第22話 スモール・フィッシュ

 帰る場所といえば、自宅のマンション以外にない。酒を飲んでも愉しめそうにはなく、まずは一人になってぼんやりと夜景を観たかった。


 帰路の途中、社長が放った、実力不足、という語が現一げんいちの頭に浮かんできて、離れようとしない。同僚にも顧客にも、まともな挨拶ができなかった。挨拶をする権利すら与えられなかった。


〈俺は素晴らしい人間じゃなかったのか〉


 紗季さきたかしもいないマンションに帰ると、現一は冷蔵庫を開けて、冷えた缶ビールを取り出した。そのまま仕事部屋に向かい、ブラインドを開けて、街の様子を眼下に眺め、缶ビールに口を付けた。自分の心を鏡で映し出しているかのように、街は暗く、道路を行き来する車の少なさは、栄養失調の人間の血液のようにみえた。


 妻と子が家出した。ビジネスホテルに行くというが、家出であるのには変わりがない。そして失業した。こんな最低な日は、人生でそうそうないだろうと現一は嗤う。


 投げやりな気持ちになってから、明日何をするのか思いを巡らせると、不安でいたたまれなくなる。ネットテレビを付けて、ブルームバーグTVを視聴する。日常を再現すれば少しは落ち着くのかと考えたが、やはり不安なものは不安だった。社が貸与したパソコンはログインできない状況にある。PCが音を立てて動いていないこと自体、違和感を覚えずにはいられない。就職活動を始めたところで、自分を雇ってくれるような会社があるのかどうか、先の見通しは全く立たない。


 カバンからスマートフォンを取り出してみる。弟の呼高がメールをよこしていたのを思い出した。読み起こしてみたが、長文のせいか、頭に入ってこない。今すぐに返信するような気力も現一には残っていなかった。


 現一はそのままスマートフォンのブラウザを起動させた。米国株はきょうも下げているが、下げの勢いは昨日ほどではなかった。仕事を失ったのに、フィナンシャルタイムズの電子版や、ツイッターでの市場関係者らのつぶやきをチェックしているのは、自分でも滑稽に思えてきた。


 ビールからブランデーに切り替えてから、ブックマークをしていたウエブサイトに目を通していく。その一つに、吉村よしむらという名のファンドマネージャーが本業の傍らで運営しているブログ「ビッグ・フィッシュ」があった。今日付けの記事が投稿されている。


                  *


 マーケットをひとつのダム湖に例えると、水量は増加の一途をたどっています。今、新型コロナウイルスの感染拡大を受けた景気へのダメージを最小限のものにしようと、米国政府は未曾有の規模の財政支出に踏み切ろうとしています。


 次の大統領にトランプ氏が再選されようと、バイデン氏が就任しようと、この流れは変わりそうにはありません。一般的に財政支出の資金を確保するには、国債を発行することになります。市場での国債の需要を上回る供給(米国政府による新規国債発行など)は、国債価格が下落する要因になると考えることができます。初級の項目で触れましたけど、債券価格の下落は、債券利回り(金利)の上昇要因となりますね。米国の金利に上昇圧力が掛かると考えるのが、教科書的な流れだと思います。


 しかし、です。本当にそうなるのでしょうか。いくつかの観点で米国金利について考えてみましょう。まず、世界の先進国の国債の多くは、日本を含めて、マイナス金利となっています。100円で購入した債券を満期保有しても、現金としてもらえるのは99円とか98円50銭とか、そんな狂った世界です。


 米国は違います。指標性のある10年物の米国の長期国債は0.8%台と、まだプラス金利を維持しています。国債増発で、金利が上昇した場合、資産運用の観点から米国債の需要は一段と強まるのではないでしょうか? 資産運用をするうえでプラス金利を追い求める金融機関の恰好の標的となると考えられますし、日本の大手金融機関も、指をくわえてただ見ているだけという訳にはいかないと思います。そうなれば米国金利は一度、上昇することがあっても、元の水準に戻ってくるかもしれません。


 ですが、これは金融機関の健全性を保つための様々な規制を度外視した議論ではあります。テクニカルな話になりますが、見過ごせない要素があります。米国政府は、財政支出のために調達した資金の一部を、2020年の春のように、給付金という形で米国民に配ることが見込まれます。この時のマネーの流れは、米政府から金融機関を経由して個人の手に届くということになります。


 米国政府が調達した資金は一度、FRB(米連邦準備制度理事会)の専用口座に預けられます。この政府預金口座から、各金融機関に現金がシフトします。銀行が全てこの現金を、預金者に配ることができれば、何の問題もないように見えますが、銀行のバランスシート(貸借対照表)では資産、負債、純資産のうち、「負債」として計上される「口座開設者の預金」(あえて平たく言っています)が一時的に大きく膨らむことになります。


 一方で、「資産」の側の貸し出しは、すぐには増えません。貸し出し先の企業を探すのに苦労しているのが今の状況です。そうなると、国債など金融商品の保有量を増やすという選択肢が有力なものになります。ところが保有量を増やしたくても、金融機関には運用リスクを一定の範囲にとどめるよう、国際的な枠組みによる規制が掛けられています。米国の銀行(米銀)など、金融機関による国債保有量が市場の期待ほど増加しなかった場合は、需要よりも供給が多くなるので、国債価格は下落し、金利には上昇圧力がかかることになりそうです。


