第29話 絶望という名の誘惑


 部屋にいるのはただ現一げんいちのみだ。音があればまだましだろうと思い、テレビのスイッチを入れる。


 遮光カーテンの隙間から日光が漏れてくる。ちょうど朝9時を回ったところだ。CSの24時間ニュース専門チャンネルでは、東京市場の寄り付きの様子について、株式評論家が解説している。


 11月3日に実施された米国の大統領選の州ごとの開票速報が、現地メディアにより逐次報じられる1日だ。


 市場はトランプ氏であれバイデン氏であれ、次の大統領は巨額の財政支出を伴った経済対策の実施に踏み切るのだと期待し、先物買いに動いていた。「米国の株先物が上昇しています。これに連れるように日本株も先物主導で買いが入っています」と評論家は語る。


 4年前の大統領選の時、トランプ氏がメディアや専門家の大方の予想に反して優勢となったと報じられると、日経平均は先物主導で売られ、一時1000円を超す大幅な下げとなった。その翌日にはトランプ氏の政策に対する警戒感が和らいだことから、日経平均は1000円を超す上昇となった。


 今回の大統領選も混迷を極めているが、市場は達観しているようにみえる。経済対策が講じられるのは必至なのだ、との雰囲気が席巻している。


 先物買いが裁定取引を誘発し、現物株の価格を押し上げている。5秒刻みで変化する数字を見ながら、先物は子どもで、現物は親ですよ、と言った男の声を現一は思い出す。


 投資家にもいろいろなタイプがいる。短期で収益を上げようとする主体、長期観点で動く主体、企業のM&Aの可能性を予想して売買する主体、政治や経済のイベントの結果を予測しポジションを取る主体。株主となった企業に、株主価値の向上を訴える主体。厳密な理論を重視する者もいれば、過去の経験則を重視する主体もいる。


 その様は百花繚乱と言ってもいい。だが株式市場に関して言えば、その時その時の雰囲気を、軽視する投資家はおそらく少ない。バイデン氏が大統領になった場合は富裕層への税率が引き上げられるリスクがある。トランプ氏が留任すれば、米中摩擦が一段と激化するかもしれない。いずれも株安材料だが、この日は、そんなことはどうでも良くて、今は経済政策に対して期待しなければならない雰囲気、流れなのである。


 確かに、かの男の一言には一理ある。親が現物株。


 その時々の雰囲気で親の気分が変わり、親から派生した子に対する接し方が変化する、というのと同じなのか、と、ここまで考えてみたが、現一はどこか引っ掛かる部分がある。


 先物は、リスクヘッジの手段であるはずだ。損をしたくないという願望があるからこそ生み出された仕組み、というのが教科書な意味での先物でもある。


 リスクヘッジというのを親子関係に当て嵌めるなら、老後の孤立がリスクで、子どもがちゃんと育てば、リスクの軽減が可能になる。いや、孤立がリスクなら、配偶者もリスク回避の手段たりうるではないか。


 損失を抑えたいという願望だけが、先物を売買する動機なのかというと、それも何だか違うような気がする。もっと儲けたい、という欲に掻き立てられた人間ならば、相場の上昇が見込まれる時、主力の現物株に加えて先物も買い持ちし、より含み益が増えるようなポジションをとることだってある。


 手間を掛けずに儲けたいとの思考が強い人間の場合、個別の現物株について一つひとつ適正な価格を算出して、指し値で注文を入れるより、先物を売り買いしたほうが、手っ取り早い。


 そうなると、先物というのは願望の集合体であって、集合体はたえず変動している。先物イコールFutures。すなわち未来である。先物を売り買いするということは、願望の変化を利益の源泉とする行為、なのかもしれない。


 実体の集合体、いわば自然が現物。願望が先物。現物ロング、先物ショートというポジションは、自然や現実を受け入れ、未来を拒絶することであり、現物ショート、先物ロングのポジションは、自然や現実を認めず、未来のほうを選ぶこと。そんな言い方だって、できなくはない。


