第27話 エセルルド2
火照りかけた
「奥さんがじょに会のメンバーでね。すごく仲良くさせていただいていて、男の子があたしになついてきてね、よく部屋に上げて、ケーキをご馳走したりしたのよ。すごく頭のいい子で、小学校に入る前なのに、お勉強が大好きで、自分の息子のように接していたんだけどね」
朱音の耳の表面積が拡大している。
「お母さんの話はよくするの。公園でアイスクリームを食べた話とか、パジャマを作ってもらったら、大きすぎて着られなかった話とか。あんまりにもお母さんのことばかり言うので、いつだったか、お父さんのことについて聞いてみたら、それまでの笑顔がすっと消えて、うつむき始めたから、きっとお父さんのことは怖いと思っているのかなと想像していたのね。エントランスとかエレベーターホールでばったり会うと、お母さんと一緒にマンションを出る時は楽しそうにしているのに、家に帰る時はしょんぼりしていて、そういうのを何回も見ていると、よほど父親が厳しいんだろうなと思っていたの」
少し熱さの和らいだ苦味のあるコーヒーを、朱音は口に入れる。元子はなおも続けた。
「ある日、バルコニーを掃除していたら、男性の物凄く大きな声が聞こえて、それに続いてあの子の、泣き叫ぶ声が耳に入ってしまって、胸が締め付けられる想いがして、でもあの子はお母さんのことは本当に好きなようだし、たまたまお父さんのお腹の虫の居所の悪い日だったのだろう、と思うようにしたの。それから何日かして、エレベーターホールであの子と顔を合わせたその時、あの子は床に食べた物を戻してしまって。ごめんなさいね、汚い話で。お母さんがいたので二人で介抱をしたら、シャツの隙間からあの子のお腹が見えちゃって。前から痩せているなと気にはなっていたけど、肋骨が浮き出ていたの。昔、メキシコシティで物乞いの子どもを目にしたことがあってね、そこまではいかないんだけど、その子たちを思い出すぐらいの、やせたお腹があった。ご飯が喉を通っていないのがすぐに分かったの。ご本人から聞いた訳ではないけど、ちらっと小学校受験をされていると耳にしていたから、そのストレスのせいでご飯が食べられなくなったのかもしれないし、お母さんにしてみれば、受験が終わったら、きっと昔のようにご飯が食べられるようになると考えていたかもしれない。……でもね、何日か経って、また叫び声が聞こえて、物が投げつけられる音がしたのよ。あたしはね、すごく悩んだけど、結局、児童相談所に電話をしたの。もしかしたら、あそこのお宅のお子さんが、父親から虐待を受けているかもしれない、って。だけど、あたしみたいな人間が通報したことで、家庭が崩壊し、あの子がますます不幸になったら、どうしようと考えると、眠れなくなってね」
元子は再び、タワーマンションに目をやった。朱音は、その一家の苗字が
「お母さんではなく、お父さんなんですか?」
元子はタワーマンションを見上げたまま、口を開いた。
「お母さんと外に出る時と、家に帰ってくる時の顔が、まるで違うの。帰りたくないという文字が、額に書いてあるような感じだった」
「そうですか」
「それで、今朝、同じマンションに住むじょに会のメンバーの方から聞いたの。その方がジョギングを終えてエントランスに入った時、スーツ姿の人が備え付けのインターフォンで話をしていて、表示された部屋番号をみると、あたしが通報したお宅の番号だったというの。児童相談所の職員を名乗っていたから驚いた、ってね。あたしが、その部屋の奥さんと親しいのをご存知で、でもきょうの清掃にはみえなかったから、きっと教えてくれたのだと思う。あたしはLINEで、体調を崩したと直接奥さんからメッセージをもらっていたのだけど、もしかして、あたしが通報したから、色々と変なことになったんじゃないのかなって、さっきからそういうことばかり考えていたのよ」
元子はハンカチを取り出して額の汗をぬぐった。
「旦那さんは、ストレスを抱えやすい仕事だったんでしょうかね」
朱音は元子を正視できなかった。
「どうも証券関係のお仕事をなさっていたみたい。奥さんが言うには、早朝から深夜まで画面にかじりついていないといけないんですって。それにしてもあの叫び声は、精神的に追い詰められた人間でないと、出せないわよ」
──世界中の時計の針が止まったように朱音には思えた。
20代の頃、結婚まで考えた男性が、自分が妊娠をしたのを知るや否や離れていった。信じていた相手が手のひらをあっさりと返した現実に直面しているのだと悟ったあの時も、時計が止まった気がした。
元子の背景にあるカウンターの男性も、ウエイトレスも、壁掛け時計の振り子も、窓の外の車や親子連れも、静止したまま、元子の口だけが動いている。
「奥さまは、もしかしたら息子さんを連れて、実家に帰ってしまったのかもね。ゴミ出しの時も、駅前のスーパーでも、顔を合わせることがないから。少しでも安心できる環境にあの子がいけるきっかけになったら、私の行為は無駄ではないと思うんだけど、通報せずに見過ごしているうちに、お父さんの虫の居所が治って、幸せな家庭を取り戻す可能性がゼロだと言い切れるのかと聞かれると、ね。……ごめんなさいね、初対面なのにこんな話をしてしまって。実は、じょに会の方には、あたしが児童相談所に通報したという話をしていないの。旦那にも話ができなくて、ずっと隠していて、自分の行動が正しいものなのかどうか、今でもよく分からないわ。誰かに、苦しんでいる自分がいるのを、認めてもらいたいと思っていた時に、あなたとお会いしたので。すごくわがままね、自分が嫌になっちゃう」
元子はため息をついた。冷めきったコーヒーに視線を向け、口を付けようとすると、目の前に座る女性から、すすり泣く声が聞こえる。
朱音の瞳から、涙がこぼれ落ちていた。
「ごめんなさい」
朱音は絞るように声を出した後、水色のグラスに入った冷水を飲んで落ち着きを取り戻そうとした。
ルルドの聖水だと想像できる、エセルルドの水だ。喉を通過するのは、水素水どころか、安いミネラルウォーターかもしれない。しかし、それでも功徳があるのなら、自分の病を治してほしいと朱音は願った。
すぐに誰かに依存してしまう自分。男に嘘を付かれ、傷つく自分。中絶手術を受けた罪悪感から立ち直れずにいる自分。自分のことばかりに囚われてしまう、自分の病。
そしてエセルルドの水を、窓から見えるタワーマンションにいるはずの現一の顔に思いっきりぶっかけてやりたかった。
現一の病いが治癒する効果があったとしても、全くなかったとしても、店中のエセルルドの水を男の喉に流し込んでやりたい。
塩辛い涙が頬を伝い、止まらなくなる。
涙は玉となり、朱音のお腹のあたりに一滴、
なぜ朱音が涙を流し始めたのか、元子は理由かが分からず戸惑った。戸惑いながら、きっと目の前の女性は感受性が豊かな、他人の心の痛みが分かる人間なのだろう、と推察した。
「いいのよ。これからも、話し相手になってくれる?」
朱音は濡れた瞳を指で押さえた後、首を小さく、縦に振った。
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