ヴェルサイユ宮殿の魔女は歌う AD1756‐1773 Paris(7)



 薔薇は咲くから美しいのか──

 うす昏い劇場の客席に詠唱じみた歌声が響きわたる。

 いいえ、薔薇は散るから美しい──

 観客はその魅惑の調べに神話で語られるセイレンを想像する。まだ舞台の幕はあがらない。だからこその幻想だ。狙いすましての演出だとわかっていながらも誰も彼もが惹きこまれずにはいられない。船乗りを誘い海の底に沈めた人魚の歌はこんなふうにかぎりのない慈しみをもって男たちの魂をいだき、眠らせたのかと。ならば彼らは幸せだったのではないか。羨望にも等しい熱がふつり、ふつりと観客席から湧きだす。

 満を持して、歌劇場の幕があがった。

 真紅の雪が降る。ちぎり取られた薔薇のはなびらだ。死んだ薔薇が降りしきるなか、豪華絢爛な舞台しようを身に纏った歌姫リュンヌが登場する。紅珊瑚の首飾りでいろどられた豊満な胸を張り、悠然と進みいでる。衣裳の基調は白。燃えたつ真紅のひだ飾りが身体の曲線に絡みつくようにあしらわれ、すそだけが魚のびれを模して華やかに拡がっていた。水なき地に現れた水妖は遠き支那の魚だったのかと、貴族が感嘆の息を洩らす。さながら泳ぐ錦の薔薇だ。その美しきをでられるためだけに飼われ、時に黄金と同等の値をつけられるその魚。

 散るからこそに、薔薇よ、咲き誇れ──

 歌姫の喉から溢れだした高らかな歌声がとうのように押し寄せて、四階層にもなった王宮劇場のなかに響きわたる。観客はおういつする音に酔い、歌の海に溺れていった。

 誰も彼もが歌姫に魅了され、壊れたように熱狂する。

 舞台には他にも美男美女があがり劇を演じていたが、どれも歌姫リュンヌの歌を聴いた後だとかすんでしまい、歌姫を際だてるための額縁の如しであった。

 二階の客席にいたモリアも歌姫リュンヌに圧倒されていた。昔とは比べものにならないほどに歌唱力があがっている。パリの歌劇場から宮殿に呼び寄せられるのも頷けた。

 物騒な事件が続いているというのに、歌劇場は席を埋めつくすほどの観客で賑わっていた。それも貴族ばかりだ。これだけの貴族がいったい何処から集まってきたのかと劇場につくなりモリアが啞然としたほどだった。空席はほんの僅かしかない。


「けれども……これは」


 こくりとモリアが固唾をのむ。強い違和感が胸のうちで膨らみ続けている。聴けば聴くほど、その歌声がすさまじい力に満ちていればいるほど、記憶のなかの歌姫の声とかいしていく。彼女の歌はこんなふうにまがまがしくはなかった。


「すさまじい魂を感じますねえ。ですがこれはあのおんなの魂じゃない。借り物だ」


 劇は佳境を迎え、リュンヌの歌が最高潮に達する。リュンヌの演じる美しき皇妃が皇帝陛下に向かって囁きかける場面だ。

 ああ、なにを恐れておられるのでしょうか。かぎられた刻ならば、咲き誇らねば薔薇ではあらぬ。繁みで薔薇が映えぬとあらば、枝を落とし葉をちぎり、他のつぼみはことごとく散らしてしまえばよい──

 リュンヌは苛烈な台詞せりふを演奏に乗せて、紡ぐ。聴衆の喉を締めあげるように。歌のみならず、舞台の端から端まで走りまわりながらの鬼気迫る演技も素晴らしかった。

 さあ、父を殺し兄を殺し弟を殺して、妨げになれば妻たるわたくしさえも殺すがよい。咲き誇れ、薔薇のなかの薔薇よ。いつか、散り逝く季節が循るとしても──

 ぼうと、リュンヌの胸許に妖しげな光がともった。胸──いや、首飾りだ。血潮が滲むように首飾りが真紅を帯びる。

 前触れもなく、貴族たちがいっせいに席から腰をあげた。


「様子がおかしいわ……これはいったい」


 観客たちはみな一様に視線がさだまらず、横から覗きこめば瞳の底に禍々しくよどんだ赤が沈殿していた。術に操られている証拠だ。総立ちになった彼らは喝采する。妾妃万歳、従わぬものは殺してしまえ──と。


「いけないわ、……シヤン!」

「はいはい」


 モリアの呼び掛けにシヤンが腕を掲げた。頭上を指す指のさきに風が集まり、劇場のなかに吹き荒れる。シャンデリアや壁の燭台に燈されたろうそくが搔き消えた。強い風がしんちゆう製の燭台を薙ぎ倒し、なにかが割れるような音があがる。

 その音が歌声をいったん遠ざけた。

 正気にかえった観客たちはいったい何事かときようぜんとなった。それは歌姫もおなじだ。歌がとまったことでどうやら演出ではなく異常事態が起こっているのだと気がつき、貴族たちは我さきに劇場から逃げだした。玄関に殺到する人の群とは真逆に、モリアだけが舞台に向かって進み、二階から身を躍らせた。シヤンの施した風の術が華奢な娘の身体を抱きつつみ、モリアはふわりと舞台の上に着地する。


