第14話 なんでも俺のせいにするのか
現一がいつものように翌朝配信のリポートを執筆していると、PCスピーカーからアラーム音が鳴った。昔の同僚がチャットアプリでメッセージを寄こしてきたのだ。
《まだ生きてるか? 相場上がっているのに俺の含み損増えるばかりだよ》
かつて所属していた証券会社の同僚には、退職して個人投資家となり、デイトレーダーで糊口を凌ぐ人間も多い。彼もそうだった。通称、
《何とか生きているよ。やられたのは、どの銘柄?》
《恥ずかしくて言いたくないけど、ネット出店支援サービスの会社、といったら分かるでしょう。成長投資のための費用が必要な会社だから、今度の決算で利益予想を下方修正するとみて空売りしていたんだけど、東証1部に指定されちゃうんだもん》
《日銀のお買い物リスト入りになっちゃったんだな。ご愁傷様》
日本銀行は、市場のリスクプレミアムに働きかけるという、雲を掴もうとするぐらいはっきりしない理由で、東証株価指数、すなわちTOPIXに連動して運用する上場投資信託(ETF)を折りに触れて購入する政策を採用している。TOPIXは東証1部上場企業の株価を元に算出される。TOPIXに連動するETFを購入するということは、東証1部上場の全銘柄を買うのとニアリーイコールである。
実際にはそれぞれの銘柄の時価総額に合わせ、買われる株数は調整される。市場に出回っている株券の数が少ない銘柄の場合は、日銀による買いのインパクトが大きいとみなされ、短期売買を得意とする投資家により、株価上昇を見込んだ買いが入りやすくなる。
《シンプルにバイアンドホールドすればいい相場なんだろうけど、それじゃ面白くないもんな》
《チャート分析という武器を使わないと、君はやっぱり失敗するんだよ。企業情報ならいくらでもアドバイスするよ。手数料もらうけど》
《考えとくよ。もうちょっと手持ちに余裕が出来たらな》
現一は日足君のメッセージに、いいねマークを添えた。
今度はメールの着信を知らせるポップアップが目にとまる。かつて投資助言サービスを提供していたファンドマネージャーからだった。所属する運用会社を退職するらしい。
《次は運用とは全く違う世界に飛び込みますが、皆様方におかれましてはますますのご活躍を心より祈念いたしております》
金融業での経験をもとに、地方の大学で食いつなぐパターンだろう。相場で痛手を負って退場を余儀なくされる人間に特有の、ヒリヒリした雰囲気が行間からは伝わってこない。
つけっぱなしのテレビから流れているのは、午後3時前の5分間、放送されるラジオ体操だ。アルカイックスマイルと言えば言い過ぎかもしれないレオタード姿の女性のうち、黒髪を頸の後ろで団子状にまとめた左から2番目の女性が現一の好みだ。朱音に似ている。そういえば昔、砂浜で水着姿の朱音から、相続した資金の運用方法の相談を受ける夢を見たことがある。朱音の股間を不覚にも思い出してしまう。
デイトレーダーやファンドマネージャーになり、売買で成功を収め続けることができるなら、妻子にはもっといい生活を与えられるに違いない。もっと地価の高い、茗荷谷とか白金台とかに居を構えることだって不可能ではないだろう。
悲しいことに現一は、商いが極端に下手だった。
1年間だけ、勤務先の証券会社の資金を元手に売買するディーリング部門に所属していたことがある。先ほどのファンドマネージャーと同じようにロング・ショート戦略をとり、短期売買をしていた。割り当てられた資金をそのまま投資するのではなく、一定の額の証拠金や、現物株を担保に入れて、手持ちの何倍もの資金を調達する「レバレッジ」を効かせた売買である。そうもしなければ会社に貢献しうる収益を出すことはできない。
はじめの10カ月間は、部門の平均以上の収益を上げるなど、順調な滑り出しだった。しかしライブドア・ショックが全てを狂わせた。上場企業1社とその関連企業に対する証券取引法違反容疑だけで済む話なら、たいしたことはなかっただろう。そう考えた人間は現一だけではなかったはずだ。
が、あるインターネット証券会社が信用取引に関する前例のない規制を講じると報じられたのをきっかけに、相場が急変した。現一は大きな損失を被ることになり、市場からの強制退場を会社から命じられた。傷がまだ浅い段階でのノックアウトだったので、部門異動でなんとか済んだ。
それ以来、調査業務に携わり続けた。カネを稼ぐ営業担当者の後方支援部隊だ。漸次的なコスト削減が必要な業界で、同僚は一人また一人と職場を去り、そのうちの何人かは成功報酬型の投資助言アドバイザーとなった。現一もこうした流れに追従することになったのである。それが正解なのかどうか、よく分からないままだ。
