ヴェルサイユ宮殿の魔女は歌う AD1756‐1773 Paris(8)

「これは……リュンヌの記憶なのね」


 幾つもの映像が舞台を取りかこむように浮かびあがり、それぞれが同時に異なる場景を上映する。顔色も悪くおずおずと落ちつかない様子で、黄金で造られた宮殿の門をくぐるリュンヌの後ろ姿。貴婦人たちの刺すような視線。ひとまわりも年老いた陛下から強いられるかりそめの愛。咲き誇る野薔薇を摘み、しおれては窓から棄てるような。それでも他によすがはないと震えながら陛下の訪れを待ち続ける彼女のまくらもとに花は、ない。


(劇場で歌っていたら、宮殿の使いがきた。陛下がおまえを気にいられたといわれて突然妾にされ、宮殿に連れてこられたわ。拒む権利なんか、なかった。不敬罪で殺されるか、陛下に抱かれるか、どちらかよ──)


 場面は絶えまなく流れ、移りかわる。

 晩餐会の決まりごとを誰からも教えてもらえず、失敗ばかりでまわりの貴族から嘲笑された。わざと壊れた靴を履かされて階段から転落し参加できなくなった舞踏会の窓を、遠くからぽつんと眺めていた。劇場の公演前にこえおけを頭上に落とされ、髪から汚泥を滴らせながらも、よごれたカヌレ織のドレープを握り締めて着替えて参りますわと気丈に笑いかえしてみせた。親しくなった伯爵夫人から菓子を贈られ、喜んで頰張ればほろほろと甘い生地から裁縫針がとびだしてきた。幸いにも舌を刺すだけで済んだが、飲みこんでいたら死んでいた。

 惨めな思いを重ねるごとに、彼女の瞳は荒んでいった。歌になるような、華やかでおおげさな悲劇ではなかった。焼けた鉄の靴を履かされているような。じわじわと精神を細らせるいたみだ。歌うことの喜びもいつしか絶えたのか、華の嬌笑で比類なき水妖の歌声を響かせ、劇場の幕が降りた途端に砂をかんだような無表情になる様は、飢えと寒さに曝されながら歌っていた幼少期よりもよほどに憐れだった。

 だが殺伐とした回想のなかにひとつだけ、確かな喜びがあった。

 産まれたばかりの小さな命。母親の腕に抱きかかえられた赤ん坊はきゃっきゃっと笑いながら、彼女の指を懸命に握りかえしてきた。


(ああ、なんて愛しいの……)


 やせ細り疲れきっていたリュンヌの瞳にごうと、炎が燃えさかった。怒りではなかった。燃えているのは、あれは愛だ。苛烈なまでの。子どものためならばどれほど強い敵にも牙を剝き戦い抜く、赤い血の通った野生の愛だった。


「そう、そうだったわね。あなたは母親になったのね」


 彼女の記憶をたどりながらモリアがぽつりと理解を落とす。

 歌よりも愛するべきものが、いまの彼女にはあるのだ。

 公妾の庶子をまもってくれるものは陛下の寵愛と貴族の後ろ盾しかない。貴族は術の掛かった歌で魅了し、服従させられないものは殺しあわせ、その血脈ごと根絶やしにした。陛下の寵愛はすでに享けているはずだった。


(なのに、陛下はこの頃、劇場にもいらっしゃらない)


 壁に映しだされる映像は現在に差し掛かっていた。観客で埋めつくされた劇場のなかにたったひとつだけある空席は最上階の特等席だ。陛下が掛けるはずの席を振り仰いでリュンヌはため息をついた。どれだけ丁寧に紅を差しても、華やかに着飾っても、春を咲き誇った少女時代のきらめきは還らない。夏を迎えてしまっては。