 ならば自分の願望とは何だったのか。報酬が上がる未来だったのか、報酬が多少下がっても、安定した報酬を得られ続ける未来だったのか。


 たかしは未来だろう。紗季さきも未来だったし、朱音あかねも未来だった。ついまでは。


 、がしばらく続いて終わった後は、特別清算指数の算出に伴って現物資産に決済されるように、これらの未来は消え去ってしまった。


 しかし、すべての未来、ではない。


 9月限の日経平均先物ラージが決済された後は、3カ月後の12月限が取引の中心になる。願望が消え去った後も、次の願望が近づいてきて、取引所がある限りはそれを繰り返していく。


 くだらない願望など糞くらえと考えているなら、現物をロングし先物をショートするように、現実を直視し自分を肯定して生きればいいだけだ。現物としての自分が死ぬ時は、貸借対照表の資産と負債、純資産の部を、誰かが引き継ぐだけである。それは親族かもしれないし、行政機関かもしれない。


 そして、少しずつ願望の輪郭が見え始め、漠然とした願望に自分がベットしたいと思うようになった時、先物の売り持ち高を少しずつ減らしていけばいいのである。


 日経平均株価は上げが一服し、年初来高値の手前で一進一退の展開となっている。しかし上昇を続けている銘柄よりも、買いが入らず放置された銘柄のほうが多い。中央銀行による栄養豊富な水を注入されても、すべての株に均一に行き届いていると言えるような状況ではなく、水が行き届かず干からびた銘柄の方が、多数派であった。


 多数派に含まれるのは、痛みを伴う構造改革で成長するよりも、縮小均衡のなかで何とか存続する道を選ぶ企業群である。新たな価値を生むことも、育むこともない。時流のなかでそうした道を選択せざるを得ない会社だってあるだろう。


 証券会社に入社をすると両親に伝えた時、現一の父はすでに病床にあった。母は父の看病に追われながら、激務で悪名高い証券業界に飛び込む息子を案じた。それでも就職氷河期が長引くなかにあって、企業から内定を受けた僥倖には感謝をしなければならないと思ったようで、反対はできなかった。


〈あんたはお兄ちゃんだで、しっかりせないかんよ。弟の呼高よびたかの模範にならなかん。多少苦しいことはあっても、みんな同じだでね、働けることを有難く思わないかんよ〉


 入社式の前日、東京行きの新幹線を待つホームで、母は現一に掛けた言葉だった。物心ついた時から、似たような言葉を掛けられてきた。自分はしっかりしなければならないのだ、と無意識に自分を縛ってきた。しっかりしていない自分はダメな奴。自分はこうあらなければならない。こうある自分は素敵である──。


 大学に入り都市で育った人間と自分との見えない格差に気付くと、素敵な自分は脆くも崩れ去った。そういう自分を認められない現一は、現実が歪んでいるものとみなした。歪んだ現実にあっても自分はしっかりし続けることができるのだ、と信じ、信念は信仰のようなものになり、自己愛を肥大化させた。年収の高さこそが、自分を守るのだと考えるようになった。自分以外のものに目が向けにくくなってしまった。

こんな現実は、ショートだな。現物も先物もショートだ。世の中を絶望が襲った時に、俺は勝つのだ。


 しかし、勝ってどうするのだ。負けを取り戻したとしても、自分の周囲に何もなく、何も得られないままだとすれば、負け続けているのと何ら変わりがないではないか。


〈あんたは、しっかりせないかんよ〉


 現一は母の言葉をもう一度反芻する。


 その時だった。エントランスに来訪者を告げるチャイムが鳴った。日経平均株価はなおも、一進一退を続けている。


 児童相談所の職員が、また訪れてきたのだ、と現一は思いながら、モニターを見た。画面に映ったのは、男性は男性だが、スーツ姿ではない。うつむいた男の顔が影となってみえず、タワーマンションにも訪問販売に訪れる人間がいるのかと不思議がったが、声を聴いて、はっとした。


「兄さん、おるんでしょう」


 呼高だった。


「紗季ちゃんから色々聞いた。電話しても出ないだろうと思って、悪いけど会社を休んで直接来ることにしたんだわ。話せる?」


 解像度の低いモニターであっても、呼高の毛髪は、夏に見た時よりも一層、薄くなっていた。母の介護で苦労した弟の姿を前に、現一は黙り続けることができなかった。


「分かった。開けておくから、こい。その代わり、風呂に入らせてくれ」


 そう言って、現一はエントランスの扉を開錠した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る