ヴェルサイユ宮殿の魔女は歌う AD1756‐1773 Paris(3)



 宮殿の庭は誰もが賛嘆するほどに麗しかった。

 夏の薔薇が咲きみだれ、ふくいくたるかおりに満ちている。あちらこちらに泉水があり、なかでも黄金のかえる像にかこまれた女神の噴水はモリアが感嘆を洩らすほどだった。オウィデウスの変身物語を題材とした泉なのだと案内役の侍女が教えてくれた。果たしてどれほどの財を投じたか、どれだけの庭師を雇っているのか、想像もつかない。まさにフランスの富の象徴だ。


「ほんとうに美しいわね」

「そうですかねえ? 虚飾の栄華ですよ。表をきらびやかに飾っていても、裏は欲望と妬みにまみれてどろどろだ」


 シヤンの言いざまにモリアは慌てたが、幸いにもさきを進む侍女の耳には触れなかったようだ。侍女は明らかに浮かれていた。


「妾妃様の御客人をご案内できるなんて。こんなにも名誉なことはございませんわ」


 頰をぽうと紅潮させて、さきほどから悦に浸っている。妾妃に取り入らんとする貴族たちはともかく、宮殿につかえるものたちにまで慕われているというのは意外だった。意外といえばもうひとつ──。


「これだけ美しい庭ですのに、人があまりおられないのですね」


 あたりは静まりかえり、ぽつぽつと庭師が腰をまげてみずきをしているだけだった。


「宮殿は民衆が観覧できるように開放なさっているのではありませんでしたか」

「ええ、普段ならば見物にこられた方々で賑わっているのですけれど。この頃は宮殿がなにかと物騒ですので」


 侍女が視線を逸らして口ごもる。モリアがすかさずいった。


貴族の殺人事件ですね」

「あら、ご存知でしたか」


 隠さなくともよいとわかって安堵したのか、侍女はこそこそといった。


「大きな声では申せませんが、あまりにも異様な猟奇事件でございましょう? 宮殿内に暮らしておられる貴族の旦那様や御子息、果ては奥様までもが、前触れもなく一族をみな殺しにしてご自身も命を絶たれるなんて。それも立て続けに」


 ヴェルサイユ宮殿に昏い影を落としている猟奇事件──貴族が続けざまに血縁者を殺害し自殺するなど、なにかにりつかれてしまったとしか考えられない。きんで死に絶えた民のたたりだのイエズス会の呪いだのといったうわささくそうしていたが、モリアはこの不可解な事件に自身の捜し物が係わっていると予感していた。調査のために賓客になりすまして宮殿内部へと潜入したのであった。


「噂が拡がるにつれて民衆は怖がり、あまり宮殿を訪れなくなって。貴族の方々もやしきに閉じこもってしまわれるように……せっかく薔薇の盛りですのにもったいないですわ」


 夏の日差しにかれながらいっそうあざやかに咲き誇る薔薇を眺め、侍女はため息をついた。あたりには多種多様な品種の薔薇が植えられているが、大輪の赤い薔薇が最もモリアの視線をひいた。艶のある真紅のはなびらはリュンヌの唇を想わせる。あの唇はいまでも歌を奏でるのだろうか。


「リュンヌ妾妃はまだ、歌っておられるのかしら」

「妾妃様の歌劇はほんとうに素晴らしくて、聴いたことのないものなどヴェルサイユ宮殿にはおりませんわ。陛下は彼女のために宮殿のなかに劇場を新設されましたのよ。みな妾妃様の御歌のとりこですわ」


