第21話 落ちるナイフ
通話の相手に対し、短い返事を何度も打つ
電話を終えると、現一はすまなそうな顔を
「社長から呼び出しを受けた。すぐに会社に来いって」
「こんな時間に?」
「大きなミスをやらかしたみたい」
現一の顔は、明らかに憔悴している。
「そんなに落ち込まないで。きっと大丈夫よ、いいふうになる」
「ごめんね。お代はこちらで持っておくから。インタビューの続きは、また今度だね」
先ほどまで雄々しく見えた現一の身体が、どことなく小さく縮んでしまったように見えたのが、朱音には不思議だった。
「ありがとう」
朱音は店の外で現一が出てくるのを待った。通りを歩く人影はまばらで、静かだった。二人は歩いて江戸通りに出て、現一はそこでタクシーを捕まえた。
「気を付けてね」
「うん」
後部座席のドアが乾いた音を立てて閉ざされる。手を振って送り出した朱音に、現一も手を振って返事をした。タクシーは新常盤橋に向かって走り出した。
テールランプが徐々に小さくなっていく。朱音は現一に向かって振っていた手を下ろし、そのまま下腹部にあてがっている。
地下鉄の駅に向かいながら、つい数分前、中断を余儀なくされたインタビューの続きを想像してみた。朱音の名前の由来は、と現一が聞いてくる。共産党員の母が好きな色だと答える。ははと笑う。父は、母が政治活動を辞めないのに嫌気が指して、小学校に入る前にどこかに逃げていった。父がいなくても子は育つの、と言う朱音に、でも心の中では父のような存在を求めているのでしょう、と問われて、まごつき、現一の次の一言を待ち続ける。
もっと話がしたかった、素直に話ができる相手がまだ自分の周りにいることが、本当に嬉しい。ありのままの自分の感情をなぞると、朱音は胸のうちに温もりを感じた。永遠にその温度を保ってほしい、と思った。
*
タクシーのなかで会社のスマートフォンを手に取って、ブラウザを立ち上げると、検索ボックスに入力しかけの「よなばり」の文字があった。「よなばり 日本酒」と文字を足して検索し、引っ掛かった酒造メーカーのURLを、メモ帳アプリに張り付けてから、妻との連絡に使う別のスマートフォンをカバンから取り出した。
〈俺は素晴らしい人間。比類がないほど素晴らしい人間。だから乗り越えられる。俺に付いてこられない人間のほうには問題があって、俺とは違う存在だ。自分は素晴らしい。素晴らしいから乗り越えられる〉
現一は自分にそう言い聞かせ、欧米市場と為替相場の情報収集に没入することにした。前の日のダウは、新型コロナウイルスの感染再拡大や、追加の経済対策についての実現の不透明感が意識され、900ドルを超す大幅安となっていた。その後に発表された米国の主要企業の業績見通しを受け、世界景気に対する投資家の悲観は一段と強まっている。とはいえ、市場最大の下げ幅となる2997ドル安となった3月の大混乱と比べると、市場は冷静さを保っているようにもみえた。
タクシーの行く先の港区内のオフィスビルは、現一の会社が入居するフロアの一画だけ白く光っている。裏手にある通用口のカードリーダーに、入館ICカードをかざし、真っ暗な館内で1基だけ作動しているエレベーターに乗って、14階に向かった。
社員数20名の小さな所帯である。受付用のスペースの脇にあるドアが唯一の出入り口だった。中に入ると、窓側の席に座る営業統括部長の
チーク材の重厚な机に設置された4台のモニターに、社長の
現一はその場に直立をした。高橋が続けた。
「
「……」
高橋は同じ言葉を、ゆっくりと繰り返した。
「身を、引いてくれないか」
現一は耳を疑った。
「…つまり、退職しろということですか?」
「そうだ」
心臓をえぐるような高橋の目線が、現一に突き刺さっている。
「失業保険金の受給期間が長くなるように、会社都合にしておくけどな、要するに実力不足ということだ。お前が担当する
実力本位の金融業界で、結果が出せない人間に退職を勧奨するのは珍しい話ではなかった。現一は熊田との相性が悪かったことを悔やんだ。与しにくい相手だったのは不運だったが、言い訳もできなかった。
高橋の会社は間接部門を外注している。敗残者が社内で生き残る仕組みは、そもそも存在しない。
社長室の卓上電話が鳴った。ワンコールで高橋は受話器を取った。
「あ、はい。その、ええ。こういう相場ですから、早めに本人には対応させますので、ご容赦いただけますか?」
ダウはこの日も下落を続けた。落ちるナイフはとてもつかめられない。パニックとなった投資家が、判断材料を求めて、メールをし、チャットを送り、反応がないのに痺れを切らして、電話をする。それも、有益な情報を得られるのだという信頼と期待があってこそだ。信頼と期待がなくなれば、違う人間を探すのがこの世界の常である。
敷田が、社長室からの退出を促した。
「書類はすでに用意されているから」
ドアを出るとすぐに敷田は口を開いた。既定の書式で印刷された退職届や、在宅勤務により持ち出した会社の備品を自発的に返却するための誓約書など、必要書類が一式、埃がたまった現一の自席に置いてある。敷田はスマートフォンの返却も求めてきた。現一は言った。
「少しトイレに行っても、いいですか?」
「いいけど、スマホはここに置いていってくれ」
現一はトイレに行った。こんな時でも尿がでるのが不思議だった。おのれの汚らしい肉体から流れでる液体にはアルコールが混じっている。社長から呼び出しを受けた時点で退職を迫られるのを予測し、タクシーで出社する過程で、会社のスマートフォンから、顧客の連絡先など優先順位の高いものを、足が付かないように、手帳に控えるべきだった。油断した自分を悔やんでも悔やみきれなかった。
トイレから戻ると、敷田は自席に戻っていた。現一の机には案の定、スマートフォンがなかった。
「書類を出してもらったら、下まで送るから。あと、貸与したパソコンについては、すでにロックを掛けておいた。悪く思わないでくれ」
朱音とのやり取りは、先ほどまで机のうえにあったスマートフォンを通じて行っていた。私用のスマートフォンには、朱音の連絡先を登録していない。朱音が面接を受けた仮想通貨運用会社の幹部の電話番号、メールアドレス、LINEのアカウントも、敷田が回収したスマートフォンのなかにある。
オフィスビルの通用口を出たところで、現一は敷田に入館ICカードを渡した。
「身体と家族を大切に。狭い業界だから、また同じ会社で働くことになったら、よろしく。じゃあ。お疲れさまでした」
敷田はそれでも、別れ際には現一と握手を交わそうとした。右手を差し出してきた敷田を前に、現一は立ち尽くしている。失業したという実感がまだ湧いてこない。これまでの労をねぎらおうとする敷田は困惑した表情をみせ、右手を引っ込めてから軽く会釈をして、地下鉄の駅の方へと歩いて行った。
現一は一人になった。車通りも人通りも少なく、真に一人、この世に取り残されたような錯覚を抱いた。
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