ヴェルサイユ宮殿の魔女は歌う AD1756‐1773 Paris(2)




 地上のあらゆる美しいものを一処に集めた場所──それがフランスの誇るヴェルサイユ宮殿だった。水なき地に泉を造りあげ、緑の芝を張り薔薇や季節の花々を幾百幾千と植え、フランスのそうそうたる画家を集めて礼拝堂の天井画や肖像画あるいは宗教画などを描かせては黄金の額物に飾り、遠くは東の島国の調度品まで揃えたこの宮殿は、さながら一千ヘクタールの宝石箱であった。ぜいを極め建造されたこのてんなる宮殿には王族のみならずフランス中の高位貴族が集められ、ブルボン朝の王政の中枢として機能している。宮殿の一角には豪華な歌劇場があり、民衆を招いて毎晩のように催しが開かれていた。巨費を投じた増築はなおも続いており、十数年前に建設されたトリアノン宮殿の植物園のなかにはさらに小トリアノンという離宮が新たに造られた。

 そんなきらびやかなヴェルサイユ宮殿の迎賓室であるほうじようの間にはいま、大陸の北東部からの賓客が訪れ、ばんさん会が催されていた。

 緑の壁と、値がつけられないほどに貴重な調度品にかこまれた長卓には豪勢な料理がならび、賓客である美しい娘──モリアと従者たるシヤンが席についていた。

 2003年のニューヨークから移動したふたりは十八世紀フランスに再訪していた。いつだったか、捜し物を求めて訪れたときは真冬だった。時は巡り、現在は1773年の夏だ。

 真向かいの席には彼女らを宮殿に招いたしようが席についていた。


「ほんとうにお変わりありませんのね」


 杯を傾けてから、妾妃が感嘆の息を洩らす。純金とエナメルで絵づけされた硝子の杯がからんと、微かに音を奏でた。


「あなたはずいぶんと変わられたのね、小さな歌姫……というのはいまとなっては失礼にあたるかしら、リュンヌ妾妃」


 妾妃は紅の乗った唇をもちあげ、恥じらうように笑った。


「そうですわね、あれから二十年ちかくも経ったのだもの」


 肌が白磁のようになるまでぬり重ねられたおしろいに派手やかな頰紅。唇の左横にはつけぼくろをひとつ。花々の刺繡が施された如何にも重そうなカヌレ織の宮廷服に身をつつみ、レースに覆われた指のすべてをサファイア、エメラルド、ルビーなどの輝石で飾りたてていた。髪には小麦粉をまぶして結いあげ、薔薇をこぼれんばかりに載せている。華美を通り越し、しやをつくしたよそおいだ。

 小雪の降りしきる晩、パリの裏路地で寒さに凍えながらも歌い続けていた、あのみすぼらしくも純朴な少女の面影は何処にもない。

 それもそのはずだ。彼女はいまや、フランスの妾妃なのだから。

 リュンヌ妾妃。宮殿で彼女のことを知らないものはいないだろう。王のこうしようであり、きさきが逝去された現在では宮殿で最も王のちようあいを享け裏の実権を握る女でもあった。

 たいするモリアは、十七年前となにひとつ変わってはいなかった。

 薔薇の綻んだような頰に十五歳の幼さを漂わせているところも、そうけいさを漂わせた静かなまなざしも、小さな歌姫に祝福を授けたあの晩とまったくおなじだ。


「アナタに祝福されてから、いろんなことがありましたのよ。あの後アタクシが歌っているとお客さまが集まるといってくださったおじさまがいらっしゃって、そのおじさまが経営なさっている町酒場の隅でなら歌っても構わないことになりましたの。しばらくして、十五歳の頃だったかしら。歌劇場の支配人に拾っていただいて。あろうことか、陛下の御耳にとまり、こうして公妾として宮殿に呼び寄せていただきましたの」


 リュンヌは誇らしげにつらつらと喋り続ける。だが声の端々から隠しきれないあせりが滲んでいた。なにかにきたてられるようにして彼女は言葉を連ねている。モリアは愛想よく相づちをかえしながら、時折瞳を細めては彼女のなかにある陰を見定めようとしていた。

 その隣ではシヤンが提供された料理をがつがつと貪り続けていた。籠につめこまれた何種類ものパンをつかんでは飲みこむようにたいらげ、鶏のまる焼きをナイフで切り崩しては頰張り、エスカルゴを殻ごとかみ砕いている。段々と銀食器をつかうのが面倒になってきたのか、シヤンはあろうことか腕を伸ばして魚のオイル煮を手づかみにしようとした。すかさずモリアが彼の靴を踏みつけ、制する。モリアはかなり体重を掛けていたが、シヤンは眉の端すら動かさず、えずといったように手をさげた。


