第17話 兄さんのほうが頭いいで

 砂漠かとも思えるぐらい雲一つない青空の下、呼高よびたかの車は交差点で信号待ちをしていた。


 工場で生産されたばかりの乗用車を積んだトレーラーに挟まれて窮屈そうな軽自動車のなかでは、正午のラジオニュースが、季節外れの台風が近づいているとして警戒を呼び掛けている。


 経理部長との面談を終え、自宅に戻る途中であった。リモートで面談できるツールは巷に溢れているのに、人事に関わる大切な話だからと言って、部長は出社を求めてきた。夕方には母がデイサービスから帰ってくる。


 部長の話では、今の米原支店長は早期退職制度に応募をするのだという。空席となった支店長のポストは一時的に大津支店長が兼務する形をとるのだが、これまで米原支店長は管内の営業の最前線にも立っていた。売上が落ち込むのは何としても避けたいとの考えから、経理部員である呼高を転勤させることにしたのである。


 営業には不向きだという理由から簿記の資格を取り、経理部への異動を嘆願した過去がある。だが会社は、営業が不向きだという呼高の認識は歪んでおり、成功体験を重ねれば人並みの数字を上げられるようになるのだという立場を崩さない。


 信号は赤のまま、矢印信号が点灯し、直進と左折が許されるようになる。呼高はこれまでの人生で3000回以上は通過したであろう交差点に進入し、そのまま直進する。牛丼屋のロードサイド店が左側を通り過ぎていく。昼時なのに食欲が湧いてこない。


 俺の立場を考えてくれ、と経理部長は呼高に迫った。


 あなたの立場が全てを決めるのか、と言い返してやりたかったが、ぐっとこらえた。


 君が転勤命令に対し首を縦に振らない理由が分からない、とも部長は言った。母の介護にも、最大限の配慮をするというのに、そこまで拒否するのはわがままにも程があるではないか、と。


 そんな論理がまかり通ってしまったら、実家暮らしを選択した人間で成り立つ地方都市が、ますます縮小してしまうではないか、と憤りが胸を突き上げていく。そもそも居住地を選ぶ権利は、等しく付与されているはずだ。権利、権利と主張する人間を疎ましく扱う社会の風潮に対しては、開いた口がふさがらない。でも職場なしでは今の生活が成り立たないのも事実である。奴隷だ、と思う。会社員という存在は、奴隷の名前が違ったやつだと、嘆いてみても仕方ないのだが、嘆いてしまう。


 米原はまず、言葉が違う。冬は雪が降る。実家以外で暮らしたことのない呼高にとって、そこでの生活は想像できる範囲を超えた、壁の向こう側の空白のように思えてならなかった。異国の地で暮らすようになれば、どんな困難がやってくるか見当がつかない。困難が来た時、どのぐらいの金銭を失うことになるのか予想がつかない。


 50キロ制限の国道を進み、自宅近くの路地に入った。通り行き交うのは車のみで人の姿はなかった。ただ車の走行音が響く片田舎である。点在する日本家屋に住むのは呼高の家庭と同じような、介護者と被介護者の世帯ばかりである。


 軽自動車を自宅の車庫に駐車して車を出た後、呼高は庭の表情を眺めてみる。紅葉は見事に色づいた。まもなく冬が来る。紅葉の枝の下には、泉を造成するために掘った穴がある。転勤を命じられた自分がこの家を後にすれば、穴は穴のままである。水をたたえられるようになる時期は数年先かもしれないし、未来永劫ないのかもしれない。


 呼高は穴を見下ろした。深さは50センチぐらいだ。楕円型にして、蓮を育てて、上に猫除けの線を張り、メダカを泳がせたかった。そのために濾過装置もすでに手に入れていた。考えてみれば、順番を間違えていた。


 順番という単語が頭に浮かぶたびに、呼高は8歳年上の現一げんいちを想起しない訳にはいかない。


 小学校1年生の秋、紅葉は今よりももっと赤々としていたように記憶している。それまでの経緯は覚えていない。おそらく兄が大切にしていた物を壊したとか、そんな理由だったと推察することはできる。


 中学2年生の現一は呼高の耳たぶを掴み、この紅葉の木の下まで引っ張ってきた。耳を構成する筋繊維が断裂したような音がした。現一は呼高の小さな頭を地面に押し付けた。それから、仰向けになって露わになった呼高の腹を右足で数回、踏みつけた。うずくまる呼高の股間を現一は右足の甲で、目いっぱい力を入れて蹴った。呼高は気を失った。


