第7話 ビッグ・フィッシュ1

 投資レポートの執筆作業にあたっていた現一のもとに、一本の電話が入った。聞き覚えのない声だった。 国内外の株や債券、原油といったコモディティ分野などに分散投資する、高名なヘッジファンドの運用担当者で、知人から連絡先を入手したという。


 彼らが株式、いわゆるエクイティに資金を振り分けるときは、トヨタとかソニーとか個別銘柄を売り買いするのではなく、株価指数に連動する先物を対象にするのが一般的だ。


「私は先物の需給分析とかはやっていないんですけど」

「そう聞いています。でも先物の売買をするうえで、ある程度、時価総額の大きい個別銘柄の動向って、無視できないんですよ」


 吉村という運用責任者の声は若く、察するに歳は30代前半だろう。まだ若い。外資系証券で、会社の資金で売買をするプロップトレーダーを5年ほど経験した後、ヘッジファンドに移籍したと明かす。


「卵か鶏かの議論になってしまうけど、吉村さん、私は先物の動きが個別銘柄に与えるインパクトの方が、やはり大きいような気がするんですけどね」

「それが一般的な捉え方でしょうね。アービトラージを通じてという奴でしょう」


 訳すと裁定取引――。日本株の価値を示す日経平均株価や東証株価指数といった株価指数は、大雑把にいえば個別の株価の集合体だ。


 「日経平均株価」の場合、225社の株価それぞれに調整を入れ、合計し、日経新聞が公表する「序数」と呼ばれる数字で割ることで算出される。「日経平均先物」は、将来のある時点における日経平均株価の水準を予測したうえで売買されるものとされる。割安な先物を買い持ちし、割高な個別の現物株の集合体を売り持ちするといった取引手法がアービトラージの一例だ。先物が動けば、現物株にも影響するということだ。


「霧島さん、僕は違う意見だな。本来は現物株が親で、先物は子どもですよ。先物ってデリバティブだもん。日本語で言う、金融派生商品。あくまで派生したものなんですよ。たしかに我々は子どものほうをバンバン売り買いしていますけど、親がどういう状況なのか知らないとやっぱり危険ですよ」


 10歳近く若い人間に講釈を受けても、現一はこの時、嫌な思いをすることがなかった。そのはっきりとした物の言い方に好意を抱く。


「なるほどね。ではサンプルのレポートいくつか送りますよ」

「ありがとうございます。そうだ。お礼というとおこがましいし、釈迦に説法になると思うんですけど、私、先物のトレードの要点についてまとめたブログを運営しているんですよ。URL送りますよ」


 私は礼を述べて電話を切った。数分後、吉村氏からメールが届いたので、直近に配信したレポートのPDFファイルを添付して返信した。明朝配信分のレポートはまだ完成していない。


 大急ぎで作成した図表の細部に誤記がないか点検する。レポートの本文自体は、表が示唆する内容を、順を追って説明する形なので、作成に時間は掛からない。


 この日は台湾企業の開示するデータを分析したうえで、半導体製造装置メーカー株に関する投資アイデアを示した。言及した銘柄は複数あったが、改めて、自信を持って売りを推奨できる銘柄がほとんどないのに気付く。


 いや、正確に言えば、レポートにはいくつか売りを推奨する銘柄を取り上げている。たいていは短期間に急騰した銘柄である。中央銀行の一挙手一投足で上下する相場だ。反動安を見込んだ売り需要が一巡すれば、日本銀行による実質的な市場介入を背景とした、個別株への買い需要に対する期待から、株価が持ち直しに向かうと想像するのはたやすかった。


 吉村氏はこの点をどう捉えているのか、機会があれば聞いてみたいと思いながら、彼のメール本文にあるURLをクリックしてみた。


(おお……)


 驚くことに吉村は毎日、ブログを更新していた。情報量も圧巻だ。


 その日の株式、債券、為替相場の動向に加え、外資系証券による株先物の持ち高状況からみた今後の需給動向の推測、財務省による国債入札や日銀による買い入れオペレーションの結果を受けた金利動向の分析、欧米中銀・政府高官の発言などを受けた財政・金融政策についての考察など、どれも読みたいものばかりである。それも無料だ。


 記事は初心者向け、中級者向け、プロ向けと色分けされていて、プロ向けの内容は有料化しても十分、ペイできるものに見える。半年前の立ち上げ以来、まずまずのアクセス数を誇っているようだ。


 ブログのタイトルは「ビッグ・フィッシュ」。英語圏では重要人物という意味になることもあれば、お山の大将として使われることもある。哺乳類であって魚類ではないが、金融市場では莫大な資金を運用する公的機関などを「クジラ」と呼ぶ。


 設立の趣旨という文言をクリックすると、管理人こと「釣り人」は、次のように記している。

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