額縁の死神は誘う AD2021 Tokyo(8)
†
「――……いきて、るのか、俺は」
屋上から転落したはずの櫻武は視えない翼のような旋風に擁され、路地裏に着地していた。靴底が地を踏みつけた途端、緊張がほどけて、彼はぐにゃりと崩れるようにすわりこんでしまった。
沈黙のなかにひとつ、軽やかな靴の音が鳴る。振りむかずとも誰かわかったのか、櫻武は視線を地に漂わせたままで、尋ねかけてきた。
「夢なのか」
「……夢ではないわ」
「なら、これが、君のいっていた術なんだな……」
いまさらながらこみあげてきた涙を堪えるように櫻武は顔を覆って呻いた。いま、彼の胸のうちには様々な感情が渦をまいているはずだ。困惑と絶望と、恐怖。氾濫する感情の流露は、次第に笑い声のかたちを取りはじめる。壊れたように笑い続けながら、彼はつぶやいた。
「俺、俺は……ははっ……自殺だけは、しないつもり、だったのにな」
自殺なんか最悪の逃げだ、と弱々しい悪態をついて櫻武は肩を落とす。
「あなたは自殺を蔑み、憎んでさえいる。それなのに、これだけの誠意をもって自殺事件の解決に取り組んでおられるのは、なぜですか」
ずっと疑問だったのだ。敢えて言葉にはしなかったが、彼は自殺を、なによりも恐れている。誰もが死にたいする恐怖をもっている。それは生物の本能であり健全なものだ。だが櫻武の恐怖心は、自殺にかぎり、程度を超えていた。
「兄貴が、いた。検事だった。強くて、賢くて……社会では喰い物にされる弱い奴等の為に戦ってる兄貴は、俺の誇りだった。けど、兄貴は……死んだ」
訥々と言葉は溢れて、とまらなかった。
「自殺、だった」
絶望にかすれた声にかぶせて、モリアには確かに聴こえた。桜の萼がぽとりと折れるような寂しい響きが。
「兄貴は騙されて、連続殺人事件の加害者を不起訴にしたんだ。奴は法廷ではあらぬ疑いを掛けられた可哀想な弱者をよそおってた。けど実際は凶悪な殺人鬼で、無罪放免された翌年にまた七人殺した。被害者はまだ幼い子どもばっかだった。兄貴がほんとうに護りたかった弱い者たちが、他でもない兄貴の誤審で、無残に命を奪われたんだよ。けど、悪いのは殺人者だ。そうだろう? 兄貴は騙されただけだ――なのに」
櫻武の兄には、そうは想えなかったのだろう。
「だから彼は、飛び降りたのね」
「……悪い奴を見抜けなかったのが罪だったってんなら。兄貴がほんとうにそれを悔いていたなら。検事を続けて、罪を償うべきだった。あいつは、逃げたんだよ」
声の端が悔し涙で濁る。
「兄貴は自殺する前に、俺に電話をかけてきた。いつもみたいにくだらない世間話をして、また今度、飲みにいくかなんていって……最後に」
おまえは僕みたいになるなよ。
そういって電話は切れた。訳もなく胸騒ぎがして、けれども櫻武は気がつかなかった。それが最後の言葉だったなんて。
「自殺する奴が許せなかった。全部殴ってやりたくなる。人のこころを操って、自殺を唆してる奴がいるのなら、ぜったいに捕まえてやるって。ああ、でもほんとは」
櫻武はきっと、思っていたのだ。兄がみずからの意志で自殺を択んだのではなく、誰かに唆されたのならば、よかったと。他の誰かを怨みたかった。ほんとうは最愛の兄を怨みたくなど、なかったのだ。
モリアはやさしく、膿んだ傷に包帯を施すように語りかけた。
「死は、平等です。平等であるべきです。だからこそ、みずからで命を絶つことは、あってはならない。死は救いでも裁きでもないのですから」
傷を治療するにはかならず、傷口に触れなければならない。どれだけ薬が沁みても。
