額縁の死神は誘う AD2021 Tokyo(9)
†
さながら其処は闇の箱だった。
神はかつて、火を盗みだした人類に禍をもたらすべく、箱をつかわせたという。あらゆる禍と混沌がつめこまれた箱だ。そんな神話の産物が現実にあるとすれば、きっとここのことだとモリアは想った。
ここは、虎ノ門にある日本最高層マンションの最上階である。
パノラマの窓からは東京が一望でき、真昼には富士まで見晴らせることだろう。日本の頂上といっても過言ではなかった。通常は高いところには解放感があるものだ。されどもこの一室には窒息しそうほどの閉塞感が漂っていた。都会の夜景が華やかであればあるほど、ここは冥い。蛇が絡みつくような、悪意のある闇だった。
「哀れなる生者に救済あれ、救済あれ……」
死を印刷する音だけが絶えまなく続く部屋のなかで、少年じみた窃笑が微かに反響する。鼠が壁を引っ掻くのにも似た耳障りな声質だ。
「幸福な夢のなかで死を迎える。ねえ、これほど素晴らしいことはないじゃないか。どうせひとは死に到るために生まれたんだ。死ぬために喰って、眠って、働いて……不平等を課せられてさ。愚かだね、憐れだね。だから、この僕が救済してあげないといけないんだよ。わかるかな、死に憑りつかれたお姫様」
彼は椅子を緩やかにまわす。
「あなたが死の額縁の首謀者だったのね」
シヤンを背後に従えたモリアは静かに犯人たる青年を睨みつけた。ディスプレイの青ざめたあかりが彼の頬を滑る。痩せぎすだが、洗練された顔だちだ。浅ぐろい肌から南アジアの、推測するにカースト制度においては下級とされる人種であることが見て取れた。背の低さと変声期を経ていない奇妙な声が幼い印象を振りまいているが、とうに成年を越えているのではないかとモリアは推測した。
だが、なによりもモリアの視線をひきつけたのは、その髪だ。床に擦れるまで伸びた髪は鈍い銀を帯びていた。銀の髪はメメントの一族だけに継承される特殊なものだ。
「あなたはいったい」
一族の血裔はモリアを残して、絶えた。母方の遠い親眷が何処かにいたとしても、二十二世紀までその血筋を繋いでいけるはずがないのだ。
背後にいたシヤンが覗うように双眸をすがめる。
「魂をみるかぎり、あれは、あんたの一族とは縁もゆかりもありませんよ。ですが、ひとつ引っ掛かるのが……血のにおいがあんたの父親にそっくりだ」
「ふふ、教えてあげないよ。ああ、でもデケムとだけは名乗っておこうかな……僕は百十番目だからね」
彼はそういうと、地層のように重なりあっている写真をぞんざいにかき集める。それを頭上でばら撒きながら、神経に障る笑い声をあげた。
「ね、みてよ、ほら! みんな幸せそうでしょ!」
歪な笑顔の紙吹雪が、散る。麗らかに咲く季節を迎えることもなく。
印刷が終わったばかりの写真をひとつ拾いあげ、モリアは瞳を潤ませた。写しだされた女は夢をみるように笑っている。息もできないほどの幸福に溺れて、彼女は死んだ。
「彼らは救われたんだよ。僕が救ってやったんだ」
「救われたなんてよくもいえるわね。彼女たちは幸福にみせかけた猛毒に思考も意識も奪われ、死を望むように操られただけだわ」
「わからない? 死を望むこころがあった。だから誘惑に抗えなかったのさ」
「死にたいする欲動は誰にでもあるものだわ。命とは天秤よ。喜びを載せれば生に傾き、哀しみの重さで死に揺らぐ。こころがあるがゆえに人は惑い、時には死に惹かれることもある。だからこそ、誰かが無理やりに秤を乱してはならないのよ」
笑って命を絶った彼女にもきっと愛するものはあった。これから巡ってくる幸福があったはずなのだ。けれどもそれらはすべて、莟のうちにむざと、散らされてしまった。それを救済と語るのならば。
「わたしはあなたを許さない。それは死の冒涜で、命にたいする侮辱だわ」
モリアに敵意をむけられたデケムは、あからさまな失望をあらわにする。欲しいものを与えられなかった子どものように鼻の頭を歪ませて、吐き捨てた。
「ああ、おまえも理解できないのか。だったら、要らないや――morere.」
デケムは指で銃を模るとモリアにむけて撃つまねごとをした。
違う、あれは術だ。身構えるだけの猶予はなかった。彼の指の先端から放たれた銃弾が青い喪服の胸を貫く。
胸を撃たれたモリアは、後ろによろめいた。
彼女を衛るべき従者は緊急事態にも眸を細めただけだ。かばうどころか、助けようともせずにいまにも倒れそうな娘を傍観していた。モリアは唇をひき結んで、かろうじて踏みとどまる。不屈の意志を滾らせて、彼女は果敢にデケムを睨みつけた。
