけど、期待はしないで欲しい。一回で繋がらなかったら、後日、タイミングを見計らってしか連絡はできない。あの人の時間を今、奪いたくないんだ。」

とえらく慎重な気遣いをしていた藤木だったが、あっさりと繋がった。

「藤木です。忙しい所申し訳ございません。今よろしいですか?・・・凱さんは今、りのちゃんのフランス移住後の連絡先を知っていますか?・・・はい、フランスです。・・・あぁ、知りませんか。やっぱり。・・・・それは、たまたま佐々木さんが仕事の関係でフィンランドでりのちゃんと会って・・・」

 慎一達はがっくりと項垂れた。これまでのやり取りを藤木は長く説明して、えりが結婚するから、りのに知らせたい事を告げた。

「グレンですか?・・・あぁ、なるほど。わかりました、ありがとうございます。お時間取らせて申し訳ございませんでした。」

 藤木は電話を切って慎一達に告げる。

「凱さんもまた、りのちゃんのからの連絡待ち状態らしい。フランスのグレンの所へ移住するとは聞いていたが、もう学生じゃないから流石にプライベートな事には踏み込めず、世話もできなくて、あらゆる手続きは本人任せにしていたと。」

「じゃ、グレンに連絡とったら、わかるんじゃない。新田、メールのやり取りしてたじゃない。」

「数回だけだ。しかも中等の頃だぜ。」

「アドレス消したのか?」と藤木。

「消してないけど・・・今更、嫌だよ。」

「わーん。慎にぃ、ひどい!可愛い妹が困ってるのにぃ、人肌脱がないなんて、非道、鬼畜、弱虫毛虫!」

「非道な罵詈雑言を口にする妹が、可愛いわけない。」

えりは頬含ませて、テーブルをガタガタと揺らして抗議。

「もう、やめなさい、えり。」

「新田も、人肌脱げよ。」

 慎一こそ頬を膨らませて、スマホを取り出す。メールボックスを開いて、ふと、さっき送られてきていた英文字ばかりのメールを思い出した。グレンからのメールは全部ローマ字だった事を。もう一度そのメールを確認して驚いた。

「グレンからメールが来てた。」

「はぁ!?」

「えりからの大量メールに紛れて、バグったと思ってたんだ。」

「大量メールって何?」

「えへっ、慎にぃに遅れないでって、いっぱい送ったんだ。またすっぽかされたら嫌だから。」

「グレンも、りのを探してる?・・・みたいだ。」

「ええっ?」

 皆に見えやすいようにスマホをテーブルの上に置いた。

【sinich、boko、guren oboeteiruka rino doko?sinich,oshieru boku rino tohanashi suru】

「何これ。」

「ローマ字だよ。」

「読みづら。」

「だから、嫌なんだよぉ。」

 柴崎が慎一のスマホを取ろうとしたとき、電話が鳴った。

「びっくりしたぁ。」

見ると未登録番号、普段なら未登録番号からの電話は出ないようにしていたが、このタイミングの電話は出た方がいいような気がした。

「はい。」

「あー、ぼく、グレン。きみ慎一?」

「グレン!そうだよ。慎一。」

 全員仰天の顔。

「さっきメールくれただろ。ちょうど今、読んでいた所だ。」

「よかった、慎一、ナンバー同じ。」

「うん、ずっと同じ、変えてない。」

「慎一、りの、そこいる?ぼく、りのと話し、する。」

「グレン、りのは、ここにいない。日本に帰国するなんて話、聞いてないし、会ってもいないよ。」

「うそ。りの、日本行く。言って、家出る。」

 声高に怒った風のグレン。

「グレン、それいつの事?」

 慎一は、皆が注目しているのに気付いて、サイドボタンを押して、スピーカー機能を作動させ、テーブルに置いた。

「マンス・・・日本、テロの日。」

「1か月前!?」

「うん、テロの日、りの、大使館、いく、言った、家、出た。」

「大使館に?」

「うん、古いスマートフォンみる、驚く、家、出た。」

「りのちゃん、日本のテロの事を知って、詳しく知ろうと大使館に行ったのかな?」と藤木。

「華族会の緊急招集令よ!華族も華選も、緊急招集メールは海外であっても届くようになってるの。おそらく、りのはそれを見て・・・私達は海外でそれを受けたら、とりあえず現地の大使館に行き、日本との連絡を取るようにと教えられているの。」

「そのテロの日、りのはグレンの家を出て行ってから、それからは?りのから連絡は?」

「ない。僕、昨日、電話した。電話、駄目。」

「昨日?それ以前は?」

「いぜんとは?」

「えっと、昨日より前、りのが家を出た次の日とか、すぐの頃、グレンはりのに電話をしなかったのか?」

「しない。」

「えっ?」

 慎一達は顔を見合わせた。

「しないって、グレン、君はりのと一緒に住んでいる、その・・・恋人同士じゃないのか?」

「うん。りの、愛してる、パートナー。」

「だったら、どうしてもっと早く、電話しないんだ。大使館に聞いたのか?」

「ぼく忙しい。」

「忙しいって、恋人と連絡が取れない、どこ行ったかわからない状況なんだぞ!」

 グレンの態度があまりにもそっけなくて、思わず、声を荒げた。

「だから、困る。家のおかね、ない。」

「はぁ?」

「りの、アパート、お金、払うルール、オーナー待つ、僕、お金ない。困る。ミレーヌが、パン買ってくれる。」

「ミレーヌって誰?」

「恋人。」

 全員と驚きの目を合わせた。

(何だ?グレンってこんな奴だったか?)

