第10話 吸い込むならこっち

 入り組んだ路地を抜けると、秋空が一気に広がった。柔らかい太陽に照らされた雑草群がそよ風になびくと、緑葉の隙間から水面が見える。


 深さは10センチに満たず、水は意外に透明度があり、池底に粘土質の赤土があるのがしっかりと確認できる。手入れされていない天然の水田だと言ったら、頷く人がいるに違いないと、ジャージ姿の紗季は思った。背中にはローマ字で「jonikai」と刺繍がされている。


「この前よりはずいぶんましね。涼しくなったから、虫は少ないし」


 人好きのする垂れ目を紗季に向け、神宅元子が言った。長年の過労で頬はやつれているが、瞳は澄んだままだ。ウエーブの掛かった黒髪を、ヤクルトスワローズのロゴの入ったバンダナでまとめている。


「タバコの吸い殻とか、昔はひどかったのよ。今は、何とかコスだっけ、最新の水煙草みたいなのを吸っているものね。うちの旦那なんかまだ、ショートホープよ。本当時代遅れの男」

「でもジャーナリストでいらっしゃるのだから、タバコは時代遅れでも仕事は最先端じゃないですか」


 ひと回り年上の元子の愚痴に、紗季は付き合いながら、足元の雑草に手を掛けた。しばらく晴天続きだったので、軍手が濡れずに済むのがうれしい。


「紗季ちゃんの旦那さんに比べたら、もう全然。だいたい会社ではロートル扱いなのよ」


 元子は白い歯を紗季に見せて、笑った。夫と同じ報道機関に5年前まで勤めていたので、働きぶりについては耳に入ってくる。


 夫の建夫はマネジャーにはなったが、本流から外された。経営幹部に上がるためには、一度、系列の地方局のマネジメントを経験する必要があったのだが、建夫の母が介護施設に入居したことで、兄弟のいない彼に会社は転勤を伴う人事異動の命令を出せなくなったのである。今は編集局内の経理を統括する立場だ。


「数字を扱う部門なのに、ボスがエクセルを使えないんだって」

「取材しかしてこなかった訳ですからね、しょうがないですよ」


 紗季が元子と初めて顔を合わせたのも5年前だった。タワーマンションが完成し、契約を済ませた世帯が五月雨式に入居を始めた頃である。


 紗季の一家は、元子夫婦よりも1週遅れて引っ越してきた。まだ隆は産まれたばかりで、挨拶に応対した元子が首の座っていない乳児の表情をみて、心の底から慈しむような表情を見せたのを、紗季は今でも覚えている。


 元子が粘着質な上司からパワーハラスメントに遭い、パニック障害の発症を機に退社した頃だというのを知る前の話だ。


「元子さん、またですよ。ほら」

「あらやだ」


 毒々しい赤色の樹脂が、比重の高そうな体液を包み、空洞の方を縛られて茂みの中に放置されていた。元子は漆黒のビニール袋をウエストポーチから取り出し、右手に持ったトングで対象物を掴むと、袋の中に収めて口を縛った。


「ナトロン湖の色みたいでしたね」

「ねえ」


 ジョニー池は夏になると蚊が大量発生する。保健所が薬剤を散布しても蚊の幼虫が減ることはなく、周辺住民による区役所への苦情も絶えなかった。


 じょに会主宰の緑川によれば、蛙やメダカが生息できるような良質な湧水がないことが、蚊やボウフラの発生に歯止めが掛からない状況を作りだしているのだという。秋になると蚊は少なくなるが、深夜になると人通りがほとんどなくなる場所であるがゆえに、茂みのなかで性行為に及ぶ人間が現れるようになる。


「そうそう元子さん。うちの子がジョニー池のことを友達に聞いたら、『良いやつじゃないと見つけられずに迷ってしまうんだ』と言われたんですって。良い人間しか来られない場所にあんなゴミがあるのって、おかしいですよね」


 元子は背中を向けて草刈りをしている。


「だいたいこのあたりをウロウロすれば見つかりそうだし、子どもの想像力って本当に豊かですよ」

「あの、タカボウは、元気なの?」


 紗季ははっとした。タカボウとは、隆のことだ。


「ええ、おかげ様で」

「好き嫌いなく、ご飯は食べてる?」

「私が作ったのはちゃんと食べますけどね」

「ならよかった。育ち盛りだもんね」


 元子は振り向いて、白い歯を紗季にみせた。夫婦二人暮らしで、子どもを設けることにあまり積極的ではなかったと言って憚らない元子は、不思議なぐらい、隆を可愛がり、気にかけてくれる。


