第6話 兄と弟の土地活用策


「いつもありがとね。よろしくお願いします」

「いえいえ、じゃあ置子おきこさん。車椅子はしっかり固定されていますよね。大丈夫? 一度よだれ拭こうか。うん。では夕方にまた伺いますから」


 小太りの女性はワンボックス車のサイドドアを閉めると、小走りで運転席に向かった。ドレッドヘアが重たそうに揺れている。顔つきからして、南米諸国からの移住者だが、目を閉じて日本語を聞いただけでは分からない。ピンク色のポロシャツの背中には青の刺繍糸で「デイサービス やまとの泉」とある。


 スポーツメーカーのロゴが入ったジャージ姿の霧島呼高きりしまよびたかは女性に一礼し、手を振って車を見送った後、腕時計に目をやった。午前8時半を回っている。数カ月前ならすでに会社についていなければならない時間だった。


 愛知県にある、それほど規模の大きくない街の畔道を車は抜け、左ウィンカーを出して幹線道路に入ろうとしていた。大型トラックが右から左へ、左から右へ行き交う光景が、在宅勤務が始まってからも変化がないのは不思議だった。自動車関連の工場が指定する到着時刻に間に合わせよう、ドライバーはみな神経を尖らせている。


 呼高は背伸びをした。自室のパソコンを立ち上げた後は、メールをいくつか返さなければならない。


 年に2度ほど帰省する8歳年上の兄は大学生になった後、突然、筋トレに励むようになった。弟の呼高は文化系男子として思春期を送った後、社会人になってから園芸に目覚めた。兄の現一は県内トップクラスとまではいかないが、そこそこの進学校に進んだ。呼高が通ったのは大学進学率がひと桁台で、何ら特筆すべき点がない高校だった。共通する趣味はなく、今でも話はかみ合わないことが多い。


 呼高は高校卒業後、地元の自動車整備会社に就職し、簿記の資格を取ってから、経理の仕事を続けてきた。真面目に働き続けてきたのに、月収は兄の足元にも及ばない。10年前に父が他界し、母が3年前に要介護の状態になった。


 兄は費用面の負担を多めに引き受けてくれる。呼高はというと、自分の時間が奪われていった。


 滑りの悪い鉄柵を横に引いて庭の中に入ると、玄関までの小道の脇にリンドウの蕾が開いている。道路側の小屋にある小型のトラクターは、何年も放置しているものだ。家の周りにある田畑は父亡き後、耕されることはなかった。


 中小企業の社員である呼高が時間を掛けずにできるのは、せめて庭先のガーデニングぐらいで、日本家屋には不釣り合いだと近所に陰口を叩かれるのを承知で、少ない給料をやりくりし、イングリッシュガーデン風の庭を整備した。


 自分が休みの日に庭作業をする姿を、縁側から母に見られている時間がたまらなく好きだった。でも資金には限界がある。いずれ庭のなかに泉を構えたいと願っていて、場所は空けている。


 現一は東京からこの街に帰ると、そんな庭よりも田畑を宅地造成すべきだと言う。経済的合理性の観点ではそれが正解なのだろう。でも呼高は、田畑に囲まれた実家の、夜になった時にたまに訪れる静寂を失いたくなかった。幹線道路のトラックも、自動車関連の工場が稼働していない時は姿を消す。


 春先には、赤や白、ピンクのバラ。夏場はベルガモットの時期となる。「やすらぎ」を花言葉に持つベルガモットが終わりかけの頃に、現一は毎年帰省をしてくる。


 2020年の盆休みは社会の要請もあり、現一は妻子とともに都内のマンションにとどまった。代わりに、手土産を互いに郵送したうえで、Zoomで昼間の1時間ほど、酒を飲みかわしながら近況報告をした。