 フランスは貞操観念の薄い国だったことを思い出した。結婚に縛られない。同棲中のアパートの一室に他人をシェアさせる事もある。お国柄のグレンの態度を日本人の価値観で責めても仕方がない。りのはそういうのを知って、納得してグレンの所に行っているはずだ。

「何なの!このグレンって奴!」

 えりの叫ぶ口を塞いだ。

「慎一、りの、隠す、しない。僕、りのと話す。」

 人種感覚の違いを理解しても、グレンの態度に苛立ちが起きてくる。

 自分達もりのを探している事を伝え、互いにりのと連絡が取れたら教える事を約束して電話を切った。

「りのりの、きっとこのグレンって奴が嫌になって家を出て行ったんだ!りのりの以外にも別に恋人を作るなんて酷い奴だもの!」

 えりが怒ってテーブルを叩く。

「仕事関係にあった出版社も、りのと連絡が取れない。」

「凱兄さんも同じく連絡待ち。」

「グレンもりのを探している。」

「この状況って・・・。」

 慎一たちは改めて、お互いの険しい顔を確認し合った。

「世界規模の、」

「行方不明。」

「嘘でしょう。」

「あーん。りのりのぉ~どこに行ったのよぉ~。」












(ミスターグランドはどんな顔をするかしら。)

 それを想像すると自然に顔がほころぶ。イザベラ婦人に教えてもらったジャムが完成した。苺味だけじゃなくオレンジも作ってみた。オレンジには隠し味にリキュールを入れて、これは料理長のアドバイス。上手にできたと思う。二種類のジャムがあれば、その日の気分でどっちかを選ぶ事ができるし、これだけあればしばらく保つだろう。

 二つのジャムの瓶が入った紙袋を持って、中央エレベーターに乗り込む。お茶の時間が遅くなってしまったけれど、クレメンティには、私がロシアンティを入れるから待っていてと頼んである。

 エレベーターの速度がいつもより遅く感じる。止まり、扉が開くスピードももどかしい。開ききらないうちに飛び出すと、腰の曲がったお婆さんとぶつかりそうになった。

英「ごめんなさい。」

 お婆さんは私に驚いて一瞬曲がった腰を伸ばして後ずさりしたけど、すぐにまた腰を丸くした。

 焦って押すボタンを間違え、降りる階を間違えたのだろうかと階層表示を見たが、間違いなくD1だった。オーナー室への来客予定を今日は聞いていないし、お婆さんの身なりは貧相だった。来客ではないのは明らか。しかし、無下な態度をするわけにはいかない。とりあえずは世界共通語の英語で尋ねる。

英「失礼ですが、ミスターグランドのお客様でしょうか?」

英「ごめんなさいねぇ。上はどんな風かと、見てみたくて来たんだけど。」

(良かった英語は通じる人で。)しかし、アジアなまりが酷い。

英「そうでしたか、ここの階は、この船のオーナーの部屋でして、来られたお客様かと思い、お尋ね致しました。」

英「おや、オーナー階だったとは知らずに、これは失礼をしたねぇ」

英「いいえ。」

英「お嬢ちゃんは、オーナーさんの娘さんかえ?」

(やっぱりそう見えるんだなぁ。)

英「いいえ、私は、オーナーのビジネスパートナーです。」

英「おや、そうかい。若いのに立派だねぇ。」

英「ありがとうございます。」

 そこでエレベーターのドアが閉まりかけた。慌ててボタンを押し、閉まるのを防ぐ。

英「申し訳ございませんが、この先はお約束の方しか入室できない決まりでして。」

英「いやいや、いいよ。」

英「本当に申し訳ございません。」

 お婆さんは理解してくれて皺を深くして笑った。ゆっくりとした動作でエレベーターに乗り込み、手を振ってくれた。

(可愛いお婆さん。そうだよね、上がどんな部屋か、気になるよね。)

 私もきっと一般人として乗船していたら、スゥィート階層はどんなだろうと気になり、探検しに来たに違いない。

踵を返す。曇りガラス製の自動扉がある。脇に設置されたセキュリティ操作盤に登録したカードキーのスライドと指紋認証をしないと扉は開かない仕組みになっている。その向こうは廊下が続いて、更にオーナー室の玄関扉がある。玄関扉も同じカードキーによる差し込み開錠だけど、開錠の際は室内にあるオペレーションパネルに誰が帰宅したかが表示され、音声でも知らされる。バッグからレニー・ライン・カンパニーのゲストIDカードを差し込む。社員証のカードが、部屋のカードキーにもなる優れものである。私は相変わらずゲストIDキーのままだった。お婆さんにビジネスパートナーなんて言ったけれど、立場的にどうなのか?一度、ミスターグランドに聞きたいと思いながらも、何となく怖くて聞けなかった。 