 米国債の保有量を増やせない米銀は、空から降ってきたマネーをどう扱うべきなのでしょうか。一つは、銀行側が持つFRBの口座に預けるというのが候補になります。米国で業務を行う金融機関は、預金のうちの一定の割合を、FRBに積み立てなければなりません。積み立て額には下限と上限が定められていて、上限を超えると、おまけとして銀行側はFRBから利息を多くもらえます。IOFRという名前で、日本語では超過準備預金金利と訳されます。簡略的に付利とされることもあります。しかし、読者の混乱を避けるため説明は省きますが、FRBの口座といえども、闇雲に積み増すことはできないようです。


 それ以外では、MMFという金融商品が候補に挙がります。マネー・マーケット・ファンドと呼ばれるもので、金融機関が開設する普通預金のようなものと捉えておくといいでしょう。銀行がMMFを購入すると、銀行からMMFに現金が流れることになります。MMFには運用担当者がいます。運用担当者が選ぶ主な投資先に米国の短期国庫証券があります。債券という名前になっていませんが、償還までの期間が1年以内の債券を短期国庫証券と呼ぶので、政府が発行する国債の仲間とみなしてもいいでしょう。


 MMFの運用担当者は入ってきた現金を短期国庫証券の購入に充てます。繰り返しになりますが、債券は需給がタイトになれば、価格は上昇し、その債券の金利は低下します。米国の短期金利に低下圧力が掛かればどうなるか。教科書的には、でありますが、2年物、3年物といった中期の国債金利、10年物などの長期金利などにも低下圧力が掛かります。


 短期の債券の金利が下がると、短期の債券価格が割高になり、相対的に中期や長期の債券の価格が割安になります。割高な短期債を売って、割安な中期債を買うという裁定取引が入るのです。これが数珠つなぎのようになるのだとイメージすると分かりやすいかもしれません。


 断っておきますが、現実の世界はもっと複雑です。これでもかなり単純化して説明しています。それと、お前の結論は一体何なのだ、米国の長期金利は上昇するのか、下落するのか、どっちだと、突っ込む声がそろそろ聞こえてきそうです。そもそも金利の変動要因には様々なものがあり、貨幣量の増加で物価が上昇すれば金利に上昇圧力が掛かるという理論もあります。一概にこれだと言い切れない世界なのは確かです。


 でも覚えていただきたいのは、FRBが嫌がることは何かということです。パンデミックを経て、FRBはゼロ金利政策を続けています。こうしたなかで短期金利がマイナス圏に突入し、さらにマイナス圏を深堀りしてしまえば、MMFは新たな資金の受け入れを停止するかもしれません。例えば、給料日の前日に、銀行側がこれ以上、企業からの普通預金に現金が入ってくると困るから、振り込まないでくれといったら、大混乱をきたすのは必至ですよね。MMFの機能低下は、これと似たようなものと想像するといいと思います。


 MMFは米国の短期金利を左右する重要な金融商品と言われています。MMFの残高の増加が短期金利を押し下げ、米金利全体に低下圧力が掛かった場合、米国の金融機関の体力は一段とそぎ落とされることになります。すでに日本がそのようになっています。FRBが金融政策を柔軟に行うには、景気回復局面を狙って、ゼロ金利政策を解除し、利上げや補完的な政策調整を行わなければならないのです。


 その時はどんなに景気が回復に向かっていても、株式市場の投資家は金融引き締めだ、テーパリングだ、マネーの逆回転だ、とはやし立てて、売りを仕掛けてくるのでしょう。


 株式の専門家って、どうしてあんなに、短絡的な人が多いのでしょうね。半導体製造装置にしたって、前工程と後工程とでは、事情が異なるのに、そういうことを度外視して、専門家ぶってレポートを配信する人が、本当に多くて、うんざりします。


 その点、債券の投資家は本質を見抜く力がずば抜けています。本質を見抜きすぎて、動けない投資家が多いのは否めませんが、私はそういう、真面目な人の方が好きです。


 話が脱線しました。何が言いたかったかというと、FRBをはじめ世界の中央銀行は、政府から流れる真水の量が圧倒的な規模で増加するこのタイミングにおいて、ダム湖が決壊するのを防ぐために、様々な方策を立てているのです。いずれIOERの引き上げなども議論になってくると思いますが、補完的な政策の導入や調整などの詳細は、ここでは割愛します。こうした視点でマーケットと向き合うと、新たな発見があるかもしれません。


                   *


 現一の顔が赤くなっていく。 半導体製造装置のくだりが、自分が配信したレポートを受けた、吉村なりの雑感の正直な部分であるとすぐに分かった。相手がビックフィッシュなら、自分はスモールフィッシュ。平たく言えば雑魚ざこ。実力不足となった雑魚ならば仕事を失うのも当然のことである。

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