額縁の死神は誘う AD2021 Tokyo(3)
†
「あれは自殺などではない!」
東京都千代田区霞が関にある警視庁本部に強い声が響いた。
ファイルが無造作に積みあげられた事務机に身を乗りだして、ひとりの刑事が声を荒げている。ネクタイを締めていない紺のワイシャツに寝ぐせのついた髪と、ずいぶんとくたびれた風貌だが、三十路に差し掛かったばかりといったところだろうか。
「警部、どうか再捜査を」
「そうはいってもねえ、櫻武君」
たいする警部は書類の確認をしながら面倒そうにいう。
「死亡者は所持していたショルダーバックの紐を桜の枝に掛け、首を吊った。現場には死亡者のスマホが残されているだけで、第一発見者が通報するまでの二十分程のあいだに他の第三者が通りがかった痕跡はない。財布にあった学生証から即身元が判明して、遺体は遺族に引き渡し済み――これが他殺のはずがないだろう。確実に自殺だよ」
「ですが彼女だけではない」
櫻武といわれた刑事が指をたてる。
「不可解な自殺が今週だけですでに五件、続いています。いずれも遺書はなく、事前に自殺を考えていた様子がまったくない。電車への飛びこみ自殺ならば、ともかく首を吊るつもりがあれば縄を購入したり、確実に人の通らないところを選ぶものです。あたかも、死神にでも操られているかのように、自殺に及んでいます」
「死神なんかいるはずがないだろう」
「ええ、ですからこれは事件だと申しあげているのです」
警部はあからさまに時計を睨みながら、とんとんと机をたたく。いらだっているのが明らかだが、刑事はこちらをご確認くださいとスマートフォンを差しだした。
「一連の自殺者に面識はありませんが、彼らのスマホにはかならず、この《カンパニュラの額縁》というアプリが――」
「はいはい、例のSNSだね。前にも聞いたよ。写真を撮って投稿するだけで自殺するはずがないじゃないか、まったく。話は終わりだ。職務がつまっているものでね。君もこんなことにかまけてないで、ちゃんとした事件の調査にうちこんだらどうかね」
そんなんじゃ昇進できないよとスマホを乱暴に突きかえされる。櫻武はなおも喰いさがろうとしたが、それきり無視を決めこまれてしまった。
結局、彼女の死は自殺として処理された。
世界中が感染症の禍乱に曝されるなか、東京では不可解な衝動自殺が相ついで起こっていた。日本の年間の自殺件数は二万ほど。これは自殺であることが明らかになっている死亡者にかぎり、毎年変死者としてあげられる約十五万人のなかにも自殺者が多く含まれているものと考えられる。
今年に入ってたった三カ月のあいだに東京都の自殺者の増加は例年の二倍ちかくにまで達し、事故と疑われる不審死を含めれば約三倍におよぶ。感染症による経済不振の影響だろうと推測されていたが、他の県ではこれほど大幅な自殺者の増加は起こっていなかった。明らかに《東京都》で異常な死が増えている。
これはあくまでも自殺であって、事件ではない。
だが
警部から邪険にあしらわれた櫻武は練馬区立平成つつじ公園を訪れていた。毎年一万株、約六百種の躑躅が早春から青葉の候まで約二ヶ月に渡り、順に咲き群れる。うす紅の和紙をまるめたような桜玄海躑躅から新品種である練馬の鏡まで。なかには樹齢百年を超える大株もある。花盛りを迎えたこの公園でも五日前、奇妙な自殺があった。
火群のような躑躅の繁みに埋もれるようにして、女子高生が死んでいたという。喉にとがった鉛筆を突き刺して。
鉛筆には彼女の指紋のみが残っていた。事故という線もあったが、始めは胸に刺し、その後死にきれずに喉を貫いていたことから自殺と確定した。躑躅の花叢に擁かれて息絶えた彼女は、まるで燃えることのない火葬のようだったと、第一発見者である公園の清掃員は証言している。何故、被害者は自殺に踏みきったのか。自殺するつもりならば、鉛筆などではなくナイフを用意するはずではないだろうか。あまりにも不可解だ。
この違和感をなぜ、誰もが放置するのか――櫻武は眉根を寄せた。兄貴がいたら、こんなときにどう考えるだろうか。正義感が強く聡明だった彼ならば、きっと。
「――いや、自殺するやつのことなんかわかるかよ」
彼はそうつぶやいて、無駄な思考を振りはらった。
無性に煙草が吸いたくなり喫煙所を捜そうとあたりを見まわした櫻武は、遊歩道にたたずんでいる青い娘に視線を吸い寄せられた。
艶やかな白銀の髪に異国のお嬢さまが袖を通すような青い服。レースの施されたマスクだけが、彼女が現実にいるのだと教えている。
娘は舗道の柵に青いクリスマスローズを一輪たむけた。続けて銀刺繍の星が散りばめられたすそをつまみ、典麗な辞儀をひとつ。それは他でもなく死者にたいする哀悼だった。だが女子高生が自殺した場所の詳細は公園の管理者と警察関係者、遺族の他には知らないはずだ。あるいは犯人か。
「君、なにをしている」
娘が振りかえった。戸惑った様子はなく、こちらにむけられた眼差しは静かだ。
「ここで命を絶った死者に、細やかですが、なぐさめを」
「自殺者と親しかったとか?」
月が陰るかのように彼女は微笑んだ。
「ええ、死者とは縁があるのです」
奇妙な娘だ。他人事のように自殺者というわけではなく。かといって友達や親戚だと語るのでもなく。ただ死者と繰りかえす。そればかりではない。言葉ひとつ、視線の動きひとつ、みなもに漂う月影を想わせて捉えどころがなかった。