 目が覚めた時、病院のベッドにいた。呼高の眼から自然と涙があふれてきた。たまりかねた看護師は呼高にカエルの形をしたゴム人形を渡して、だいじょうぶ、いつもいっしょだよ、と慰めてくれた。


 呼高の記憶はここで途絶える。その後、現一が呼高にどのような言葉を掛けてきたのか、何も覚えていない。そんな出来事が起きる前から、兄をすでに恐れていたのかもしれない。


 高校に通うようになった兄は朝早く家を出て、部活や塾通いを済ませ、夜遅くに帰ってきた。呼高が中学2年生になった頃、現一は就職し家を出た。兄弟がいがみ合うには、呼高の精神は幼すぎたのである。同級生との喧嘩も苦手だった。学校ではいじめに会い、勉強が嫌になった。


 それでも母の置子おきこは、呼高に優しかった。


「よっちゃんがお腹におった時、また男の子かあ、女の子が欲しかったのになあと思っとったんだよ。そんなふうに考えとったで、産まれた後寂しい想いをさせたかもしれんねえ。お兄ちゃんにはお兄ちゃんのいいところがあるだわさ。でもね、あんたはおちんちんがあっても大人しいほうだし、優しいし、お母さんはそういう子が大好きだでね」


 小学校5年生の頃、呼高は母と二人で近所のスーパーに行った。ケーキを作ってみたいと思い、母に製菓用の材料をねだっていた。今は亡き父は、眉間に皺を寄せていた。あの後、ケーキを実際に作ったのかさえ、覚えていない。呼高の記憶の至るところに欠如がある。でも、中学校を休みがちだったのだけは確かだった。それは覚えている。周囲の男子がみな兄のように思えて怖かったのだ。


 女性比率の高い商業高校で資格を取りたいと言った時、再び父が眉間に皺を寄せたのも覚えている。結局、商業高校を受験することはなかった。普通科に進学しておけば、進路の選択の幅が広がるはずだという、教師の助言が作用したのかもしれないが、その理由もしっくりこない。意思を貫き通すのが、多分恐ろしかったのだろう。


 母はそんな自分の内面をいつも慮ってくれた。母といる時間が楽しかったから、自然と母のそばに寄り添って生活したいという気持ちになったのだと、呼高は考えている。


 会社は母の介護の問題について最大限協力するという。だが新しい街で、クオリティが担保されたデイサービスが見つかるのか、全く見通せない。介護に適した賃貸住宅が見つかるのかも不透明だ。そもそも賃貸住宅で手すりの取り付けやバリアフリー工事をするには大家の許可がいるだろう。


 転居後の不安が解消されたとしても、今の家屋の管理をどうするのか、という問題がある。母と一緒にいたいというのは自分のエゴでもあると呼高は分かっている。


 兄からの資金援助をもってすれば、米原に母を連れて行かなくても、実家周辺の介護サービス付き高齢者住宅に入居することだって可能だ。もちろんその場合も、実家の管理の問題を考えなければならない。


〈お前、おふくろが死んだら、その家どうするつもりだ〉


 今年の盆に、現一が放った一言が再び呼高の脳裏に蘇る。資産運用の知見のある現一を頼るべきなのかもしれない、と呼高は思った。


 視線の先にある穴は埋め戻され、穴の記憶だけが残されることになる。決して埋められない穴。穴の周囲にある紅葉の木、草花は、記憶のなかでしか生息できない。ある種の絵画となって、四季の循環を受けて漸次的に変化する機能は奪われることとなる。


 戸建住宅として販売される場所には、見知らぬ家庭が定住することになり、自分と母は新しい生活環境を手に入れる。兄の助言にあわせて事を運ばせたほうが理に適っているような気もしてくる。


 呼高は庭を離れ、玄関の扉を開けた。1階の客間で腰を下ろして、スマートフォンを手にした。転勤を命じられたこと、デイサービスの利用を止め、実家周辺か、転居先周辺の介護付き高齢者住宅または特別養護老人ホームの入居を考えていることなどを、メールで伝えようと考えたのである。


 一つ深呼吸をしてみる。長文を書く訓練は受けていなかった。依頼する内容とその背景をどのような順序で伝えるのか、事前に吟味することなく、ただ指が動くまま、文字をフリック入力していく。


