額縁の死神は誘う AD2021 Tokyo(5)


        †


 吾妻橋は自殺未遂で騒然となっていた。

 雨が降っているとはいえども午後七時といえば、まだ人通りの盛んな時間帯だ。橋から投身しかけていた会社員は自殺を制られ、濡れた歩道の隅で蹲りながら放心している。青ざめてひどい様相だ。暫くはなにを喋りかけても、会話にはならないだろう。

 モリアは会社員が取り落としたスマートフォンを拾いあげた。

 これがカンパニュラの額縁か。現物をみるのはこれが、はじめてだ。撮影モードなのか、レンズに映った風景が銀の額に縁どられていた。だがその風景にふと違和感を憶えたモリアは、裏側のレンズを指で蓋った。真っ暗になった画像の端にうっすらとだが、詞が浮かびあがっている。英語だろうか。真後ろからシヤンが覗きこんできた。


「これはラテン語ですね。なになに……《私もかつては貴方だった、今度は貴方が私になる》……へえ、暗示めいた詞ですね」

墓碑銘エピタフだわ」


 言葉のとおり、墓標に刻む詩句を表す。一般的には死者の功績や遺言などが綴られるが、死生観が根差したラテン語圏では、死は等しく訪れるのだという警告が記されることもあった。もっともそれは呪詛ではない、はずだ。


「これ、最後の綴りが違いますね。正確には《今度は貴方が私になれ》と読めます」

「だからだったのね」


 貴方も死に到るのだと教えるのと、貴方も死者になれと命令するのでは異なる。

 原則として術には媒体が要る。媒体となるのは希少な物ばかりで、それらを揃えるのは非常に困難だ。強大な術を施す際には詠唱を要するように言葉もまた、媒体となり得る。もっとも言葉の媒体だけで発動できる術は効力が微弱だ。

 ゆえに術を重ねるのだ。登録者は撮影の度にフレームの背景に隠された墓碑銘まがいの命令を視ることになる。何度も何度も。ごく僅かな毒でも飲み続ければ致死毒となるように、術は重ねられるほどに潜在意識にまで侵食していく。

 こうした仕組みは、催眠の一種であるサブリミナルとも類似しているが、サブリミナルが潜在意識への刷りこみにすぎないのにたいして、本物の術を織りこんでいるこちらならば人を操ることも可能だ。もっとも発動には条件がある。

 シヤンの指がスマホの表を滑り、課題を表示させた。


「汝の最も美しいと思うものを撮れ……? 聴いた話だと、課題は死の寓意を含む静物ばかりだったのだけれど」

「っと、ここにも詞がありますね。課題の日本語表示と重なっていて読みにくいですが」


 解読を試みていたシヤンが前触れもなく、弾けるように嗤った。愉快げに。あるいはたまらなく不愉快げに。濡れて雫の滴る前髪を掻きあげながら、彼は唇の端を裂いた。


「《死を、想え》――ねえ。何処かで聴いたことがある言葉だ」


 モリアが戸惑い、視線を彷徨わせた。


「それ、は……けれど、いったいなぜ」

「さあね。いずれにしてもこの言葉が、重ね重ね掛けられ続けてきた術をいっきに発動するトリガーになっていることは確かですよ」


 ラテン語は読めずとも無意識にこの言葉を視てしまった段階でこれまで幾重にも擦りこまれてきた死の誘惑がいっきに溢れだし、一時譫妄に近い意識障害をひき起こす。

 カンパニュラの額縁は、明らかな悪意を持って死を振りまく危険な呪術だ。

 課題を閉じると画面が切り替わり、青――が映しだされた。

 モリアが瞳を見張る。

 青い――額縁だ。正確には彫刻が施された金縁の額縁のなかで、群青の花がこぼれんばかりに咲きみだれていた。つり鐘のかたちをした花の群は星くずが瞬くようにさわさわとそよぎ続けている。だからカンパニュラの額縁なのだ。

 けれどもなぜ、よりによって青いのか。


「気がつきましたか? そう、製作者は、死を青いものだと認識しているんですよ。ねえ、姫様。あんたの一族とおなじように」


 胸がどくりと脈うつ。ああ、でもこれは錯覚だ。ほんとうはわかっている。薄い胸をおさえながら、モリアは唇をかみ締めた。

 これはあきらかに術師がらみの事件だ。だが――それだけでは、ない。

 従者は惑う娘を嘲るように、なおも嗤っている。

 段々と人が増えてきているが、誰もが距離をおいて「自殺だって」「物騒だね」と囁きあうばかりで、踏みこんではこない。面倒事には巻きこまれたくないという群衆の思惑が透けていた。