 呼高はスマートフォンのカメラレンズを、自宅の庭に向けていた。


「俺には分からんな、お前の趣味が。家で花育てて、庭を造って、何が楽しいんだ」

「兄貴だって株やっとって空しくならんの?」

「あれは仕事だ。それにやっているのは株だけじゃない」

「同じようなもんだら」

「お前は何にも知らないな。だいいち俺がやっているのは投資分析だよ。少しは勉強しろよ」


 現一はグラスビールに口を付ける。呼高はカメラレンズを茶の間に向けた。母の置子は介護用ベッドのうえで、口を開けたまま深い眠りについている。


「ところで母さんのことだけんど」

「なんだ、カネが足りないのか」

「いや、十分すぎるほどもらっとる。そっちのほうはもう感謝の言葉しか出んのだけど、こっちのほう」


 呼高はカメラを自分の顔に向け、人差し指をこめかみにあてがった。


「そんな長くないかもしれんわ。コロナが終わるまで持ちゃええけんど。コロナが終わりゃ、みんなの顔見られるのにねえ。母さん、目開けりん。兄ちゃんがおるのになんで寝とるの」


 置子のいびきが現一のノートパソコンのスピーカーからも、はっきり聞こえる。


「お前、おふくろが死んだら、その家どうするつもりだ。自分なりの考えはあるのか」


 現一の一言に、呼高はたまらずため息をついた。建物のことよりも、母にもっと関心を持ってもらいたかった。こんな時でも実利にしがみつく兄が心苦しく、何も言えないでいた。


「なんだ、また説教か」

「そういう風にすぐいじけだす癖、なんとかならないのか」

「パパ。やめなさいよ、呼高さん困っているじゃないの、ね」


 紗季が場を和ませようと口をはさむ。


「紗季、君は『あらそうぞく』という言葉知らないだろう。こういう話はね、お盆とか正月とかにちゃんとしないと、後々大変なことになるんだよ。せっかくここに金融業界でキャリアを積んで、まがりなりにもフィナンシャルプランナーの資格を持つ人間がいるんだから、今しっかり話し合わないと」

「あらそうぞくってなに?」


 息子の隆の問い掛けに紗季は、あとで教えるね、と言った。


 すでに争っているじゃないか──。


 リンドウの蕾が秋風に揺れた。母屋の玄関を呼高は開けて中に入る。土間から2階につながる階段を上ると、呼高の寝室と仕事部屋、物置として使う居室の3部屋がある。1階には台所と居間、仏間のほかに、納戸としている部屋と母の寝室と風呂がある。二人だけで暮らすには大きすぎる。


 デイサービスに送り出して一人になると、なおさらそう感じる。


〈周囲の田畑と自宅の敷地を合わせて、20坪のローコスト住宅を5棟ほど建てて販売し、余った土地の半分をお前のものにする。もう半分は俺のものにする。俺はアパートを建てようと思うけど、差支えなければ管理はお前に任すことにしたい。報酬として家賃収入の一部はお前に渡す。これでどうだろう〉


 呼高の仕事部屋の窓からは庭が一望できる。秋晴れの空に緑が映え、いつまでも外にいたいが、そうはいかない。家具量販店で購入したオフィスデスクの前に腰を掛け、会社から5年前に支給されたノートパソコンの電源を入れるのと並行して、保温していた電気ケトルの湯を、イケアで購入したマグカップに注ぎ、リプトンのティーバッグを浸そうとしたら、ティーバッグの残りがない。


 階段を降りて台所に向かう途中、トイレの前を通ったら、母の大便の臭いが鼻をかすめた。寝たままおむつを脱ぎ、そのまま布団に失禁をしたのである。すぐに始末をし、あとでシーツを後で洗おうとトイレに放置していた。経理作業の山は先週超えたところだった。やるべき仕事は業務メールのチェックと対応ぐらいだ。


 乾燥機能付きの洗濯機は購入して2年で故障し、家電量販店に相談したところ、保証期間ではあるが修理代金を払い次第、同額相当のポイントを発行するのだという。


 母の介護費用を兄に多く出してもらっているとはいえ、呼高の持ち出しがゼロという訳ではない。車検も近い。手元にキャッシュを積んでおきたいと考え、いまは故障した乾燥機能は使わずに、洗濯機能だけ使っている。


