ヴェルサイユ宮殿の魔女は歌う AD1756‐1773 Paris(6)


 燃えつきた夕雲を残して、空は端からぼんやりと青みがかったしろはなだに暮れはじめていた。夏の夕の色だ。宵闇の気配を漂わせた風が白薔薇のしげみを吹き渡る。

 王宮劇場に向かおうと庭園を歩いていたふたりは、華やかな後ろ姿を見掛けた。白で統一された庭に咲き誇る紅薔薇のような──リュンヌ妾妃だ。彼女は側に幼い子どもを連れていた。齢は五歳ほどだろうか。幼い頃のリュンヌの赤毛とよく似た赤褐色の髪をした、利発そうな男の子だった。驚きつつもなにかを察したモリアは、シヤンの上着のすそを引っ張って薔薇の木陰に身を隠す。

 リュンヌは子どもと手を繫ぎ、庭を散策している。子どもは嬉しそうに終始喋りつづけていた。窓に啄木鳥きつつきがきた、午後のお菓子がとってもおいしかった──幼い声で紡がれるできごとは他愛のないことばかりだが、リュンヌはそのあどけない話にひとつひとつ頷き、雲雀ひばりの歌でも聴くようにうっとりと瞳を細めている。「おかあさま」と呼び掛けられるだけでも、こころの底から幸せそうに笑みを溢すリュンヌは紛れもない母親の面差しをしていた。ちようちようを指差して男の子は楽しげにはしゃいでいたが、ふっと晴れ空が搔き曇るようにいまにも泣きだしそうな顔になる。なにか彼を悲しませることがあったのかと、リュンヌは側にしゃがんでなだめるように頰に触れた。


「ああ、なにかつらいことがあったのね、ソレイユ。嫌なことをされたりこわいことがあったら、いつでもこの母に教えてちょうだい。かならずなんとかしてあげますからね」

「ぼくは……だいじょうぶです。それよりもかあさまのほうが、なんだかおつらそうで……また、だれかにいじめられているんじゃないかと……ぼくは」


 最後までいわせずに、リュンヌは幼い我が子を強く抱き締めた。


「お母様はだいじょうぶよ。アナタが幸せでいてくれれば」


 嵐の前触れのように強くなってきた風が薔薇を搔きみだす。ちぎれたはなびらが季節はずれの地吹雪のように舞いあがった。


「アナタの幸福がアタシのたったひとつの願いよ。他に欲しいものなんてないの。ずっとずっと、護ってあげるからね。アナタを不幸にするあらゆるものから。アナタを傷つけるものから。お母様がかならずアナタを護るわ」


 白薔薇の額に縁どられたそれは、著名たる画家の絵画にも勝る。

 愛が溢れる、美しい風景だった。


「こどもが、できたのね」


 モリアが胸を打たれたようにつぶやいた。

 小さな歌姫はモリアのなかではずっと幼いままだった。おとなになった姿をみて、時が経ったのだと頭では理解していても、気持ちはそう切り替えられるものではない。けれどもいま、すとんと胸のうちに落ちてくるものがあった。──そうか、彼女は。


「自身の子どもの頃でも重ねているんですか、姫様」

「いいえ、そういうわけでは……ない、けれど」


 薔薇のあいまから覗けば、リュンヌは子どものまるい額に接吻を落として「歌劇が終わったらまたとぎばなしでも読み聴かせてあげましょうね、約束よ」とあやしていた。彼女は何処までも母親だった。たったひとりの息子に母の愛を惜しみなくそそいでいる。

 それはモリアがすでに喪ったものだ。母親も父親も娘であるモリアを遺して、逝ってしまった。還らない愛を想うと、季節はずれの北風が額をかすめていくような心地になる。どれほど腕を差し伸べても、風の輪郭には触れられない。


