第18話 パパはいたの? いなかったの?

 紗季さきは繊維問屋街で大量調達した生地が詰められたレジ袋を、ひとまず自室の椅子の上に置くことにした。時計は午後6時を回っていた。


 夕食の支度をしようとキッチンに向かう途中、現一げんいちの仕事部屋のドアが開いていたので、中を覗いた。そこに現一の姿はない。散歩でもしているのだろうと思った。冷蔵庫のなかの食材で不足しているものはないかと考えながら足を進めると、廊下の床に洗剤のような液体がこぼれている。


 リビングに目を移すと、ソファの上でたかしが横になっていた。前歯が赤く染まっている。


「どうしたの!」


 紗季は思わず大声を上げて、隆のもとに近寄った。


 ガラステーブルには、宿題用の教材と筆記用具がある。床にはシャボン玉液を入れたプラスチック容器とストローが転がっている。


 宿題をしている時に、シャボン玉で遊んでいたという所まで紗季は想像できた。シャボン玉と隆の顔を繋ぐ因果関係にまで考えを巡らそうとする。


 もしや、との考えが浮かんでくる。恐怖を伴う、本能的に打ち消したくなるような推測であった。


 隆の唇が震えている。


 紗季はたまらず、隆の顔を胸に寄せて両手で小さな身体を柔らかく抱擁した。隆は鼻をすする。肩が上下に揺れる。やがて両頬を涙が伝った。


 隆の身に何があったのか、問いただすのは残酷な作業に思えた。自分の想像を明確に否定するような言質が欲しかった。何をどのように聞けば、隆と自分が余計に傷つかずに済むのか、頭のなかで必死に言葉を探し始めた。やっと見つけた問いかけが適切なのかどうか、紗季には分からない。


「どうやって転んだの?」


 この家で両親とともに生活することが、何よりも優先されなければならないものだと、ひとつの生命として、隆は無意識に心得ているようだった。


「スリッパでころんで、ごめんなさい」

「スリッパ?」

「ごめんなさい、ごめんなさい」


 紗季は廊下に目をやった。スリッパなどどこにもない。


「正直に言って。転んだのはスリッパで足を引っかけたからなの?」


 隆は泣きはらした顔をこくりと縦に振った。


 紗季はそれでも、疑わない訳にはいかなかった。嘘を平気で付くような子どもにはなってほしくはなかったが、真実を知りたくないという考えも、紗季を掴んで離さない。


「パパはいなかったの?」


 隆は何も言わない。


「転んだ時、パパは家にいなかったの?」


 紗季は語気を強めて重ねて訊ねた。隆の黒く柔らかい紙が左右に揺れる。現一はその場にいたとも、その場にいなかったとも受け止められる。紗季は質問の仕方を誤ったことを悔いた。


「パパはいなかったのね」


 隆はもう一度、頭を強く左右に振った。現一の存在に関する質問を拒絶しようとしているのは、明白だった。


 抱擁をして30分ほど経った。現一からLINEが届いた。幹部から出社するよう呼び出されたので夕食は不要だ、という。


 隆は泣き止み、母の胸の中で眠りに落ちた。普段なら夕食を終え、テレビを観ている時間だ。


 夕食の準備はできていない。準備をしたいという意欲も湧いてこない。


 紗季は隆をソファに寝かせたまま、自室のクローゼットからスーツケースを取り出し、ノートPC、化粧用具と、自分と隆が着る3日分の衣服を詰め込んだ。隆の勉強用具も忘れずに収納し、スマートフォンのアプリでタクシーを呼んだ。頭を冷やしたいと考えた。現一に連絡する気にはなれなかった。


 15分後、隆の身体を抱え、スーツケースを手に玄関を出ると、エントランスで迎車と表示されたタクシーが待機している。上野東京ラインの停車駅でタクシーを降りる直前に、隆は目を覚ましたが、寝ぼけた顔をしている。


 宿泊先は横浜の桜木町に決めた。横浜駅まではグリーン車で行くことにし、駅構内のコンビニエンスストアで購入した幕の内弁当と握り飯を車内で口にする。中華街に行っても、どうせ店は閉まっている。普段なら帰宅する通勤客で混雑するはずの駅も人は少なかった。グリーン車であればなおさらで、紗季と隆しかいない遮音性の高い車内は静まりかえっている。


 紗季の実家は相模原にあり、横浜よりも町田が近い。同じ県内であっても桜木町に足を運ぶ時はいつも非日常だった。桜木町での宿泊は人生で初めてだ。実家に帰るべきなのかもしれなかった。しかし今、両親の顔を見たら、自分が望まない方向に事が運ぶ恐れもありそうで、怖かった。いずれは実家へ行って、年長者の意見を求めるのは自然の流れのようにも思える。紗季はLINEで、隆が勉強できないようなので、ビジネスホテルに行くことにします、と記した短いメッセージを現一に送った。