「最低限の礼節はわきまえてちょうだい」

「はいはい、仰せのままに」


 おつくうそうにシヤンが再びに銀食器を取る。釘を刺されたからか、さきほどとは違って品のいい扱いかただ。やればできるくせにとモリアはため息をつきかけて堪えた。


「それにしても驚きましたわ。東欧から呼び寄せた異境の錬金術師がまさか、アナタだなんて。そんなふうにいつまでも変わらず、幼い娘の姿をなさっているのも錬金術……いいえ、違いますわね」


 リュンヌ妾妃は唇をつりあげ、不穏に笑んだ。


「──魔術のせるわざなのですわね?」


 モリアが警戒するように眉の端を跳ねあげる。


「よろしくてよ、隠さなくとも。恩人を異端審問になど掛けたり致しませんわ。アタクシに永遠の若さを授けてくれるのならば」


 裏をかえせば、彼女の要求に従わなければ教会に訴えるという脅迫だ。

 割れかけた硝子板に腰掛けているような緊張感がその場にはしる。


「なぜ、あなたは不老を望むのですか、リュンヌ妾妃」

「あら、好んで老いたいものなどいませんことよ。女ならばよけいに。不老というのは誰もが望むものではありませんこと?」


 モリアは肯定も否定もせずに沈黙する。リュンヌはその沈黙をどう受け取ったのか、にっこりと笑いかけてきた。


「勘違いなさらないでね。アタクシ、アナタには恩を感じておりますのよ。アナタの祝福がなければ、いまのアタクシはおりませんでしたもの」


 紅を施した唇も頰も、弦を張ったようにぴんともちあがっているのに、緑がかった瞳だけがごっぽりと落ちくぼんでいた。豪華に飾りたてた身のうちに彼女はなにかを隠している。濁った感情のおりがどろりと瞳の底に覗いた。


「不老の霊薬があると仰っておいででしたわね。いくらでもお渡しするわ、何ドゥニエでも。フランスの通貨がご不満でしたら、調度品や貴金属を差しあげてもいいわ。ですから、さあ、霊薬をここに」

「……宮殿に到着してから調薬するつもりでした。なにぶん、一度調合してしまうとちのしない薬ですので」


 とっさにモリアはうそをついた。


「そう、構いませんわよ。薬ができるまで、どうかゆっくりとご滞在なさって。せっかくだもの、ヴェルサイユ宮殿をこころゆくまでたんのうしてちょうだいね」


 リュンヌは悠然と腕を拡げてみせる。ヴェルサイユ宮殿がすべて、彼女の所有物であるような振る舞いだ。モリアの黄金の瞳がきゅうと細められた。互いをけんせいしあうかのような鋭い睨みあいのあいま、無神経に間延びした声があがる。


「っと、腹が減りましたねえ。ぜんぶ喰っちまったんですけど、こんなの腹のたしにもなりませんよ」


 銀食器をおき、シヤンが不満を隠しもせずに食卓にひじをついた。

 溢れんばかりに載せられていた料理が全部なくなっている。鶏はもちろん、なかば飾り物のように置かれていた豚のまる焼きも骨だけ綺麗に残され、食べつくされていた。富の誇示のために食べきれないほどの料理が用意してあったのだが、やすやすと完食されてしまい、リュンヌが厚化粧に罅が入りそうなほど頰をひきつらせる。


「も、もっと、お料理を運ばせましょうか」

「あるならあるだけ喰いますけど」

「そろそろやめておきなさい、シヤン。どうせ満たされないのでしょう?」


 モリアに制され、彼はかたちのいい眉宇を歪めながらいった。


「ええ、こんなものではね」


 ちょうどその時に扉がノックされ、侍女が申し訳なさげに頭をさげてから入室してきた。リュンヌは「大切なお客さまが訪ねてきておられると伝えておいたでしょう」と𠮟責する。侍女は身を縮ませ、謝りながらもちらりと廊下のほうをみて続けた。


「リュンヌさまに貢ぎ物をもってきた貴族が列をなしておられて……わたくしがお預かりするとご説明したのですが、どうしても直々にお渡ししたいと」

「あらそう……それならしかたがありませんわねえ」


 眉を垂らしレース製の扇でくちもとを隠して、困り果てている態をよそおいながらも満更でもないのが透けていた。王のちようを享ける妾妃に取り入りたいとおもねる貴族たちを、てのひらで転がす快感にたんできしている女の顔だ。


「受け取って差しあげますわ」


 腐りかけた薔薇の如き唇をめくれあがらせ、リュンヌは傲慢に言い放った。


「ちょっといそがしくなってしまったので、ごめん遊ばせ。ささ、アナタ、こちらのおふたりを客室にお通しして。アタクシの大切なお客さまに失礼のないように」


 かしこまりましたと侍女は背筋を伸ばし洋服のえりもとを整えてから、モリアに辞儀をした。

「ご案内致します。どうぞ、こちらに」

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