ヴェルサイユ宮殿の魔女は歌う AD1756‐1773 Paris(4)




 ロカイユ風の優雅な装飾が施された客室は何処をみてもきらびやかで、どうにも落ちつかなかった。椅子の背もたれにさえ象牙やさんめこまれている。縁に黄金の林檎がついた奇抜な鏡には潜考するモリアの横顔が映っていた。


「取り敢えずは、いまの段階でわかっていることを整理しましょう。──ヴェルサイユ宮殿に暮らす貴族たちが立て続けに一族殺しという重罪を犯し、その直後にみずからも命を絶っている。死者の証言によれば、彼はリュンヌ妾妃の歌劇を聴いてからなにかに操られるように家族を殺害した」

「つまり、歌劇場のなかでなにかが起こっているということですね」


 立ったままで、椅子の背に頰づえをついていたシヤンが相づちを打つ。


「なんらかの術が事件に係わっていることはまちがいないわね。けれども人を意のままに操り、まして殺害に踏みきらせるほどに強い術というのは聞いたことがないわ。人に人を殺させるというのは意識の最深部まで支配しないとできないことだもの」


 術、術師──そうしたものはすでに遠きいにしえの遺物だった。根絶はしておらずとも衰退して幾ばくが経つ。十五世紀にキリスト教が隆盛を誇るようになってから術師は魔女、異端信仰、背教者などの曖昧な言葉に取って代わられた。他の土着信仰と同一に扱われ、あるいは違いをつけないことで史実から抹消するように徹底して排除されたのだ。


こんがいでしょうねぇ。それもよほどに強い、それはそう貴女の父親くらいの」


 モリアは黙って、目線だけで頷いた。

 いずれにしても、だ。鼓膜に甦るのはあの雪の晩、うらぶれたパリの町角に響いていた無垢な歌声だ。綺麗だった。綺麗だったのだ。されど彼女の歌が他者を呪い殺すためのものになりさがったのだとすれば──。


「真意を確かめるわ。誰かに強制されたのであれば、かならず助ける。けれども彼女がみずからの意志で歌を呪詛としたのならば──めなければ」


 歌をこころから愛していたかつての彼女ならば、こんなふうに歌をぼうとくするようなことはしなかったはずだ。けれどもリュンヌは、変わってしまった。

 彼女はもう、あのときの小さな歌姫ではない。妾妃だ。

 モリアは豪華な家具や調度品に視線を移す。どれもこれも美しいが、これらはおそらく美しいからここに飾られているのではない。薔薇でさえ、そうだ。それらが権力や富の証であるから、集められ、重宝されているのだ。


「それほどまでに権力や富というものはあまいのかしら。人をあやめてでも欲さずにはいられないくらいに」

「にんげんは強欲ですからねえ」


 唇の端をひき裂くようにつりあげて、シヤンは人の業を嘲笑った。


「如何ほどの巨富を築きあげ、幾千幾万の民や領地を支配しても、もっともっとと際限なく欲しがる。底の抜けた杯のようなものですよ。いくらそそいでも充ちるを知らず、底から溢れだしていることにも気づかない。そのうちに罅が入って、ぱっくりと割れるまではね」


