第28話 鏡泊湖

 肩のあたりが軽く感じる。


 現一げんいちは車を運転していた。国産のコンパクトSUVが走るのは、両隣を田畑に囲まれた幹線道路で、北へ向かっている。


 桜が散り終えたぐらいの時期なのに、気温は30度近くまで上昇し、暑さに身体が慣れていないせいか、冷房を目いっぱい強くしないと、顔じゅうの汗が顎のあたりに集まって、玉となってしたたり落ちそうなぐらいだった。


 助手席には紗季さきがいた。結婚する前の姿に若返っている。


 見慣れない周波数のラジオ局にチューニングされたFMからは、アース・ウィンド・アンド・ファイヤーが流れていた。愛知万博の開催にあわせ、特別に開設された放送局の周波数である。


 車は愛知万博の、長久手ながくて会場に向かっていた。弟の呼高よびたかは母の置子おきこと一緒に、別の車で会場に向かうと言ったのである。


 2020年の記憶がしっかりあっても、今は2005年だ。呼高はまだ高校3年生だったはずだが、母を車に乗せてどこかに行くのが、すでに何十年前からやっていたことのように現一には思える。


 夕方に「こいの池」に集合して、ナイトイベントを見学する約束だけはしていたが、それまではそれぞれが別行動することとしている。


 紗季はコンビニエンスストアで購入したガイドブックをすでに読み込んでいて、いくつかの外国のパビリオンと、「サツキとメイの家」に付箋を貼っていた。特にサツキとメイの家には何としてでも行くのだと強く言った。現一は「サツキとメイ」を「セルインメイ(9月に株を売れ)」と言い間違えていることを気付くこともなく、セルインメイは予約なしでは入れないぞ、と言う。紗季はショックを受け、もう万博など行きたくないと言い出した。


 入場券は、自動車部品メーカーを経営する近所の自治会長が、清掃活動の見返りに、置子に渡したものだった。地元の大企業が取引先にチケットを配り、そのチケットが何社かを経由して、一部の市民の手に渡るということが、まかり通っていた。


 そういえば、紗季は相模原の人間だ。大手自動車メーカーの関連会社は確かに相模原にもあるが、結婚する前は愛知に足を踏み入れたことがないはずだ。いや、自分がそう思っているだけで、本当は隠していることがたくさんあるのかもしれない。


 「君はなんでここにいるの」と訊ねると、「いて悪いの?」と本人は開き直った。「で、どこに行きたいの?」とふくれっ面の紗季の問いかけに現一は「時価総額を考慮して、JR東海の超電導リニア館と三菱未来館、トヨタグループ館、日立グループ館、三井・東芝館」と答える。


 あとはタイ館とかかな、と付け加えようとする前に、紗季は「企業が自然との共生なんて、うさんくさ」と切り捨てる。


 森を切り開いた駐車場にSUVを停めると、そこはまだ会場とは程遠いところであって、シャトルバスに乗り換えなければならなかった。バスは大混雑だった。感染症が世界的に流行しなかったのを感謝しながら、現一は紗季の手を引き、バスを降りて入場口へと向かった。


 「こんな状況じゃ、企業ブースは行けて一社ぐらいじゃない?」と紗季が言う。数ある銘柄から割安なのを探して投資せよということかと妙に納得した現一は、東芝と日立で悩んだ。ともにITバブルが崩壊した後、株価が低迷している。事業再編を進めている点も共通している。と、入場口までの列に並んでいる間、ガイドブックを開いた紗季が気付いた。「企業ブースも予約必要だって。外国のパビリオンに行くしかないんじゃない」。そうか、と現一はがっかりした表情になった。


 紗季が付箋を貼った外国のパビリオンのなかに、タイ館はなかった。数少ない渡航先であったタイのパビリオンを見学コースに加えるよう、現一は頼むと、仕方がないなあ、と紗季は言う。


 入場ゲートを通り、係員の指示に従って、ゴンドラに乗ろうとしたとき、現一の背後から、こんにちは、と話しかける声が聞こえた。振り向くと、5歳児の長男、たかしが余所行きの服を着て、歩いていた。


 驚いた現一は「隆、いつの間に生まれたんだ」と聞く。隆は「さっき」と答える。紗季は目を丸くしたが、すぐににこやかな顔に戻って、隆の手をとった。


 3人が乗ったゴンドラは宙を進む。後ろのほうから隆が「パパ、仕事、パパ、仕事」と調子を取り始めた。振り返った現一は「仕事じゃないぞ、一家団欒だ」と、口を挟む。「それよりどこかで水売っていないかな。この子熱中症になっちゃう」と紗季は息子の体調を心配している。


 現一は、こんな時間が永遠に続いてほしい、と思った。


 ゴンドラが目的地に到着した。欧州各国のパビリオンが集まるエリアだった。


 「じゃあ、まずポルトガル館だね」と紗季は指を差す。飾りっけのない白の長方体の建物の正面に、カタカナで「ポルトガル」との文字列が掲げられている。「なんでポルトガルに行きたいと思ったの?」と問う現一に、紗季は隆の手をとったまま「私ファドが大好きなの、ああいう哀愁が漂った音楽がね」と答えた。妻がファドが好きだなんて現一は知らなかった。


 パビリオンに近づくにつれ、ファドのギターの音色が大きくなっていく。自動車産業が集積するドイツやイタリアならまだしも、ポルトガル館を訪れる人間はそう多くはない。まだ春なのに熱中症予防を目的として設置されたミストシステムが霧を噴霧していて、異世界に迷い込んだような錯覚があった。