 このまま、ミスターグランドとずっと一緒に居たい。もっとミスターグランドの手助けをして、ちゃんとビジネスパートナーだと認めてもらいたい。

(その為には、私、何でもするわ。)

 横浜で降りろと言われないように、これからも一緒に来て欲しいと言ってもらえるように。

 セキュリティボックスにカードをスライドさせ、左手の指を認証パネルに乗せる。「OK」の文字と共に自動扉は開く。6歩の廊下を歩いて玄関扉にまたキーを差し込む。解除のアラームが鳴り、「お帰りなさいませゲスト様」と電子音声が出迎える。本物のIDカードを持っているミスターやクレメンティのカードであれば、「お帰りなさいませ」の後にちゃんと名前を言ってくれる。

 扉を押し開くとまた廊下で、個室の扉が4つ。中はバスルーム付きのダブルベッドの部屋となっている。

そのまま船首方向へ、今度は10歩歩くと、広く明るいレセプションルームに出る。

レセプションルームは半分ロフト式になっていて、ロフトの天井はガラス張りで夜空が見えるようになっている、半円のバルコニーにも出られて、レニーホテルよりも開放的で、リゾート色が強い。またホテルと同様にパソコン常設のデスクが中央に2つと、テレビに向かうソファ、応接セットが二つある。そして、これまたホテルと同様、小さなキッチンもある。

英「遅くなりました。」 

ミスターグランドが微笑でうなづく。

クレメンティは立ち上がって、ニコニコ顔で私を迎えてくれる。

英「待っていましたよ。ミスりのが淹れてくれるロシアンティを。」

英「今すぐ淹れます。」

英「手伝いましょうか?」

英「いいえ、いいわ。私一人で大丈夫だから。待っていて。」

英「では、期待して、待ちましょう。」

 ティータイムが遅くなったのに怒らずとても優しい微笑みを向けてくれる二人。私の胸は暖かく幸福感に包まれた。

ミスターのその微笑みが、今はまだ子供に向けられるような愛撫であったとしても、私は、その特別の関係に幸せを感じ満足したい。そしていつか、女としても認められたい。そんな事を考えながら、船の骨格である太い柱の向こう、奥まった場所にある小さなキッチンで、電子ポットのお湯が沸くのを待つ。ジャムの瓶を紙袋から出して置き、スブーンも用意。

 このジャムが、ミスターグランドにとってゆるぎない必需品となれば、私は、彼のそばにずっと居る事が出来る。

(このジャムが私のキーとなる?)

 自分の思考が可笑しくて笑った。

 大丈夫、このジャムはイザベラ婦人が教えてくれたもの、おいしさの自身はある。トレイにカップと茶葉を入れたティーポットを用意する。

 レセプションルームの方から、オぺレーションパネルの電子音声が聞こえた。誰かの入室を知らせる音声だったが、その誰かまでは聞き取れなかった。オぺレーションパネルは、ちょうど壁向こうの位置にある。レニー・ホテルと同様でセキュリティ管理、照明と空調の調節、ミュージック、船内施設との連絡、ルームサービスなどの注文、操作ができる。

(カップをもう一つ増やした方がいいのかしら?)と一瞬悩むも、やっと湧いたお湯では足りなさそうだ。

 熱々のまま紅茶葉の入ったティーポッドにお湯を注ぐ。カップはとりあえず3つのままで出そう。客が紅茶好きとは限らないし。客も紅茶を希望するなら、このまま出して、自分の分は後で用意すればいい。トレイをそっと持ち上げる。カップ同志があたり、カチャカチャとなる音は、心地よいリズムとなって私の心を躍らせる。鼻歌が自然と出る。何所かで覚えたカントリーミュージック。

 こぼさないように慎重に歩く。レセプションルームは、まだ日は高く、天窓からキラキラと強い光が降り注いでいた。その光はミスターグランドの為に作ったジャムの成果に対する自分への賛美だと思えるほど

(素敵なティータイムとなる。)

 そう確信した瞬間、まるで劇場の暗幕が風で翻ったように、視界に黒い影が横切る。

「えっ・・・。」

その眼がぐりんと回るように赤く染まった。

まるで蛇の目のような、その眼。

恐怖を越して、

心臓が、

息が、

ぎゅーと捕まえられる。

そして、引っ張られる。

引っ張られるのは、

私の中の、ずっと奥の、

「魂が・・・」

苦しく、心地いい。

抗いたくて、浸りたい。

魂が引っ張られる懐かしく苦しい感覚。

「何故・・・ここに。」

「どうして・・・ここに。」

 一致した疑問は、答えを求めて互いの記憶が共鳴し辿る。

 凄まじい速度で流れてくる棄皇の、7年分の記憶が私の中に蓄積されていく。

 立っている感覚がなくなった。












 キー代わりにもなるレニー・ライン・カンパニーのIDカードを、セキュリティボックスに差し込む。すぐになじみの電子音とIDナンバーの復唱、お帰りなさいと機械に出迎えられて、ドアが開く。

