額縁の死神は誘う AD2021 Tokyo(6)
†
カンパニュラの額縁に自殺を誘発された。
そう証言する自殺未遂者の登場で、一連の衝動自殺は刑事事件として扱われることになり、警察庁本部でもカンパニュラの額縁の調査が始動した。
撮影中に幻覚を視た。譫妄を起こして橋から身投げするところだったという被害者の陳述から、カンパニュラの額縁はサイバードラッグではないかという疑惑が浮上した。物質の薬物とは違って、サイバードラッグは日本では取り締まることができないが、自殺教唆の疑いという線での捜査が許可された。
これによってアプリを提供し、課題を発信している場所を割りだすことができた。
新宿区。眠らないネオン街は晩になれば華やかだったが、昼の路地は喧騒も絶え、どんよりと濁っている。競うように建ちならぶ高層ビルが陽を遠ざけているのもあって、新宿は真昼ほど暗かった。路地裏となればなおのことだ。
「東京にもこんなところがあるのね」
櫻武刑事の捜査に加わったモリアは、路地を眺めて意外そうに声をあげた。
「日本は何処も清掃と管理がきちんとされているものだとおもっていたので」
「まあ海外とくらべればな。けど、陰ってのは何処にでもあるからな。このあたりはまだ可愛いもんだよ」
配線や配管が剥きだしの壁にごみで溢れかえったバケツが積まれていたり、いつから野ざらしになっているのか想像がつかないほど錆びた自転車やブリキの看板が倒れている。室外機がからからと廻り続け、路地に浸みついた人のにおいを掻きまわしていた。
「回線をたどったかぎりではここのはずなんだが……」
傾きかけた雑居ビルがたたずんでいた。鉄筋コンクリート造と木造とがいびつに組みあわされた建物は強い風が吹きつけたら崩れそうなほどに老朽化が進んでいる。なかば廃墟だ。誰かが暮らしているのかどうかもあやしかった。
「香港の九龍城塞でしたっけ。こんなんでしたよねぇ」
暇そうに欠伸をする従者を睨んで、モリアはため息をついた。
「あなた、またマスクをわすれているのね」
「だってうっとうしいんですよ、あれ。ったく、黒死病が蔓延していた頃のイングランドに渡ったときだって、こんなわずらわしいものはしなかったってのに」
櫻武の怪訝な視線が痛いほどに突き刺さっているが、シヤンはいっこうに気にする素振りもなかった。
「それよか、ほら調査でしょう? いきますよ」
「待ちなさい、まだ話は終わっていないわ」
叱りつけるモリアと話についていけない櫻武をおいて、シヤンは錆びついたアパートの外階段を駈けあがっていく。階段が崩れそうなほどに軋んでいる。発信地はこの建物の二階だ。ガムテープだらけのインターフォンを押すと、ひび割れてノイズじみた呼びだし音が内部に反響する。
「無人なのか? 管理者に連絡を取って鍵を借りるか」
櫻武が電話を繋ぎかけたのが早いか。
砲弾でも撃ちこむような勢いでシヤンが扉を蹴りつけた。頑丈なスチールの扉は一撃で貫通される。しなやかな脚を貫通孔からひき抜いて、ついでとばかりにもう一度、蹴撃を炸裂させれば、大穴のあけられた扉が吹きとんだ。
呆然としている櫻武を振りかえり、優雅に脚を収めたシヤンがいった。
「なにか問題でも? 家宅捜査においては錠の破壊は許可されていますよね」
「それはそうだが……錠どころか、ドアごと蹴破るやつがあるか」
責任を取るのは俺なんだぞとこめかみを押さえる彼だったが、シヤンは振りかえりもせずにあかりのついていない室内に踏みこんでいった。モリアもなにかを言いかけて、諦めたように黙って彼に続いた。
玄関を覗いたモリアは、絶句する。
部屋のなかにあったのは写真の海だった。千枚、あるいは万枚を超えるかという数だ。クロスが剥がれかけた壁から擦りきれたフローリング、天井部まですきまなく写真が貼りつけられている。写っている人物は年齢も性別も様々だが、揃って至福の笑みを湛えていた。
「こりゃいったい、どんな悪夢だよ」
櫻武はぞっとしたように表情を強張らせた。
誰もが幸福そうに笑っている。頬を弛緩させ、口もだらしなく寛がせて。瞳は異様な熱に、蕩けていた。量産された笑顔は猟奇と紙一重だ。
