ヴェルサイユ宮殿の魔女は歌う AD1756‐1773 Paris(5)



 黄金を融かしたような夕映えが宮殿のなかに満ちていた。

 ここはヴェルサイユ宮殿のなかでも最も美しいとたたえられる鏡の回廊だ。

 アーチ型の窓から差しこむ斜陽が壁一面に張らされた鏡により拡散され、回廊の隅から隅までさんぜんと映え渡る。贅のかぎりをつくして施された黄金の装飾がいっそうまばゆく輝きを放った。鏡は十八世紀においては極めて高級な品であり、五百七十八枚もの鏡がしつらえられたこの回廊はまさしくフランスの覇権を誇示する、ヴェルサイユ宮殿の象徴たる広間でもある。

 栄華の光に満ちた廊下に靴の調べを響かせながら、モリアがぽつりといった。


「あそこまで拒絶されるとはおもわなかった」


 モリアはリュンヌのもとを再度訪れ、歌劇を観にいきたいと頼んだ。

 だがすげなく断られてしまった。あなたの歌が聴きたいと言葉にした瞬間、リュンヌは傷ついた子どものような眼をした。けれどそれはすぐに凍りいたような微笑で取り繕われ「残念ですけれど席が埋まっておりますの」とにべもなく断られた。その後はなかば追い払われるようにして締めだされてしまった。


「わたしにだけは、聴かれたくないといわんばかりだったわ」


 磨きぬかれた鏡に華奢な娘の姿が映る。どれだけの時を渡ろうとも移りかわることのない背格好。言い知れぬ哀愁を漂わせた瞳はそれでもなお美しく透きとおっていた。


「あらゆるものが移ろっていくものなのね」


 小さな歌姫は変わってしまった。歌姫自身もそれを理解している。

 鏡のはざまを歩き続けるモリアの背後には、延びた影のようにしてシヤンがつき従っていた。光が氾濫する回廊のただなかにあって、彼だけが昏い。光が強いほどに影が際だつからなのか。


「そうですかね。人なんか、どれだけ時が経っても進歩のない愚かなものだと思いますけど?」

「ええ……それもまた、誤りではないわね」


 移ろいながらも、人は繰りかえす。愛を、憎しみを、幸と不幸を。

 それが他ならぬ人のさがだ。


「悲しいけれど」


 ため息をつきながら、モリアは豪華なシャンデリアのさがる筒型の穹窿ヴオールトを振り仰ぐ。拡がるは神のその。黄金に縁どられた天井画は神話を象ったものに見えるが、その実、現在の王権が神に授けられたものだと民衆に説くぐう画である。しかしながらどれほど栄華を極めようとも、滅びないものなどはない。後のふつせんそうでフランスが大敗を喫しヴェルサイユ宮殿がドイツ帝国に奪われることを、モリアはすでに知っている。ドイツ帝国皇帝の戴冠式がまさにこの鏡の回廊で挙げられることもまた。


「それにしても腹が減りましたね。なまじ満たされない喰いものを貪ったせいもありますけど。この宮殿は死のにおいが強い。魂のかけらがあっちこっちに吹きまっていますよ。ちょっとばかりつまみにいっても」

「だめよ、許さないわ」


 ぴしゃりとモリアが𠮟りとばす。


「亡霊にもならない、かすみたいな魂ばっかりですよ?」

「とどまっているのがほんのひとかけらにすぎなくとも、魂は魂だわ。人にとってはかけがえのないものなのよ」

「そうはいわれても、俺にとってはただの喰い物ですからねえ」


 かたちのいい唇の端をいびつにつりあげて、彼は悪びれもなく笑った。

 モリアはきゅうと瞳をとがらせ、みずからの従者に向かって踏みだす。その身を差しだすようでありながら、何処までも誇りたかく。


「約束は違えないで。どれだけ飢えても、あなたが喰らっていいのはわたしだけよ」


 脈動のない胸にてのひらを添えて、彼女は言いきった。

 従者の貌にすうと影が差す。水晶を彫りあげたような微笑が昏く陰り、群青の双眸だけがぼうと浮かびあがった。夕焼けの侵入を許さぬ青。あの青がふわりと死の馨りを漂わせる度にモリアは、理解よりも果敢なく、想わずにはいられない。

 ああ、彼は──死神だと。

 綺麗につりあがった青を細めて、彼は微笑をいっそうに深めた。


「そうでした、ええ、確かに約束しましたね」


 呪いのように死へと誘うもの、あるいは祝福の如く死を施すものである。されども彼は死神ではあっても、神ではない。だからといって悪魔に類するものでもないのだ。死がどちらの所轄でもないように。


「確かにあんたはうまい。最上級の魂だ。俺の飢えを満たしてくれます、が……むやみに喰らってあんたの魂がついえたらこまりますからね。いまは喰わずにおきますよ」


 彼は典雅な、まさにおとぎばなしの騎士が姫にかしずくような身振りで跪く。なにもかもを超越したところから娘のありようをへいげいするようだったさきほどとは違って、娘を敬い、仰いでくる群青の双眸。