 カードにデザインされているダブルLのロゴマークの文字色は、黒にゴールドの縁取り。頭目の信頼を得て、このカードを手にするのに3年がかかった。中国語も話せず頭目の運試しに撃たれたあの時から数えれば7年の月日。

 世界トップ企業レニー・ライン・カンパニー。世界を牛耳る流通企業は、大陸ことで社を分け、IDカードの本体の色で一目見てわかるようになっている。ヨーロッパ支部は紫、北アメリカは青、中東は黄、南アメリカは緑、アフリカは茶色、オーストラリアは橙、そしてアジアは赤。ダブルL のロゴの文字色は、社内での地位及び権限を表す。代表は一つ目のLが虹色で箔押しされ二つ目のLが金色。ヨーロッパの総本部の総代表は二つ共に虹色の箔押しであり、それを含めて虹色のL文字を有するのは世界に8枚だけということになる。虹色の次に高位であるのは金色、副代表や専務、常務クラスの幹部、それらに付随する秘書で、社内の施設利用、情報アクセス権など、おおよその権限が認められている。続いて、銀色は、執行役員幹部、施設利用の権限は金の幹部と大差ないが、情報のアクセス権が大幅に制限される。そして次に紺色から7段階に格付けされている。新入社員は緑からスタート。二つ目のL文字は部署を表す。

流通業のみならず、航空事業、ホテル業、情報サービス業など広く展開する為に単色だけでは仕分けられず、文字の縁取りや地模様を付けたりと、最近では次第に複雑かつ派手になりつつある。

 レニーの世界共通規定として情報部のL文字は黒を主体に使い、他部署の黒色の使用は禁止されている。我や一部の情報部の数人は一つめのLに金の縁取りがされている。情報アクセス権だけは金色と同等クラス。という意味である。

 このシステムを構築したのが、頭目、レニー・コート・グランド・佐竹である。インターネットを介した情報システムの参入にいち早く着目し、システムの構築と各国の承認を取り付けた。見えない糸で世界網羅を果たした頭目は、大陸ごとにバラバラだった社員の階級やIDをまとめて統一することもレニーの世界統括本部に提案し承認させた。誰よりも先見の目があり、迅速かつ提唱力のある、思慮優れた人だ。生まれてから、天才なる人を初めて見た。

 廊下を抜け、レセプションルームにたどり着く。頭目が書類より顔を上げて微笑する。

中「到着しました。」

中「急がせたな。」

中「いえ、ご無事で安心しました。」

中「あぁ。」

 クレメンティが渋い顔をして立ち上がり、挨拶もなく後方の資料棚へと下がった。彼は中国語が分からない。勉強中と聞くが、さほど真剣に話せるようになろうとしていない。アジア大陸統括本部のある香港では、確かに中国語は習得しておくに越したことはないが、社内では英語も通用語であるので、不自由がないからだろう。そして、何より我の存在を嫌っていて、意思疎通の手段を最小限にしたい気持ちがある、というのが本音だ。一度クレメンティを倒し、その眉間に銃を突きつけたことがあるゆえに致し方ない。

 デスクを挟んで立ったまま、頭目と言葉を交わす。

中「身元確認の出来ない客が5名、の内2人は判明したと情報部より報告がありましたが、その後の進展は?」

中「あぁ、それ以外はまだだ。だが、老夫婦は違うと見込んで良いだろう。」

中「一度、その5名全員の容姿確認をしておきます。」

中「用心深いな。」と苦笑する頭目。

中「それが私の仕事です。」

頭目は満足した微笑で頷く。

中「それから、頭目の推測どおり、女は用意周到に準備しておりました。」

中「やはりな。」

中「昨日、女は対象と接触をしかけましたので、直前で捕え・・・。」

クレメンティの様子を確認した。彼は、書棚からファイルを取り出し、書類に目を通している。こちらの会話に聞き耳を立てている様子がないのを確認してから、言葉をつづけた。

