第8話 ビッグ・フィッシュ2
世界で初めて先物取引が始まったのは江戸時代の大阪・堂島における米取引でした。高校の教科書で暗記した人もいるかと思います。
米の収穫は天候に左右されます。供給量が安定しない以上、その年の米価格が上昇するのか、下落するのか、不確実性が横たわっているのです。が、農家は収入を安定させなければ、農具の購入や田畑の整備など、設備投資が難しくなります。設備投資ができなければ生産性は高まらず、暮らし向きを良くすることはできません。
農家の経営が不安定な状況が続くのは、食料自給面でも望ましいことではありません。そこで発明されたのが先物取引です。決められた期限で受け渡す米の価格を事前に決めておけば、農家は価格変動リスクを抑えることができるのです。
当然ながら、ここには投機の余地が生まれます。
先物を買い持ちした商人がいたとしましょう。実際に米俵の受け渡し期日が来ました。先物で決済した価格よりも実際の米相場が上回っている場合、商人は農家から先物価格で米を手に入れられますので、相場の価格で米俵を転売すれば、儲けが出ます。逆の場合では損失になります。
米を、日経平均株価に置き換えてみましょう。日経平均株価がファーストリテリングやソフトバンクグループ、ファナックなど、225社の株価を調整したものの合計である、というのは前述の通りです。今は株券が電子化されているので実物はありませんが、225種類の紙の株券が実際にあると仮定しましょう。
手元にクリアファイルが225枚あり、それぞれに株券が入っています。このクリアファイルをまとめたものを、フルーツバスケットに因んで「バスケット」と呼ぶことにします。
相場の上昇が見込まれると判断した時、バスケットを手に入れて、実際に上昇した時に売却すれば、儲けは得られます。なのに、なぜ先物を使うのか。
さきほどのお米の例で示しましたが、金融機関にとっては、株券の価格変動リスクを抑えることが目的の一つとなります。保有する株券の価格が急落する際に、先物を売り持ちしておけば、現物株では損をしても先物で儲けがでるので、損失を減らすことが可能になります。
ちなみにではありますが、先ほど例示した米の先物のケースでは、実際に米俵が商人の手に転がり込んできます。
これに対し株の先物では、株券は、電子化されていようがいまいが、売り買いする人の手元には転がり込んできません。決済日が到来したら、特別清算指数、いわゆる「SQ値」を使って、先物を現金に置き換える「差金決済」がなされます。そのほうが物を実際に運搬する必要がなく、実務上楽になります。
うーん。分かりにくいなと感じる人もいるかもしれませんね。できるだけ具体的に説明してみます。
日経平均先物の3月
ある投資家が、この商品を2月末に2万円で100枚購入したケースを考えます(先物の場合は百株とか百個ではなく、「枚」や「単位」を助数詞に使います)。
日経平均先物には機関投資家が売買することが多いラージと、個人投資家が売買しやすいように仕組みが決められたミニがありますが、ラージの場合、売買に必要な代金は、値段と枚数と1000を掛け合わせたものになります。
つまり、必要な資金は2万円×100枚×1000なので20億円となります。
100枚保有した状況で、3月の第2金曜日になりました。SQ値の算出日です。SQ値は、算出日における225社の株価の「始値」を使って算出します。始値とは、その日の取引で最初に付いた値段です。
日経平均先物はSQ値で最終決裁、すなわち現金に置き換わります。SQ値が2万1000円となった場合、2万1000円×100枚×1000イコール21億円が手に入ります。先物の購入代金である20億円を引くと、1億円の儲けです。1000枚なら10億円の儲けとなります。
買い持ちの逆のケースで、100枚を売り持ちした場合を考えてみましょう。現物株だと誰かから株を借りてから売る必要がありますが、先物ではその作業は不要です。「100枚売る」と宣言して、買い手が存在すれば、取引は成立してしまいます。
日経平均先物3月限を2万円で100枚売った人間は、その段階で20億円を手に入れます。SQ値が2万1000円になったら、21億円を買い手に支払わなければならなくなります。1億円の損失です。1万枚なら100億円が吹っ飛びます……。
*
解説は実務的で、先物はリスクヘッジの手段だと強調している。リスクヘッジにはほかに、株価指数オプションを売買するという選択肢もあると記事の最後に触れたうえで、別稿にジャンプするリンクが貼り付けられている。
〈現物株が親で、先物は子どもですよ〉
吉村氏に倣えば、親たる現物が相場下落時に生む損失を回避するには子たる先物を売り建てればよいということになる。よくよく考えれば奇妙な物の言い方だと、現一は思った。
子を売り建てるというのはどういうことか。実際の親子関係に結びつければますます話は変になる。息子の隆は値段を付けようがない存在だ。隆は売ることも買うこともできない。
SQ算出日になった時、差金決済されて現金に置き換わる先物は、物理的な子ではなく、アイコンとしての子なのかもしれない。アイコンとしての隆なら、売買はできる。自分がユーチューバーで、隆の一挙手一投足を映像として記録し公開すれば、隆を売ることになる。
では買いは可能か。今、隆は小学校受験を控えている。学習塾への費用を投資と考え、隆が日本社会におけるエリート層に入り、高い収入を得られる立場になり、私に収入の一部を還すことを是と考えていれば、リターンはどうであれ買うという行為は成立する可能性がある。将来こうなって欲しいという、アイコンとしての子に対して、だ。
なにも塾の話だけではない。隆の衣服、栄養価のある食事、住環境、こうしたものを一定の水準で維持するには、カネが必要となる。将来、自分が動けなくなった時、隆に迷惑を掛けたくはないと口ではいうものの、施設に入所するまでの間は隆を頼らざるを得なくなるかもしれない。無意識のうちに子を買い建てている。
アイコンだとしても生身の肉体を有している。現物と先物の関係というのは、肉体と精神のようなものではないか。肉体が衰えれば精神が病むのと同じだと考えれば、連関性がある。片方が実体を伴うのに対し、もう片方は理念である。
そこまで考えてみて現一は思わず吹いた。そんなことを意識して売買に臨む投資家など、金融市場には存在しないだろうし、意識している暇があれば勝てる戦略を考えなければならない。冷酷で乾いた世界なのだ。
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