第15話 ワトソンズで電気ケーブルを

 腰が軽く感じる。


 朱音は20年近く若返ったような心地がしていた。もちろん現実世界で20年近く若返ることなどない。タイトスカートを履いているが、そんな歳ではないはずだ。


 20年ほど前、朱音は中絶手術を受けた。男はブラジルに逃げていった。顔はやや浅黒く、天然パーマだったのは覚えている。しかし顔の輪郭の内側が思い出せない。赤茶けた卵の殻のようなものしか、浮かんでこない。朱音は自らの防御本能の存在を感じた。


 もはやそんな過去の男なんかどうでもいいはずなのに、表情を構成するパーツがくっきりと現れるようになれば、この人でなし、マザコンと叫んで、眉間にナイフを突き刺したくなるはずだった。


 朱音はバイクの後部座席で、男の腰にしがみついている。背中を向ける男の顔は見えないが、締まった腹筋は学生時代の現一のものとすぐに分かった。ヤマハ発動機製の排気量110㏄のバイクは、灼熱の太陽の下を行きかうトラックのタイヤで磨かれた国道を西に走っている。


 国道を外れ森のなかを進むとエメラルドグリーンの湖が見えてくる。現地の若者が湖のそばの岩によじ登り、服のまま水面に飛び込む遊びをしていた。運動神経の決して優れない日本人の二人をみると、若者らは手招きをする。バイクを降りた現一と朱音がヘルメットを脱ぐ。若者たちは拍手をした。


 聞けば水深は3メートルほどだという。溺れはしないかと朱音は不安になった。不安な胸の内をよそに現一は岩の頂点まで登った。10メートルほどの高さだ。直立したまま水面にダイブする。ダイブした後、水面には泡沫が浮かんだ。やがて水面は静まった。


 次は朱音の番だ。靴を履いたまま水面に飛び込んだ。服に水分が染み込んでいくのに気を取られているうちに、いつの間にか水底に向かって吸い込まれていく自分がいた。もがけばもがくほど、水面は遠のき、意識が薄れていく。


 目を開くと太陽が光っていた。黒髪はたっぷりと水を吸い込んでいる、ようだった。男のシルエットが自分のほうを見下ろしている。


「タオルないけど大丈夫?」


 シルエットが現一だと分かると、朱音は顔を両横に振って、大きく息を吸った。それから弾けるような笑顔に戻った。


「ゲン、30秒待って」 

「?」

「こっちみないで」

「なんだ、そういうことか」


 現一が朱音の近くに再びダイブする。


「恥ずかしいよ、もう」


 温かく、柔らかい感覚。朱音は宙に舞う心地がし、いつの間にか川べりのレストランのテラスの床に朱音は横たわっていた。


 赤いキャミソールとジーンズは濡れていた。額から頬に伝う水滴は塩味がした。湖の水ではなく、汗のようである。風は生暖かい。


 大丈夫、これだけ温かい場所ならすぐに乾くでしょ、と朱音は口を動かしてみたものの、声帯は岩になったように固まり、声が出ない。湖でいつまでも現一と水面で漂うことができたのなら、どんなによかったのか、と朱音は思う。沈没した後の現一はどこか冷たい。


 テラスにある席には、もう一人の女性がいた。女性のそばで少年が、おもちゃを与えられず拗ねているように、膝を抱えて腰を下ろしている。女性と少年は背を向けている。現一は席のほうに戻っていく。


 薄情な人間に会ってさえいなければ、自分も向こう側の人間だったのに。声にならない声が朱音の胸を突き上げた。


 声は出ない。でも身体は動く。身体はレストランを離れて、バイクタクシーを拾いに向かう。薬局に行って、声帯を治す薬と、妊娠検査キットを調達するのだ。いや、後者だけでいい。15分以内に調達し、検査をし、結果を現一のテラス席で見せつけてやるのだ。薬局で電気ケーブルが売っていたら、それも買うことにしたい。店を出る前に現一のテラス席を一瞥したら、まだ食事は始まったばかりのようだ。


 バイクタクシーで南に進むとすぐに、ワトソンズが交差点の角にあるのがみえる。漢名、屈臣氏。運転手に20バーツ札を2枚渡し、朱音は再び走った。水に濡れた靴が空気音を立てる。


 ワトソンズの女性店員は笑顔で朱音を迎え、英語でコンドームの購入を進めてきた。向精神薬の粉末が表面に塗布してあると説明する。朱音は紙とペンを持ってくるように店員にジェスチャーで伝えた。灰色がかった藁半紙に英語で、妊娠の可能性を確かめる薬と、電気コードが欲しいと、殴り書きをする。


