二十一世紀の人狼は眠らない AD2003 New York(8)




 自由の女神像。リバティ島に建てられた百十一フィートを超える女神像である。

 女神の頭上には人の影があった。女神の冠のなかは展望台になっているのだが、ふたりがいるのはその外側に掲げられたきよの上である。アイアンの飾り柵のような炬火の縁にもたれて、モリアは朝なぎの海を眺めていた。

 その側にはかんおけが横たえられている。

 青い棺桶だ。蓋には十字架ではなく、十二ぼうせいの紋章が刻まれている。


「それにしてもまたはずれでしたね」


 柵に腰掛けたシヤンは時計を取りだし、針の動き続ける文字盤に視線を落とす。


「しかたのないことだわ。時空を渡るにはかなりの嵐を起こすことになるもの。観測誤差は蝶のはばたききほどの振動でも起こりうるものよ」


 テンプス・フギトの時計。モリアの移動手段にして、時空を移動するちからを宿す時計だ。彼女の捜し物があらわれる時と場所を示してくれる羅針盤でもあるのだが、刻を渡る際の僅かな振動で時間線がずれれば、捜し物にはたどりつけない。


「けれど今度の転移にかぎっては、さほどの誤差はなかったみたいだわ」

「というと、このあたりにまちがいなく、あんたの捜し物があったということですか」

「憶測にすぎないけれど。ウィリアムは指環を手にいれて、それを妻であるアナスタシアに贈るために家路を急いでいたところを車にはねられたといっていたわよね」

「ああ、そんなこといってましたね。不運というか、なんというか」

「それが偶然でなかったとしたら?」


 勘のいいシヤンはすぐになるほどと頷いた。


「偶然の事故ではなく、何者かに故意にころされたということですね。あのにんげんを殺したものはその後、指環を奪って、逃げた。そこまでして奪い取りたいもの、その指環はまちがいなく──」


 頷いてから、モリアは思いなやむように視線を動かして、つぶやいた。


「あれを手にいれようとしているものが、二十一世紀にもまだ、いるのね」


 ぎゅっと唇をかみ締め、モリアはひざまずいて横たえられた棺に触れる。

 棺とは死の象徴だ。この青い棺のなかには果たして、誰が眠っているのか。あるいはこれから、真新しい死を収めるのか。


「誰の手に渡っていても、どんなかたちになっていても、かならず捜しだすわ。どれだけの時間を踏み越えても」


 黄金の瞳に強い意志がみなぎる。ほの昏いほどの決意だった。

 彼女がしていることは砂漠からひとつぶの真珠を捜すようなものだ。けれども彼女は諦めない。そのために彼女はすべてを捧げたのだから。

 棺の蓋にモリアは頰を寄せる。すでにあの強いまなざしではなく、癒えようのない疲れを滲ませ、微かなけんたいを漂わせていた。


「眠れないというのはつらいものなんですね。俺からすれば睡眠なんか、ただでさえ短い寿命をむだに浪費しているふうにしか見えませんけど」


 シヤンがモリアの銀糸の髪をひと筋すくいあげ、指に絡めてもてあそぶ。


「眠らずに迎えた朝はまぶしすぎるのよ。けれど眠るのは生者の特権だわ。いまのわたしは……死者でも生者でもないから」


 娘はどちらにも傾かず、その境界を踏むものだ。

 微睡まどろむように目蓋を塞いで、モリアが細いため息を落とす。


「ねえ、手を繫いでいてちょうだい」


 ばかにするように青い眸が細められた。


「遠い距離まで移動するときはなんだか、胸がざわざわとするのよ。魂を引き延ばされるみたいに。だからお願い、繫いでいて」


 意地を張らずにモリアは手を差しだして待ち続ける。その様子をみて、シヤンは降参するように嘲笑をやめた。望みどおりに手を繫がれ、モリアは緊張を解いた。

 逆光のなかで従者の眸だけが青く、光を帯びている。

 死の青だ。不穏なものだと理解してはいた。されど彼女はあの青い眸を好む。死だけが、彼女のよすがだ。

 やがて時計から鐘のような重い響きが溢れだし、光の渦がふたりを取りまいた。それは琥珀の蝶の群が乱舞する様にも見える。娘は美しい骸のように身動きひとつせず、眠りのまねごとを続けた。シヤンもまた怠そうに頰づえをつきながらも彼女の手を放さなかった。

 ふたりの姿はきんぱくが剝がれるようにさらさらと細かく砕け、ニューヨークの空に噴きあがって、消える。

 後にはただ、物言わぬ女神像だけが残された。


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