額縁の死神は誘う AD2021 Tokyo(4)


        †


 赤提燈のあかしが紫がかった黄昏の帳を解かす。

 浅草風雷神門。渋滞する交差点に黙してたたずむ唐紅の八脚門は奇妙な威圧感を漂わせていた。雷門と書かれた大提燈。都会の群像を監視するように睨みつける雷と風の神像。異界に繋がっているといわれても疑えない霊妙さがあった。

 曇ったこんな夕暮れどきでも、参拝をかねて観光する人々が騒めいている。

 祭りめいた騒ぎから離れたところに異境の娘がいた。モリアだ。

 彼女を避けて人の浪は、寄せてはかえす。提燈の暖かなあかりも彼女の白皙に紅を乗せることはなかった。何者も鏡像には触れぬように、あらゆるものが彼女を素通りしていく。ひと時重なることはあっても、本質がまじわることはない。娘は、まったくの異邦人だった。

 大提燈を潜り、モリアは仲見世が軒を列ねる参道を進んでいった。

 境内では無病息災、疫病退散の札が販売され、群衆は決められた距離を几帳面に保ちながら列をなす。彼らは信仰をもたない。重く落とされたシャッターには雅やかな屏風絵が描かれ、時勢の昏さを感じさせないように繕われていた。


「ずいぶんといい時代ですねえ、姫様」


 本堂前の御水舎の横を通りがかったところで不意に声を掛けられた。八角形の錆御影石で造られた噴水がある東屋の柱にもたれて、誰かがくつくつと嗤っている。モリアは振りむかず、歩みだけとめた。


「戦争もなく飢饉もなく与えられた安寧だけを貪る飽食の都ですよ」

「それは違うわ。誰もが飢えて、誰もが諍いにこころを砕かれている。いのちがあるかぎり死もまた、背中あわせに廻り続けるように。いかに物が溢れ、栄華なる都が築かれても、満たされぬ影は絶えず、光の側らにあり続けるものだわ」

「くくっ、違いないですね」


 雲から滴り落ちてきた雨の雫に弾かれて、はらりと散ってきたはなびらを、手袋に被われた男の手が無造作につかんだ。日本の桜はこんな狭い土地にも根を張っている。息の詰まるような人いきれを吸って。


「桜の枝で縊死したのは、昨晩あんたと喋っていたあのおんなだったわけですよね」

「彼女は、死ぬつもりなんてなかった。直接言葉をかわしたから、わかるわ。だからまさかあの後すぐに命を絶つとは思えなくて……助けられなかった」


 モリアは唇をかみ締めて、悔やむ。


「希死念慮はなく、それでいて、なにかに憑りつかれたように無意識のうちに死を選択していた。確かに異様だ。まるで死神にでも魅入られたみたいですねえ」

「それは――」


 暗幕を破り、男が暗がりから踏みだしてきた。影の帳であつらえたような燕尾服が張りつく優雅な細身、異教の神の彫像を想わせる線の細い横顔に濡れた鴉のような艶やかな黒髪。端麗なんてものではなかった。なにもかもが調いすぎている。僅かな瑕もない美貌はともすれば、邪悪さと紙一重だった。

 怖いほどに透きとおる青が、瞬く。


「あなたのことだわ、シヤン」


 彼は肯定も否定もせずに青き双眸を細めて、奸悪な微笑を深める。


「褒めていただいたついでに死神らしいことをひとつ、教えましょうか。たったいま、あそこにある門を抜けていったおとこがいますよね。あれ、今晩死にますよ」


 モリアが息をのみ、仁王門を振りかえる。紺の背広を着こんだ若い男が人の群に紛れるところだった。特に思いつめた様子もなく、彼が命を絶つなど想像もつかない。


「何者かに死のにおいを振りかけられている。造り物のにおいだ。ですが贋物であっても、魂のうちに浸みこむうちに本物の死をすりこまれていく。昨晩のおんなもそうだった。非常に弱いですが……人を操る系統の幻術ですよ、あれは」


