ヴェルサイユ宮殿の魔女は歌う AD1756‐1773 Paris(10)



 星が微睡みはじめる夏の早暁は青かった。

 ヴェルサイユ宮殿の門前にいちりようの馬車が停まっていた。貴族が乗るきらびやかな造りではなかった。雑多な荷を乗せるぼろいほろ馬車だ。ほおかぶりをしたリュンヌが幼い息子を連れ、馬車に乗りこもうとしていた。なにかに気がついてふと彼女は振りかえる。


「……お別れをいいにきてくれたのね」


 朝の風に吹かれてたたずむ喪服の娘をみて、リュンヌは微かに頰を緩めた。リュンヌは化粧を落として、飾りのない地味な服をきている。あれだけ華やかに結いあげていた髪を肩に掛かるぎりぎりまで切りそろえていた。


「ええ、最後だもの……修道院にいくのでしょう?」


 モリアはすでに事の経緯を把握していた。

 あの後、宮殿内部では妾妃の処遇について論議された。妾とはいえども正妃が他界している現在、妃と同等の権力を握っていたリュンヌが呪いをもちいて貴族を殺したという事実を公認することははばかられる。貴族の反感が妾妃にとどまらず王家にむけられることは明白だからだ。よって妾妃とその庶子は重い病に侵されたとして、都から遠く離れた修道院に無期限で軟禁されることになったのだった。

 まわりのものに掛けられていた術は解け、妾妃を慕うものは宮殿には残されていなかった。貴族はおろか侍女ですらも見送りにはこない。最後だというのに。ほんとうに彼女はこの宮殿で孤立無援だったのだと痛感させられる。

 黄金で造られた門を仰視する。なんじの門を潜るものはいっさいの希望を棄てよ──そんな警句がなぜか、モリアの頭をよぎった。


「宮殿に未練はありませんわ。華やかな暮らしも、食べきれもしない量のごそうも、刺繡で飾りたてた服も宝飾もお化粧も、なにひとつ欲しかったことなどありませんもの」


 歌えなくなってしまったことだけが残念だといいながらも、リュンヌの表情はものでも落ちたように晴れ晴れとしていた。敵だらけの宮殿を離れられるとあって、あの張りつめた敵意も消えていた。それだけ彼女にとってあの宮殿はこころを荒ませる戦線だったのだ。富も名声もなにもかもを失い、彼女はいま、最後に残ったものを大切に抱き締めなおしていた。


「ただ……彼にひもじい思いをさせてしまうのではないかと思うと」


 リュンヌが案じるように視線を傾けると、母親の服のすそをつかんで眠たそうにしていたソレイユがそれにこたえて、はにゃりと笑った。


「ぼくは、かあさまがいてくだされば、どんなところでもかまいません。あ、けど、かあさまをいじめる人が、いないところだといいなあ」


 陽だまりのような笑顔を絶やさずに彼はまっすぐに母親を見あげた。リュンヌの瞳が潤む。彼女は愛する子を強く抱き寄せて額に接吻を落とした。


「さ、母様もすぐにいくから、さきに乗っておいで」


 ソレイユを馬車に乗せ、リュンヌはモリアと向きなおった。夏の柔らかな暁風がふたりのあいだに吹き渡る。微かに薔薇のが漂った。


「アナタと遇ってから、アタクシの運命は動きだした。幕をあげたのがアナタならば、閉幕を飾るのもやっぱりアナタですのね」

「わたしは、なにもしていないわ。あの祝福にはなんの力も宿っていないもの」


 はじめから終わりまでこれは、彼女の舞台だ。悲劇も喜劇も彼女のもので、他の誰のものでもない。それが人生というものだ。


「それでも、ずっと天使様だとおもっていたのよ、アナタのこと」


 あどけなく、彼女は紅の乗っていない唇をもちあげた。


「雪と一緒に降りてきた綺麗な綺麗な天使様。宮殿にきていろんなものをみたけれど、アタクシ、アナタほど綺麗なものはついにみなかったもの。けれども恨んでもいたわ。アナタに祝福されなければ、こんなふうに宮殿につれてこられることもなかったんじゃないか……ほんとは悪魔、だったんじゃないかと疑った晩もある」

「どちらでもないわ。天使でも悪魔でも」


 モリアが苦笑まじりに頭を振れば、そうねとつられたように微笑をこぼして、リュンヌはか細い息を洩らす。永遠に変わることのない娘の姿をあらためてその瞳に映し、彼女はなにを思ったのか、まなじりを緩めた。


