後編
「GugegzzzzuAaaaagerrrrrrrrrrr………~~~!!!」
自分でもさっぱり意味の分からない呻きをマスクの下から漏らしながら、私は眼前のトロトロ集団を睨む。
そうとは知らず、ぺちゃぺちゃ楽しげにお喋りしながらのんびりお歩きになるお姉さまがた。
私の歩行速度と奴らの遅さを考えれば、あと数秒もしないうちに容易に追いついてしまうだろう。こちらの歩みを遅くするにも限界がある。
ここは一本道の住宅街。奴らと私の間に横道はないし、喫茶店やコンビニなども皆無。
まさか素通りしながら追い抜くわけにもいかない。
――仕方がない。
一本道とはいえ、逃げ場が全くないわけではないのだ。
私はすぐに踵を返し、彼女たちに背を向けた。
つまり、回れ右。Uターン。
一旦彼女たちとは真逆の道を行き、時間を稼ぐ。これしかない。
というわけで、駅とは完全に逆方向へ進むことになってしまった私。
情けなさ過ぎて涙が出そうだ。仕事終わったら一刻も早く帰ってのんびりしたいのに、何故こんな無駄な行動を取らねばならないのだろう。
一旦は出たはずの会社の前まで戻り、さらに反対方向へと歩いていく。
普段は見慣れない住宅街。一息つける公園や喫茶店があるわけでもなく、かといって目立つ建造物もなく、ただただ地味な街並みが続く。全部同じような色合いの家やマンションばかりで、下手をすれば迷い込んでしまいそうだ。
夕闇の中、どんより灰色に沈みこむ住宅街。まるで今の私の心境を映したかのように。
何が悲しくて自分がこんな場所を歩いているのか、ひたすら疑問に思い始め――
3分も我慢出来ず、私は再びUターンして、来た道を戻り始めた。
しかし、これでもかなりの時間が稼げたはずだ。
ここから会社の前に戻るだけでも3分。5分以上もの時間を稼いでいる。
それまでにはさすがに彼女たちも――
だがその見通しは、いともあっさり裏切られた。
私はあまりにも舐めていた。集団で練り歩くバb……お姉さまがたの遅さを。
戻り始めて3分もしないうちに、例の大集団がはっきり見えてきた……
なんということだ。さっきの地点から殆ど進んでいないようにすら見える。
こうなったら再度逆走でもして、時間を稼ぐしかないのか。
あまりの事態に、絶望しきって思わずため息をつきかけた私。
しかし、その時だった。
「仕方のない人たちね。
今がどういう状況か、大人であれば分かっているでしょうに」
不意に背中からかけられた、涼やかな声。
全然気配を感じなかったのに、いつのまにそこに現れたのか。
私のすぐ背後では、グレーのスーツを着こなした黒髪の女性が、静かに前方を見定めていた。
スーツと同色のフレアスカートから覗いた脚はすらりと長い。マスクをしているから正確な年齢は分からないが、多めに見積もっても二十代前半ぐらいの若い女性に見える。しっかりとウチの会社の社員証が胸元にかかっていた。
その手は素早く懐からスマホを取り出し、驚くほどの手際の良さで前方の光景をカメラで撮影していく。
私が口を半開きにしたまま啞然としていると、彼女は振り向きもせず問いかけてきた。
「貴方、あの人たちと同じ部署?」
唐突に聞かれ、私は慌てて首を縦に振る。正直、横に振りたかったが。
「あ……
は……はい」
「貴方の行動、さっきからずっと見てた。
不思議な動きをしていたから、何だろうと思ってたけど……
アレを避けたかったのね」
私より明らかに若いにも関わらず、奇妙な貫禄を見せる彼女。
ていうか、み、見られてたのか。
逆走まで見られてたのか。
「は、はい……ご、ごめんなさ……」
完全にしどろもどろになっている私。これが正社員の威厳というものか。
彼女はストレートの黒髪をさらりと払って風に靡かせながら、スマホを懐にしまう。
「でも、大丈夫。
今、会社の方へ証拠写真と一緒にメール送ったから。
上で何とか対処してもらえるはず」
果たして、それだけで何とかなるだろうか?