まだ生きてるか、という日足君の問いかけに、いつまで、自分は生きていると答えられるのか。日足君が今度連絡をよこす時は引退の知らせなのか、それとも何も言うことなく相場から退場してしまうのか、読めない世界である。
決算やファイナンスなどを発表した企業に電話取材をしても、企業側は事前に用意した想定問答集に沿って回答する。想定問答集にない質問については即答しない。情報の非対称性があるから、現一のような立場は重宝がられたが、それは過去の話だ。
公平な情報開示の姿勢を企業が強め、テクノロジーの進化で情報伝達の効率性が高まれば、現一のような存在はそうもたくさんは必要ない。道を尋ねるのに、他人に聞くよりもスマートフォンで検索するのと、同じようなものだ。将来、消耗しつくされた自分の姿しか思い浮かばない。
そこまで考えを巡らせた時、突如として動悸が始まった。額が汗で滲みだす。リポートの作成が、遅々として進まない。コーヒーを飲もうと考えたが、きょうはすでに5杯以上、飲んでいた。
ドン、という音がする。心音とは違う。扉の向こうからの、生活音だ、と思う。おそらく塾の宿題に追われた隆が、机でも叩いているのだろう。
妻の紗季と出会った頃、現一は証券会社に勤務をしていた。入社して間もない頃だった。同僚の設定した飲み会に現れた紗季は、医療法人で病院事務の仕事をしていると言った。現一の当時の年収を知るやいなや、寿退社をするには十分だと判断したのだと、今でも現一は思っている。結婚後、しばらく二人だけの生活が続いた。
隆が生まれたのは2015年8月24日。日経平均株価が大暴落を続けた日である。
当時の現一はまだ相場を愛していた。チャイナ・ショックの真っ只中に生まれた子どもに、
隆は国立大学法人の附属小学校に入学するのを目的に、学習塾に週4日通っている。隆自身が、入りたいと言っている。言わされているとも言えるかもしれない。本心で行きたくないなら、行きたくないと言わなければならない。
妻の紗季は今、マスクをつけて外出している。短大時代の同級生と日暮里で会い、外出自粛の風潮下で始めた手芸の上達を目的に、生地やボタン、糸などを物色し、時短営業中のレストランで旧交を深めている。
隆の面倒は現一が見なければならなかった。息子の預け先の幼稚園は、保護者が在宅勤務の場合、週に数日、通園を控える日を作ってほしいと要請していた。学習塾側は、通園の自粛を要請された幼稚園児を対象に、少人数型授業を昼間でも開講するなどの対応をとっていた。息子にとっては幼稚園に通うべき時間が、そのまま学習塾の時間に置き換わったようなものだった。この日は学習塾も、幼稚園もなかった。
再び、ドン、という音が聞こえる。
現一はたまらず、絨毯の上に無造作に置きっぱなしにしていた2リットルのペットボトルの水を喉に流し込もうとしたが、すでに空になっていた。
焦燥感が胸の底から突き上げてくる。
仮に地政学リスクが高まり、一時的に手元のキャッシュを厚くしたいという投資家が増えたとしても、株安による支持率低下を可能な限り回避したいという意思を持つ政府は、株高政策を追求し続けなければならない。
全世界的な現象に、政権交代に抵抗感を持つ日本国民のトラウマがトッピングされる。強気相場に、人知を超えた速度で投資判断する機械と、人知の限界を恐れずに短期売買を繰り返す投機家、政府と世論の狭間に立ちながらも政策上、全体相場の安定を運命づけられた中央銀行、年金基金、保険会社などの金融機関などが入り乱れている。多くが飼い葉桶に口を突っ込む牛のように資産を買う。いずれ限界が来ると言いながら、自分は上手く立ちまわっているし、これからも立ちまわっていくのだと根拠もなく信じながら。
現一の筆が進まない。筆が進まないのなら仕事を辞めるしかない。隆への学費や、マンションの購入で抱えた負債の規模を考慮すれば、紗季は無条件で抵抗するだろう。自分を雇ってくれる組織がまだあるなら、そこに属するべきなのかもしれない。所詮はマーケットに戯れる人間の生き血を吸ってでしか生きられないのである。そんな人間が恰好を付けたところで何もならない。早いうちに決断したほうがよさそうだ、と思う。
気分を変えようと、上場企業の適時開示資料を一つひとつチェックする。窯業のN社は業績予想を上方修正した。市場のコンセンサスを上回る今期の純利益の予想値だ。これは買いだろう。売り銘柄は、マザーズに上場するこの企業はどうか。海外市場で公募増資と株式の売り出しを行うという。資金調達額は最大430億円。株式の需給悪化の懸念でいったんは売られるはずだ。