「ゲン」


 霧が消え去ろうとした時、向こうから声が聞こえた。朱音は草むらのなかでしゃがんでいる。


 現一は驚いた。はじめは何をしているのか分からなかったが、その場で用を足しているのだと分かると、自分の下腹部に熱い血流が走るのを感じた。そばに妻と息子がいなければ、過日のように、彼女の体躯をその場に押し倒していたに違いなかった。


 朱音は何事もなかったかのように、下着を履きなおし、その場に立ち上がった。赤の布地に刺繍が入った頭巾を被り、青い紋様が肩と袖口に飾られた白いシャツを、赤いベストが覆っている。スカートは緑と赤と黒の布地が縦にストライプを形成し、くるぶしまで覆う皮のブーツを履いている。


「バイトで、ポルトガル館の案内をしているの。あちらにいらっしゃるのは、奥さん?」


 紗季はポルトガルの伝統衣装を着た女性を珍しそうに眺めている。


「そうだよ、こちらが、妻の紗季」

「奥さん、少しだけいい?」


 朱音は紗季を手招きし、パビリオンにある受付のなかに招き入れた。二人は現一と隆に背を向け、壁の方を向きながら、声が漏れ聞こえないように小声で、何やら話し合っている。朱音の説明に、紗季の顔が険しさを増す。


 そして二人は、穢れた存在に対する嫌悪感を露骨に表すような目で、現一を見た。


「パパのせいだよ」


 後ろにいた隆も現一を、軽蔑した目で見る。


「俺が何をしたんだ、なあ、紗季、隆」


 二人の耳に、現一の声は全く入っていないようだった。


 「朱音、紗季に何を言ったんだ。なあ、教えてくれよ」


 朱音の口が動いた。だが現一の耳に声が届かない。聞こえないからもっと大声で、と言おうとした時、現一の耳たぶを掴む大きな力が働いた。


 耳骨が悲鳴を上げる。現一の身体が宙に浮き、ポルトガル館がみるみる遠ざかる。どこに連れていかれるのか不安になった。ポルトガル館の似たような外観の建物が近づいてくる。正面の入口のうえにはゴシック体で「満州」とある。


 入口の横に食べ物をテークアウトできるカウンターがあるのが目に留まる。カウンターの上に掲げられたメニュー一覧表に記されているのは餃子しかない。


 耳をつまむ圧力がなくなり、重力に従って自分の身体がまるでゴルフボールのように、芝生の広場に向かって落下する。着地時の衝撃は、思ったほどではない、というよりほとんどなく、何事もなかったかのように立ち上がることができる。


 周囲を見渡すとまだ愛知万博の会場のようだ。紗季と隆とはぐれてしまったので、現一は場内放送で呼び出しをお願いしようと考えた。インフォメーションセンターはどこなのか、看板を探すよりも、人に聞いたほうが早いと考え、満州館のなかに入った。


 絵画や彫刻物が一切、運び出され、白壁しかない美術館のようなパビリオンのなかは、冷房が効いている。受付に女性が一人だけ座っている。朱音とまた会うのかと警戒したが彼女ではなく、朱音の恰好をしたロボットだった。


「満州館へようこそ」

「あの、迷子を捜している、というより私が迷子になったのですが」

「満州国の自然について、お調べになっているのですね」

「いえ、自然ではなく、家族の居場所を調べています」


真っ白の壁に瀑布を携えた湖の姿が投影される。


「こちらは鏡泊湖です、日本語の読み方はですね、少し恥ずかしいですけど、チン…」

「くだらない、くだらなすぎる」


ロボットは首を横に振って、ため息を付いた。


「お役に立てずに申し訳ありません。もっとも、あなたがご覧になっている国は、現在は実在しておらず、ゆえにこの国のパビリオンに足を踏み入れたあなたも、ここに実在することはこれからできなくなりますが、よろしいですか。よろしければタッチパネルに表示されたナンバーキーの『1』を、もう一度最初からお聞きになるには『0』をプッシュしてください」


 タッチパネルに表示された数字は「1」しかない。現一は立ち尽くす。すると、ロボットの朱音は自分の不器用な指をタッチパネルに近づけて、「1」を押した。


 パビリオンの扉が閉ざされ、光を奪われた空間に暗黒が広がる。遠くから太鼓の音が響いてくる。現一の身体の至るところが強張りはじめ、身動きが取れなくなっていく。呼吸もままならず息苦しさが襲い、助けを呼ぼうとするが声が出ない。こうして人間は消えていくのか、と一瞬思う。


 汗が玉となって額から噴き出てくる。暗闇のなかで転げ回り、自分に嵌められた透明な鎖を解こうとするうちに、首の筋肉が弛み、息ができるようになった。


 ──目に留まったのは、リビングの天井に備え着けられたシーリングライトの、白い樹脂製のカバーである。現一は眠りから覚めたところだった。酒を飲みすぎたせいか、起き上がった瞬間に頭痛がする。


 身体は重い。


 枕元のスマートフォンは充電が切れかけていた。3日前の日曜日に、朱音に送ったLINEのメッセージは、すぐに既読となったが、今になっても返事が来なかった。ジョニー池の清掃活動に参加するメンバーから、自分に関するよからぬ噂を耳にし、幻滅したのではないか。現一はそう推察していた。

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