第23話 泣き叫ぶ声だけでなく

 現一げんいちは室内にあるありったけの酒を集めては、物乞いさながら飲み干し始めた。


 ネットテレビをYouTubeに切り替えて、チルアウト系のBGMではなく、アップテンポの音楽を掛けてみた。ハードスピリッツを口に含み、アルコール臭が鼻腔から突き抜ける感触にあわせて、すべての不快なこと、悲しいことを気化して放出しているのだと自分に言い聞かせていく。


 すると酔いが回ってきた。トイレに立とうと思っても、立ち上がれなくなる。午前一時を回る頃になると、酒精の快楽が苦痛に変化し、胸から酸が突き上げてきそうな心地がする。精神病と診断されて睡眠薬を処方されているのであれば、危険な時間帯なのかもしれなかったが、そんなことは構わずに現一は今度はグラスにアルコールを注ぎ、胃の中に流し込み続け、眠りに落ちていった。


 翌朝、起きたのは午前9時過ぎだった。ソファで横になっていた現一の目を覚ましたのは、インターフォンのチャイムだった。


 モニターに黒の背広姿の中年男の姿がある。借金をした覚えはなかった。


「おはようございます。児童相談所の相談員のものですが、霧島きりしまさんでいらっしゃいますか?」

「はい」


 中年女性が背後から現れて、男に視線を注いでいるのが画面に映った。


「お子さんの状況のことでお伺いしたいことがありまして、少しお話する時間をいただいてもよろしいでしょうか?」


 人が多く行き交うエントランスで、児童相談所の職員と応対するのは憚られる。遠隔操作でドアを開けてしばらくすると、今度は扉の横に取り付けたチャイムの音が鳴る。


 扉を開けると、湿度の高い空気が入ってきた。背広姿の中年男性は傘を手に持ち、肩には水滴がついていた。


「突然失礼します。実は、この部屋の住民である児童に関する通報がありまして。お子様はいまどちらですか?」


現一は廊下に立ったまま応対した。


「子どもは妻と一緒に家を出ていきました」

「そうなんですか?」


 想定外の回答に相談員はまごついた。


「失礼ですが、そのあたりの事情をお伺いできないでしょうか?」

「あの、ごめんなさい。親ではありますが、私が虐待を加えているという証拠写真とかはあるんでしょうか?」

「いえ。あくまで状況を確認させていただこうと」

「そういうのなら、部屋のなかをご覧ください。今、私ひとりしかいませんから。それで十分でしょう。ご覧になってもらって、そのうえでお引き取りいただいてもよろしいでしょうか?」

「叫び声を出すようなことは結構あったんですか?」

「そんなものいちいち覚えていないですよ。床で転んでばかりいるような子どもでしたから」


 相談員は革靴を脱いでスリッパに履き替えると、部屋の様子を見て回った。子どもがかつてここで生活をしていて、今はいないということだけは確認できたが、疑いを解消させる手掛かりも得られなかった。


 現一は二日酔のうえ、偏頭痛もあった。


「だいたい誰なんですか、うちの妻ですか? お宅に通報したのは?」

「それはこちらからお教えできない決まりになっているんです」

「こっちだって知る権利があるでしょう。疑いを掛けられているんだし」

「いろいろとあるんです。泣き声だけじゃなく」

「泣き声だけじゃない?」

「通報者の特定につながりますから言えません。最近、お子様の体調など、変わったことはありませんでしたか?」

「あったとしても細かい変化までいちいち気づけないですよ。こちらだって仕事で忙殺されていましたからね」


 相談員の目が現一を真っ直ぐにとらえている。疑いが向けられている現実が許せず、現一は声を荒げた。


「用事が済んだのなら、帰ってください。こちらだって忙しいんです」

「分かりました。では、失礼します」


 相談員は一礼し、その場を去った。


 湿っぽい空気が、廊下に滞留している。ミネラルウォーターを喉に流そうと現一はキッチンに向かって冷蔵庫を開けたが、依然としてそこにはなかった。


〈いろいろとあるんです、泣き声だけじゃなく〉


 相談員は、身体の傷や痣について指摘することなく、まず叫び声について訊ねてきた。さらに、訪問すべきと判断したのは、泣き声に関する通報だけではない、と暗に示した。


 泣き声以外の部分。それは紗季さきしか知り得ない部分だと、現一は結論付けた。紗季がたかしの姿に耐えられなくなり、児童相談所に通報した──。


 もはや婚姻関係の修復など無理だろう。直接、家族の問題を自分に指摘することができず、第三者の力を借りなければならないのなら、弁護士を通じて離婚協議をするのと何ら変わらない。粛々と離婚協議をすればいいだけの話だ。児童相談所への通報は、嫌がらせのようにしか現一には感じられなかった。


 手元にあるスマートフォンに、朱音あかねの連絡先は登録されていない。自分が子どもに手を出したというのを朱音が知ったら、きっと幻滅するに違いない。それでも、みじめな自分が素晴らしい自分に復するうえで、朱音はかけがえのない存在のように思えて仕方がなかった。


 現一はソファで横になった。水が欲しかった。でも雨が降っている。シャワーを浴びて、傘を持って外に出るのなら、本屋に行くとか、映画を観るとか、そういうことに時間とカネを費やすべきかもしれない、と考えているうちに、面倒臭いとも感じる。行動を起こすためのエネルギーが不足している。


 やはり水が飲みたい。だが水道水は、ただでさえ低下気味の自分の運気を、さらに低下させる。と、かつて風水に詳しい芸能人がYouTubeに動画を寄稿していたのを思い出し、水道水は飲みたくないと思う。ネットスーパーを利用し、コンシェルジュに部屋の中まで届けてもらおう、と思い、スマートフォンの画面ロックを解除する。


 手元のスマートフォンでは、朱音と連絡がとれないのだとの考えが再び、現一の頭にもたげてくる。この問題を解決するには、朱音が退職するシンクタンクに、仕事で知り合った金融業界の人間を装って、電話をし、朱音に折り返してもらうよう願うしかない。あるいは、インターネットカフェに行って、リンクドインで接触を試みる、という手もある。


 紗季から今後、どのぐらい慰謝料などを絞り取られるか、現時点では想定が困難であり、不要な出費は出来るだけ抑えたかった。紗季が児童相談所に通報したのだとすれば、交渉を優位に進めるうえでの揺さぶりの一種なのかもしれない。現一の考えが、新たな考えを生み、タイヤが下り坂で転がるように、思考が止まらない。


 現一はスマートフォンのブラウザを立ち上げて、ネットスーパーの注文サイトにアクセスした。自分がおかしくなる前に水を飲もう、と思い直した。

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