第25話 CME/水/不確実性
連絡もせずに突然、帰宅してきた娘の目が真っ赤に晴れているのを見て、年金暮らしの両親は何も言えず、ひとまず家の中に招き入れた。
隆は祖父と祖母に挨拶をした後、宿題をしないといけないと言った。祖母は隆をダイニングに案内し、学習用具を広げて思う存分勉強しなさい、と背中を押した。
隣のリビングで紗季の両親は、なぜ娘が夫の元から離れたのか、事情を探ったが、紗季は気持ちの整理がまだ付いておらず、何も言えなかった。困り果てた両親は、家にとどまってゆっくりするように命じることにした。
現一の弟の
「紗季ちゃん? よかった、つながって。兄さんと全然つながらなかったからさ」
紗季はその直前まで、居間のソファで横になって、YouTubeの動画を見ていた。
*
さてきょうの写真はこちらです。ん? これは池でも湖でもないですね。博物館の展示物のようなものが中心にあり、その奥の壁一面を、堆積した瓦礫を模したオブジェが埋め尽くしています。中央にあるガラス張りの展示物は、家財道具か何かでしょうか。その一つにアメリカ合衆国の星条旗が掛けられています。
この画像は、アメリカ・ペンシルベニア州にあるジョンズタウン洪水博物館の、メインルームの様子です。博物館のホームページから拝借しました。洪水博物館という名前が示す通り、ワシントンDCと、ペンシルべニア州の大都市ピッツバーグの間にあるジョンズタウンという街で、1889年5月に大洪水が発生し、2209人もの尊い命が奪われました。
その原因となったのが、ダムの決壊です。ペンシルベニア州といえば、主要産業は製鉄業で、かの有名な鉄鋼王カーネギー氏を輩出したところです。もっとも彼はスコットランドからの移民ですけどね。
決壊したのはサウスフォーク・ダムで、数ある世界のダム決壊事故で最も多い犠牲者を出したとされています。運河による物流システムを形成するためにこのダムは建設されましたが、その後鉄道網が整備されたことにより、無用の長物になってしまいました。建設当初から設計ミスがあったとの指摘もあり、決壊する以前にも崩壊し、再建工事もなされましたが、この工事も十分なものではありませんでした。
適切にメンテナンスが施されることがないダムはやがて豪雨に見舞われて決壊し、2000万トンもの水が一気にジョンズタウンに流れ込みました。2000万トンというとピンとこない方が多いと思います。
東日本大震災で東北地方の沿岸部で発生したがれきが、だいたい2000万トンといわれています。いや、それでも想像を超えた世界ですよね。
天然の湖沼であっても、流入した水を適切に排出できなければ、水は溢れ出てしまいます。自然を改変した人造湖のメンテナンスを怠った場合、その代償を支払わなければならないのは、湖を創造した人間であるのは言うまでもないことです。
戦後の日本では数多くのダムが建設され、管理されています。ダムの歪みやひずみをセンサーで検知して、異常があればすぐに対処できる仕組みというのは、一応は備わっています。しかし異常を検知した後、決壊を防ぐための手を加える主体というのは、ロボットでもAIでもなく、最終的には人間なのです。
管理やメンテナンスをする立場の人間のうち、給料が低いからほかの仕事をやろう、という人がどんどん増えたらどうなるでしょうか。考えたら恐ろしいですよね。ご承知の通り建設現場での人手不足感は一向に解消の気配がなく、新興成長国からの人材を頼みにしているのが実情です。造っても、造った後どうするか、そこまで考えを回さないといけないと気づいていながら、そうすることができないのは、人間の悲しい性かもしれませんが、いずれにせよ代償を支払わないといけないのは人間であるのには変わりません。
資本主義社会ではそもそも企業は生産効率性を高める必要に迫られます。管理やメンテナンスはコストとして計上されますから、積極的にやろうというインセンティブは働きにくいものです。
あともう一つ、指摘しておきたいのは、気候の話です。二酸化炭素の排出量の算出の仕方については様々な議論がありますし、気候変動というと、長期的な観点で見て本当に変動しているのか、と突っ込みを入れられそうなので、私は気候、という言葉を使います。
サウスフォーク・ダムの決壊の最終的な引き金となったのは、豪雨です。人間は21世紀に入ってもいつ、どこで、どれぐらいの量の豪雨が降るのか、100%正確な予測ができないでいます。自然が災害という暴力に、ある程度のガードを付けているかもしれないですけど、自然の気まぐれさから完全に自由になることはできません。
次にこちらの画像をご覧ください。すみません、今日は池でも湖でもない画像ばかりですね。どうかお許しください。でもタイムリーな話なのでちょっと触れておきたかったのです。運河みたいな川のそばに、高層ビルが2棟、空に伸びていますが、ケーキに2本の太い蝋燭が刺さっているかのように、下のほうは一つの建物で繋がっています。
もう一つの画像が、どうやらこの建物の入口のようです。ベージュの石造りの壁面の下はガラス張りで、その奥は電光掲示板が見えますね。外壁には大きく、CHICAGO MERCANTILE EXCHANGE CENTER,という文字が彫られています。