中「処分いたしました。」

その報告に一切表情を変えず、変わらない微笑を我に向ける。それが頭目の冷酷さの際立ちであり、恐ろしさだ。

中「手間を取らせた。」

中「いえ。」頭を下げたその背後に、人の気配を感じ振り返った。

船体を支える大きな円柱の後ろからゆっくりと現れる人物を、認識した瞬間に始まる、意識の奥から沸騰するような感覚。

左目に血が集結する。求め合う魂。

「魂が・・・。」

苦しく、心地いい。

抗いたくて、浸りたい。

魂が引っ張られる懐かしい感覚。

「何故・・・ここに。」

「どうして・・・ここに。」

 一致した疑問は答えを求めて、互いの記憶が共鳴し辿る。

 凄まじい速度で流れてくるりのの7年分の記憶が、我の中に蓄積されていく。

 左目を手で覆い、暴走する力を抑えようとした。しかし、止められない。

 7年の月日に渇望した魂が、潤い満たされる感応に、

 官能を味わう。

「駄目だ・・・りの・・・。」

 次々と展開される映像と流れてくるりのの感情。

 反対に、我の記憶もりのに流れていく。

 りのの身体はガタガタと震えて怯え、持っている茶器が警告音のようにカチャカチャと鳴らす。

 共鳴する魂、一つになろうとする魂。

 苦しく、心地いい。

 抗いたくて、浸りたい。

 感応した体は官能の絶頂へ、

 神応は、神呪を解き、無となる。

 それが、交接にて我々が導きだした古からの宿命に対する答え。

 我々は分かち離れた一つの魂。

 りのの意識は薄れていき、持っていたトレイが傾き茶器が滑っていく。そのトレイを掴もうと手を出したができず、熱湯が右手にふりかかって茶器が次々に床に落ちた。

 りのの意識が完全に失われると、共鳴した魂の暴走は止まった。

 身体を大きく揺らし崩れ倒れるりの。床に散らばった茶器を足払いしながら、りのの頭に腕を差し込むことが出来た。

 7年ぶりに触れるりのの柔らかな髪と肌、 そして、今も尚、美しく聡明な面持ちが

 愛おしい。









 ミスりのの持っていたロシアンティのセットは、床に落ち、派手な音を鳴らして割れた。その上に、足元から崩れるように倒れるミスりのを、棄皇は素早く割れた茶器らを足払いしながら腰を落とし、頭が床に触れる寸前で腕を差し入れ、抱える。

「ミスりの!」クレメンティが悲鳴に近い叫びをあげて、駆け付けるが、

「触るなっ!」クレメンティの手を払いのけるように棄皇が阻止する。

 日本語のわからないクレメンティだが、棄皇の気迫と睨みにたじろぎ、その手を引っ込めた。

棄皇は、ミスりのの首筋で脈を確認した後、ミスりのの体を抱え上げて立ち上がる。

「部屋へ運びます。」

意識のないミスりのを抱いて、間違いなくミスりのが使っている部屋へと向かった棄皇。

(何故、部屋を使っている事を知っている?)

英「クレメンティ、部屋の扉を開けてやれ。」

 呆然としているクレメンティは、私の言葉に慌てて追いかけた。しばらく部屋の外から中の様子を窺い、戻って来たクレメンティは、まずい茶を飲んだような表情を私に向ける。

英「あの棄皇が・・・ミスりのを。」

英「何だ?」

英「ミスりののほほを撫でて・・・信じられません。」

(あぁ、確かに信じがたい、それは。)

 男女問わず、容赦のなく殺す鋭さを持つ、若い頃の自分を見ているような棄皇を、だからこそ私は、専属の諜報員として側に置くことにしたのだ。





日野本翔太 1993年6月25日生まれ

国籍 日本 東京都 板橋区

学歴 常翔大学中退

中退理由 交通事故による身体及び記憶障害による学習困難により、本人の希望による


「私に子供の面倒を見ろと?」

「二十歳です。日本では大人と認められる年です。」

「二十歳・・・それより若く見えるが。」

「日本人は、年齢より若く見られますから。」

「事故による記憶障害・・・」

「身体的には何ら問題ありません。記憶障害もただ自身の経歴を喪失しているだけで、日常生活に支障があるわけではないので。」

柴崎凱斗の後ろに立つ青年は、無表情に我々のやり取りに一切興味が無さそうに、何処とわからない場所をみている。

「それと、面倒ではなく、ただそばで、あなたが手に入れる世界を見せてやってほしいと、私の代わりに。世界一流の世界を。」

「できる言語は?」

「日本語。あと、英語も少し出来るな?」

振り返り問うた柴崎凱斗の言葉に、何の反応も示さない青年、普通なら、自身の身の寄せ所に、不安と興味を要り混ぜながら、探るように周囲を見るはずが、それが一切ない。これが記憶障害の影響なのか、見かけの子供らしさよりずっと、落ち着いたその態度に奇妙な違和感を見る。その態度に興味を覚えない訳じゃないが・・・私が面倒を見る必要性が、見出せない。もっと、クレメンティの時のように、自身が頭をさげて願い乞うなら、少しは考えてやってもいいが、その頭を下げているのは本人ではなく柴崎凱斗ばかりで、青年の眼に生きる野心がない。

柴崎凱斗の今までの行動からみて、彼が私に生徒を預ける事も妙なことだった。

書類に記載された情報を信用するわけではないが、この中で何か一つ、この青年の買い所を探すとすれば、顔の整形手術を施さなければならないほどの事故に会いながらも、九死に一生を得た、運だ。