「あれ、変だな、ちゃんと心臓を撃ち抜いたのにな」
「おあいにく、だけれど」
息も絶え絶えにモリアは微笑む。胸に結ばれたリボンをひと息にほどいた。
「この胸に心臓はないのよ。彼に、あげてしまったから」
はだけた胸許から、花が溢れだす。年頃の娘らしい膨らみはなく、蔓で編んだ花籠を想わせる肋骨だけがあった。神の悪意のようでありながら祝福めいた、むごたらしいほどに麗しい――彼女の地獄だ。
肋骨を強調するように指を添えて、モリアはご覧になってと唇を綻ばせた。麗しき異形に圧倒されたのか、デケムが絶句する。
モリアは続けて喪服のすそを拡げ、シヤンを振りかえった。たまらなく愉快だとばかりに嗤っている青い双眸を睨みつけて、彼女は拗ねたように唇をとがせる。
「助けてもくれないなんてひどいわ」
「いいじゃないですか、別に。あんたは死なないんですから」
「死なずとも、胸を撃たれたらそれなりには痛むのよ」
喪服にも弾孔ができてしまった。もっともこれは転移すればすぐに修繕されるが、モリアは嗜みを気にするように服を摘まんでみせる。
「だったら、それくらい避けてくださいよ。この程度で俺が動くなんて面倒すぎて」
突如として、あたりに垂れこめていた影の帳がへこむようにひずんだ。さきほどから沈黙を続けていたデケムが脈絡もなく、吹きだしたのだ。
「あはっ、そっか。わかったよ、なるほどね……かわいそうに」
何度も頷きながら、デケムは独りよがりな言葉をならべ続けた。
緑がかった瞳がぬらりと濡れた光を帯びる。毒のように滲みだすのは優越感という悪意だ。その視線はあきらかにモリアのことを蔑視していた。生者でも死者でもない喪服の娘を見くだしながら、彼は続ける。
「おまえはさあ、死に逝けるやつらが妬ましいんだよ、モリア」
何を言われているのか、とっさに理解ができなかった。
「死は祝福だよ。死だけが平等な幸福なんだ。人は愚かだから、永遠の命なんかを望むけれどね、そんなものは地獄だよ。おまえだって理解しているはずだ。だっておまえは誰よりも死を想い、死と寄りそっているんだから。それなのに、おまえにだけは死の眠りが訪れることはないんだ」
「……そうね、違いないわ」
吹雪のような悪意にモリアは、微かに睫毛をふせた。
「確かにこれは、わたしだけの地獄よ。彼からもらった」
あらためて視線をあげた黄金の瞳は強かった。明けの明星を想わせるきらめきだ。
「憐れんでいただいて、どうもありがとう。おきもちだけは頂戴するわ。……的はずれにも程があるけれど」
デケムが黙った。みるみるうちに頬が紅潮し、細い眉が刺々しい直角を描き、唇がねじくれるように捲れあがる。
「なら、いますぐにでも死にたいと想わせてあげようか」
蝕むように身のうちを侵す冥い殺意に、モリアは神経を張りつめた。箱に充満する影が細かく波うち、蠕動する。光を喰らい、膨張するように。
「そうすれば、死こそが救済だとわかるだろうからね」
デケムがキーボードを連打する。機材と言葉が、彼の武器だ。呪いの印刷された紙が吐きだされると同時に、複合機から凄まじい衝撃波が放たれた。
空振をともなった怒涛に窓硝子がことごとく砕け散る。大都会の乾いた風が吹き荒れ、瞬きながら荒ぶ玻璃の嵐。一瞬だけ、銀河に放りだされたような重力の反転があった。
華奢な娘は一撃で全身の骨を砕かれ、吹きとばされてもおかしくはなかったが、シヤンがすかさず前線に踏みだして、モリアの盾となっていた。強暴な力の氾濫に曝されぬよう、彼は術を発動する。展開された不可視の障壁は散弾を想わせる勢いで飛びかう硝子をも残らず、弾き落とした。
息もできぬ嵐のなか、みだれ散るのは死者の写真だ。影の坩堝に吸いこまれて落ちていく笑顔の群は泣き崩れているようにもみえる。モリアは想わずそれらに腕を伸ばしかけて、いまさら拾い集めることはできないのだと諦めて、てのひらを握り締めた。
「ふうん、怠け者の従者もいざというときはその娘を護るんだ」
「姫様は痛いのが嫌だそうなので」
からかうようにシヤンは眉の端をもちあげる。喋りながらも彼は、すでに防御から反撃の構えに転じていた。掲げた腕の先端で青い光の陣が組みあげられていく。青き陣は天幕を張るように拡張する。モリアがはっとして、彼の腕をつかんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます