ヴェルサイユ宮殿の魔女は歌う AD1756‐1773 Paris(9)




 罪人を収監する塔のなかは日が差さないせいか、夏だというのに寒い。

 鉄格子の嵌められた窓から細く月が差していた。よこじまにきり取られた光が化粧の落ちた女の頰を暗がりに浮かびあがらせている。わらが敷かれているだけで椅子ひとつない。女は硬い地べたにすわり、膝まくらで眠る息子の背を緩くたたいてあやしていた。

 静まりかえった独房に軽い靴音が響き、彼女は億劫そうに視線をあげる。

 このろうごくに訪れるものはあの娘だけだろうと思っていた。故に女は招かれざる訪問者をみてもなんら驚かなかった。どうしてここにとも問わなかった。

 ただ項垂れながらぽつりとつぶやいた。歌姫というにはれすぎた声で。


「……ほんとうは、アナタにだけは逢いたくなかったわ」


 鉄格子のはざまに視線を漂わせて、モリアは掛けるべき言葉を捜す。リュンヌはたった一晩でやせ細っていた。失意に暮れ、まるまった背から空虚感を漂わせている。モリアが薄紅の唇を割るよりもさきに、リュンヌはため息を織りまぜて囁きかけてきた。


「アナタはずっと変わらない。素敵ね。永遠に少女のまま。けれどもアタクシはそうじゃない、そうじゃなかったのよ」


 重ねてきた時の重みが言葉の端々から滲んでいた。時間とは重いものだ。故に取りもどせない。彼女はすでに小さな歌姫ではない。悲しいことに。


「確かに。変わってしまったあなたを責める権利は、わたしにはないわね」


 あの雪の晩と変わらぬ声の調べで永遠の娘はいった。変わり続ける世界のなかでモリアだけは変わらない。望むとも望まずとも。だからこそ彼女は続けた。


「時間は進んでいくものよ。ひとかけらの憐れみもなく。けれども進んでいく時のなかでだけ、人は誰かを愛することができるのだわ」


 少女から女になって母親となった。移ろい続ける季節のなかで抱き締めた幸福もあるはずだと説くように。リュンヌが眉を顰めた。アナタになにがわかるのよ。おなじ時の線上にいないアナタなんかに──とわめきかけて、彼女は自身の膝に頰を預けて眠り続けている子どものことをはたと思いだす。

 喋り声が聴こえたのか、眠っていたはずのソレイユが微かにうなって目蓋を細くひらいた。微睡みながらも彼は不安そうに声を掛けてくる。


「かあさま……なにか、あったんですか?」


 愛する息子に心配をかけまいとリュンヌはすかさず微笑をつくって、なんでもないのよとまるい頭を撫でた。こんなときでも、声は確かに優しかった。歌っているように。


「さ、お眠りなさい。お母様がいるから。ずっと、側にいるからね」


 言いきかせるようにそう繰りかえして、彼女は小さなぬくもりを愛おしく、抱き締めなおす。寝かしつけてから顔をあげれば、喪服の娘はすでにいなくなっていた。

 朝はまだ遠い。雲がほどけたのか、窓から差す月は先刻より明るかった。





 昏い路地の隅をねずみが駈けた。

 花の都の裏路地は時がとまったかのようにいまも昔も荒んだ風が吹き溜まっている。鼻のない娼婦が路地裏から誰彼構わずに手招きをしている。崩れかけた壁にもたれてうずくまった路上生活者の群は靴音がしても視線ひとつあげず、もしかするとすでに息絶えているのかもしれなかった。ここは花の都の不条理の掃きだめ、いわゆる貧民窟だった。何度戦争に勝とうとも貧富の差が埋まることはなく、貧しきものはますますに飢え、それらを踏みにじって富豪は虚飾の栄華を咲かせる。

 路地の裏で月明かりを頼りにせっせと馬車に荷物を積みこむ男がいた。彼は闇競りの競売人だ。パリではずいぶんと稼いだが、そろそろ潮時だと逃げだす支度をしていた。最後の荷を担ぎあげたところで、背後から声を掛けられる。