シカゴマーカンタイル取引所、通称CME。金融市場に関わる人は、すぐにお分かりになったかもしれませんね。株式先物などを扱う世界最大規模の金融派生商品取引所です。
なぜCMEが出てくるのか、不思議にお思いになった方は多いでしょう。実は今年の12月からCMEで「水先物」の取引が始まるというニュースがあるのです。
原油先物というのはよく、耳にしますね。中東の産油国で紛争が発生すると、原油の供給量が減少するとの思惑がマーケットに広がることがあります。将来の原油価格の上昇を見込んだ投資家、投機家が原油先物を買うことで、原油先物価格が上昇するという話です。
同じようなことが、水にだってあってもいい、という考えが、この世の中に実際にあるというのに、私は大変驚きました。
日本だと自治体などによって水道料金が定められていますけど、この水先物が対象とするのは、農家や企業がカリフォルニア州で取引している水の使用権に関する価格、とのことで、水が不足すると価格は上昇し、降水量が十分であれば下落するようです。
天候の変化による水の供給量の変化に着目し、売買機会を提供することで、取引所が馬口銭を得る。私などは信じられませんけど、これが資本主義の現実のようです。
日本で同じことが起きるのかというのは、想像できませんが、水道料金の自由化に関する議論は実際に、すでにありますよね。
天然の湖沼の水位が一定である時、水の流入量に応じて適切な排出がなされなければならないと、先ほど申し上げました。天然であれ人工であれ、水源から適切に排出された水を人間は分かちあうことで、命を保ち、命を将来につないでいます。
その水の量が減ってしまった時、今までの生活が維持できないから、水の価格が上がるというのは、なんとなくわかります。水源の管理やメンテナンスのコストが上乗せされれば、それも価格を押し上げる要因となる、というのも分かります。一つの水源を共有する人間の数が増えれば、水の需要拡大に伴い、価格も上がる、というのも、頭では理解できます。水が得られないと人は狂気に走ります。
ただ、その場所ごとの水量の変化を正確に測ることって、無理なんですよ。スーパーコンピューターを駆使すればできるという説も、幻想のように思えてなりません。適正な価格について、机のうえでいくら計算しても、間違えることは往々にしてあるものです。
人間は間違えます。全知全能ではないですから。間違えても、それが正しいと言い張って、間違いに間違いを重ねていきます。間違いに気づいた時、隠そうとします。あの当時の人間は間違えていた、と糾弾する将来の世代も、間違いを犯します。
人工知能を駆使すれば間違いはなくなるというのも、暴論です。AIが提供するデータが正確無比であっても、判断をするのは人間だからです。力あるものが白と言えば、政治力によりAIの提供するデータは捨て去られ、白のために都合のいいデータを作り出して判断の補強材料とする。
集団のなかの人間という枠で語らなくても同じことがいえます。自分が正しいと信じていること、肯定し続けてきたこと、あるいはそういう存在が否定された時、本当に無意識に、人間は自分を防御しようとします。ここに自己愛の問題が加わると、さらに深刻度は増します。
ここまで考えてみると、私はジョニー池の威厳を感じずにはいられません。都会のど真ん中で、水を集めては、排出し、一定の姿にとどまろうとする。人家に囲まれて、ゴミを捨てられても、水が流れ続ける限りは、そこにとどまり、池辺の生物を育み、季節ごとに花を咲かせる。
人間は生きたとしてもせいぜい120年で、実際に動ける月日はもっと少ないのに、徒党を組み、水の取得権などを設定し、取得権の価格を投機対象とし、放っておけば水源を独占しかねず、富の最大化を追求し続けていく。
間違いを犯す人間よりも、ジョニー池は、崇高な存在に思えてくるのです。池を綺麗にすると、私たちはどこか、救われたような心地になります。参加された方は感じられていると思います。
宅地開発のために、あるいは都市交通の利便性の向上のために、ジョニー池が埋め立てられたとしたら、その利益は短視眼的なものであって、自然に対する敬意を失ったことによる報い、コストは、利益を無にして、さらに深い傷を残すものだと私は信じています。
ある地域で人口が増えれば、玉突きで別の地域に影響を及ぼしたりします。感染症の問題にせよ、お亡くなりになった方や、家族を亡くした方は本当に気の毒ですが、かといって世界の人口がこのまま増加し、100億人、150億人と増えてしまったら、ありとあらゆる天然資源は枯渇してしまいます。断っておきますが、私は陰謀論には与しません。そんなことよりも、感染症の発生による世界の大混乱など、正確に予測できた人間などいなかった訳です。月並みな言い方になってしまいますが、私達は謙虚であり続けなければ、いけませんね。
ではきょうはここまでにします。ご清聴ありがとうございました。
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