一瞬そう思ったが。
「私の知り合いも、ああいう集団が大嫌いで。
緊急事態宣言中なのに、何かと集団で行動しようとする人たちのこと……
どうにかならないかって、いつもボヤいてたの。
自分で何とかすればいいのに、いつだって他人まかせなんだから。
おばさんたちの反撃が怖いのかしらね」
その言葉で、私は初めて気づいた。
――私だって、何とかしようと思えば出来たはずだ。
彼女たちを避け続け、憤懣を心の中だけにしまうのではなく。
派遣先の会社でも、派遣元にでも、いくらでも言えば良かった。
彼女がしたように、証拠写真でも突きつければ一発だ。
それが出来なかったのは――
やはり彼女の言うとおり、『反撃が怖い』。それだけ。
これまでだって、口下手と不器用さ故に、何度学校や会社で地味にチクチク虐められてきたことか。
相手から見えないところで、集団で陰口を囁き合う。それは女子高生だろうと社会人のお姉さま集団だろうと、一向に変わることはない。
今目の前でのろのろと道を闊歩している集団が、私のことを『
テキパキ行動すべきはどっちかと言いたくなるが。
そんな集団から、もし一斉に攻撃を受けたら。
――想像したくもない。
「すみません……私、ただの派遣ですから」
私にはそう愛想笑いするのが精一杯。
しかし派遣社員であっても、会社に相談することは出来るはずだ。
私はただ、怖かっただけ。人間関係に波風を立てるのが怖かっただけだ。
そんな私の胸中を見透かしたように、彼女は表情一つ変えずに言い添えた。
「貴方の気持ちは分かるわ。
立場の弱さ故、余計なことをすれば自分がどうなるか分からない。
私の知り合いも、いつも言っているの。自分は出来ないヤツだから発言権もろくにない、これ以上同僚との関係に波風立てたくないんだって……
ヘタに優しいものだから、一方的にモラハラ受けまくってるのよね」
その知り合いって、どういう人物なんだろう。
やっぱり私と似たような、不器用な社員なんだろうか。
そんなことをぼんやり考える。
「でもね。今は、緊急事態宣言中なの。
自分だけはきっと大丈夫って、みんな思っているけれど……
もうそんな思考、通用しない。
今日はたまたま大丈夫だったかも知れない。だけど、明日どうなるか分からない。
もしかしたら今日大丈夫に思える自分さえ、感染源となっている危険すらある。
――そういう世界になってしまったこと、あの人たちにも自覚してもらわないと」
そして彼女は初めて、その切れ長の瞳をすうっと横に流し、私を見据えた。
何故だろう。超美人のはずなのに、何故か印象に残らない。そんな表情。
敢えて意図的に印象をぼやかしている、そんな気さえする。
「今変えないと……
貴方もいずれ、あの人たちと同類扱いされるハメになるわよ」
それだけを言い残すと、彼女は私の返事も聞かず、颯爽と夕闇の中へと消えていった。
私は彼女に名前すら聞けずに、ぼんやりとその場に立ち尽くすしかなかった。
********
数日後。
派遣元の担当上司から、メールが派遣社員全員に送られてきた。
この派遣先に勤務する派遣社員、全員の担当に当たる上司だ。大抵の連絡メールはこの上司から送られるが、今回は――
『先日、派遣先のABC社様から相談がありました。
緊急事態宣言下であるにも関わらず、集団で帰宅されるかたが後を絶たず、周辺住民の皆様からの苦情が来ているとのことでした。
昨今、ニュースやネットでも言われている通り、現在は通常の状況ではありません。
これ以上の感染拡大防止の為、ソーシャルディスタンスの徹底を厳守してください。
また、社内では勿論、社外においても、社会人として節度ある行動をお願いいたします』
――ロッカーでこのメールを確認した時、私はほっと胸を撫でおろした。
ようやく上も動いてくれたか。多分、例の彼女の現場写真つきメールのおかげだろうけど。
この書き方だと、それ以外にも相当苦情が入っていたのだろう。
もっと強い書き方でも良かったと思うけど、さすがにあのお姉さまがたもこれで――
と、思っていたら。
ロッカーの向こう側から響いた声は。
「上司のメール見た?
酷いよねー、まだこんなことしてる人たちいるんだぁ~」
「あんなにニュースで言われてるのに、危機感ない人まだいるんだね~」
「私たちちゃんと距離取って帰ってるから、そこは安心だよね~」
「そうそう、車道にはみだすレベルで離れてたしね~」
「その人たちもちゃんとソーシャルディスタンス取れば良かったのに。
ホント、私たちにまで迷惑かかるんだからやめてほしいわ~」
「そうそう、ソーシャルディスタンスね~」
「ディスタンス、ディスタンス~♪ あ、これ今日の飴ちゃん食べる~?」
お前らだよバカ。
ていうか車道にはみだしてたの、距離取ってたつもりだったんかい!!
私は気が付くとスマホを取り出し、上司への返信メールを書き始めていた。
人間関係にヒビ? 陰口? イジメ? んなもん知ったことか!!
上司、もっと強い書き方じゃないと駄目です。現場にいたヤツらを名指しにしないと駄目です!
こいつら、もっと徹底的に絞り上げて下さい!!
Fin
感染症が大流行なのに職場のバB……お姉さまがたが集団で帰ろうとしていますタスケテ!! kayako @kayako001
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