「いまのアナタは、ただの小さな子どもにみえますわ。とても悲しそうな」


 彼女は何処までも穏やかにそういった。母親の、まなざしをして。

 曖昧に微笑を重ね、それには敢えて触れずにモリアは未練を振りほどくために背をむけた。これでほんとうにお別れだ。


「わたしは……あなたの歌がほんとうに好きだったわ」


 いまはなき歌姫に最後の祝福をたむけて。

 紫がかったしののめがたなびいて、夏薔薇が咲き綻ぶように空が明けそめていった。昨夜嵐に曝されてざんに散らされた花もあれば、今朝歓喜に身を震わせ咲き誇る花もある。それは幸いでもあり悲しみでもあった。


「ね、アナタ……ちょっと」


 遠ざかっていくモリアの背につき従おうとしたシヤンをリュンヌが最後に呼びとめた。彼はまさか自分が呼びとめられると思っていなかったのか、端整な眉の端をはねあげて面倒そうに振りかえる。


「はあ? 俺ですか?」

「ええ、アナタ──彼女のことを、護って差しあげてね」


 真剣に訴えかけるようにリュンヌはいった。


「彼女はとても悲しげで。さびしそうですわ。だからせめて、アナタが側にいてあげて」


 きっと、他の誰もあの娘の側にいることはできない、彼を除いては。

 リュンヌはそう予感していた。ほんの刹那、その道筋が重なることはあっても、彼女の歩き続けている線と他の人々がたどる線はそもそもが違う。まったくまじわらないのであれば孤独ではあるまい。けれども重なってしまう、あるいはもともとは重なっていた。だからこそ乖離は際だつ。傷ましいほどに。


「彼女の側にいられるのはアナタだけでしょうから」


 僅かにうなじをそらして、シヤンが笑った。六芒星の耳飾りが光を弾く。細い唇があでやかに弧を象り、いつもはさらりと肩に流している髪が頰に掛かる。それは人を嘲弄する微笑ではなく、もっと質の違うものだった。


「俺は姫様の従僕ですからねえ」


 底のない青が瞬く。


「でもまあ、彼女が死に到るまでは服従するつもりですよ、俺は」


 リュンヌは呼吸も忘れて放心する。彼が綺麗だったからというだけではない。その言葉の重みに彼女は、胸を打たれていた。


「死が、ふたりを別つまで……ね。アナタは気がついていないみたいだけれど、それってまるで愛の誓いだわ」


 永遠を旅する娘にもちゃんと連れだつものがいるのだと安堵してか、リュンヌは強く頷き、馬車に乗りこんでいった。


「なにを喋っていたの?」

「たいしたことじゃありませんよ」


 さきに緩い坂をくだっていたモリアはそう、とだけいって、ふたつならんだ影に視線を移す。背たけの違いすぎる影は重なりあうことはない。それでも寄り添っていた。確かに。

 馬車の車輪が影を踏み、ふたりのことを追い越していく。

 ふと、歌が聴こえた。馬車の窓から洩れてきたその歌声は子どもを寝かしつける母親の細やかな子守唄だ。けれどもそれは、十七年前に雪の降りしきる町角で聴いたものとおなじ響きをもっていた。

 苦難も悲嘆もやがて訪れる死すらもあるがままに抱擁しながら、いまというしゆを慈しむ、歓喜の歌声だ。

 あの頃、彼女は寒さに曝されながら舌の根が凍りつかずに言葉を紡げることをよろこび、朝から晩まで満たされることのない腹から声が出せる幸せに感謝していた。

 いまは、その胸のなかでやすらかに寝息を繰りかえすぬくもりがある幸福をかみ締めているに違いない。


「なんで泣いているんですか、あんたは」


 モリアの頰にひと雫のなみだがこぼれていた。


「なにが悲しいんですか? 誰も死んじゃいないってのに」

「違うのよ。これは、嬉しいの」

「はあ?」

「変わらないものがあったことが、嬉しいのよ」

「ほんとにわけがわからない」


 あきれたように彼は眉を寄せ、けれどすぐに唇の端をもちあげた。


「けどあんたのなみだを通してみるにんげんというのは、なかなかにおもしろいですよ」


 男にしては細い指が娘の頰に滴るなみだをさらっていった。朝を映してきらめく玻璃珠のような雫を手袋に被われた指さきに乗せて、彼はなにを想うのか。喜びから湧きあがるなみだも悲しみに溢れるなみだも、等しく瞳を濡らすだけだ。こぼれて真珠になるわけでも、花のように馨るわけでもないのだから。


「あんたは、ほんとに飽きない」


 死を帯びた青い眸がれる喪服の娘を映す。

 娘は潤んだ瞳でかたわらを振り仰いで、華やかに微笑んだ。青と黄金。ふたりの視線が重なっても緑にはならず、喪を想わせる黒に澱む。

 朝はいつのまにか晴れ渡り、雲雀が幸福の歌を歌いはじめていた。夏という短かな季節を楽しむように。やがて冬が廻る。その後にはまた、夏が。

 薔薇は散っても季節が廻れば、また咲きこぼれる。

 香りが変わっても、彩りが異なっても、あの日と違わぬ美しさで。

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