「けれども砂をかみ締めるようにしのび難きに堪え続け、傷つき、困憊しながら懸命に生き貫いて、最後に選んだものが永遠の眠りであるのならば。せめても終わりを望むほかになかったのならば。わたしには、その御方の選択を批難する権利はないわ。どれだけ悲しくとも」
遺される者のつらさはわかる。けれども遺していく者がつらくないのかといえば、違うのだ。身が裂けるほどにつらくとも、他に選択肢がない。ないと、想えてしまうほどの絶望を、蔑ろにすることはモリアにはできなかった。
「だからあなたも、どうかご自身を、お責めにならないで」
櫻武は頬でも張られたように、激しく視線を彷徨わせた。
「あなたは、お兄様が最後の最後まであなたを頼ってくれなかったことが、悔しかったのでしょう。寂しかったのでしょう」
自殺は逃げだ。責任とはこうあるべきだと持論をならべても、それらは後づけにすぎない。ほんとうに彼を傷つけたのは純朴な哀しみだ。ありふれた寂しさだ。
櫻武が崩れた。
「兄貴……なんで、俺にいってくれなかったんだ。ちゃんといってくれないと、わかんないだろ。俺、馬鹿だから。あんたが助けてくれっていえば、俺は……」
けれども敬愛する兄がたぐり寄せたのは家族の腕ではなく、死神の誘いだった。それがつらかった。
子どものように声を嗄らして、櫻武は泣き続けた。モリアは彼のつぶやきに黙って頷きながら、側にいた。どれくらいそうしていたのか。
「っと、そろそろいいですかねえ」
シヤンが何処からともなく、姿を現す。
「犯人の所在が特定できましたよ」
彼は櫻武が取り落としたスマートフォンを掲げて、唇の端をもちあげた。
カンパニュラの額縁は自殺に誘発するためにある。だがそれは手段であって動機ではないとモリアは考察していた。犯人の望みは人を自殺させることではなく、死の額物に飾るための遺影を蒐集することだ。登録者は写真を撮影しているつもりだが、その実、額縁のむこうから《撮られて》いるのだ。
それでは遺影はどうやって、撮影されるのか。答えはひとつだ。幻に惑わされて被害者が自殺に及ぶと、最後まで構えていたスマートフォンがインカメラに切り替わってシャッターが落ちるのだ。そうすれば死に際の笑顔を撮影できる。その後、遺影のデータはかならず犯人のもとに直接送信され、スマホには残らない。
櫻武が飛び降りたときにもカメラは自動に作動していた。シヤンは落下していく櫻武からスマートフォンを取りあげ、通信を追跡していた。
「わかった。すぐに警察を動かす」
櫻武はそういったが、モリアは緩く頭を振って警察の協力を拒んだ。
「いえ――ここからは、我々の領域です」
その境界線は現代社会にいる彼が易く踏み越えるべきものではない。
青い喪服の袖を振って、彼女は左腕を拡げた。
「テンプス・フギトの時計を」
従者は肯い、ジャケットから銀の懐中時計を取りだす。彼が時計を指で弾けば、透かし彫りの蓋のなかで針が廻りはじめた。動いているのは九つもある針のなかでも特に細かい彫刻が施された双つの短針だ。緯度経度を調整する針は何周も廻り続け、遂に停まった。最後に方角を示す針が南に傾き、透きとおる光が溢れだす。
モリアが青い靴で踏みだしたのがはやいか、さらさらと砂時計が落ちるようにその華奢な背が細かな光の砂つぶとなって崩れていく。まるでもとから誰もいなかったかのごとく、ふたりはネオンの海に融け、櫻武だけが残された。
櫻武は袖で乱暴に涙をぬぐい、星のない空を振り仰ぐ。なにもできないのならば、せめて彼女らの勝利を祈るように。
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