 モリアはもともと、この事件には術師が係わっているものと推測していた。

 術師。人の知を超えた強大な力を持ちながら、とある戦争に敗れて五百年も前に滅びた者たちだ。逃げ延びたひと握りの術師は、二十一世紀現在でも時代の裏側で息をひそめている。モリアはかつて術師を統べる王族の娘だった。いまは、違う。


「あんたの捜し物とは無関係のようですが」

「だとしても、死が何者かに造られるようなことは、あってはならないわ」


 それは、彼女が想う、平等な死とはほど遠い。


「追い掛けましょう」

「はいはい、姫様の望みのままに」


 さきに歩きだした娘につき従い、死神と称された青年がいく。

 群雲をほどいて雨が降りだす。風景が紅に潤んだ。しとどに濡れた鳥居から血潮を想わせる雫がほたほたと滴る。

 ふたりの後ろ姿だけが、喪に服すように青かった。




        †




 はじめは青い蝶かと男は想った。けれどもすぐに違うとわかる。

 あれは桜だ。宵に陰った紺藍ではなく、濁りのない群青。春の嵐に吹きあげられて、青いはなびらが乱舞する。足許から、はるかに振り仰ぐかなたまでもが、桜吹雪に埋めつくされていた。何処までも青く、咲きみだれる桜の万華鏡。

 そのただなかで女が微笑んでいた。

 慎ましやかで、それでいてあまやかに誘惑する微笑だった。男が女というものに懐くあらゆる幻想を寄せあつめて接ぎあわせれば、こんな美女になるのだろうか。

 女は彼を抱き締めんとするかのようにしなやかな腕を拡げる。

 彼女は何者なのか。なぜ桜がこんなに青いのか。ここが何処だったのか。桜乱舞の接吻で呼吸を奪われているみたいに意識が霞んで、もはや、なにも考えられない。ただ女のもとに逝きたいという想いだけで脚を動かす。

 あとちょっとで優婉なその腕に触れられると想ったそのとき。


「あんた、死んじまいますよ。いいんですか」


 誰かが後ろから、彼の肩をつかんだ。


「死に――――え?」


 振りかえれば、また青。瑠璃を砕いたような双眸が嘲りに歪む。


「まあ、死にたいんだったら俺はとめませんけどねぇ」


 あの桜の群青が嘘くさい造りものに視えるほどの、強い青だ。こんな青があることをこれまで知らなかった。それゆえに彼は、その青さを畏れた。頭にのぼっていた熱が端から恐怖で凍てついていく。

 ぼやけていた視界が晴れると、彼はスマートフォンを掲げて吾妻橋の勾欄に乗りあげていた。真下では、男を待ち構えるように昏い濁流が渦を巻いている。落ちたら最後、あがってはこれない奈落だ。なんでと喉から声が洩れた。吾妻橋から桜の写真を撮ろうとおもっていただけだ。確かにこの頃、仕事がうまくいかず、彼女とも喧嘩続きだった。なにも死ぬほどのことは……身投げなんて考えてもいなかったのに。

 脚が竦む。震えながら、スマホのカメラに視線を戻せば、女はなおもそこにいた。だが、彼女のいるところに足場は、ない――気がついたのがさきか、熟れすぎた果実が落ちるように女の鼻が落ちた。なめらかだった肌が破れて顎の骨が剥きだしになる。眼窩から蜈蚣や蜘蛛が涌きだしても、彼女は笑みを絶やさない。

 もとが綺麗だったからよけいに惨たらしく、おぞましかった。

 その様は鎌倉時代に描かれた九相図を想わせる。

 悲鳴をあげて男は今度こそ柵から転げ落ちた。舗道に尻もちをついた男の側にかつんと、青い靴が落とされた。


「死とは畏れるべきものよ。そう、あるべきだわ」


 祈るような声に振り仰げば、青いゴシック調の服を纏った娘がいた。レースの飾りがついた傘を差している。娘の背後にさきほどの青い双眸を輝かせた青年がならぶ。


「あなたがまだ、命を愛せるのならば」

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