第19話 大人達
地下鉄の出口から外に出ると、首都高のナトリウムランプが点線となって、青黒い夜空とビル群を分け隔てていた。東の空に月光が薄雲に見え隠れしている。湿った南風が頸筋を過ぎると、冬の到来が近いのが嘘のように思えてくる。
大通りから路地に入ると、白いレンガ造りの雑居ビルの一階に、檜の扉が橙色の照明に照らされているのがみえる。
なかには7人ほど座れるカウンター席と、4人掛けのボックス席が3席あるばかりの、さっぱりとした店だ。在宅勤務が本格化する前まで、顧客との接待を目的によく利用していた店であり、家族を連れて訪れることはなかった。
カウンター席の奥に座る
イタリアンレストランで食事を共にしてから半月も経っていない。これまでの二人がこうも頻繁に会合を重ねることはなかった。その日の夕方の予定を尋ねて、食事に誘ったのは現一のほうである。朱音がメッセージを受けたのは、例の仮想通貨を運用するヘッジファンドの幹部との面談を終え、帰宅しようとしていた時だった。
「すまないね、急に誘ってしまって」
「全然。暇だもん」
「今までの人生で一番、喉が渇いたよ。ビールを飲もう」
「あたしはウーロン茶にする」
「あれ? 飲まないの?」
「最近、禁酒しているの」
若旦那は淀みのない瞳を現一に向け、飲み物の注文を受けた。現一はふと、自分の瞳の色が気になった。妻ではない女性が右側にいる。妻には、会社に呼び出されたと嘘を言っている。
大将と世間話をする現一の横顔を朱音は眺めている。誘いの連絡は突然だったが、嫌ではなかった。むしろ、早く会いたいとさえ思っていた。
日めくりカレンダーに目をやると、10月27日とある。現一と朱音が大学生時代に所属していたゼミは、指導教官が学生の誕生日を把握するのが好きで、月に一度、研究室で誕生日パーティーを開くのを常としていた。パーティーといっても、ピザとジュースが用意され、誕生月のゼミ生には無料でケーキが振舞われるという簡略的なものだった。
朱音は現一と同じ10月生まれで、ゼミには大学3,4年生の時に所属したので、2回、同じパーティーで祝福を受けた。朱音の誕生日は10月28日だ。現一の誕生日がいつなのか、朱音は知らない。おそらくパーティーで、指導教官が一人ひとりの誕生日が何月何日であると言ったに違いないのだが、忘れてしまった。二人ともSNSでは誕生日を非公開にしている。朱音は訊いた。
「ゼミの誕生パーティーで、ゲンとあたしが一緒にお祝いされたのって覚えている?」
「覚えている」
「ゲンの誕生日っていつだっけ?」
「もう終わったよ。19日。俺が8歳の誕生日の時、ブラック・マンデーで株価が暴落したんだ。朱音は?」
「忘れたの?」
「ごめん」
「明日。28日」
「そうだったのか。それはおめでとう。1日早いけど」
朱音は
「この歳になると、祝われても複雑よね。奥さんからはお祝いを受けたの?」
「いや、何も。専業主婦だから、プレゼントをするにしても、結局俺のカネから払うことになるでしょう。バカバカしいから、数年前から祝う必要はないと言ってあるんだ」
「専業主婦だからこそ、感謝の気持ちを捧げたくなるような気もするけどな」
「そんなことないよ。10月28日か。2008年の10月28日。何の日か分かる?」
「どうせマーケットの話でしょう? 簡単よ。私の誕生日だもん。日経平均株価がバブル崩壊後の最安値を付けた日でしょう」
「大正解。終値ベースでは2009年3月に付けたのがバブル崩壊後の最安値だけど、取引時間中に付けた安値では2008年10月28日なんだ」
2008年9月にリーマン・ブラザーズが破綻したのを機に下落の一途をたどった日経平均は、翌10月28日に一時6994円90銭を付けた。1989年12月29日に付けた史上最高値に対し、82%下落した水準だ。
「シンクタンクの同僚から教えられたのよね。暴落の二人なのよ」
「今のような時代では暴落の日こそ買い場なんだけどね」
「勇気があればこそだよ」
