額縁の死神は誘う AD2021 Tokyo(10)
「なんですか、姫様」
「強い術をつかってはいけないわ。ここが都会のまんなかだということを忘れないで。無関係の人々を巻きこんだら、どうするつもりなの」
「誰が燃えようと、なにが壊れようと、俺は心底どうでもいいんですけど」
まあ、貴女との約束は破れませんからねえと、彼は双眸の端を緩める。
吹きさらしになった五十二階を舞台に戦いが幕をあげた。
銀盆ほどにまで縮小した青い陣から、詠唱もなく幾多の剣が放たれた。たいするデケムは濁った泡を繰りだす。なぜ、剣にたいして泡なのか。疑問はすぐに最悪のかたちで解けることになる。剣の先端が泡に触れたのがはやいか、泡はぬっぷりと剣を浸食するように膨らんで、弾けた。
夥しい量の雫が飛散する。訳もなく危険を感じて、モリアはそれを避けた。喪服のすそに僅かだが、雫が掛かる。途端に絹が燃えるように縮れて、ぼろぼろと崩れた。
硫酸よりもさらに強い、猛毒の水爆弾だ。
「いけない、これを東京に降らせては!」
モリアが叫んだ。時刻は夜十時。まだ人々が都会の交差点をいきかう時間帯だ。触れたものすべてを害するこの猛毒が驟雨のように降りしきれば、数えきれない犠牲者がでる。シヤンは弾くように人差し指を動かす。青い鴉の群が召喚され、飛まつの一滴まで落とすことなく、啄んでいった。
「毒の術というのは言葉だけで扱えるものではないわ。いったい、どうやって……」
メメント一族は術師のなかでも唯一媒体をもちいずに術を扱うことができた。故に王族として君臨できたのだ。デケムにも一族の血脈が受け継がれているのだろうか。モリアが疑念に揺れるなか、苛烈な戦いは続く。
デケムはノートパソコンを膝に乗せ、椅子ごと窓際に移動した。シヤンがそれを追い掛ける。だがシヤンがモリアから離れるのを待ち構えていたのか、デケムがすさかずキーを弾いた。複合機が煙を噴きだす。とっさに袖をかざしたが、煙を吸いこんでしまったモリアは強烈な眩暈に見舞われた。
視界が奪われたのは一瞬だ。
けれど瞬きのうちに彼女は、幻影の檻に捕らわれていた。
「ここはいったい」
桜の咲き群れる丘陵が果てもなく拡がっていた。
真珠を想わせる盆の月が春霞のなかを漂い、微睡んでいる。月影を吸いあげた桜は艶やかに潤み、馨しく咲きにほっていた。緩い春の風に梢がそよいで、花群が舞い遊ぶ。
なんて麗しい風景だろうか。
明媚なる春景にこころ惹かれたモリアは桜にむかって歩きだそうとして、とっさに誘惑を振りはらった。これは夢だ。惑わされてはならない。されども咲きみだれる桜は、確かな現実感をともなって、なおもそこにある。
まずは夢から抜けださなければ。モリアが視線を巡らせる。
樹齢千年は超えるかという雄大な枝垂桜のもとに、誰かが、たたずんでいた。
「なぜ」
どくりと。ないはずの心臓が、熱を帯びる。
「お父様……」
銀の髪を背に垂らして、群青の喪服をきた男がいた。
どれだけ時を経ても、忘れるはずがない。確かにモリアが識るかぎり、その背は、このせかいで最も美しいものだ。
愛していた。逢いたかった。喪いたく、なかった。
青い靴のかかとをあげかけて、モリアは唇をかみ締める。いますぐにでも駈け寄りたい。振りむいて微笑みかけてくれたら、どれほど。けれども、だめだ。幸福なだけの夢に絡めとられてはならないのだ。
そんなものは択ばない。望みは、しても。
モリアが強く拒絶したのを感じてか、幸せな夢は悪夢に反る。
父親の頭が、落ちた。
星が流れるように白銀の髪をなびかせ、愛する父親の首が地を転がる。続けて身体が崩れた。肌は桜吹雪となって剥がれていき、剥きだしの骨になってから音もなく地に臥す。髑髏に花が降りかかった。
ああとモリアの唇から、嘆息がこぼれた。
「確かにひどい悪夢ね。けれども、きっと」
こうであれば、よかったのだ。骨になって眠りにつくならば、それこそが幸福だった。
思いどおりにならぬ娘に激憤してか、桜の群が髪を振りみだすようにしなっては、枝を地にたたきつけた。地吹雪を想わせる桜の波濤が逆巻きながら打ち寄せる。
