第9話 寄生虫と魔の水曜日

 レポートの配信準備を終えた後、自然と現一の瞼が下りてきた。目を覚まし、夕食をとろうとした頃には、紗季と隆はすでに隣の部屋で眠りについていた。つけっぱなしにしていた仕事部屋の液晶テレビからは、経済専門チャンネルがコロナ禍で人気のないニューヨーク証券取引所の模様を中継している。


 キッチンテーブルには紗季の字が記されたメモがあった。明日はジョニー池のボランティアに行き、その後は参加者の家で食事会があるので、隆の幼稚園と、塾の送迎を頼みたい、とのことだった。


 翌日にやろうとしていた作業に取り掛かると、歪んだ時計に囲まれたタイムトンネルを光速で通りすぎるかのごとく時は一気に流れ、瞬時に午前4時となった。現一は仕事部屋で再び仮眠を取り、午前5時半に目を覚ました。


 キッチンでミルクを浸したシリアルを胃に流し込み、シャワーを浴びて着替えをし、仕事部屋に戻った。テレビの電源を切り、音のない仕事部屋でオーバーナイトの海外市場の変化を確認する。テクノロジー系銘柄の乱高下が続く相場にあって、半導体関連企業の株価の反応に否応なしに市場参加者の注目が集まっていた。


 午前6時を回った。リポートが自動配信される時間だ。メッセージアプリに登録する顧客からの反応はまだない。


 午前7時、目を覚ました紗季が現一を刺激しないよう、忍び足で洗面所に向かった。隆も起き上がり、朝の支度にとりかかっている。朝食をとった後、幼稚園の送迎の時間になるまでは、リビングで勉強をする約束をしている。


 ようやく、顧客の何人かが、早朝に配信したレポートを巡る感想、意見、批評などをチャットやメールで返してきた。吉村からも来ていた。


〈東京エレクトロンに関して、しばらくは強い受注トレンドが続きそうですけど、最近、装置メーカーのなかでも『前工程』を手掛けるところと『後工程』を手掛けるところとの株価のパフォーマンスの差が広がっているのが気になります。


世界的な半導体不足で需給が締まり、販売価格が上がれば、半導体メーカーの投資余力は増大するはずです。半導体回路線幅の微細化投資は競争のために必須となる一方で、手元資金を確保したいとの心理が働きやすい環境でもあるため、後工程への投資はやや後回しになりそうだと、おそらく市場は踏んでいるんでしょうね〉


 探求熱心な人間だと舌を巻いた。


 この日は10月第2週の水曜日、「魔の水曜日」と呼ばれる日だった。今しがた、情報端末にアップされたばかりの相場見通しの記事の見出しにも、この文言が使われている。こういう見出しを現一は過去に何度も目にしてきた。


 第2週の金曜日は、SQ算出日となる。3の倍数月のSQ算出日は、決済対象となる先物商品に一枚あたりの売買額が大きい日経平均先物のラージなどが含まれる「メジャーSQ」と呼ばれ、それ以外は単なるSQ、人によっては「マイナーSQ」という。


 最近ではマイナーSQで決済されるような、一枚あたりの売買額が小さい「ミニ先物」を利用し、ポジションをきめ細やかに構築する機関投資家も存在すると聞く。


 SQ算出日が近づくと、機関投資家や投機家は自ら構築した先物の持ち高の調整作業に迫られる。「ビッグ・フィッシュ」に倣えば、推測される先物投資家の行動は次の通りだ。


 10月限のミニ先物を買い建てた投資家が、SQ算出日以降も同じ量の先物を買い建てたいと考えた場合、10月限を段階的に売り、期先物となる11月限を段階的に買うという作業をする。


 一般的に「ロールオーバー」と呼ばれる動きだ。ロールオーバーに動く市場参加者が増えると、先物の価格に「歪み」が発生しやすくなる。歪みが発生すると、先物と、現物株のバスケットをセットで売買する裁定取引、アービトラージが入り、結果的に個別企業の株価を揺らすことになるという。


 長期的な視点で投資をする人間にとってはノイズに過ぎない事象だが、短期に収益を得ようとする人間にとっては、収益獲得のチャンスとなる。


 SQ算出を目前に控えた水曜日は、ロールオーバーが活発化しやすいとされている。2日後の金曜日には、10月限の日経平均先物が差金決済の対象となり、市場から姿を消すことになる。


 廊下のほうから、玄関のドアが閉ざされる音が聞こえる。


 紗季は現一の集中の妨げとならないよう、声を掛けることなく午前9時の少し前に外出をした。30分後に、隆の幼稚園の送迎バスがマンションの前に到着することとなっている。


 紗季は仕事をしていない。が、隆の教育方針には口を出してくる。現一は自分が地方で生まれ、東京大学や京都大学など超難関の大学を受けることなどハナから諦め、地方の私立大学に進んだ。


 社会人になって、旧帝国大や早慶の出身者が肩で風を切って世の中を歩んでいるのを目のあたりにし、自分の不甲斐なさを悔やんだ。悔やんだ後に努力はしたが、それでもまだ、高学歴の人間が集まる金融業界において、引け目を感じている。


 悔やもうが悔やむまいが、人間には適性がある。父母が望む道に進めるかどうかは、隆に適性があってこそでもあり、あれこれ口出しして適性が変わることはないはずなので、専門家の手に委ねるべきだと現一は考えている。


 感染症が拡大してから現一は、オンライン以外で顧客と顔を合わせたことがない。モニターの前でマーケットに身をひそめる悪霊と対峙しているような感覚だった。相手にとってみれば自分も悪霊なのかもしれない。


 もしくは、透明な細胞で構成された寄生虫だ。市場の変動を養分とする存在。激しく動けば動くほど養分は増えるが、凪の相場が続くと、エネルギーが不足する。立ち尽くせば身ぐるみをはがされるかもしれない世界で、動けなくなるのは苦痛そのものだ。


 午前9時。日経平均株価は安く始まった後、2万3500円台でもみあいを続けた。魔の水曜日と表現されるような、乱れた動きからは程遠い。予想通りにならないのも、相場である。


 ETFと呼ばれる、上場投資信託の買い入れについて、日本銀行が手控えるようになったのは、もっと後の話である。当時はまだ、東証株価指数(TOPIX)が前日比で一定の水準以下まで下落すれば、午後に日銀がETFを買い入れると信じられていた。


 市場全体の需給が引き締まることによる、株価の下支え効果を投資家の多くが期待、または警戒するようになり、売り圧力は次第に低くなっていく。機関投資家らによるロールオーバーは、かなりの部分が進んだようだった。先物の死が近づいた。

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