第26話 エセルルド1

 白い長袖シャツの上にウインドブレーカーを羽織り、スキニータイプの青いジーンズを履いた女性が、周囲を見回している。住宅街に囲まれた池の一角に設置されたタープのあたりに、「jonikai」の入ったウインドブレーカーを着た女性が集まっている。彼女らの視線の先に、色黒で精悍そうな男性の顔が見えた。会の主宰者だと朱音あかねはすぐに分かった。早速、タープのあたりに足を進め、男性に挨拶をすることにした。


「メールで連絡をしました、伊豆丸いずまると申します」

「ああ、伊豆丸さん。初めまして、緑川みどりかわです。きょうはありがとう」


 動画よりも、緑川の身体は引き締まって見えた。


「終わった後ご一緒できればいいんだけどね、メールでもお知らせしたとおりこういうご時世だから、収束後に食事会をする予定ですので、ぜひ参加し続けてくださいね。こちらに軍手とゴミ袋があるから、やれる範囲でいいので、よろしくお願いしますね」


 緑川の笑顔がまぶしく、朱音は思わず視線を反らしてしまった。


 風はなく、すっきりとした陽気の日曜日の朝だった。朱音は白の毛糸で織られた軍手を着けて、透明のビニール袋を3枚受け取り、ウインドブレーカーのポケットに入れてから、もう一度周囲を見回した。


 参加者のほとんどが50代以上にみえ、現一の妻と同じぐらいの年齢にみえる女性の姿はない。彼女と親密にしていそうなメンバーが見極めにくいなかで、空振りに終わってもいいのでまずは自然に会に溶け込むのを優先することにした。


 直近で清掃活動が行われたのは2週間前だという。草むらに分け入ってみると、100円均一ショップで販売されているようなプラスチック製のバケツやハンガーが目に入ってくる。どうしてこんなに捨てるのか、不思議になるぐらい、ゴミで溢れているのに驚いた。


 ビニール袋に入らないゴミは、燃えそうなもの、プラスチック類、金属類など分別して1カ所にまとめるというのが、清掃活動のルールのようだった。


 捨てられたプラスチック製のバケツを持ち上げると、割れ目から雨水が滴り落ちてきて、朱音のジーンズに茶色の染みができた。あ、と声を上げた朱音に中年女性のにこやかな顔が集まる。


〈あらー、ほら、気を付けないと、大丈夫まだ若いんだもん、あはは〉


 照れ笑いをみせて頭を下げる朱音に、一人の女性が真っ白なタオルを片手に持ち、近づいてきた。ウエーブの掛かった黒髪が朝の日光で輝いて見える。


「汚れてもいい服でも、汚れると気になるわよね。染みているから気休めかもしれないけど、よかったら」

「すみません」


朱音はタオルを受け取り、染みの部分にあてがった。


「きょうは年齢層がいつもより高いのよ。肩身が狭いでしょう」

「いえいえ。あたし、同世代の友人はいないんです」

「そうなの? 見た目はたくさんお友達がいそうなのに」

「そうですかね? スマホの電話帳も、登録した連絡先なんて数件程度ですから」

「今の若い人は仕事で大変だもんね。このあたりに住んでるの?」

「電車で来ました」

「へえ、よくこの会があるのを知ったわね」

「たまたま、緑川先生の動画をYouTubeで観て、メールをしちゃいました」

「でも、ここ分かりにくい場所にあるでしょう。このあたりの子どもなんて『良い奴じゃないと見つからない』と言い合っているそうよ」

「良いやつ?」

「そういう意味ではあなたは日頃の心掛けが良かったのね」


 朱音は作り笑いをした後、女性のそばで、草むらのゴミ拾いを続けた。酎ハイの空き缶やたばこの吸い殻、使い捨てマスク、犬の糞、駄菓子の袋。それらを拾っては、燃やすゴミ用の袋、空き缶・瓶・ペットボトル用の袋、その他の袋に詰めていく。変わったものだと年金手帳があった。こうした拾得物は緑川が回収し、近くの交番に届ける段取りになっている。


 朱音にとってはかなりの量のゴミにみえたが、いつもよりは少ないようだった。


 清掃活動は30分ほどで終了した。メガホンを片手に緑川が参加者への挨拶を終えると、朱音のウインドブレーカーの表面を指でつまんで、後ろに優しく引っ張る女性がいた。先ほど、タオルを手渡した女性だった。


「着替え持ってる?」


 朱音が頷くと、女性は喜んだ。


「先生はコロナ、コロナって言っているけど、せっかくだし、近くで軽くコーヒーでもどう?」


 現一の妻の話を聞く好機が訪れたと考えた朱音は、口角を上げた。


「ありがとうございます、ぜひ。伊豆丸と言います」


 朱音は素直に自分の苗字を伝えた後、一瞬しまった、と思ったが、流れに任せようとすぐに気持ちを切り替えた。


「あたしは神宅しんたくといいます」

「変わった苗字ですね」

「旦那と結婚する前は阿比留あびるで、変な苗字ばかり巡り合ってきたのよ。下の名前は元子もとこ。呼びやすい方でいいわよ」


 二人はジョニー池を背に、駅前に向かう通りを歩き始めた。


「元子さんは、こちらにお住まいなんですか」

「ええ、見えるかしら。あちらに住んでいるの」


 元子が指を差す先には、タワーマンションがあった。声を掛けてきた女性が偶然にも、現一げんいちが暮らすマンションの住民である偶然に朱音は驚いた。


「じょに会のメンバーの多くは、あちらに住んでいらっしゃるの。昔からこちらに住んでいる方よりも、多いのかな。緑川先生のお取り巻きも、マンションの方がほとんどなの」


 バス通りに出ると、雑居ビルの一階に山小屋風の外観の喫茶店の入口があるのが朱音の目にとまった。茶褐色の木材で統一した店構えの前に、荷台を花壇として改造したリヤカーがある。