でも待て。売り上げ規模が数百億円程度の企業にしては、資金調達額がかなり大きい。それもデジタルトランスフォーメーション事業の拡大のための設備投資などに使うようだ。これは、売り一巡後は、買われるパターンだな。なんだこれも長い目で見れば買い銘柄じゃないか。
マネーは溢れている。危ない企業を救う手は至るところにある。銀行だって、リスクをとって融資するようにと圧を掛けられている。余剰資金の幾ばくかを融資に回せば、日本銀行に預けたおカネに僅かばかりの金利が付く時代だ。雇用不安が広がらないよう、政府は金融機関を通じゾンビ企業の倒産を未然に防ごうと手を打ってくれる。経営者にとって、こんなに甘い環境が未だかつてあっただろうか。どんな戯けた経営をしても、株価は上昇してくれるのだ。
《くだらない。あまりにもくだらなさすぎる》
現一のなかの本当の現一が声を押し殺して言う。そんな世界と自分はこの先何年も付き合わなければならないのか。ドアの向こうで隆が叫ぶ。できない、できないと言って、泣き叫んでいる。
ブラインドを開けると、西日に照らされた街があった。コンクリートの建物群が細胞のように密集し、赤血球だか血小板か知らないが、その隙間を自動車が往来している。その上に、ヘリコプターが音を立てて浮いている。
扉の向こうからもう一度、叫び声が聞こえた。これまでで最も大きい声だった。現一はヘリコプターを眺めていた。ヘリコプターから、紙片が無尽蔵に地上にばら撒かれる絵を想像していた。ヘリコプターは何台もやってくる。印刷工場から大量に調達した紙幣を積んでいる。印刷工場に仕事を発注するのは政府である。
ばら撒いた紙片は不思議にも一カ所に吸い込まれていく。重厚な石造りの建物の上に、小さな竜巻が発生する。石造りの建物の周辺には首都高速や鉄道の高架橋が蛇のように絡まっている。日本銀行だ。もういい、と隆は鉛筆を壁に向かって放り投げた。何度か机を叩いた。それから廊下に向かって駆けだした。
夢想を現一は嗤った。実体的な財政ファイナンスという批判をしても報酬が増える訳ではない。
しばらくすると歌い声が聞こえた、ような気がした。
〈シャボン玉飛んだ。屋根まで飛んだ。屋根まで飛んで……〉
現一は幻聴ではないかと疑った。幻聴が幻想を伴うのなら、東京証券取引所のあるあたりから泡が膨れて大きくなるはずだ。
〈壊れて消えた〉
自分の内面が歌ったのか、隆が実際に歌っていたのか、現一には分からなかった。歌の声はそのどちらともつかぬ音域で、鼓膜の内側で響いている。自分の声と隆の声が交差し、合唱のようになる。壊れたレコードのように、壊れて消えた、が何度もループする。外ではヘリコプターが浮いている。ヘリコプターは壊れて消えない。熱に浮かされたような心地がする。
現一は扉を開けて、リビングに向かった。廊下にシャボン玉が浮いている。それは本当に、シャボン玉だった。幻聴のなかで、シャボン玉が確かに存在した。
隆の背中が見えた。玩具箱にある石鹸水の入った容器とストローを取り出して遊んでいた。とっさに現一は怒鳴った。
「おい、部屋が汚れる」
隆が振り返った。目を真っ赤にはらしている。
「すごく床がスリッピーだ」
現一はあえて、滑るという言葉を避けたのである。
「雑巾を持ってくるんだ。洗濯機のうえの棚にある」
隆はスリッピーという単語が分からず、父が足にするスリッパの一種だと勘違いしていた。
「早く」
隆は石鹸水の容器を持ったまま、逃げるように、洗濯機の方に向かおうとした。と、隆は廊下で躓いた。弾みで石鹸液が廊下の壁紙にかかった。空になったプラスチック容器が、玄関の方に転がっていく。
「!」
転んだはずみで隆は膝を廊下の床に激しく打ちつけた。
「パパが、パパが」
声を大にして息子が泣き叫ぶ。
《俺のせいなのか? 何でも俺のせいにするのか?》
ヘリコプターのホバリング音は、いつの間にか現一の耳から消えていた。現一は隆の髪を掴み、床にたたきつけて、脱いだスリッパで何度も殴った。現一の目に隆は、ごめんなさい、ごめんなさい、という音を発する人形に成り下がっていた。
人形は首を縦に、横に、斜めに振り回され、玄関扉に投げ飛ばされて、ぐったりとした。人形の唇の内側からは、血が出ていた。
──現一は落ち着きたいと思い、冷えたミネラルウォーターをコップに入れて飲もうと思ったのだが、こういう時に限って、冷蔵庫のなかにペットボトルが見当たらなかった。
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