第30話 毒/100%の精度

 兄が住むタワーマンションの、エントランスの豪奢さに、呼高よびたかは肩身の狭い思いをした。遠出は自粛すべきという見えない圧力のせいか、敵地に乗り込んでいるような緊張感もあった。


 だがエレベーターで25階に着くと、絨毯張りの廊下は大人二人がやっと通れる狭さで、庭のある家に住んでいた自分のほうがやはり恵まれているのではないかとの考えが頭を巡った。


 部屋番号を確かめていると、ちょうど背中のほうから、こんにちは、と声を掛けられた。ウエーブの掛かった黒髪の女性の頬は少しやつれていたが、自分の住む地域には、このぐらいの年齢の女性が、濃い緑色のコートを身に着け、籐製の籠を手に外出をするような、洒落た文化はなかった。


 呼高は、2階建てのスーパーに併設された服飾雑貨売り場で、割引セールの対象品だった紺のジャケットと、ピンクの無地のワイシャツ、チノパンに3000円の合皮製の黒靴という姿である。女性は笑顔で会釈をしてくれたが、その前に一瞬、眉をひそめたようにみえた。きっと、安物品で身を固めた自分のみすぼらしさが原因なのだろうと呼高は思った。


 玄関ドアの横にあるインターフォンを押して1分ほど待ったが、兄が現れる気配はない。ドアノブを引くと、鍵は掛かっていなかった。


 奥のほうからシャワーの水の粒が浴室の床を叩く音が聞こえる。靴を脱ぎ、無機質な廊下を真っ直ぐ抜けると、リビングがある。ガラステーブルには空となったブランデーの瓶と、水をたたえたアイスペールと、乾いたロックグラスがある。


 テレビは70型で、革張りのソファがL字に設置されている。足元にあるのはペルシャ絨毯だ。呼高はリビングに面したダイニングと、カウンターキッチンに身体を向けた。オーブンレンジ、冷蔵庫、炊飯器。いずれも最新のものだ。


 眺望は確かに素晴らしかった。こんなに高いところから街を眺めていると、自分の価値を必要以上に見積もってしまう。これは毒だな、と思って呼高は部屋のなかに目を移す。目を凝らすと壁の所々に、茶色や黒の染みや、何かをぶつけたような跡が残っているのが浮かび上がっていた。


 「長旅ご苦労さん」


 シャワーの音がするほうから、現一げんいちの声が聞こえた。


 「不用心だな」


 呼高はソファに腰をかけながら答えた。現一は何も言わず、ドライヤーで髪を整えている。昔から身だしなみに人一倍気を使っていた兄だった。


 3分ほど経過し、現一がリビングに姿を現した。自分よりも上質な生地にみえる黒のジャケットと白地に水色のストライプの入ったシャツで固め、ブランド品のグレーのジーンズを履いていた。現一は冷蔵庫を開き、牛乳パックを手に取った。


 「休みはいつまでなんだ」

 「明日までだわ」

 「そうか。メールは読んだぞ」


 返事をよこさなかったことを詫びるような兄ではない。


 「土地のことはこちらでやる。母さんの手続きについては、悪いけど呼高にお願いしようと思う」


 呼高は、兄がそういうものの言い方しかできない人間だと諦めている。


「兄さん、母さんの顔、見たない?」


 現一は食器棚からグラスを取って、真っ白な牛乳を注いでいる。


 「こういう時期だからな」

 「こういう時期でも僕は来たけど。いや、そんなことじゃないんだわ。母さんがね」


 現一が顔を上げた。


 「いつも通っとるデイサービスの職員がコロナに掛かったんで、母さんがね、濃厚接触者とみなされたんだわ。母さんが隔離されてから会わせてもらえんくてね。検査ではまだ陰性みたいだけど、母さんはそれからね、熱出して、今は入院しとる。肺炎を併発してはおらんけど、もしコロナに感染したと診断されて、さらに呼吸困難になったら、人工呼吸器だっけ、あれを付けないかんくなるかもしれん」