それにしても整形をしたとは思えないほどきれいな肌をしている。最近の整形術の進化の賜物か。

少々悪意が出て、その青年の運を試したくなった。

座っていた椅子から立ち、デスクを回り出た。

真っ直ぐその青年に歩む。私の動きに青年はやっと右目だけを動かした。

今流行りの髪型なのか、左の前髪だけを長く伸ばし、完全にふさがっている左目。

私の歩みの妨げにならないように柴崎凱斗が一歩下がった、その瞬間に胸の内ポケットのサイレント銃を掴み出し狙う。

真っ直ぐ伸ばして銃口を、その青年の胸に向けて、引き金に力を入れる。

柴崎凱斗が叫ぶ。向けた銃を叩きはじくと同時に、青年を突き飛ばした。

ドシュッと弾は、尻もちをついた青年の足元に、銃煙を上げる焦げ穴が出来た。

青年は驚愕に眼を見開いて、唾をのみ込んだ。

やっと、表情に色がついた。

「何をするんです!ミスターグランド!」柴崎凱斗が息巻く。

「英語もロクに出来ず、日本語だけで私のそばで世界を見ようなど、レベルの低い冗談はやめてもらおうか。」

「・・・・。」柴崎凱斗が渋い顔で俯く。

「ただ一つ、死ななかった、その運だけは買おう。私の側で世界を見たいのなら、話せる言語を増やすか、それを超える術を持って願い乞え。」

死ななかった青年は、ゆっくり顔を上げた。覆いかぶさっていた髪が流れて、左目が露わになる。

目の錯覚か、その眼が一瞬、赤く染まり揺れたように見えた。

青年は、顔を左右に振り、左目を髪で隠し、俯いた。




 ミスりのの部屋から出てくる棄皇、何事もなかったようにデスクの前に立ち、真っ直ぐ私を見る。

言い繕う何かを話すかと思ったが、しばらく待っても何も発せず、私から話した。

中「柴崎凱斗との繋がりを考えれば、ありえない事ではないとは思うが、まさかの展開だな。」

中「・・・。」

中「医師を呼ばなくていいのか?」

中「必要ありません。眠っているだけですから。」

中「良く知っているようだな、ミスりのを。」

中「・・・。」

中「事故による記憶喪失ではなかったか?」

 肯定も否定もしない棄皇は眉一つ、頬の筋肉一つも動かさない。

「真辺りのとの関係は?」あえて言語を変えた。

 少し間を置いてから、棄皇は日本語で答える。

「初めて肉体関係を持った女です。」

「初めての女の記憶は喪失しなかったという事か?それとも初めから記憶喪失などなく偽っていたか?」

「・・・ついさっき、思い出しました。」

「奇遇の再会をして?」

「はい。」

「とても記憶障害の人間が、記憶を取り戻した時の反応とは思えないが?」

「症例は人それぞれではないでしょうか。」

 この顔、やはり日本の国王、神皇家の継嗣、双燕新皇に似ている。瓜二つという表現がぴったりだ。




突然、ドアは開かれた。ノックもなければ、受付からの来客の告知もない。

私とクレメンティは会話を止め、手にしていた書類から顔をあげて開かれたドアへと向ける。

制服姿の警備員が不躾な態度でドアを開け立っていた。

クレメンティと顔を見合わせ驚きの不審を確認し合う。

レニー・ライン・カンパニーのビルの警備員は、全フロアを周回して警備にあたっているが、役職個室までは立ち入る事は禁じられている。それをすれば即刻首である、が、まだ就業時間である今は、前室にいる秘書の者がまずもって入ろうとした警備員を咎めるはずだ。それがない異常事態に、クレメンティと私は同時にデスクの椅子から立ち上がった。警備員の背後から黒づくめの男が一人、入れ替わるように姿を現す。

英「ヒノモト ショウタ!」クレメンティが驚きの声を上げたが、私はその名に覚えがなかった。

英「誰だ?」

英「カイトシバサキが連れてきた青年ですよ。5年前に。」

そう言われてすぐに思い出した。約5年前、柴崎凱斗が私の下に置いてほしいと頼んできた青年は、日本語しかできないまだ子供の様相をしていた。私は子供の面倒など、見るに及ばないと突っぱね、運を試す為に本気で銃で狙い撃ちした。

運よく命拾いしたその青年が今、私のビジネスルームの入り口に立つ。

随分と印象が変わった。真っ直ぐ私を見据える片目には、精悍さが宿っている。

「なんだ、5年前の仕返しでもしに来たのか?」ジョークを交えた私の問いに、

「・・・。」答えない青年の表情は変わらず、まっすぐ私を見つめてくる。

 その異様な間に耐え切れなくなったクレメンティが動いた。それに反応するように、青年は跳ねるように床を蹴った。

一瞬の出来事だった。私もクレメンティも、青年がどう立ちまわってそうなったのかわからない。瞬き後の景色は、クレメンティは床に仰向けに倒され、青年はクレメンティの首を腕で押さえ、拳銃を額に突き付けていた。

 その拳銃は、私が護身用としてクレメンティに預けていたもので、クレメンティは懐に入れていたはずだった。

「クレメンティ!」

 私の叫びに青年は、クレメンティから離れ立ち上がる。

そして私にまっすぐ拳銃を向けた。内ポケットから自身の拳銃を取り出すタイミングを逃した。

(まさか、この場で死ぬ運命となるか?)