 店員は口を両手で押さえて驚き、おめでとうございます、と叫び、料金は無料で電源コードをおまけとして付けると言って、商品をレジ袋に入れて手渡した。


 再び走ってレストランに戻ると、夕立が降る前の、湿っぽい風が吹いてきた。


 マテウスとの子はこの世にはいない。それ以降、どうでもよくなり、カネ目当てに身体も売ったが、好きでもない人間と交わる時は必ずコンドームを使用してきた。肉体を男に委ねながら自分を悲劇のヒロインに見立て、そういう自分に酔いしれ、演じ続けてきた。ついこの前まではそうだった。


 強く念じれば、その通りになる。魔術のような、もっと言えば呪いのような力がこの世には存在し、観念を具現化する秘跡を起こす力が他の人間と同様に自分にも備わっているのだと朱音はこの時、言い聞かせていた。自分には現一との子どもがいるのだと、念じてきた。イタリアンレストランで食事をした帰りに二人で錦糸町のビジネスホテルに入った日から。現一を受け入れた時、その事実が不思議で信じられず、でも現一は温かく、誰に説明しても理解してくれなさそうなぐらい、尊く思えた。そういう記憶が、朱音には確かにあった。


 あのまま二人で朝を迎えたかった。感触が、朱音の肉体を突き抜けていく。レジ袋を手にする朱音の身体が熱を帯び始めてくる。トイレの個室でこれから妊娠検査薬を使う必要があるのに、下腹部は疼いている。自己の手で処理したいとの誘惑が、頭を捉えて離さない。朱音の理性は、衝動的な行為に及ぶ間に、現一らが会計を済ませ、その場から消え去り、二度と会えなくなるリスクを強く訴える。


 自分をこんな惨めな気持ちにした存在がいなくなればいいのにと、声にならない声で、心の底から朱音は叫んだ。肉体は現一を欲している。これからも欲し続けるのだと思う。その悦びを阻害する女性がテラス席で現一の前で食事をしている。


 雷鳴がして雨が降り出し、給仕が慌ててパラソルを広げている。そんなパラソルなど要らない。


 むしろ稲妻が女の頭の上に直撃するべきだと朱音は願った。下腹部の湿りを感じた。その女が消え失せれば、現一から悦びを得られ続けるのだという信念が生まれた時、朱音はレジ袋から電気コードを取り出した。


 現一が席を立ちトイレのほうに向かった。少年は膝を抱えたまま、眠りに落ちている。朱音は女の背後に近づいた。二重にした電気コードを女の首に巻き、全人類に対する怒りをこの時間に集中させるように、力を入れた。女は唸った。お前だったのか、という声がした。女は身を捩らせ、顔を朱音のほうに向けた。朱音の母がそこにいた。栗色の髪にパーマが掛かっている。高校生の頃、日本共産党の推薦を受けて市議会選に立候補をした時のポスターの時の髪型だったが、唇は赤く腫れ、両目と頬に水膨れがあった。縊死した人間の顔である。胃癌で他界したはずの母の顔を見て、実は本当は縊死をしたのではないかとの疑念が朱音のなかに生まれ、怯んだ。


 女は、お前だったのか、ともう一度言った。朱音は怖くなった。怖いと感じれば感じるほど、電気コードは硬さを失い、黒蛇のようなぬめりを持った質感に変化していた。それは黒蛇となった。朱音の右手あたりに、黒蛇の頭頂部があり、手首に噛みつこうと筋肉の収縮を繰り返している。朱音は悲鳴を上げようとしたが、声が出ないままだ。それでも悲鳴を上げようとした。全身から汗が噴き出てくる。硬直は声帯から全身へと広がっていく。


 朱音は、幼い頃に自分から離れていった父の教えに従って、念じ始めた。主よどうか憐れんでください、主よどうか憐れんでください、と。


 次第に目の前の光景が溶解し始めた。学生時代の現一と別れなければならないのが、心残りであったが、なおも朱音は念じ続けた。テラス席の輪郭がなくなり、少年の輪郭がなくなり、テーブルの輪郭がなくなった。


 朱音はアパートのベッドで天井を見上げていた。赤のワンピース姿のままだった。スマートフォンを手にして時刻をみると、まだ午後11時である。仕事で疲れ果て、帰宅した後1時間ほど横になっていたのだった。


 スマートフォンには通知が来ている。チャンネル登録をした「池博士の本棚」が、最新の動画をアップしていた。

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