第16話 ガリラヤ湖周辺

 こちらはガリラヤ湖です。


 といってお分かりになる方は少数派かもしれませんね。ティベリアス湖とも呼ばれます。高台の写真です。


 下半分だけみると、日本にもみられるような湖畔です。群生する林が広がる光景ですが、上半分には異国でしかみられないような、角ばった山々が見えますね。場所はイスラエル北部で、レバノンやシリア、ヨルダンとの国境とそう遠くない位置にあります。湖の底が世界で最も深い淡水湖です。


 塩湖の死海の方が底は深いのですけど、淡水なので死海のように泳いでも身体は浮きません。歴史的にみるとイエス・キリストが伝道したのは、大半がこのガリラヤ湖畔でした。湖の上を歩く秘跡などが伝わっています。弟子のペテロはガリラヤ湖の漁師でした。


 今でもガリラヤ湖では漁が盛んだと言われています。さらに今から遡ること800年以上前、ガリラヤ湖周辺は十字軍とイスラム勢力が激突した場所でもあります。クルド族出身でアイユーブ朝を建てたサラーフ=アッディーンが率いた武力軍が、十字軍の進軍を退けた、有名なハッティーンの戦いの舞台です。


 十字軍の守りを崩すために、イスラム勢がガリラヤ湖畔の街であるティベリアを攻撃した時のことです。ティベリア周辺に本拠を構えていた十字軍は、泉を伝って、ティベリアへ進軍すべきか、本拠に留まるべきか、意見が対立しますが、結局進軍することになります。これが、イスラム勢力の願うところでした。現地は季節の関係で、途中、経由する泉には水がありません。


 イスラム勢力は十字軍の退路を断ち、彼らが泉に向かって進むのに合わせて、攻撃を仕掛けます。十字軍がやっとの思いで泉にたどりついても、水は手に入りません。十字軍の士気は大きく下がります。喉が渇ききった兵士は、上官の指示に従おうとしません。統率が取れなくなった十字軍はイスラム勢に包囲され、多くのキリスト教徒が捕虜になり、さらに聖遺物のひとつで、イエス・キリストが実際に梁りつけられたという聖十字架も、奪われてしまいました。


 聖十字架は今、どこにあるのでしょうか。そもそも世界にある聖十字架と呼ばれる破片を1カ所に集めると、十字架は何十本もできあがるそうです。まあ、象徴としての十字架の役割が奪われることはないと思いますけどね。


 水がなくなった時、人間に待ち受けるのは狂気なのかもしれません。ガリラヤ湖は多くの水をいまでもたたえていますけれども、ウズベキスタンとカザフスタンにあるアラル海は20世紀に面積を大きく縮小し、消滅に向かっています。アフリカのチャド湖に至っては何度か干上がったこともあるそうです。水資源の枯渇は部族間の対立の火種となる訳で、世界各地でこうした紛争は後を絶ちません。


 では湖を作った場合はどうでしょうか。日本にはダムがたくさんありますね。ダムの建設で転居を余儀なくされた人々は、補償金を受け取って都会に暮らすことになります。新しい環境でこれまでと違う生活スタイルに適応できた人がいれば、そうでない人もいたはずです。建設作業で亡くなる方ももちろんいたでしょう。


 私は国家公務員を退職した身なので、どうしてもこういう話をするときは、バイアスが掛かってしまいます。言及を避けるという選択肢もありますけど、ただ沈黙だけするのも能がない。悩ましいんですよね。


 そうそう。昨今ではラジオを付ければSDGs、新聞を開けばSDGsと、なんだかお題目のように唱えられています。SDGsを商売の種にする人間もいるのでしょう。私は技官だったので、商売の話には疎いのです。


 そもそも私の活動は、そんな言葉を聞いたから始めたものではないのですから、実はこの前、SDGs特集のラジオ番組への出演のオファーが来ましたが、自分にとってはメリットがなさそうなので、お断りした次第なんです。一時のブームで、自然保護の問題に関心を抱く人が増えるのが、本当にいいことなのかどうか、私は確信を持てないのです。


 ちょっと話が脱線しましたね。こちらの写真をご覧いただけますでしょうか?


 右側には大きな水車があります。レンガを積み上げて作った構造物で陸地と水面が区切られています。これだけみるとオランダのようですけど、左の奥にはモスクのような建物がありますね。水深は一見浅そうです。


 こちらはナー・エル・アシダムと言って、中東シリアにあります。現在も利用される世界最古のダムとされていて、建てられたのは紀元前1300年頃と言いますから、三千年以上も使われていることになります。ソクラテスはおろか、ダビデ王が活躍するよりもはるか昔です。当時、人間はどのような思索活動を行っていたのでしょう。


 さきほど、水がなくなれば人には狂気が待ち構えている、と申し上げました。狂気から逃れたい。そんな本能が人間には備わっているのかもしれません。


 都市が生まれ、都市圏が拡大する過程で循環的な景気の波が生まれ、景気が悪くなると貧しい人が増え、治安が悪化します。都市が狂気に向かって走りだす時、公共事業という名の、抑止作業が始まる。というようなことを話し出すと、何でもかんでも公共事業をやればいいのだと受け止められてしまいそうですね。そういうつもりで話しているのではありません。必要悪、という言葉もちょっと違います。人間が自然のなかでいきる「業」、あるいは「原罪」、と言うほうが近いのかもしれません。


 このナー・エル・アシダムが建った700年後、寓話作家のアイソーポスが生まれます。イソップ童話のイソップで、有名な童話に金の斧があります。正直な木こりが湖に鉄の斧を落とすと、ヘルメースというギリシャ神話の神が現れます。落としたのは金の斧か、銀の斧か、鉄の斧か。木こりが鉄の斧だと正直に言うと、すべてを授けたと言う話です。


 このヘルメースという神は、盗人の才能があるのですが、なぜアイソーポスがそういう神を登場させたのか私にはよく分かりません。


 このイソップ童話の舞台となった湖というのが、どこにあるのか、必死に探してみましたけれども、インターネットを駆使しても、図書館に足を運んでも、どうも見つかりません。アイソーポスの寓話集は、西アジア地方に伝わる昔話をもとにしたものも多いので、ここがあの、金の斧の舞台となった泉ですと言ってしまえば観光客が訪れるような、いわば言ったもの勝ちの世界があるのかもしれません。


 もしくは、描かれた湖は、特定の湖をモデルとしたものではなく、象徴というか、比喩というか、そういうものなのかもしれません。それを失えば、私たちが狂気に向かう可能性がある、湖のようなもの。そういうのって私たちが気づいていないだけで、なんか世の中にたくさんありそうですよね。後になって気付くものもたくさんあるんだと思いますよ。


 ジョニー池はまだ水をたたえています。奇跡的に、宅地開発の波から守られ、一部は人工的なところもありますけど、何とか姿形をとどめています。みなさんは、このことについて、どう感じますか。


 今回は湖の話から大きく脱線してしまいましたね。どうかご容赦ください。たまにはこういう、歴史を交えた話もいいでしょう? バランスが取れているのか取れていないのかよく分かりませんけど、こういう風にして私達はみな成り立っている訳ですから。なんだかすみません。ではまた。


 ――うん。ちゃんと撮れているな。でも陰気な顔をしているな、俺。センチメンタルに過ぎてしまったよ、麻里子。早いなあ。もう3回忌か。君の顔は、昔と変わらないなあ。

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