第5話 すれ違う人間が、みな敵に見える
赤茶色の大地に映えるマングローブの緑。エメラルドグリーンの滝壺には魚影が透ける。
学生特有の落ち着きのなさが滲み出る男女の間に30センチほどの空間があり、その奥に涼しそうな渓流瀑が覗く。女は白い歯を見せて微笑んでいる。
バンコクの「南バスターミナル(サイタイ・マイ)」からエアコン付き1等バスで2時間、西に向かうと、カンチャナブリ県に着く。ミャンマーとの
二人が学生時代に訪ねたエラワン滝は、カンチャナブリ県のバスターミナルから車で約1時間の場所にある。路線バスもあるが、ピックアップトラックの荷台に長椅子を2列乗せて屋根を付けたソンテウをチャーターすれば、時間のロスがなくて済む。
エラワン滝を、タイで最も美しい滝とするガイドブックもある。丘陵地にある滝の数々はいずれも流れが緩やかで、それぞれ池と呼ぶのに十分な広さの滝壺があり、服を着たまま水遊びをするのが現地の習わしだ。
水は温かかった。エメラルドグリーンの水面は、近づけば乳白色だ。石灰を多く含む山岳部の湧水が沢となり滝に集まったためである。直前に降雨があると湖水は濁ってしまうし、雨季以外の水の少ない時期だと黄土色に変色する。マングローブの緑色と青空の色を反映したエメラルドグリーンに出会うには、運も味方につけなければならない。
水の色は、やはり水物なのだろう。人間と同じである。同じ状態にとどまるのではなく、時間とともに流転する。
写真の男女は、それぞれ別の異性と付き合っていた。同じ中学と高校に通い、ずっと同じクラスで、大学に至っても同じ学部の同じゼミという、二人の関係は、恋愛感情を抱くにはあまりにも近すぎた、のかもしれない。訝しげな周囲の目に抗うように、恋愛対象として意識するのをあえて避けていたと言ってもいい。
しかし距離を置くのも不自然であって、周囲の友人の一人としてありつづけるのは、互いに心地よかった。夏季休暇中に男がバックパッカーとしてタイを放浪しているのをいいことに、女は3泊4日の日程でタイに渡り、男をガイド役として観光地を巡っていた。
この時、中国語を話す観光客にコンパクトデジタルカメラを渡して撮影してもらった二人の写真の画像データは、長い間SDカードの奥に眠っていた。
2年ほど前、
2020年、朱音はスマートフォンで、その画像を眺めていた。当時の会話が記憶の底から蘇ってくる。
「ねえ、どこかにトイレないの?」
「なさそうだなあ、ここは国立公園だからな。滝壺の中で服を着たまましなよ」
「ゲン、彼女にもそういう風に言うの?」
「朱音だから言える」
「いじわる」
「ほら」
社会人になった朱音は何事も諦めが肝心なのだと自分に言い聞かせながら、でも自分はそれを肯定できるのかと不安になった。
<現世で一緒になるのはやっぱり無理っぽいし、ゲンとは来世以降かな。でも…>
写真の頃の姿に比べると、朱音は細身になり、肌は浅黒くなったが、気の強さを感じさせる鼻の高さと、人好きのする垂れ目は変わらなかった。黒のワンピースに紺色のカーディガンをまとった朱音は、勤務先のシンクタンクのオフィスから帰路に着くところだ。
自席を立った時、明るい栗色のセミロングの髪が肩のあたりで軽やかに揺れた。お先に失礼します、と周囲に声を掛けてみたものの、返事をする者はなく、みな目の前の業務をいち早く済ますことに躍起になっている。
同じシマの人間はみな朱音より年下だったが、契約社員は彼女だけだった。担当は細分化されていて、社員同士の結束力は強くなく、コミュニケーションも効率的に、必要最低限に行うのが是とされる文化であった。
欧米・中南米事情調査課のなかでも、朱音が担当する南欧諸国はそれほど需要が高いわけではない。そもそもアシスタントリサーチャーという、半人前の立場だ。手が空いた時には上長が割り当てる雑務の対応を与儀なくされる。
在宅勤務が推奨される時世にあって、朱音の職場は二つの集団に分けて1週ずつ交互に出社する体制をとっていたが、「在宅週」でも自発的に出社することを求められる弱い立場にあった。
朱音は来週の火曜日、18時に現一と錦糸町で会う予定だ。レストランの予約は、誘った側の朱音の役目だ。シンクタンクから地下鉄と徒歩で20分ほどのイタリアンの席を確保した。錦糸町は朱音の住むアパートとは反対方向にあるが、現一にとっては自宅と職場の中間に位置する。朱音が贔屓にする南米食材店がある街だ。
カードリーダーに社員証をかざし、エレベーターを待っている。廊下の向こうに、人事担当の篠田が書類の束を持って歩いているのが見える。数時間前、朱音は彼と会議室にいた。今月に入り2度目の面談だった。
胃の弱そうな白い顔の篠田は、親会社となる銀行から出向して3年目となる。年上である朱音に口では一定の敬意を示しながらも、黒鼈甲の眼鏡の奥にある目に光はない。上層部の指示に従うのが仕事である以上、相手の感情に与する暇などなかった。
「おっしゃっていた再就職先の斡旋については、努力はいたしますけど、確約はできません。でもそれではお怒りも収まらないでしょう。なので退職日には特例で一時金をお支払いします。月間支給額の3カ月分で、いかがでしょう?」