「伊豆丸さん、あそこにね、この駅前で一番古い喫茶店があるから、そこにしましょう。じょに会のメンバーの方々は、別のお店に向かわれたみたいね」


 混雑時は入場制限をするとの断り書きが張られていたが、開店したばかりであるせいか、店内に客はまだいなかった。扉を開くと焙煎機からの香りが漂ってくる。店の奥にはピアノが置いてあり、赤い絨毯が足に心地良かった。


「ごめんなさいね、引き留めちゃって。あちらにトイレがあるから」


 アルコール消毒液を手のひらに擦り込みながら、元子は言った。


 着替えを済ませて朱音が席に着くと、ウエイトレスが水色のガラスコップに入った冷水を二つ、運んできた。上京したての女子大生のようで、所作はどこかぎこちない。元子はホットコーヒーを頼み、朱音に目配せをした。朱音もホットコーヒーを頼んだ。


「レトロなお店ですね」

「見た目だけでないのよ。この店の最大の売りはね、これなの」


 ガラスコップを元子は手に持ってみせた。


「水ですか?」

「うん。ここの水はいわゆる『ルルドの聖水』を使っているの」


 口ひげを生やし、丸眼鏡を掛けたチョッキ姿のマスターはコーヒーを淹れながら、すかさず二人に声を掛けた。


「使っているのは『ルルドの聖水だと想像できる水』。本物はものすごく貴重だから、それでコーヒーを淹れたら1杯3000円でも赤字になっちゃうよ」


 元子は笑ってカウンターのほうに顔を向けた。


「でもマスター。昔はルルドの聖水を使っていますと、言っていたそうじゃないですか」


 マスターは不機嫌そうに、上目遣いとなって二人の方に視線を向けた。


「そういうのが許された時代だったの。今同じことをやったら、ほら、SNSとかですぐ叩かれるでしょう」

「そうね」


 朱音はグラスの水を飲んでみた。ルルドの聖水という単語が与えられたうえで飲むと、確かに身体に染み込む感じがするが、そうでなければ、フィットネスジムで販売されている水素水などと区別することは難しいと思った。


「ルルドの聖水ってご存知かしら」


 居心地が少しでもよくなるように気遣う元子に対する好感が一段と強まっていく。


「フランスとスペインの国境近くの、カトリックの聖地ですよね。聖母マリアが現れたとされていて、泉に湧く水を飲めば病気が治ると言われているという」

「よくご存知ね」

「実は大昔ですけど、ポルトガルにいたことがあるんです。そこで知り合った現地の人に、巡礼の道を歩かないと誘われたことがありました」

「そうなの!」


 元子は目を丸くした。


「もしかして外大の卒業生?」

「いえ、地方の私立大学です。一応、スペイン語学科はありましたけど、経済学部なんです。元子さんは、外大の卒業生なんですか?」

「うん。あたしはスペイン語専攻なの」

「じゃあスペインに行ったことも?」

「何度かね。住んだことがあるのはメキシコシティだけど、仕事でね。伊豆丸さんもお仕事で?」

「あたしの場合は、一度社会に出てから、思うところがあって、リスボンの大学に留学したんです」

「そうだったの」


 ウエイトレスが二人のテーブルにホットコーヒーを並べた。元子は角砂糖を一つトングで掴み、褐色の液体のなかに沈めた。


「巡礼の道って、ポルトガルからだとサンティアゴ・デ・コンポステーラとか、行こうと思えば行けるでしょう? ヤコブの遺体が発見されたという言い伝えがある三大聖地だけど」

「誘われても、当時はおカネがなくて……。歩いたことはないんです」


 体臭のきつい男性に身体を捧げる前に相手と価格交渉をした、当時の苦い記憶が朱音の脳裏に蘇る。


「勿体ない。あたしは実は、いつか行こうと思っているのよ。伝染病予防に香を焚いた炉を吊るして、お堂のなかで振り子のように振るのよね。動画がアップされているんだけど、観てみる?」


 元子はスマートフォンでYouTubeアプリを立ち上げた。「高く評価した動画」の一覧から、サンティアゴ・デ・コンポステーラの動画を選んだ。再生が始まると、スマートフォンの画面を朱音のほうに向ける。


 重々しく光る黄金色の聖像。荘厳なパイプオルガンの調べと、祈りの合唱。


 朱音は息を飲んだ。香炉の煙は画面を通じ、自らをも清めようとしているように思えた。


「すごい」

「コロナが終わったら一人で行きたいけど、旦那を連れて行かないとやっぱり駄目なのかな」


 2分弱の動画が終わると、元子は笑顔をみせて、アプリを終了させてからスマートフォンをテーブルに置いた。


「結婚すると、一人旅行はやはり難しいんですか?」

「そうね。あら、失礼だけど、ご結婚はされたことはないの?」

「まだ独身なんです」

「こんなに綺麗なのに、勿体ないねえ」

「そんなに持ち上げないでください」


朱音の耳元が赤く染まった。元子はそれでも、直球を放り込む。


「好きな人はいる?」


朱音は黙った。今度は頬が赤くなりそうだった。


「いるのね。良い人であればいいけどね」


 コーヒーをすすった後、元子は一瞬、窓の外を見た。視線の先には、自分の住むタワーマンションがそびえたっている。元子はもう一度、コーヒーをすすった。


 それから下を向いて、口を開いた。


「ちょっと変な話をしちゃうけど、ごめんなさいね。あのマンションの同じフロアに住んでいるご家族のお話なんだけど」

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