第24話 嘘を重ねる

 面接に臨んだ企業から、「お祈り」メールを数時間前に受け取った朱音あかねは、気を紛らわすためのウォーキングを終えたばかりだった。近所の中華料理店の前でテークアウト用の商品を受け取ろうと待っていた時、スマートフォンアプリのリンクドインに届いたメッセージに気付いた。


 目を通していくうちに、いつか自分が想い描いた将来が、現実に近づきつつあることに、恐怖に似た感情を覚えた。自分がその願いを手にしたら罰を受けると、本能で察した時の精神の震えに襲われた。


 現一げんいちの妻である紗季さきと朱音は面識がなかった。紗季がどんな顔をしていて、どんな体型なのかも、全く分からない。現一と酒を飲んだ時に何度か、家族の写真が見たいと言ったことはあったが、頑なにも断られ続けたのである。ただ何となく、これまでの会話を通じて、妻の紗季は現一を心の底から信頼しているようにも朱音には思えた。


 現一のメッセージは、極めて簡潔なものだった。会社のスマートフォンが都合により使えなくなり、インターネットカフェでログインをしてメッセージを送っている、としたうえで、妻と子どもが家を出て一人になってしまったと告げた。さらに私用の電話番号を記し、LINEの登録を依頼した。


 妻子が家を出た詳細な理由については触れられていなかった。説明すると長くなるし、まずは事実だけ伝えたかったのだろう、と朱音は察した。


 可能性として考えられるのはいくらでもある。現一の会社のスマートフォンを通じ、二人が密会を重ねていたのが、妻の紗季の目に止まることになり、不貞行為を働いたとの疑いから家を出ていったのかもしれないし、何らかの事情で生活水準が維持できなくなることに大きな不満を抱え、新たな伴侶と結びつくために離婚を視野に別居に踏み切ったのかもしれなかった。いずれにせよ伴侶が離れるというのは、尋常ならざることが起きない限りは難しい。


 朱音は、返信を送ろうとしたが、気の利いた文句がすぐに浮かんでこなかった。遅めのランチ用に購入した回鍋肉とチャーハンの弁当を受け取って、自宅のアパートまで歩く間にも、どのような言葉を現一に掛けるのが適切なのか、解を見つけられずにいた。どんなメッセージを送ったとしても、自分は現一と一緒になれるような気がする一方で、なぜ一緒になることができたのかという理由について、永遠に謎のまま伏せられそうな予感がある。


 通りを歩く人間は普段の日曜日よりも少なく、会話は聞こえず、余計に寂しくなる。寂しい、と言えばいいのか、と朱音は自問する。現一も寂しいのだろう、と共感する素地が自分の中に備わっている。寂しいのは昔からそうで、昔よりも寂しくなった、あるいは寂しくなってきた、というのが正しい。


 日本橋の寿司屋で現一と同じ時間を過ごした際、朱音は隠していたことがあった。その3日前、彼女は現一の住むタワーマンションの近くに足を運んでいたのである。現一の住処を突き止めるのは容易かった。何気ない会話で現一が通勤に使う駅と、現一が高層マンションに住んでいるのを、朱音は聞かされていたのだ。


 現一の住む街の周辺で、タワーマンションはまだ一棟しかない。グーグルマップでみてもそれは確認できることだった。とはいえ、さすがに部屋番号まで調べることはできない。有給休暇を消化していた朱音は、現一と遭遇した際に電柱の陰にそっと隠れて、忍び足で彼の後を追う自分を想像し、小旅行を兼ねて電車を乗り継いだのであった。


 都心に向かう私鉄の急行停車駅であり、バスターミナルも備わる駅の乗降客数はコロナ禍があってもそれなりの規模があり、そうしたなかで現一と朱音がばったりと顔を合わせることなど、小説や映画の世界でない限り、易々と起こりえるものではない。現一の駅に降り立った朱音は、ただ漫然と歩くのみで、4時間もすると歩き疲れてしまい、公園のベンチに座って休むのを余儀なくされた。


 目にとまった子どもから視線を保護者のほうに動かし、現一の妻であることを勝手に想像しては、対象の不幸を願い、呪った。その何人かに現一の妻が含まれているのなら、朱音の呪いが成就したことになる。


〈奥さんがいなくなって、寂しくなってきたの?〉


 部屋に戻ってスマートフォンに文字を入力し、削除する。何度かそれを繰り返した結果、LINEを通じてようやく送れた疑問文がこれだった。シャワーを浴びようとする直前、現一からの返信が来た。


〈妻に裏切られた。もう元の関係には戻れない〉

〈電話をしていい?〉


 朱音がメッセージを送って1分も経たないうちに、現一から着信が入った。朱音は裸のまま、胸のうちにこみ上げてくる感情を我慢して抑えようとしている。


「一体どうしたの?」


 現一は冷静を装いながらも、声の調子はどこかおかしい。


「会社のスマートフォンでLINEをしていたでしょう。あれがバレてしまって、スマホを壊されて、こっちはもう、仕事にならないから、出ていけと言ったんだ。息子も連れていけとまでは言っていないのに、あいつは勝手に……」

「そんな。学生時代の同級生と言っても信じてもらえなかったの?」


 電話口から、ファミレスの店員を呼び出すためにチャイムが聞こえた。


「昔からそういうところがあったんだ。妄想癖があって、こっちもずいぶん長い間、我慢していたんだけど、子どもがいたから耐えようと思っていた。でもね、家を出ていくならまだしも、何でこんな変な疑いを掛けられなくてはいけないんだろう。マンションのエントランスに児童相談所の職員が駆け付けてきてね、住民の目が集まる場所でさ、子どもの大きな泣き声がするという通報が、霧島きりしまさんのところに来ていますよ、と声を大にして言ってきたんだよ。信じられる? ただ家を出るだけならいいのに、なんでそんな目に合わないといけないの? もうこのマンションにも住めないよ」


 どんな言葉をどう伝えるべきか分からず、朱音は詰まった。


「誓ってもいいけど、俺はたかしに手を下したことなどない。手を出していたのは、あいつの方だよ。俺がやったということにして、事実をねじまげて、離婚協議の時に話が自分に有利にするように、仕向けているんだよ。だって裁判所が児童相談所に、子どものことで何か対応した事実はあるのかどうか問い合わせた時に、妻からそういう相談を受けて、戸別訪問することにした経緯があると開示したら、俺にはきっと不利に働くでしょう」

「子どもはどうするの?」

 

 現一はきっぱりと答えた。


「もう、どうしようもない」


 男はうめいた後、沈黙した。


 責めるべきことが何もない子どもが、父と離れて暮らすことになる。その理不尽に朱音は心を痛め、義憤を覚えた。


 周囲と折り合いを付ける努力から逃げ続け、やがて自分の身勝手な意思を貫き通した母がいた結果、朱音は父のいない生活を余儀なくされ、自分はひときわ不幸な女なのだと思い込むようになった。その惨めさを、現一の息子は味わうことになるかもしれない。


 片方の親が気分を害している時、もう片方の親に縋りつくことができず、親の気分が晴れるまで、自分の存在を認めてほしいという欲求を、抑えなければならなくなる。


 現一が不憫でならず、彼を信じたかった。


「奥さんの居場所は?」

「知らない。ビジネスホテルに泊まると言っているけど、本当のところは分からない」

「実家には帰っていないのね?」


 現一は嘘を重ねた。


「実家に電話したけど、居留守を使われているんだ」

「ジョニー池の掃除のメンバーなら、知っているかもよ。連絡をとれる人はいないの?」


 語気を強めて朱音は訊ねた。現一はたじろいだ。


「マンションの住民にメンバーがいるのは知っているけど、エントランスで児童相談所の職員とやり合っているのを見た住民が、噂をどう広めているか計り知れないよ。もし池の掃除のメンバーに、自分達の家族の問題がすでに知れ渡っていたら、妻の居場所を俺には教えてくれないんじゃないか」

「じゃあ、あたしが聞こうか」


 現一の妻となる未来がすぐそこまで来ていた。紗季という名の女がいくら身勝手だとしても、自分の視界に入らないのであれば、そのままでいいと思う。ところが子どもの問題となると、朱音は冷淡にはなれなかった。現一の息子が、過去の自分のように、片親の環境下に置かれつづけるのなら、それは極力防いであげたかった。


 現一の妻が新しいパートナーと一緒になって、現一の息子と3人で暮らすことになれば、一番いい。それが叶わないなら、自分が現一と一緒になって、現一の息子を迎え入れて3人で暮らしたい。


 そんな想いを、朱音はまだ現一に上手く伝えられそうにはなかった。


「あたしがメンバーになって、それとなく奥さんの話を聞き出せば、ヒントぐらいはつかめるかもしれない。居場所を聞き出したら、ゲンに教えるから、直談判するのよ。相手はシングルマザーになるんでしょう? 自分が子どもを引き取るべきだと思うなら、正直にそう言ってみるの。話が通じなかったら、司法の判断に委ねるとかしかないと思う。いずれにしても、今のままでは隆君が気の毒よ」


 気の毒よ、と言った瞬間、朱音の視界が涙で歪みはじめた。父母に対し、抱いては抑え続けてきた様々な感情が、あふれそうになる。


「そこまで、しなくてもいいよ」


 現一は冷ややかだった。


「なんで?」

「朱音には迷惑を掛けたくないからだよ」

「そんなこと気にしなくていいよ。だって、職場を紹介してもらっているじゃないの? そのうえご馳走にもなっているし。あたしだって子どもじゃないんだから、恩返しさせてよ」

「大丈夫だって」

「奥さんの居場所を確認する当てがないんじゃ、そうするしかないんじゃない? 大丈夫。ゲンに迷惑をかけるようなことはないと思うから。任せてよ」


 朱音の親切さは重荷となったが、紗季の消息を尋ねること自体、害にはならない話だと、現一は考えた。朱音の行動を抑えるための言葉を持ち合わせていなかったのも事実だった。

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