 汚物が染み込んだ布団は街のコインランドリーでは衛生上、洗うことができないし、手洗いしたところで汚れが取れそうにはなかったので、粗大ごみの手配をしないといけない。シーツだけ洗う意味があるのか自問したが、ひとまず洗うことにして、市が運営する粗大ごみの回収受付センターに電話をしたら、電話が混みあっているとのメッセージが流れてきた。


 スマートフォンをスピーカーフォンに切り替えて床の上に置く。布団は汚れた部分を内側に畳んで、紐で縛って圧縮しようとしたが、玄関の戸袋にビニール紐が見当たらない。2階の仕事部屋のクローゼットのなかも見たが、そこにもない。1階に戻ると、床の上のスマートフォンの画面に「通話終了」の文字が表示されている。こちらが応答しなかったので、悪戯電話だと思われたのだろう。たまらず呼高はスマートフォンを壁に投げつけた。パシャンという乾いた音が響く。床に転がったスマートフォンの画面には新たな亀裂が入った。


 パソコンが起動するまで、いつもだいたい5分ほど掛かる。メールボックスに届いたチェックする。「重要」フラグの付いたメールが二件あった。

 

 差出人:北野(総務・人事Uチーフ)

 件名:先週のお話の件

 宛先:自分


 お疲れ様です。金曜日はお時間をいただきありとうございました。

 さて先週、当方よりご説明させていただきました定期異動の件ですが、ご検討のほどはいかがでしょうか。


 お母様の介護の問題については、無論、業務に支障が出ない範囲で配慮するよう、上長には指示していきます。最寄の駅から三河安城に出て、米原まで新幹線通勤が可能な範囲とはいえ、ドア・トゥー・ドアで片道2時間以上かかりますから、単身赴任扱いとすることもできます。お母様と二人での生活をお望みならば、新居やデイサービス業者の選定など、可能な限り会社としてサポートいたします。


 今回行われる経理業務の一部外注化により、霧島さんにはやはり、どうしても配置換えをお願いせざるを得ないのには変わりません。


 つきましてはお時間のある時で結構ですので、当方まで連絡をいただきたく存じます。よろしくお願い申し上げます。


 総務・人事ユニット 北野



 差出人:遠野(経営管理本部統括リーダー)

 件名:当面の販売戦略に関して

 宛先:全社員


 お疲れ様です。今朝、一部新聞社が地域経済面で報じた当社に関する内容についてですが、おおむね事実に即したものとなっています。中小企業であるにもかかわらず、当社がこのような形で取り上げられることに、経営陣一同、戸惑いを感じています。


 新型コロナウイルスの感染拡大で、三密を回避して移動する手段として自動車を購入して利用するニーズが一時的に拡大しました。当社も中古車ディーラーから整備の引き合いが膨らみ、今期の業績を下支えする要因となりましたが、昨今の半導体不足の影響で、電装部品の調達が困難なものとなっており、不要不急の整備を除き顧客に対し、受注を断るように指示したのは2カ月前のことです。


 結果として売上高が大きく落ち込むこととなり、今期の業績は期初の計画を下回り、2期連続の営業赤字となる見通しとなりました。抜本的な収益改善策を早急に策定、実行に移すことが急務となり、人員削減と店舗の統廃合を進めることになりました。早期退職制度の対象は40歳以上の正社員で、勤続3年未満の方は対象外となります。通常の退職金に加え、早期退職者対象の割増退職支援金を支給します。


 新聞社が記事にしたのは、コロナ禍による需要の盛り上がりと、半導体不足による供給制約、さらに中小企業の構造改革という3つの要素が、ニュースバリューを高める方向で作用したのだろう、と推測しています。


 いずれにせよ、このような事態に至ったのはひとえに経営幹部の責任です。社長以下取締役に至っては、役員報酬の減額も行います。会社として正式なプレスリリースを準備し、ホームページにアップロードする予定です。発表と並行して、従業員を対象とした社長のメッセージも、本日中にメールで配信する予定となっています。


 何かご質問があれば、なんなりと当方までお知らせください。よろしくお願い申し上げます。


 遠野

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