「じょに会のみなさん」


 メガホンを片手に、緑川が咳払いをして、10人ほどのボランティア員に声を掛けた。


「すでにお伝えしていますけど、恒例の『お茶会』は、こういうご時世ですので、お店とかを予約しておりません。本当はこういう会に参加していただいたら、例えば地域住民同士の交流とか、キャンプ旅行に行けるだとか、メリットがないといけないんですけど、しばらくは我慢していただくしか方法が思いつかないのです」


 爽やかな風がメンバーの頬を通り過ぎていった。


「じょに会でクラスターとなったら目も当てられないですし、この池のことを真剣に考えるのなら、今はもう清掃活動だけ真剣にやって、楽しみは今後にとって置くということぐらいしかできないのではないかと思っています。メーリングリストで書いたことの繰り返しになりますけどね。皆さんにおかれましては、会員同士でどうしてもお話がしたいというのであれば、こちらとしてはそれを止めることはいたしません。感染症予防を徹底していただいて、できればそれぞれのお宅のなかでティータイムのようなお時間を作っていただくなど、工夫していただければ幸いに存じます」


〈緑川先生にそう言われたらね、うん〉

〈あたしたちも我慢しなきゃね〉

〈早く先生にお弁当作ってあげたいわ〉


 うっとりした表情で緑川の声に聞き入る何人かの中年女性の姿があった。紗季の目からみても、緑川は魅力的に映るが、彼女らと同じように、わいわいきゃっきゃっと、と騒げるかと考えると、微妙なところだった。じょに会に紗季を誘った元子も参加の最大の動機も、地域住民と交流することであり、緑川の顔を拝むことではなかった。


 地域に役立っている、多少失敗があっても笑ってすませられるレベルの活動に加わり、自尊心を高め、心身の平安を保つというのが、元子の求めるものだったと紗季は聞いたことがある。

 

 透明なゴミ袋を1カ所に集積する作業を終え、紗季は額ににじんだ汗をぬぐった。ジョニー池は雑草が刈り取られ、水面は清掃作業前よりも露わになった。

 元子も汗をぬぐった。


「やっぱり気持ちいいね。自分の心のゴミも、処分された気分ね」

「旦那を連れてきたら、いい旦那に変身してくれますかね」

「仕事しておカネ稼げば、いい旦那ってわけじゃないもんね」

「本当ですよ。最近はカネの亡者よろしく仕事しかしていないんですよ。ひょっとしたらここにたどり着けずに、迷子になってしまうかもしれないです」

「はは。でも『良いやつ』でなくても、見つけることはできるのよ、この池は」

「そうでしたね」

「自分の旦那が茂みのなかで、知らない女性と事に及んでいたのを知ったら、池に沈めたくなるけど、そうならないうちに手を繋いで連れてきたらいいんじゃない?」

「手を繋がなくなってから、結構経ちましたけどね」

「年をとると恥ずかしくなるわよねえ」


 紗季と元子は緑川に挨拶をし、電動アシスト機能付自転車にそれぞれ腰を下ろした。マンションの共用部であるラウンジは35階にある。


 感染症が最初に拡大し、緊急事態宣言が発出された頃は一時的に入室できなくなったが、管理費の負担をしているのにいつまでも利用できないのはおかしいと訴える一部住民の要望に応える形で、ソーシャルディスタンスを確保するなど一定のルールを守れば、立ち入ってもよいことになった。


 二人は駅前の洋菓子店でそれぞれカットケーキを購入し、マンションの駐輪場に自転車を停めてから、エレベーターで35階に向かった。元子が着替えたいと言えば紗季も着替えるつもりだったが、ジャージ姿のほうがリラックスした時間を過ごすことができる。