そう思った時、青年ヒノモトショウタは、:拳銃から弾倉を抜いて床に落とした。

中「死ななかったこの運。そして話せる言語と、それを超える武術。」

 とても流暢な中国語だった。世界で一番難しいと言われる中国語を、約5年で仕上げた成果は優秀だ。

中「これでもまだ、レベルの低い冗談だと認めないか?」

(私に死の覚悟をさせて、認めろとは見事だ。)

中「認めよう、その野心。」

これよりこの青年の世界が変わる。

30年前の私が、父と母と姉さまを殺して世界を変えたように、

青年は私を殺して、世界を変える。

中「日野本翔太、私の側で一流の世界を見よ。」

中「その名は棄てた。」

 青年は私の前まで歩み寄り、デスクに拳銃を置く。

中「我が名は、棄皇。」



「7年前の、柴崎凱斗が提示したお前の生涯情報を、私がそれを丸のみに信用したと思うか?」

提示された日野本翔太の生涯情報を元に、レニーの情報部に集めさせた。だが得られたデーターは極わずか、柴崎凱斗が提示した情報の域を超えないものばかりだった。その僅かしかない情報の少なさが、警戒をするに必然だったが、当時、使える部下が足りなかったのも事実。クレメンティを倒した素早い動きは、大いに役に立つのは証明済みだった。だから青年の疑わしき素性には目を瞑り、柴崎凱斗が連れてきた人物という事だけを信用し、そばに置いた。

「疑いながらも、私をそばに置いたのは何故です?」

「今更、聞くなという事か?」

「いいえ。答えられる記憶がございません。」

(あくまでも記憶喪失を貫くつもりか。)

「お前になくても、真辺りのにある。」

 棄皇の頬がピクリと動いたのを見逃さなかった。どうやら、ミスりのが弱点になるようだ。

「ミスりのが起きてくるのを、茶でも飲んで待とうか?」英「クレメンティ、お茶にしよう。」

 ミスりのが落とした茶器を拾っていたクレメンティが、返事をして同意する。

「頭目、今は私の事より、身元確認の出来ない客の素性を疑うべきではありませんか?」

「そうだな。身元確認の出来ない乗客が一人増えた事だしな。」

 私の意地の悪い言い方に、棄皇は僅かに口の端を動かした。

 クレメンティは、拾ったオレンジと苺のジャムの瓶を、デスクの上に置いてからキッチンへと向かう。

 ミスりのが作ったジャムの瓶は、差し込んできた傾いた光に照らされ、淡く輝いた。

「頭目・・・。」

 話す気になったのか、棄皇が再び口を開いた。

「そのジャムを口にするのは、やめた方が身のためです。」

「毒か?」

 ミスりのが裏切りを?

 それとも、誰かにジャムを作っている隙に毒物を入れられたとか?

「いいえ。」

「何だ?」

「彼女の作るものを食するのは、やめた方が良いと申しあげます。」

「何故、知っているのだ?これをミスりのが作った事を。」

棄皇の周りでは、時々理解しがたい事が起こる。今の様に知り得るはずのない事象を知っていたり、人が彼の前では意気消沈で殺意を失ったり。これは、りのとの関係性も含めて、もう目を瞑っておく時期ではなくなった。

「答えようがありません。」

「どこまでも白を切るつもりか。」

「そういうわけでは・・・。」

私は苺の方のジャムの瓶を手に取り、蓋を開けた。

ルビーのようにキラキラと輝き、苺の甘酸っぱい香りと、シュバルツ家直伝のワインの香りもする。

「忠告はしました。食されて後悔なさらぬように。」棄皇は、姿勢よく一礼して部屋を出ていく。

 謎多い青年の後ろ姿を見て思う。何故、私はあの青年をそばに置いたのか?

理解しがたい棄皇の存在は、今の所、私の害にはなっていない。むしろ役に立っていて、何度も命を助けられている。今では裏の私の顔を知り、クレメンティよりも信頼を置くほどだ。

(初めてとなるか、私の指示を聞かなかったのは?)

ミスりのがキーとなり、壊れる棄皇の素性と我々との関係性。その行く末に、久々に高揚を覚える私自身。

「面白くなってきた。」

 私は指でジャムを拾い、口にした。

「うっ・・・・」

英「クレメンティ、早く茶を。」

英「と言われましても、お湯はすぐには湧きません。」

英「水だ。水を持って来い。」

英「は、はい。今すぐに。」

 クレメンティは不審の表情で、水の入ったコップを持ってくる。一気に飲み干した。

英「どうしました?大丈夫ですか?」

英「毒より厄介だ。これは。」

英「何ですって?」

(どう作ったら、こんな味になるんだ。)

クレメンティが開いたままのジャムを手に取り覗き込む。

英「クレメンティ、忠告する。後悔したくなければ、それを食すな。」

英「はい?」

 これもまた、棄皇の危機回避能力の一端なのか?