《兄さん、元気ですか。米原支店に転勤することになった。母さんを連れて行こうか、迷っている。連れて行こうが、こちらに残そうが、今のようにデイサービスを使って送迎することは無理だわ。24時間体制で見守ってくれるような施設を見つけて、入居してもらおうと考えている。兄さんのことだから、そのあたりは何も命令とか指示とか出すことはないでしょう。どうしようかな。母の転居についてはちょっと考えます。ですが、いずれにしても実家は、誰もいなくなる。世の中にはそういう空き家の管理をするサービスがあるみたいだね。


もちろん金は掛かるし、中小企業の給料では賄いきれない。うちの会社は母の介護については最大限協力するというけど、そういう空き家管理までお願いしてもいいものなのか、正直聞いてみないと分からない。あるいはね、この前兄さんが言っていたように、実家の土地の一部を売ってもいいのかなと思っている。それと兄さんと僕との土地の分け方については、よう分からんけど、兄さんはアパートを建てると言っとったね。


アパートを建てようかな。管理の仕方とか調べたわけではないけど、兄弟でそれぞれ一棟ずつ建てたら、揉めるかな。どっちかが日当たり良くて、どっちかが悪いとかになったら、あれだもんね。父さんの遺品と母さんの私物で、要らんもんは売ったり処分したりして、トラクターも誰かに引き取ってもらってさ。どう? こなへんは車がよう通るから、どこまで住みたい人がおるのかね。駐車場にしても工業団地から距離あるしね。いずれにしても、土地のことは兄さんのほうが頭いいで、お願いします》

 

 呼高はメール本文を読み返した。「元気ですか」を「元気?」、「あるいはね」を「あるいは」、「頭いいで」を「頭がいいので」というふうに直した後、最後の「お願いします」をどうするか悩んだが、そのままにした。


 散見される口語的な表現はよしとして、「あれだもんね」について、もう少し気の利いた表現がないか考えてみたが、見つからない。考えているうちに、あれだもんね、が一番、適切な表現のような気がしてきたので、これも直さないことにした。


 身内に対する適切な距離感が測りにくかったのを差し引いてみても、自分の作文能力が、小学生の頃から進化していないように思えてならず、悔しさを感じながら送信した後、件名を入れなかったことに気付いたが、そういうこともあるのだと思うことにした。


 午後の業務に戻る時間にすでに入っている。冷凍のパスタを電子レンジで温めて、パソコンに向かいながら簡単な昼食をとることにした。すぐに現一から返事が来るとは想定していない。まずメールをしっかりチェックしているのかどうかも怪しい。


 部長との面談で呼高は終始、転勤の打診にあいまいな返答を繰り返した。強く否定をしなかったのを、部長は承諾の意思を見せたとみなしていて、早速人事部から、転勤に伴って提出が必要な書類のセットがPDFファイルで届いた。呼高はプリントアウトをして、ボールペンで必要事項を書面に記入していく。そうするうちにあっという間に1時間ほど経った。


 スマートフォンから着信音が鳴る。メールではなく電話の着信音だ。


 現一が電話を掛けてくるのは珍しい。事が事だけに、電話をしてきたのかもしれない、と呼高は思った。だが画面に表示された文字列は「霧島現一」ではない。「デイサービス やまとの泉」とある。


 電話を掛けてきた女性職員は早口だった。


「お忙しいところすみません。実は当施設において、新型コロナウイルスの集団感染が起きまして、置子さんも濃厚接触者に該当しているので、きょうはこちらでお預かりさせていただきたいと思いまして。PCR検査はこれから受ける予定です。現時点では体温の変化はまだみられませんが、こちらの通所者には、すでに高熱を出して救急車で運ばれた方もいらっしゃいまして」

「母には会えますか?」

「いいえ。しばらくはご遠慮願いたいんです。ご家族に感染が広がった場合、当施設の責任問題となりますので」


 女性は事務的に回答した。


「せめていつぐらいまで、というのも難しいですか? 転勤になるので、これからのことを母と一緒に相談させていただきたくもあるんです」

「難しいですね。こればかりは」

「ずっと会えない可能性もあるということですか?」


 呼高の追求に女性は苛立ちを隠さなかった。


「こちらもこれまでなかったことですから、はっきりとしたことは言えないんですよ。とにかくまず、きょうはお母さんをこちらで預けさせていただきます。その先のことは、状況を見て決めさせてください。すみませんが他にもお知らせしないといけない方がたくさんいらっしゃるので、きょうのところはこれで失礼させてください」


 あの、と言いかけたところで、電話は一方的に切られてしまった。

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