「ごめんなさい、せっかくの演劇を邪魔してしまって」


 動揺し、かといって舞台からおりるわけにもいかずに取り残されていたリュンヌが戸惑いながら振りかえる。独唱の最中だったので、他に演者はいない。

 ぱちんと、何処かで指を弾く音が響いて、舞台の縁にならべられた蠟燭に火が燈された。暗闇に喪服をきた娘の姿が浮かびあがる。


「その首飾りを渡してちょうだい」


 モリアの登場にリュンヌ妾妃は狼狽うろたえていたが、首飾りを指差されてはっと息をのむ。首飾りの珊瑚を握り締めて、彼女は果敢に睨みつけてきた。


「っ……いやよ、これはアタクシのものよ」

「それには、人が決してもちいてはならない呪いの術が掛けられているのよ」


 知らなければいいと思った。その首飾りに如何なる術がこめられ、どれほど悲劇をひき起こしてきたのか。リュンヌが知らずに歌っていたのであればまだ救いがあったのに。


「いったはずですわ」


 リュンヌは真紅の唇をいびつにつりあげ、言い放った。


「望みをかなえてくれるのならば、それが天使であろうと悪魔であろうと、アタクシはいっこうに構わなくてよ!」


 モリアはこみあげてきた落胆に一瞬、言葉を失った。だがすぐに視線をあげ、歌姫を見据える。この程度の失望で項垂れる彼女ではなかった。


「アナタこそなぜ、この首飾りのことがおわかりになったの」

「お察しのとおり、わたしは異端なの。こうした術には詳しいのよ。後は……そうね、デュボア伯爵が教えてくださったわ」

「デュボア伯爵? ひと月前に逝去なされたはずよ」

「だからこそよ。死者はうそをつかないわ。彼は妻と娘を殺め、みずからも命を絶った。他でもないあなたの歌に操られ、愛する家族を殺すという凶行におよんだのよ。彼は教えてくれたわ。これまで歌に殺された貴族は、かねてから妾妃に敵意をもっていたものばかりだと。歌に魅了され、妾妃に従属した貴族は死を免れた──あなたはこの宮殿を裏から支配し、配下となる貴族だけでかためるつもりだった。違うかしら」


 袖から取りだした金釦を舞台上に転がす。蠟燭のあかりをはねて、デュボア伯爵家の紋章がぎらぎらと鈍く輝いた。許すものかと死者の眼光が映る。それでもリュンヌはひくりと喉を震わせただけで、ひるまなかった。


「殺さなければ殺され、偽らなければ騙される──それがこの宮殿のおきてだと、他でもないデュボア伯爵のご夫人が仰っておいででしたわ。操られたというのならば、操られるほうが悪いのではなくて?」


 リュンヌ妾妃は金釦を睨みつけながら、吐き棄てた。

 そう長くはない沈黙を経て、睨みあいに疲れてしまったようにモリアがすうとまなじりをゆるませた。声は張らず、細くため息を溢すように訴えかける。


「ほんとうに、変わってしまわれたのね。町角で歌っていた頃のあなたはこころから歌を愛していた。現実がどれだけつらくとも胸を張って、晴れやかに歌っていた。そんなあなたの歌だから、わたしはこころを打たれたのよ」

「やめてよ、昔のことなんか……。あの頃とは違うのよ、なにもかもが違うのだから」


 拒絶を繰りかえすのは彼女が昔をまだ忘れ去ってはいないからだ。美しい追想を美しいままに残しておきたいからだ。


「人を操り、殺しあわせて、あげくのはてに愛していた歌をおとしめて──そうまでして権力が欲しいの。貴族を服従させたいの。王に寵愛されたいの……なぜ」

「なぜ、なぜですって!」


 耳を塞いでいたリュンヌがかっと眼を剝いて、声を荒げた。


「どうして変わったのか……変わらなければ、生きてはいけなかったからよ!」


 彼女は頰を搔きむしりながらかんばしった絶叫をあげた。厚くぬり重ねられた化粧がひび割れる。だがモリアにはわかった。

 これは悲鳴だ。絶望に身のうちを焼かれ、喘ぐ女のどうこくだった。

 かちんと、何処かで時計の針が振れた。続けて廻転琴オルゴールめいた調べが聴こえはじめた。

 いったい何処からと捜せば、シヤンの所有物であるはずのテンプス・フギトの時計がモリアの靴の側に転がされていた。その音を聴いた途端にリュンヌがふうと、魂でも抜けたように気絶する。舞台に横たわったリュンヌの胸からしゅるしゅると細い光が溢れだした。黄琥珀の輝きを帯びた光は異境の詞のような紋様を編みあげて帯となり、劇場を満たす。

 劇場の壁に投映されたそれらの表に映像が流れだした。

 細かな雪の降り続くパリの街角。こころ細げに肩を落としていた幼い少女に誰かが声を掛けてきた。青い喪服の娘だ。薄い紅の唇が動いて、素晴らしい歌声だったわ、と象る。疑いようもなく、あの真冬の晩のできごとだ。


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