 人工呼吸器の取り付け方法に関する記事を、つい最近、現一はネットで読んだばかりだった。同じような状況に母が置かれることを想像し顔をしかめた。


 「母さんは陰性だとして、お前はPCR検査を受けたのか?」

 「ああ、受けたよ。陰性だった。でも100%の精度がある検査じゃないんだってね」


 呼高は、小型爆弾をポケットに忍ばせたテロリストを演じる下手な役者のように、にやりと笑った。


 「そういう話を聞いているなら、こっちに来たらいけないだろう」


 弟のメールに返信しなかった怠慢を、現一は棚に上げる。


 「会社を休めたのも、僕に濃厚接触者の疑いが出たからなんだわ。検査キットをネットで取り寄せて何回か試したけど、まだ陽性にはなっとらん。なっとらんけど、そんなの今は、正直どうでもええわ。母さんがもし肺炎になったら、兄さんも僕も、母さんの顔は見られんくなるよ。縁起でもないことをいいたないけどね。母さんが死んだら、遺族であろうが、感染症の拡大を防がないかんから、対面はできんらしい。僕はね、何としても肺炎になってほしくない。兄さんには、そういう気持ちはあるんか?」

 「当たり前だろう、持っている」


 呼高は、適当に答えただろう、と叫びたくなる気持ちを抑える。感情のしこりを生み、自分が果たすべき役割を果たせなくなるのは嫌だった。


 「なら、お願いがあるんだわ」

 「カネか?」

 「カネじゃない。カネはありがたいんだけど、カネじゃ解決できん」

 「じゃあ、なんだ」


 息を飲みこんでから、呼高は続けた。


 「少しでいいから、母さんの介護を手伝ってもらいたい」

 「介護の手伝い?」

 「今の兄さんなら、やれんくはないだら」


 リビングの空気が張りつめた。


 「今の俺? どういうことだ」

 「紗季さきちゃんやたかしとの時間を持つ必要は、当面ないだら」


 現一は黙った。


 「僕もこれまで気にすることはなかったけど、介護施設でコロナの感染拡大が度々起こる今のような状況が続けばだよ、母さんを施設に入れたくても、施設側はそれどころじゃなくて、しばらく待ってくれ、みたいに、どこも言ってくるんじゃないかと思うんだわ。兄さんの会社に介護休暇があればええけど、なければないで、テレワークしとるんだったら、無理のない範囲で、実家に帰る日を作ってくれん? 僕はね、今の仕事を辞めたい気持ちなんだけど、母さんと一緒におれて、しっかり稼げる仕事にすぐに就ける保証なんてないもん。まあ、兄さんのおんぶにだっこでも、申し訳ないけど」


 そこまで言うと、呼高は手を膝のうえに乗せ、頭を下げた。


 「この通りだから」


 呼高は頭を下げたまま、現一が口を開くのを待った。断られたら諦めようと決心した呼高に掛けられた言葉は意外にも、憂慮に満ちたものだった。


 「申し訳ない、と思う必要はないから。わかったよ」


 呼高は、手品をみせられたような表情をしている。目の前の現一は、厳しい兄でも強い兄でもなく、自分を何度も殴った兄でもかった。


 「俺には俺の考えがある。お前は仕事を辞めなくてもいい」

 「兄さん、会社のほうはなんとかなるのか?」

 「大丈夫だから」

 「そうか」


 大丈夫だから、と言う兄の声色に、今までのような自信が感じられなかったのを呼高は気掛かりに思ったが、兄の意思表示そのものは、有難かった。


 「本当にありがとう」


 呼高はもう一度、頭を下げた。用事は一つ済んだ。だが、礼を言って自宅を出る前に、もう一つ、やらなければならないことがあった。


 「あと、兄さん」

 「あと、何なんだ?」

 「頼まれたことがあってね、これだけど」


 呼高はジャケットの内ポケットから、便箋を取り出して、ガラステーブルの上に置いた。現一様、と表記した文字列の、その筆の運び方は、現一には見覚えのあるものだった。


 「昨日の夜、紗季ちゃんと新横浜で晩御飯を食べたんだわ。コロナのことも、ちゃんと言ったけど、会ってくれた。会う前にね、電話で色々と話を聞いていたんだけど、何も言わずに家を飛び出したのは良くないし、メールを直接送りにくいのなら、手紙を書いて僕に渡してくれたら、届けてあげる、と言ったらね。だいぶ、悩んだみたいだけど、ちゃんと書いてきてくれたんだよ」

 「お前……」

 「夫婦の話だから、首を突っ込むことはせんけど、兄さん。しっかりせないかんよ」


 呼高はそういうと立ち上がり、また電話をする、とだけ言い残して、部屋を後にした。


 静寂が包む部屋の中で現一は再び、独りになった。

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