「ごきげんよう、月の綺麗な晩ね」


 青い靴のつまさきを落として、喪服の娘が何処からともなくふわりと降りたつ。喪服のすそを摘んで、彼女は競売人に妖しげな微笑を投げかけてきた。清艶な潤みを湛えた瞳が瞬く。月から舞い降りてきたといわれても疑えなかった。

 競売人はその妖精じみた風貌に毒気を抜かれ、木箱を担いだままで呆然としていた。綺麗なばかりではない。場違いすぎた。フランスのあらゆる汚濁が最後にいきつくあくたにこんな綺麗なものがいる、はずがない。いたとして、ろくなものではないと競売人はとっさに考えていた。


「リュンヌ妾妃が首飾りを落札なさったそうね」


 その問い掛けに競売人の男はごくりと唾を飲み、慌てて首を横に振る。


「ち、違うんだ、俺はなにも知らない。ま、まさか、本物が紛れてやがるなんて」

「そう、お気の毒ね。……シヤン」


 いっさいの感情をともなわぬ口調でいい、彼女は暗がりに向かって声を掛けた。


「はいはい、姫様の仰せのままに」


 闇を破り、細身に絹の喪服を張りつけるように纏った男が現れる。彼はあろうことか、ひと蹴りで馬車を横転させた。恐慌に陥った馬が逃げさり、積み荷が路上に散乱する。彼は足許に転がってきた物をひょいと拾いあげた。


「魂骸ともいえない屑みたいなものしかないですねえ」


 からびた手で造られた燭台を投げてよこされ、娘は抱き締めるように受け取る。


「たとえここに魂がなくとも、骸をそまつに扱うことは許さないわ」


 彼女は静かな怒りをたぎらせて、競売人をめつけた。


「死に、値段をつけることも許さない──」


 ただならぬはくにへたりと腰を抜かした競売人は這いつくばるように後ずさる。危うい橋を度々渡り、身についた悪人の勘が報せていた。


「っ……死神、か? 死神なんだな!?」


 悪事を重ねてきた競売人を、ついに死神が裁きにきたのかと。


「ま、まだ、俺は死にたくねえ……許してくれ」


 喪服の娘──モリアはそれにはこたえず、月の環が架かった髪を搔きあげて、無慈悲な瞳で競売人を睥睨した。

 モリアとシヤンがパリの裏町を訪れたのは、ヴァニタスから情報の提供を受けてのことだった。ヴァニタスの報告によれば、リュンヌはあの首飾りをパリの闇競売で落としたそうだ。その競売人は魔女がらみの品物ばかりを取り扱っているらしく、教会に摘発されないようにパリの北西部に潜んでいるとのことだった。妾妃が捕まったという噂を聞き、今頃は何処かに雲隠れしようとしているはずだ。つまり競売人を捕えるのならばいまが好機だった。そうして実際に競売人は現れた。


「それで? どうなさいますか」


 モリアの腰を後ろから抱き寄せて、シヤンが唇の端から牙を覗かせながら囁きかけた。


「あぁ、そういえば、あんたも競売に掛けられたことがありましたよねえ」


 青ざめた頰がぴくりと強張った。


「あんたの死にはいくらの値がついたんでしたっけ。その骨のかけら、血潮の一滴に」

「……想いだしたくもないわ」


 吐き棄てて、振りほどこうとする。だが彼は腕のなかにしっかりと娘を捕らえていた。微かに震えるその顎に指を掛け、こころの裏側をくように細い輪郭をなぞってうつむきかけた顎を無理にあげさせる。


「ええ、ええ、そうでしょうね……。奴らがあんたにしたのとまったくおなじことを、このにんげんはしてきたわけだ。ましてあんたの父親の骸を競りにかけた」


 瑠璃を砕いた双眸が凶暴に闇を裂いて、輝いた。


「さて、命令をどうぞ。俺に一言命じてくだされば、貴女の気が済むようにそいつを殺してやりますよ。脚をへし折っても、腕をもぎ取ってもいい。はらわたを搔きだして焼くのもいいですねえ」


 彼はモリアがこららえきれない怒りに身を焼かれるさまに享楽している。永遠に晴らすことのできないおんしゆうをかかえてはいても、それをめったに表にだすことのない彼女がみっともなく忿ふんに囚われることを彼は望んでいる、彼自身の娯楽のために。だがシヤンが嘲弄をこめてあおってきたことで彼女は、段々と冷静になっていった。