〈ビットコインのチャートと金のチャートを重ねると、ほら、ここまでまったく同じような形をしているでしょう〉


 ラウンジには紗季と元子のほかに、現一と同じ歳ぐらいのスキンヘッドの男性と、20代前半ぐらいのスーツ姿の男性がいるのみだ。


 紗季はスキンヘッドの男が著名な個人投資家で、このラウンジにメディア関係者をよく呼び寄せては、取材の機会を与えているのを知っている。


「あたしの家はタバコ臭くて。タカボウも、臭いってよく言うの」


 何度か隆は、元子の家でおやつをご馳走になったことがあった。


「いつもすみません。すっかり甘えちゃって」

「いいの、いいの、うちは子どもがいないから、タカボウが来ると家の中がぱっと明るくなるの」


 元子は備え付けの紙コップをコーヒーディスペンサーに置き、エスプレッソのボタンを押した。紗季はステンレスボトルを持ち歩いている。


「もうすぐ紅葉の時期ですね」

「早いねえ。今年は旦那と海外旅行に行くと決めていたのよ。シルバーウィークを過ぎると航空券安くなるでしょう。まあ、諦めも肝心よね」


 紗季はラウンジに用意されている紙皿とプラスチック製のフォークをガラステーブルの上に乗せ、洋菓子店で購入したケーキを紙箱から取り出している。元子の話を聞きながら、仕事人間の夫が自分と隆を海外旅行に連れていく未来が、全くといっていいほど想像できないと思った。


 自分の誕生日でもあり結婚記念日でもある12月29日にしたって、ここ数年の現一は、 クリスマスとあわせて、罪滅ぼしのようにホールケーキを予約するぐらいだ。


 とはいえ、誕生日が来るのをワクワクしていたのは10歳ぐらいまでで、11歳ぐらいからははしゃぐこともなかった。祝われても祝われなくてもどちらでもいいというスタンスの自分に対し、12月29日を挟んで海外旅行に行こうと言われたとしたら、それはそれで気持ちが悪い。


「どちらに行く予定だったんですか?」

「サンティアゴ・デ・コンポステーラ。知ってる? スペインの、巡礼の道の終点」


 紗季は欧州に足を踏み入れたことがなかった。元子は大学ではスペイン語専攻だった。


「聖地巡礼というのは聞いたことがありますけど。結構な距離ですよね」


 元子はエスプレッソの香りを確かめている。


「足腰はこの先もっと弱くなるだろうからね。長崎生まれだからなのかよく分からないけど、高校の同級生で行った人は多くて、みんな感動したと言ってるの。実家に帰って友達と会うと、『元子はスペイン語を勉強したから当然行ったでしょう』みたいな目でいつも見られて、だけど行ったことないでしょう。なんだか恥ずかしくてね」

「そんなにいい所なんですか」

「うん、ちょっといい?」


 元子は手に取したスマートフォンに「サンティアゴ・デ・コンポステーラ 動画」と話しかけた。


「見える? カトリック三大聖地のひとつ」


 天井から吊り下げられた香炉のようなものが、振り子のように大きく揺れている。石造りの聖堂には黄金色の聖像が重々しく光り、荘厳なパイプオルガンの調べに合わせ、祈りの合唱が響き渡っている。


「ヤコブという、キリストの最初の頃の弟子がいるでしょう。情熱的な男性で、イベリア半島での伝道活動も積極的に行っていたんだけど、ユダヤ王に殺されたの。殺された後、ヤコブが生き返るんじゃないかと恐れた王様は、遺体を埋葬する許可を下ろさなくて、弟子達と遺体は船に乗って地中海を彷徨うことになったんだけど、九世紀にヤコブの墓と遺骨が発見されて、その場所がこのサンティアゴ。サンティアゴは聖ヤコブ。コンポステーラというのは、星の野原という意味なの」


 紗季は短大で栄養士の資格を取ったが、元子がスペインについて語るのと同じぐらい、食材と栄養価について人に教えられる自信はない。


「この銀色の香炉のようなものが振られているのはなぜですか?」

「巡礼の後ってみな、身体が臭いでしょう。堂内の体臭を消すのと、感染症の拡大を防止するのがもうひとつの目的みたい」


 大昔の教会や寺院は、今で言う病院の機能も備えていたと言われている。


「日本と違って、あちらはたくさん亡くなりましたしね」

「こういう時だからこそ、ぐっとくる映像よね。今は、見ることしかできないのよね」


 元子の目が細くなる。


「旦那様のタバコの煙よりも、こちらですよね。肺に含むのなら」

「ほんとよ」


 紗季は元子から、サンティアゴ・デ・コンポステーラにつながる巡礼の道はいくつかあり、ポルトガルからも、フランスからも行けると教わった。日本にも熊野古道やお遍路さん、大山詣でなどがあるから、聖地を目指して歩くというのは、世界共通のなのかもしれない、と思った。


「うちの旦那はタバコは吸うし、酒癖は悪いし。清めてもらわないといけないとは思うけど、お遍路さんすら今は行きにくいよね」


 元子は紙コップを持ったまま、窓に映る街の景色を眺め、ため息をついた。


「ちゃんと稼いで、かつ浮気をしたことがこれまでなかったぐらいかな、褒めるべき点を挙げるとするなら」

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