ヴェルサイユ宮殿の魔女は歌う AD1756‐1773 Paris(1)



 うす昏い町角に細かな雪がけぶるように降りしきっていた。

 ささめゆきまばらな街路灯を映して瞬きながら、ひび割れた路上に落ちる。けがれのない真白の雪はたちまち革靴や馬のひづめに踏まれてよごれていった。

 あたりにはしようかんともいえないような売春宿や町酒場が軒を列ねており、時折酔っぱらいの喧嘩ともしようきようせいともつかない騒音がどっと湧きあがる。暖炉の燈された窓は結露に覆われ、なかの様子はうかがえない。

 華やかな大通りとはまた違った、花の都の裏側だ。

 1756年、パリ。史実に残る最大にして最後の宗教戦争とされる三十年戦争が終結を迎えてからヨーロッパ大陸にはけいもう思想が拡がった。そのなかでもパリは科学や哲学などの都として興隆し威信を誇っていた。華やかな都の拡大の一方で、王政のもとに侵略戦争が続き、民衆の貧富の差は拡がるばかりであった。戦で勝利を収めたばかりのパリの都は表通りこそ凱旋で浮かれているものの、路地をひとつまがれば風景そのものから疲れが滲んでいる。新たな戦火がすでに国境ちかくで燃えはじめていることを誰もが予期していた。

 戦にこんぱいするパリの都にも冬が訪れていた。いつにも増して寒々しい厳冬だ。

 凍える雪の降り続くうらぶれた町酒場の軒さきで、うす汚れた少女が歌っていた。

 まだ十歳に満たない子どもだ。小さな身体からありったけの声を張りあげて歌い続けるさまに、通りがかった人々が思わず振りかえる。

 破れかけたの服と絡まってだまになった赤毛。みすぼらしい風体からして孤児だろう。戦争、飢餓や貧困、犯罪などによって親をうしなう子どもが年々増え続けている。子どもだからといって庇護されるということはない。子どもは愛され、おとなに庇護されるべきものであるという概念はこの時代にはなかった。だから彼女を憐れむものはいても、助けようとするものはいない。

 少女は食べ物を欲するでも施しを望むでもなく、ただ「聴いて」と願って、白い息を歌声にかえる。酔漢に睨みつけられても物おじせず、いっそ誇らかに歌い続けた。少女の歌声は膨らみのあるここい反響をともなって、拡がる。その力強く純真な歌声に惹きつけられて、ひとり、またひとりと観客が集まりだした。日雇いの労働者もいれば、腕や片脚をなくした負傷兵もいた。寒い冬の晩に暖かなともしびを求めるように彼らは名も無き少女の歌に誘われる。

 声が一段と澄みわたった──その時だ。

「邪魔だよ、どっかにいきな!」

 酒場の扉が乱暴に開かれ、ふとった女主人がほうきを振りあげて、野犬でも蹴散らすように少女を追い払った。

「けち! 歌うくらい、べつにいいじゃないのさ!」

 少女はべえと舌をだして、箒で殴られないうちに退散した。暫くは底の剝がれかけた靴を鳴らしながら気強く文句をならべていた少女だが、他に歌えるあてがないのか、寒さに震えて肩を落とす。雪の降りかかる小さな背に、ふわりと声を掛けるものがいた。


「素晴らしい歌声だったわ。最後まで聴けなかったのが残念だけれど」


 少女がびつくりして振りかえる。

 青い喪服を纏った美しい娘がたたずんでいた。樹氷のような髪に金の瞳──モリアだ。モリアはフリルの飾りがついた傘を少女に差しかけ、柔らかく微笑みかけた。


「ふうん、俺にはそこいらの鳥みたいにしか聞こえませんでしたけれどね」


 毒づく従者の靴を踏んづけてから、モリアは少女の側で膝を折って目線をあわせる。


「小さな歌姫さん。あなたはなぜ、歌うのかしら。こんな時代よ。ましてや冬。いつ飢えて命を落としてもおかしくはないわ。明晩には雪に埋もれて凍えているかもしれず、はやり病にかかることもある──それなのに、なぜ」


