額縁の死神は誘う AD2021 Tokyo(7)
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地上247mから見おろす都市夜景はさながら電子回路だった。道路を流れる光の線は電気信号で建物群は素子だ。それらがいっせいに短絡したら、電気系統に頼りきったこの大都会はどんな騒ぎになるのだろうか。《彼》は毎晩のように空想する。整理されたものがあれば壊して、積みあげられたものがあれば跡かたもなく崩したくなる。どうせ、いつかはすべてが滅びるのだから。
「死だけが等しく幸福。なんでみんな理解できないのかな。どうせ生きてたところで碌なことはないんだからさあ」
写真ばかりが散乱する殺風景な部屋のなかで、彼は膝を抱える。
「不平等で不条理だらけの社会にがんじがらめにされて、殺されるくらいだったら、みずから死を択んだほうがよっぽどに幸せだよ。桜みたいにさあ」
彼はひとりで喋り続けながら、背後にあるパソコンのモニターに視線を投げた。監視カメラの録画映像だ。喪服の娘が辞儀をしてから死者の写真を踏んでいくところだった。
「でも――もしかすると彼女には、僕のきもちが解かるんじゃないかな? 死に憑りつかれた娘にだったら!」
またひとつ、印刷機から吐きだされた写真が、宙を舞った。蝶でも捕まえるみたいにそれを受けとめ、彼はかん高い笑い声をあげる。
「あはっ! またひとり、幸福にしちゃったよ!」
†
結論からいえば、新宿は疑似餌だった。
カンパニュラの額縁の発信地は続々と入れ替わり、何度特定して乗りこんでも、壊れた機材があるだけで空振り続きだった。配信を停止するにも自殺に結びつく証拠がない。膨大な数の写真は押収されたものの、証拠としては不充分だった。そもそもアプリが自殺教唆をしているのならば、東京都以外の県でも異常な自殺が増えるのではないかというのが警察庁本部の見解だ。
あれから一週間が経過し、捜査は難航していた。奇妙な二人組ともその後は会っていない。確かなことはひとつ。衝動自殺が現在でも、連続しているということだ。
櫻武は、ずいぶんと塞いでいた。
解決の緒がなく意気阻喪したというもあるが、あの異様な写真が頭から離れなかった。
つり針に掛かった魚みたいに口角をあげて、昂揚に鼻孔を膨らませながら一様に笑い続ける遺影の集塊。想いだす度にざわりと総毛だち、古傷が悲鳴をあげる。特に死の夢に蕩けたあの虚ろな眼が、櫻武はたまらなくおそろしかった。
つきまとう笑顔の悪夢から逃れようと、櫻武は歌舞伎町の大衆居酒屋で呑んだくれていた。昔ながらの飲み屋だ。神棚があり、もうひとつの棚にはレトロ感の漂うブラウン管テレビが置かれている。昔は箸を動かすと隣あわせた客と肩がぶつかるほどに席がつまっていたが、いまは椅子も減って客も疎らだ。緊急事態宣言がいったん取りさげられたとはいえ、まだ自粛するべきだろうという緊張が続いている。おかげでテレビの音声がやたらと耳に飛びこんできた。今朝大阪で飛びこみ自殺があり通勤時間帯の電車が停まったと、ニュースキャスターが感情のない平坦な声で読みあげる。
「また自殺、か」
隈に縁どられた胡乱な眼つきでニュースを睨みつけて、櫻武は重いため息をついた。カンパニュラの額縁の影響などなくとも、自殺は毎日のようにある。警部にも苦言を呈された。自殺者なんかはごまんといるんだから、固執しても良いことはないぞと。
「くそっ、自殺する奴なんか、みんな嫌いだ……」
管を巻きながらおかわりを要求すれば、女将がこまったように愛想笑いを浮かべた。時短要請のお達しがあってね、と言われて、顔をあげればまわりの客はとっくに解散して、櫻武だけがカウンターの端に取り残されていた。
歌舞伎町の街角に放りだされた櫻武は、スマホを弄りながら路地を歩いていた。調査の一環として登録したカンパニュラの額縁が表示されている。現在の課題は、あなたが最も美しいと思うもの――だ。そんなの、考えたこともなかったなと櫻武は微苦笑する。桜だって、毎年有難がって群がる群衆の気が知れない。あんなもの散れば終わりなのに。濡れてぐちゃぐちゃになった紙屑みたく舗道に張りついて、後は踏まれるだけだ。
いっそ、てきとうなものでも撮るかと、カメラを覗きこんだ櫻武は目を疑った。
「まさか、そんな……はず」
いるはずのない後ろ姿があった。
草臥れた真紅のトレンチコートを羽織った男の背が、人浪を漂っていた。思春期に背が伸びすぎたせいでちょっとばかり猫背ぎみなところも、肩に掛かるくらいに伸ばした髪も、あの頃と一緒だ。
「兄貴……!」
一瞬にして、酔いが吹きとんでいた。
カメラから視線が逸らせない。桜武はスマホを覗きこみながら、息せき切って兄の背を追いかける。心臓が熱かった。坂をくだり、階段を駈けあがって、気がつけば櫻武は歌舞伎町のビルの屋上にいた。
「兄貴、だよな? こっちをむいてくれよ」
声は聴こえているはずなのに、彼は振りかえらない。
櫻武は、昔から兄の背を追い掛けてきた。物心ついたときからずっとだ。
兄は気さくで人が好かったが、いざというときには冷静で、頼りがいのある男だった。学生の頃だ。櫻武は暴走族に絡まれて恐喝されたことがある。彼はどうしても親にいえず、隠れて金を盗もうとした。兄はすぐに弟の異変に気がついた。震えるばかりだった櫻武の肩をたたいて、「だいじょうぶだ、兄貴にまかせろ」と笑い掛けてくれた。翌日には相手の親を捜しだして連絡を取り、穏便に、かつ容赦なく恐喝の責任を取らせた。
不条理が許せないのだと彼はいっていた。それで涙を流すのはいつだって弱い人達だからと。だから兄が検事になったときは誇らしかった。櫻武が刑事になったのも彼のように弱き者の助けになる職に就きたかったからだ。尊敬していた。誇りにおもっていたのだ。なのに兄はみずから命を絶った。
追い掛けるべき背は永遠に喪われてしまった。けれども、ああ、なんだ。ここにいたんじゃないか。
「兄貴――」駈け寄ろうとした瞬間、彼の靴底は昏闇を踏み抜いた。寒い風が身に吹きつける。屋上から真っ逆さまに落ちていく。
なぜか、ひどく満ちたりていた。彼の背を追いかけて、逝けるのならば悔いはない。
(おまえは、僕みたいになるなよ)
懐かしい声が耳許をかすめた。塞ぎかけた瞳を想わず見張る。明るすぎる地上がせまってきていた。さきほどまで麻痺していた恐怖が溢れだして身を強張らせたのがさきか、誰かに抱きあげられるように身体がふわりと、浮かびあがった――。
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