 細められた双眸の隙から覗く群青。調ととのいすぎてすごみすら漂わせる美貌に、背筋が凍るような酷薄さを滲ませて、彼は悪辣にわらった。


「ほんと、にんげんって愚かですよねえ。だから戦争が終わらないんですよ」


 人に欲望があるかぎり、血は流れ続ける。剣に銃に、原子爆弾に核弾頭、あるいは術と。戦いのありようを時代ごとに変えながら。


「へえ、歌姫の歌とはそんなにまがまがしいものだったのか」


 不意に窓の外側から声を掛けられて、モリアが驚いて振りかえる。


「せっかく東欧からはるばるヴェルサイユ宮殿まできたんだ。フランスで最も美しい歌声をもつ歌姫の歌劇も楽しみにしていたんだけどな」


 窓に人影が映っていた。赤紫がかったカソック風のコートが風にひるがえる。

 今度は死者ではない。それなのに気配がなかった。モリアだけではなくシヤンも驚きを隠せずにいる。まさか他人に盗聴されているとは──いや、それよりもまず。


「ここは三階……なのだけれど」

「ははは、窓枠にしがみついているのもそろそろきついんでね、できれば部屋にいれてくれると助かるかな」


 窓にへばりついていた貴公子がさわやかに笑いかけてきた。





 彼はヴァニタス゠ヴァニタートゥムと名乗った。東欧の錬金術師だそうだ。


「それでは、あなたがこのヴェルサイユ宮殿に招かれた本物のお客様だったのですね。ごめんなさい。何度おびしてもたりないわ」


 大陸の北東から渡ってきた錬金術師を詐称して宮殿に侵入していたモリアは、大変な迷惑をかけてしまったと良心のしやくに身を縮ませた。潜入に関する作戦はシヤンに任せていたのだが、彼の常識はずれの言動を日頃からみていれば、こうした事態になることは予測できたはずなのに。


「まあまあ、頭をあげてくれよ。なにか、やむにやまれぬ訳があったのだろう? こんなに可愛らしいお嬢さんにあやまらせて許さないなんて紳士の名折れだからね」


 ヴァニタスは夏の日差しが似合うからりとした笑いかたで、モリアをなだめた。

 曇りのない金髪に搾ったばかりの赤どうしゆを想わせる紫の双眸がぱっと映える、晴れやかな美男だった。神父服を模したような紫のコートを羽織り、護身のためか、背にはふたまたやりを携えている。


「それはそうと、君らはまつえいかい」

「まあ、そんなところですかねえ」


 あっさりと肯定してしまったシヤンをとがめるようにモリアがきりと睨みつけた。そもそも他人に迷惑をかけたこともまだ許してはいないのに、シヤンはさきほどからずっと暇そうにモリアの椅子の背に肘をついてもたれている。モリアが従者を𠮟る前にヴァニタスが横から割りこんできた。


「はは、そうだね、警戒するに越したことはないよ。十六世紀頃にくらべたら衰退してきたとはいえ、いまだに教会による異端審問は続いているのだからね。まあ、けれども僕には素性を隠さずともだいじょうぶだよ」


 さつそうと英雄が名乗りでもあげるように、彼はいった。


「かくいう、僕も術師の末裔だからね」


 魔女狩りの嵐を経て、十八世紀に差し掛かってもまだ、術師の一族がひそやかに血脈を繫いでいることはモリアも聞き及んでいた。だがそのほとんどが術師の血裔であることを放棄して常人の群に紛れるか、社会との係わりを断ちいんとんしていた。彼のように連綿とその血脈を受け継いでいるものはめずらしい。


「疑っているのかな。それじゃあ証拠をみせようか」


 ヴァニタスは椅子から腰をあげ、赤紫のコートをひるがえすように拡げた。コートの裏地には様々なものが縫いつけられている。硝子製の小瓶に革袋、ひもで束ねられた植物の根。そこからひとつ、ふたつと取り集めては手に載せ、最後に小枝をぽきんと折った。

 てのひらから細い火があがった。火は瞬きのうちに小さな竜のかたちになって舞いあがる。物に燃え移ることのない黄金の火の粉を散らしながら、竜はシャンデリアのまわりを旋回する。

 モリアは思わず、すごいと歓声をあげた。よほどに優れた術師でなければ、ここまで巧みに火を操ることはできない。ヴァニタスが指を弾けば竜は途端に散り散りになって燃えつきた。


「どうだい、信じてもらえたかな」

「素晴らしいです。媒体はまんじゆしやの枝に蜥蜴とかげの欠伸、蛇の尾羽根でしょうか」


 術の基は魂である。心臓から送りだされた血液が動脈を通って身体の隅々にまでいき渡るように、魂もまた人間の身のうちを巡っている。をもちいて、絶えず体内を流動する魂をもとに集め、想うかたちに発揮するというのが術のおおよその仕組みだ。