 そんなにも幸せそうにあなたは歌えるの──と。

 少女はそうめいだった。敢えて言葉にはしなかったモリアの意を的確にんで瞳を見据えながらこたえる。


「だから、アタシは歌うんだよ」


 少女の瞳には強い輝きがあった。


「ねずみだらけの軒下で寒さをしのいで縮まってても、誰も助けてくれないって哀れっぽく泣き続けてても、死ぬときは死んじゃうんだ。だったらアタシは歌いたい。いま、歌いたいんだよ」


 明日には路地の裏で息絶えていたとしても、いまこのときは、確かにこうして生きているのだから。


「そう、だからあなたは、歌うのね」


 故に彼女の歌はあれほどまでによどみなく、響きわたるのだ。


「あなたの歌はかならず、たくさんの人に称賛されるようになるわ」


 それは細やかな、言葉だけの祝福だった。約束も証明もない、白詰草の冠を贈るような。それでも少女はあかだらけの頰をもちあげ、天使様から宝物をもらったみたいにきらきらとした瞳で、まっすぐにモリアを振り仰いできた。


「っと、馬車ですよ、姫様」


 乗客のいないつじ馬車が路地を通りがかった。指定の場所に客を乗せていき、駅前に戻るところだろう。モリアはぎよしやに手を振って馬をめさせ、従者であるシヤンと連れだって馬車へと乗りこむ。


「ねえ、またえるかな」


 少女の言葉にモリアは一度だけ振りかえり、黙って最後に笑いかけた。

 モリアは永遠の旅人だ。再びおなじ時代のおなじ場所に訪れることはめったにない。仮に再訪したとしても巡りあえるとはかぎらない。約束は、しないほうがいい。

 サン・マルタン門まで、とモリアが指定し馭者が馬にむちをいれる。

 馬車が動きだす。路地の隅には新聞紙を巻きつけた負傷兵たちが壁に身を寄せ、震えていた。物珍しい乗客に興味をもってか、馭者が喋りかけてきた。


「何処のお貴族さんかは知らんが、このあたりは宿も職もない輩がわらわら集まってやがるから、近寄らんほうがいい。さきの戦争がひどくてな」

「そう、いつの時代も戦争は絶えないものね。悲しいけれど」


 モリアは素通しの窓に視線を流しながら重いため息をついた。百年経とうと千年遡ろうと、敵を換え武器を替えながら戦争は終わらない。歴史は勝者が創るもので、なればこそ敗者もまたそこにはかならずいる。そうしてそれは、踏み割られた骨のさきを、血潮の雫に浸してつづられるものだ。


びんだが、さっきの娘みたいなのに施しをやってもきりがないからなあ」


 モリアは悲しい経験を想いだしたように睫毛をふせた。頰に細かな紋様じみた影が落ちる。


「戦地には遺していく家族のことを想いながら逝く人がたくさんいたわ。わたしにはなぐさめの言葉もなかったけれど」

「戦地? あんたみたいなお嬢様が戦地だなんて」


 笑いとばそうとした馭者が頰をひきつらせ、言葉の端を濁らせる。振りかえらずとも背にうすら寒いものを感じたのだろう。


「……冗談だろう?」


 そうであってくれといわんばかりだった。

 モリアはなにもいわずに唇を綻ばせて細い呼吸をひとつ、しらじらと宵闇に漂わせた。たかが十五歳の陰りではなかった。その隣では従者が暇をもてあます猫のように欠伸をしている。踏みこまないほうがいいらしいと直感した馭者は咳ばらいをして、場を取りなすようにいった。


「どっちにしろ、王様がなんとかしてくれんとああいうのが増えるばかりだな。だが王様は戦争と宮殿造りに傾倒してらっしゃるからな」

「ヴェルサイユ宮殿ですか」

「ああ、今度はトリアノン宮殿の植物園だと。王様が都で政を執っていないだけでも異例だってのに、都に寄りつきもしないからますます貧富の差が激しくなって、一部の民が飢えに喘いでるのにも気がつかねえのさ」


 諦めたようにいい捨て、それきり馭者は黙った。

 沈黙する花の都に凍てつく雪が降りかかる。

 なにもかもを等しく白で覆うように。


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