付き出しの銀杏が二人に差し出される。檜の扉が開き、客がもう1組入ってくる。地元の住民だろうか、足を悪くした白髪の老女が中心の家族連れだった。
〈お母さん、あと何回お寿司食べられるかねえ〉
〈うるさいわよ〉
音波を前に送るエネルギーの強い江戸の方言が店内に響いてくる。現一と朱音が育ったのは音波を外に出すよりも、逆方向に飲み込むのを好しとする文化圏である。
女将が二人分のお造りを運んできた。ガラス皿のうえに、剣先イカとヒラメ、ボタンエビ、マグロ、ホタテが盛り付けられている。
「次の会社の人とは会ったの?」
「うん」
「やっていけそう?」
朱音はグラスに注いだウーロン茶に視線を向けてしばらく考え込むような素振りをみせてから、つい先ほど終了したばかりの、幹部との面談と、その時の印象について説明した。
「今回は、自信がないかも」
「えらく弱気だな。仮想通貨って、やっぱり怪しい?」
「選んでいる場合じゃないんだけど、働いている人の眼がね、なんだか、血走っているというか。必死に物事に取り組まないといけない世界の人と上手くやっていくイメージが湧いてこないのよね」
「スタートアップだからな」
「紹介してくれた人は、丁寧に色々と説明してくれたよ。こちらの問題なんだと思う」
現一はつい先日会ったばかりの朱音の顔から、疲れの色が一段と滲み出ているのを改めて感じた。メイクのせいではなかった。無地の白シャツが覆う胸元も、張りを失っているように見えた。
「あまり無理しないほうがいいよ」
「そんな風に言われると、もう無理かも」
そう言うと、朱音は上半身を傾け、現一に寄り掛かった。現一の心音が高鳴った。
「おいおい。ウーロン茶で酔っぱらったのか」
「ふん。もう、働くのやめて、専業主婦になりたい」
朱音の栗色の髪が現一の頬をくすぐる。寿司屋に入る前に急いで身だしなみを整えたのか、うなじのあたりから制汗剤の爽快な香りがする。板前が顔をしかめない程度の、かすかな香りだった。
朱音は現一の肩の感触を愉しんでいるようだった。現一は、専業主婦になるなら、相手は誰なの、と聞きたい衝動を抑えながら、握りを出してもらうように大将にお願いをした。朱音は頬を現一の肩から離しながら言う。
「それにしてもゲンとこんなにすぐ会うなんて、思っていなかったよ」
「たまにはいいでしょう」
「仕事で嫌なことがあったんでしょう?」
「まあね、でも大丈夫だよ」
一貫目は真鯛の握りだ。黒漆器に映えるガラス細工のような光沢は、見た目からして甘味をたっぷり含んでいそうだった。朱音は右指で掴み、口へ運び、恍惚とした表情をした。
「ゲンの奥さん、こんないいもの食べさせてもらえるなんて、さぞかし、幸せなんだろうな」
少し遅れて現一も真鯛の握りを口に含んだ。脂ののった真鯛の甘さを、絶妙なバランスで寿司飯の酸味が引き立てている。
「こんな美味しいの、毎日食べているわけじゃないよ。最近は手抜き料理が多いしね」
「あちらのほうは?」
朱音がマイクを握るように右手に拳を作って、現一の口元に近づける。下から覗き込むように、どうなんですか、と何度も聞いてくる。
「そんなのとっくの昔からないよ。女性としてはもう、見られないよ」
「大変ですなあ」
おどける朱音を現一は愛らしく思う。
「インタビュアーは、俺の方だよね」
朱音はクスっと笑う。二人は高校時代の、同じ記憶を思い起こしている。朱音の所属していた新聞部は、部員8人で取り組んだ特集企画の記事が、県内の高校新聞部のなかでも秀逸な活動だったとして、表彰を受けた。現一と朱音が高校3年生の時だ。県内に地盤を置くNタイムズやC新聞にも取り上げられた。
西三河地域でも比較的リベラルな、とはいえ、そこそこの進学校であり、新聞部の歴史は長く、表彰自体は珍しいことではなかったのだが、注目を集めたことが二つあった。一つは、企画のテーマだ。
美術の授業中、ハンドボール部の部長を務めた
大須賀が通った中学は、日系ブラジル人の生徒が増えていた。言語の問題から意思疎通ができず、日本人コミュニティーから疎外された生徒の何人かが高校進学を諦めることになったのだ。朱音は新聞部に、なぜそういう若者が増えているのか、問題を提起するために取材活動を進め、特集記事に仕立てようと提案した。