 逆にいうと、どれだけ上級の術が扱えても、媒体がなければ術師は無力だ。希少な媒体を得るには多額の財が要る。加えて、魂というものは消耗する。つかいすぎれば徐々に衰えていき、寿命すら削ることになる。よって術師は権力者につかえることで、その地位を維持してきた。

 だがそれも昔の話だ。ある大規模な戦争を境に術師は没落する。地位を剝奪され、迫害を受けるようになり、教会が新たに異端審問所を設けてからは術師の一族だというだけで処刑されるまでになった。魔女狩りの激化の発端はその戦争にある。


「いまの時代に、これだけの媒体を揃えるのは非常に難しいのではありませんか」

「表ではね。何処にでも裏のルートというものがあるんだよ」


 そういってヴァニタスはコートの裏地を指で弾いた。


「こちらも証拠をお見せしたほうがよいですね」


 モリアがシヤンに命じようとする。だがヴァニタスはそれには及ばないといった。媒体の種類がわかっただけでも有識の術師であることは明らかだからと。


「リュンヌ妾妃は不老の薬を──と仰っておいででしたが、そのようなものがほんとうにあるのですか」

「健康を促進する術を多少施してはいるが、ただの漢方薬さ。内緒だよ? 僕らみたいな末裔は錬金術師などと称して医薬を造ったり予言をしたりして、細々と生き延びているんだよ。教会に疑われようものならば火刑に処されてしまうからね」


 術師にたいする迫害はまったくひどいものだからねとヴァニタスは遠くに視線を投げる。彼は二十歳から二十二歳ほどの外見だが、異端者の血裔として苦しい経験を重ねてきたのだろうと、モリアは推察する。


「それにしても呪いの歌か。僕をかたってまで宮殿に入りこんだ君たちの目当てはそれだったのかな」

「許されざる行為だとは思います。人を操り、殺しあわせるだなんて」


 敢えて肯定も否定もせずに流そうとする。この事件の要にが係わっているのならば、他の術師には関与されたくない。だがヴァニタスはごまかされてはくれなかった。


──と聞こえたけれどね」


 モリアが動揺し、黄金の瞳を見張った。聞かれているとはおもわなかった。その様子をみて、今度はヴァニタスがふうんと呻る。


「図星なのか。驚いたな。噂には聞いていたが、まさかほんとうにあるとはね」


 顎に指をあて、彼は考えを巡らせるように双眸を細めた。


「魂骸か。術師最大の禁呪だ」


 モリアが一瞬だけ唇をかみ締めてから、なるべく淡々と聞こえるようにいう。


「ええ。魂をもちいて事象を操り、現実と幻想の境を曖昧にぼやかせて踏み越え、あらゆる不可能を可能にする。そんな術師のえいと異能をもってしても、決して犯してはならない理──それが、魂骸にまつわる禁です」


 媒体が身に備わった魂を最大限にひきだし集めるものならば、魂骸はそれそのものに魂が宿っている。魂骸があれば術師の才能如何いかんを問わず、魂を削ることもなく強大な術を発動させることができる。

 しかしながらそれは、許されざる術だ。なぜならば──。


「魂骸とは術師の骸と死後の魂から造られるものですから」


 魂と命にたいする冒瀆の最たるものである。

 不敵にして美しい微笑もいまはなりをひそめ、痛みを堪えるような面差しでモリアは語る。憎しみとも悲しみともつかない激情が、その微かに震えた声の端から滲んでいた。ただならぬ事情があると察してか、ヴァニタスが真剣な表情になる。