 そのなかでただひとり、傍観者の浪を掻きわけて、大股でこちらに進んできたものがいた。昼の刑事だ。確か櫻武といったか。彼はモリアには気がつかなかったのか、真横を素通りしていき、柵にもたれて項垂れている自殺未遂の男につかみかかった。


「おまえ、なんで自殺なんかするんだよ。死んだら終わりだ、取りかえしがつかないんだぞ。わかってんのか!」

いまにも殴りかからんばかりに胸ぐらをつかんで、櫻武は男を叱りつけた。他人にいきなり怒鳴りつけられた会社員の男は我にかえり、狼狽えながら声を振りしぼる。

「わ、わからない。僕だってわからないんだ。ただ、すごく幸せな、きぶんに、なって」

「幸せだと! ふざけるなよ! おまえはそれでよくてもな、遺された人達がどんなきもちになるか! だから自殺する奴は大嫌いなんだよ、自分のことしか考えてない。いいか、なにがあろうと自殺なんか択ぶやつは最低だ。命を投げだすくらいだったら、まずはまわりに頼れ! いいか!」


 懸命に訴える櫻武の形相からは、切実な私情がにじんでいた。

 言葉づかいは荒く、乱暴なところもあるが、彼は自殺未遂に到った他人にたいして愚直なほどに真剣にむかいあい、みずからのこころを砕いている。櫻武は紺の背広につつまれた会社員の肩をつかんで、なかば抱き締めるようにした。会社員はぼたぼたと涙を溢れさせている。「母さん……ごめん、僕は……みかこにも、昨日は悪かったってあやまらないと」鼻を啜りながら会社員がこぼす。そのひとつひとつに強く頷きながら、櫻武は「二度と馬鹿なことを考えるなよ、大事なひとのためにも」と励ました。

 櫻武刑事は自殺者を侮蔑しながらも連続自殺を警察が解決するべき事件だと考え、犠牲者を増やすまいと奮励している。櫻武自身の為人もあるだろうが、その熱意の裏には辛い経験に基づいた後悔があるのかもしれないとモリアは想像する。


「でも、ほんとに訳がわからないんです。写真を撮ろうとして……青い、桜が……綺麗な女のひとに誘われて……なんで、僕は身投げなんか」

「彼の証言に嘘はないようにおもいます」


 モリアが進みでる。櫻武はまさか昼の娘と再会するとは思っていなかったのか、戸惑いを表す。彼は何かを言いかけたが、さきにモリアが押収したスマホを差しだした。青い花の額縁だけでも櫻武にはそれがなにか理解できたようだ。


「死者はなにも語らない。だから、これまでカンパニュラの額縁が自殺教唆をするというのは憶測の域を出ませんでした。ですが実際撮影中に自殺を唆されながらも未遂で救助された彼が証言すれば、捜査を進められるはずです」

「それは……そうだが」

 

 誰かが通報したのか、怒涛のようなサイレンが迫ってきた。赤い警光灯を点滅させたパトカーが続々と橋に停車する。駈けつけた警察官らが会社員の身柄を保護して、自殺未遂者を助けたシヤンとモリアは任意出頭を要求された。警察官の視線は刺々しく、自殺に見せかけて突き落とそうとしていたのではないかという猜疑に満ちていたが、櫻武刑事が慌てて彼女らは知人だと言い添えたことで、尋問じみた様子は和らいだ。


「なぜ、君たちが捜査に助力してくれるのかはわからないが……礼をいう。君たちがいなかったら、彼は確実に橋から飛び降りていた」


 櫻武があらためて頭をさげる。それにしてもよく、自殺現場なんかに居合わせたなといわれて、モリアは睫毛をふせて微笑んだ。


「わたしは絶えず死を想い、死に想われています――だからこそ」


 死を冒涜するものは誰であろうと許さないと、鏡のような眸が強く瞬いた。誇らかに胸を張りながら、彼女は櫻武に頼む。


「どうか、捜査に御一緒させてください。かならず御力になれますから」

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