朱音はそれでも納得がいかなかった。40になった自分が、再就職先を見つけるには相当な期間、就職活動をしなければならない。
「3カ月経って、働き口が見つからなかったら、ホームレスになれということでしょうか」
「極端なことを言わないでくださいよ。アルバイトをしながら探すことだってできるじゃないですか」
「身体を売れ、と言うことですか?」
篠田は頭を掻いた。生産性のない会話を続けるのはうんざりだという表情だった。
「こうも低金利環境が続けば、銀行の収益性はますます落ちるばかりでしょう。大変恐縮ですけど、金融機関が構造改革を迫られるのは、世界的な現象なんです。もう少しで正社員になれたはずなのに、このタイミングで契約解除の相談を差し上げることになってしまったのは、私にとっても、本当に辛いんですよ」
朱音も、不公平さへの憤りを一方的に篠田にぶつけていては、子どもが駄々をこねるのと同じだということを分かっているつもりだった。でも黙ってはいられない。2年10カ月間、ようやくリサーチャーとして独り立ちができる寸前で、道が閉ざされたのである。
「やっと胸を張って生きていけると思ったのに、なんですか、いったい」
篠田は、ずり落ちそうな黒鼈甲の眼鏡を人差し指で押し上げた。
「会社としてやれる精一杯のところが、一時金の支給と再就職先の紹介なのです。次の職場をすぐに紹介できればとは思いますが。そうだ伊豆丸さん、あなた教員免許を持っているでしょう。アルバイトと言いましたが、そうだった。どうです? もう一度教師の道というのもありじゃないんですか? 全然恥ずかしいことじゃないと思いますよ」
教員の経験を経て民間に出ると、何かにつけて教職に戻ればいいじゃないか、と言われる。公務員ならば身分も安定していると、冷やかされる。そんなに甘い世界ではないというのを朱音は身に染みて理解している。
「一度、教職を辞めた人間には冷たい世界だと思いますけど」
「思い込みかもしれないですよ」
「あなたに何が分かるんですか」
篠田は再び頭を掻いた。気の強さは確かに、教師の世界では仇となることがある。
「気を悪くさせてしまったら申し訳ありません。でもね、伊豆丸さん。現実問題として、一時金の支給に合意しないというなら、どうすれば満足いただけるんですかね。叶う、叶わないは別として、そういうのを申し出ていただかない限り、話は前に進みませんよ。契約に従うのなら、あと2カ月で就業期間は本来は終了することになっていたんですからね」
朱音はため息をついた。確かに篠田の言う通りなのだ。怨嗟の声を吐いてばかりもいられない。
「一晩、冷静になって考えてもいいですか?」
「もちろん」
「考えてみて、受け入れられるとの結論が出たら、合意いたしますし、やはり違うのではないかと思ったら、具体的にどうしてほしいのか、メールします」
「わかりました。あまり突拍子のない提案でない限り、検討するようにいたします」
一晩とは言ってみたものの、本当は現一と話してから決めたいと朱音は思った。在籍するシンクタンクを紹介したのは、現一だった。彼と同じ証券会社の調査部門にいたアナリストが転職先としたのである。
朱音は教職を辞めた後、リスボンにある大学院で経済学を修めた。今のシンクタンクに勤めるまで、日本の民間企業で働いた経験はなかった。2年10カ月前、このシンクタンクに契約社員として採用されたのだが、当時すでに30代後半に差し掛かっていたことを考えると、現一とのコネクションがなければ採用は見送られていたはずだった。
大学院の学費と生活費を工面するのに、身体を売る日もあったほどだ。ポルトガルの景気は回復に向かいつつあっても、艱難辛苦の甲斐は空しく、朱音は現地で働き口を見つけられなかった。
自分よりも若い20代の日本人と比べ「伸びしろ」がない人間だとみなされた。ゴールのない巡礼の道を歩くような生活に終止符を打って帰国し、藁をもすがる思いで今の会社で契約社員となったのである。組織が要求する業務はしっかりとこなし、品質も高めてきた。2年10カ月は、仕事を最優先に真面目に生きてきたつもりだった。それが、報われない。
市ヶ谷の駅に向かう道中、すれ違う人間がみな、この世の敵のように朱音には思えてきた。哀れな自分をみな、胸のうちで嘲笑している。
週末に自分への褒美として作ることにしているシュラスコ用のソーセージが冷蔵庫にはなかった。錦糸町に行って、いつもの店を訪ねてもよかったが、今は何もしたくはない。自分が許せなくなっている。学生時代に現一ではなく、海外から来た違う男に夢中になり、裏切られた自分が。浅はかさは罪だった。40になり、罰を全身で受け止めているのだと考えだすと、自然と目尻から雫がこぼれ落ちそうになる。
<来世とは言わず、今助けてよ、ゲン>
コートが欲しくなる夜、竹の表面のような色の淀んだ外濠の水面は、表面に波紋はないのに、都会の夜空にかすかに光る星や、黄色の月を照らし返すことがなかった。
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