「ふむ、なるほどね、君は魂骸を捜しているのか……どういった経緯で、かな」


 紫の双眸に鋭いさいがよぎる。


「魂骸は単純に、魂を消耗せずに術を発動できるというだけではなく、そこらの術師では扱えないような高等な術を宿していることもある。物によっては、たった一晩で王国をひとつほろぼせるほどの力があるそうじゃないか。きわめて危険な代物だ。悪い術師の手に渡れば、戦争にもなりかねない」


 指の先端で机の表を叩きながら、彼はモリアに問い質す。


「君はなぜ、魂骸を欲するんだい」


 モリアがすっと音もなく椅子から立ちあがった。

 喪服のすそをつまみ、彼女は脈絡もなく辞儀をする。しな垂れた髪のさきがウィルトン織のじゆうたんにつくぎりぎりを漂った。綺麗に腰を折り頭をさげてから、彼女はいぶかしげな視線をそそいでくるヴァニタスとあらためて向かいあった。


「わたしが欲しているものは魂骸であって、魂骸ではありません。わたしが捜しているのはただ、愛する父親の骸です」


 ヴァニタスはその言葉を受けて、いまのモリアの辞儀が哀悼の意を表すものであったことを察したようだ。彼女はそうすることで他意がないことを表明したのだ。


「わたしの父は死後望まずして魂骸とされました。葬りたいのです、敬愛する父のなきがらを。ですからお願いします。引き続き宮殿の調査をさせていただけませんか」


 ヴァニタスは真意を見極めるようにモリアの瞳を見続けていたが、偽りではないと理解したのか、ふっと頰を緩めた。


「わかった。君は、善い術師のようだね」


 冗談めかして笑い、彼は続ける。


「僕のことを遅れてきた連れの客人だと妾妃に釈明してくれるのだったら、力を貸そうじゃないか。君だって薬もなしに妾妃をだましとおすのは難しいだろう」

「ありがとうございます」


 誤解を免れて、強張っていた娘の唇にも柔らかな微笑が戻ってきた。


「こうみえてもフランスにはいくつか裏の人脈をもっているんでね。僕のほうでも調査してみるよ。妾妃が魂骸を所持しているとすれば、そうした物を流す裏のルートがかならずあるはずだ」


 まずは直接歌劇を観にいくのがいいんだろうけれど、さすがにおっかないからなあとヴァニタスは肩を竦めてこまったようにいった。


「歌劇にはわたしたちが参ります。妾妃にお願いしてチケットをいただくつもりです」

「勇敢だね。僕にできることがあったらなんでもいっておくれよ」

「とてもこころ強いですけれど……なぜ、そこまで親身になってくださるのですか」


 父親を葬りたいという娘を、憐れんだというわけではあるまい。ヴァニタスは眉の端をぴんとあげ、いたずらっぽくウィンクをした。


「同朋のよしみもあってね。僕が一族以外の同朋に遇ったのはこれがはじめてなんだ。ましてこんな、せいで愛らしいお嬢さんだなんてね」


 握手を求められてモリアはレース製の手袋を外し、彼の手を取った。しかしながらヴァニタスは彼女の手を握り締めたきり、時間ごと凍りついてしまったように動かなくなる。


「あ、あの、どうかしましたか」


 モリアが困惑していると、くいと強引に腕をひき寄せられた。ヴァニタスは娘の白珊瑚のような指を見つめながら、そこに巡る彼女の魂を確かめるように指を動かす。うつむいているせいか、赤紫の双眸がやけに昏かった。蛇の毒でも垂らしたみたいに。モリアがざわりと微かな胸騒ぎをおぼえたその直後に、彼は手を放した。


「おっと、すまないね。あんまりにも可愛いお嬢さんだから、つい放しがたくてね」


 ヴァニタスは照れくさそうに頰をく。はにかむさまから悪意は感じられず、あの胸騒ぎは気のせいだったのだろうとモリアは考えなおす。

 ヴァニタスがちらりと、モリアの背後に視線をやった。シヤンはさきほどから沈黙を続けている。モリアからは真後ろにいる彼の様子は窺えないが、おおかた話に飽きて居眠りでもしかけているに違いなかった。

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