モリアはただ静かに睫毛をふせて、いった。
「――シヤン」
幻術を掛けられたときから、彼の姿はなくなっていた。
だが彼はかならず、側にいるはずだ。
「ええ、俺は、ここにいますよ」
背後から絡めとるように抱き寄せられる。ああ、やっぱり、隣にいたのだ。熱のないその腕に安堵して、身を委ねれば幻が晴れた。
あんなに咲き群れていた桜はなくなり、高層ビルの最上階に意識がひき戻される。不可視の壁に向こう側では輝く嵐が吹き荒れていた。あらためて現実をみれば、桜吹雪だと想っていたものは割れ硝子だった。まともに身にかぶっていたら、あちらこちらに硝子が突き刺さり、ひどい有様になっていただろう。
シヤンは嵐のなかでも物ともせずに突き進んでいく。傷つかないのではなく、硝子の散弾を青い焔で一瞬のうちに融かしているのだ。
「なんでだよ、幸福な夢だっただろう? 幸せになっちゃえばよかったのに」
幸せを拒絶するなんて愚かだと唾をまき散らして喚きながら、デケムは素早く新たな術を組みあげた。シヤンの腕がデケムを捕えかけたところで、複合機がいっせいに爆裂する。毒蛇を想わせる紫電が弾けた。シヤンはとっさに攻撃をやめ、モリアを保護する障壁に意識を切り替える。
激しい電は雲を伝播して東京の上空に蜘蛛の巣状に拡がる。大都会の空に糸を掛け、ひき寄せるように劈く稲妻が天地を繋いだ。
港区から中央区一帯の電力設備が破壊されて、停電する。
闇が、地上に襲いかかった。これまでずっと排他され続けてきた闇の反乱だ。下界では今頃大騒ぎになっているはずだが、遠すぎて、騒擾は聴こえてこなかった。
ひと際明るい盆の月を背にして、痩せぎすの影が揺らめく。
「じゃあね、死を愛さない愚かな娘」
腕を拡げ、真後ろに倒れこむようにデケムは吹きさらしの窓から身を投げた。自殺か――いや逃げるつもりだ。モリアが追い掛けてと声をあげる。シヤンはモリアを抱きあげると、ためらいもなく最上階から地上にむかって踏みだした。
身を斬るような風が娘の頬をかすめる。やや離れたところに彗星のように落ちていく銀光がある。地上がいかに昏くともその髪が標だ。ただ真下に落ちるのではなく、東に移動しつつ、デケムは緩やかに下降していった。ふたりも後を追う。
文明の光が絶え、沈黙する高層ビルは鉄筋と硝子でかたち造られた墓標の群だ。境に咲き誇る桜が月影を受けて、しらじらと潤んでいた。
七階建てのビルの屋上に着地したデケムは風を操り、続けて隣のビルに渡る。シヤンも彼を追い掛けて、昏い都会を疾走する。地上では信号が停まって混雑する車のヘッドライトが数珠つなぎになっていた。事故も多発している。地上の様子をみるかぎりでは非常電源まで落ちているらしい。被害を想像するに堪えない惨状だ。
デケムは猛毒の泡を放っては追跡を阻もうとしたが、同じ術はシヤンには通じない。すべて鴉に喰わせ、融けた鴉の残骸から狼を召還した。月影を身に帯びて、狼が天鵞絨の如き毛なみを青く艶めかせる。浪のように弧を象って跳躍しながらビルの壁を蹴り、デケムの脚に喰らいついた。デケムは悲鳴をあげ、時計台のある屋上部に転落する。
「ここまでよ」
文字盤に隠れるように身を寄せていたデケムが怨めしげにモリアを振り仰いだ。
銀座和光。明治27年から東京の時を刻み続けてきた異国情緒のある建物だ。時刻のみならず東西南北をほぼ正確に表す文字盤は、いつもならば明かりが絶えることはないが、異常な大規模停電に見舞われているいまは暗く、時も停まっている。モリアたちの姿が人々に視られることもない。
人々の時をいたずらに停め続けてきた彼は、息を荒げながら、なおも嗤った。
「それはどうかな」
最後の足掻きとばかりにラテン語を唱えながら、彼は術を組みあげていく。モリアが身構える。されども詠唱が完遂されることはなかった。
頭上から降ってきた腕にでも潰されるかようにデケムが頽れた。血の塊が喉から溢れて、サイズのあわない無地の服を真紅に染めあげる。彼自身も事態が把握できていないのか、目を剥いて激しく動揺していたが、やがてなにかを理解して笑いだした。