 そういえば今晩もあの席は、無人だった。


「だから……あなたは、霊薬を欲したのね」


 それだけならばまだよかった。不老を望むだけならば。

 だが彼女は、人が踏み越えてはならない境界線を越えてしまったのだ。

 上映が終わり、映写機のネガフィルムを巻き取るように光の帯がリュンヌのなかに吸いこまれていく。劇場のまくあいに琥珀の残映をきらめかせて記憶の反復は途絶えた。

 時計の音がやむ。彼女はまだ気絶している。モリアは意識のない妾妃に近寄り、静かにそうっと首飾りをはずした。珊瑚で飾りたてられたカンティーユ細工の首飾りだ。黄金を基調に、観客席からみても舞台にたたずむ歌姫の胸が華やぐよう、紅珊瑚の枝がふんだんにつかわれていた。されどもトップを飾るのはなぜか、珊瑚ではなく真珠だ。

 そう、ともすれば、それはただの真珠だった。

 モリアがなにかを言いかけたのがさきか、意識を取りもどしたリュンヌが起きあがった。彼女はまっさきに首飾りを確かめ、ないことに気がつくと息を巻いてモリアに跳びかかってきた。

 モリアは素早く後ろにさがり、強奪からのがれる。リュンヌはなおも腕を伸ばしてきたが、フリルのあしらわれたすそを踏みつけて不格好に倒れこんだ。敢えて結いあげていなかった赤い髪が、幕をおろすようにばさりと垂れる。そのあいまから一瞬だけ濡れた瞳が覗く。ひどく傷つき、その数だけ他人を傷つけてきた瞳だった。


「っ……なんでよ、なんで……」


 紅の唇からこぼれかけた言葉はなんと続くはずだったのか。歌姫は赤い唇を喰いしばって言葉をかみ砕くと勢いよくすそをまくりあげた。薔薇の嵐を模して真紅がひるがえり、彼女は脚に隠しもっていた拳銃を抜き放った。


「それをかえしてちょうだい。さもなければ、アナタだって殺すわ」


 モリアは鏡のように静かな瞳をして、げきこうする歌姫と向かいあった。いまの彼女ならば撃つ、撃てるだろうとわかっていて逃げるでもなく黙して見据え続ける。

 運命を模するように、回転弾倉は廻り──銃声があがった。燃える銃弾はモリアの髪をひと筋散らして、脇をすり抜けていった。リュンヌが銃を撃つよりさきに、背後から接近していたシヤンが彼女の腕を取り押さえていたからだ。標的から外れた銃弾はシャンデリアを砕く。いつかの晩の雪のような、細かな硝子の破片が降る。


「っと……暴れないでくださいよ。腕でも折っておきましょうかねえ」

「折らないで。銃をこちらに」

「はいはい、仰せのままに」


 彼はもぎとった銃を舞台に投げ捨てる。

 とうのような騒ぎが外から響いてきた。身構える暇もなく、劇場に衛兵が押しかけてくる。貴族の誰かが通報したのだろうか。シヤンに捕縛されていたリュンヌが勝機をつかんだとばかりに唇をつりあげ、昂然と声を張りあげた。


「彼らは異端者よ! 捕えなさい」


 だが衛兵たちは動かない。衛兵を統括していると思われる兵が重々しくいった。


「いいえ、捕縛されるのは貴女です、リュンヌ妾妃」

「なん、ですって……どういうことなの、ねえ」

「貴女には、異端者の呪術をもちいて貴族を暗殺した疑いが掛かっています」

「な、なにを仰っているのか、わかりませんわ……アタクシはなにも。陛下、そうよ、アタクシにこのような無礼を働いて、陛下がお知りになられたら……」


 激しく動揺しながらもリュンヌは容疑を否認する。されど兵は退きさがらなかった。


「他ならぬ陛下のじようです」


 あまりの絶望にリュンヌは立ち続けていることもできず、ぐにゃりと崩れ落ちた。シヤンに腕をつかまれたままで腰が砕けてしまったようにへたりこみ、彼女は真っ青になって項垂れる。服だけが、首の落ちた薔薇のように赤かった。あれは人の血潮を吸った赤さだ。悪逆の華の盛りは過ぎた。後はただ、散るのみだ。