「彼女は……」
モリアはひしめきあう写真の群から、桜の枝で縊死した女の写真を発見する。彼女の服は自殺した晩と同じだ。喉には鞄の紐らしきものが喰いこんでいた。
ああ、と理解が落ちてきた。
「これらはすべて、自殺する今際の写真だわ」
玄関にあがりかけていた櫻武がひっと喉をしぼませて、後ろにさがった。
「冗談だろ……嘘だっていってくれよ、なあ」
モリアは沈黙する。だが沈黙は肯定だ。櫻武が震えだす。故人の遺影を踏まなければ、ここからは進めない。櫻武は完全にこころを折られてしまっていた。
だがここまできて、帰るわけにはいかない。
娘はひとつ、辞儀をする。頭をさげ、左脚を後ろにひいてから青い喪服のすそをつまんで。指の先端にまで神経を張り巡らせるように。最大限の敬意を払ってから、彼女は喪われた笑顔の表にそうと、青い靴を乗せる。
「な、なんて罰あたりなことを」
「悲しいけれど、誰もが死者を踏みつけて、歩いてるのよ。意識するか、無意識かに係わらず。死のない地なんて何処にもないもの」
いいながら、彼女は進んでいく。櫻武はくそと悪態をつきながら写真を剥がし、拾い集めはじめた。それが彼なりの死者にたいする敬意なのだ。
さきに廊下を抜け、モリアは十五畳ほどの部屋についた。窓も写真に蓋われて、昼でも肌にまとわりつくような濡れた闇が吹きだまっている。家財はなく、がらんとしたうす暗がりのなかには棺が横たわっていた。
群青の、棺だ。
モリアは瞳をとがらせた。あれは他でもない彼女の一族の――だがそれは、あってはならないことだ。彼女の血裔にそも同族などはいないのだから。
「なにを怖がっているんですか」
シヤンは靴の先端でかつんと、棺を蹴る。
「ただのコンピューターですよ」
人を感知してか、覗き窓に嵌めこまれたディスプレイが自動でついた。強い光に斬りつけられて、影が悲鳴をあげるように雲散する。表示されたブルースクリーンに暗号じみたテキストが溢れだす。
「これがカンパニュラの額縁とやらのサーバーだったはずですが……っと、やられましたね。データが破壊されている。証拠隠滅でしょうね」
最後に表示されたのはラテン語だった。
「Amor mortem. 死を愛せ――これは違うわ」
青ざめながらもモリアが頭を振る。銀糸の髪がみだれ、硬い光を弾いた。
「わが一族は、死を愛せとは語らない。死を敬い死を畏れ死を想え、とはうながしても」
一族の掟とともに甦るのは敬愛する父親の後ろ姿だ。戦争を好まず命を貴ぶ賢王だった。流星のような髪を背に垂らして、彼はいつでも遥か遠くを眺めながら娘に語ってくれた。死は平等だ。いかに富めようとも、いかに貧しくあろうとも、死に絶えれば等しく地に横たわる骸となる――父親の教えは、娘に死への敬意を根差させた。
それなのに、父親に平等なる死が与えられることは、なかった――。
「敵はあんたの一族について識りながら、その掟を騙っている。ずいぶんな悪意を感じますねえ。そう、あんたの父親の亡骸を冒涜したのとも似た、強烈な悪意をね」
父親は無残に殺され、死してなお、ばらばらに割かれた骸に魂を縛られた。それから幾百年が経った現在でも、彼の魂はやすらかに眠ることもできず、終わりのない地獄にある。
ゆえにその娘たる彼女が、ここにいるのだ。
黄金の瞳にごうと焔が燃えさかる。
復讐めいた昏い熱を滾らせながら、彼女の望みは、他にあった。それでもこころがあるかぎり、忿怒はつきることがない。
「さあ、ご命令を。俺は姫様の忠実な従僕ですからねぇ」
シヤンが跪き、怒りに震える娘のてのひらを取った。端整な美貌と相まって気障な振る舞いをしても憎らしいほどに様になる。絹のような肌に接吻を落として、彼はモリアを振り仰ぐ。
「すべては姫様の望みのままに」
死神の視線が暗幕を落とすようにひらめいた。如何なる青よりも青い、彼の双眸。彼女が想う、死の青さだ。
モリアは静かに命ずる。死神の双眸から、些かも視線を逸らすことなく。
「犯人を捕らえてちょうだい。聴かなければ、ならないことがあるわ」
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