第4話 ショート銘柄

「結局、これ、買いなんですか、売りなんですか」


 上機嫌だった顧客との会話の途中でキャッチが入り、現一は厄介な相手の対応を余儀なくされることとなった。男の声は落ち着いていたが、圧力を感じる。現一の額に汗が滲みだした。この仕事に関わって、似たような局面は何度もあったのに、声が上ずる。


「そうですね。こういう相場ですから、やはり売りで入るのは危険かと思います」

 

 ふん、と鼻であしらわれたような心地がした。屈辱的な反応だ。


 相手は、現一の分析を参考にして決断した複数の株式の売買で半月前に相当な損失を抱えることとなった。損失は現在進行形で膨張している。投資助言サービスを手掛ける現一の勤め先と、ビジネス上の関係性が断たれる寸前にあると言っても過言ではなかった。それも会社にとっては「太い」客である。


 日米欧の代表的な株価指数は、この数年、上昇の一途をたどっていた。しかし、株価指数の算出に用いられる個別企業の株価は、全く異なる絵図となっていた。買われる銘柄はずっと買われ、人気のない銘柄は底這いを続け、その格差は時間の経過とともに拡大していく。


 投資対象とタイミングをどう選別するかで、運用成績には大きな差が出る。投資家心理が悪化するようなニュースが入り、リスク回避のムードが広がって全面安となった時に、任天堂、東京エレクトロン、日本電産といった人気銘柄や、大規模な自社株買いを行っているソフトバンクグループなど需給のいい銘柄を思い切って買えば、直近では確実に儲けることができたのである。


 電話の相手の背後には、姿は見えないが、無数の投資家が存在する。投資家から集めた資金を元手に高いリターンを生み出さねばならない、ヘッジファンドの運用者である。株価指数の上昇率よりも、運用するファンドの成績が上回らなければ、自身のクビが危うくなるのだ。


 1年前に市場から退場を余儀なくされた前任者に代わってやってきたのが、この熊田という男だ。現一よりも十歳若く、鼻っ柱は強い。国内大手証券で敏腕ディーラーとして名を馳せた後、ウォール街に本拠を構える米系ヘッジファンドに引き抜かれた。MITを出ている。


 「ショート候補がなくて困っているんです。どこかないんですか。ロング・ショート系のファンドはどこも困っていると思うけど、そういうのを知りたくて、わざわざあなたに電話を掛けたのに」


 熊田の表情がありありと現一の頭に浮かぶ。


 ロング・ショートというのは古典的な投資戦略の名称だ。電子部品株を例にとると、世界的に普及するスマートフォンにA社の部品が採用され、競合するB社の部品の生産が落ち込むことが予想される場合、A社の業績は伸び、B社の業績は落ち込むことが見込まれる。業績と株価が連動するとの前提に立ち、A社株はロング(買い)、B社株はショート(売り)というポジションを構築し、狙い通りに株価が動けば、ただA社株を買うよりももっと大きな利益を稼ぐことができる。


 ロング・ショート戦略を採用し、優れた運用成績、いわゆる「アルファ」をとろうとする投資ファンドはなお多い。


 熊田のようなファンドマネージャーには情報が渦を巻いて集まってくる。証券会社のアナリストレポートが嵐のように届いてくる。現一の所属する投資助言会社はファンドマネージャーを相手に商売をしている以上、運用成績に貢献できなれば、助言契約が打ち切られてしまう。


「本当にそうですよね」


 本当に、売り銘柄がないのである。熊田が投資対象とするような、時価総額が一定以上の流動性のある銘柄で、売りから入るには、限りなくインサイダーに近い情報が必要になると現一は考えている。


 巷には様々な出所不明な噂が飛び交ってはいる。そういう情報を熊田が求めているとは考えにくい。資金の出し手に合理的な説明ができない売買などできっこないからだ。噂ではなく、確度の高い情報を仕入れるネットワークを現一が構築しているのかどうか、試しているようにも現一には聞こえる。


 現一は思わず、ため息をついてしまった。熊田は2秒ほど沈黙した後、では、と短くいって電話を切った。受話器を叩きつける時の乾いた音の空圧が現一の鼓膜に伝わった。


〈俺がショート銘柄だよ〉


 心の中でそうつぶやくと、現一はマイク付きヘッドホンを壁に投げつけた。紗季がびっくりして部屋に入ってくると思ったが来ない。気付かぬうちに外出をしている。


 改めて熊田とは反りが合わないと現一は振り返った。会話の呼吸が合わないのだ。いつ担当交代を求められてもおかしくない。そうなれば現一の今の会社での立場は一段と覚束なくなる。


 紗季も隆もいないマンションの一室で、現一は肉体のなかから浮かび上がってくる不安を打ち消そうとリビングに向かった。テレビの横に積まれたダンベルのうち、重量15キログラムのを一本手にして、自己暗示とともに上腕二頭筋と上腕三頭筋を鍛える運動を始め、脳内にアドレナリンで満たすことにした。


〈俺は素晴らしい人間。俺は素晴らしい人間。何ら欠けるところのない、ありのままでいるだけで、素晴らしい人間〉


 現一が発する呼気でリビングの湿度が上昇する。L字型の布張りのソファの後ろにある観葉植物は魔よけと仕事運上昇に効果があるらしい。


 一通り運動を終えて、仕事部屋に戻った現一は、なお自分のなかに恐れや不安があるのを感じ取った。こういう時は、仕事以外のことに意識を向けるといいのだ。


 会社が支給したiPhoneにあるLINEアプリを起動させて、今朝、自分にメッセージをくれた女性とのやり取りを、振り返ってみた。


〈会社が契約切るって言ってきてやばいんだけど。もう泣きそう〉

〈うそ。正社員になれるっていう話は?〉

〈3カ月前のは前言撤回だって。うちの会社経営統合するじゃない? 転籍できるのは今年4月時点で正社員だった人間なんだって〉

〈辛いなあ。また転職活動か〉

〈そうなのよ。どこかないかなって、またゲンに頼っちゃおうかと思ったりもしてるけど、図々しい自分にも嫌気さすわ。こういうご時世で何だけど、こっそりと呑みたい気分になっちゃった。今週か来週の夕方、空いているところない?〉


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