企画会議の席には、まだ大学を出たばかりの、若い顧問の教師がいた。色白で、朱音よりも少しだけ背が高く、プラスチックフレームの眼鏡がチャーミングな公民の教師だった。
「企業批判に安易に傾かないようにね」
顧問の教師が釘を刺したのは、共産党員の母から無意識に影響を受け、資本主義を拒絶するような論説を展開しかねない朱音の、ある種の「潜在性」を感じ取っていたからだった。
日系ブラジル人を雇う必要に迫られる中小企業に横たわる慢性的な人手不足の問題、国際競争にさらされてコスト削減を余儀なくされる大手企業、ブラジルで発生したハイパーインフレ、日本の出入国管理に関する法改正――。
経営者や大手企業の広報担当者、ブラジル事情や法律に詳しい専門家、在日ブラジル人が多く住む地域の自治会長らに手分けしてヒアリングをした。そのうえで、実際に高校進学を諦めた在日ブラジル人にコンタクトをし、密着取材とインタビューを敢行したのである。自分と同世代の人間が直面した不条理に心を打たれた生徒は多く、教科書への記載が追い付いていない現代社会に対する生徒の問題意識の醸成に役立つ充実した内容だった。
もう一つ、話題となったのは、記事の出来栄えとは一切関係のないことだが、プロの新聞記者が朱音に対して取材をした記事が出た後の顛末である。
新聞社のうちの一社が、インタビュイーの名前を「伊豆丸朱音」ではなく、「伊豆丸明音」と記していた。記事を目にした生徒でも、朱音と普段から接することがなければ気付かない間違いかもしれない。
朱音は、自分の名前が誤表記されたことよりも、プロと呼ばれる人間が、基本動作を怠ったことを最初に悲しんだ。そして顧問の教師に、自分の名前が間違っているので、新聞社に訂正記事を出すように連絡をしてほしいと頼んだ。
顧問の教師は朱音の要望通りに動こうとした。ところが同僚の教師のなかには、いくら企画記事の取材のバランスを重視したとはいえ、在日ブラジル人問題にメスを入れようとすること、もっと言えば、歪んだ社会を肯定せず、問題提起をする行為そのものを「左翼的」だとして、毛嫌いする者もいたのである。
朱音は記事が掲載され、顧問の教師に間違いを指摘した日の授業後、教頭から呼び出しを受けた。
「こういうのはよくある間違いなんだよ、我慢しなさい。あなたのわがままで、他の部活に対する取材が入らなくなったらどうするの。それに今回の記事で、あなたがお母さんみたいな人だという履歴が残ってしまったら、将来、就職活動をする時に、きっと不都合になるから、名前を間違えて記載してくれたのは、むしろありがたいことじゃないの? 僕はそう思うけどなあ」
ただ黙って、教頭の話を聞いていた。理不尽なことを言われているのは承知していた。あまりにも理不尽で、自分の尊厳を蔑ろにする目の前の大人に対して、呆れ果てて物が言えなかった。このような空しい感情を抱かせた新聞記者という存在には決してなりたくないと朱音は思った。
教頭に背を向けて廊下に出た時、教師にも絶対になってやるものか、と考えた。が、その考えは瞬時に覆った。廊下で朱音を待っていた顧問が、涙を流して、ごめんね、朱音、と言って、その場で声を上げて泣き崩れたのである。
先生は全然、悪くないよ。
朱音はしゃがみ込み、泣き崩れた顧問の肩を抱き寄せて声を掛けた。職員室から何人か、同僚の教師が出てきて、朱音と同様に、大丈夫だよ、と慰めの声を掛けた。朱音は自然と、涙が落ちてきた。
若さゆえかもしれないが、こういう人間がまだいる職業なら、清濁併せのむべき局面があったとしても、自分はやっていけるのではないか、と思った。
「そんなこんながあった後に、放送部からのインタビューを受けるのは、本当に嫌だったのに」
「顧問の圧力がすごかったんだよ」
現一が目を閉じると、高校生だった朱音が、脹れっ面をしていた。
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