 ひと呼吸おいてから、モリアは緩く頭を振り、魔の誘いを振りほどく。


「いいえ、わたしは死者を葬るものよ。生者を裁くものではないわ」


 がたがたと震えあがっていた競売人に視線をむけ、彼女はぞっとするほどに凄艶な微笑みを湛えて、刺繡の袖を振る。わざわいのことばを唇に乗せて。


「いきなさい。今度死を冒瀆すれば、身をもって報いを享けることになるでしょう」


 競売人は今度こそ悲鳴をあげて、何度も転びそうになりながら逃げだす。その背が視界から消えうせてから、モリアはみずからの従者に指示してあたりに散乱した骸を馬車ごと燃やさせた。

 術をもちいて放たれた焰は青い。あたりには壊れた木箱などが転がっていたが、他のものに燃え移ることはなかった。頰に青ざめた焰の反照を受けながら、モリアは冒瀆された死を悼んで瞳を閉じた。

 人の骸で造られる呪物は古今東西にある。そのひとつがろうの燭台だった。絞首刑にされた罪人の手を切断し蠟に漬けこんだもので、火をともせば盗みをかならず成功させることができるとされる。禁忌を想わせる物であるほど強い魔力を発揮すると考えられ、高額で取引された。十四世紀頃は実際に術師の魂を宿した本物の魂骸もまざっていたが、いまではそのほとんどが偽物だ。だがそれが人の骸であることに違いはない。


「灰すら残らぬほどに燃やしつくしてちょうだい」


 罪人であろうとなかろうと、死後は等しく土に還るべきだ。ありもしないいわくをつけられ、また再びに売りだされるようなことのないように。

 敬意をもって、モリアは骸を葬った。




 焰が燃えつきる。骸はあとかたもなく火葬された。

 静まりかえった路地に聞き覚えのある靴音が響いてきた。モリアが振りかえると建物の角をまがってヴァニタスが姿を現した。


「やあ、捜していたよ」


 彼はにこやかに片腕をあげ、呼びかけてきた。裏町の情報を把握できている段階で彼はさわやかでもなんでもないし、根から善人でもないのだろうが、見せ掛けだけはいつもしゆんぷうたいとうとしている。彼の背後にはやはり晴れきった青空があった。だが時々、その青空が空漠とした虚しさを漂わせるのがモリアは気に掛かっていた。


「競売人はまだ都にいたみたいだね。荷物もまとめずに逃げていくところをみたよ。呼びとめたけど、振りむきもせずにいってしまった。なにか、おそろしい化け物にでも遭ってしまったみたいだったけれど」


 ヴァニタスはおおよそのことは察しているのか、喋りながら笑っている。


「なにからなにまで、ほんとうにありがとうございました」


 新たな収穫はなかったが、骸を葬れただけでもよかった。


「僕はそろそろフランスを離れるつもりなんだけど、君たちはどうするのかな」

「わたしも旅を続けます。父の骸を葬るまでは」


 そうかと頷いて、ヴァニタスはわざと明るい声をあげた。


「また逢えるさ」

「そうなるといいですね」


 モリアは時を渡る。テンプス・フギトの時計は新たに魂骸の現れる時を探知して、動きはじめていた。フランスを再訪するのは何百年後か、何百年前か。十八世紀に渡るとしても大陸の何処に到着するかはわからず、到底再会できるとは思えなかった。

 だがヴァニタスは強い意志をこめ、繰りかえす。


「いいや、かならず逢うことになるよ。僕と君にはそれだけの縁があるのだから」


 身をかがめ、横から覗きこんできたヴァニタスの双眸がざあと搔き曇る。紫の毒が滲むように視線がどろりとした敵意を帯びた気がした。モリアは本能的に身を退きかける。


「どうかしたかい、僕の顔になにかついていたかな?」


 問い掛けられ、あらためて視線をあわせれば、すでにそのまなざしは穏やかになごんでいた。好意はあっても敵意などかけらもない。だがヴァニタスと手を振って別れた後もまだ、蛇に睨まれたような心地悪さが残っていた。きっと、競売などに係わったせいだ。あるいは青い焰をみたからか。

 モリアは鼓動のない胸を押さえ、きつく唇をかみ締めた。

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