 横浜駅に着いたら乗り換えなければならない。隆は電車に興味を示さない。小学校受験の対策に1年以上の時間を費やした。自然に触れ合ったり、巨大な人工物を目にしたりすることもなく、ひたすら塾が用意した問題集と対峙し、面接の練習を繰り返してきた。感じることより、まず答えることを促され、感じたことを自分の言葉で表現するよりも、大人が良しとすることを、模範解答を参照して答えるのを反復させられている。隆の瞳の奥は空虚な世界が広がっていた。


 隆と駅を歩くのが久しぶりなのにもかかわらず、紗季は言葉を掛けられずにいた。人が少ないね、と言っても、カレーライスの臭いがする、と言っても、答えが返ってくる気がしなかった。紗季と隆はエスカレーターの左側に立ち、コンコースに向かって降りていく。現一と似た体格のスーツを着た男性が、エスカレーターの右側を歩いて降り、紗季と隆を追い抜こうとする。隆はなぜか紗季の太ももに身体を寄せて、しがみつこうとした。条件反射的に、大丈夫よ、という言葉が紗季の口をついて出た。


 なぜ大丈夫と言ったのか。どのようなことがあったので、大丈夫よと言ったのか。紗季は自分に問いかけてしまう。答えを探って自分を傷つけようとしている。現実を直視する余力は紗季にはまだなかった。これから先の、それまでの紗季が描いてきた理想が打ち消され、眼前の世界と等身大の自分に決済された。決済の後、現一はいなくなり、スーツケースを引いて歩く自分と、自分にすがりつく隆が横浜を彷徨い歩いている。


 涙は流すまいと紗季は思った。そんな表情を隆にみられたら、息子はさらに不安になるのだと言い聞かせて、胸を張ることにした。桜木町の風は強かった。駅から歩いてすぐの場所にあるビジネスホテルは、観光客がほとんどいなくなったせいか、みなとみらいが一望できる海側の部屋が空いていた。虹色に光る観覧車を前にして、隆はやっと笑った。


「しばらくはここでお勉強ね」


 紗季はスーツケースから問題集と筆記用具を取り出して、ベッドの上に座る隆に手渡した。


「机が高くてできないよ。塾は?」

「明日はお休みじゃないの?」

「明後日はあるよ。明後日はどうするの?」

「どうしようね。お母さん考えておくから、しっかり宿題しなさい」


 隆は眉間に皺を寄せた。子どもながらにして、旅が長引きそうなのを察している。シングルマザーになれば、そもそも小学校受験をするという選択肢など消えてなくなるのだ。精一杯、課題に向き合ってきた隆には残念だが、志望する学校に合格できなければ、どうせ公立の小学校に通うことになる。都内か相模原かという違いはあるかもしれないが、同級生となる子ども達に比べれば、知能面でアドバンテージがあるのは救いだろう。


 隆はベッドの上でうつ伏せになって、問題集と向き合っている。紗季は化粧を落として、テレビを付けて横になった。こういう時、母親らしい言葉を、何ら投げかけてやれない自分を恥ずかしく思った。そういう言葉がまず浮かばなかった。


 チャンネルを回すと、ちょうど経済ニュースの時間だった。欧米で新型コロナウイルスの感染が再拡大し、経済活動を制限する動きが広がっているのだという。追加の経済対策の実現に対する不透明感も強まり、米国株式市場でダウ工業株30種平均は急落していた。2020年に入り、世界景気に対する深刻な影響への警戒が広がった3月に世界中で株価は大幅安となったが、その時を彷彿とさせる下げ方だ、と市場関係者がインタビューで話している。


 チャイナ・ショックの最中に隆は産まれた。相場という暴力が現一を殴打し続けていた時だ。アナリストとして予想が困難な状況に直面するなかで、顧客に情報発信をしなければならない立場にあった当時の夫は、振り返ってみれば、尋常な精神状態にはなかった。悪夢にうなされて奇声をあげることもしばしばあった。


 5年が経ち、相場の暴力に身を晒し続けてきた現一の精神は今も、平静とは程遠いものに違いない、と紗季は夫をかばってみようとする。かばい続けたいと願う。現実はもはや、かばえそうにない。相場に吹く暴風が止んだとしても、だ。


 寝息がする。隆は問題集を前に顔を紗季のほうに向け、目を閉じてしまった。うつ伏せという体勢と、環境の目まぐるしい変化に伴う疲労が、隆を睡眠へといざなった。


 隆の小さな身体が冷えないよう掛布団に包ませてから、紗季はスマートフォンのアプリで、ホームセンターの場所を検索した。学習用の小さな折り畳み机を購入しておけば、ホテル暮らしが長引いたとしても、相模原の実家に世話になったとしても、隆は勉強に励むことができるはずだと、おかしなことを考え始めた。大人の視点では挑むのが無駄であるような戦いであっても、隆がひるまずに臨むのであれば、支えられることはなんでもしてあげたかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る