 侍女はうっとりと熱に浮かされたように喋る。


「どなたでも聴きにいけるのですか」

「チケットさえあれば。お客様がこられるとかならず渡されるのですけれど……受け取っておられないのですね。ばたばたとしてしまいましたから、お忘れになられたのかしら」


 侍女が不思議そうに首を傾げた。頭につけられたフリルつきのブリムが揺れる。


「後ほど頼まれては? 明晩も歌劇の公演がありますので、きっと喜んでチケットをくださるはずですわ。お優しい御方ですから」

「リュンヌ妾妃は慕われておいでなのですね」


 モリアが探りをいれるように訊ねれば、侍女はわざわざ振りかえり、何度も頷いた。


「当然ですわ。あんなに素晴らしい御方はいらっしゃいませんもの!」

「ですが彼女は貴族の出身ではありませんから、宮殿にあがるとなればまわりの反感もあったのではなくて」


 機嫌を損ねるだろうとわかっていながらも敢えてそこに触れれば、侍女はやはり頰を紅潮させて怒りだす。


「まあ! 妾妃様の歌を聴けば、誰もがあの御方につくしたくなりますわ。膝を折らずにはいられませんの。そうでないのなら──」


 侍女の眼が一瞬、妖しげな光を帯びた。


「殺されるか、死んでしまえばいいのよ!」


 唾をはきかけるように彼女は叫んだ。

 あまりにも物騒な言動に耳を疑い、モリアがぎょっとする。いくら妾妃を敬愛しているといっても苛烈すぎた。侍女は暫く呼吸を荒げて肩を揺すっていたが、はたと我にかえって口許を押さえた。


「あ、ら……やだわ、品のない。すみません。なぜこんなことをいってしまったのかしら……どうかしているわ。どうかいまのは忘れてください」


 戸惑いながら頭をさげる。モリアが承知しましたというと、侍女は安堵してほおと胸を撫でおろした。




 客室は離れの邸にあった。離れといっても三階建ての豪邸だ。例の植物園のなかに建てられたその建物はロココ調の最高峰ともいえる外観をしていた。可愛らしい飾りの施された小窓に煙のような隻影がよぎったのをみて、モリアが訊ねた。


「他にもお客様がおられるのかしら」

「いいえ、いまはどなたも泊まっておられません。お客様はおふたりだけですよ」

「そうですか。案内はここまでで構いませんよ。ありがとうございました」


 モリアはなにごとかを思案するように視線を動かしてから礼を述べた。侍女は最後まで案内したそうだったが、気まずかったのもあってか、素直にひきさがり客室の鍵を預けてくれた。貝殻のようなせん階段をあがりながら、シヤンがにやにやと喋りかけてきた。


「姫様、気がついていますよね?」

「もちろんよ」


 侍女のひようへん振りは、異様だった。


「あれはに操られている者の眼だわ」


 術──と舌に乗せれば苦く、モリアは細い眉をひそめた。だがそれは、彼女の捜し物と繫がる可能性があがったことをも表す。

 考えを巡らせながら二階の廊下の角をまがったところで、モリアは背筋が凍るような寒気を感じた。視線をあげると、廊下の中程に肥えた男がうつむきがちにたたずんでいた。インドから輸入したであろうさらの、非常に値が張る生地で誂えた部屋着を緩く羽織っており、彼が高位貴族であることを示している。だが植物の文様をなつせんした綿は真っ赤な鮮血に染めあげられていた。

 モリアは一瞬だけ驚き、すぐに理解する。

 さきほど窓に映りこんだのはこの男だ。そして彼は死者だった。異形に変ずるほどに強い執念はないが、虚ろな眼には未練と不条理な死にたいする怒りがあった。彼は声帯を震わせることなく、募らせた遺恨をモリアに訴えかけてきた。


(……そうだ、わがはいは操られたのだよ)


 死者の喉には縄の痕が残されているが、その服と手は脂ぎった血潮でよごれていた。つまりあれは彼のものではない。誰かを殺したときについた血だ。


(殺したいはずがあるか。妻と娘を、愛していた。愛していたのだ。だが、あの歌を聴いていたら……殺さずには、いられなかった!)


「歌? 歌といったかしら」


 モリアがとっさに訊ねる。死者は悔しげに歯がみをした。


(あの女は魔女だ、そうに違いない! 青い血の一滴も通わぬ乞食娘の分際で陛下に取りいりよって。いつかは庶子ともども宮殿から追いだしてやろうとおもっていたが、まさかこのようなことになるとは。あぁ、悔しい……吾輩がさぞや邪魔だったのだろうな)


 じゆを吐きながら死者の姿はみる間に霞んで、消えた。からんと、なにかが落ちて廊下に転がる。シヤンがそれを無造作に拾いあげた。


ボタン、ですねぇ」


 乾いた血のさびがついた金釦だ。触れれば、ぼろぼろと錆が剝がれて落ちた。

 華やかなところほど、裏にはどろりとした陰謀が渦を巻いているものだ。ごうけんらんなこの宮殿のなかに果たして誰の陰謀がうごめいているのか。薔薇の花影にどれだけの骸が埋まっているのか──。

 遠くから弔鐘の音が聴こえてきた。

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