 モリアは静かに睫毛をふせて視線を重ねた。


「そうね、……まだ。けれどもいつか、わたしが望みを遂げてこの旅が終わったら、そのときはぜんぶ、あなたにあげるわ」


 この魂をあますところなく。

 その誓いにこたえるようにシヤンが娘の脚を取って、靴を脱がす。死を踏みしだく青い靴を横においてから、彼は清らかな足の表に接吻を落とした。騎士を想わせるそれらの所作からは想像もつかないほどに乱暴な。なかばかみつくようなくちづけだった。けれどもそれは他ならぬ隷属の証だ。

 つまさきに唇を寄せたままで彼は娘に囁きかける。こみあげる愉悦をかみ殺すように。


「この契約があるかぎり、俺は貴女の従僕ですよ。せいぜいうまく俺をつかって、最後まで楽しませてくださいねえ?」





 翌日、ふたりはあらためて宮殿を巡り貴族や庭師などに話しかけ、例の事件の調査を続けた。おおよそはあの死者がいっていたとおりだった。

 事件はかならず歌劇があったその晩に起こる。

 殺人を犯すのはかねてからリュンヌ妾妃を敵視していたものばかりだ。他の貴族たちは熱烈に妾妃を褒め称え、後援していた。そもそも貴族に遇えたのも、リュンヌに貢ぎ物を贈りたい貴族が廊下に列をなしていたからだ。庭園にも鏡の回廊にも貴族の姿はなかったというのに、妾妃の私室を訪ねる貴族の列は庭にまで続いていた。異様だ。妾妃の話題を振ると老いも若きも顔を紅潮させ、過剰に熱がこもる。歌姫として愛されているという段階ではない。信仰にも等しかった。

 死者の落とした金釦がデュボア伯爵のものであることがわかったのが唯一の収穫だ。

 廊下を抜け、戦争の間に差し掛かったところでヴァニタスがかけ寄ってきた。


「よかった。捜していたんだよ」


 晴れやかに笑いかけられて、モリアはヴァニタスの背に一瞬、青空を視た。彼の瞳にも髪にも青は含まれていないのに。人の印象とは単純にその者が身に帯びた色だけで決まるものではないのだ。双眸に青を湛えたシヤンからは、ひと度たりとも青空など幻視したことはないというのに。


「なんでも妾妃から歌劇のチケットをもらえなかったそうじゃないか。かくいう、僕も門前払いだったのだけれどね。だが思いやりのある人がチケットを譲ってくれたんだ。ほら、ちょうど今晩の席だよ」

「え……いただいてもいいんですか」

「もちろん。君に受け取ってもらいたくてゆすり……じゃない、説得を試みたんだからね。まあ、そもそも人を殺しあわせるような呪いの歌劇だ。彼はチケットを僕に渡すことで命拾いしたわけだ。君も人助けをしたんだと考えたらいいんじゃないかな」


 二枚のチケットを差しだされ、モリアは申し訳なさげに受け取る。


れいになにか」

「そうだね、それじゃでも」


 ヴァニタスがいたずらめかしていうと、シヤンを取りまく空気が凍りついたように鋭くなった。


「っと……さすがに従者さんに怒られそうだからやめておこうかな」


 降参するように腕をあげ、彼はあらためてまじまじとモリアとシヤンを眺めまわす。


「それにしても──失礼を承知でいうけれど、弱い術師に彼ほど強力な術師がつかえているというのはめずらしい取りあわせだね」


 弱いとはモリアのことだ。悪意はないとはいえ明らかに侮られているわけだが、モリアは眉すら動かさず穏やかに頷いた。


「彼は、君のことを姫様というよね」

「愛称のようなものです」


 ついでにシヤンなりの嫌がらせだとモリアは思った。彼女の古傷を抉り続けるための。


「生まれついた身分の差かな。それとも懇ろな関係だとか」


 続柄か。それとも恋愛関係なのかと訊ねられて、モリアが喋るよりもさきにシヤンが問いかえしていた。


「懇ろねぇ……ああ、にんげんの好きな、愛というやつですか」

「そうだね、そういう意に捉えてもらってもいい。君は彼女を愛しているのかい?」


 モリアが思わず、みずからの従者を振りかえった。

 彼に愛はわからない。

 まして人のいう恋の類など。

 シヤンは暫し考えこんでいたが、理解できないものについて思案することに飽きたのか、面倒そうに肩をすぼめた。


「さあ、たぶん、違うでしょうねえ」


 ヴァニタスがぱっと目を輝かせる。


「そうかそうか、だったら僕にもまだ望みはあるということだね!」


 満足げに頷き、それじゃあ幸運を祈るよと、彼は風のように何処かにいってしまった。騒々しく賑やかな彼の調子にまったくついていけず、モリアとシヤンは荘厳美麗な戦争の間に取り残される。

 フランスの勝利を表すバロック調の彫刻がいたるところに施され、大理石の壁に飾られた武具を象った青銅装飾から花の鎖に縛られた人々の像にまで惜しげもなく金箔が貼られている。彫刻に塞がれた暖炉の側には連綿と続くフランスの歴史が記されていた。馬に跨って敵を踏み散らすルイ14世の肖像を振り仰いで、モリアは黄金にくらんだように睫毛をふせる。

 表が華々しければ華々しいほどに、その裏にある陰りを想わずにはいられない。悪意と欲望とかんさくと、せきばくと。

 モリアは確かめるように歌劇のチケットを撫でた。これで歌劇でなにが起こっているのかがわかる。けれどもこんなかたちであの小さな歌姫の歌を再びに聴くことになるなんて──と、モリアはひそかに眉を曇らせた。


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