 唐突に舞台の真下から幼い声があがった。


「かあさま! やめて、かあさまをいじめないで!」


 男の子が衛兵のあいまをくぐって舞台にあがり、シヤンの脚に突進してきた。シヤンはさりげなく脚払いをかけ、彼を壇上に転がす。蛙のようにうつぶせに倒れた子どもをみて、リュンヌがソレイユ──と悲鳴をあげた。ソレイユと呼び掛けられた彼は膝をすりむいて泣きそうになりながらも、ぎゅっとこぶしを握り締めて起きあがった。

 取りかこむ衛兵たちを見まわしてソレイユは声のかぎりに叫ぶ。


「なんで、かあさまばっかり、いじめられないといけないの! やめてよ、これいじょう、かあさまをいじめないで!」


 母親が幼い息子を護りたかったように、彼もまた、母親を助けたかったのだ。リュンヌがわあと泣き崩れた。ソレイユは腕を懸命に拡げて、なおも母親をかばおうとする。


「ソレイユ……ごめんなさい、どうかこの子だけは……この子に罪はないの、ああ」


 リュンヌは涙ながらに哀訴したが、衛兵は慈悲もなく幼い腕にも縄を掛けた。絶望するリュンヌが衛兵に引致されていく。

 これにて、呪いの歌劇は閉幕だ。


「棺を」


 演者も観客もいなくなった舞台でモリアは喪服のすそをひらめかせて、みずからの従者にうながす。シヤンは優雅に頭をさげ、左腕を拡げた。壁に投影された彼の影がずずずと浮かびあがり、青い棺が現れる。直立された棺の前にモリアが踏みだすと棺の蓋がゆっくりと動きだした。

 なかに納められていたのは誰もが目を疑うほどに美しい──骸だった。

 時を経て、琥珀になった頸椎。上質な象牙に精緻な紋様を彫りあげたかのようなだいたい骨。眠れる大蛇を想わせる骨盤はのように透きとおり、空洞に清らかな水が溜まっているのが見て取れた。だが骸というには不完全だ。隆々たる根でつくられた森の王者のつえの如き右腕には指がなく、左腕はそもそもない。頭もなければ、肋骨もなく、背骨にもたりないところがある。


「お父様……」


 モリアは物言わぬ骸に向かって、愛しげに声を掛けた。


「捜し物は取りもどせたみたいですね、姫様」


 彼女は頷いて、ふところから首飾りを取りだす。清らかな輝きを湛えた真珠をいたわるように撫で、うっそりと睫毛をふせた。


「これは、お父様の喉骨よ」


 人心を操る妖しげな光はすでに絶えていた。かわりに潤むような光のが、娘の呼び掛けにこたえるようにくるりとまわる。実際は魂骸そのものが他者を害する呪いを帯びているわけではないのだ。人のこころに強く訴えかけ、従わせる声。それをどう扱うかは所有者による。独裁を敷くこともできれば、暴政を制することもできるのだ。だが強大な力は概して悲劇を生む。だから、これは二度と他者に渡ってはならない。


「さあ、お父様にお還ししましょう」


 真珠を想わせるほどに美しい骨を、首飾りから取りはずす。モリアは棺にむき直ると骸の喉に設けられた青銅の枠に喉骨をがんそうした。もともとが、そこに備わっていたものなのだ。違和感なく、あるべきように骨は納まった。


「またひとつ、集まったわ。けれどもたりない、葬るにはまだ」


 静かにがいかんされる。辞儀をしていたモリアが頭をあげ、青き棺に背をむけた。


「っと……閉幕だってのに、観客が揃っていますよ」


 ぱちんとシヤンが指を弾く。劇場内部の燭台にいっせいにあかりがともった。

 劇場の前列は観客の群で埋まっていた。あれはリュンヌに殺された死者たちだ。彼らは割れた頭から血を垂らし、胸にナイフを刺したままで、リュンヌの転落劇を観賞していた。なかにはデュボア伯爵とその家族もすわっている。彼らは揃って音のない拍手をして、最後に頭をさげた。

 モリアが葬るまでもなく死者は端から順にえる。彼らの無念は晴らされたのだ。

 それでもモリアの胸のうちは、晴れなかった。

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