 しかしながら、このジャムが、ミスりのの手作りである事を、更に、食べて後悔するほど不味いことを、

何故、乗船してきたばかりの棄皇は知るのだ?











 りのと再開する事は絶対にないとわかっていても、えりの店を出ると、慎一はここへと足を向けていた。

彩都市が一望できる国立指定公園の展望。遅咲きの桜の木が数本ある為、この季節、花見見物に訪れる人は多い。階段を登る道中、すれ違いに慎一の素性がばれて呼び止められる。握手の求めに応じて「頑張ってください」の言葉を貰い、階段登りを再開させる。

 何度も、こんな思いで登った階段道。慣れた道とは言え、やっぱり息が上がる。

 開けた展望丘に着いた時には、脇と額にじわりと汗をかいていた。

 彩都市を望むベンチに、制服を着た若いカップルが座っていて、慎一が近づくと慌てて立ち上がり、顔を伏せて逃げるように立ち去っていく。制服は常翔学園じゃなく、地元の公立高校の制服だった。学校をサボって来ていたに違いない、慎一のスラックス姿が学校関係者か、警察の者かに見えたのだろうか。驚かせてしまい、可哀そうな事をした。しかし、そそくさと立ち去る学生の後ろ姿を見て、懐かしく思い馳せる。

 ここは、濃密な思い出がある場所。

「世界規模で行方不明か・・・」

 もう、あの時のように、がむしゃらに探し回って見つけられる規模じゃない。

 慎一達は黒川君に頼む事も考えた。が、黒川君はこの春より警察官になるべくして警察学校に入校する身、もうすぐ警察官になる黒川君に、ハッキングなどさせられない。流れから、失踪者捜索願を警察に出して探してもらうか?とも考え、調べてみると、失踪者捜査願いは親族の者、もしくは後見人しか出せないとあった。他人でも出来ない事もないが、受理されない事が多いともネットの情報で知る。さつきおばさんに、りのが行方不明ですと言えない。りのの行方不明を知ったら、さつきおばさんは、また錯乱状態になり、支援していた柴崎家を責めるに違いない。それに、世界規模で行方不明のりのを、日本の警察が捜査してくれるとは思えなかった。

 お手あげ状態に慎一たちは唸った。

 結局、凱さんに事情を話す事になった。そもそも華選であるりのの行方不明は、報告しておいた方がいいだろうと結論に至ったのだ。

慎一たちからの知らせに凱さんは、「わかった、探してみる。」と言って電話を切った。

 凱さんからの連絡を待つしか、何もできなくなった慎一たち。

「りの・・・どこに居るんだ?」











 目を開けたはずなのに、まだ暗い眠りの闇にいるようだった。

 微かに床や壁を伝わってくる振動で、船内の自室だと気づく。

 身体を起すと、かけられていた毛布がはらりとベッドから落ちた。窓へと顔を向けると船自身からこぼれる僅かな光で、やっと窓枠の存在が判別して、もう夜だと理解する。

 ブルっと身震いをする。日が落ちると気温はぐっと下がっていく。空調は切られているようだった。

 身体が寒いが、それ以上に心が寒い。冷たく、凍り付くような記憶の塊が、私の胸に沈んでいる。

 私はベッドから降り、部屋を出る。レセプションルームは明かりが灯っていて、人の気配がした。

 そっと廊下から顔をのぞかせると、クレメンティだけが部屋のデスクでパソコンを操作していた。私に気づいて顔を上げる。

英「ミスりの!」立ち上がり、私に駆け寄ってくるクレメンティ。英「大丈夫ですか?」

英「ええ、大丈夫。」

英「心配しておりました。本当に大丈夫ですか?船医を呼びましょうか?」

英「大丈夫よ、クレメンティ。心配かけてごめんなさい。」

英「いえ、謝罪など必要ありません。喉は乾いていませんか?あぁ、夕飯の時間ですね。お腹が空いているでしょう。ここに食事を持ってこさせましょう。何がいいですか?」

 矢継ぎ早に私の心配をする姿が、昔の慎一を思い出させ、暖かなクレメンティの微笑みに涙が出てくる。

英「わわわ、やはりどこか苦しくてっ、船医を呼びましょう。」

 慌てふためき、オペレーションパネルへと向かうクレメンティの腕を掴んで止めだ。

英「クレメンティ。」

英「はい。」

英「ハグ、して。」

 心から冷えた身体が人恋しい。

 クレメンティは戸惑いの顔で、ゆるりと私を包み込んだ。

英「ミスりの、これでよろしいですか?」

英「もっと強く。」

 クレメンティの腕が、私をギュッと抱き寄せる。彼が好んでつけている鈴蘭の香りのコロンを胸いっぱいに吸い込んだ。

 吸い込む質量と同じだけ涙がこぼれる。

英「あぁ、こんなに震えて、可愛そうに。」

 人肌の温かさにホッとするのに、私は何故か、包まれる居心地に違和感を覚えた。

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