「そうね、きっと……一瞬だけ、重ねていたわ」


 リュンヌの後ろ姿が遠ざかってから、モリアは観念したようにつぶやいた。


「でもわたしの母様は、あんなふうに母親らしくはなかったわ。もっときびしかった」


 目蓋にいまでも焼きついているのはひと振りの剣を掲げて戦いに赴く、気高き女のしなやかな背だ。ひとつに結わえた白藍の髪をちぎれんばかりになびかせ、最前線をかけ抜けて軍に勝利をもたらす戦乙女の如き風姿。彼女は風の術を愛した。風に乗って剣舞を演ずるのみならず、烈風をすさませては敵をたおし、砂嵐を起こしては傷ついたものを衛る砦となった。誰もが彼女の背にはえない翼があると称え、あるいは恐怖した。

 モリアは彼女の実娘であることが心底誇らしかった。だからモリアは母親にあまえることをやめたのだ。その背を追い掛けようとした。


「一緒にお料理をしたことも御伽噺を読んでくれたこともなかったけれど、骸の積みあがる戦線でも生き延びるすべを教えてもらったわ」


 これにはシヤンも驚いたのか、暇つぶしに薔薇をちぎろうとしていた指をとめて振りかえった。ふたりはずいぶんと行動をともにしているが、互いに知らないことのほうが多い。まして理解には程遠かった。


「矢のしのぎかたに剣の避けかたからはじまって、敵が大群だったらどうするのか、術師だったらどう術をはねかえすのか──戦が終わった後、兵隊の骸をとむらうときにどんなふうに祈ればいいのかもぜんぶ」


 いつだったか、辻馬車の馭者に戦場にいた経験があるといったのは、この、時間を渡る旅の途上での話ではない。彼女がただの娘であった頃のことだ。その胸でまだ心臓が動いていたときの。


「はじめて戦線に赴いたのは八歳だったわ。その頃から術は扱えたけれど、訓練どおりに戦うなんてできずに、ただ震えながら逃げ惑ってた。戦場には死が溢れていたわ。ひとつ音があがる度に誰かが命を落とすの。骸ばかりが増えていって。ああ、死とはこんなにもすぐ側にあるものなのかとおもったわ」


 愛する父親も母親も、自身さえもいつかはこんなふうに動かなくなるのだ。朽ちて、骨になる。それは、幼い娘にとって、たまらなくおそろしいことだった。


「母様は仰ったわ。死を畏れなさい。けれども決して怯えてはならない。死に怯え、死を憎めば、それはかならずあなたの敵になるから──と」


 黄金の瞳が僅かに潤んだのは、暮れかけた日のせいだけではなかった。還れない昔日にたいする悲しみといとしさがいまぜになり、瞳のなかで星漢のように渦巻いた。


「母様は強い御方だった。憧れていたの、とても」


 いまはもう追いかけることもできない背を、それでも何処かに捜すようにモリアは視線を漂わせ、暮れゆく空を仰いだ。ゆうづつが瞬きはじめた日暮れの果敢ない青さは、母親の背に拡がった髪の青とよく似ている。


「ふうん、俺にはわかりませんけど、ありふれた母親というやつとはちょっとばかり、いえ。ずいぶんと違うみたいですね。ただでさえにんげんは刺されたり斬られたり落ちたり潰れたりしただけでもかんたんに死ぬじゃないですか。母親というのはふつう、殺されかねないようなところにガキを連れていきたがらないものなんじゃないですかね」

「そうね、そうだと思うわ。それでも、殺されることよりもむごいことがあるのよ。悲しいけれど。あなたは知っているでしょう?」


 モリアは微苦笑する。月が満ち欠けするかの如く彼女の瞳は静かにたゆたっていた。最後にもう一度、幸福な時間のざんをかみ締めるように繰りかえす。


「わたしは母様と父様を愛していたし、わたしもまた、愛されていたのよ」

「ふうん、愛、ねえ」


 やはり理解できないと、青い双眸が細められた。

 それでも構わないとモリアはくるりと喪服のすそをひるがえして、歩きだす。

 青い靴のつまさきが風に散らされた薔薇を踏む。散ってしまったはなびらは咲きもどらない。たとえそれが咲き誇っていたときとおなじく、あまやかな香りをとどめていても。もとの薔薇のかたちを取りもどすことはないのだ、永遠に。

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