「あ……あはっ、あはは……そっか、飽きられ、ちゃった、か」
うまくやっていたつもりだったんだけれどなとつぶやいて、彼は濡れた咳をする。鼓膜に触れるだけで鳥肌のたつような異音が、彼の痩せすぎた腹のなかから聴こえ続けている。なにかが彼の身のうちで暴れまわり、胃や腸を掻きわけ、喰い破っているのだ。
「遠隔の呪術ですね。何者かがあいつを殺そうとしているんですよ」
「殺させるわけにはいかないわ。彼には訊かなければいけないことがあるもの。どうにかして助けてちょうだい」
「ざんねんですが、あれは、姫様の命令でも無理ですねえ。呪いを掛けた術師が分かれば、解術もできますが……突きとめるまでにあいつがくたばりますよ」
喋っているあいだにも、デケムは血潮を滝のように喀き続けている。視線もさだまらないほどに衰弱していたが、なおも彼は、誰にともなく喋り続けていた。
「ふふふっ、どうせ、僕は
彼は組みあげかけていた術を修復して、最後の力を解放する。
銀座の天頂に十芒星を模る光の陣が浮かびあがった。そのさまは、凍りついた蜘蛛の巣を想わせる。だが青。もっとも群青というには緑がかっていた。
交差点をいきかう人々があれはなんだといっせいに仰視する。恐怖の入り雑じった好奇の視線だ。スマホを掲げている者もいた。
「ははっ、ざまあみろ! 僕は僕の意志でちゃんと幸福に死ぬんだ。ね、ほら、撮ってよ! ぼくはこんなにも笑っているだろ? 幸せだってさあぁ、撮れよ、ねええぇ!」
弦楽器を壁にたたきつけたような不協和の喚声をあげて、デケムが自爆した。シヤンがすかさず結界を張り、爆風と噴きあがる火が群衆を巻きこまないようにする。火は細い緒をなびかせて、勢いよく東京の天頂にあがった。
あざやかに散華する。大都会の闇を焼きはらうように。
花火だと誰かが声をあげた。青の、花火だ。日本の風物詩である花火は死者のとむらいのために燃やすのだと昔に聴いた言葉をモリアは想いだす。
最後に残されたのは一握の燃えかすだけだった。モリアが取りとめもなく、まだ熱の遺る塵灰に触れる。細かな塵のなかに真珠ほどの真紅い結晶がまざっていた。拾いあげれば、微かに懐かしい声が聴こえた――ああ、モリアにだけは、解かる。
「これは、お父様の遺血だわ」
平等な死を迎えられなかった彼女の父親は、魂ごとその身を割かれ《魂骸》とされた。魂骸は世界各地に散らばり、モリアはそれを捜し続けている。いつか父親を葬るために。
ぽつぽつとあかりがつき始めた。電力が復元されたのだ。さすがは首都、復旧がきわめて迅速だ。あかりを避けて、モリアとシヤンは時計台の裏側に身を隠す。
「――棺を」とモリアがうながせば、従者が優雅に頭をさげた。延びた彼の影が壁から剥がれて、青い棺が現れる。
棺には不揃いな亡骸がひとつ、収められていた。
琥珀の頸椎に玻璃の骨盤。左腕はなく、頭蓋骨もまた、ない。魂骸は捕らわれた魂が嘆けば嘆くほどに透きとおり、苦痛を感じただけ奇麗にきらめく。彼の魂がどれほどの地獄にいるのか、それだけでも想像を絶する。
砂時計を模った硝子の器が一緒に収められていた。赤い結晶がゆらゆらと器の底で輝いている。モリアはまたひとつ集まった遺血の珠をからんと落とす。砂時計の心臓が充ちるのはいつのことだろうか。
「けれども、なぜ、彼のなかにお父様の魂骸があったのかしら」
血の魂骸がデケムにメメント一族の力を授けていたことは明らかだ。
謎だけを残して、犯人は息絶えた。
屋上の隅に遺された灰が風にさらわれて、ネオンが瞬く都会の空に吹きあがっていく。風に紛れて、デケムの耳障りな笑い声が聴こえたような気がした。おそらくは幻聴だ。確かなことはひとつ。あれだけの犠牲者を積みあげながら、連続自殺事件の犯人はみずから命を絶ち、まんまと勝ち逃げを喫したのだ。
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