ヴェルサイユ宮殿の魔女は歌う AD1756‐1773 Paris(1)
うす昏い町角に細かな雪がけぶるように降りしきっていた。
あたりには
華やかな大通りとはまた違った、花の都の裏側だ。
1756年、パリ。史実に残る最大にして最後の宗教戦争とされる三十年戦争が終結を迎えてからヨーロッパ大陸には
戦に
凍える雪の降り続くうらぶれた町酒場の軒さきで、うす汚れた少女が歌っていた。
まだ十歳に満たない子どもだ。小さな身体からありったけの声を張りあげて歌い続けるさまに、通りがかった人々が思わず振りかえる。
破れかけた
少女は食べ物を欲するでも施しを望むでもなく、ただ「聴いて」と願って、白い息を歌声にかえる。酔漢に睨みつけられても物おじせず、いっそ誇らかに歌い続けた。少女の歌声は膨らみのある
声が一段と澄みわたった──その時だ。
「邪魔だよ、どっかにいきな!」
酒場の扉が乱暴に開かれ、
「けち! 歌うくらい、べつにいいじゃないのさ!」
少女はべえと舌をだして、箒で殴られないうちに退散した。暫くは底の剝がれかけた靴を鳴らしながら気強く文句をならべていた少女だが、他に歌えるあてがないのか、寒さに震えて肩を落とす。雪の降りかかる小さな背に、ふわりと声を掛けるものがいた。
「素晴らしい歌声だったわ。最後まで聴けなかったのが残念だけれど」
少女が
青い喪服を纏った美しい娘がたたずんでいた。樹氷のような髪に金の瞳──モリアだ。モリアはフリルの飾りがついた傘を少女に差しかけ、柔らかく微笑みかけた。
「ふうん、俺にはそこいらの鳥みたいにしか聞こえませんでしたけれどね」
毒づく従者の靴を踏んづけてから、モリアは少女の側で膝を折って目線をあわせる。
「小さな歌姫さん。あなたはなぜ、歌うのかしら。こんな時代よ。ましてや冬。いつ飢えて命を落としてもおかしくはないわ。明晩には雪に埋もれて凍えているかもしれず、はやり病に
そんなにも幸せそうにあなたは歌えるの──と。
少女は
「だから、アタシは歌うんだよ」
少女の瞳には強い輝きがあった。
「ねずみだらけの軒下で寒さをしのいで縮まってても、誰も助けてくれないって哀れっぽく泣き続けてても、死ぬときは死んじゃうんだ。だったらアタシは歌いたい。いま、歌いたいんだよ」
明日には路地の裏で息絶えていたとしても、いまこのときは、確かにこうして生きているのだから。
「そう、だからあなたは、歌うのね」
故に彼女の歌はあれほどまでによどみなく、響きわたるのだ。
「あなたの歌はかならず、たくさんの人に称賛されるようになるわ」
それは細やかな、言葉だけの祝福だった。約束も証明もない、白詰草の冠を贈るような。それでも少女は
「っと、馬車ですよ、姫様」
乗客のいない
「ねえ、また
少女の言葉にモリアは一度だけ振りかえり、黙って最後に笑いかけた。
モリアは永遠の旅人だ。再びおなじ時代のおなじ場所に訪れることはめったにない。仮に再訪したとしても巡りあえるとはかぎらない。約束は、しないほうがいい。
サン・マルタン門まで、とモリアが指定し馭者が馬に
馬車が動きだす。路地の隅には新聞紙を巻きつけた負傷兵たちが壁に身を寄せ、震えていた。物珍しい乗客に興味をもってか、馭者が喋りかけてきた。
「何処のお貴族さんかは知らんが、このあたりは宿も職もない輩がわらわら集まってやがるから、近寄らんほうがいい。さきの戦争がひどくてな」
「そう、いつの時代も戦争は絶えないものね。悲しいけれど」
モリアは素通しの窓に視線を流しながら重いため息をついた。百年経とうと千年遡ろうと、敵を換え武器を替えながら戦争は終わらない。歴史は勝者が創るもので、なればこそ敗者もまたそこにはかならずいる。そうしてそれは、踏み割られた骨の
「
モリアは悲しい経験を想いだしたように睫毛をふせた。頰に細かな紋様じみた影が落ちる。
「戦地には遺していく家族のことを想いながら逝く人がたくさんいたわ。わたしにはなぐさめの言葉もなかったけれど」
「戦地? あんたみたいなお嬢様が戦地だなんて」
笑いとばそうとした馭者が頰をひきつらせ、言葉の端を濁らせる。振りかえらずとも背にうすら寒いものを感じたのだろう。
「……冗談だろう?」
そうであってくれといわんばかりだった。
モリアはなにもいわずに唇を綻ばせて細い呼吸をひとつ、しらじらと宵闇に漂わせた。たかが十五歳の陰りではなかった。その隣では従者が暇をもてあます猫のように欠伸をしている。踏みこまないほうがいいらしいと直感した馭者は咳ばらいをして、場を取りなすようにいった。
「どっちにしろ、王様がなんとかしてくれんとああいうのが増えるばかりだな。だが王様は戦争と宮殿造りに傾倒してらっしゃるからな」
「ヴェルサイユ宮殿ですか」
「ああ、今度はトリアノン宮殿の植物園だと。王様が都で政を執っていないだけでも異例だってのに、都に寄りつきもしないからますます貧富の差が激しくなって、一部の民が飢えに喘いでるのにも気がつかねえのさ」
諦めたようにいい捨て、それきり馭者は黙った。
沈黙する花の都に凍てつく雪が降りかかる。
なにもかもを等しく白で覆うように。
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