第3話 ジョニー池には女神がいる?
紗季のノートPCに表示されるデジタル時計は午後1時を過ぎていた。動画視聴後、ナトロン湖についてインターネットで調べているうちに、二人分の昼食の準備をするのをすっかり失念してしたことに気付いた。
隣の部屋から、昼食を催促する声がした覚えはない。声を掛けてくれればネットサーフィンを中断したのに、と現一のせいにして、紗季はキッチンへと向かった。
動画は夜遅くに見ても別に良かった。紗季は明日午前10時に「ジョニー池を守る会」の清掃活動に参加する。国土交通省の水資源関連部門で定年まで技官として勤めあげた緑川は、通称「じょに会」の主宰者だ。月に2度、ジョニー池を清掃するボランティア活動の場を提供している。
「じょに会」のメンバーは緑川を除きすべて女性で、いわゆる人妻だ。子育てを終えたシニア層が圧倒的に多く、紗季のような子育て中の女性は少数派である。
紗季をじょに会に誘ったのは、同じマンションの25階に住む
元子も数年前まで同じ民放局の、外信部という、海外のニュースを担当する部門にいた。子どものいない元子は隆を目にしては可愛がり、家の中に上げてケーキなどをご馳走することもあった。
〈私、まだ見てないの。ジムが終わって夕ご飯食べてからかな。じょに会終わった後、マンションのラウンジでケーキでも食べようか〉
元子からのLINEが紗季に届いている。
じょに会に集う女性達はこぞって緑川と食事をしたがっている。国家公務員を定年退職したとはいえ、色黒で眼つきは鋭く、所々白髪は混じっていても精悍さを感じさせる男だ。ウェットスーツに身を包んで湖の中に飛び込む写真をブログにアップしているが、水面から出てゴーグルを外した時の、白い歯を出した決め顔はセクシーだった。
人を惹きつける話し方からも、頭の回転の早さがうかがえる。そうは言っても60を超え、間もなく年金受給年齢になろうとしている男性である。元子ぐらいの年齢であれば別かもしれないが、紗季にとっては先生と生徒の関係に過ぎず、それ以上に関係性が発展することも望んではいない。
〈ショッキングな画像ありましたけど、勉強になりましたよ。ケーキいいですね。楽しみにしています!〉
ジョニー池は、沼と言ってもよさそうだし、梅雨明けの雑草の生い茂る頃は、工事現場の水たまりのようにも見える。私鉄電車の駅から商店街を抜け、隘路が行き交う住宅地に入って坂を下っていくと、ぽっかりと開けた窪地に突き当たる。狭小住宅が2、3軒建ってもいいぐらいの広さだ。駅近くにある紗季と元子のタワーマンションからは歩いて10分ぐらいのところにある。
神戸にはジェームス山があり、横浜にはハロー坂がある。紗季のマンションは昭和に宅地開発が始まったエリアにある。宣教師がこの地に移り住んだとか、武器商人が館を構えていたとか、そんな歴史があった訳でもない。グーグルマップでジョニー池と入力しても、当の池の位置が示されることはない。地元住民しか呼ばない通称に過ぎず、正式名称は存在しない。
大昔はこのあたりを小川が流れていたが、宅地開発の過程で一部が暗渠となった。小川はもともと、窪地で湿地帯を形成した後、切通しを経て南方にある別の小川と合流するようになっていた。
ジョニー池は窪地にあり、行政管理上は昔も今も河川である。この地域で住宅を購入する際には、重要事項説明書の特記事項に「近隣に河川があり、蚊をはじめ害虫が発生し、飛来することがある」としっかり記載されている。
河川だが見た目は池、もしくは沼。ジョニーという名がついた理由も定まっているわけではない。
緑川が住む団地に得意先を多く抱える酒屋の店主は、ジョニ黒やジョニ赤の瓶が大量に捨てられていたからだと言うし、商店街で長年ペット販売店を営む老女の説では、猫好きで有名だったスナックのママが借金を苦に池のほとりで首を吊って自殺したのだが、ママがカラオケでいつも歌っていたのが「ジョニィへの伝言」で、スナックの常連客が池をジョニー池と呼ぶようになったのが起源だ、という。
こうした噂を紗季の頭に流したのは元子だが、息子の隆も、ジョニー池の存在を保育園や学習塾に通う友達から聞いていた。
「
「へえ」
子どもの想像力の逞しさに胸が打たれたのは、半年前の話だった。隆の塾は、池とは反対方向にある。勉強の時間などを考えると、紗季は電動アシスト付き自転車で隆をジョニー池に連れて行ってあげることは、まだできなかった。
紗季はそうめんを2束ゆで上げて、昆布だしつゆを使って即席のにゅう麺を作った。余った焼き海苔となめ茸を入れて生卵を落とす。空腹を覚えて今すぐに何かを口にしたかったし、冷蔵庫の中は綺麗に片付き始めている。
会津漆器の盆に漆箸と波佐見焼の麺鉢を乗せ、現一の部屋のドアをそっと開けた。現一はモニターから麺鉢に視線を移し、唸った。なんだ、こんなのじゃ力が出ないぞ、と紗季は意訳した。仕事部屋の本棚の脇にあるサイドテーブルに盆を置くと、紗季は部屋を後にした。
仕事一筋で生きてきた人間だが、最近はいくらなんでも余裕がなさすぎる、と紗季は思った。昔はまだ、にゅう麺にした理由や、具材を選択した背景について声に出して、尋ねてきたものだった。夫婦関係というのはこういうのかもしれないけれども、そういうやりとりができた昔が懐かしい。
金融市場には魔物が棲みついていると、かつて現一はよく口にしていた。顧客との何気ない会話でも頭をフル回転させているのだと日頃から胸を張っていた。夫のモチベーションを落とすような昼食にしたのを後悔するべきなのかもしれないと紗季は自省した。
タワーマンションの陰影が市街地に少しずつ侵食しだしている。足元にある幹線道路沿いの、ちょうど影と日なたが境界線を描いている辺りが隆の塾だ。
二の腕まで伸ばした黒髪に櫛を通し、元々色白の素肌にファンデーションを施して透明感を際立たせた。40になった人妻である。派手な化粧をするような用事でもなく、チークとリップはごく自然に整えておく。紺のスキニージーンズに履き替えて、白のブラウスの上にピンク色のカーディガンを重ね、現一には図書館に寄ってから隆を迎えにいくと伝えた。タワーマンションに隣接する商業施設には実際に公立図書館があるので、外出するにはちょうどいい口実となる。
エレベーターで地上まで下り、外に出ると、金木犀の香りが漂っていた。マンションの外は何もかも気持ちがいい。
現一より年収が高くて、ルックスのいい中年男性が自分に声を掛けてきたら、のこのこと付いていってしまいそうだと紗季は一瞬、思ったが、すぐにその想いを自ら打ち消した。自分には隆がいるのだ。前途洋々な、無限の可能性を秘めた一人息子が。彼の未来を摘み取るような行為は、地球が逆回転を始めて過去に向かって時空が走り出したとしても、できそうになかった。
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