「わたしはモリアといいます。……あなたは、刑事さんですよね」
「なんでわかった」
「わたしのことをあからさまに疑っておられたので。それに、ここで彼女が命を絶ったことを知っている御方はかぎられているはずですから」
春霜の睫毛を瞬かせて、モリアと名乗った娘は続けた。
「刑事さんでしたら、カンパニュラの額縁――を御存知ですか」
突風が渡って、躑躅の花群が廻るように騒めいた。想わぬ言葉に動揺していた櫻武の眼にはそれが、地獄の劫火がめらめらと燃えさかるさまに映った。
「……なんで、それを」
「躑躅に埋もれて逝った少女も、桜の枝で息絶えた女性も《カンパニュラの額縁》に登録していました。写真投稿が自殺を誘発する――現実に起こりうることだと想います。写真とはそも〝死んだ刻〟を映して、後に留めるものですもの」
櫻武は謎かけめいた言葉の真意を解けず、訝る。青い娘は瞳を綻ばせた。
「時は絶えず、死に続けているのですよ。過去とはすなわち時間の骸なのですから」
「君はいったい、なにを知っているんだ」
「なにも。ですから刑事さんに教えていただきたいのです。眠れぬ死者のためにも」
また死者、か。櫻武は話を続けるべきかと逡巡したが、どうせ捜査などなにも進んでいないのだ。部外者に話して問題になるようなことはない。カンパニュラの額縁を疑っている第三者がいたという高揚も助けて、解かっているのは概要だけだが、と喋りだす。
カンパニュラの額縁とは現在、若者のあいだでひそかに話題になっている写真投稿アプリだ。課題にあわせて写真を撮り、投稿すると、他の登録者が《賛美》をくれる。誰に賛美されたかは記録されず、登録者同士で会話もできない。SNS疲れした若者にとってはそうした簡素なシステムが却って楽なのだという。登録者が人間関係のトラブルに巻きこまれるという危険はなく、それゆえに刑事事件にすることも困難であった。
「課題というのはどのようなものですか」
「いろいろだな、貝殻とか時計とか桜とか。変わった課題だと皮を剥いた檸檬、煙かな。それらの物を取りいれた風景の写真を撮る。別段、気になるところはないが……」
モリアの瞳が陰ったのに気がつき、櫻武はとっさに言葉の端をしぼませる。
「それらはすべて死の寓意です」
「死の寓意だって?」
「バロック時代にあたる十六世紀頃、ヨーロッパ北部では命の空虚と死を表す静物画が多く描かれました。貝殻はうつせみの命を、時計は終わりにむかい進み続ける刻を、皮を剥いた檸檬は外側がどれだけ綺麗でもかみ締めれば苦いばかりの人生を、其々に含蓄しています。額縁の課題はそれらの寓意と一致しているわ。偶然とは思えないほどに」
よどみのない言葉の端々からは聡明さが漂っていた。いや、単純に知識に富んでいるだけならば、櫻武も気圧されたりはしなかっただろう。だが彼女の言葉には実感があった。例えば宗教改革期のフランドルにいて、実際に時勢のなかで移りゆく絵画のあり様をみてきたような。いったい、この娘は何者なのか。気をのまれながらも彼は反論する。
「だが登録者は死の寓意だと知らずに撮影していたわけだ。影響なんか受けるはずが」
「無意識の影響とは思いの他に強いものです。そうして寓意とは無意識に働きかけるもの。隠されたその意を知るかどうかにはかかわらず。ただでさえ、疫病の影響もあって死を意識しやすい時期ですもの」
「こんな時期、か。だからこそ、自殺を考えるなんて不謹慎だとはおもわないか」
新型感染症が猛威を振るうようになってから、死という言葉が連日報道を騒がせている。病床は重症者で埋めつくされ、入院できないうちに急変し命を落とす患者もいる。
「医療従事者たちが患者をひとりでも死なせまいと働き、患者も懸命に闘っているってのに。健康な奴が死を望むなんて俺には理解できない」
知らず語気が荒くなっていく。
「自殺なんか逃げだ」
モリアは哀愁を帯びた瞳で櫻武を見つめながら、静かに頭を振った。
「ほんとうにそうでしょうか。生に進むのも死にひきかえすのも等しく命の欲動です。善でもなければ、悪でもありません。……悲しいけれど」
「っ……そんなのは」
「悪しきは、死を造る行為ですよ」
訳もなく背筋が凍った。真意は解からないが、本能を刺すような嫌な響きがある。
「死を、造る? 殺人か? もしかして自殺教唆……か?」
「人の潜在意識に侵入し、操っている者がいます。人知の及ばぬ力をつかって」
「いったい、何のことだ」
黄金の鏡を想わせる瞳が清む。
「術といいます」
空想がすぎる言葉に櫻武は毒気を抜かれた。彼女の話を真剣に聴いていたことが急に馬鹿らしくなる。いつのまにか遠ざかっていたあたりの喧騒と風景が意識のなかに戻ってきた。櫻武は相好をゆがめて踵をかえす。
「つきあってられるか。がきの遊びじゃないんだ」
娘は追い掛けてこなかった。されども鈴のような声が後に続く。
「きっと、また、逢うことになりますよ。あなたが死の境界を覗きこむかぎり」
その言葉は彼の背に濡れたはなびらのように貼りつき、暫くは剥がれそうになかった。
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